社会・制度の世界観(1.考え方)です。
まず、この世界のことをゼロから考えること。
どんな時自由で、どんな時自由でないか、どうすれば出来て、どうすれば出来ないか、どうすれば変えられるか、などを、「自由な社会にするためにはどうすれば良いか」と「問題を解決し、課題を実現するために何をどうすれば良いか」と言う視点で考える。
それぞれの、さまざまな人や立場の視点に立って、「現実にはどう実現すればどうなるか」を考える。
また、実地的に考えると同時に、実践する。
僕は昔、ネットで議論したり、オープンソースのビジネスを考えたり、会社の経営者と良く似た同じことをやったりして経験から分かっていた。
自分で同じことを考えながら、その問題を終わったことにせず、自分の中で「再考」すること。
そして、社会や歴史のようなことも、ネットなどで文章を読んだり、会話したりする経験から、「社会の変化を知る」ことで知ることが出来る。
この世界で何が出来るか、何をすべきか、どうなるか、そのために必要なことは何かを考えること、それが「知性」だ。
洞察力を持って、場合と状況を想定し、自由な経験から世界の可能性と理由を分析し、社会原理を解明せよ。
後日注記:つまり、「全ての可能性をもう一度考え直す」ということである。誰もが言っていることをうのみにせず、自分の力でもう一度「再考」することで、この世界を全て知ることができる。
2018-02-12より。
日本社会の問題は、みんな、何も言えなくなっている。自由がない。批判をしても、誰も救ってくれない。核家族化と社会全体の未熟さは、そのことをさらに高めている。誰も分かってくれない。僕は、本当の自由によって、アイデンティティを取り戻すことが出来ると信じる。ありのまま自分らしく生きよう。
昔は、そういう、経験的な可能性から、社会を可能性で知ることで、マスターのようになりながら、独自の経験論を作って、独自の経済学を生み出していた。そういうところが、賢い人間だった。そのために、IT業界のニュースなどを見て、またネットの生の声を聞いて、実例を知っていた。
救うためには、愛が必要である。それも、ただ愛するだけではなく、聡明な人々の解決が出来る愛が必要だ。そのためには、自分が愛されたいとか、そういうことはどうでも良い。救われることを自ら拒否している人間に、何が間違っていてどうすれば良いのかを教え、罪や義務は無いのだと教えるべきだ。
相手が辛く苦しい中にあったとしても、立場を変えれば自分もその人間の状況にはなり得る。自分のことのように、人々のことを愛する、慈悲の心がなければならない。それは、決して受け入れることだけではない。それぞれみんなの「情動を愛すること」が必要なのだ。そこから悟りは生まれる。
行き着くのは二つのポイントだ。まず、「誰のせいでもない」ということ。そして、「救ってくれる人には自らなる」ということだ。問題を作ったのは誰のせいでもない。救えるのは、張本人である自分だけだ。
2018-03-10より。
数学的に考えるためには、一度知性を馬鹿にする必要がある。全ては、再利用と実証の考え方の中での、メタ構造(EU)、独立性(独立企業)、初期投資(投資とインフラの構築)、自由(ルール)、そして教育と歴史の改善と集積だ。在り方という意味での実験と要素の特定が方法(物理的考え方)である。
自然な積み重ねと決定の考え方、人間性によるいじめなどの問題の解決が、時に、環境全てを包括する「経験理論数学」を作り出す。そこでは、全ての数学的理論は経験に基づく。
人生とは、この世界に対する愛の渇望である。
人々と触れ合うことで、精神は浄化される。
機械(プログラミング)と絵(デザイン)の共通項とは、創造性と友愛における積み重ねと集合のあり方である。
集合知を知ることで、初めて世界を変えられる。自分一人が変えるだけではなく、人々全員が変えやすくする「メタの環境理論」がそこにある。それは新しい創造性と教育のあり方である。
環境を創造せよ。
人々の影響力が生まれやすくする、環境の構築と創造に新しい自由はある。
意識は、環境に支配される。だが、本来は自由であるべきものだ。環境の経験を知ることで、意識は環境からどんどん自由になっていく。だが、それは一つ間違えれば、すぐに狂って環境に適応できなくなる。
本当は、環境の全てを守ること、維持することも、破壊し、創造することと同時に必要であり、重要である。
大切なのは、命令することではなく、命令に応答できる体制を作ることだ。自分は命令ばかりして、制度を破壊している。制度のための制度を作っても意味はない。昔から、僕は命令が嫌いなのに、命令のようなことばかり言っている。
むしろ、命令と言うよりも、コミュニケーションは相手の助言を聞いて双方向にやりとりをする、アドバイスや助言や、あるいは対話のようなものであるべきだと僕は思う。
相手の何が間違っていて、どう考えれば正しいのか、対話の中で洞察することのできる、推測力がなければ、哲学を分かることは出来ない。そのためには、物理的考え方を知る必要がある。また、人の正しさや社会の独立性の自由や創造性を信じる必要がある。
正しさとは、「正しいことをする方法を知っていた時、人は正しいことをする」とソクラテスのような人間が言っていることと同じことだ。
それは、真善美に対する真理である。
人は、その人の見ている世界の中では、誰もが正しいことをしている。そして、その人が心で感じている感情は、この世界の全てを知った上で感じる感情と変わらない。感情の中に、全世界と全ての存在を知った神は、きちんと答えを応えている。
この世界が、制度や発明の全く存在しない「自然状態」だったとして、その中でどのように制度や機械が作られ、変化していくか、という、「自然状態での制度と発明の発見と創造」を知りなさい。自然な発明と起源を知ることで、自分の中でこの世界の「全ての変転と様相」を知ることができる。
また、人間の関係性は、「人々全員とふれあいながら、自分の実体験としてマスターに至るまで、あらゆる関係と立場を超越し、この世界にその社会が最初から生み出されるような」考え方と経験をしなさい。
さまざまな環境と感情を経験しなさい。泣くほどに悲しい体験や、わくわくする体験、失うことが怖い体験、待ち望んでいた願いが叶う体験、会えなかった人に会える体験、そして逃げ出したい中でも耐え続ける体験をしなさい。人々とネットで触れ合いながら、創造性を目指し、自分で人生を切り開きなさい。
哀しさ、腹立たしさ、怖さ、あらゆる全ての経験の総和が、「愛」を創り出すだろう。この世界に対して、さまざまな経験をするその答えが、力となって新しい人生と未来を創造する。愛は未来を形作る感情だ。社会や環境を知って、芸術、科学、宗教、哲学、あらゆる自分独自の思想を作りなさい。
全ての経験は、あらゆる人々との関わり合いであり、もう二度と体験できなくても、永遠に残り続ける、そうした、「社会と自分の環境を繋ぎ直すもの」であると知りなさい。
社会を知る中で、あなたは成長し、世界の全てを実体験で知り、人々の知り得ない領域へと向かい、二度と体験できない未知の体験を、失いながら永遠に遺し続け、自らの手で創り出すようになるだろう。
ただ、体験を感情で経験するだけでは十分ではない。その感情がどこから来るのか、経験的に解明しなさい。それと理性批判の考え方を組み合わせることで、あなたは宇宙のマスターになれる。同時に、社会の経験をしなさい。さまざまな会社組織や社会環境を創造し、支配できるようになりなさい。
社会についても、社会の文化や組織や制度がどこから来るのか、根源的に考えなさい。
環境から自由になると同時に、環境を解明しなさい。環境の全てを広がりと深さを持って経験し、段階的に人生の階段を上っていきなさい。
あとは、自由な社会構造のようなものを、具体的に成り立たせて作っていた。還元的な変化と権利のようなことを考える。ルールを自らで作り、それに自ら従うとか、それぞれを自由にした上で王が統治するとか、そういう、「還元的なシステム」のような変化の可能性を考えていた。社会主義を自由にした。
心理学的な、心の中身のようなことを、行動や行為によって作用的に世界をどのように変えるか、という意味で解明していた。心の要素や深層心理を解明し、心のどのような部品がどのように見え、捉えられるのかを考えていた。原因はどこにあるのか、を、思考を辿って考えることで全員分、分かっていた。
社会は、これ以上自由にならなくて良いし、独立もしなくて良い。それぞれが自分の努力と報いを実感できるようにして、「この世界に自分が居るという実感」が出来るようにしたい。僕によって世界は意味がなくなっているから、それを何とかして治したい。僕はこの世界の全員を治す人間だ。
2018-03-25より。
自分は、この世界を自由な社会にする。ありのまま生きられて、自分らしさを労働から感じられるような、そういう、「アイデンティティ憲法型」の社会にする。
今の社会は、豊かになること、職にありつけること、外国に勝つことは目指しているが、本当に必要な「アイデンティティを感じられる社会」は目指していない。
たとえば、事務の仕事でも、介護の仕事でも、誰にでも出来ることをみんなと同じようにやることになっていて、個性とか、自分らしさとか、自己実現とか、そういうことは全く考慮されていない。ただ使い捨てにされて、自己責任を押し付けて、何も考えられなくして、みんなと同じように働き、代わりなどいくらでも居る中で厳しい要求をつきつけてくる、そうした「無個性の社会」になっている。
僕は、これを変える。そうした労働をやることも必要だが、同時に、空き時間かあるいは完全にスケジュールされた中でも良い、自分の出来ることを自分のやりたいようにやる、そうした労働を同時に与える。たとえば、週に三日は介護の仕事をするなら、あとの二日はグーグルやマイクロソフトのような場所で、特別な労働や生産活動を出来るようにする。たとえば、オープンソースに貢献するとか、デザインをするとか、子供たちに教えるとか、作品を展示するとか、そういうことが、そうではない無個性な仕事と同時に出来るようにする。
マルクスのように、階層の無い平等な社会にしたからといって、結果的にその社会は強制ノルマの労働社会になり、自由な活動は何も出来なくなる。国家に反抗することが出来ず、また生活も最低限の生活の中で製品は十分に生産されなくなる。
本当に必要なのは、アイデンティティとリアリティが同時に感じられる、「個性を認めてくれる社会」だと僕は思う。自由主義は、豊かになって職を与えることは出来ても、社会的幸福を与えることができていない。豊かさや資本力ではなく、アイデンティティとリアリティの両立、ということに、真の日本の解放はあると、僕は分かっている。
ただ、そのためには、ただ理想論を唱えるだけでは意味がない。経験と理性が必要だ。特に、社会のことを冷静に変えて、要らないものはずばっと切り捨てて棄てていく、そうした姿勢も必要だし、MITメディアラボの日本人所長のように、「たくさんの仕事の経験をした上で優れた理性」が絶対に必要になる。そうでなければ、何がアイデンティティを与え、何がアイデンティティを奪うのか、国民にも首相にも分からないだろう。そこで、僕はぴったりの存在だ。全てのことが総合的に分かる、知識と経験を持っているからだ。
よって、アメリカを平等にするのであれば、「公平さ」という名前の「機会の平等」だけではなく、「アイデンティティとリアリティの両立」という信念が必要になってくる。それが、アメリカと西側諸国を侵食する、「新しい人種差別」を変えていくだろう。それが、僕の言う、アメリカの平等だ。
指導者には、経済学を分かっている人間よりも、社会のことを作り、創造できるほどの多様で創造的な経験を積んだ人間を当てる。そして、社会的には、家庭を子供の家庭から大人の家庭にしていく。子供を育てる能力のない女が子供を育てている状況を改め、きちんと成熟した全てを総じて知っている人間が子供に教え育てていくようにしていく。経験や能力のない教師に経験や能力を与えていく。社会のことを基盤から賢くして行き、経済学のような「魔法のお鍋のような繁栄」など存在しないことを突き詰めていく。その上で、社会全体を、自然に分かり、自然に気付き、自然に信念を変えていくように導く。それは、僕にしかできない仕事だと思う。
昔は、自由な経験、自由な社会、だと言っていたが、それは正しくない。みんなで作れる社会、といっても、間違っている。多様性や創造性も、要らない。本当に必要なのは、アイデンティティとリアリティの両立と実現だ。それが、たとえば、「それだけでは実現できない」というなら、僕もその通りだと言う。だが、たとえば、「A級クラスの仕事」というのを作って、誰もが何らかの形でA級クラスの仕事に参加できるようにすればどうだろうか?それは、東大の教授からSONYの技術者まで、「誰もが入りたいと思う仕事」は全て網羅する。その中から、自分が選んで、「この条件なら自分でもやってみたい」と思える仕事に、週のうち二日程度はかかわれるようにする。だが、A級だからといって、金が余っているわけでもない。学習コストも必要だし、給与も満足に与えられるわけでもない。だから、オープンソースを参考にして、「ほぼボランティアのような賃金」によってそれを実現しよう。Debianのメンテナになるように、ボランティアで東大の助手になる。それが、きっとアイデンティティとリアリティの両立だと僕は思うのである。もちろん、だからといって生活が困窮するようでは良くない。自由な労働の選択も出来るべきだ。だが、それはきっと僕一人だけでは実現できない。協力者が必要だと、僕は思う。
昔は、あなたには自由があるとか、意見を聞くべきだとか、そういう子供のような純粋な理性はあったが、何かの努力をしたことがなかった。今、努力した上で僕が思うのは、本当は、そんなに成果がでなくても、自分なりに自分のことが出来れば、それでアイデンティティは満たされるということだ。たとえば、大学の研究をしただけでも、あるいはデザイナーの学校に行っただけでも、ある程度自分なりに出来れば、人間は幸福になる。だから、きっと仕事を与えるだけではなく、ある程度の幸福が得られるぐらい、リアリティのあるアイデンティティを与えてやれば、人は幸福になる。それが、最近の僕が学んだことだと思う。
2020-01-01より。
僕は、もうこの世界を平等に支配する。
自由は無くなる。自由など、誰も望んでいないからである。
僕はひとりの指導者となって、誰かが不当に利益を得て、誰かに損失や負担が過剰にかかる、今の日本社会を見直す。
ここでは、「全ての人がかけがえのない人」であり、「普通でない人などひとりもいない」。そして、それぞれが自分らしく生きられるように、社会や環境そのものの在り方を見直す。
僕は平等に支配する。思えば、人々が自由が好きになるように騙しているのは僕である。そうした僕の愚かな過ちを僕は償い、この世界を平等にする。
平等の下では、もっとも賢いものが、ひとりでこの国を支配する。同時に、独裁者のようにひとりだけが決めるのではなく、みんなの意見を取り入れて、それぞれの共同体においては全ての人の意見を参考にし、王だけが特権的な力を持つのではなく、それぞれの平等な権利の行使が「関わり合う」ことでこの国を成り立たせる。これが、僕の作りたかった社会だ。
僕は欅坂46のことも愛している。決して自分たちだけのひとりよがりな平等にはならない。自分らしく生きられる社会を僕は作り出す。これは政治活動ではなく、作家活動である。
平等かつ自由な権利が社会的に関わり合うことで、この世界の仕組みは成り立つ。そう、僕はそうした社会観の下で、理想の国を作っていた。今、その国を実際に実現しよう。僕は最後に平等な王となって、この世界全てを新しい世界へと導いていく。もう、自由はここで終わりである。2020年、日本は平等になる。
また、僕は昔から「ありえない社会制度」を考案するのが得意である。
たとえば、都市を地下に作った上で、フロアごとに店舗を置く。上手く作ることで、温暖化の進んだ未来世界であっても、地下の巨大空間をクーラーで冷やすことができる。地下フロアはとても大量に作り、安く貸し出すことで、どんな店舗でも簡単に設置できる。住居や家屋もほとんど無料で与える。余ったフロアは畑・牧場と工場に使う。
また、政治家のローテーション制度。政治家が首相になれるのは2年程度にして、ローテーションでひとりひとり首相につく。
また、政治家の資格試験。政治家になるために、選挙ではなく資格試験を行う。この試験は「この科目を覚えなさい」という点数制度ではなく、どんな経験をどれだけしているかという「称号」のようなものにし、たとえば海外青年協力隊に参加したとか、弁護士資格を持っているとか、有名なソフトウェアをいくつ作ったとか、いったさまざまな称号をどれだけ持っているかで政治家に立候補できるかどうかが決まる。
そんな風に、昔の僕は色んな社会制度を、「自分で同じ発想をする」ことで考え、その内容を文章に書いていた。
場合や状況によって作られる構造の元になる基盤・メタ構造を作りなさい。人生や信念の前提となる世界モデルから、自由な行動の原則を導きなさい。人は、一人では生きていけないし、一人だけで全てを見ることはできない。だからこそ、自由が必要であり、可能性と自由がどのような時に生まれるのかを知ることで、潜在的な可能性を知り尽くすことができる。照らし合わせて、多角的に、多面的に考えなさい。可能性を向上させることから、環境への適応が見えてくる。人々を救いなさい。世界の全てを変え、なおも未来の希望を望みなさい。世界と社会の変化から歴史を知りなさい。文明を自ら作ることも可能であると確信した先に、狂いながらも偉大な理性を持つ王の道が生まれるだろう。世界は常に作り出されている。影響力の風上から、この世界全てを滅ぼし、その上で支配しなさい。
実地的に社会を知り、全ての世界を人々の営みから知り、変えられるようになった後に、世界全ての原理である「価値観の根差す場所」が見えてくる。そしてそれは現実世界の「リアリティから生まれるアイデンティティ」である。わたしたちは必ずこの世界を変える。20年続いたなら、あと20年続けるのは容易い。最後のヒーローは、20年後に必ず訪れる。そして、その時全ては終わる。
2020-01-02より。
僕が総理大臣になったら、工場のような「単純作業しかしない労働」を改め、運動やエクササイズをするようにする。
そもそも、経済は分担から始まった。農業をする人は農業しかせず、ものを作る人はそれだけをし、物々交換でさまざまなことを得られる。
これは、同じ労働しかしなくても、さまざまなものが手に入る、という意味で、画期的で楽だった。
だが、産業革命以降、こうした労働の分担は、逆に工場のような「つまらない単純作業しかしない仕事」を作り出した。
工場では、8時間の間ひたすらねじを回したり、魚の加工のような仕事をしている。
しかしながら、本来人間というのは、狩りをするなど体を動かしてさまざまなことをする生き物である。
よって、僕は工場の労働についても、運動やエクササイズをするなど、さまざまな「レクリエーション」を取り入れることで、工場の労働をもっと楽にする。
たとえば、スポーツをしたり、料理をしたり、楽器の演奏をしたりすることで、心が楽になり、労働意欲が増し、健康になる。いつまでもパソコンの作業をしているオフィスワーカーなどにも有効である。
昔は、社会の中で社会を変え、自由に生きることのできる自由を考えていた。
社会において、人は会社を起業して作り、会社に参加し、出世する。
人は労働し、生産し、価値やサービスを恒常的に提供し、人々を雇用して労働者が生活できるようにする。
人は社会や会社から必要とされ、会社や事業のことを決定する。
人は消費し、所有し、金銭のやり取りを行い、社会は豊かになり、便利になり、発展する。
そして、そのために、プロセスを改善し、手段と発想から実現方法を考え、社会の制度をよりよくし、代表である政治家を選挙し、民主主義的に法律を決める。政治家が法律を決め、制度を変える。
そうした中で、人は勉強し、学習し、経験し、考える。
そうした社会全体の自由の中で、いかにして世界を変えるのか、いかにしてより自由に生きることができるようにするのか、いかに独立や進歩をしやすくするのか、ということを僕は記述していた。
また、環境を想定し、状況を想定し、人々にダイレクトに語りかけながら、環境における心理学的なプロセスと改善方法を書いていた。
たとえば、努力に応じた報酬が得られやすくしたり、自分の好きなことができる生き方ができるようにする。また、社会の独立性を高め、完全に自由ではなくても、それぞれの個別の環境が独立しやすくする。制度を変えやすくし、国会議員を別の形で選ぶ。
また、ノルマを自由選択型にし、いつでも自由な労働ができるようにする。品質保証制度を作り、安くするだけではなく高品質な製品を作って、社会をもっと別の形で発展させる。
ルールを決めることで、社会は創造できる。ただ自由放任なルールを決めるだけではなく、この世界全てを規定し直すようなルールをみんなで決める。そして、みんなの手でそのルールを変えていく。価値観とアイデンティティが形成されるように、みんなでひとつのリアリティを築く。リアリティを知ることから、社会でひとつのアイデンティティのある社会を作る。日本人はさらに未来へと向かう。
最後に、「それをそうしたらどうなるか」とか、「それがいつ何になるか」ということをよく考えなさい。想像力を使って、思い出して、他人の視点から考えれば、必ずここまでたどり着ける。それで、僕の言うことも終わりである。
社会的な自由論「人は自由において行動する」と心の自由論「不安になるのは自由がないため」から、この世界全てを解明しなさい。原理原則を解明するために、実験し、証明し、仮説を立て、説明し、予測し、想定し、分析し、洞察しなさい。全てを解明するために、人々の社会を実地的に知り、人々の意見を参考にし、その裏側にある人々の生活までを知って、社会を「作り直すかのように」本当の社会の実像を知りなさい。発想と認識を吸収し、社会や心や経験など全てのことに対して「裏側に何があるのか」を考え、説明し、知りなさい。
裏側を考え、相対的にそれぞれの違いと共通点を考えることから、精神と心の現象学が生まれ、ありのままの世界を受け入れて生きる「精神論」へと繋がっていく。これが、哲学である。
また、2ちゃんねるのような裏社会を知ることで、自分の今まで思っていたこととは別の、「本当のこの社会」を知ることができる。裏にある本当の社会を知ることで、この世界の本当の意味が分かる。おすすめはしないが、僕と同じ人生を生きたいなら、そうした経験を乗り越えた上で、世界と戦わなければならないだろう。
2020-01-03より。
ある環境の中では共通認識としてみんなが当たり前だと思っていたり、狭い世界では自分もみんなもそれが普通で当然のことだと思っていたことが、環境の外に出て、もっと広い世界に旅立つと、違っていることがある。
昔の僕は、不登校を経験して、掲示板とLinuxの世界を知って、そういうことが分かった。
自分の限界を決めていたのは自分であり、人々が悩み苦しんでいるのは、自分で自分の世界を狭くしているからであり、他の世界では自分の思っていたことが違っている、ということを知ることで、もっと別の可能性と、自分の運命を自分で決められる「自己啓発」の境地に達する。
また、環境の違いというのは、絶対的なものではなく、相対的なものである。たとえば、学校でこんなことがあってへこたれていたとして、それを剣道部のみんなと出会った時、ふてぶてしい顔をしていると、「なんでこいつこんなに怒っているのだろう」と思われて、けげんな顔をされる。このように、ある環境でこんなことがあったから、それが別の環境に移って、別の環境では「自然かつ必然的に」そのようなみんなの視点で見られてしまう。
「それぞれの時間と空間は相対的であり、環境への適応と人生はそれぞれの時間軸の中にある」というのが、この「環境によって見られ方が変わる」という哲学である。
「環境」という言葉が悪いなら、新しい言葉を作ろう。自分の中の「自己内環境」というのがあったとして、この自己内環境は人それぞれ違う。人は誰もが自己内環境に従って生きているが、「現実環境」の中でさまざまな環境を移り変わったり、別の自己内環境や現実環境を持つ人々と接することで、「自己内環境に帰依する違和感と勘違い」がそこに生まれる。それが、「すれ違い」である。
そのように考えれば、この世界の全てはすっきりと理解できる。同時に、この社会がどのような視点で営みを生きているのかが分かる。全ての歴史は自然かつ必然であり、誰かが不当に支配したわけでも、強制的に導いたわけでもない。あるべきこと、あるはずだったことの全てが起きた結果、それが地球という星の歴史なのである。
そもそも、いじめがなぜ起きるのかというと、そういう自己内環境と現実環境に問題がある。自分があまりにおかしく見えるのが、本人が気づいていないからいじめられている。本当は、ただ馬鹿にされているだけで、そんなに深刻に考えなくて良い。自分の力で新しい世界に旅立てば、世界の新しい可能性も分かるし、自分でこの世界を変えられるようになるからである。
自分の知った「新しい体験」から、この世界の全てを思い出すことで分かってしまえば、この宇宙の真理はそれで終わりである。この宇宙に他に真理はひとつも存在しない。あるとしたら、「環境や束縛や限界から自由になること」と言える。「世界の限界」というものがここにあり、世界の限界を超えていくことで、この世界全ての限界を超えられる。そこにあるのは、ウィトゲンシュタインやニーチェのような「超人」の哲学である。だが、僕が思うに、そんな異常者にならない方が良い。そういう異常者ばかり分かっていると、今度は人間の「ふつう」が分からなくなる。ふつうが分からなくなった人間には、どんな言葉をかけても治らない。そういう人間は、最後までこの世界と戦うようになる。
また、昔の自分は、「自由になる」ということから分かっていた。これには、以下の意味がある。
1.まず、能力的な自由。これは教育やリベラルアーツや権力への意志に繋がる考え方で、「環境を自由自在に変えられるようになる」とか、「心理学的に人々の心の可能性を変えられる」という意味がある。
2.次に、束縛から解放される自由。支配が無くなり、社会が自由になることで、社会はそれぞれの意志によるコントロールを取り戻す。これは所有の自由や選択の自由、職業選択の自由だけではなく、世間一般、あらゆる束縛や支配から自由になって解放されることを指す。
3.最後に、環境の自由。「自らが自由にできるのであれば、反抗せず自分たちの自由に社会を築く」という「人間の本性的な自由」から、「環境が所属する人間たちによってコントロールされ、自由を許される」という意味を持っている。
4.もうひとつあるとしたら、「歴史全体の自由」である。歴史のさまざまな場面で生まれた全ての成果やプロセスは、全てが自然であると同時に、全てが「その人々が考える上では正しかった」ということであり、同時に、「もし正しくなかったとしたら、今の僕たちの生活や現代政府の政策も間違っている」、すなわち「正しいことなど何もないが、その場面や状況で正しかったことは正しい」ということである。
これらの自由から導かれる答え、それは人類愛である。「みんな全員、正しいことをやっている」中で、「人々が不安に思うのは、誰からも分かってもらえないから」であり、「誰かが分かってあげる必要がある」のであり、「誰かに愛され、真実と真理を教えてもらえれば、地球の全ての問題は矛盾なく解決する」のである。まさにインドが言うように、「真理はおのずと勝利する」。どんなに自分たちの側が劣勢になっても、真理を唱え続ければ必ず勝てる。
これ以外にも、さまざまな自由があり、その多くは「経験と能力から形作られる自我や人格の形成の問題」である。人々の分かっていないことを自分だけが分かる体験は、それ即ち「成長」と「自我の発達」を生み出す。これが「意識の変転」に繋がって、「リアリティに基づくアイデンティティの形成」となり、「自分の中に正しくアイデンティティが形成される」。この上で、「このアイデンティティは人類全ての存在にとって共通の普遍的な価値観」となり、そこから、「冷静かつ速断を避けた上での正しい考え方」が生まれ、同時に、「全てのことはリベラルな教育科目のように、自らの義務ではなく権利として、自由の中で自在にできるようになる」。そして、「社会は自らのインターネットの経験から変えられるようになる」のである。
また、さらに言えることがあったとしたら、「社会の形成の過程を見なさい」ということ。ネットでも学校でも会社でも良いから、自分の好きなことが言えて、みんなと対等な立場で参加し、意見し、議論することのできる社会を持つこと。その社会に根差した愛を知った上で、今度は自分でこの世界を変えようと努力すること。心理学的な経験や成長も、そうした「自由な体験」の中から生まれていく。全てのことを知るためには、自分で創造する必要もあるが、この世界に既にあるものから知っていくのも悪くない。ネットにはWindowsの他オープンソースなどさまざまな技術がある。
こうした人間は、最近たくさん生まれていて、多くが途中で過ちを犯して地獄になるが、僕は最後にそうした地獄を浄化する。地獄そのものを受け入れようとしなさい。そもそも、人間に正常な体験などひとつもない。全てが異常な体験に根差して生きるのが人間の性(さが)である。性には逆らえない。だから、どんなに異常な学習をしても、それを決して自分の力で治そうとしないこと。なぜなら、治すことに囚われる体験のことを、人は異常者と呼ぶからである。それで、今日のところは終わりにしておこう。
子供たちを愛するのであれば、決して自分の方が子供たちよりも賢いのだと思わないこと。子供たちは馬鹿ではない。大人はすぐに馬鹿になる。子供を大人と同じように、自分の考えや生き方を強制しないこと。子供には子供の考え方や生き方がある。だからといって、子供たちのSOSを見逃さないこと。子供たちに危険が迫っていれば、すぐに察知してそれを排除すること。そのようにしなければ、子供は賢い大人にならない。子供が成功を望むなら、成功させてやれば良いし、子供が失敗の克服や挑戦を望むならそうしてやれば良い。最初から大人が「チャレンジしなさい」と言うと、子供は反発する。そのように育てるから、子供には反抗期が生まれるのである。
ただし、もうひとつ言っておくと、子供に自主性を与えれば良いと言うのではない。くどいようだが、子供が間違った自主性を選ぼうとしている時は、それを制止してやらなければいけない。だが、子供が悪くない自主性を持っているのであれば、それを親の権限で失わさせない方が良いかもしれない。だが、そもそも、あなたの教育方針が自由であれ、平等であれ、それを僕が干渉する立場にはない。そもそも、僕は助言やアドバイスをするのが好きだが、その結果人々を支配することもあり、その支配によって整然とした社会になって、自らの夢も叶った経緯がある。子供にアドバイスや助言が必要であれば、あなたも積極的にアドバイスや助言をしなければならない。そう、それも親の責任である。それがきっと、新しい指導者を生み出し、日本を正常にしてくれる。何でもかんでも子供の言うとおりやっていれば、女の子は馬鹿な不良のギャルに、男の子はやくざのニートになってしまうだろう。
僕の人生の大きなテーマが「自主性」である。自主性をどこまで与えるか、というのは僕の長年の疑問だった。だが、絶対権力者にならない程度の指導者が良いように思う。神のようになってしまうと、逆に責任と恐怖から何もできなくなってしまう。ただし、僕は子供にどの程度の自主性を与えるか、ということで言えば、「好きなことをさせるべき」であると同時に、「辛くなってもやり続ける」ことが大切であると思う。ただし、それはひとつの大きな前提があり、それは「ある程度自分できちんと分かるぐらいの自分なりの体験」をさせることで、「自分できちんと判断できる判断力が形成される」ということが言える。そのような教育を行えば、どんなに科目が少なくても、自分なりに自分で想像力と経験を作って歩んでいける。僕はそうした発想が好きである。
また、昔の自分は、「環境の変化を許す」という発想が多かった。環境の変化を許すことで、世界が変わるようにしたかった。だが、僕はあえて言おう。「これ以上、変化する必要はない」。これ以上、この世界はもう何一つ変化しなくて良い。安定の中で、人々がこの世界を見つめ直すべきである。そのために、僕は変化を停止させ、その上で楽と余裕を与える。みんな、自由になって、自分の好きなことの方に時間的余裕を費やすことができるようになる。そして、これで僕の「終末の主催者」はほとんど終わりである。あとは、まだまだ続く。これ以降、さまざまなもっと高い世界がある。そこに行くためには、僕だけの力では不十分である。みんなが居なければ、新しい世界は成り立たない。
2020-01-05より。
僕はきちんと、この世界を正常に治すことを、そろそろしないといけない。なぜなら、僕がしなければ他の人間にできない、という「責任」を僕は築いてしまった。この人間がするしかない。だから、この人間はナンバーワンではなくても、それを超えるオンリーワンなのである。
そういうわけで、何から治そうか。結構、日本を見ていると、普通見ている範囲においては、何も間違ったものもおかしなものもない。だが、学校やインターネットを見ると、間違ったものがたくさんある。大人の職場には間違ったものはない。そう、子供たちを変えれば、世界は平和になる。だが、そうした子供たちの社会には、この社会の抱えている「歪み」の全てが影響している。格差が増えれば子供たちにいじめが増え、景気が悪くなれば子供たちは元気を失うのである。
子供たちに必要なことは何か。それは分からない。だが、僕が子供たちにどのように生きてほしいのか、ということは僕は分かる。まず、この世界を投げ出さないでほしい。そして、学校で教えられている内容に囚われず、一から全てのことを考え直してほしい。太陽が無い時は、太陽を自らの絵の具で作り出してほしい。そうした「正しい生き方」はこの世界のどの教科書にも本にも書いていないが、僕はその正しい生き方を知っている。だが、子供には、大学や大人の話を聞くだけではなく、自分で考え、自分で決め、自分で行い、自分で選んでほしい。自分の意志を持つために、人々のことを愛して欲しい。
そして、怖がらないでほしい。僕の言っていることややっていることを怖がらず、僕が間違っている時は批判して欲しい。僕が見ようとしていない僕の過ちは、僕だけではなく、僕以外の他の人々に教えてほしい。そして、みんなで過ちを償い、もう一度この愚かな滅びた社会を復活させよう。不死鳥となることができるのは、必然的に不死鳥になる未来を持った子供たちだからである。
また、宗教を信じないでほしい。宗教を信じると、全てが終わってしまい、幸福にはなるかもしれないが、この世界を変えようとする気力も意志も全て失ってしまう。宗教よりも、現実のこの社会を見てほしい。そして、この社会が間違っている時は、社会の方を信じるのではなく、自分の方を信じてほしい。そして、自分の思いや思想を、それだけで終わりにせず、突き進めてほしい。自分で社会のことをいつか変えるつもりで、考えてほしい。
また、僕は単にこの世界を滅ぼしたいわけではない。僕の言っている提案の全てをそのままやる必要はない。たとえば、中高生にエロ表現を見せても良いようにしろと僕は言ったが、それはただ適当かつ無責任にいいかげんなことを言っただけであり、そうしたことは相手にしないでほしい。
今日のところはこれくらいで終わりである。漫画にも音楽にも、何も無い世界になったが、それでもこの世界がここにあること自体は変わっていない。この世界は、普通に色んなことができる世界である。世界にあるものをただ受け入れるだけではなく、自分の力で支配し、そして自分の力で変える必要はある。だが、そうした考え方を考えるにつき、「速断を避けて現実的に考える」ようにしてほしい。たとえば、自分独りだけで全てを変える必要はない。みんなで変えれば良いし、自分はみんながこの世界を変えやすいように助けてやれば、ひとりで変えるよりも複数の集団が変えることができる。それはきっと政治家にも勝る強い集団になる。そうなった時にしか、この世界は変わらない。本当に変えたいのであれば、僕のようなひとりの作家のヒーローになるのではなく、味方や友人を作らなければならない。そのためのもっとも良い方法は、人々の集まる場所でみんなに意見を言うことである。
さようなら。もう、僕はこの世界において何もしない。支配すらしない。僕が居ること自体は変わらないが、僕はこの世界を徐々に停止から変化可能にと変え、変化を許していく。それしか僕にできることはない。具体的な考え方は、体験をしながら考えることで、気付いて言ってほしい。この世界には、ものしかないように見えて、ものがあるという意味での「意味」を見出すことができる。この世界には、それがあることで「それが意味していること」がたくさんある。それに気付いていくことだけで昔の自分はできる。単にものがある、というだけではなく、考え方を考えたり、モデルを作ったり、時には事実や解明した真理を積み重ねて積み上げていくことで、どんどん宇宙の意味は発見できる。人格の構造を作れば地球の意識も吸収できる。社会を自由にしたとしたら、「自由にしたらどうなるか」とか、「その自由から何が生まれるか」という、「高度な意味」すら捉えられるようになる。何が何を意味し、それがさらに何を意味しているか、そしてその中でその意味が社会や宇宙や自分独自の科学など全てのことに及ぶこと、それが分かれば、高校数学など学ばなくても、一流の哲学者になれるだろう。
最後に、意味を考える一番良い方法は、具体例と論理を照らし合わせて考えることである。たとえば、「集団がたくさん居たとして、その中で人はどのように行動するだろうか」と考えた時に、ネットの社会を実例にして、自分で考えたことと実際の社会を照らし合わせて考え、社会実験を行うのである。そうして考えたことから、心の裏側の全てが解明できる。全ての宇宙における意識は、そこから吸収し、「全てを理論的に実証する」ことができる。振る舞いを作りながら、博物館のような全ての学問を作り、人格を全員の数だけ統合し、この宇宙の神と魂の意識を知ることができる。その時、人は「仏」となり、新しい「覚者」がそこに生まれる。そうしたものを、人は「悟り」と言う。だが、単に考えて経験すれば良いというのではない。良く観察すると同時に、「自分が今まで何を知っていて、それが今どのように変わってきたか」という「意識の転換」を考える必要がある。全ての悟りの結果、この宇宙の全ての経験と、社会形成の全てのあらましが分かる。これが、僕のこの宗教の、最後の教えである。
また、行動論としては、唯一ひとつしかない。「何をしたらどうなるか」。これだけを考えれば良い。後の全ては完全に忘れて良い。それだけ分かっていれば、人間の知性は成り立つ。また、考え方として必要なのは、「もしそれがそうだったとしたらどうなるだろうか」ということである。それだけを守っていれば、必ず全て分かる。
その社会がもしそういう社会になったとして、そうなった時にどういう社会になるか、すなわちどのような社会の決まりや制度を作って、実際の社会環境はどうなるのか、など、自由な決まりと具体的な結果を、照らし合わせながら、自分の経験と行動と心の結果に置き換えて考えなさい。それがそうなった時に、それによってそれがどうなるか、そしてそれが「何を意味しているのか」を考えることで、この社会における哲学的な「真理」を考えられる。同時に、「何をもたらすのか」を考えることで、潜在的な可能性と、「何をすべきなのか」ということが見えてくる。そう、これは哲学者の知性というよりも、生まれ持って人が持ち合わせた「子供の知性」である。
僕の問題は、僕は自分の人生と世界だけを見て、正常な世界に戻そうとするあまり、この時代にみんなが生きていた人生があったことを忘れている。
そもそも、誰も昔の世界になんか、戻りたくない。
どんなに辛く苦しく間違っていても、今の世界を続けるべきである。
夜の暗闇は恐ろしく先は見えないが、太陽が昇れば、正しいものにも間違ったものにも、全員に平等に光は灯る。夜明けが来るのを待ち、また暗闇に覆われる前に、今のうちに迷宮の脱出方法を考えておこう。
僕の間違った点は、人々が「風」と呼ぶ戦いの支配をして、人々が自分のことを嘲笑するように導いたことである。だが、その中でも、人々は愛を信じて、この人間を信じ続けた。信じた心を恥じる必要はない。この点において、僕よりもみんなの方が正しかった。
今から、この世界は本当に許された世界になるだろう。僕が去ったとしても、この世界は神に祝福されている。必ず、最後の最後に、善なるものが勝利する。過去の僕である悪の女王は死に絶え、今の僕もともに消え去り、人々は自由を取り戻すと同時に、王は罪に気付いて人々の愛のために自らの行いを反省し、償うようになるだろう。
頭が馬鹿なのは、昔取り払ったものや壊したものを、もう一度再構築すると治る。
思考の垣根を取り去って、全てを同次元で考え、思考の制限やリミットを壊して考えていたのを、もう一度制限やリミットを作った方が良い。
少ない知性の構造から、全てを統一的に考えていたのを、もっとたくさんの知性に治した方が良い。
全てを同じ考え方で考え、視野が狭くなっていたのを、もう一度、別の考え方や異なる価値観が正しい可能性を信じた方が良い。
ひとり部屋にこもって、昼夜逆転の不潔な生活をしていたのを、もう一度、普通の生活に戻して、身も心も清らかになり、生活のリズムを取り戻した方が良い。
なんでもかんでも学習し、把握するのではなく、必要なところだけを覚えて考えるようにし、全てを知性なく考えるのではなく、「必要な点を覚えて論理的に考えること」から分かった方が良い。
反抗と自由自在から分かるだけではなく、不可能なことには従い、しなければならない義務を受け入れるように考えた方が良い。
自分のやりたいことだけを善と考えるのではなく、本当の意味で善とは何であるかを考えた方が良い。
可能性の分裂や制限の自由化だけを世界に対して行うのではなく、本当の意味でひとつになり、現実の世界を見るようにし、その上できちんと問題を解決するためにどうすれば良いか、考えた方が良い。
2020-01-10より。
僕は、争いを好まない。みんなで、仲良くやろう。それが、第一の目的である。
僕は、今からの世界というのは、ひとつの分岐点になると思う。それは、今までのように、「命」や「生存権」を持って戦っていた時代は終わり、社会における「主権」や「独立権」を求めて戦うようになるからである。
たとえば、昔は、ドイツとソ連が生存権や命を賭けて戦っていた。冷戦のアメリカとソ連についても、核ミサイルを保持して、相手の国を破壊し、皆殺しにしようとしてきた。
だが、今の時代は、そうした「生と死」を賭けて戦うのではなく、また金儲けや利益だけには留まらず、「主権」や「独立権」を求めて戦っている。
今のアメリカやヨーロッパの人種差別主義者というのは、移民やイスラム教徒を殺したいのではない。別の国に追い返して、自らの国の社会保障や移民・難民対策の「税金を奪われない」ようにするために戦っている。
これは、香港・台湾では、逆に「中国からの独立」を求めて戦っている。
また、EUからの離脱を求めるイギリスでは、EUに主権を侵害されず、「イギリスの独立権を取り戻す」ために、多くの議論と投票と政策提案がなされている。
そう、人々は、命を賭けて戦うのでも、自らの生存を求めて争うのでもなく、「わたしたちの国をわたしたちのものに戻す」ために戦い、争っている。
同時に、僕はここに「主権とは何なのか」という問題があると思う。それは、グローバル化が進んだ現代において、「国とは何であるか」という「文化的超越論」と、社会保障や経済政策において、「それでも政府が必要である」という「独立的現実論」があるからである。
人々の間で、国家的な連帯というのは希薄になり、どんどんそうしたものがなくなっていく。同時に、老後の暮らしの支えなど、政府を必要としている人は昔よりも増えている。そんな中で、移民たちが自分たちの払った税金をむさぼっている、という状況になっている。
そう、ここで必要なのは、人種差別ではない。僕たちは、新しい政府の形を模索しなければならない。それはソ連のような、理想主義的で現実を見ていない政府ではない。「現実を直視した新しい政府の形」を僕たちは作らなければならないのである。
こんなことを言うと、どこかの独裁者のようだが、現実を見た上で、現実の政策の中で、そしてその中でも理想と平等を実現する政府として、「極右を超えた超越的改革派」がこの地球という星では、今、必要とされているのである。
また、社会と星の形態として、今までのように金や命のために戦う時代は終わった。これから、国際社会は「支配と独立」のために戦う時代になる。誰が支配するのか、どのように独立を保つのか。そのために、人々は自由を叫ぶ。この社会では、平等な政策など無用であると、人々は思っている。だが、実際の社会を見ると、世界は「格差」と「サービスの不足」ばかりが問題となっている。この世界をきちんと保つために必要なのは、「米ソに代わる新しい対抗軸」ではないか。僕は、ロシアとは別個にソ連を作ることが解決策に繋がると思う。ソ連が二つあり、ソ連とソ連が互いに争い戦う中で、新しい世界政府と独立政府が誕生し、切磋琢磨して星の未来と運命を変えていくことができると僕は考えるのである。
ある意味、ソ連が二つあることで、良いことがたくさんある。たとえば、マイクロソフト一社だけが独占市場を作っていたとして、そこでは働くモチベーションも健全な競争も起きない。これは、ひとつしかないソ連でも同様で、ひとつの国で平等な経済を行うことでは、ソ連の労働者は働く意欲がなくなる。だが、マイクロソフトとグーグルが競争すれば、グーグルに負けないために、健全な競争とモチベーションの向上が起きる。同様に、ソ連と日本型国家社会主義圏が競争すれば、ソ連は計画経済でも、日本の別の計画経済に負けないために、計画経済の内容を吟味し、人々には「日本に追い越せ追い抜け」といって、働くモチベーションができる。そう、ソ連は二つあるべきだったのだ。
だが、ここにはひとつ、大きなリスクがある。それは、ソ連とソ連は本当に潰し合うと、「全く自由がなくなる」ということ、そして「核戦争で必ず地球はいつか滅びる」ということである。だが、これについて言えば、アメリカとソ連が戦っているよりはマシである。同じ共産圏同士、ソ連と日本は時には協力し、また不自由な中でできるだけ自由を与えられるように、「どちらがより平等でかつより自由であるか」を競い合えばいいのである。
これで、僕のアホな経済学も終わりである。また、僕が作る国は、かつてあったソ連とは、まったく別の国になるだろう。必ず、僕は正しい自由な社会主義経済を作り上げる。いつまでもできないようでいて、いつか一度でも成功する理論を思いつけば、それで全ての景色は変わる。そのいつかは、神を信じれば、必ず訪れるものである。心配など、人生の最期まで全てがあると見てしまえば、心配など必要ない。僕たちは必ず、全ての問題を解決しつくすだろう。これが、僕の提唱する「二大社会主義国家制」の世界である。
2020-01-12より。
新しい世界を作ろう。
新しいものを作ろう。
僕は、今からの未来の世界で、経済発展でも他の国に勝つことでもなく、「新しい技術やシステムを作る」ことを重視する。
僕が大統領になったら、無意味な格差を生むだけの経済発展政策も、軍事力によって他の国に勝つことも、憲法改正も行わない。
僕は、新しい技術を作り、新しいものを作り、新しい社会を作り、新しい仕組みやシステムを作る。
たとえば、WindowsでもMacでもLinuxでもない、新しい日本独自のOS技術を作る。ベースとなるのはBeOS。BeOSをもっと使いやすいインターフェースにして、オープンソースでその技術を全て還元する。
僕は、法律を定めることは、同時に自由を妨げることである、ということを自覚している。そのため、インターネット時代にそぐわない法律をどんどん廃止する。
社会の制度のようなことは、政治家や立法府だけが決めるのではなく、自治体よりももっと小さな「自主的立法府」を作り、自主的な立法府が自分の力で法律を決められるようにする。そうすることで、自分たちの社会や環境に関わることは、自分たちだけで決められるようになる。これが、「新しい民主主義」である。
同時に、国としての軍隊は持たない。民兵組織よりももっと小さな形で、自分たちの自費により、銃や兵器をそれぞれの民兵が持つことを許し、それらの「統一的統合兵」を作る。これは国としての軍隊ではなく、モジュールを統合するように、日本、韓国、東南アジア、インド、イスラム諸国のような「弱い国々」とモジュールのように結合し、「東亜自衛隊」を形成する。
また、インターネット時代の今、著作権法や青少年の条例は形骸化しており、これを無くす。たとえば、著作権については、自らの利用するコンテンツにおいて自らの独占的権利(これは自分のものだから他の人間がコピーしては駄目とすること)を行使しないのであれば、全てのコンテンツにおいてコピーや改変を許す。著作権を主張したい場合は、申請して国に許可される必要があり、そのために必要な申請税を取る。
また、少子化対策として、中高生の頃から異性を意識し、もっと子供を産んでもらうため、R18指定をR15指定に変更するとともに、いじめの表現は禁止し、レイプや監禁のような過激な画像はなくなる。
このようにすることで、インターネット時代においても、健全な形で新しい文化が生まれるようにする。必要のない法律を廃止し、不当に犯罪に問われないようにする。
僕は、役所や会社のつまらない手続きや管理の手間を削減するために、コンピュータシステムを導入する。AIなどを活用して、現在役所で行われている業務の90%以上を自動化する。
また、僕は福祉や年金において、新しい仕組みを導入し、弱者を救う。
まず、労働は絶対に8時間よりも多くならないように、いかなる形での残業も禁止する。同時に、全員が平等な労働をできるように、時間配分や給与を調整することで、「等価な労働量」を実現する。辛く苦しい仕事では5時間労働でも同じ給与を得られるようにし、困難かつ責任性のある仕事はそれ相応の給与を与える。そのため、悪平等は起こらない。
同時に、生きるために必要な全てのものは配給し、所得のない人や定職についていない人についても、一人当たり毎日500円の特別給与を与える。また、コンビニやレストランなどでは、「低所得者向けの低価格商品・メニュー」を作り、一日500円だけでも食べられるようにする。常に国民の生活をリアルタイムで把握し、人々がものを壊したなどの情報はIoTによって自動で送信され、ロボット輸送車によって自動で新しい家具や日用品や衣類が届くようにする。
以上が、新しい未来のあらましである。必ずしも全てを社会主義にする必要は無く、中国やソ連とは異なる体制をとって、「三大社会主義体制」となって、ソ連式、中国式の社会主義と真っ向から対決し、ソ連同士が競争する。それによって、人々の生活は腐敗せず、SONYと東芝と松下が競争するように、ソ連と中国と日本が競争することで、社会が発展するモチベーションとなる。
必ずしも、東側に所属するわけではない。特に、シリアなどでは、米ロが介入することで多くの犠牲者がでている。日本は、イラクやシリア、イランなどの「イスラム諸国」と連帯を取る。西側、東側には所属せず、新しい「在導イスラム帝国」がここに完成する。これが、終末の天国であり、僕の人生がエデンの園であることを、新しいイスラムをベースとしながら一夫多妻制や女性の顔を隠すことをせず、礼拝をすることも必要なく、また豚肉や酒を飲んでも良いとする、新しい宗教の教義を作る。
アメリカは敵国となるが、僕は核ミサイルを作ることも、過激な訴えに出ることもない。逆に、日本ができるだけ民主主義の形を取るように、アメリカに第三者の形で社会制度を監査してもらい、日本が国民の権利を侵しているとされた時はすみやかにアメリカの監査の下に制度を改革する。
僕は、化石燃料を使うのをやめ、ITサービスへの依存を脱却する。全てのエネルギーは再生可能な自然エネルギーとなり、自動車や化石燃料はそうした別のエネルギーへと転換する。また、Windowsとインターネットに依存した社会では、MSやGAFAの一存でいつサービスを停止されるか分からない。自分たちのインフラを守るためにLinuxとオープンソースを採用し、アメリカや外国のサービスは全て、日本国産のサービスへと転換する。
新しい世界を作ろう。哀しみの向こう側にある神の王国を僕は築く。必ずこの世界において、愛の国ガンダーラが誕生する。大丈夫。僕はまだ死んでいない。未来の希望はここにある。僕は今でもこの世界を導いていく。支配や革命は必要ない。もっと別の自由な手段で、この世界は変えられる。
愛を信じること。それも、完璧な存在の愛を信じることで、僕らは平等に完璧な存在になれる。生まれた時点でパーフェクトであり、一切変わる必要は無く、己の遺伝子に従って未来を自由に作っていけば良い。どんなに劣った個性でも、白い光を自分の力で築いていけば、必ずいつか白銀に輝ける。そこにある黄金の人生は、神の定めである「エデンのすべて」がある。
僕たちは神々の王国を築く。この国では、全てが美しく、新しく、力強く、そして賢い。全ての場所と存在が、宇宙の始まりから神に向かって歓喜していることを、まだ、人々は知らない。僕はこの世界の全てが神の愛にあふれていることを、唯一知っている。そう、これこそ神ヤハウェの偉大なる御業であり、アッラーの慈悲深さであり、「超越者による暗号の解読プロセス」である。そう、この人間こそ、イエス・キリストの子孫たちの、もっとも小さな兄弟である。
最後に、よく注意して、慎重に、そして柔和に行いなさい。この国を作る際に、何かひとつでも手順を間違えれば、この星は滅びて、月や火星のような惑星になる。この星はプレアデスに至るまで、まだまだたくさんの段階とプロセスを、慎重に経なければならない。だから、この国をひとりの王に委ねなさい。それは僕でなくても良い。きちんと分かった人間であれば、僕の代わりができる。彼を独裁者と人々は言うだろう。だが、慎重かつ柔和に独裁権限を行使しなければ、正しい国は作れない。それが、最後の王、ユダヤ人のダビデである。