最近の日記に戻る | 2016年8月の日記に戻る

=2016-08-17=

負けるのが怖いのが自分だ。もう、勝てば良い。

騙して、道連れにして勝つのではなく、正義を持って、堂々と思い知らせてやれば良い。

オリンピックを見ているが、卓球女子団体は、勝てて本当に良かった。

リオは、つまらなくない。きちんと面白い。

自分だけではなく、皆のことも治した方が良い。

それは、一度「治る可能性」を与えるだけではなく、最後まできちんと治した方が良い。

自分は、他人任せに出来ないこともある。他人任せを止める、と思うと賢くなる。

ただ、他人任せの方が楽なところもある。関係ないと思えば良い。

思いやりから社会が作れる。そういう、「思いやりの社会論」を書いていた。

自由な論理学と考え方から分かっていた。「自由と論理」からこの社会と科学を分かった。

パターンを作って、決まりを作った。

説明して、成り立たせて、世界観とシステムを創った。

それから、社会の構造を作っていた。「可能性の社会論」を書いていた。

方法を作るとか、意識を高めるとか、共有するとか、作って使うとか、そういうことを言う。

プロセスのような考え方から、人生と社会の全てを創造していた。

他人にやってもらう「楽」よりも、自分が出来る「自由」を取りなさい。

皆を治すためには、辛いことをすぐに起こして、その上で出来るだけ辛いことをしないことだ。

もう、精神が全て治った。

あとは、情報を自由な関係に直して分かっていた。自由から説明して社会のことを分かった。

一レベル馬鹿だ、と思えば分かる。

意図と客観視から、全ての現象が創生的に分かっていた。

全ての環境から、何が生まれ得るかを考えていた。

心理から宇宙の意識が分かっていた。プラトンの言う、「イデアの想起」に近い。

理性とは言うが、存在と行動が「どうなればどうなるか」を推測して、実験していた。

そして、人間と人間の関係や、自分と他人との共通性、社会と社会の違いや普遍性を考えていた。

足は、もう書くのを止めるのを止めれば良い。それで、精神が治って、もう、賢くなる。

同時に、書くのを諦めれば良い。そうすると、執着が無くなって、楽になる。

文章を書くのと、書くのを止めるのの、矛盾したどちらもに執着するのが悪い。それでおかしい。

そういうわけで、もう治るのを諦めて、気楽に書けば良い。

強迫観念のように文章を書くのは、もう止めた方が良い。書いた方が治るから、こういう風になる。

人間なんか、ただの血肉だ。ただのものだ。生き物と何も変わらない。

ただ、僕が実感して思うのは、精神は本当に色んなことが出来る。本気になると、そこまで出来る。

オリンピックも同じだ。スポーツ選手は、練習の力だけではなく、「精神の力」で頑張っている。

人間は神経だ。自分のものだと思っている肉体さえも、本当は自分のものではない。

人格や環境すら、自分のものと自分でないものとの境界は、あいまいなところがある。

だが、機械を人間に繋ぐのは悪い。それは、自然の生命原理に反する。水と酸素以外のものに依存する。

ただ、最近はそれが普通だ。

ある意味、電気にも依存するのが普通になった時、その電気が自分で発電出来るようになると良いだろう。

そうでなければ、それはただの機械だ。人間はただのゴミクズになるだろう。

本当の「自由の理想」の下に、全員を従えよ。

依存や束縛は、継続とともに自由な自分の力になる。「束縛による自由な力」が高い人間が賢い。

束縛から逃げ回っていると、そのうち、自分の持っている全ての能力を失ってしまう。

環境から自由になって分かるのは良いが、それは、人間の「知る」と言う根源的能力を失っている。

分からなくなって分かるのは、何も分かっていない。環境から離脱すると、分からなくなる。

ただ、そういう分からなくなった人間は、賢くなる人間が多い。不思議と、それはすぐに馬鹿になる。

昔の自分は、そのように、環境から離脱した上で、全ての労働と同じ体験を経験して分かっていた。

自由に何でも出来て、何でも分かるようになった。

まさに、自由だ。だが、まさに、異様だ。そのせいで、「異質なもの」になったのが、昔の自分だ。

まさに、悪魔だ。そのまま、「自由の神」になった。

それで、意識と「決め直すこと」で分かっていたのが、昔の異様な意識の自分だ。

最近は、どんどん光に近づいている。愛がそのまま真っ白い光になってきている。

自分は、感情が悪いだけだから、感情を治せば良い。

感情は、一瞬で止まったままになっている。「躍動する」と言う発想が無い。躍動が怖くなっている。

自分は、何が分からないのか、分かっていない。

グーグルの恐ろしい点は、機械にするだけではなく、ネットワークで繋がっている。

プログラムの本体は、グーグルのデータセンターにある。そこでしていることを、グーグルしか知らない。

そういうわけで、皆を機械にして、奴隷にしているだけだ。

ただ、グーグルはそんなに悪くない。むしろ、グーグルは可能性を高めて、人間を進歩させている。

良く分からない。グーグルは、ITをきちんと発展させているだけで、そんなに悪いことは何もしていない。

ただ、そういうことを言う自分が怖い。

自分は、もう、この世界に何も関心を寄せていない。そこが怖いのが自分だ。世界に意味が無いだろう。

もう少し世界のことを考えた方が良い。むしろ、グーグルは、ただ検索エンジンとWebサービスを作っているだけだ。

グーグルを火の鳥やターミネーターにしても、グーグルが悲惨なだけだ。グーグルはまともな良い会社だ。

それこそ、グーグルは、普通、ネットの中で一番賢い。何故か、製品やサービスが使いやすい。良く分かっている。

そういうわけで、グーグルは、「良い会社」なのが怖い。それなら、勝てる。

誰もグーグルを言わないのは、明らかにどうでも良い会社だから仕方ない。

ただ、人間をコンセントに繋ぐようになれば終わりだ。

そういう、アホなことを言う人間が居ないから、ネットは意味が無い。

ネットの問題は、友達感覚で気軽に悪口が書ける。そこを何とかした方が良い。

自分の問題は、これでは確かなものが何もなくなる。

良いものは良い、悪いものは悪いと、確かに信じた方が良い。信じないと、分からない。

確かなものが何もなくなっている。それは、パソコンのせいでもあるが、全部自分のせいだ。

そういうわけで、「自分がした悪いことは悪い」と思えば良い。それで分かっているのが最近だ。

誰もが、自分の体で生きていた。

バンプを聴いているが、バンプは本当に良い。僕は、バンプが一番好きだ。

むしろ、音楽は悪くないように見える。

はてなはあまり悪くない。はてなはただのブログの会社だ。ただ、ありきたりな一般的ブログサイトだ。

むしろ、僕はグーグルはそんなに嫌いじゃないし、グーグルの製品やサービスは好きだ。

昔から、僕はグーグルが好きだ。マイクロソフトが嫌いだった。偉そうな会社に見えた。

ただ、それは、子供だったからだ。子供は、つまらないことですぐに嫌いになる。子供とは議論出来ない。

僕ははてなのファンだから、はてなに勝ってほしいと思う。

自分は、人間のことを数学的、心理学的に考えれば分かる。それをしていない。

全ては、自分の側にある。自分の側にあるのが、自分の認識や心だ。

だが、遺伝子ではなく、環境的、経験的に、捉え方や解釈のようなことをしている。

そういうわけで、それぞれは本当に自由だ。

そして、環境から離脱することで、全員の環境を包括出来る。

それから、正しいことはいつでも正しい。1つ1つ積み重ねて行けば、全ての物理的法則になる。

そこでは、反応や作用を考えることが出来る。

ある意味、反応を1つ1つ治していくことで、全ての認知行動が正常になる。

そういう風に、心理学的、数学的に考えれば良い。

掲示板サイトのように、「プラットフォームを提供する」ことが賢いこともある。

昔から、自分はそういう、「皆を下から支えるような、縁の下の力持ちのようなシステム」を作りたい。

ただ、皆が集まる場を作りたかった。

ネットゲームを作りたかったのも、そういう、皆が集まるゲームを作りたかった。

そういうものを、オープンソースのOSに、求めていたのかもしれない。

僕は、何故か漫画はあまり読まない。子供時代には読んでいたが、読むのが怖い。

悪いから読まないように見える。漫画やアニメの類は、昔から嫌いだ。

逆に、音楽は良く聴いている。

子供の頃は、逆に、音楽を全く聴かず、ゲームばかりしていたし、漫画は良く読んでいた。

一番良く読んでいたのは、ズッコケ三人組と言う、児童小説のシリーズだった。

グーグルは、良いと思った方が良い。なぜなら、自由だ。

グーグルも、テレビも、自由だから良い。自由だから、自由にすれば良い。

そして、他人の自由を奪うのが悪い。それぞれが、最大限に出来るようになるべきだ。

それから、他人に自由を与えるのが良い。もっと自由になって、もっと出来ることを増やせば良い。

組織は良いが、支配は悪い。支配を出来るだけしない中で、組織を平等に作る。

ただ、そこでは、支配と労働の平等のバランスが必要だ。

いつも、そういう、「全てを認め、許し、解放し、支配しない自由」を言っていた。

むしろ、グーグルやテレビは、悪く見えない。見ていると、一番自由だ。

グーグルは、何がウケるのかが分かっている。ああいう風にすると、賢い会社に見える。

それこそ、普通、自由を悪いと思ってしまえば、それで終わりだ。

自由を悪いと思わない方が良い。自由は悪くない。不自由なものの方が、悪いものが多い。

そういう、「自分の理想」は信じた方が良い。

それこそ、グーグルは、もっと進歩して、もっと良い会社になれば良い。

誰が見ても、本当にマイクロソフトになれば良い会社になる。

既にマイクロソフトが馬鹿な会社になっているから、そろそろ勝つだろう。

マイクロソフトが馬鹿になっているのは、僕がLinuxを支持したから、と言う意味もある。

不思議と、自分が書いたWikiの内容で、本当にWindowsよりLinuxの方が賢く見える。

ただ、Linuxは何かがおかしい。精神を病んで、反論出来なくなる。それは、勝ちたかっただけだ。

そういうわけで、グーグルが僕の次をすれば良い。そうすると、世界が正常になる。

最近は、Linuxだけではなく、Windowsにもあまり意味が無い。今一番強いのは、グーグルだ。

自分が見ても、自由は悪い。自由は、小学生の発想だ。

もっと、「健全な社会」になれば良いと思う。僕は、もっと正常で健全な社会にしたい。

それは、むしろ、皆のためではないのだと思う。純粋に、自分の望む、健全な世界を求めている。

ネットの友愛は悪くないが、性愛の表現は悪い。そういうものを、どんどん消していった方が良い。

学校は悪い。学校では、賢い人間にならない。

学校は信じない方が良い。むしろ、学校で勉強なんか誰もしていない。

もっと、そういう風に、「自分なりに信じること」をしていると、きちんと分かる。

経験から、社会は、真実か、運命か、自然か、奇跡か、労働者の国か、支配者の国か、自由な国になる。

良く分からない。もう少し、良く考えれば良い。

学校とパソコンを悪いと思った方が良い。学校では分からないし、パソコンは狂って馬鹿になる。

学校の問題は、人生を無駄遣いしている。高校生として高校時代を過ごすと、そのまま馬鹿な大人になる。

絶対的な義務なんか無いと思った方が良いが、それなら、全ては自己責任である、と言うことを受け入れるべきだ。

最初から何も無い中で、独りで歩めるか?それは、不可能だ。誰かの手助けは必要だ。

それは、既に成功した、自分のような成功の経験者でなければ、手助けの意味はない。

そういう風に考えれば良い。そういう風に、「どのような手助けをすべきか」を考えると良く分かる。

社会的なものだけではなく、自由な環境をそれぞれが築くために、それぞれがマスターとなるべきだ。

教わる、だけではなく、自分から教えるものへと変わっていくべきだ。

平和とは、環境を作ることだ。皆で正しい環境を作っていこう。環境の中にあるべきものを考えよう。

資本主義は、ある意味、一番独裁者の主義だ。資本主義でなく、皆で決めることで、皆の世界にすることが出来る。

皆の意見を聞きなさい。

皆とともに歩むと同時に、自分の自由な中で、何が出来るかを試しなさい。

本当の愛を知るまで、諦めることなく、歩み続けなさい。

いつも、自分はそういうことを言っていた。「人生の生きる希望」のようなことを書いていた。

自由とは、平和な国を皆で作ることだ。

平等とは、科学を作って、教えることだ。

自由な中においては、戦争は起きないはずだ。自由が一番平和だ。

だが、アメリカを見ていると、そうでもない。アメリカは、自由で戦争する、単独主義・孤立主義の国だ。

可能性を信じて、出来るだけ抽象的に考えなさい。

建設的に、「分かると信じる」ことで分かりなさい。最後まで分かると信じて歩めば、何でも分かる。

モデルを信じなさい。そして、自分の手で全ての科学と同じものを作りなさい。

そういう、自分をやらせるのを、もうそろそろ止めたい。

皆は、ここから先は、平等を信じるのが良い。もう、知識人が言う「生産手段が発展する過程」が終わったからだ。

きちんと生産力が高くなったから、ここから先は、計画経済をして、平等に配分するのが良い。

正しい生産と計画を平等に実行する。

ただ、そういう、左翼のようなことは言わない方が良い。明らかに悪い。

平等を信じなさい。平等は悪くない。全ての人間を平等に幸せにしたいだけだ。

そういうわけで、平等は良い思想だが、むしろ、自由も悪くない。

自由も自由で、本当に良い思想だ。そういうわけで、平等も良いが、もっと自由を信じなさい。

真面目に考えて、グーグルが自由だが、グーグルに勝つのも自由だ。

手助けを信じなさい。

自分を信じなさい。

自由を信じなさい。

平等を信じなさい。

可能性を信じなさい。

自然を信じなさい。

運命を信じなさい。

理想を信じなさい。

数学と相対性を信じなさい。

神と奇跡を信じなさい。

そして、自分の力で歩みなさい。自分の力だけで賢くなりなさい。

他人に頼るのも、悪くない時はある。それでも、他人任せにはしないようにしなさい。

いつも、そういう、「キリストのような人生の助言」を書いていた。

あとは、人生や社会の可能性を全部決めていた。

平和な世界になれ。

自然な世界になれ。

自由な中で、人々が生活し、それぞれのために生き、そして他人を助けよ。

国家は、法律と制度を作り、仮想的な決まりから、現実的な社会を作り、それぞれの合意から実際の秩序を築け。

そういう風に、全てを決める、まるで皇帝のような文章だった。

あとは、本当に計算のような文章だった。

可能性、具体化、理想、現実の中で、それぞれが信じ、疑い、知り、考えることで、運命と自然の全てを知って、社会を築くこと、そのために全ての準備段階を知ること、科学を作ること、そのために建設的な前提条件を考えること、プロセスを知ること、構造を作ることがあれ。

いつも、そういう、数学やパソコンの関数のような文章を書いていた。

自分は、「信じて治す」よりも、賢くなった方が良い。何も賢くなっていない。

頭を賢くするためには、書くのが良いからこうなる。もっと賢くなった方が良い。

ネットを悪いと僕が言うのは、僕がネットを見たくないからだ。見ていると、何も分からなくなる。

不思議と、本とテレビだけの方が分かる。テレビもあまり見ていない。

本だけの方が分かるし、それで文章を書いていると、きちんと覚える。ネットは、昔は読んでいた。

ただ、ネットの文章は読んだ方が良い。それも、皆は、ネットを見ないと何も分からないだろう。

この世界の、もっと正しい可能性、もっと正しい社会が、何か考えられるだろう。

僕は、それを夢にすれば良い。もっと正しい社会を作れば良い。

あとは、僕のホームページは、見ていると、良い。宇多田ヒカルみたいな大人の女に見える。

正しい可能性を考えなさい。

論理を覚えるだけではなく、論理を作りなさい。

社会のことを全部説明するような、そういう一行の文章が多かった。

EUから金まで、全部の社会を書いていた。

学校が悪いのは仕方ない。子供を何年も収容するのは、当たり前にキモい。学校は、悪くない。

自由な人生と考え方の段階を書いていた。

それが本当は何であるにせよ、そのように現象し、作用し、そのように振る舞うものだ、と言うことから分かる。

そこから、知の段階はスタートする。

そのように振る舞うなら、同じものだ。

そして、そこで、どのように出来るか、のようなことを考える。

正しいことを経験で知り尽くす中で、このようにも出来る、このようにも出来る、と分かってくる。

感情と経験から、何が本当に大切なのか、何が本当に理想なのかが分かる。

また、自分の力で世界を築くようなことも出来るようになる。

そして、心理学のようなことが分かるようになる。

世界を理想通りにしたい、と言う情熱が生まれる。

知性と価値観と経験を知る中で、理想はシステムと共同体を築く、と言うことになってくる。

人間のことが、経験から分かってくる。

自由の限界から、それぞれが何を知っていて、何を考えているか、目指しているかが分かる。

共同体の理想と現実を知る中で、社会をどのような秩序で作り上げるべきか、が分かってくる。

そこまでの段階で、人生と理想が全て分かる。

最終的には、最後まで全てを知って経験することで、自由から理想な社会が分かる。

今まで経験してきた抑圧が、全て世界への愛に変わる。

そういう、「社会と人生の段階」をいつも書いていた。

人間と虫は同じだから、中高生がキモいのは仕方ない。

女は、そんなに男を信じない方が良い。

男を神のように信じると、それが一番、疑ったり、不安にさせたりするようになる。

そういう、迷惑な女が多い。

男も、そんなに女を愛さない方が良い。

女は、わがままで、自分勝手で、周りに迷惑をかける女が多い。

男も、女も、そんなに信じたり、愛したり、しない方が良い。

むしろ、男も男で悪い。何も分からない男が多い。男は賢くない。ただの馬鹿しか居ない。

戦いを賛美するのは悪いが、人間は戦わないと分からない。

自分は、戦いによって分かった。一人でおかしくなるだけの、誰も殺さない善の戦いだった。

それで、作家が出来るようになった。

学校は悪い。皆が自分勝手すぎるせいで、学校の教科書は、「ただの普通のもの」になる。

学校なんかどうでも良い。誰でも、Linuxと戦いで分かる。きちんと最後まで戦うと分かる。

ただ、僕は戦いなんか嫌いだ。自分は平和主義者だ。戦いなんか、一切したくない。

それぞれの場合を知り、法則を知ること。

そういう、「それぞれの場合」が分かる人間が、唯一賢くなる。

そして、経験的に知ること。経験的に、「どういう風に考えれば良いか」を考えると、帰納法が分かる。

最近、自分は、具体的な「それぞれの場合」が分かっていない。

こういう、過度に一般化する人間は、分かるように見えて、何も分かっていない。知性が無い。

昔はUNIXで分かっていたが、UNIXは馬鹿ではない。Linuxは本当に賢い。

昔は、場の意識とか、価値観と経緯とか、全員を吸収するとか、自由な体験とか、心の物理とか、そういうものを、「場合」を考えて分かっていた。そういうわけで、場合を考えれば、すぐに出来る。

一度、全てを経験した。本当に、人生経験の豊富な賢い人間だった。

考えて全てを知っていたが、その全てをLinuxのWikiに全部書いていた。

最近なんか、悪い暗黒の支配者の戦いをしただけだ。本当に何も出来なくなった。

あとは、モデルを作るとか、そういうことを、「経験的場合を考える中」でしていただけだ。

経験的な予測の場合を考える中で、意図や世界モデルに行き着いた。そういう人間だった。

昔は、全体像を書いていた。意識的、経験的な、全体像とその段階のようなものを、社会的に書いていた。

ありえない世界を全部作って、自分の人生を全部書いて、経験、自然、共有、環境など、世界のことを考えていた。

人生は、知り、考え、価値を残し、意志を共有し、時間を考え、前提条件と技術者の開発視点の目線を考えた。

そして、運命から自由まで、全てのことを融和したような、神のような経験をした。

人間が生きている、と言うことは、とても不思議だ。昔は、そういうことを良く書いていた。

真理から網羅まで、あらゆる「原理」のようなことを書いていた。

ものの一部や状態に名前をつけるとか、そういう発想が多かった。

要は、「言語と自己を疑う」と言う発想だった。普通、人間が思う「分かること」を全て疑う。

そういう人間だったから、人間が何を分かっているか、生の先に何があるのか、のようなことを全部分かっていた。

哲学とは言うが、昔は心の実像を見て、世界の全ての経験を自分の経験から考えただけだ。

ただ、数学的に説明とモデルを考えることで分かっていた。

そういう、「何でも言えるモデル」のようなものから、心と環境の関係と、そこで成り立つ自由を考えていた。

あとは、ただ、成り立たせていただけだ。

全てのことが、すっきりと分かった。積み重ねから、世界の全ての経験を考えていた。

環境への適応、自然な心理的な社会の構築、自由な人生の開拓、ネットの仲間との絆で分かっていた。

あれは、馬鹿な人間だった。悪いだけなのに、自分を良い人間だと思っている。

あれは、戦う数学者だった。ネットで相手のことを支配する。パソコンのおかげで、数学者ほどに数学が分かった。

馬鹿だったが、全てが分かった人間だった。最近、自分のせいで、そういう、「分かる良い人間」が増えた。

あれも、良い人間だ。思いやりと情熱と希望のある、世界を背負うことが出来る救世主だった。

死ぬよりも、生きなさい。

問題でない問題、病気でない病気、おかしくないおかしさを治すと、治る。

あとは、問題でない問題を治していると、全部治る。

昔から、自分は、「その言葉が言っている、本当の意味」を考えて分かる。

あとは、引き篭もりの経験が多かった。人一倍、色んなことを経験して分かっていた。

何もしなくても、間違ったことをしなければ、精神は治る。殺したり、滅ぼしたり、しなければ良い。

昔は、関係の中で、何が出来るかを、行動や経験から分かっただけだ。

もう、精神が全て治った。本当に、楽になった。良い精神になっていく。何かが涼しい。

足は、小脳だ。小脳を殺せば、足が死ぬ。足を治したいから、小脳が動いている。生きた方が良い。