民主主義の世界観です。
社会制度に詳しい父親の話を参考にしています。
自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/15より。
全体主義の問題がどこにあるのか、それは人々に強制的に「ハイと言いなさい」ということである。どんなに独裁者が間違っていても、国民には批判できない。民主主義では、「あなたの意見には反対だが、あなたがその意見を言えることをわたしは命をかけて守る」とする。これが民主主義の精神だ。
民主主義には、憲法の平和主義と主権在民の精神のもとに、立法(法律を決める)、司法(罰する)、行政(行う)の3つに分かれた三権分立を行う。また、株式市場においては、「それは今これくらいの価値だが、誰かがこれに高値をつけることで自分の持っているそれの価値も上がる」という考え方をする。
このような政治体制は、中国の隋や唐で行われた律令政治に似通った点を見ることができる。律令制とは、国民を律する「律」と命令する「令」による国家を指すもので、遣隋使や遣唐使によって古代の日本(大和王国)でも行われた。
自分の書いた「ニュース - 2021-06-第四週」2021/06/20より。連ツイした投稿。
民主主義の根幹は、三権分立である。三権分立においては、司法、立法、行政が独立し、法律に基づいて国家を統治する。
法律には、法律を決める法律、すなわち法律の法律である憲法がある。日本国憲法の根幹は、「平和主義」と「主権在民」。
立法府においては、国民の選挙で選ばれた議員が国会で議論し、多数決によって法律を定める。衆議院と参議院の二つの立法府がある。
行政府においては、立法府で決められた法律のもとに、役所において官僚が行うべき行政を行う。税金のもとに行われる行政は、国民を管理し、金では行うことのできない税金による公共的なサービスを提供する。
司法府においては、警察が法律のルールから外れたものを逮捕し、検察によって調査した上で、裁判にかけられて、犯罪者を刑に処する。日本では、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の3つの裁判所があり、刑が不服ならば控訴・上告できる。刑は実刑でなければ執行猶予がつくこともある。
法律とは何か。法律とは、「ルール」と「管理」と「国がすべき行政計画」であり、ルールに背いたものは犯罪者として扱われる。また、国がすべき行政計画とは、要するに公共事業である。また、国は国民を管理し、自由かつ平等な権利を与えながら国民を支配する。
要するに、「支配する側」と「支配される側」がもしあるとしたら、支配する側は政府や役所、裁判官や国会議員であり、支配される側は実際に事業を行う国民である。
金とは何か。金とは、消費と労働の契約である。消費する際に、金を与えることで、相手が労働してくれ、その製品を生産し、消費者のもとに提供してくれる。資本主義では、金を否定しない。社会主義のような計画経済は、現実的に考えて成り立たないためである。
金は、単に強欲なだけではない。それは消費者から見た印象に過ぎず、実際は事業主にとっての自由が存在する。どんなビジネスモデルを使って金儲けをすることも自由であり、それに株主や金融機関が投資や融資を行えば、最大限に利益をあげることができる。雇用する労働者にも、多くの給与を与えられる。
このように、合理的かつよく考えられた資本主義の自由民主主義は、社会主義のようなよく考えられていない不合理で劣った経済よりも上手く働く。多くの場合、社会全体が発展し、国が豊かになって勝利するのは、資本主義の側である。
最後に、平和憲法においては、軍隊を持ってはならない。このことが、日本を平和な国たらしめている。日本はかつて凶悪な戦争をしたが、反省して平和憲法を定めた。国が戦争で勝利するのではなく、経済的に豊かになることで栄える国を実現する。これが戦後の日本経済である。
(自分で書いたFacebookより。編集済み)
三権分立は、フランス革命期のモンテスキューが提唱した考え方で、国を法律を中心として、みんなが従うルール、つまり規則と行うことを作り、立法するための立法府である国会、決められた法律に基づく公共事業を行い国を管理する行政府である役所、そしてルールを守らない国民を裁く司法府である裁判所や警察が、それぞれ権利を持ち、独立してそれぞれの権限による権力を持つことで、国民を政府が従える民主主義の制度。
民主主義は主権在民であり、国民が国家の最高の独立した主たる権利である主権を持つ。
直接民主主義は、国民が直接権利を持って決めるが、現代の人口の多い日本ではこれを取ることは現実的でない。
間接民主主義は、選挙で国民の代表である議員を多数決で選び、選ばれた議員が国会や市議会のような議会で、議論に参加してみんなの意見を反映させる。
このような議員と議会を中心に行う政治制度のことを、議会制民主主義と言う。イギリス市民革命で、ヴォルテールなどによって実現された。
後日注記:「代表を選ぶ」と言うと分かりづらいが、要するに「自分の意見を守ってくれる味方の勢力を選ぶ」ということである。個人個人の意見には違いがあるかもしれないが、ある一定の問題については、大きな意見である「思想」や「理想」の下に、代表となった自分たちの「味方」を支持する。日本で自民党が勝つのは、「自由民主主義という大きな理想の代表」だからである。こうした支持政党がある人たちとは別に、特に支持政党のない「無党派層」が存在するが、こうした人々は政治のニュースを見て、「日本を変えるため」「保守を続けるため」にどの政党に入れるのかを考える。これが民主主義における選挙である。
後日注記:自由だからといって、少数派の貧困層に平等な支援策は与えない。よって、社会主義では、一党独裁の平等、すなわち「もっとも弱い人々のための一党独裁」を取る。これが、プロレタリア独裁と呼ばれる。
後日注記:ただし、独裁者による実権になると、国民は何も反抗できず言いなりになるしかなくなる。制度にいくら反発があっても、国民は従うことしかできない。これでは自由がない。間接民主主義はこのような問題を解決し、国民に「自らの自由」を与える。自由な社会では、人々の意見を代表がくみ取り、代表が人々のための社会にする。この自由が上手く回っている間は国民は安泰だが、反面社会全体がおかしくなると、どうしても独裁的な指導者に頼らざるを得なくなる。だが、何でもできる独裁者には警戒しなければならない。「絶対的権力は絶対に腐敗する」からである。
民主主義にもたくさんのやり方があり、大統領制では議員と同じように大統領を国民が選ぶ。大統領には大統領令を発する強い権限があり、簡単に辞めさせることはできず、辞めさせるためには弾劾裁判を行わなければならない。
一方、議員内閣制では、国会議員によって間接的に首相と内閣を選ぶ。首相を辞めさせるには内閣不信任決議案を提出するが、首相にはこれに対抗して解散権がある。
国会議員は、自分たちと志と思想を同じくする政党と呼ばれるグループを作り、国会で勢力争いをする。総理大臣は政党から選ばれることが多い。総理大臣を選ぶ党を与党、選べない党を野党と呼ぶ。強い党の方が選挙で勝てるため、与党は巨大化する。巨大与党は好き放題をし、独裁と変わらなくなる。
後日注記:実際はさまざまな国によって違いがあり、ドイツなどでは首相が実権を持つが、アメリカなどでは大統領が実権を持つ。また以前は日本も中選挙区制を採用しており、自民党の中でも派閥によって自民党同士で争うこともあった。今は小選挙区制になり、そのため「ほとんどの選挙区で自民党が勝つ」ようになっている。
後日注記:また、最近は政治家の世襲が目立つ。これでは天皇や国王が実権を持つのと何も変わらない。
国債は、国民に対する借金で、銀行が国債を買う。銀行の預金を元手に国民に対する巨額の借金をしている。
株式は、投資の方法の一つで、ビジネスモデルを持つ企業に元手となる資金を投資し、成長した後で配当金を得る仕組み。実際には株券を通じた投機に使われることが多く、株式を買った時よりも株価が上がって、低い時に買って高い時に売れば差額が儲かる。買った時よりも株価が下がって、高い時に買って低い時に売れば、損をする。誰かが利益をあげれば、必ず誰かが損失を被っている。
後日注記:株式はギャンブルに喩えられることが多いが、僕が見ると、むしろみんなの財産を一緒にして、賢い人間が奪っていくシステムに近いのではないかと思う。また、株式会社の方から見ると、利益が出れば株価が上がり、損失が出れば株価が下がる。これは「経済社会の単純化」に他ならない。そんなに社会が単純なわけがない。
地方自治体の法律は条例と呼ばれる。行政の公務は税金によって公務員が行う。彼らは選挙で選べないが、大臣や市長などによって指導される。公務員は税金で雇われ、そのために公務員試験が行われる。
実際は役所の公務員が行政を行い、政治家の答弁書などを作っているため、「大臣は役人の用意した答弁書を読んでいるだけ」だと言われる。役人主導の政治から政治主導の政治へと変えていくことが課題である。
後日注記:役所が大臣の答弁書を作っているせいで、大臣は権力を握るだけで何もしていない。民主主義の政治家は、野党が田舎のプロレスのようなことを言って、それに対して役人答弁の大臣が意味のないことを言う。それが今の国会であり、議会制民主主義として最初にヴォルテールやモンテスキューが目指したものから大きく遠ざかっている。
民主主義は、必ずしも自由な思想ではありません。なぜなら、民主主義は王国による身分社会の反省として、「階級的な平等」を目指して生まれた考え方だからです。
歴史上、かつての王国には、長い間平等がありませんでした。人々は階級やカースト、身分によって差別され、位によって隷属されていました。王侯貴族と市民と奴隷は階級によって決まっており、市民においても騎士、ブルジョワ(中産階級)、農民、そして奴隷などという階級付けがなされていました。
封建主義の王国において、権力者と貴族は家系や血によって選ばれた特別な特権階級でした。ブルジョワには自由があっても、農民あるいは農奴・小作人には自由が認められず、自らの畑で(農奴・小作人の場合は領主の畑で)農業をし、税や年貢を納めなければなりません。戦争で征服された国の国民は奴隷となり、自由市民のような市民の権利は与えられませんでした。それだけではなく、たとえば日本では、農民がなんらかの反抗をして武士の機嫌を損ねると、お手打ちや切り捨て御免になることすらあったのです。
このように、昔の封建社会の国家では、国民は階級によって、支配者と被支配者が完全に区別されており、平等という発想はありませんでした。
このような平等のない社会であっても、キリスト教のような一部の宗教は、神による平等を唱え、神を信じて善良に生きれば、どんな身分であっても、死後に天国に逝くことができると教えました。同じことは日本においては仏教などの寺が担いました。
このような「平等のない社会」というのは、今の民主主義の日本においては考えられないことかもしれません。ですが、明治時代よりも前の社会では、日本であっても同じように身分社会でした。士農工商がはっきりと分けられ、農民の子は農民になることが絶対でした。そして、このような平等のない社会というのは、世界においてはまだまだ多く見られる考え方であり、後進国だけではなくアメリカのような先進国であっても、人種差別や軍事的専制主義、あるいは奴隷制が復活しようとしています。
民主主義は、フランス革命によって生まれたとされますが、それ以前のイギリスの市民革命も民主主義の革命に含まれます。民主主義においては、まず、血筋によって王を選ぶという発想を否定します。王は、血筋によって選ばれるのではなく、国民投票すなわち選挙によって選ばれます。これにより、民衆の代表が大統領として選ばれます。革命期のフランスでは、王の考えていることと市民の暮らしている現実が離別し、市民は貧困と犯罪にあえいでいるのに、王は無能で何もしませんでした。それどころか、王は贅沢放題をし、マリー・アントワネットは「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言いました。
また、民主主義においては、王のするべきことを制限し、国家として万人に与えるべき権利を「憲法」として定めます。これにより、特権階級が好き放題に支配することを絶対に許しません。憲法は法律を決めるための法律と呼ばれるようなものであり、ドイツなどでは「基本法」とも呼ばれます。この憲法に、国民が全員有するとされる「権利」が記述され、国民はここに「平等」を手に入れることができます。
冷戦構造のために、西側諸国は「自由圏」、東側諸国は「共産圏」と呼ばれたため、現代の人々は、民主主義を自由な思想だと思っています。それは間違いではありませんが、民主主義はそもそも、平等を目指した思想です。
たとえば、福沢諭吉は、「学問のすゝめ」の冒頭において、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と書いています。これは人は生まれながらにして平等であり、貴賤や上下の差別はないということです。
この福沢諭吉のような、「人類はみな平等である」ということこそ、僕は民主主義の根幹を成す考え方であると思います。福沢諭吉は明治の人間であり、当時の日本は民主主義ではなく帝国主義だったかもしれませんが、当時は自由民権運動が盛んであり、板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず」などと言ったとされています。
民主主義において、人々は平等です。平等でありながらにして自由です。これを、僕は「自由と平等は両立しない、矛盾する」とは考えません。自由もまた、平等な権利のひとつであると考えるからです。
ソ連のような社会主義国家は、民主主義をさらに超えて、不自由に基づく平等な国家を築こうとしました。僕は、これを否定するつもりはありません。ですが、僕の本音を言えば、「自由も平等の一種」であると考えられると思います。
理想論だと言われるかもしれませんが、自由と平等は、どちらもあるのが理想です。あるいは、自由を平等な権利の一種であるとするならば、「不自由な平等よりも、自由な平等のほうがより平等である」と僕は考えます。
ソ連では、人々の自由をなくし、不自由な平等国家を目指しました。否定はしませんが、僕はこれは違うと思います。不自由な中で平等を行うと、自由意志も手段もなくなり、単にスターリンという独裁者に従属するだけになります。全員が自由市民になるのではなく、全員が独裁者の「平等な奴隷」になってしまいます。これは自由がありません。
僕は、ソ連だけではなく、それ以前のマルクスやレーニンの思想も、また違うと思います。マルクスは、生産手段を国有化することで、公共のものにするとしました。ですが、生産手段は自由化すべきです。生産手段を国有化してしまうと、人々は国家に従わなければ、生きる術すら失ってしまいます。これはむしろ、平等という意味においても「ひどい平等」であると言えます。
また、レーニンは、革命の意義を「プロレタリアート独裁」に求めました。プロレタリアートとは、無産階級の意味で、ブルジョワジーでも農民でもなく、さらに酷い階級のことを指します。これは言ってしまえば「奴隷や失業者による独裁」ということであり、革命としては正しくても、実際にやろうとすると大変なことになります。まさに、レーニンの思想はスターリンの登場を予言しています。
僕が考えるに、社会主義は確かに平等の思想ですが、劣悪で間違った思想だったと言わざるを得ません。民主主義には確かに格差の問題はあります。たとえば、最近は「超富裕層」という存在が巨大な富を独占し、一般的な労働者や貧困層に富が行き渡らなくなっています。かつての「資本家によって工場労働者が搾取される」というのと本質は同じですが、インターネットなどによって規模が桁違いに極めて先鋭化しています。それでも、僕は民主主義をやめるべきであるとは思いません。民主主義においても、正しい分配の政策をしていけば、問題は解決できると考えます。
このように、近代の民主主義とは、自由なだけではなく平等な思想です。このような民主主義を「アメリカに押し付けられた体制だ」と否定することは簡単ですが、それは現実を見ていません。「現実的であり、かつ平等な理想を実現するのは、現時点において民主主義のほかに存在しない」からです。民主主義こそが、今のところ、もっとも正しい「平等を実現する思想」なのです。
民主主義において、どのような政策を行ったとしても、その政策には「財源」、すなわちお金が必要です。
いくら、「お金は汚いものだ」と理想論を唱えたところで、「国家にはお金が必要である」という事実を覆すことはできません。
今の日本では、ものづくりや技術産業を、国家の屋台骨としています。たくさんの家電製品や自動車を、コストを抑えて安く作り、材料を安く輸入して製品を高い値段で輸出することで、国家の富を稼いでいます。
このような「国家にはお金が必要」という事実は、社会主義のさらなる汚点を見出します。社会主義は、金儲けや搾取そのものを否定します。国民全員に富が行き渡るように平等にし、国家の労働者は国営企業や国営工場・国営農場などで、平等なノルマによって働きます。
ソ連の経済で分かったことは、「働くモチベーションがなければ人は働かない」ということです。働いても、働かなくても、同じ給与しか得られないのであれば、「働く意味そのものがない」という状況になります。どんなに平等に富が分け与えられたとしても、働かないのであれば、十分なものが生産されません。そのため、人々は十分に生きるための物資を得ることができず、飢え死にしてしまいます。
これと比べて、民主主義は雇用契約に基づき、働かなければ会社をクビになりますし、有能でなければ平社員から出世することはできません。また、会社が競争をするため、会社の労働者はほかの会社に負けないように自分のできる限界まで働いてくれます。ソ連の労働者では、このような「勤勉に働く労働者」は考えられません。
また、ソ連の大きな間違いは、独裁者であるスターリンがあまりに悪い人間だった、ということに起因しています。ソ連で飢え死にが何百万人も発生したのは、スターリンの驚くべき「厳しい政策」があったからです。強制的に農作物を徴収するあまり、人々は生きるために必要な多くを失いました。そして、密告による逮捕型の反動体制により、歯向かうものは強制収容所送りになりました。ソ連以外の東欧諸国なども、多くがソ連の衛星国家でした。
このような反省のもと、今のロシアの指導者であるプーチンは、今までのソ連の愚劣な指導者と違い、「賢い指導者」をやっていますが、実質的に社会主義から資本主義・民主主義に転換したロシアでさえ、プーチンという強権的な指導者によって政治が行われていることは、社会主義者から見ても民主主義者から見ても、残念だと言えます。
このような、社会主義の恐ろしいほどの劣悪さと比べれば、日本や西側諸国のような民主主義ははるかに優れています。民主主義を「金儲けだから優れていない」と思っている人は、現実を見ていません。現に、競争と科学技術による発展、そして市場経済により、西側諸国は東側諸国よりも大幅に速いスピードで発展しています。
また、IT技術などを見ていると、ソ連には絶対に開発できないような、たとえばMicrosoftのWindowsのような革新的な製品が、民主主義においては開発することができています。
民主主義は、理想的にもバランスの取れた平等な体制であり、現実を見ても科学技術的に進歩した、働くモチベーションのある優れた体制なのです。
ここまで、民主主義の社会主義に対する優越した点を書きましたが、社会主義にもいい点はあります。
まず、景気の変動を考えなくていいということが言えます。社会主義は指導者による計画経済を採用しているため、景気の変動を考えなくていいのです。国家のすべてをひとりで管理するため、コントロールしやすくなります。
次に、平等であるということが言えます。社会主義においては、格差が生まれません。「わたしはほかの人よりもあなたを高く雇用します」という人がそもそも存在せず、全員が公務員として働きます。格差が生まれないだけではなく、失業者も生まれません。全員が就労にあやかることができます。
そして、弱者にやさしいということが言えます。社会主義は弱者にやさしいです。低所得者や貧乏人は、政府によって社会的な「保障」、すなわち再分配の恩恵にあやかることができます。
しかしながら、このような中で、一部のことについては民主主義においても実現可能です。
それが、税金に基づく社会保障です。人々から消費税、法人税、所得税のような税金を取り、その税金を公共サービスや弱者の生活保護のための社会保障にまわすことで、「お金儲けだけではカバーされることがない社会の領域」に対して支援をすることができます。
ただし、経済学において、このような「社会保障のための経済政策」は、否定する経済学者もいます。それは、「市場経済の原理を制限している」からです。市場経済は、それぞれの時と場で売り買いが成立する市場のことです。この市場経済の原理では、国民が必要となったものを国家が統制経済や計画経済で生産するのではなく、需要と供給に基づいて行います。言わば、「市場が成立するならばどこへでも生産者がやってくる」のです。これが、「国家は何もしなくても、自由な経済によって国民には必要なものが十分行き渡る」という、「魔法のお鍋」を作り出します。これこそが、「自由経済」です。
自由経済は、合理的かつそれぞれの「稼ぎたいというモチベーション」に基づいてどこまでも発展します。国家の富の裕福さだけを考えるならば、社会保障をせず、すべて市場経済に任せたほうが、全体のパイは大きくなります。パイが大きくなることで、低所得者への分配も自然になされていくことが期待できるため、「社会保障など必要ない」という経済学者は一定数存在します。要するに、「働かざるもの食うべからず」ということです。自分の力で稼ぐことができない人間は死ね、ということです。
ですが、それは正しいとは言えません。たとえば、会社はいつ倒産するかは分かりませんし、さまざまな事情で失業せざるを得なくなり、貧困に陥る人々は一定数存在します。そうした「社会の本筋から外れてしまった人」に対しても、最低限の生きる手段だけは社会主義と同じように与えようとすること、これが社会保障です。つまり、「もし失敗した時のためのセーフティネット」として生活保護やその他の社会保障が存在するのです。
社会保障は、税金によって行われます。弱者を助けるための財源がどこかから勝手にやってくるわけではなく、現役世代などの儲かっている人々から再分配を行います。これは「泥棒」であると言う人も居ますが、現実問題、弱者を救うためには、税金を使った再分配をしなければならないのです。
民主主義について言えることとして、「民主主義の選挙制度は本当に自由なのか」ということが言えます。
たしかに、みんなが選んだ政治家ですから、国民の代表です。代表にはきちんと政治経済の長として、国民を豊かにし、外国と付き合い、素晴らしい社会を作っていってもらわなければなりません。
ですが、選挙という制度は本当に優れた制度でしょうか。僕は、必ずしも選挙制度を採用する必要はないと思います。
今の時代、インターネットがあります。自分の大切な「清き一票」と言いますが、一票の重みは全国民の人口からすればとても軽いものです。全員が多数決で行った投票だからといって、自分たちの意見が示されたと本当に言えるでしょうか。
昔の日本社会のように、「社会全体が均一で、それぞれの意見が無かった」時は、これでも、みんなの意見を多数決で示すことができて、良かったでしょう。ですが、今の日本社会は分断と核家族化が進み、村のコミュニティの意見のようなものは多くの場合ありません。
これでは、自分たちの大切な問題を取り上げられずに選挙が行われて、自民党が大勝し、それぞれの問題は「自己責任」として、結局は家族や友人の間だけで考えなければならないのです。
僕は、今のインターネットの時代に、こうした選挙制度はそのうち崩壊して、別のインターネットを用いたやり方が一般的になっていくのではないかと思います。
昔の日本では、「金がすべて」であるといった時代がありました。金を儲ければなんでもできる、そうした風潮がありました。
ですが、これについても、僕は今の日本は「金や出世」だけが全てではなく、「個人のアイデンティティ」のようなものが大切にされていると思います。
特に、インターネットの時代、多くのものがパソコンとブロードバンドさえあれば無料で閲覧できる時代になりました。情報や知識だけではなく、コミュニケーションや恋愛まで、ネットで楽しめるようになったのです。
その結果、「金は生きるために最低限あれば良い」という人が増え、金に執着しない、自分だけで思索してこの世界の本質について考える、いわゆる「悟り世代」が生まれています。
そう、ゆとり世代はさとり世代になったのです。
確かに、会社に入ればプロのプログラマになって、IT技術を開発することはできますが、IT技術なんか誰も学びたくないのです。会社に入ると、金は入りますが、余裕やゆとりが何も無くなって、何もできなくなってしまいます。今の平成生まれのゆとり世代は、学校でゆとりのある教育を受けているために、会社のような「社畜環境」になじめず、社会から離脱してひきこもりになってしまうのです。
ですが、この先、日本が直面しているのは、それに逆行するかのような「人手不足」です。働く人間が団塊世代の大量退職などで減っていき、少ない人数でまわすために「ブラック労働」や「強制ノルマ」や「パワハラ」へと繋がっていきます。それが、そうした準ひきこもり・ニートの人々がさらに社会にでて働く意欲をそいでいくのです。
最近はそうした「大人のひきこもり」が後を絶たず、結婚どころか女性経験も無い人が増えています。これは、ネットにあるポルノ画像がいくらでも閲覧できることもありますが、逆に、最近の若い世代は、女にも興味がありません。そういうものが多すぎて、最初からセックスをする意味が無いのです。つまらない、エロいものを見てもエロくない、気持ち悪い、という人が後を絶ちません。
金を誰も欲しくない今の時代の若者は、社会主義も否定します。学歴のある若者が多く、社会主義の何が間違っているのかをきちんと知っているからです。ですが、資本主義のようなものを信じることもしません。彼らは政治や経済から距離を置いて、テレビゲームをします。まさにさとり世代で、日本社会は停滞し、「経済なんかどうでも良い」世代となるでしょう。
実際に政治家になるためには、「3つのバン」が必要であるとよく言われます。
この3つのバン(三バン)は、支援者や後援者を表す「地盤」、知名度や人気を表す「看板」、お金の入ったカバンを表す「鞄」の3つです。
そして、親が政治家で、自らも親の代を継いで政治家になろうとする世襲議員には、これらの三バンが最初からあるので、世襲議員はそうでない人が議員に立候補するよりもはるかに有利です。
歴代の有名政治家を見ても、麻生、安倍、石破、小渕、岸田、小泉、河野、福田、など、世襲議員ばかりです。
日本が「平等な民主主義国家」であると言っているのは、社会制度の側面からだけであり、実際は政治家は世襲議員ばかりで、「自民党世襲政治家王国」のようになっているのです。
([図解]池上彰の 政治のニュースが面白いほどわかる本 (中経の文庫)を参考にして執筆しました。)
一部では、世襲議員が国を滅ぼすといったことが言われている(偏った記事かもしれないので参考まで)。
また、自民党を悪いと言いますが、本当に悪いのはマニフェストを守らなかった旧民主党です。
仕方ありません。自民党にやらせるしかないのです。
共産党がもし政権をとったら、昔は、独裁者の軍事主義国家になったでしょう。ですが、今は違います。共産党が、名前を変えて、マルクス・レーニン主義の党をやめて、まともな政党になり、それが自民党と対峙する、それが理想ではないかと思います。
ただ、今の現状から言って、共産党が勝つことは現実的ではないでしょう。僕は立憲民主党を応援していますが、きっとまたマニフェストは守らないと思います。
そもそも、権力者とは王のことを言いますが、王は自由な社会の中で一番強い「王者」のことを言う言葉です。
王は一番強く、誰にも負けず、たくさんの兵隊を従えて偉そうにふんぞり返る、まさに、王とはそういう仕事です。
ですから、政治家や役人は、必ず偉そうにふんぞり返るようになります。それは、王をやらされているからです。
結果、馬鹿になって失言するか、戦争をしたくなって戦争論者にだまされ、戦争に突き進むのです。これは王国でも民主主義でも社会主義でも変わりません。権力は人を馬鹿にするのです。
民主主義は必ず勝利します。必ず、民主主義は権威主義に打ち勝ちます。
それは、民主主義が正しい平等の思想だからです。
権威主義とは、帝国や社会主義のように、ひとりの権威が絶対的となり、ほかすべてが支配される主義のことです。
ソ連では、ひとりのスターリンという独裁者が支配し、ほかすべてはその独裁に従いました。これは単純な平等なモデルでしたが、成功しませんでした。
単純な平等のモデルが、必ずしも成功するとは限りません。
民主主義は、「みんなで選ぶ」ということを重要視します。この「みんなで選ぶ」ということだけを平等にする思想が民主主義だと言ってもいいでしょう。
みんなで選ぶということを考えるには、「誰を選ぶのか」以上に、「誰によって選ばれているのか」が重要です。
民主主義の首相や大統領は、国民によって選ばれています。国民によって選ばれるということは、国民の意志を体現する首相ということであり、すなわち「代表」であるということです。
このような民主主義は、権威主義であるひとりの独裁者に「勝利」します。これはすなわち、「独裁者に対する国民の勝利」です。
わたしたちが、なぜ、民主主義を好むのか、それはわたしたちは国民であり、国民が勝利するということ、すなわち「誰かに押し付けられた理想を行うのではなく、国民の代表が政治を行う」ということが民主主義だからです。
わたしたちは国民であり、国民の代表として国民が選んだのが民主主義の大統領であり、首相です。これが民主主義が「平等」である理由です。権威主義に民主主義が勝つ理由は、民主主義が正しい「みんなの国」だからです。社会主義者はソ連を「みんなの国」であると主張しますが、それは嘘です。みんなで選挙で選んだ国民の代表こそ、平等なのです。
2020-04-16に関連する内容があります。
世界史(近世・近代)やイギリスやフランス史やフランスの革命を参照のこと。
民主主義の社会制度・思想については、国会・法律・行政や軍事と左翼・右翼や株式市場やマスコミを参照のこと。
経済学についてはミクロ・マクロ経済学やマルクス経済学を参照のこと。