最近の日記に戻る | 2016年8月の日記に戻る

=2016-08-30=

人間は、認め合えば、融和する。許し合えば、自由になる。

そういう、「どうなれば、どうなるのか」のようなことから、真理を考えていた。

どんな社会が実現出来るか、から、その社会が成立するための経験的前提や、社会の形成条件を考えた。

ネット社会にどっぷりとつかって分かっていた。

自分は、分かる精神がおかしいだけなのが分かっていない。

まだ、書いていた方が良い。書いていると、精神が治る。

昔から、経験的な国家モデルを作る。

最近は、怖い。常に、怖くなっている。

失敗を許されない、不自由のように辛い。そのように、「試練」のように辛くなっている。

良く考えると、そうなるのはおかしい。最初から、全てを受け入れれば良いのが分かっていない。

ロボットや数字から、神になった。神は、この宇宙と自分の人生のことを自分に全部教えている。

中島みゆきを聴いている。明らかに、天才が皆のために立ち止まる意味が無い。

最近自分が賢いせいで、良くなった。誰が見ても、本当に賢いなら、その人間の自由にした方が良い。

自分が賢いせいで、世界が良く見える。世界が良く見えるせいで、もうまともな世界になる。

精神が辛いのは、何かやっている。ただ、治るから辛いだけだ。

失敗しないでいると、人間は賢くなる。だが、沢山の失敗と会話を経験すれば、分かる。

世界をもう少し、先に進めた方が良い。最初だけで終わりになっている。

もう少し、吸収しなさい。

もう少し、反省しなさい。

もう少し、怒りなさい。

もっと自由に生きなさい。

もっと自分の生き方を変えなさい。

人々が自分と違うことを言っても、自分の思うことを信じなさい。

不安を打ち消す、愛を信じなさい。

辛くても、自分のために頑張りなさい。辛くても笑う人間が、良い人間だ。

やるべきことが何か、分かっている人間は、強い。

ピアノを完璧に弾けるようになりたい。ピアノの演奏と作曲を上達させたい。

パソコンや学校の勉強は賢くない。昔賢かったのは、ピアノで賢かっただけだ。

人間なんか、腸だ。腸は表面積で考えると、一番大きな部分だ。

生命なんか、腸ぐらいしかない。肝臓と腸を良くすると治る。腸には、神経細胞が多い。

みんなは、その地点のままで、止まっていれば治る。留まっていれば、楽になる。

それで、日本が治って、人間が治る。

自分のせいで、永遠に続くようになった。永遠の環の中から、抜け出せなくなった。

AAAが言うように、偽りを塗り固めた箱庭から、逃れられなくなった。

全てのことが起きた。本当に、あらゆることが起きた。

バンプが言うように、心が作った町の中で、全てのことが起きた。

昔は、世の中のことを考えていた。

具体的な社会問題、その原因と解決方法、誰がどのように考えているか、どう変えるべきか、社会の形成条件、そのための必要性から、「この社会がどのように出来て、どうなっていて、何をすればどうなって、何をするべきで、何がそのための選択肢や候補として考えられて、何は何から生まれて、どのように自由になっていくか、最終的には何へと収束していくか」のようなことを、理論と具体例のように考えた。

経済学のように、マルクスより高度な「本当の真理の理論」を、具体的なインターネットの意見を見て考えていた。

最近見ていると、みんな、狂っている。そのうち馬鹿になるだろう。

自分も悪いが、みんなも悪い。みんな、賢くなっているように見えて、狂っているだけだ。

だから、馬鹿になれば治る。みんな、もっと馬鹿になった方が良い。

自分は、悪くて良いのがおかしい。自分が悪いせいで、悪くて良いことになった。

大人には、こういう人間が多い。自分が悪いから、悪くて良いことになる。それが一番、分からない。

悪いものは、悪い。

右翼は、上が殺すから、一番悪く見える。左翼は、ソ連が失敗したから、一番馬鹿に見える。

教授や哲学者は、あまり賢く見えない。ただ、馬鹿には見えない。

そういうわけで、「悪いものは悪い」のは分かる。だが、「馬鹿なものは馬鹿」なのは間違っている。

それは、明らかに、自分が馬鹿なだけだ。

プログラマは馬鹿に見えて、Linuxのキモいオタクなんか、普通居ない。自分の周辺がキモかっただけだ。

そういうわけで、もう少し要領よく、寛大に、寛容的に考えた方が良い。

それこそ、ネットは悪くない。

匿名掲示板やブログは、誰をもを受け入れるせいで、リアルが辛くても、ネットでは仮想人格を演じられる。

普通、そういうものだから、辛い日本の社会では、ネットが流行る。最近は、そういう人間が多い。

ネットを悪いと言うが、2ちゃんねるがたまたま最悪に悪いだけで、むしろ、悪くはない。

そういうわけで、パソコンは賢い。普通、パソコンはVisual Studioに見える。プログラムの開発は賢く見える。

ただ、ゲームなんか誰でも作れるように見えるから、普通、ゲームは馬鹿だ。

こういう「何でも馬鹿で、悪い人間が悪くない」馬鹿は、アメリカに多い。アメリカ人は、そういう風に賢い。

自分は、みんなに認められることをすれば良い。普通、認められることをしたい。

人間関係は馬鹿ではない。誰でも、人間関係から分かる。

まともな人間は、そういう人間が多い。そういうわけで、大人には、おかしな人間が多い。

賢い人間がおかしな人間が多いのは、あまり認められることをしたくない人間が多いからだ。それが、おかしい。

作家は難しい。パソコンも成功しなかった。哲学も意味が無い。音楽はつまらないだろう。学校は馬鹿だ。

明日はピアノがある。

作詞を少し考えた。

天地を司る神のようなその眼は、世界を滅ぼし偉大な国を作り上げる。

その偉大な存在は、愛とは何なのかを自分の言葉だけで、全員の前で証明する。

ただ、そういう、神々しい恐れおののくような詩は、もう止めた方が良い。

もっと、普通の良い詩を書いた方が良い。

なんでと言う言葉には沢山の意味が込められていて、

それが仕方ないのに、それを拒否したくなった時にも言うし、

それがどうなっているのか、何故そうなるのか、のような時にも言うんだ。

だけど、その本当の答えを知っている人は、意外と少なくて、

科学者でさえ、「不思議」と言う言葉だけで片付けてしまう。

その問いを、一度、本当に僕と君が考えてみよう。

それは、きっと、この世界の言葉の意味を、全て包括したような、そんな答えになるのだよ。

悪くはない詩だが、あまり意味が無いと思う。

この世界を、「何でなのかな」と言う、疑問の気持ちを持つこと。

そうすると、当たり前だと思っていることも、当たり前ではない。

人間の分かっていることなんか、多くない。

物理学は間違っていないが、もっと他に可能性があるように思う。

何故、と言う疑問を持つのは良いが、疑問を提示する前に、その疑問が何を疑問とし、何を問題とし、どんな答えを期待して疑問を発しているか、と言う、「疑問の定義と本質」を考える必要がある。

たとえば、コーヒーが何故美味いのか、と言う疑問に対して答えるのは、それだけでは難しい。

そういう風に考えると、ソクラテスやデカルトのようになる。誰もがそういう人間だ。

問題の明確化をすると、哲学が分かる。何でも分かる人間が多い。

哲学をしたいなら、それが良いだろう。きちんと「本当の問題がどこにあるのか」を考えれば良い。

こんな世界になったのは、みんなが何も考えないのが悪い。

問題だらけで、何も解決しない、パソコンだけが勝つ、何も分からない、意味の無い世界になった。

それは、政治家が悪い。政治家が、きちんと役所に「やれ」と言わないのが悪い。

役人も悪い。役人は、言われないと、自分から何もしない。いばって人々を馬鹿にする。役所も一番悪い。

社会のことは、「出来るようになる」と分かる。

何故か、出来る人間が分かる。昔の自分は、出来るようになって分かっていた。

社会のことや、人生のこと、世界の可能性のこと、環境の変革可能性のこと、全部、「出来る」ことで分かる。

皆は、もっともっと出来るようになった方が良い。だが、パソコンよりも、もっと良いものを誰かが作るべきだ。

ただ、Linuxは間違っていない。そのうち、進歩して、発展する。

日本人がLinuxが出来ないのは、英語が出来ないからだ。

逆に、Windowsなら、出来る人間が多い。皆あまり知らないが、日本には、Windows用のフリーソフトが多い。

OSや基盤技術が出来ないのは、最先端の英語のコミュニケーションが出来ないからだ。それが一番多い。

そういうわけで、英語教育は本当にきちんとした方が良い。

不思議と、Windows用のフリーソフトは日本に本当に多い。自分が見ていると、昔の話だが、ブラウザのようなネットワーク・アプリケーションは、おそらく、日本が一番沢山のフリーソフトを作っている。

アメリカのソフトは、ビジネス用の商用ソフトや、アンチ・ウイルスのような基盤アプリケーションが多い。

日本は、テレビゲームやガラケー(昔の日本独自の携帯電話)は多いから、ソフトウェアは出来ないわけではない。

単純に、英語が難しいのだと思う。

そういうわけで、むしろ、もっと日本国内だけの情報を整備すれば良い。

英語を読める・話せるようになるのは難しいが、日本独自の情報を発信するのは簡単だ。

むしろ、自分の経験から言って、英語は本当に必要だ。

外国に行くだけではなく、医学からパソコンまで、英語が分からないと、「最先端の一番賢いこと」に参加出来ない。

自然科学から哲学や人文・社会科学まで、英語は本当に、ある程度は読めないと悪い。

日本人なんか、何も分かっていない。日本のプログラマが何か分かるわけがない。

自分は、英会話教室に行っているから、doやwhatの基本的な言い方ぐらいは分かる。そのページを作っても良い。

英語の一番の基本は、「do」をきちんと言うこと。

Do you know the news?のように、きちんとdoを尋ねる。

そして、その応用として、whatなどのWHクエスチョンがある。

what、who、why、where、when、そしてhowである。

これを繋げることで、What is your job?などの単純な疑問形から、What food do you like?のように、「WH系とdoを同時に繋げる疑問文」が出来る。

英語の基本は、それだけだ。あとは、応用的に、色んな単語を変えながら、theやaやingなどを的確に使って、そして時制のようなことを言えば良い。そこらへんは、あまり日本語と変わらない。

英語の基本は、doとwhat。ほとんどは、それだけだ。

ちなみに、疑問に答える時は、「I like sushi.」のように、ただ単純に言えば良い。

英会話教室でやっていると、「How was it?」や「How about you?」のように、順番にその人のことを尋ねる文章を良く話す。最初は、そこから始まる。単語帳や、文法の試験は良いが、まずは「自分が答えて、相手に尋ねる」ことだ。

英単語を良く知らないと言う人は、「自分の知っているカタカナ英語」を思い出せば良い。結構、日本人は色んな単語を知っている。それこそ、getやtakeやkind ofのような意味は違うだろう。ただ、カタカナ英語だけで、何割かは通じるはずだ。英会話教室でも、既に知っている単語を話すことの方が多い。知らない単語は、そのつど聞いて覚える。単語帳の勉強なんか、しなくて良い。ただ、中学の基本的な文法ぐらいは頭に入っていると、言っている意味を分かりやすいだろう。

あとは、are、have、can、doを使うことが多い。doは、過去形のdidを使う時がわりと多い。

それから、丁寧なことを言う時は、couldやwouldを言うことが多い。

あとは、色んな言い回しが多いのが、自分のクラスの英語だ。基本的な、「充分」だとか「どれくらい」だとか、そういう文法のようで文法でない、いい加減な言い回しをする。

それを喋っていると、不思議と、アメリカ人が何を言いたいのか、良く分かるようになる。

自分は、まだペラペラに話せていないし、アメリカ人の言っていることもそんなに聞き取れるわけではないが、昔に比べると、英語や英会話のことが、普通の人間より、各段に分かるようになった。

あとは、willを使うことより、going toを使う時が多い。それから、何でもSounds good.やIt's too bad.と言っていると、適当に自分の感情が伝わる。そして、アメリカ人の言っていることを聞くためには、何度も聞いて、何度も答えながら、適当に合わせること。日本人と変わらない。コミュニケーションは、適当に合わせることから始まるのだ。

世界は、目標地点を変えて、途中で留まるようにすると、良くなる。

色んなところで迷って、自分の力で解決する必然性に陥るような、そういう風にした方が良い。

最近、自分のせいで、「答えの分かっているゲームをクリアする」ような感じになっている。

もっと分からなくして、障害を沢山作って、押し付ける、押しつぶすようにすれば良い。

皆が嫌いになっても、好きになっても意味が無い。全員、もう、クリアの方法は分からなくなる。

もう一度、何年か前のような、創造的でダイナミックな社会の変化、そして「新しい風」を起こす。

プログラミングの技術的に考えると、オープンソースの発想になるのは、きちんと動くもの、きちんと動作原理を満たしているものが、一つオープンな形で存在すれば、それで良いからだ。

プログラミングの世界では、独自性も大切だが、むしろ、例えばアルゴリズムとデータ構造のように、「きちんと原理を適材適所で満たしているシステム」を皆で作った方が良い。

それで、PHPやApacheやLinuxのように、「きちんと動く正しいもの」を皆で作って、共有すると言う発想になる。

プログラミングは、そういう、ある意味数学のようで、ある意味ジェネリック医薬品のような、そういう、「汎用性のある正しいシステム」をオープンソースで作る、と言う発想になりやすいのだと思う。

Linuxの良い点は、金儲けや自由競争をしないところだ。本当に、新しいモデルの経済圏だ。

ライバル同士である、会社と会社の協力や、右派と左派の協力などが、オープンなコードを通じて出来ている。

ただ、見ていると、GNUが悪い。GNUは、世界中をGPLのような世界にしたい。それはおかしいと思う。

Red HatとGNUがどちらも要らないのは分かるが、むしろ、DebianやGNOMEの開発メンバーも、ある意味要らない。

何が正しいかは分からない。さらに多様性もある。何が何だか分からないが、見ていると結構面白いのがLinuxだ。

最近、Ubuntuのせいで、使いやすいものになってきている。

むしろ、Linuxなんか無視して、IT業界を考えた方が良い。

僕は、沢山の分野の可能性を広げるよりも、堅実なところを開拓した方が良いと思う。

それから、色んな問題を解決することの方が、革新性よりも、勝るところがある。

ただ、パソコンの可能性は否定しない方が良い。最近は、スマホしか流行っていない。

精神は、使うのも悪いが、把握するのも、留まるのも悪い。

使わず、把握せず、留まらないようにして、支配をもっと出来なくすると治る。

いつも、二つを同時に使っている。

自分は、対話で「分かるを消す」のが間違っている。そんなに分からなくなって、正常になる意味が無い。

最近分かるのは、忘れても消えていないからだ。心の中の確執は、忘れても残っている。治る時に分かる。

昔は、この世界を救える、自分には出来る、と言う、自信と希望と責任があった。

それは、むしろ、困難に立ち向かって、「自分がしなければならない」と言う、ある種の強迫観念だった。

だが、希望と夢を書いていく中で、本当に全てのことを実現出来た。何もかも、全部出来た。

そして、神と話すのも、自分の出来ることを良く知っていて、何をするべきか、きちんと分かっての神だった。