日本史(1.古代)の世界観。
もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。
以下の記述は、著者の主観を元に分かりやすく喩えて書いたものであり、細かい部分においては正確性が損なわれる部分もありますが、それを了承して読んでください。
日本の神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)が誓約すなわち結婚して生まれた子供の子孫が、神武天皇に当たる。
そして、神武天皇による「東征」により、大和の国すなわち大和王朝が建国される。
神武天皇と大和王朝については以下の書籍が参考になります。
日本神話も参照のこと。
日本は神武天皇の古来から天皇制が続いていることから、1つの王朝が現在まで途切れずに続いている、極めて異例の国である。天皇制を確固として守り続けたい右翼の政治家が多いのは、他の国のように途切れていないこと、同時に宗教上の宗家でもあり、人々の中で「日本=天皇」というイメージが、特に明治以来の天皇制の復刻と戦争の影響もあって、まだまだ根強く守られ続けているからである。
後日注記:天皇は現人神(現実に生きる人としての神)とされるが、僕はこれはエジプトの太陽神とファラオの関係に良く似ていると思う。古代の島国で、何も分からない古代人たちを治めるためには、神であることが一番やりやすかった。その天皇という神の帝王が今でも途切れず、現代まで続いているという「特異な王国」が日本である。だが、これはただ幕府として将軍さまが治めていた間も天皇が一応続いていたというだけにすぎず、またフランス革命と同等の明治維新まで起きたことから、「日本は古い国」であるとは言えない。日本は中国から文化を継承しながら特異な歴史を歩んだ、歴史と伝統のある国である。また、ある意味天皇はイエス・キリストを引き継いだローマ法王と同等の立場にあると言える。政治的実権は無いが、その存在が日本人みんなの支えになっている。ヨーロッパの神が法王なら、日本の神は天皇である。
後日注記:日本は象形文字の一種である漢字を使いながらひらがなで漢字を読み、カタカナで英語や外国語を読むといったように、なんでもかんでもごちゃまぜにする。インドの仏教もイギリスの議会制民主主義も全部取り入れて日本式のものにする。今ではドイツの発明である自動車やアメリカが得意とするIT産業がそれらに負けないほど得意な国になった。まさになんでもござれである。また、決して自分がないわけではない。それどころか、江戸時代の鎖国が260年続いたせいで、ありえないほど独自の文化がある。どんなに遅れていても彼らは自分の文化を棄てなかった。とはいうが、明治維新では全く日本の文化を棄て、ヨーロッパの文化を大々的に取り入れた。どっちつかずというよりは、それこちらに、あれこちらにというように、時代とともに違った価値観に全員でなびいていくのである。結果、最近はオタク文化のITをやっているが、ここでもアメリカやドイツのIT文化とは一線を画し、「自分たち独自のサブカルチャー」を築くことに成功している。こんな国は地球上、日本しかない。
2015-06-23より(一部修正)。(2018.01.29 - 順番を修正し、細部を修正。)
縄文時代、比較的早くから土器の発見がされている。
弥生時代以降、農耕が盛んになった。
古墳時代から大和時代では、権力者の墓である古墳が生まれ、早い段階での律令政治、国の原型のようなものがあった。
奈良時代に、仏教が伝来した。
平安時代までに、天皇が平城京や平安京、長岡京など、遷都する文化があった。
日本語や早い段階での日本文学があった。
縄文時代は、狩猟・採集を中心とする原始時代で、定住は行われず、狩りをしたり木の実などを採集したりして、それぞれが分散した生活をしていた。使っていた土器が縄の模様をかたどられたものであったことから縄文時代と呼ぶ。
弥生時代には、稲作や農耕が始まり、定住生活が始まる。村社会となり、組織が生まれていく。
日本において、「権力者による支配」の構造が強くなってきた古墳時代では、王や権力者の墓である「古墳」が作られるようになった。
おそらく、「死んであの世に逝ってからも自分は偉いのだ」ということを堅持したいのだと思われる。
あるいは、死後に神様に「早く天国に連れて行ってほしい」と、自分のことを見つけてほしいのかもしれない。
大和時代からは、日本は基本的な「国」の構造を、大陸から伝わってきた律令制国家などの仕組みで行うようになる。
万葉集にもあるように、昔は日本のことを「大和の国」と呼び、天皇のことを大和の国の王、支配者であると考えていた。既に立派な「王国」が築かれていたということが伺える。
出来事 | 説明 |
---|---|
邪馬台国 | 邪馬台国は古代の日本の国家で、卑弥呼を女王とする。 九州説と大和説がある。 魏と通交を行ったことが有名。 |
氏姓制度の裁定 | 大和の国では氏姓制度が裁定される。 集団の支配者である氏上と氏人に、身分を表す氏と姓が与えられた。 |
仏教伝来 | 古墳時代には仏教が伝来する。 |
冠位十二階 | 飛鳥時代(大和時代後期)には、 冠位十二階(徳・仁・礼・信・義・智の6つを大小に分けて十二階とし、 冠によって等級を表す)が定められた。 |
遣隋使 | 遣隋使は隋に対する日本の使いのこと。 607~608年に小野妹子らを遣わした。 |
大化の改新 | 大化の改新は645~646年に行われた改革のこと。 |
律令国家 | 飛鳥の朝廷は694年に藤原京に移った。 701年の文武天皇の統治下では、大宝律令が裁定し、日本は律令国家となった。 |
班田農民 | 国民の多くは公民と呼ばれる農民だった。 男女ともに、6歳以上ならば土地が与えられ、耕作することを許された。 |
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
2023.09.11編集
弥生時代に女王の卑弥呼が支配したとされる邪馬台国の所在については、九州にあったとする九州説と、畿内(近畿地方)にあったとする大和説(近畿説・畿内説)がある。
2024.12.25
中国などの大陸の文明から、仏教と律令制国家が伝来する。日本は中国を模倣した律令制国家となる。
中世の時代、もっとも進んだ文明は東アジアにおいては中国だった。農耕のような技術や律令制などの国家を治める仕組みは大陸から伝わってきたものであり、日本だけではなく朝鮮やベトナムなども、東アジアの中国を中心とした「東アジアの共栄圏」の一部だった。
後日注記:古墳時代、飛鳥時代、大和時代にかけて、王が支配する国が自然に生まれていった。大化の改新では、はじめて元号である「大化」を裁定した。
この頃の文化を飛鳥文化とか白鳳文化と呼ぶ。
2024.12.13編集
壬申の乱は672年に起きた古代で最大の内乱のこと。
2024.12.18
出来事 | 説明 |
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遣唐使 | 遣唐使は唐に対する日本の使いのこと。 |
国家仏教 | 奈良時代には、国家仏教として、東大寺や国分寺などが建設された。 |
藤原氏の台頭 | 平安時代には、藤原氏が勢力を強めた。 |
かな文学 | 平安時代にはかな文学が栄えた。 初期の漢文学から和歌を経て、 小説や日記などがひらがな・カタカナで表現された。 |
浄土信仰 | 戦乱や災害などの社会の混乱やそれに対する律令政府の無力さとともに、 末法思想が生まれ、浄土信仰が広まった。 |
荘園 | 租税を免れる荘園(私有地)の台頭とともに荘園整理令が発布される。 名主のもとに土地を下人や作人などに耕作させ、 それを年貢として領主などに納める方式が農業の中心となった。 |
武士の台頭 | 律令制が崩れていくとともに武士が台頭した。 |
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
2023.09.11編集
2024.12.12編集
奈良時代には、「京」と呼ばれる都に住む天皇と貴族が国を支配し、仏教が人々の生活に少しずつ浸透していった。
奈良時代、都は奈良の平城京に置かれた(710年)。ここに天皇と貴族が住んで、王朝(朝廷)を通じて日本の古代国家を支配した。
奈良時代には、少し前に日本に伝来した仏教が人々の生活に少しずつ浸透していく。奈良にはその時建設された東大寺があり、全国には国分寺が60近く建てられた。
僕自身、旅行で奈良に行ったことがあり、奈良の東大寺の大仏を見たことがあります。鹿がたくさんいて面白かったです。
この頃の文化を天平文化と呼ぶ。
2024.12.13-14
2024.12.25編集
天皇と貴族による朝廷の置かれた都(京)は、平安時代には京都の平安京に遷都した(794年)。
平安時代は日本語の「かな」が生まれた時代であり、貴族(特に後宮の女官)の間で文学が栄えた。紫式部による「源氏物語」は、世界最古の小説とされ、それも女性によるものである。
日本文学は、「古事記」(歴史書)や「万葉集」(歌集)など、古来からとても豊かである。
2024.05.04編集
2024.12.14編集
2024.12.25編集
平安時代の文化には、弘仁・貞観文化や国風文化がある。
弘仁・貞観文化では、最澄(天台宗)や空海(真言宗)により、大日如来を中心にした密教が盛んになると同時に、貴族の間で漢文学が栄えた。
国風文化では、日本的な文化(国風化)が出てくるようになり、ひらがなやカタカナを用いたかな文学が登場した。また、阿弥陀如来を信じれば極楽浄土に往生できるという浄土信仰が広まった(浄土宗)。
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
2024.12.13
年号 | 出来事 |
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1051年 | 前九年の役 |
1083年 | 後三年の役 |
1156年 | 保元の乱 |
1159年 | 平治の乱 |
(読む年表 日本の歴史 (渡部昇一「日本の歴史」)を参考に執筆しました。)
2024.12.18
幕府による政治が行われるまで、日本は天皇を中心とした貴族の社会でした。
天皇は神武天皇にさかのぼることができますが、代々続いており、日本は「天皇が途切れなく建国から現在まで続いているとても希少な国」とされます。
中国の律令制政治を参考にして律令国家となりながら、貴族中心の政治を行いました。
当時は日本語を読めるのは一握りの貴族や寺の住職の特権的な能力であり、多くの文学や書簡は貴族によるものです。
また、天皇の住まいは平城京から平安京のように、別の都に遷都する文化がありました。
また、古代より日本では伝統的な芸能や芸術があり、奈良時代以降に作られた建築や彫刻、特に仏像のような日本建築が多く残っています。能や狂言では源氏と平氏など武士の戦いを歌にしているものもあります。
公家による支配は、藤原京、平城京、長岡京、平安京など、奈良や京都で遷都を行いながら都(京)に天皇の御所を作った。
僕は、日本史の背景には、武家と公家の勢力争いがあると思います。
まず、公家は、大和時代に始まる大和王朝から続き、いったんは武士によって実質的な統治権を明け渡したものの、明治維新で再び表舞台にでることになった「天皇と貴族」の勢力です。
一方、武家は、鎌倉幕府に始まり、江戸時代まで続いた、「武士」すなわち軍事力による勢力です。
日本の歴史というのは、武家と公家の二重構造になっています。
日本の歴史とは、一言で言えば天皇と幕府の歴史です。
つまり、天皇による「公家」の勢力と、武士による「武家」の勢力の、二重権力の歴史です。
明治時代に入って、大政奉還で天皇に実権が戻るまで、日本は公家と武家による「二つの権力」が共存していました。
聖書では「二つの主人に仕えることはできない」と教えますが、実際のところ、日本では二つの主人に同時に仕えるという状況が、明治時代になるまで、長い間続いてきたのです。
このことが、日本的な「権力になびく」という考え方を生み出します。「天皇の権力」だった大和王朝から「武士の権力」である鎌倉幕府になっても、民衆は「末法の世」と言われながら、新しい権力に従いました。その後、室町時代などを経て、戦国時代の分国支配となり、権力が下から上を倒す「下剋上」の中で、「分裂した勢力図の中でその時権力者になったものに従う」という状況を作り出します。
そして安土桃山時代を経て江戸時代となると、徳川将軍という「絶対的最強の支配者」の中で、逆にほとんど権力闘争や争いごとのない、平和な「戦いや争いそのものが存在しない」という世界を長い間生きていきます。
そのような「権力の形態そのものが変わっていく」という世界の中で、明治維新によってヨーロッパ化しようとした世界でも、日本人は簡単に今までの「日本の和の文化」を忘れてしまい、徳川家が明治天皇に変わったとしても、簡単に新しい権力者になびいていきます。
このことが、逆に日本で「大きな大変革」を可能とします。江戸時代はヨーロッパや西洋諸国から見れば、すべてが遅れた鎖国の世界でしたが、明治維新という「大革命」により、日本人は簡単に「文明開化だ」と言って新しい明治政府の体制を受け入れ、どんなに突飛な新しい発想であっても、「ヨーロッパと明治政府の新しい方式だ」と言ってすべて受け入れてしまいました。
そのため、太平洋戦争でアメリカに負けたからといって、アメリカの統治を完全に拒むのではなく、逆にGHQの統治と戦勝国が押し付ける新しいやり方を受け入れ、アメリカ式の民主主義社会へと転換し、経済成長を果たし、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるほど、「どこの国よりも資本主義ができる国」へと大変貌を遂げていくのです。