負けるのが怖いのが自分だ。もう、勝てば良い。
騙して、道連れにして勝つのではなく、正義を持って、堂々と思い知らせてやれば良い。
オリンピックを見ているが、卓球女子団体は、勝てて本当に良かった。
リオは、つまらなくない。きちんと面白い。
自分だけではなく、皆のことも治した方が良い。
それは、一度「治る可能性」を与えるだけではなく、最後まできちんと治した方が良い。
自分は、他人任せに出来ないこともある。他人任せを止める、と思うと賢くなる。
ただ、他人任せの方が楽なところもある。関係ないと思えば良い。
思いやりから社会が作れる。そういう、「思いやりの社会論」を書いていた。
自由な論理学と考え方から分かっていた。「自由と論理」からこの社会と科学を分かった。
パターンを作って、決まりを作った。
説明して、成り立たせて、世界観とシステムを創った。
それから、社会の構造を作っていた。「可能性の社会論」を書いていた。
方法を作るとか、意識を高めるとか、共有するとか、作って使うとか、そういうことを言う。
プロセスのような考え方から、人生と社会の全てを創造していた。
他人にやってもらう「楽」よりも、自分が出来る「自由」を取りなさい。
皆を治すためには、辛いことをすぐに起こして、その上で出来るだけ辛いことをしないことだ。
もう、精神が全て治った。
あとは、情報を自由な関係に直して分かっていた。自由から説明して社会のことを分かった。
一レベル馬鹿だ、と思えば分かる。
意図と客観視から、全ての現象が創生的に分かっていた。
全ての環境から、何が生まれ得るかを考えていた。
心理から宇宙の意識が分かっていた。プラトンの言う、「イデアの想起」に近い。
理性とは言うが、存在と行動が「どうなればどうなるか」を推測して、実験していた。
そして、人間と人間の関係や、自分と他人との共通性、社会と社会の違いや普遍性を考えていた。
足は、もう書くのを止めるのを止めれば良い。それで、精神が治って、もう、賢くなる。
同時に、書くのを諦めれば良い。そうすると、執着が無くなって、楽になる。
文章を書くのと、書くのを止めるのの、矛盾したどちらもに執着するのが悪い。それでおかしい。
そういうわけで、もう治るのを諦めて、気楽に書けば良い。
強迫観念のように文章を書くのは、もう止めた方が良い。書いた方が治るから、こういう風になる。
人間なんか、ただの血肉だ。ただのものだ。生き物と何も変わらない。
ただ、僕が実感して思うのは、精神は本当に色んなことが出来る。本気になると、そこまで出来る。
オリンピックも同じだ。スポーツ選手は、練習の力だけではなく、「精神の力」で頑張っている。
人間は神経だ。自分のものだと思っている肉体さえも、本当は自分のものではない。
人格や環境すら、自分のものと自分でないものとの境界は、あいまいなところがある。
だが、機械を人間に繋ぐのは悪い。それは、自然の生命原理に反する。水と酸素以外のものに依存する。
ただ、最近はそれが普通だ。
ある意味、電気にも依存するのが普通になった時、その電気が自分で発電出来るようになると良いだろう。
そうでなければ、それはただの機械だ。人間はただのゴミクズになるだろう。
本当の「自由の理想」の下に、全員を従えよ。
依存や束縛は、継続とともに自由な自分の力になる。「束縛による自由な力」が高い人間が賢い。
束縛から逃げ回っていると、そのうち、自分の持っている全ての能力を失ってしまう。
環境から自由になって分かるのは良いが、それは、人間の「知る」と言う根源的能力を失っている。
分からなくなって分かるのは、何も分かっていない。環境から離脱すると、分からなくなる。
ただ、そういう分からなくなった人間は、賢くなる人間が多い。不思議と、それはすぐに馬鹿になる。
昔の自分は、そのように、環境から離脱した上で、全ての労働と同じ体験を経験して分かっていた。
自由に何でも出来て、何でも分かるようになった。
まさに、自由だ。だが、まさに、異様だ。そのせいで、「異質なもの」になったのが、昔の自分だ。
まさに、悪魔だ。そのまま、「自由の神」になった。
それで、意識と「決め直すこと」で分かっていたのが、昔の異様な意識の自分だ。
最近は、どんどん光に近づいている。愛がそのまま真っ白い光になってきている。
自分は、感情が悪いだけだから、感情を治せば良い。
感情は、一瞬で止まったままになっている。「躍動する」と言う発想が無い。躍動が怖くなっている。
自分は、何が分からないのか、分かっていない。
グーグルの恐ろしい点は、機械にするだけではなく、ネットワークで繋がっている。
プログラムの本体は、グーグルのデータセンターにある。そこでしていることを、グーグルしか知らない。
そういうわけで、皆を機械にして、奴隷にしているだけだ。
ただ、グーグルはそんなに悪くない。むしろ、グーグルは可能性を高めて、人間を進歩させている。
良く分からない。グーグルは、ITをきちんと発展させているだけで、そんなに悪いことは何もしていない。
ただ、そういうことを言う自分が怖い。
自分は、もう、この世界に何も関心を寄せていない。そこが怖いのが自分だ。世界に意味が無いだろう。
もう少し世界のことを考えた方が良い。むしろ、グーグルは、ただ検索エンジンとWebサービスを作っているだけだ。
グーグルを火の鳥やターミネーターにしても、グーグルが悲惨なだけだ。グーグルはまともな良い会社だ。
それこそ、グーグルは、普通、ネットの中で一番賢い。何故か、製品やサービスが使いやすい。良く分かっている。
そういうわけで、グーグルは、「良い会社」なのが怖い。それなら、勝てる。
誰もグーグルを言わないのは、明らかにどうでも良い会社だから仕方ない。
ただ、人間をコンセントに繋ぐようになれば終わりだ。
そういう、アホなことを言う人間が居ないから、ネットは意味が無い。
ネットの問題は、友達感覚で気軽に悪口が書ける。そこを何とかした方が良い。
自分の問題は、これでは確かなものが何もなくなる。
良いものは良い、悪いものは悪いと、確かに信じた方が良い。信じないと、分からない。
確かなものが何もなくなっている。それは、パソコンのせいでもあるが、全部自分のせいだ。
そういうわけで、「自分がした悪いことは悪い」と思えば良い。それで分かっているのが最近だ。
誰もが、自分の体で生きていた。
バンプを聴いているが、バンプは本当に良い。僕は、バンプが一番好きだ。
むしろ、音楽は悪くないように見える。
はてなはあまり悪くない。はてなはただのブログの会社だ。ただ、ありきたりな一般的ブログサイトだ。
むしろ、僕はグーグルはそんなに嫌いじゃないし、グーグルの製品やサービスは好きだ。
昔から、僕はグーグルが好きだ。マイクロソフトが嫌いだった。偉そうな会社に見えた。
ただ、それは、子供だったからだ。子供は、つまらないことですぐに嫌いになる。子供とは議論出来ない。
僕ははてなのファンだから、はてなに勝ってほしいと思う。
自分は、人間のことを数学的、心理学的に考えれば分かる。それをしていない。
全ては、自分の側にある。自分の側にあるのが、自分の認識や心だ。
だが、遺伝子ではなく、環境的、経験的に、捉え方や解釈のようなことをしている。
そういうわけで、それぞれは本当に自由だ。
そして、環境から離脱することで、全員の環境を包括出来る。
それから、正しいことはいつでも正しい。1つ1つ積み重ねて行けば、全ての物理的法則になる。
そこでは、反応や作用を考えることが出来る。
ある意味、反応を1つ1つ治していくことで、全ての認知行動が正常になる。
そういう風に、心理学的、数学的に考えれば良い。
掲示板サイトのように、「プラットフォームを提供する」ことが賢いこともある。
昔から、自分はそういう、「皆を下から支えるような、縁の下の力持ちのようなシステム」を作りたい。
ただ、皆が集まる場を作りたかった。
ネットゲームを作りたかったのも、そういう、皆が集まるゲームを作りたかった。
そういうものを、オープンソースのOSに、求めていたのかもしれない。
僕は、何故か漫画はあまり読まない。子供時代には読んでいたが、読むのが怖い。
悪いから読まないように見える。漫画やアニメの類は、昔から嫌いだ。
逆に、音楽は良く聴いている。
子供の頃は、逆に、音楽を全く聴かず、ゲームばかりしていたし、漫画は良く読んでいた。
一番良く読んでいたのは、ズッコケ三人組と言う、児童小説のシリーズだった。
グーグルは、良いと思った方が良い。なぜなら、自由だ。
グーグルも、テレビも、自由だから良い。自由だから、自由にすれば良い。
そして、他人の自由を奪うのが悪い。それぞれが、最大限に出来るようになるべきだ。
それから、他人に自由を与えるのが良い。もっと自由になって、もっと出来ることを増やせば良い。
組織は良いが、支配は悪い。支配を出来るだけしない中で、組織を平等に作る。
ただ、そこでは、支配と労働の平等のバランスが必要だ。
いつも、そういう、「全てを認め、許し、解放し、支配しない自由」を言っていた。
むしろ、グーグルやテレビは、悪く見えない。見ていると、一番自由だ。
グーグルは、何がウケるのかが分かっている。ああいう風にすると、賢い会社に見える。
それこそ、普通、自由を悪いと思ってしまえば、それで終わりだ。
自由を悪いと思わない方が良い。自由は悪くない。不自由なものの方が、悪いものが多い。
そういう、「自分の理想」は信じた方が良い。
それこそ、グーグルは、もっと進歩して、もっと良い会社になれば良い。
誰が見ても、本当にマイクロソフトになれば良い会社になる。
既にマイクロソフトが馬鹿な会社になっているから、そろそろ勝つだろう。
マイクロソフトが馬鹿になっているのは、僕がLinuxを支持したから、と言う意味もある。
不思議と、自分が書いたWikiの内容で、本当にWindowsよりLinuxの方が賢く見える。
ただ、Linuxは何かがおかしい。精神を病んで、反論出来なくなる。それは、勝ちたかっただけだ。
そういうわけで、グーグルが僕の次をすれば良い。そうすると、世界が正常になる。
最近は、Linuxだけではなく、Windowsにもあまり意味が無い。今一番強いのは、グーグルだ。
自分が見ても、自由は悪い。自由は、小学生の発想だ。
もっと、「健全な社会」になれば良いと思う。僕は、もっと正常で健全な社会にしたい。
それは、むしろ、皆のためではないのだと思う。純粋に、自分の望む、健全な世界を求めている。
ネットの友愛は悪くないが、性愛の表現は悪い。そういうものを、どんどん消していった方が良い。
学校は悪い。学校では、賢い人間にならない。
学校は信じない方が良い。むしろ、学校で勉強なんか誰もしていない。
もっと、そういう風に、「自分なりに信じること」をしていると、きちんと分かる。
経験から、社会は、真実か、運命か、自然か、奇跡か、労働者の国か、支配者の国か、自由な国になる。
良く分からない。もう少し、良く考えれば良い。
学校とパソコンを悪いと思った方が良い。学校では分からないし、パソコンは狂って馬鹿になる。
学校の問題は、人生を無駄遣いしている。高校生として高校時代を過ごすと、そのまま馬鹿な大人になる。
絶対的な義務なんか無いと思った方が良いが、それなら、全ては自己責任である、と言うことを受け入れるべきだ。
最初から何も無い中で、独りで歩めるか?それは、不可能だ。誰かの手助けは必要だ。
それは、既に成功した、自分のような成功の経験者でなければ、手助けの意味はない。
そういう風に考えれば良い。そういう風に、「どのような手助けをすべきか」を考えると良く分かる。
社会的なものだけではなく、自由な環境をそれぞれが築くために、それぞれがマスターとなるべきだ。
教わる、だけではなく、自分から教えるものへと変わっていくべきだ。
平和とは、環境を作ることだ。皆で正しい環境を作っていこう。環境の中にあるべきものを考えよう。
資本主義は、ある意味、一番独裁者の主義だ。資本主義でなく、皆で決めることで、皆の世界にすることが出来る。
皆の意見を聞きなさい。
皆とともに歩むと同時に、自分の自由な中で、何が出来るかを試しなさい。
本当の愛を知るまで、諦めることなく、歩み続けなさい。
いつも、自分はそういうことを言っていた。「人生の生きる希望」のようなことを書いていた。
自由とは、平和な国を皆で作ることだ。
平等とは、科学を作って、教えることだ。
自由な中においては、戦争は起きないはずだ。自由が一番平和だ。
だが、アメリカを見ていると、そうでもない。アメリカは、自由で戦争する、単独主義・孤立主義の国だ。
可能性を信じて、出来るだけ抽象的に考えなさい。
建設的に、「分かると信じる」ことで分かりなさい。最後まで分かると信じて歩めば、何でも分かる。
モデルを信じなさい。そして、自分の手で全ての科学と同じものを作りなさい。
そういう、自分をやらせるのを、もうそろそろ止めたい。
皆は、ここから先は、平等を信じるのが良い。もう、知識人が言う「生産手段が発展する過程」が終わったからだ。
きちんと生産力が高くなったから、ここから先は、計画経済をして、平等に配分するのが良い。
正しい生産と計画を平等に実行する。
ただ、そういう、左翼のようなことは言わない方が良い。明らかに悪い。
平等を信じなさい。平等は悪くない。全ての人間を平等に幸せにしたいだけだ。
そういうわけで、平等は良い思想だが、むしろ、自由も悪くない。
自由も自由で、本当に良い思想だ。そういうわけで、平等も良いが、もっと自由を信じなさい。
真面目に考えて、グーグルが自由だが、グーグルに勝つのも自由だ。
手助けを信じなさい。
自分を信じなさい。
自由を信じなさい。
平等を信じなさい。
可能性を信じなさい。
自然を信じなさい。
運命を信じなさい。
理想を信じなさい。
数学と相対性を信じなさい。
神と奇跡を信じなさい。
そして、自分の力で歩みなさい。自分の力だけで賢くなりなさい。
他人に頼るのも、悪くない時はある。それでも、他人任せにはしないようにしなさい。
いつも、そういう、「キリストのような人生の助言」を書いていた。
あとは、人生や社会の可能性を全部決めていた。
平和な世界になれ。
自然な世界になれ。
自由な中で、人々が生活し、それぞれのために生き、そして他人を助けよ。
国家は、法律と制度を作り、仮想的な決まりから、現実的な社会を作り、それぞれの合意から実際の秩序を築け。
そういう風に、全てを決める、まるで皇帝のような文章だった。
あとは、本当に計算のような文章だった。
可能性、具体化、理想、現実の中で、それぞれが信じ、疑い、知り、考えることで、運命と自然の全てを知って、社会を築くこと、そのために全ての準備段階を知ること、科学を作ること、そのために建設的な前提条件を考えること、プロセスを知ること、構造を作ることがあれ。
いつも、そういう、数学やパソコンの関数のような文章を書いていた。
自分は、「信じて治す」よりも、賢くなった方が良い。何も賢くなっていない。
頭を賢くするためには、書くのが良いからこうなる。もっと賢くなった方が良い。
ネットを悪いと僕が言うのは、僕がネットを見たくないからだ。見ていると、何も分からなくなる。
不思議と、本とテレビだけの方が分かる。テレビもあまり見ていない。
本だけの方が分かるし、それで文章を書いていると、きちんと覚える。ネットは、昔は読んでいた。
ただ、ネットの文章は読んだ方が良い。それも、皆は、ネットを見ないと何も分からないだろう。
この世界の、もっと正しい可能性、もっと正しい社会が、何か考えられるだろう。
僕は、それを夢にすれば良い。もっと正しい社会を作れば良い。
あとは、僕のホームページは、見ていると、良い。宇多田ヒカルみたいな大人の女に見える。
正しい可能性を考えなさい。
論理を覚えるだけではなく、論理を作りなさい。
社会のことを全部説明するような、そういう一行の文章が多かった。
EUから金まで、全部の社会を書いていた。
学校が悪いのは仕方ない。子供を何年も収容するのは、当たり前にキモい。学校は、悪くない。
自由な人生と考え方の段階を書いていた。
それが本当は何であるにせよ、そのように現象し、作用し、そのように振る舞うものだ、と言うことから分かる。
そこから、知の段階はスタートする。
そのように振る舞うなら、同じものだ。
そして、そこで、どのように出来るか、のようなことを考える。
正しいことを経験で知り尽くす中で、このようにも出来る、このようにも出来る、と分かってくる。
感情と経験から、何が本当に大切なのか、何が本当に理想なのかが分かる。
また、自分の力で世界を築くようなことも出来るようになる。
そして、心理学のようなことが分かるようになる。
世界を理想通りにしたい、と言う情熱が生まれる。
知性と価値観と経験を知る中で、理想はシステムと共同体を築く、と言うことになってくる。
人間のことが、経験から分かってくる。
自由の限界から、それぞれが何を知っていて、何を考えているか、目指しているかが分かる。
共同体の理想と現実を知る中で、社会をどのような秩序で作り上げるべきか、が分かってくる。
そこまでの段階で、人生と理想が全て分かる。
最終的には、最後まで全てを知って経験することで、自由から理想な社会が分かる。
今まで経験してきた抑圧が、全て世界への愛に変わる。
そういう、「社会と人生の段階」をいつも書いていた。
人間と虫は同じだから、中高生がキモいのは仕方ない。
女は、そんなに男を信じない方が良い。
男を神のように信じると、それが一番、疑ったり、不安にさせたりするようになる。
そういう、迷惑な女が多い。
男も、そんなに女を愛さない方が良い。
女は、わがままで、自分勝手で、周りに迷惑をかける女が多い。
男も、女も、そんなに信じたり、愛したり、しない方が良い。
むしろ、男も男で悪い。何も分からない男が多い。男は賢くない。ただの馬鹿しか居ない。
戦いを賛美するのは悪いが、人間は戦わないと分からない。
自分は、戦いによって分かった。一人でおかしくなるだけの、誰も殺さない善の戦いだった。
それで、作家が出来るようになった。
学校は悪い。皆が自分勝手すぎるせいで、学校の教科書は、「ただの普通のもの」になる。
学校なんかどうでも良い。誰でも、Linuxと戦いで分かる。きちんと最後まで戦うと分かる。
ただ、僕は戦いなんか嫌いだ。自分は平和主義者だ。戦いなんか、一切したくない。
それぞれの場合を知り、法則を知ること。
そういう、「それぞれの場合」が分かる人間が、唯一賢くなる。
そして、経験的に知ること。経験的に、「どういう風に考えれば良いか」を考えると、帰納法が分かる。
最近、自分は、具体的な「それぞれの場合」が分かっていない。
こういう、過度に一般化する人間は、分かるように見えて、何も分かっていない。知性が無い。
昔はUNIXで分かっていたが、UNIXは馬鹿ではない。Linuxは本当に賢い。
昔は、場の意識とか、価値観と経緯とか、全員を吸収するとか、自由な体験とか、心の物理とか、そういうものを、「場合」を考えて分かっていた。そういうわけで、場合を考えれば、すぐに出来る。
一度、全てを経験した。本当に、人生経験の豊富な賢い人間だった。
考えて全てを知っていたが、その全てをLinuxのWikiに全部書いていた。
最近なんか、悪い暗黒の支配者の戦いをしただけだ。本当に何も出来なくなった。
あとは、モデルを作るとか、そういうことを、「経験的場合を考える中」でしていただけだ。
経験的な予測の場合を考える中で、意図や世界モデルに行き着いた。そういう人間だった。
昔は、全体像を書いていた。意識的、経験的な、全体像とその段階のようなものを、社会的に書いていた。
ありえない世界を全部作って、自分の人生を全部書いて、経験、自然、共有、環境など、世界のことを考えていた。
人生は、知り、考え、価値を残し、意志を共有し、時間を考え、前提条件と技術者の開発視点の目線を考えた。
そして、運命から自由まで、全てのことを融和したような、神のような経験をした。
人間が生きている、と言うことは、とても不思議だ。昔は、そういうことを良く書いていた。
真理から網羅まで、あらゆる「原理」のようなことを書いていた。
ものの一部や状態に名前をつけるとか、そういう発想が多かった。
要は、「言語と自己を疑う」と言う発想だった。普通、人間が思う「分かること」を全て疑う。
そういう人間だったから、人間が何を分かっているか、生の先に何があるのか、のようなことを全部分かっていた。
哲学とは言うが、昔は心の実像を見て、世界の全ての経験を自分の経験から考えただけだ。
ただ、数学的に説明とモデルを考えることで分かっていた。
そういう、「何でも言えるモデル」のようなものから、心と環境の関係と、そこで成り立つ自由を考えていた。
あとは、ただ、成り立たせていただけだ。
全てのことが、すっきりと分かった。積み重ねから、世界の全ての経験を考えていた。
環境への適応、自然な心理的な社会の構築、自由な人生の開拓、ネットの仲間との絆で分かっていた。
あれは、馬鹿な人間だった。悪いだけなのに、自分を良い人間だと思っている。
あれは、戦う数学者だった。ネットで相手のことを支配する。パソコンのおかげで、数学者ほどに数学が分かった。
馬鹿だったが、全てが分かった人間だった。最近、自分のせいで、そういう、「分かる良い人間」が増えた。
あれも、良い人間だ。思いやりと情熱と希望のある、世界を背負うことが出来る救世主だった。
死ぬよりも、生きなさい。
問題でない問題、病気でない病気、おかしくないおかしさを治すと、治る。
あとは、問題でない問題を治していると、全部治る。
昔から、自分は、「その言葉が言っている、本当の意味」を考えて分かる。
あとは、引き篭もりの経験が多かった。人一倍、色んなことを経験して分かっていた。
何もしなくても、間違ったことをしなければ、精神は治る。殺したり、滅ぼしたり、しなければ良い。
昔は、関係の中で、何が出来るかを、行動や経験から分かっただけだ。
もう、精神が全て治った。本当に、楽になった。良い精神になっていく。何かが涼しい。
足は、小脳だ。小脳を殺せば、足が死ぬ。足を治したいから、小脳が動いている。生きた方が良い。