日本史(4.帝国の時代)の世界観。
もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。
以下の記述は、著者の主観を元に分かりやすく喩えて書いたものであり、細かい部分においては正確性が損なわれる部分もありますが、それを了承して読んでください。
歴史に詳しい父親の話を参考にしています。
2015-06-23より。
明治維新は、あまりに急進的で、中世の身分制度をいきなり近代の立憲国家にするようなものだったが、日本は天皇と明治憲法による立憲主義の王国となって、富国強兵を目指した。
明治維新によって、ヨーロッパの文化、特にイギリスの文化が全面的にとりいれられ、国会の議会制度を設立した。
明治維新で、日本の文化や制度は一気に西欧化した。
特に、天皇を主体とした近代憲法を裁定し、「中世の封建国家からいきなり近代国家へ転回」し、富国強兵、廃藩置県などの政策を行いながら、政治や行政の官僚化・役人化を推し進めた。
そして、人々の文化はいきなり古来の日本の文化からヨーロッパの文化に転換した。
「自らアジアの文化を棄て、ヨーロッパに回帰する」という、良く考えるとありえない、だが先進的で新しい大転換を行った。そして、それは成功し、人々の生活は文明開化したのだ。
日本の歴史として、日本人の自覚が薄いことの一つに「日本は西欧の植民地になったことがない」というのが挙げられる。それは、日本人は西欧に対する危機意識が強く、古かった幕府を倒幕して早くからヨーロッパの文化に「転換」したことが挙げられる。他の国は、古いまま、スペインやポルトガルの植民地になっていった。このままではやられてしまう、そんな意識が、ペリー来航などでとても強くなり、鎖国していた江戸幕府の方針に反対して、薩長連合や田舎侍の反乱により、日本は近代国家となった。近代憲法を裁定し、天皇を呼び戻して、イギリス・フランス・ドイツを手本に、とても近代的な政府を作り上げた。人々はそれに反抗するのでなく、「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」といって、自然に新政府の文化に適応した。そこで自然にみんな変われる、というのが日本人のありえないところだ。
明治維新の「革命」は、フランスのフランス革命・ナポレオン独裁政治になぞらえられることが多い。明治維新の賢かった点は、完全な革命の恐怖政治にせず、天皇という王を建てたことだ。それによって、中国や朝鮮など、他の国が干渉する余地が少なくなった。フランス革命でナポレオンが世界に対して戦争をしかけているのは、革命後のフランスを隣国みんなで潰そうとしているからだ。ロシア革命後のソ連も同じように、周りの敵対国による干渉がないように、軍事独裁を行い、軍国化していった。革命政権は軍事主義に走る。日本の明治維新が成功したのは、ただのヨーロッパ化だけの革命ではなく、特にドイツなどを模した天皇を建てる革命だった、ということが言えるだろう。
明治維新と明治憲法について(特に急進的な近代憲法の裁定について)は以下の書籍が参考になります。
世界史(近世・近代)やフランス史やイギリスも参照のこと。
以下は僕の知っている人物。
人物 | 説明 |
---|---|
西郷隆盛 | 薩摩藩の明治維新の指導者。 |
大久保利通 | 薩摩藩の明治維新の指導者。ヨーロッパびいきであったことで知られる。 |
木戸孝允 | 長州藩の明治維新の指導者。 |
坂本龍馬 | 土佐藩の明治維新の指導者で、薩摩と長州を結んだ薩長連合の立役者。 |
吉田松陰 | 明治維新の精神的指導者で、松下村塾を通じて弟子をたくさん作った。 |
勝海舟 | 幕府側の人間で、江戸城を無血開城した。 |
伊藤博文 | 維新後の新政府のリーダーの一人。 |
板垣退助 | 維新後の新政府のリーダーの一人。 |
大隈重信 | 維新後の新政府のリーダーの一人。 |
岩倉具視 | 岩倉米欧使節団で有名。 |
大久保利通は西欧文化が大好きだったことで有名で、欧米で写真機が発明されると自分の写真を撮ってみんなに見せびらかせたが、これに違和感を覚えた盟友の西郷隆盛は「とても気の毒に」という手紙を送ったことで有名。また、吉田松陰は私塾の「松下村塾」(しょうかそんじゅく)を開校し、明治維新の革命家に対する倒幕運動への影響を与えた精神的なリーダーだった。
以下に一覧がある。
新政府の指導者たちは、幕府を倒した新政府がどのような国家を作るべきか、誰もビジョンを持っていなかったため、岩倉具視を団長とする米欧使節団「岩倉米欧使節団」の派遣を行った。
欧米各国で使節団が見たものは、建築や交通などの面での、西洋のあまりに進歩した社会だった。
このため、新政府の指導者は新しい日本において、徹底的な欧化政策を行った。「脱亜入欧」「文明開化」が合言葉となった。
詳しくは以下の書籍が参考になる。
日本の明治維新が、西欧のイギリス市民革命やフランス革命と違う点は、単なる倒幕のための革命ではなく、西欧、特にイギリスやフランスやドイツに比べて遅れた日本の社会や文化を、進歩させるための革命だったと言えます。
当時の江戸幕府は、日本について鎖国政策を行っていましたが、これが遅れていることは誰の目から見ても明らかでした。日本は開国すべきであり、そのためには幕府を倒す(倒幕)必要がありました。
ですが、吉田松陰や坂本龍馬のような新政府のリーダーは、もっと先を見据えていました。
彼らは、新しい国ではイギリスやフランスとためをはれるぐらい、それらヨーロッパ諸国に負けないぐらい、新しくて強い国を作ろうとしたのです。
新政府は、イギリスを模して議会を作り、当時進んでいたとされたプロイセン(ドイツ)の憲法を真似して、大日本帝国憲法(明治憲法)を作り、昔日本を統治していた天皇を立てて、天皇制の下に立憲君主制をやろうとしました。彼らは、封建社会の文化を棄て、いきなり近代社会へと転換したのです。
また、廃藩置県や刀狩を行い、士族の特権をゼロにするとともに、公家や貴族をもう一度政治の舞台に戻しました。全ては、イギリスやドイツを模した結果でした。
また、ヨーロッパの現地の情勢を探るために、岩倉米欧使節団を欧米に派遣しました。同時に、欧米の科学技術や軍事力を取り入れるため、たくさんの技術の再構築と吸収を行い、ヨーロッパの科学技術を真似しました。当時は顕微鏡のような科学機器が日本にどんどん入ってきて、自分たちの手で作れるようになりました。人々はそれまで「蘭学」でしか知らなかった欧米の科学技術を取り入れ、自分たちの手で同じことができることを目指しました。また、社会の資本主義化が進み、実業家によって産業がどんどん作られました。
江戸幕府側の人間も、そうしたヨーロッパの潮流に勝てないことは分かっていました。勝海舟は江戸城を無血で開城し、新政府側に譲渡しました。同時に、江戸時代の徳川家を守りました。日本では、革命は暴力的な結果にはなりませんでした。武士の多くも殺されることなく、権利をゼロにされただけでした。
こうした明治維新の結果、日本はとても新しい国になりました。ですが、東条英機はアメリカとの戦争を選び、日本は最強の、あるいは最悪の総力戦の結果、負けました。
ですが、明治維新があったからこそ、今の日本があるのだと僕は思います。機織り機を作っていた豊田佐吉がアメリカから自動車を買って模倣品を作って改良したような日本の「欧米のものを取り入れて自分たちもできるようになる」という発想の源流が、明治維新に色濃く残っています。ですが、明治維新はヨーロッパの文化を取り入れすぎて、僕は日本の昔の文化を手放しすぎたところがあると思います。
明治維新によって、それまでの封建社会は一変し、平等な社会が到来した。
たとえば、江戸時代以前の社会では、身分制度が敷かれており、親の職業を子供が継ぐのが普通だった。そのため、武士の子供は武士になり、農民の子供は農民にしかなれなかった。
そうした長い身分制度を変えるために、初代総理大臣の伊藤博文は、一例を挙げれば官僚試験制度を導入した。たとえ平民であっても、勉強して官僚試験で好成績を収めれば、官僚になることができた。
これにより、「身分」ではなく「努力」によって人が評価される、そうした平等で自由な時代が到来した。
ただし、当時の平等な社会制度は、今の時代から見ると完全ではなかった。選挙制度は導入されたものの、高額納税者(直接国税を15円以上)の25歳以上の男子のみだった。また、大日本帝国憲法では国家元首を天皇としており、国民は天皇に仕えることを目的とした「臣民」だった。そして、民衆による「衆議院」と公家や貴族の勢力である「貴族院」が置かれた。
しかしながら、自由にさまざまなことが言えるようになって、自由に政党を作ることもできるようになったため、各地で「もっと自由な社会を作ろう」という自由民権運動が起きた。板垣退助は自由民権運動のリーダーとして知られる。板垣は暗殺されたが、「板垣死すとも自由は死せず」という名言を遺した。
当時の日本の政治的・近代思想的リーダーは、今でいう難関大学を作った人も居る。福沢諭吉による慶應義塾大学や、大隈重信による早稲田大学がその例である。
僕は、日本には3つの時代があると思う。まず、原始時代から江戸時代までの、「和風スタイル」の日本。次に、明治維新から太平洋戦争までの、「帝国スタイル」の日本。そして、戦後から平成までの、「戦後スタイル」の日本である。
それこそ、日本は明治維新によって特にヨーロッパ化の政策をとったが、本当にヨーロッパに近くなったのは戦後からである。アメリカ式の平和憲法を裁定し、アメリカやイギリスのように金と資本主義に任せた経済成長をした。高度経済成長を生み出した代わり、それはバブル崩壊によって跡形もなくなくなった。
そう、和風、帝国、戦後の日本がある。今からの令和時代、また新しい何かが起きる可能性はある。だが、今の日本人の世代は、昔の和風だった日本や、帝国だった頃の日本を全く知らない、というのはあるかもしれない。昔は強くて、すごくて、カッコいい国だった。今、若い世代で右翼が増えているのは、そういう理由である。戦後があまりに馬鹿に見えて、昔の帝国の方が強く見える。それはおかしなことではない。戦後の民主主義世代がどこかタブー視していた「戦前回帰」が、今不死鳥のように復活している。そして、それは「当たり前」というしかない。右翼はアメリカにもどんどん増えている。昔の方が良かったならば、90年代よりももっと昔の方が良く見える。そういうIT世代は、狂った人間が多い。狂ったIT世代に右翼しか居ない。誰もが左翼が嫌いで、自由を愛している。オープンソースも似たようなものである。
明治維新は、決して、日本が伝統の日本文化を失い、日本を西洋化させただけの革命ではありません。
明治維新がなければ、日本は今でも北朝鮮のような、「将軍様」の国のままだったはずです。
今、日本の現代が素晴らしい社会になっているのは、明治維新のリーダーのおかげです。明治維新のリーダーの考え方が、あまりに正しかったせいで、今の日本の「進歩した社会制度と文化」があるのです。
日本人は、もっと明治維新のリーダーに感謝するべきです。もし、明治維新がなければ、今の「アメリカや中国に次ぐ進歩した世界」はありません。すべて、明治維新のリーダーの考え方が正しかったために、日本は進歩した未来を得ることができたのです。
また、決して日本の明治維新は、日本の古代からの文化を捨て、西洋化しただけの革命ではありません。確かに西洋化は大きな目的だと思いますが、それ以上に「日本が諸外国に比べて遅れた国にならないため」という理想と信念が大きく見られます。単にイギリス市民革命やフランス革命を模しただけではありません。明治維新のリーダーたちがどのようなことを考えていたのか、少し歴史の本やテレビ番組を見れば誰でも分かります。日本人の誰もが、明治維新のリーダーのおかげで、進歩した日本社会を生きることができているのです。
2023.04.26
僕個人の主観的な感想にすぎませんが、もし明治維新が起きず、江戸時代のままだったとしても、それはそれでよかったと思います。なぜなら、明治維新以後の日本の新政府の政策はあまりに「急進的」であり、きちんとした文明的なプロセスを経ないままで、封建社会の遅れた社会が急に近代帝国主義に変わってしまいました。西洋の文化と制度を取り入れるということは、西洋のものをそのまま取り入れるということを意味しており、西洋の近代世界史において起きたことと同じようなプロセスを経ずして、いきなり新しいものを取り入れてしまったのです。
ただし、それでも、日本は明治維新によって滅びませんでした。それは「天皇」という王を立てた上で、「イギリスの制度を模する」ということを行ったため、革命でありながら国の文明を滅ぼすことなく、円滑に政権が移行することができたからです。
そのような新しい日本の帝国は、大日本帝国となってアメリカと太平洋戦争を行い、敗北することで現在の民主主義の日本国になります。その後も日本は決して衰えることなく、戦後の苦しい時代に驚くほどの経済的進歩を行い、再生を果たしました。そのような近代日本の歴史の礎の上に、今の現代の日本社会があるのです。
2024.05.19
2015-06-23より。
日清戦争は、明治時代に起きた、日本と中国の戦争だ。日本は、列強の仲間入りをするために、朝鮮が欲しかった。日本が勝って、朝鮮や台湾を併合し、総督府を作った。朝鮮は、中国や日本に支配される、苦難の歴史を歩んだ。
次に、朝鮮を巡って、ロシアとの戦争である、日露戦争が起きた。日本は、イギリスの助けを借りて、ロシアに勝った。日本が勝ったことは、世界を驚かせた。
そして、満州事変から、日本と中国が戦って、日中戦争が起きた。日本は勝って、中国のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀を皇帝にして、日本の軍事力を背景にした、日本配下の国、満州国を中国に作った。
だが、今度はアメリカとの間で中国を巡って争いが起きた。国際連盟は、満州国を認めなかった。アメリカと日本の間で、太平洋戦争が起きた。日本は、半年だけの快進撃の後、苦境に立って、アメリカに負けた。
明治・大正は、帝国一辺倒の富国強兵だったように見えて、自由民権運動や大正デモクラシーも盛んだった。
選挙も始まった。最初は明治時代の、二十五歳以上の男子だけの、高額納税者による、金持ちの選挙だった。
太平洋戦争は、日本は中国大陸から、太平洋の島国、東南アジアまで、色んなところでアメリカやイギリス、フランスの軍隊と戦った。小さな日本の国が勝てるわけが無かったが、日本は天皇を現人神として、戦争には絶対負けるわけがないと信じ込まされていた。それを疑う人間は居なかった。
戦前は、台湾と朝鮮に総督府を置いて、イギリスやフランスのような「植民地帝国」の政策を行った。特に、中国に日本の配下である「満州国」を建てて、膨張主義政策を行った。
明治憲法(大日本帝国憲法)は、天皇に力のある憲法と政府を定めたが、天皇が何でも出来ることは必ずしも悪いことではない。全ての国民を配下に納めて、行政組織と軍隊を強くして、天皇が出来るようにすれば、それは天皇という最高指導者が完全に国の全てを出来るようになる、言ってしまえばどんなことでも出来る、ということを意味する。戦前は、そうした、「右翼の実力主義」の政府だった。ナチスを参考にして、そのような政策を行い、またイギリスやフランスと同じように、大陸、特に中国とロシアを、ドイツやイタリアなどの「持たざる国」と同時に攻めることで、世界における自分の力を増やそうとした。今の自民党がアメリカや中国に次ぐ経済大国になろうと努力しているように、当時の政府は富国強兵政策を頑張っていた。そんなに、間違った国ではなかった。逆に、イギリスやフランスもそういう国だった。
また、当時は国家社会主義が流行していた。日本はいつでも資本主義だったわけではなく、戦前は米は配給制度だった。ソ連も必ずしも悪い国とは見なされていなかった。だが、日本は工場を社会所有にすることよりも、イギリスやフランスに比べて遅れていた経済を進歩させようとし、そのために多くのことを学んだ。社会主義政策は成功しなかったし、社会主義者たちは弾圧されていったが、社会主義経済を過去に一度も経験しなかったわけではなかった。だが、当時の米の配給政策はとても悪いもので、生きるために必要な十分な米がなく、闇米が溢れていた。日本に社会主義は根付かなかった。日本は、帝国主義、天皇中心主義になって、戦争へと突き進んだ。
後日注記:残念ながら、帝国時代の日本の「満州国」や「朝鮮総督府」という発想は、いいことは何もありませんでした。中国や朝鮮の人々の恨みを買い、「抗日運動」(抗日パルチザン)を呼び起こしただけではなく、アメリカとの開戦にも関連し、太平洋戦争が終わってからも、朝鮮ではソ連とアメリカが両者ともにこの抗日運動を利用し、朝鮮における朝鮮戦争などを引き起こしました。満州国に移住した人も結局は日本に帰ってくることになり、なんにもいいことはありませんでした。
2024.03.27編集
明治時代の新政府は、国を強く豊かにするために、「富国強兵」と「殖産興業」を推し進めました。
富国強兵とは、国を豊かにし、兵力を強くすることで、外国に勝っていこう、という政策のことです。
殖産興業とは、日本の産業を新しく作り出し、日本社会の資本主義的な生産力を増やしていこう、という政策のことです。
日本は、江戸時代は遅れた封建社会でしたが、明治維新によって明治時代になると、古びた身分制度の社会ではなく、近代資本主義的な、強く生産力のある社会を作り上げようとしたのです。
中でも群馬県富岡市の富岡製糸場などは、国によって経営された生糸を製造する官営工場であり、ほかの多くの民間工場の模範となりました。
衣類も参照のこと。
2024.08.14
日本は、日露戦争で、ロシアのバルチック艦隊を撃破してロシアに勝利したことで、世界を驚かせた。
だが、それは偶然でもまぐれでもなく、「大日本帝国の発明」という書籍を読めば分かる通り、近代科学技術の勝利だった。
まず、日本は、それまで海戦のセオリーとされてきた、「体当たり」で敵の艦隊を沈めるという方法ではなく、「砲撃」によって敵の艦隊を攻撃した。
また、日本の艦隊は「丁字戦法」という隊列を組んで、相手の艦隊に横向きに並び(砲弾は船に横向きに設置されているため、横向きになるのがもっとも敵を砲撃しやすい)、敵艦隊の先頭の動きを封じて、先頭から集中攻撃することで、バルチック艦隊を先頭から順に撃沈した。
そして、日本は「無線通信」の技術を戦争に大きく取り入れた。相手の艦隊がどこにいるかを見つけると、すぐさま味方艦隊に対して無線で情報を共有した。それに対してロシアは手旗信号を使っていた。
そのように、日露戦争で日本が大国ロシアに勝ったのは、偶然でもまぐれでもなく、科学技術を先駆的に海戦に導入したからだったのである。
なので、僕が思うに、日本が進んでいたというよりは、ロシアが遅れていたから勝てたといったほうが正しい。
日本が無線通信などの最先端技術を取り入れたのに対して、ロシアは未だに手旗信号などを使っていたから負けたのだ。インターネットがある現代人ならば、誰でも当然のごとく分かる真実だ。
普通ならば、「清(中国)やロシアに勝ったのだから、アメリカにも勝てるだろう」と考えるだろうが、それが誤りだった。なぜなら、アメリカは世界で一番軍事技術が進んだ国だったからだ。
ドイツとイタリアと一緒になって、日本はあらゆる科学技術を取り入れて、その結果、世界の中でもほかに比類するものがいないほどの軍事技術を作った。ドイツの発明した自動車やコンピュータなどは、その最たる例だ。だが、それでも、最終的に原爆という核兵器を広島・長崎に落とした国、世界一科学技術が進んだ国であるアメリカに勝つことはできなかったのである。
なので、結果論ではあるものの、日本がロシアに勝ったからといって、アメリカにも勝てるとは限らない。だが、もしかして、日本にアインシュタインがいたとしたら、勝っていたかもしれない。だから、アインシュタインがユダヤ人ではなく純粋なドイツ人であれば、ドイツと日本が勝利していたかもしれない。
ロシアも参照のこと。
2024.08.15
「大日本帝国の発明」という本に書かれているように、明治政府は、鉄道や電気や電信のようなインフラを早くから整えることを努力しました。
重要なのは、外国の会社や技術に頼らず、自前で整えたことです。
すなわち、日本の明治政府は、早くから鉄道や電気や電信のようなインフラを自前で整えました。
少し遅れてそのようなインフラを整えた中国は、自前で整えず、外国の会社や技術を導入しました。そのために、中国は外国の国々にいいように利用され、「食い物にされる」ようになったのです。
今の日本があるのは、明治政府が自前で国の基幹インフラを整えることで、早い段階から欧米に比類する一流国家になることを選んだためであると言えます。
僕自身が思うことですが、これは今の日本のインターネット界についても言えると思います。
すなわち、日本のネットインフラは、外国のものばかりです。X(旧ツイッター)、Facebook、Instagram、YouTube、ほとんどのネットインフラが外国製で、その多くがアメリカ製です。
このままいけば、かつて中国がそうなったのと同じように、「外国に食い物にされる」ようになると思います。なので、日本製の独自の「国産サービス」が今こそ、必要とされているのです。
2024.08.23
大正時代に入ると、自由市民の民主主義的な権利を求める動きは、大正デモクラシーとなってさまざまな社会分野に及んでいきます。その代表は東京帝国大学の吉野作造博士による民本主義です。
特に、1925年(大正14年)には日本で最初(あるいはアジアでも最初)の普通選挙が実現され、25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられました。
2024.10.28
太平洋戦争を参照のこと。