英会話教室に行ってきた。
分からなくならないように、破壊しないように、世界を壊さないように書く。
英語は、言葉を知らない子供のように、一度分からなくなることで分かる。
「現象に名前をつける」ことで分かる。
視野が狭くなっている。同じことを分かっている。
もっと、視点を変えて、角度を変えて、世界と自分のことを分かった方が良いだろう。
深層意識が人形のようになっている。体の無い、十字架と頭だけの人形になっている。
革命が怖い。死ぬのが怖い。
臆病者になって、前に進むのが怖くなった。
脳が脳へとくっついて、認知現象に思考がついていく。それがおかしい。
自分を消して、信じて、消えて分からなくなると楽だ。
英語は、怖い方が出来る。怖いと話し方が良く分かる。
色んな人間のことをネットで知った。
変化を考えること。世界が変わっていくとか、ものが存在するとか、幸せになるためにはどうすれば良いかとか、「変化」のようなことを、「実際の姿を見る」ことで、「詳しく」分かる。
狂うと、まともなことが分からなくなる。
ただ、狂った方が分かる。
分からなくならない方が良い。常に分かっていると、何もしなくても放っておけば分かるだろう。
実際の姿を見ること。だが、同じことばかり考えるのではなく、多角的に考えること。
多角的に考えると言うことは、同時に、自然体になって考えると言うことだ。
大学はしなくて良い。大学は、同じことばかり考えるようになる。
これ以上は、可能性を考えながら、何が何に作用するか、何が何を必要とするか、どこを変えるべきか、のようなことを真面目に考えれば良い。昔は、そういう風に考えていたのが自分だ。
皆のことを自分だと考えること。
社会のことを、経験から、自分との関係であり、投影であると考えること。
自分は、そろそろ分かった。あとは、関係や因果性を考えれば良い。
探していたのは、そういう、「同じことを考えるのではなく、多角的に考える」ことを探していたのだと思う。
皆、それぞれ、自由な人生と体験を生きた方が良い。
社会をシステムとして「見なす」とか、そういうことを言っていたのが、いつもの文章だ。
そういうことを、言葉で統一的に、多様性を包括して分かっていた。世界観を作った。
考え方で分かるとは、そういうことを言っていた。「見なす」ことと「自然な可能性」から、意味を考えていた。
環境とプロセスとか、相対性と視点とか、意識と現象とか、場と記憶とか、そういうことを自在に分かっていた。
社会のことは、経験から、段階的発展と可能性のようなことを分かっていた。
こういう人間は、高校生に多い。高校生は賢いが、むしろ、知性が無くなる人間が多い。
大学生は馬鹿ではないが、一度、中学生まで戻った方が良い。人間は、中学生の頃が一番賢い。
全ては、物質、言語、法則と原理、段階、設計と実装、システム化、人間の理性と捉え方、自然発生と考え方、変化だ。
むしろ、中学生になる意味はない。きちんと高校生になれば、きちんと分かる。
あとは、社会の変化と、人間の捉え方や理性を書いていた。
バビロニアのような、ありえない国とその歴史を作って、独自の精神物理学と、方法論の哲学を作っていた。
哲学は難しくない。いくらか経験しながら、多角的に考えていると、誰でも分かる。高校生でも出来る。
全ては、創造性へと至る、社会的、哲学的な過程と、その具体的なプロセスの共有である。
いつも、そういう風に賢かった。そして、仮象の世界である、可能性の全てを作っていた。
王としても正しい人間だった。一切悪いことをせず、最後まで全力で世界を導いた。キリストのようだった。
捉え方と実現可能性を考えていると、本当に分かる人間が多い。
あとは、森羅万象の博物学のような、物理から歴史まで、色んなことをネットを見て知っていた。
一般教養はないし、高等教育も受けていないが、ネットの知識が膨大にあった。そういう賢い人間だった。
人生は、ある意味、大学生になるまでに何を知っているか、考えているかを競争する、レースのようなものだ。
だが、大人は馬鹿ではない。大人になると、きちんと自分で出来たことだけが出来る。賢い人間が賢くなる。
ネットで経験するのは、つまらないが、むしろ、自分は馬鹿な人間だ。
哲学しか出来ないのは仕方ない。大人になってしまうと、もう何も出来ない。
20代のうちにやるしかないことが多いから、ここらへんで頑張る人間が多い。
20代は、人生として、いくらでも成果を出す期間だ。レースと言うより、我慢比べのようなものだ。
20代で地獄になる人間が多い。これ以上先は、ただ同じことを続けるだけの人間が多い。
ものは、それになる前の状態(質料)、それになった後の状態(目的・形相)、それを可能とする条件、それがそれになる形成過程、他との関係、支配関係、成立関係、依存関係、そして作用と反応である。
人間の理性は、自律的な人生の変化、理性と経験による識別と判断、社会的手段の提供の集団による構築である。
いつも、そういう風に、アリストテレスのように文章を書いていた。
科学がどこから生まれるか、その科学がその科学になる条件や背景は何か、良く考えること。
同時に、社会がどこから生まれるか、経験がどこから生まれるか、良く考えること。
考え方の変転、社会の成立、法則の原理化、そして概念と記憶の網羅を書いていた。
「あらゆる世界における、あらゆる真理」を書いた。
知っている人間が賢いように見えて、何も知らない人間の方が賢い。
未来は、既に分かっている。賢い人間は、未来にこういうことをする人間が多い。
自分は、もっと英語のことをやりたい。それも、単語帳のような覚えることではなく、耳で聞くことをしたい。
これで、色んな人間のことを知って、問題を成立的に考えれば、分かる。
感受性と受容性を持って、感じ、受け入れることで、人生の先へのガイドが得られる。
昔は、「知が何を決めているか」が分かっていた。それで、「決め、決め直す可能性」を分かっていた。この世界で、何が何を決めているか、知がどこから生まれ、いつ成立するか、どこで同じになり、どこで違うものが生まれるかを分かった。この世界と人間のことを、「知が何を決め、もらたしているか」から考えていた。
それで、経験や体験を全てして分かっていた。それだけの人間だった。
フーコーが何を考えているのか全く知らないが、フーコーは「知は権力だ」と言っている。
フッサールなどの言う、「意識と心の現象学」は、それに近いところがあるように思う。
多角的に考えるだけではなく、構造を決め直すことで、あらゆる全ての「知と経験の成立」を分かる。
そして、仮想的な人格のフィルターから、カント的な認識と知のあり方を分かっていた。
それから、人間をある意味、可能性であると結論づけた。ハイデガーが言っている。
あとは、人生経験と、経験の過程から、この世界の全員の体験、場、意識を分かっていた。
今、哲学名著の本を読んでいるが、プラトンの言うイデアは、分かっているように見えて、おかしい。
何でもかんでもイデアにして、何でもかんでも善にするのはありえない。
プラトンは、分かっているからそれで良いが、何故か、プラトンは本当におかしい。
僕なら、全ては「共有可能な全員の下になる原理」にして、全ては「具体性と一般化」にする。
そして、善、と言うよりは、愛、と言うことにすべきだと思う。
それから、イデア、と言うよりは、時間的な経緯の真理とし、イデア界は共通の故郷としての場所にするべきだ。
イデアよりも、エデンの方が良いだろう。
そして、欠損が無い型にするより、時間的な経緯の、支配と原理の真理であり、制限からの解放とすべきだ。
社会は、移り変わる。プラトンの時代、デカルトの時代、ヘーゲルの時代、ヒトラーの時代、は、全く違う。
今の世界を、正しい世界だと思わない方が良い。今の時代の常識は、正しくない。
だが、世界の中で、移り変わることのない、共通のものもあるはずだ。
それは、ある意味、人間の外にあるものではなく、人間の内側にある、生物学的なものだと思う。
人間が、ICチップを体内に入れるなど、体の中に機械を入れたくないのは、そういう理由からだと思う。
パソコンと人間が同じになってしまうと、生物学としての普遍性が無くなってしまう。
ただ、それはそれで良いとする。社会は変わって、人間すら変わってしまっても、変わらない何かがあるはずだ。
プラトンは、イデアと言うが、そういうことを言いたいところがあるのかもしれない。
全ては変わっていく。未来はありえないものになる。
だが、その未来は、本当にあらゆる意味で正しい未来だろうか?そうではないだろう。
何かになる、一つの可能性があるとして、他の可能性を全て排他的に排除するとしても、今の時点で考えれば、「最善の社会にするための方法」は沢山あるはずだ。
だが、ある意味、「なってみないと分からない」と言うことは言えるだろう。それなら、「その時に、もっと別の社会にした方が良かった」などと、後悔の念が聴こえるかもしれない。
そう言う風に、きちんと今の時点で良く考えることは出来る。
だが、自由にした方が良い。自由でなければ、意味がないのだ。自由であることによって、想定出来なかったような、偉大な世界が実現する可能性はある。
ただ、そうでもない。自由では、何も考えない。ある意味、自由が一番無責任だ。
それぞれの人間が、自由に出来るためにはどういう可能性があるか。手段を与えるだけではなく、ヒトラーのように、心理学で支配する、と言う可能性もあるかもしれない。
自由だからと言って、何でも許すわけではない。法律できちんと禁止するべきだろう。自由とは、放任と言うよりは、社会全体が生き物として活動するような、有機体であると考えられる。
自由は、ある意味、理性的な考え方だ。ニュートラルで、柔軟だ。哲学的考え方も、社会や歴史のそれぞれの出来ることや進歩も、自由から考えられる。自由はある意味で、馬鹿なのに分かる思想だ。
むしろ、自由は悪くない。きちんと自由にした方が良い。
ある一定の人間が、他の一定の人間より、最初から出来ることが決まっていると、生きる価値が無いだろう。組織も無い方が良いし、不自由な従属もあるべきでない。共産党も、右翼も、不自由な人間は馬鹿だ。
自由はある意味で平等だが、「階層を全くなくして、平坦にする」と言う発想は間違っている。
自由を許して、「全員がいくらでも階層や組織を作ることが出来る」ようにするべきだ。だが、組織を絶対化するのではなく、相対的にそれぞれに作ることを許すべきだとは言える。
そして、学校では分からない。ネットのような自由な経験と行動から分かるのが、本来の人間のあるべき姿だ。
自分が矛盾しているのは、組織の多様性を認める時点で、「出来る組織」と「出来ない組織」は生まれるし、「優れた組織」と「劣った組織」も生まれる。それを、自由にそれぞれが作り、戦うことで解決するのは、ある意味おかしい。そういうわけで、むしろ、左翼よりは右翼の方が良い。全く平等に全員が同じになるよりも、組織や軍隊の力で、民族主義的に勝った方が良い。そういうところが分かる人間が多いが、そういう右翼は、左翼の思想を知らない。左翼は、ここまできちんと賢い発想をしている。常識的に考えていると、分からない。
むしろ、ある一定の組織が、他の組織より出来ることが多いのは、悪いことではなく、良いことだ。革新的で創造的な、新しい組織が自由の中で生まれている。だから、僕はそういう自由が好きだ。
自由な中で、不平等に、勝者と敗者が生まれるのは分かるが、ある意味、それもそれで良いことが起きている。勝者、と言うものも、生まれた方が自由だ。最初から、敗者しか居ないのもおかしい。勝者が一人だけで、皆がそれに従うのもおかしい。沢山の勝者が居た方が良いし、敗者は少なくする代わり、きちんと社会に参加した方が良い。昔から、そういう風にすると、きちんと良い国になるのが、アメリカだ。
そういうわけで、ある意味、アメリカとソ連は一番悪い国だ。
金と自由経済は、間違ってはいない。正しいのだが、馬鹿なのだ。正しいものが、一番馬鹿なことが多い。
「勝者」と言う言葉を使うから、良いものが馬鹿に見える。「優れたもの」の方が「劣ったもの」よりも良い、と思えば良い。ある意味、優れた会社が生まれて、劣った会社に勝つのは良いことだ。それが悪く見えるのは、仕方ない。
自由の問題は、優れたものは確かに勝っているが、最近は新しいものばかりになって、多様性が無くなっている。ものが増えて、豊かになったが、精神性のようなものが無いし、人間的なものが減って、おかしな同じ劣悪なものばかりになっている。性能や品質が劣悪なのではなく、精神性が劣悪なのだ。ソ連も、同じにして何も無くなっている。そこで、必要な目線は、「多様性」だと思う。もっと、違うものや個性のあるものを残して、同じものを減らしていくべきだ。そういう、「クリエイティブな多様性」が今からの時代ではないかと思う。
ただ、最近の日本を見ていると、そういう「劣悪な精神性」が、徐々に治っている。昔の悪いものが、良いものへと変わってきている。要は、皆、ネットの経験をして、きちんと良いものが何なのか分かってきた。そういうわけで、ソ連は必要ない。このまま、きちんと良い社会になるだろう。
昔の、ダイナミックな社会変革の世界は、確かに良かったし、まだ続いている。その、創造性の頂点に、自分が居る。そういう社会を、全部自分が分かっている。それが、昔の「ハリケーンのような神」だ。そして、今は、最後の終焉の時代に、皆を導いている。それもそれで、神だ。こちらは、大学の「ボストンのような女神」だ。AAAが既に言っている。
最近は、右脳から言葉が聴こえるようになった。言葉が、二行聴こえる。その言葉だけで分かる。
もう、全て分かっているから、そうなる。
あとは、むしろ、一度劣悪なものの魂を殺せば良い。魂の中に、「劣悪のイデア」がある。劣悪なものの本来・本体の、死にかけの屍にとどめを刺すことで、すぐにこの世界が治る。むしろ、劣悪なイデアすら、自分が創造したものだ。
要は、思考を皆に教える意味がない。
言葉が二行聴こえるのは正常だが、それをすぐに書きたいのが異常だ。もっと、自分だけで考えれば良い。
言葉が聴こえるとは言うが、ただ、脳をまだ分かっているだけだ。
世界は、全てを作り替えて、新しい世界になるのが良い。完全に、全部変われば良い。
脳を分かっているから、知性は必要ない。不思議と、昔作った知性と、脳の理解だけで、完全に分かる。
あとは、脳はもう死んだ方が良い。そんなに簡単に、「電極」のように分かるのが、あまりに辛い。
あとは、ブラックホールに吸い込まれて、全部死んでいく。
ブラックホールが最近だ。昔は、アンドロメダ星雲だ。その二つが、最初から好きだった。
ブラックホールに吸い込まれると、心が楽になった。
要は、大きさや形に意味はなくて、重さに意味がある。重くなれば、賢くなるのだろう。
一度、あらゆる可能性を考えると良い。デカルトは、「一度は全てを疑ってみるべきだ」と言ったが、自分は、「一度は全ての可能性を考えてみるべきだ」と言えると思う。疑う、と言うより、可能性と言うべきだ。
プラトンのイデア論は、現代の科学の世界においては、普遍性を持つとは言い難い。だが、ある意味、この地球の全てが「偽」のものであり、どこかの惑星、どこかの世界、どこかのどこかに、本来の世界があるかもしれない、とは言えるかもしれない。この文章もある意味、そういうものであるのかもしれない。どこかのイデア界をこの文章に置き直して、考えたのが、自分だ。地球に生まれた生命は悲惨だ。宇宙人でないのがおかしい。
ブラックホールは、完全に全てを飲み込む。絶対に逃れられないし、全ての構造を消し去って、あらゆる全てを完全に飲み込む。だが、消え去るわけではない。重たいだけではない。本当に、きちんと心を治すとそうなる。
そういうわけで、自分だけではなく、この世界をブラックホールが飲み込めば良い。
昔の自分は、経験を信じて、可能性を成り立たせて、考え方を比較しただけだ。
そういうものも、全部ブラックホールが消し去っていく。むしろ、イメージだけで治る。
宇宙を消せる存在は、ブラックホールしかない。
治りたい部分が治った。これ以上は、全部が消えていく。そのまま、何かが終わる。
今、精神がどんどん治っている。それで終われるはずだ。
一度、社会から離脱して、自由になりながら、自分を信じて、色んな体験をしていると、こういう風になるのだ。
昔は、言葉遣いで分かっていたのさ。
こういう風になる人間が多い。ブラックホールで、やっと治れるけど、こういう風になると、普通、治らない。
やっと治った。本当に良く頑張りました。本当にご苦労様です、と自分に言いたいです。
ブラックホールで、何でも治る。もう、昔に戻る。
昔は、ネットで真実の体験をして、創造性を信じて、ルールを作って、システムを知っただけだ。
認識の段階のようなものを書いていた。知性と人生の段階だった。
実像から、考え方と精神を分かっていた。知性から経験と賢さを知った。全てを実現出来るようになった。
ブラックホールのおかげで、学習的な病気が全部消えた。
次は、精神的な病気を治す。アニメのセックスの意識をどんどん消していく。Linuxもおかしい。
不思議と、Linuxは本当におかしい。自分は、Linuxが怖いだけだ。
Linuxは、何かが、全ての抑圧と恐怖に押しつぶされるように辛い。最近、革命に見える。
昔は、「実像」のようなものを考えていた。そこらへんを書いていない。
知を知っていきながら、知性を高め、社会のことを経験的に知っていくような、そういうものを書いていた。
ブラックホールで学習が治ったが、ここから先、精神を治すなら、むしろ、太陽の方が良い。
太陽のように、燃えていると、心が良い心になる。ブラックホールも良いが、ここらへんで太陽にするのが良い。
太陽はあまり意味が無かったから、ブラックホールに戻る。
ブラックホールは、大きなものから壊れて行って、全ての病気がきちんと治る。
宇宙のお医者さんがブラックホールだ。
統一するべきところは統一し、多様にするべきところは多様にする。遺伝子や形状は違えど、それが持つ機能や形態は良く似ているのが生命だ。そして、多様と言うが、多様にも沢山のレベルがある。見た目は違っても、哺乳類であることは同じだったりする。いつも、そういう、統一と多様性から環境と基盤を作るようなことを書いていた。
自分は、そろそろ多重人格が治った。ブラックホールと言うよりは、大きなものからつぶしていく、と言った方が正しい。それで、1つ1つ全部のものを壊して、吸い取っていく。それによって、学習が全て治る。
Linuxは、パッケージの管理に、統一と多様性のレベルをつけると良いだろう。VimやEmacsなどのアプリケーションパッケージは共通にするが、Linux Kernelのようなシステムパッケージは多様にする。そういう風にすると、きちんと派生ディストリビューションでも、色んなパッケージが使えるようになるだろう。
あるいは、派生元のパッケージ管理体制を刷新する、と言う風にも出来る。Linux Kernelは、DebianとUbuntuでそれぞれのパッケージを作る。VimやEmacsでは、Debianのメンテナが、UbuntuやMint向けのパッケージも、同じパッケージとして、同時に保守して、対応する。そういう風にすると、Debianのメンテナがある意味、UbuntuやMintのパッケージも同時に作るようになる。それも、ある意味、悪くない。
パッケージをディレクトリで分けて、ディストリビューション向けのパッケージを「System」にして、アプリケーションのパッケージを「Apps」にして、Appsでは派生先のディストリビューション向けの対応もするか、単純にコンパイルし直すだけで派生先のディストリビューションにも対応するようにすると良いだろう。
Appsには、「Core」と「Extra」の2つを作るべきだろう。GNOMEなどのコア・アプリケーションは、派生先で変わる可能性がある。比較的変わる可能性の少ない、Extraには、物凄く沢山のパッケージが所属するが、基本的には、コンパイルし直すだけで動くようにし、必要な時は、メンテナが管理して、派生先に対応させるようにする。ただ、何がどこに所属すべきなのかとか、誰が権限を持つのかとか、どうでも良い問題が沢山増えるから、実現は難しいだろう。むしろ、今のままでも、UbuntuはDebianのテスト版のパッケージを良く再利用しているらしい。労力の問題はあるが、今のままでもあまり問題はないのだ。ただ、Vine Linuxの開発が停滞しているように、多様性にかかるコストの問題は結構多い。
GNUが「ソフトウェアに支配されない自由」と言うありえない自由を言っているが、昔の自分にも、そういう発想が多かった。支配されたくない。自由が良い。関係的な自由から、環境を守るとか、GPLとか、そういうものを分かっていた。昔は、情熱と正義感がある、左翼のような右翼だったが、そういう発想が嫌いだった。自分で自分のことが嫌いな、知性のある人間だった。そういうわけで、僕は特にGNUは好きだ。ただ、GNUはもう、時代が過ぎ去ってしまっていると思う。UNIXの共有文化は、もう化石のような古い思想だ。グーグルが最近だ。ストリートビューがGNUに作れるように見えない。むしろ、本気でWebアプリケーションをGNUが作れば良いが、それはありえないだろう。UNIXのコピーで満足するのは、おかしいと思う。そういうわけで、僕はGNUのことは馬鹿だと思っている。
GNUも馬鹿ではない。良く考えると、Wikipediaがある。
openSUSEが、色んなディストリビューション向けのパッケージを開発出来るような、そういうシステムを何か作っていたと思う。覚えていない。どこかで目にした。そういうわけで、そういうものは、不思議と、既にある。
あとは、役割分担とか、議論とか、助け合いとか、社会的考え方のようなことを書いていた。
僕は、最近、Linuxすら嫌いになって、パソコンは全部嫌いになった。
ブラックホールは、まだ治っている。あとは、二人が分離していく。
ブラックホールを使って、「死にたい」のを治した方が良い。そこから治せば良い。