日本史(2.武士の時代)の世界観。
もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。
以下の記述は、著者の主観を元に分かりやすく喩えて書いたものであり、細かい部分においては正確性が損なわれる部分もありますが、それを了承して読んでください。
歴史に詳しい父親の話を参考にしています。
2015-06-23より(一部修正)。
平氏や源氏などが争って、時代は、武士中心の時代になった。
また、仏教と独自の宗教である神道によって、奈良や鎌倉の仏像が生まれた。特に、仏教の宗派の開祖たちは鎌倉時代に生まれている。
鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と幕府が続き、日本は戦国時代となり、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康によって、日本は統一した。
そのうち、源氏と平氏が台頭し、政治は王朝主導ではなく幕府の武士主導になる。
源氏と平氏については、古くから日本では「源平神話」というものがあり、「源氏の勢力と平氏の勢力が交互に交代する」といいうことが、江戸時代の頃までにわかに言われていた。
平家については、「おごれる平家は久しからず」といったように、現代人の間では「平家=おごり」であるかのようなイメージがあるが、実際は平清盛が広島の宮島にある厳島神社(海の中に赤い鳥居がある世界遺産の神社)を建設したように、建築・芸術面での貢献度があったりとか、日本の伝統文化である能や狂言、あるいは歌や舞などに多く源平の物語が使われているように、今日では「日本文化の礎」となっている。
源頼朝によって鎌倉に鎌倉幕府が築かれると、それまでの天皇や貴族の「公家」中心の世の中から、「武士」中心の世の中になる。幕府は鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と続き、長い間軍事勢力が日本を統治した。
出来事 | 説明 |
---|---|
武士政権の誕生 | 頼朝が征夷大将軍として任命され、武士政権が誕生する。 |
北条氏の台頭 | 頼朝が亡くなって、北条氏が台頭する。 |
末法の世 | 武士政権への移行にともなう戦乱や、飢饉などによる社会の混乱から、 末法の世と呼ばれ、その中で生きる人々を救おうとする鎌倉仏教が起きた。 |
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
2023.09.11編集
鎌倉時代、日本には仏教のたくさんの独自の宗派(鎌倉仏教)が生まれた。
源平の合戦に見られるように、武士と武力中心の世界になってきたことで、社会は荒廃し、人々はすさんだ社会のことを「末法の世」と呼んで、仏教や宗教に救いを求めた。その結果、さまざまな日本独自の仏教思想が生まれた。
主に、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、禅宗(臨済宗・曹洞宗、栄西・道元)、日蓮宗(日蓮)。
もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。
宗 | 人物 | 教え |
---|---|---|
浄土宗 | 法然 | 念仏(南無阿弥陀仏と唱えること)により、阿弥陀仏による他力にすがることで、極楽浄土に往生できる。 |
浄土真宗 | 親鸞 | 阿弥陀仏の救いの対象は、煩悩の深い悪人である(悪人正機)。 |
時宗 | 一遍 | 全国をめぐり、ふだを配って、人々に念仏をすすめた。 |
禅宗(臨済宗・曹洞宗) | 栄西・道元 | 座禅をすることによって悟りが開かれる。 |
日蓮宗 | 日蓮 | 題目(南無妙法蓮華経のような法華経の教え)を唱えることにより、人々と国家を幸福にする。 |
仏教も参照のこと。
また、鎌倉時代中期、二度にわたって元(モンゴル)の勢力が日本にやってきた。これを元寇と呼ぶ。
だが、日本は二度ともに元を追い返し、モンゴルの支配下になることはなかった。
中国・モンゴル史も参照のこと。
鎌倉幕府により、日本は「幕府」による武力中心の政治、すなわち「力による政治」に移行します。
ですが、ルソーが言うように、力によって支えられたものは、必ず力によって打ち倒されます。
そのため、鎌倉幕府による鎌倉時代は、南北朝時代を間に挟んで足利尊氏の室町幕府による室町時代となり、群雄割拠が分国統治を行う戦国時代、織田信長や豊臣秀吉を中心とする安土桃山時代、そして江戸時代と、武士中心の「幕府政治」が続いていきます。
戦国時代はさまざまな大名が日本を分国統治した。
以下は主な大名。
家 | 国 |
---|---|
南部氏 | 陸奥 |
最上氏 | 出羽 |
伊達氏 | 陸奥(仙台) |
上杉氏 | 越後 |
北条氏 | 伊豆 |
武田氏 | 甲斐 |
織田氏 | 尾張 |
徳川氏 | 三河 |
朝倉氏 | 越前 |
浅井氏 | 北近江 |
三好氏 | 阿波・讃岐 |
尼子氏 | 出雲 |
毛利氏 | 安芸 |
長宗我部氏 | 土佐 |
大友氏 | 肥後 |
龍造寺氏 | 肥前 |
島津氏 | 薩摩 |
後日注記:伊達氏は陸奥国の大名でありながら仙台藩の藩主であり、同じく陸奥国の大名である南部氏と区別するために「陸奥(仙台)」と記述しました。
以下は参考文献。
2023.09.10-11編集
2024.11.04編集
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
戦国時代には、応仁の乱、庶民文芸の流行などが出来事として起きた。
織田信長は日本を統一しようとし、豊臣秀吉が天下統一に成功した。
織田信長は、武士としての「覇者」とか「お殿様」というイメージがとても強いが、本当はカジュアルな側面もあって、それまでになかった奇抜な和服衣装の定着化を果たしたことでも知られる。言ってしまえば今のファッションリーダーでもあった。
豊臣秀吉はとても頭の良い人間であり、織田信長のわらじを胸で温めて信長に渡して恩を売り、足軽から出世して天下人に上り詰めるなど、頭の切れる人間だった。だが、豊臣秀吉はその頭の良さから、日本を統一しただけでは飽き足らず、朝鮮への出兵を行った。この朝鮮への出兵は韓国からとても嫌われており、朝鮮人だけではなく日本人にとっても、過酷極まりない残忍で冷酷な出兵だったことで知られている。
豊臣秀吉の政策として知られているのは、検地と刀狩。検地(太閤検地)では農民の持っている土地の大きさや面積を全国的に徹底的に調査し、どれだけの年貢が納られるかを検地した。また、刀狩は農民から武器を撤廃し、農民が武士に逆らうことができないようにした。
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
2024.11.02
信長、秀吉、家康は、キャラクターが面白いため、日本史を学ぶ多くの日本人から愛されている。
まず、信長は徹底的に敵を滅ぼす。敵が居れば、その勢力を根絶させ、敵である武将本人とその勢力が死んで消滅するまで相手を滅ぼそうとする。
これに対して秀吉は、相手が降伏することを重視し、多くの意味で、相手を徹底的に滅ぼすよりも、コストパフォーマンスの高い「賢い発想」で勝利しようとする。
そして、家康は、最初からそのような敵が発生しないように、参勤交代などを行って、自分の家来が自分に歯向かったりすることが何もできないようにして、長い間の平和な世界を築く。
この三人のキャラクターは、非常に面白い。
(読む年表 日本の歴史 (渡部昇一「日本の歴史」)を参考に執筆しました。)
基本的に、幕府と朝廷は以下のようになる。
時代 | 幕府・朝廷 | 場所 | 人物 |
---|---|---|---|
弥生時代 | 邪馬台国 | 九州説と大和説がある | 卑弥呼 |
古墳時代 | 大和朝廷 (ヤマト政権) | 大和 | |
飛鳥時代 | 藤原京 | 奈良・飛鳥 | 蘇我馬子、 推古天皇、 聖徳太子 |
奈良時代 | 平城京 | 奈良 | 元明天皇 |
平安時代 | 長岡京、平安京 | 京都 | 桓武天皇 |
鎌倉時代 | 鎌倉幕府 | 鎌倉 | 源頼朝 |
室町時代 南北朝時代 | 室町幕府 | 京都 | 足利尊氏 |
戦国時代 | 戦国大名 | 分国支配 | 戦国大名 |
安土桃山時代 | 安土城・大阪城 | 近江・大阪 | 織田信長、 豊臣秀吉 |
江戸時代 | 江戸幕府 | 江戸(東京) | 徳川家康 |
(もういちど読む山川日本史を参考に執筆しました。)
日本には武士道というのがありますが、鎌倉幕府以降の「武士主導の政治」の中で、一種の信条のような武士の精神論が「武士道」を形成しました。特に、仏教の禅宗などと結びついて生まれたものです。
鎌倉幕府以降の武士の政治では、日本は戦国時代となって、多くの人が戦(いくさ)に駆り出されました。そのため、日本にはサムライのスタイルが定着し、刀や鎧のようなものが日本独自の形で生まれました。同時に女性はかんざしをつけて髪を結い、着物を着るスタイルが定着しました。外国人はそうした「和風スタイルの日本の美しい女性」のことをゲイシャと呼びます。
ヨーロッパの歴史と比べて、日本の歴史の特徴を言うと、それは「狭い領土での奪い合い」です。
ヨーロッパでは、大陸が地続きかつ広大であり、地中海という海の交通も盛んで、巨大な場所を征服することができました。
なので、歴史上の国家も、巨大な場所を征服することを前提に戦争を行い、ひとりの王が支配する帝国となります。
ですが、交通や通信の届く範囲の限界が限られているため、全部を制圧することはせず、ある程度の大きさ以上には拡大しません。
そのため、ヨーロッパではたくさんの王国が生まれ、互いに戦争や経済から争い合うようになりました。
これに対して、日本は土地も狭く、場所も東アジアの辺境の島国であり、その結果「狭い土地の奪い合い」のような形相を呈します。
戦国時代の戦国大名などは、まさにこの「土地の奪い合いの戦い」を体現したものであったと言えます。
ですが、そうした中で、日本人は「戦争して争い合うこと自体が嫌い」になり、「争うことなく和やかに暮らそう」という独自の和やかに平和に暮らす文化、すなわち「和の文化」を作り出します。
その結果、江戸時代では、「日本だけで平和に暮らす」ということを目指して、鎖国をするに至ります。
このように、ヨーロッパの歴史と日本の歴史は、その土地の大きさと交通のしやすさから、まったく別々の歴史を歩んだのです。
このことは、Web玉塾の玉先生の日本史の授業から知りました。以下からその授業をYouTubeで視聴できます。日本史のことについてさらにたくさんのことがアニメで楽しく教えられているので、詳しく勉強したい方は参照してください。
2023.02.10
日本史は、権力者の歴史です。
古墳時代から平安時代までは、天皇の都がどこにあるか、ということで歴史の時代を区分します。
鎌倉時代から江戸時代までは、武士政権である幕府がどこにあるか、ということで歴史の時代を区分します。
そして、明治時代以降は、再び天皇に戻り、天皇の代によって歴史の時代を区分します。
日本史は、そのように、権力者の代が変わっていく歴史だと言えます。
確かに、この区分の方法は一理あります。特に、平安時代から鎌倉時代に変わった時は、貴族の政権から武士の政権に変わることで、社会も大きく変わりました。鎌倉幕府という「武士の時代の到来」により、社会は混沌とし、大規模な飢饉が起きるなど、鎌倉時代は「末法の世」と言われた酷い時代でした。
ですが、このような時代の区分をするのであれば、結局「貴族時代」「武士時代」「帝国時代」にしたほうが、シンプルで分かりやすくなるのではないでしょうか。
確かに、そのように教えている本もいくつかあります。ですが、そのようにすると、今度は現実との乖離が起きてしまいます。現実の日本の時代では、江戸時代は江戸に幕府があった時代であり、みんな「江戸の徳川幕府」という共通観念を持っていました。だから、そこは現実の社会状況に合わせて、「江戸時代」と呼んだほうがいい、ということが言えるのです。
ですが、僕のこのホームページにおいては、あえてそのような一般的な区分とは異なり、自分の独自のページの分け方をしています。時代については江戸時代のような呼び方をしますが、大まかな区分として、「古代」「武士の時代」「江戸時代」という分け方をします。そのほうが僕は分かりやすいと思っています。
2023.08.31
建築も参照のこと。
仏教も参照のこと。