中国史・モンゴル史の世界観です。中国も参照のこと。
自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/16より。
始皇帝の話をしよう。周の理想的な封建社会が、群雄割拠の力の時代になって、さまざまな国家が分裂した中国において、始皇帝はひとりで全世界を統一する王である「皇帝」を名乗った。領主による封建制から、中央政権が官僚を派遣する郡県制へと転換し、反対する儒教徒は生き埋めにされた。
秦の始皇帝は、強権的な政治家だったが、その後2,000年続く中華帝国の基礎を作った。しかし、始皇帝の次の皇帝は暗愚な皇帝であり、中国史上初の農民反乱が起きて中国は漢となる。この漢において皇帝となったのが、高祖の称を持つ劉邦である。
劉邦は穏健な政治を行う。法三章とよばれる、殺人、傷害、盗難だけを禁じるシンプルな法律を定め、封建制と郡県制を併用する郡国制とし、前漢・後漢含めて400年続く帝国を築く。ただし、劉邦を慕って仲間となったのは、出自の卑しい集団だったが、彼らは宰相や将軍などの重要なポストについた。
そして、中国古代史上最高の皇帝とされる武帝が皇帝となる。始皇帝を超える中央集権の皇帝権力を実現し、儒教を国家教学化したのである。
以下は参考文献。
古来より、日本の文化は中国や朝鮮のような大陸から渡ってきました。
農業技術である稲作は中国や朝鮮から伝わったものです。日本建築や美術も中国の建築・美術をベースに築かれました。
古文・漢文は中国から伝わったものをベースに作ったもので、日本の大和王朝や中世の東アジアに伝わった律令制国家(律令政治)は中国から伝来したものです。
律令制は刑法的な法律である「律」とそれ以外の行政法のような法律を中心とする「令」に分かれる考え方。古代中国の「王土王民」(王だけが君臨、ほかはすべて平等、土地と人民は王に服従する)をベースとする。元は中国で法による統治と徳による支配である官僚制度があり、それを日本が奈良・平安時代に独自に派生した法律の形である。
中国からインドへと渡って仏教の経典を持ち帰り翻訳した三蔵法師も中国の人間です。
また、三国志時代の三国志演義は日本でも漫画やゲームで良く知られています。
中国はモンゴル(元)に制圧されたこともあり、元寇が日本にやってきています。元はチンギスハンなどによるモンゴルの帝国で、地球規模に渡る巨大帝国を作り上げましたが、日本は制圧されませんでした。
儒教の教祖である孔子は論語で有名で、儒教のひとつである朱子学は江戸時代の幕府の公式な思想でした。
中国はさまざまな王朝を経験して、清を立てますが、日本は清との戦争(日清戦争)で勝利しました。
日本は中国に日本の事実上の属国である満州国を作り、溥儀を皇帝にしました。清朝最後の皇帝です。
現代では、中国は共産主義革命である文化大革命を経験し、共産主義国になり、日本とは冷戦による対立関係にありましたが、田中角栄総理が日中国交正常化を行いました。
日本史(古代)や日本史(帝国の時代)や儒教も参照のこと。
中国の歴代の王朝は、殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国となります。
中国の歴代の王朝と帝王の一覧は以下を参照のこと。
中国の古代史、特に殷と周について言えることは、ヨーロッパ近代史と同じことを「はるか昔に経験している」ということです。
まず、殷においては、天帝すなわち神の意志を、占いを行うことで伺い、神の意志がすべてを支配していたが、周においては、神ではなく人間の意志においてもものごとは決め、考えられると考えられた。近代ヨーロッパの「人文主義」との共通性が見られる。
また、殷においては、小さな村や都市国家のような連合体である邑によって、共産主義的な連合体政府が取られたが、周においては、夏と殷の二つの文明を参考に、封建社会が完成し、これを孔子が理想とする政体として挙げた。これは、ヘーゲルがプロイセンを理想の政体として挙げたのとよく似ている。
また、春秋戦国の時代においては、たくさんの小さな国家が勢力争いを行い、最終的にいくらかの国家が有力国家として成立する。これはヨーロッパの戦争による国家統一とよく似ている。
中国の戦国時代は群雄割拠の時代で、下剋上など、実力があれば身分や出身を問わず、力だけで成りあがることができた。同時に、農業の生産性などの向上で、生活のために隷属されない学者や知識人が現れる。孔子などが代表である。しかしながら、農民を徴兵制によって兵力に使ったりしたため、家族離反が起きたり、あるいは富を貯蓄するものが現れたため格差の発生が起きる。交易や政治、学問などの中心地として栄える巨大都市も生まれた。
秦の始皇帝は、世界すべてをひとりで統治する「皇帝」を名乗って天下を統一し、以前のたくさんの国々が乱立していた中国をひとつにした。領主による封建制を中央政府が任命・派遣する官僚による郡県制に改め、強権的な独裁権力で以降二千年続く中華帝国の中央集権的な基礎を作り上げた。
偉大な天才的政治家だった始皇帝だが、一方で思想統制をはかるために自らの姿勢に反対する儒学者を生き埋めにし、経典や諸子百家の多くの書物を燃やす(焚書)など、今から見れば強権的すぎるところもある。だが、始皇帝の作り上げた国家体制は、そのまま後の皇帝たちの踏襲する「政治的基礎」となる。
英語での「China」は、秦を語源としている。
また、始皇帝の次の皇帝は暗愚な帝王であり、中国史上初の農民反乱である秦末の反乱が起きて漢となるが、ライバルの項羽とともに反秦運動を争った漢の皇帝劉邦の仲間は出身の卑しい集団であり、行商人、牢番人、犬殺し、葬式のラッパ吹き、馬丁、小使などといった有様だった。彼らは劉邦が皇帝につくと、宰相や将軍などの重要なポストに就くが、これは史上例に見ないことだった。しかしながら漢は前漢・後漢合わせて400年続き、漢民族や漢字などの呼称にも使われるシンボル的な名前であり、劉邦といわば「人望を慕って集まった集団」である彼らは、ある意味で偉大だったと言える。
漢の皇帝に即位した劉邦は高祖と呼ばれ(ほかにも高祖の廟号が与えられた皇帝は多いが、劉邦の通称もまた高祖である)、秦に比べるとはるかに穏健な政治体制を敷いた。殺害、傷害、盗難だけを中心とする法律(法三章)を定め、学はなかったが農民の気持ちが分かるために国家の情勢や国民の動向をよく知って統治することができた。また、郡県制と封建制を併用した郡国制を施行した。秦の始皇帝のように強権的な独裁権力を用いることはなく、400年続く「安定した治世」を行うことができた。
そして、古代の中国史上もっとも輝かしい皇帝が前漢の武帝である。武帝は国家の帝国権力・中央集権体制をもう一度再構築し、始皇帝を上回る強大な皇帝権力を実現し、また、儒教を国教化(国家教学化)する。ここに古代帝国は完成となり、太初暦や年号も定めることが始められた。
中国四千年の歴史とは言うが、中国は歴史がとても古く、ヨーロッパの文明よりもはるかに昔から、同じことを経験していると言えると僕は思う。
以下は参考文献。
僕はコーエーのテレビゲームである真・三國無双で赤壁の戦いなどさまざまな戦争の場面を姉と一緒にプレイしていたこともあって、三国志が大好きです。
三国志演義の主な武将と、戦いのあった地名を良く知っています。
ただし、三国志に限って知っているため、「中国史を誤解している」ところがあるかもしれません。三国志に偏って中国史を知っているからです。
主な戦いには、黄巾の乱、虎牢関の戦い、官渡の戦い、赤壁の戦い、合肥の戦い、夷陵の戦い、五丈原の戦いなどがあり、その状況に応じて、魏、呉、蜀のうちの2つの勢力に分かれて、ゲームでは自分は一人の武将となって敵の勢力を倒します。
魏の総大将は曹操で、夏候惇、夏侯淵、典韋、張遼などが魏の武将として有名です。また晋の勢力に司馬懿などがいます。
呉の総大将は孫堅あるいは孫権で、孫策、周瑜、陸遜、甘寧、孫尚香などが呉の武将として有名です。
蜀の総大将は劉備で、関羽、張飛、趙雲、馬超、諸葛亮孔明などが蜀の武将として有名です。
また、他の勢力として、張角、袁紹、董卓、呂布、貂蝉、孟獲、祝融などがいます。
三国志は、ゲームの元となった「三国志演義」と呼ばれる中国の歴史物語がベースとなっており、横山光輝の漫画「三国志」は有名で僕の中学校でも良く読まれていました。
隋や唐では、律令制と呼ばれる国家の仕組みが完成します。
日本は遣隋使や遣唐使を中国に派遣して、中国の先進的な技術や文化、制度を取り入れます。
日本を含む東アジアでは、中国から律令制が伝来し、日本では大和王国が大化の改新以後に律令国家を成立させます。
後日注記:中国史において、隋唐ならびに宋代の時代には「科挙」という試験制度があり、詩や論文を書いたり経書の暗記を行うことで、国民から文官を選びました。以下の書籍が参考になります。
教育も参照のこと。
2024.05.11編集
隋・唐・宋を経て元となった中国。正確には元は中国ではなくモンゴルだが、元は「領土がものすごくめちゃくちゃ大きい」という特徴がある。
チンギスハンや孫のフビライハン(元朝の設立者)というモンゴル人が打ち立てた、中東アジアから東ヨーロッパにまたがる、広大かつ最強の帝国だった。
元は鎌倉時代中期に日本にもやってきた(元寇)が、日本はモンゴルの領土にならず二度にわたって追い返した。
元の特徴は、チンギスハンの強大さと、その残虐さである。まるで人々を虐殺するのを楽しむかのように、多くの命を犠牲にした。「ヒトラーよりもはるかに悪い」と言われている。
後日注記:誤解を招く表現で申し訳ない。モンゴル軍は虐殺に次ぐ虐殺を行ったが、決してチンギスハンは馬鹿ではなく、歴史上の「軍事的天才」として知られている。
詳しくは以下の書籍が参考になります。
清は最後の中国王朝。日清戦争(清と日本との戦争)では日本に敗北したことで有名。
清の最後の皇帝(ラスト・エンペラー)であり日本の属国である満州国の皇帝、宣統帝(康徳帝)、愛新覚羅溥儀については以下が参考になる。
日本史(帝国の時代)も参照のこと。
2024.05.11
中国と台湾は仲が悪いです。その理由は、中国の共産党と台湾の国民党は、かつて中国を共産主義国家にするか民主主義国家にするかということで争った敵対勢力だからです。
当時、共産党の勢力のトップは毛沢東であり、国民党の勢力のトップは蒋介石でした。
国共内戦では結局共産党が勝ち、国民党は台湾に逃げることになりました。
毛沢東は国共内戦で勝利し、1949年に中華人民共和国を建国、1966年~1976年に「文化大革命」を行いました。
今でも、中国(中華人民共和国)は台湾(中華民国)のことを独立国家とは認めず、「中国の一部」であると主張しています。
これに対して世界各国は、台湾(中華民国)を独立国家として認める国もあれば、認めない国もあります。
2024.03.27
Wikipedia
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