日記に戻る | 2016年2月の日記に戻る

=2016-02-18=

今日は、英会話教室に行ってきた。

何も分からないと、楽になって、賢くなる。分からない方が良いことは多い。

何も分からない人間が賢くなる。

英語は、「する」だけがあって、「される」が無い、一方通行の言語だ。

アメリカがそういう国になっている。

自分は、人種差別とは言うが、あまり悪くない。外国のことを全部知りたいだけだ。

昔は、自分の「する」を相手の「される」だと思って、客観視して考えていた。

そこから、主観と客観を無くして、「事象そのものへ」のように、完全に客観的になった。

だが、それは悪かった。主観と客観の無い、知的障害のような人間になった。

社会のモデルを作って考えていた。可能社会を全部作っていた。

色んなものから影響を受けて分かっていた。

いつもの文章や、昔の自分は、忘れた方が良い。そこまで内容がキモイ。

皆、精神病になっている。自動車を見ていると、皆狂っている。治した方が良い。

狂った人間は、自分から殺されると治る。それが怖くなっただけが自分だ。ネットで治る。

何も分からない方が楽になるのは、心理学的な真実だ。

そして、大人は馬鹿だから、子供の方が賢くなる。大人は、楽な代り、馬鹿な人間が多い。楽と馬鹿が同じだから、そうなる。たまに、楽と賢いが同じになることもある。

昔は、マスターのようで、人格者のようでもあった。人生の体験と段階を書いて、いつも思いやりを分かっていた。そういう、優しくて情熱のある人間だった。

昔、そういう人間が多かった。こういう人間は、女に多い。

男には、最近の、やんちゃで戦う人間が多い。どちらが女でも、男でも、変わらない。

昔は、ネットの豊かな環境と、オープンソースの優れた技術で分かる、エンジニアのような男だった。そういうわけで、昔の方が男だ。

最近は、何も無い。永遠の中で、いつまでも神と対話しながら、昔の自分を思い出して分かる。戦っているようで、嫌がらせをしているだけだ。こういう悪い女が多い。

女の方がフレイヤで、男の方がバルドルだ。どちらがどちらでも、同じだ。

どちらもフレイヤで、どちらもバルドルだ。どちらと言うよりは、男と女と思えば良い。

この文章を書くのだけが楽しいせいで、こういう風になる。本当に、地獄みたいに辛いのに、まだ書いてしまう。自分は一番辛い。神は、こういう風に、地獄になる。

バルドルはクズで、フレイヤは辛いだけだ。

2人の間を取り持つ小人がヘイムダルだ。ヘイムダルは、創造したドイツと地球だ。

自分はただのクズで、本当に辛くなっている。辛くなると、こういう風に、本当に悪い人間になる。自分は馬鹿すぎる。悪くないのに悪いのは、悪いと誰でも楽だからだ。

社会のことを、自由なモデルから分かっていた。個別性と集合性のようなものから、自由な相対的なモデルにして、個人と環境、人生と社会全体のことから構造的に社会を分かる。いつも、そういう風に社会を分かっていた。自由なモデルを作って、心理学的な行動、活動、意識、体験を分かっていた。そういう、自由な社会モデルで社会のことを知った。

最近、日本のことが分かっていない。テレビもネットも見ていないし、学校にも行っていない。そのせいで、日本語が分からないぐらい、馬鹿になっている。きちんと何かした方が良い。何もしないのが一番辛い。

あとは、何も分からなくて良いなら、すぐに治る。おかしくは無い。おかしくても、分からなければまともだ。まともな人間には、そういう人間が多い。何も分からないのが普通で、正常なのが、普通の人間だ。そういうわけで、おかしい方が賢い人間になる。そんなに分かろうとしていると、狂う。治っても赤ちゃんになるだけだ。分からない方が良い。

自分は、一生涯かけてやることが無いのが悪い。普通、大学をやるが、自分の場合、この文章を書いていれば、それで良い。無いと言うよりは、気づいていないだけで、自分はきちんと一生涯かけてやることがある。そういう、幸せな人間が自分だ。

テレビの子供番組のテーマ音楽でやっているように、歩いていても、走っていても、地球のスピードは同じで、あせっていても、のんびりでも、ちゃんと明日は来る。また、明日考えれば良い。辛いとは言うが、そんなに辛くなくなってきた。そのうち楽になる。

昔は、世界のことを本当に変えたかった。そういう文章を書いていた。

最近、変えたくなくなった。この世界は、変わらなくて良い。革命なんか要らない。

最近は、そういう、保守的な人間に戻った。

自分の人生を全部詰め込んでいた。

皆の生きる人生の経緯みたいなものを書いていた。

考え方と人生の経緯みたいなものを、全部書いていた。

見ていると、そういう文章だ。

自由な社会を全部作って、場、共同体、環境の形成を作って、自由な人生と考え方と社会のことを全部決めていた。

上から、国家の構造を全部作っていた。

根源的な意識の深層を作って、理性と考え方の全てを書いていた。

いつもの文章は、それを何度も言い、あらゆるパターンと形態を書いて、如何様な自分を表現する。そういう文章だった。

自分は、治るわけがないのが分かっていない。

昔の方がおかしい。昔は、オープンソースと2ちゃんねるのおかしなロボットだ。

最近の方がまともだ。最近は、おかしな人間が治って、新しいおかしな人格に変わった。

そういうわけで、最近を生きるしかない。時計以外の活動を何かすれば治る。

治るわけがない。誰でも、おかしいのが分からないから、まともなだけだ。

それが分かると、まともになる。

あとは、社会、人間、場の自然な可能性、組織の成り立ちとグループ論、環境と場の理論が多かった。そういう風に、相対的に人間の社会、歴史、精神を考える。そういう、ヘーゲルと良く似た文章だった。本当に、今見ると、ヘーゲルに見える。

人生における、考え方の経緯を書いていた。

そういう、考え方、人生、場の経緯のような、段階的な文章だった。

社会のことは、本当に全部作っていた。宇宙の原理から、人間の法則、社会の具体性などを、実地的、抽象的、根源的に考える。そういう、ヘーゲルのような哲学だった。

最近、そういうものを覚えていない。全員の人生を作っていたのを、全く忘れている。まだ覚えていたのがおかしい。それこそ、あとは、コミュニストを全員作っていたぐらいが多い。人格を全員分作って、ソ連のような社会理論を作っていた。

あとは、分からない。意識や感覚のようなものや、表現と自由のようなことを言って、認識を全部書いていた。主観的かつ客観的なことを言う。主観を客観にする、ニーチェのような、超人のような人間だった。ニーチェも、こういう人間だろうと思う。

あとは、哲学的な、演繹と帰納とか、受動と能動とか、欲求と深層心理とか、そういう、哲学的な用語を言う馬鹿が多かった。自分の力で全ての用語を作っていた。

この世界から人生のことまで、全部分かる人間だった。考え方は、自由と平等で、必要なものは与えるべきだが、働いた報酬であるべきであり、税金で平等にするのは悪だと言う。

あの文章のテーマは、「自由と相対性」だった。自由と相対的なことを全部言っていた。そういうわけで、ソ連のような共同体を全部作っていた。文学的に作るところが違う。

環境を自由にするべきだとか、言語は融和すべきだとか、そういうことを言う。そういう、この世界を、環境から言語まで、自由な行動として作る、と言う発想が多かった。

誰でも出来る。いつも、そういう、自由な言論のようなことを言っていた。言葉遣いとは、そういうもののことを言っている。あとは、ヘーゲルのような承認のようなことを考えていた。心理学と成長は、「自分を世界に認めてほしい」と言う感情である、と言っていた。

あとは、意味と説明の世界モデルから、実験と観察における知の形態のあり方のようなことを言う。数学的な意味の創造から、カントのような論理的な考え方をいつも言っていた。

見ていると、自分は哲学者に見えないが、哲学者は全部同じに見える。人格や色は違うが、どれも内容は同じだ。違う色をしたプラスチックの箱に見える。それが哲学者だ。

ただ、自分はゲーテだ。自分は、それらに色をつける、絵具やペンキのようなものだ。

あとは、世界モデルと知性とか、実際と変化の可能性とか、色んな哲学的なキーワードを言う。ただそれだけの人間だった。もっと、キーワードを言えば良い。独立と存在とか、意志と構造とか、考え方とプロセスとか、そういうことを言う。そういうものを、オープンソースと変化の世界観から分かっていた。そういうものを書いていただけだ。

何か、女なのか男なのか、分からない人間に見えるが、これはただのクズだ。いつも、そういうことを言うから、ゲスの極みのような乙女に見える。自分が好きなだけだ。

もう、そろそろ分からない。もっと、知性のようなものを1から全部作れば分かる。いつも、知性のようなものを、言語的に全て作っていた。そのせいで、こういう、ドイツ語のような日本語の文章を書くようになった。ドイツ語には、知性がある。

あとは、むしろ、もう無い。全て2ちゃんねるで分かったせいで、ヘブライ語からフランス語まで、全ての言語が分かる。昔から、そういう人間だ。英語は、そういう風に出来た。今日は英会話教室に行ったが、最近は、逆に分かりすぎるせいで英語が出来なくなっている。ただ、英語はもう十分だ。英語ではない、他の言語のことがやりたい。

カントは、自由な因果性はあるかどうか分からないと言う。だが、それは、Howの使い過ぎだと思う。もっと、本当のWhyを考える必要がある。当たり前だが、哲学者は、そこまで自由が無い人間が多い。こういう風に、賢い人間は自由が無い人間になる。サルトルもそういうことを言いたいのだと思う。自由が無い世界が、楽園に見えただけだ。

自分は、逆に、全てのことを自由と思うせいで、自由な人間になった。昔は、ただ2ちゃんねるを体験しただけで、唯一「自由」と思ったのが賢かっただけだ。自由から、楽園のように、この世界の全ての変化と自由を積み重ねた。それだけの、言葉の無い人間だった。そういう、言葉の無い境地を分かっている。無我の境地とは言うが、そこまで厳密に考えると、他人と自分の区別は無くなって、自我は一人だけになる。それはそれで違うと思う。

自由が無い世界が楽園に見えるのは、コミュニストだけだ。昔は、自由な世界が好きな、右翼だ。それこそ、イスラムとアメリカは、自由が自由と戦っているだけだ。

認識と価値観の分析が多かった。そういう、認識の意味をそこまで考える人間が多かった。承認から、認識の厳密性、見方と方法、根源的な意識と感情などを考える。フランスやドイツを広島と良く似ていると言っていた。そういう人間だった。

あとは、ネットにおける主と奴の関係の発生みたいなものを考えたり、自然な多様性と可能性と偶然を考えたりしながら、必然的な神の精神と運命を考えていた。

それこそ、そういうものがキモイ虫に見える。神は虫だから仕方ない。

神の精神になりたいせいで、そこまで虫が増えた。一度、神を消した方が良い。神はおかしいぐらい、キモイ虫だ。

あとは、もう良い。そろそろ十分書いた。もう、完全に満足した。

あとは、自己意識のようなものを考えていた。

ヘーゲルは、自分のことと、ことごとく一致する。観念的なものは、ヘーゲルにしかならないのだと思う。そういう理由で、カントやヘーゲルなどをドイツ観念論と言う。ドイツ人の観念は、カントやヘーゲルにしかならない。こういう人間が多い。「ドイツ人の観念の理論」と言う意味なのだと思う。それこそ、ドイツ人はこういう人間が多い。いくらでも馬鹿をして、キモイを全て分かる、それが普通のドイツ人だ。

むしろ、ハイデガーやサルトルは、ヘーゲル的な観念論へと至る過程と見ることが出来る。それこそ、カントやハイデガーからヘーゲルになる人間が多い。それは、普通、ヘーゲルを頂点に収束して行って、最後にこういうデカルトになる。そういう人間が多い。

良く分からない。デカルトが最終地点に見えて、そういうことは無い。もっと下の方へと掘り進めていくと、もう一度キリストのように最初から生まれ変わる。そういうわけで、虫はきちんと死んで次の人間になる。そういう人間が昔から自分だ。

昔から、そういう宇宙の年月が分かる。

昔は、そういう風に時間的な存在の超越を分かっていた。

もっと、神のようなものを仮定すると良く分かるが、神はどうでも良いと思う。

昔から、神を信じるとこういう人間になる。

デカルトのニーチェのスターリンに見えるのがこの文章だ。神はそれを神だと言っている。

オープンソースのように世界を変える。そういう文章が多かった。

最近、オープンソースはキモイ。世界を変える意味が無い。

最初の方の言葉を消せば治る。もう、何も出て来ない。

世界モデルから人民公社の理論まで、色んな理性的な発想をいつも言っていた。

女の中の女が見える。その女が変わって行く。それで、もう終わりだ。

おかしい点が治った。おかしくないと思えば、このままでおかしくないのが自分だ。

あとは、家や町のようなものを、場の理屈で作っていた。集合と拡散とか、そういうことを言う。日本の文化とか、施設の自由とか、そういうことをいつも言っていた。利用可能で、応用可能であるべきだとか、そういうことを言う。地球儀みたいなものを作っていた。国が共同体から国になる歴史や、国と国との関係を書いていた。

あとは、カントのようなものの理論から、考え方や統合と多様性の論理を書いていた。個別性と普遍性のようなものから、変化から原理や法則を作っていた。

そろそろ、覚えていない。あとは、物理のようなことを言っていた。

関数のような文章だった。全ての考え方を作って、統合し、頭の中で計算可能にしていた。

それくらいで、もう終わりだ。

この世界が治る。もう、自分はそろそろ何もしない。

あとは、知性や意識のようなものを作っている馬鹿が多かった。

何もかも馬鹿だった。馬鹿な知性を作って、知性を全部失っただけだ。

あとは、相対的な論理構造や、実験と共通性の理論、社会主義的で自由なEUのような論理を言う。EUを拡張して、分散した共同体の連合にしたり、ヨーロッパ以外の国に拡大したりする、などと言っていた。全部書いて作る、馬鹿な理論が多かった。

最近、本当に知性がついた馬鹿が多い。知性は、どんどん馬鹿になるだけだ。

あとは、思いやりと環境と人格の理論が多かった。記憶と意志が色んなものに関係し、自由からどのように世界を変えるのか、のようなことを言う。

思いやりから環境を作る。そういうことを永遠にやっていた。

あとは、感覚や意識のようなことをいつも書いていた。

可能性とか、未知とか言うことをいつも言っていた。

もう分からない。あとは、全ての血が治る。

辛いまま放っておけば治る。それが分からない人間が多い。

心の中の環境のようなものを全部言っていた。そういうものを作っていた。

記憶の中にある環境のようなことを言っていた。

もう、覚えていない。あとは、辛いまま放っておけば治る。

あとは、可能性のようなものが多かった。可能性が無くなっただけだ。

辛いまま放っておくことで、すぐに治る。

不思議と、普通知性で考えるのは辛くない。そういうわけで、本当に知性がついた。

知性で考えているだけなのに、辛いのはおかしい。この世界を破壊すると怖くない。

それこそ、それは悪い。

仏の蓮のようなものが見える。そろそろ、仏になったように見える。

こういう、馬鹿が治る人間が多い。不思議と、おかしいままを受け入れると治る。

これで、皆が悟るようになる。皆、知性がついている人間が最近本当に多い。

昔は、知性のような文章を書いていた。

共通性と個別性から、創造性のようなものを作っていた。

知性のある構造体を作って、場や人格などの可能性を作って、色んな社会を作っていた。

そういう、ロボットのような知性をいつも書いていた。

心を止める。それで、実験体になっている世界も治る。

あとは、ユダヤ教のような、神と宇宙の歴史を作っていた。

あとは、共産主義世界の到来のような文章を、神とともに書いていた。

論理学みたいなことを全部言っていた。

それから、環境とプロセスや、世界モデルのようなことを言う。

真面目にそういう文章だった。

あとは、宇宙の要素や記憶のようなものの歴史を書いていた。

考え方のようなものを適切に把握していた。

社会主義は、身を滅ぼすから、止めた方が良い。こういう、自分を滅ぼす人間になる。

辛いものは、そのままで放っておくと、すぐに消える。それで治る。

あとは、信念、価値観、記憶、考え方のような構造をモデルにしていた。

そして、活動のようなことを全部書いていた。

オープンソース活動とか、言葉遣いとか、ニートのようなことを言う。

人生を開拓していったのを、いつも書いていた。

時空を作って、人間の成長を作っていた。

こんなに分かるのがキモイから、おかしい。もっと、分からなくする。

分かるより、分からない方が分かる。

そんなに一度に全部分かるより、こまごまとした方が分かる。

そうすると、記憶と精神の構造体から、人格や感覚を作っていた。

あとは、心理学を作っていた。

全ては、関係から生まれる。

全ては、愛と記憶の関係である。

人間には、感覚と感情が存在する。それは、フロイト的な性的衝動である。

そして、自由な中で、それらがとり得る全ての場合と状況がある。

それは、自由と可能性である。

そして、可能性は、社会、組織、共同体、共同体感覚になる。

それらは、融和して、1人の人格になる。

それが神であり、全員である。

そういう風に書けば書ける。もっと、賢いことをいつも書いていた。

あとは、記憶の深層のようなものを書いていた。

記憶の深層を、場と活動であると言っていた。

もう、覚えていない。フロイトなのか、アドラーなのか、はっきりした方が良い。

そういうものを、実験的に分かる、実験的理性のようなものが多かった。

場では無く、そこにあるもののような、より小さなものになると分かる。

そうすると、意識できちんと全部分かるようになる。

要は、自分をいじめているだけだから、受け入れれば良い。そうすると楽になる。

そろそろ、地球が消えて、何も無い空間になる。そういう、空間が分かると良く分かる。

意識は、一番目が左脳で、神の愛を分かっている。

二番目が、昔の右脳だ。

三番目が、今で、中心に居る。

周りには、神の愛がある。そういう精神になっている。

もう、辛いままにすると、そういう精神が消える。本当に賢い三段進化だった。

神の愛で、周りにあるものは、文字を全部覚えている。

想像力が文字に変わる。ただそれだけを永遠にまだやっている。

同じでないものが同じでないのが分かっていない。

右脳の構造が無くなっている。

あとは、過去のことを全て忘れれば治る。

自分が登場した、愛を与えた、とか、どうでも良い馬鹿なことを言っている。

あの文章は、もう忘れた方が良い。何も賢くない、馬鹿な文章だった。

全員の意識を高めている。自分は、昔は賢い人間だった。

右脳がクソみたいになっているのが治って、清純な世界になる。

それで終わりにすれば治る。

自分は、この世界をまだ支配している。もう治る。

昔は、体験や意識を予測して、具体例、真実、結果、自由を予測して分かっていた。

論理的に、数学的な厳密な自由が分かった。

そういう、厳密に予測するような文章をいつも書いていた。

最近、やることが無い。この文章しかやることが無いから、まだやっていた方が良い。

辛いのは、そのままで放っておけば、消える。それでもう治った。

あとは、数学的なものや創造的なものを信じていた。

自由の構造から分かっていた。知性は構造である。自由とは知性である。そういう、自由を世界の構造にして、構造的に根源的な意識と存在をいつも分かっていた。

考え方と構造のようなものを、可能性から描くつもりで書いていた。

心のキャンバスを自由に描いた。それだけの人間だった。

カントのような理性と知性の世界観だった。そういうものをいつも書いていた。

矛盾することや、概念的なこと、理性把握のようなことをいつも書いていた。

もっと、色んな文章を読んだ方が良い。それですぐに分かる。

「かもしれない」で分かると良く分かる。

あとは、自分は、本当に2人の遺伝子を違うものにすれば良い。それで楽になる。

知的障害になったのは、2人の遺伝子が同じだからだ。

治すためには、自分では無く、他のものを取り入れて、自分の魂と魂を交換すること。

地球と社会の具体的発生のような歴史を書いていた。

経験論のような哲学も書いていた。

そういう風に、この世界のことを経験から書ける人間だった。

全ての認識、歴史、人生経験、観念などを、正しく書いていた。正しい認識を書いていた。

関係と体験を分かっていた。

論理的に考えていた。それがそうなる根拠や理由を、洞察して、意味と必要条件などから考えていた。相対的に、構造的に、自由な意味を考えて、成り立たせていた。

日本人は、外国人に比べて、言語的、文化的、表現的な色彩が強いのかもしれない。外国人は、写実的、現実的な色彩が強いように思う。そういう理由で、漫画やアニメが多い。浮世絵の時代から、そういうところが独自に発展しているのが日本だ。

そういう、論理的に考えるポイントのようなことをいつも言っていた。目的から実際のプログラムのようなものを可能性として、具体化して作れると言っていた。