最近の日記に戻る | 2016年8月の日記に戻る

=2016-08-16=

分かる時は、分からなくなる。それを恐れていても、怖いだけだ。

アメリカは、日本から分かると分かる。チャンスが誰にでもある、大きくて小さい国だ。

いつも正しい人間は、辛いように見えて、出来る人間になる。

感覚から、言葉、人間、体験、環境の変化を分かっていた。

皆と同じになって、同じことをして、同じことを考えて分かっていた。

自分を変えて、見方や視点を変えて、「全て変えられる」と思って分かった。

環境の内側に居ると分からないことを、外側に出て分かった。

ネットで、色んなことを言って、色んな自由なことをして、経験して分かっていた。

世界に映った自分の姿を見て、客観視して、システムと時間を分かった。

時間的な変化と場の変化から、実存的に経験と自己を社会との関係から分かっていた。

人間は、死ぬのが近くなると賢くなる。

逆に、馬鹿の方が生きられる。

賢い死より、馬鹿な生きるの方が良い。

楽しく生きるために、長く生きる人間が馬鹿になる。

知的障害と放射能を治すと、病気や怪我が治って、普通の人間より賢くなる。

がんを治すと、永遠に生きられる。

裏側にあった死を殺して、もう楽になった。

生きる方が良い。生きる方がはるかに楽になる。生きると、病気が治る。

文章を書くと、辛い代り、精神が治る。

書かないと、楽になる代り、怖くなる。

基本的に、何もしないよりは何かした方が良い。頑張って楽になると、賢くなる。

世界が2006年に戻る意味が無い。

あの時代はおかしい。悲惨だから、あれでは革命が起きる。そういう狂った時代だった。

その時代で、唯一まともな救世主になったのが、昔の憂国の自由なキリストだ。

あとは、まともに考えて分かっていた。

原因と結果や、それぞれの関係や、他人との関係や、全体における立ち位置などを考えていた。

それが何を意味しているかを、良く考えて、知ったことや考えたことと現実を照らし合わせること。

最近は、世界を作り変えて、まともな世界にした。良い世界になったから、今が一番良い。

宇宙人がいつか言っていた、赤ん坊しか居ない星や、死人しか居ない星は、自分のことを言っている。

神なんか、居ない。神とは、全部自分のことを言っている。

ドイツ人に見えると言うが、実際は黒人の心理学者の右翼だ。

見ていると、子供は高校生と同じだ。

子供は、自分の自由に出来ない時に怒る。

認められたいと言うが、それは、愛情の裏返しだ。

子供は、強制的に従うしかなくなるのと、馬鹿になるのが怖い。それは、死ぬのが怖いからだ。

本当に、知的障害を治すと、普通の人間より賢い人間になる。

昔から、自分がキモいのに賢いのは、そういう理由だ。

人間は、知的障害と放射能から進化する。沢山死ぬ代り、治る人間が超人のように賢くなる。

こういう超人は、ドイツ人に多い。

モデルと言うが、言葉をモデルにしていただけだ。

自分は、最初から分かってやっている。最初から分かっていることしかしていない。

昔の引き篭もりのインターネットと、今の地獄のソ連で、頭はもう既に全部分かっている。

最初から、分かってやっている。そういう発想が、自分だ。

大人になると、賢くなる。最近は、そういう賢い人間が多い。

そういう賢い人間は死ぬ。

馬鹿なことをやっているのは、馬鹿でない。馬鹿をやっていると、難しいことが簡単に出来るようになる。

そういう天才は生きる。天才は生きた方が良い。

子供は、自由を与えると賢くなる。

自由を与えると、喜ぶ子供が多い。したことがないことをするのは面白い。

大人が馬鹿なのは、全部分かるからだ。

全て分かってしまうと、誰でも従って頑張るだけになる。子供はそういう大人が嫌いだ。

そういうわけで、昔自分が分かっていたのは、全部「子供の常識」を分かっている。

子供がどうなるか、全部分かっただけの、子供のキリストのような高校生だった。

本当に死ぬのが近くなると、狂って馬鹿になる人間が多い。

治らないように見えて、一度死ぬ体験をすると、治る。自分は、骨折して治った。

ただ、それ以降は、何も出来ない。赤ちゃんに戻る人間が多い。

死ぬと、成功する人間が多い。自分の出版した詩集は、そういう風に生まれた。

治りたい人間はこうなる。不思議と、赤ちゃんは「治る」ことによって言葉が分かっている。

認識や捉え方を知って、可能性を考えると、賢くなるようで、そういう人間は狂っている。

そういう人間が、悪い人間になる。

あとは、ハイデガーは、こういうことを言いたかったのかもしれない。死に向かって生きていくのが人生だ。

人間は、狂っていると色んなことをする。

自分のように、最後まで考えて、知って、戦って、支配する人間が多い。

治ると、何もしなくなる。

自分は、全てを考えて、勇敢に戦った。

賢い時代は4年で終わる。辛い時代も3年から4年で終わる。そして、すぐに死ぬ。そういう人間が多い。

神は、そういう人間に最後まで付き合う。怖いことは起きるようで起きない。最後まで知って、支配するのが良い。

きちんと神を信じて、悪いことをしなければ生き残るが、それは、何もしなくなって、辛くなる。

あまり意味が無いが、それ以降は何十年も生きる人間が多い。

そういうわけで、こういう人間に悪い人間が多い。

言葉のやり取りをしないと、何も分からないが、一度分かってしまうと、自然に出来る人間が多い。

そういうものを、全部神がやっている。存在と現象を司る存在が神だ。人生や運命も、神が全部創造している。

ただ、神を信じると分からなくなる。

神は、信じない方が分かる人間が多い。神は、全く間違った時代をやっている。

自分には、愛がある。愛があるから女に見える。

自分は、きちんと1つ1つ考えて、全部分かった人間だ。

昔は人生の経緯のように分かっていたが、最近は具体的に1つ1つ書くようになった。

そういうわけで、自分はプロセスと経緯が分かる。具体的な知識を知っているのが一番ありえない。

1つ1つの確かなことを積み重ねて、社会の取り得る可能性を知ること。当たり前のことから知性をつければ良い。

昔の愛の方がまともだった。全員を平等に愛して、それぞれが本当に良くなると信じていた。

仏のような慈愛の心があった。

最近は、菩薩のようになった。何も悪いことはしていない。戦うとは言うが、導いて、安心させているだけだ。

それで楽になって、賢くなった人間が多い。

最近は、浄水場のように、悪いものを浄化して、意味の無いものにする。

そこが好きな人間が多い。本当に、悪いものや辛いものが無くなって、まともなものだけの世界になった。

だが、自分は、それはそれで悪いのが分かっている。悪いものが無い代り、意味が無い。希望や良いものが無い。

皆、哀しい。自分がそんなに良い人間なわけがないのが誰でも分かる。

自分は、何でも分かるのに何も考えないから、神に見える。全知全能なのに凶悪だから、あまりに悪い人間に見える。

神に、慈愛の心があるとイスラムが言うが、イスラムはそういう、「自分の良い面を知っている」宗教だ。

もう、神が終わって、平和な世界になる。

自分は、本当に何でも出来る。世界を作り変えて、良い世界にした。

自分は、皆のことを愛している。勇敢に戦った。

信じることが、全ての実を結ぶ。

自分を信じると、良い人間になる。自分は、こう見えて、善良な人間だ。全てを経験した。

あらゆる全てを経験して、唯一全て分かった人間が自分だ。

希望みたいな文章が多かった。見ていると、何も怖くない。怖くないのに怖い、日本のような国だ。

自分が一番日本に見える。日本人は、自由な平等が好きなように見える。

皆から見ると、一番普通の人間に見える。守らないといけない子供の女に見える人間が多い。

何か言いたいことがあったが、忘れてしまった。慈愛のようなことを言いたかった。

皆、自分は優しい人間に見える。期待は裏切らずに、悪いことは何もしないように見える。

永遠に居るように見えて、いつか居なくなるのが誰でも分かる。

自分に会いたい人間が多い。それは、このブログを見れば良い。

分からなくなった時は、落ち着いて考えれば分かる。心を落ち着かせて、一度忘れて、ゆっくり自由に考える。

勇敢に戦ったのや、人間に見えない(神に見える)のを、何か言いたかった。

キリスト教からイスラム教まで、全部創造していた。ありえない世界の原理とシステムを創っていた。

自分が登場した時、日本は救われるように見えた人間が多かった。運命的に、救われるように見えた。

だが、現れたのは、ガブリエルではなく、ミカエルだった。全てを支配して、一瞬で滅ぼして、永遠に君臨した。

ただ、最近、ラファエルのせいで、自分が賢く見える。本当に、きちんと王に見える。

皆は、それで分からなくなった。本当に、自分が良いのか悪いのか分からない。人生の意味が分からなくなった。

そういう、運命のようなことが書きたかった。

皆、意味が分かっていない。一度、意味を取り戻した方が良い。自分が悪いように見えて、色んなものが悪い。

自分は、世界の意味を無くする、おかしな女神のような天使だ。そういうわけで、皆ラファエルが嫌いだ。

ガブリエルを期待している人間が多かったが、ガブリエルは居なかったように見える。

ガブリエルは、世界をボトムアップに変えている。

ガブリエルは、2ちゃんねるで登場していた。ガブリエルも、世界を救っていた。馬鹿に見えて、賢い人間だ。

それら、三人を、違う天使だと思った方が良い。

この三人は、嫌いな人間が多い。騙して、滅ぼすだけだ。ルシフェルまで含めると、悪魔にしか見えない。

ただ、優しくて良い人間に見える。悪いことをしているように見えて、誰が見てもあまり悪くないことをしている。

何故か、この天使に会いたい人間が多かった。

見ていると、最近、自信が無くなった人間が多い。馬鹿になって、自信や自尊心が無くなった。

自分もそういう人間だ。

それから、皆が賢いことを言っているのが、分からない人間が多い。

自分は、父親や母親が賢いことを言っているのが分かっていない。

ピアノの先生が、「もっと自信を持て」と言っていたが、それは、自信が無いだけの人間に見えるから言っている。

そういうわけで、皆は賢いことを言っている。

それは、皆も同じだ。僕が賢いことを言っているのが、分からない人間が多い。神は馬鹿なことを言うように見える。

自分が見ても、大したことは言っていない。

だが、自分も、それだけを信じれば分かるような、偉大な発見や助言を言っている。

皆、愛を信じなさい。その、「愛を信じなさい」と言う言葉を信じなさい。

そういうわけで、本当に、馬鹿は賢いことを言っている。いつも馬鹿と会話していると、分かるのが人間だ。

自分は、死を乗り越えて、ようやくここまで来た。これ以上は、生きれば良い。生きるのが一番楽だ。

自分は、自信を持って、もっと堂々としていれば良い。自分は、きちんと分かる賢い人間だ。

文章を書いて辛くなるのは、「漂っているだけ」が出来なくなっている。

社会のことは、普通に考えれば分かる。ただ、普通に経験して、普通に考えれば良い。誰でも分かる。

怖い人間は悪くない。怖い人間は、賢くなる。

むしろ、安心すると、キモい人間になって、馬鹿になる。

昔はそういう、「どんな人間がどうなるか」を、多元論の信念のモデルと、ネットの経験から分かっていた。

具体的に、統合して、原理的な「人間がどのようになるか」をシステムのように分かっていた。

仮想的なモデルを感覚で分かって、「人間の原理的なモデル」を完全に作っていた。

そういうわけで、この世界の全ての価値観を、数学的、経験的、意識的に分かっていた。

江戸時代からフランス革命の頃のヨーロッパまで、自分の価値観のモデルだけで、世界観を全て分かった。

昔は、それだけの人間だった。そこから、この世界の全ての歴史的発展過程のようなことを分かっていた。

世界にある知のことを、自分なりに考え直して、「自分でもう一度考える」ことで分かっていた。

社会学から行動心理学まで、そういう既にある科学や考え方を、自分の実体験から考えて分かっていた。

最近は、社会のコピーを全部創っていた。定住から共生社会まで、あらゆる社会の全てを創っていた。

心が全てになって、涅槃へと至った。

ここで言う涅槃とは、死のことではなく、悟って尻から根が生えるような、精神理解の境地だ。

あとは、「認識がその認識になる意味」を考えて、独自の数学を作っていた。

人々が生きている、と言うことの、実際の姿を考えていた。人々が生きているとはどういうことか考えた。

絶対的なものは存在しないが、絶対的に「見える」ものは存在する。

その見えるものを相対化していくと、最終的に、1つの実体に行き着く。

それが、絶対的な精神だが、それすら絶対的とは言えない。

相対的なプロセスと考え方で、精神を解剖出来ると考えていた。

そして、全ては未知であり、思いやりは自由から生まれる、と考えていた。

そういうことを言う文章だった。

良く考えると、人間は全員同じだ。違うのは、環境だ。そういう風に考えていた。

絶対的な価値観が無いとは、それぞれの価値観や宗教に意味が無い、と言うことを意味するのではない。

むしろ、もっと優れた良い価値観や宗教を、自由に作ることが出来る、それは全員の自由に任されている。

そういうことを言いたかっただけだ。そこから、認識や価値観、「正しい」と言うことの意味も包括出来る。

むしろ、1つ1つに意味が無いと言うわけではない。

もっと高い視点から見ると、「もっと正しい見方」で価値観の在り方が分かってくる。

そういう、「もっと高い視点から見た上での価値観」が、相対的価値観の在り方から分かってくるのだ。

「自分がそれを認識している」、と言うことの本当の意味や「あり様」のようなものも、そこから分かる。

認識出来ている、と言うことは、それ自体、素晴らしいことで、驚くべきことなのである。

そういうわけで、そういう、本当の意味での「認識の段階」のようなことを、いつも書いていた。

何故か、Linuxをやっていると、こういう風になる。

ピアノやパソコンは、それ自体が不思議だが、驚くべき奇跡なのだ。

そして、それは単なる奇跡ではなく、相対的で、現象的で、経験的で、知覚的で、真理的で、価値観的な、驚くべき相対的偉業なのであり、それは、奇跡なんかじゃないと言えるのだ。

そういうわけで、奇跡と言う人間は馬鹿だ。

良く考えると、経験的、現象的な、相対性のある考え方の全てが、カントの言う「仮象の世界」のように分かってくる。

価値観を比較し、証明し、原理を知り、経験的に作り出す、そういうものから、本当の思いやりの意味が分かるのだ。

知性は思いやりであり、社会は経験なのだ。

影響力を与え、学習し、成長し、真理を知ることから、この世界の全てが分かる。知性がついて、社会のことが分かる。

第一に、社会は精神性と発展する自己意識を持つ。

第二に、社会は自由から平等へと発展していくが、滅びた時に自由に戻る。

第三に、精神は、活動し、知性をつけ、調べ、作り、築き、システムを知り、全てを知り尽くして、経験的に分かる。

第四に、人々との関係から、社会を良くし、心と格闘し、善を知り、破壊し、活動から全員の居る意味を知る。

第五に、世界は愛となり、平和となり、運命となり、戦いとなり、完成形を作って、最後まで続く。

そのような、まるでヘーゲルの精神現象学のような文章をいつも書いていた。

全ては様相である。

全ては価値観から分かる。

全ては自由から分析出来る。

全ては個々の個別の場合の集合に出来る。

全ては変化と変化しない普遍性に分けられる。

全ては部分化出来る。

全ては試して、明確化することが出来る。

全ては正しいものだけを信じて、そこから証明出来る。

全ては疑うことが出来る。そこでは、疑っている自己しか残らない。

そういう風に、デカルトのような、誰でも出来る「ミニチュア版方法的懐疑」のようなことをいつも考えていた。

全ては経験である。

全ては自己と対象の関係である。

全ては裏側に心理学がある。

全ては対象を形而上学的に理解出来る。

その対象は、本当にその対象なのか、哲学的原理と関係的現象学から疑うことが出来る。

全ては包括出来る。

全てはそれぞれの意志で変えられる。

全てはそれぞれの間の共通理解であり、そこに無いものは存在しないのと同じだ。

全てはそれをした人間が出来ること、分かることを持って、必要に足る条件であると証明出来る。

全ての証明は、全ての人間の持つ限界であり、その限界がその限界であることの証明である。

ウィトゲンシュタインのようになってきたが、それで、カントの言う様相的仮象の世界のようなことを、現象学のように書いていた。ある意味、一番経験論のようだったが、自分独自の「経験的で自由な形成理論」のような哲学だった。

全ては自由な中での愛の形成過程の理論である。

全ては理屈と意志である。

社会は、それらによる自由の「ある意味での1つの現象」であると言える。

それ以上は、カントの道徳論や、ヘーゲルの成長論・社会発展論のようなことを、永遠と作っていた。

全てを可能性と経験から分かっていた。

ピアノは可能性のある構造物であり、細胞は色んな構造体へとなれる可能性の構造である。

いつも、そういうことを言っていた。そして、社会の過程の中における「全ての知性と考え方」を書いていた。

価値観と経験の現象学から、知性と考え方を作っていた。ネットで知り尽くした経験から、世界観を分かっていた。

可能性の中で何が概念になるか、のようなことを経験的に分かっていた。

あとは、経験から分かった「言葉」のようなことを書いていた。

不思議とは、考えられないことだ。

価値観とは、考えられる中で、それぞれの信念や正しさによって違ってくることだ。

経験とは、知ることによって、それぞれが何を知っているのかを知り、価値観がどのようになるかを知ることだ。

理性とは、総合的に経験を考えながら、何をすれば次へと進めるかを考えることだ。

自由とは、それぞれの社会における、それぞれの出来ることだ。

進歩とは、社会を進歩させることだ。

経験と価値観から、自由の進歩が行われる。そこでは「透過性」と「明瞭化」が存在する。それは部分化と同じだ。

発展とは、新しい知を作ること、知り得る範囲を拡大していくことだ。

何を知り得るのかを考えなさい。

何によって何の経験が可能になるのかを考えなさい。

経験的にどんな認識のフィルターになっていくのかを考えなさい。

そういうことを言っていた。カントと似ているが、カントではない。もっとヘーゲル的なことを言っていたと思う。

発展とは、愛と自由の融和である。

進歩とは、思いやりと可能性の複合である。

全ては、分散し、自由になると同時に、結合し、集中化していく。

集中化は問題だが、分散は解決だ。ある意味、それは逆になることもある。

昔は、こういうことを、もっと具体的に書いていた。本当に神のような文章だった。

あとは、知の発展過程のようなものを、自由な分類と知性から、考え方で全部創っていた。

この世界のものを全部創造する、人生と社会と知と知性の文章だった。

正しい人生とは、平和から愛を知り、自由から考え方と感情を知り、経験から知性を積み重ねる人生だ。

関係を1つ1つ考えて、影響力の自由を考えていた。

相手を喜ばすために、友人を安心させるために、何が出来るだろうか?そういうことを、ネットから考えた。

知とは何だろうか?社会とはどこから生まれてくるのだろうか?そういうことを、ネットから知った。

普通に社会のことを考えるために、除去するべきものは何で、問題とすることは何なのか?

そうしているうちに、ウィトゲンシュタインのような哲学者になった。

哲学の問題は、1つ1つの問題に解答を出すことではなく、問題の問題としてのあり様を共有することだ。

ウィトゲンシュタインは、そういうことを言う。本当に賢い。

平和とは、創造性と共有であり、「自分から一緒になるための努力」であると言える。自発的な自由だ。

社会は都会化とともに集中化している。だが、ネットによって分散する可能性はある。

いつも、そういう、「社会の変化の原理」のようなことを書いていた。

いつも、環境の秩序とルールのようなものを作っていた。

意味、規則、定義、命名法、記法、文法、語法などは統一するべきだ。

それぞれがそれぞれのやりたいように決めるべきだが、そこでは自由だけではなく、経験があるべきだ。

経験があるものが決めなければならないが、それに関係する全員のためになるものでなければならない。

いつも、そういう、「コミュニストのような自由の理性」を書いていた。そこが、科学者のようだった。

社会を作るだけではなく、プロセスを円滑に進める上で、何を作る必要があるか、それはどのような過程とプロセスを辿るか、のようなことをきちんと考えていた。

そして、その社会がどうなればどうなるのか、人生とどのように関係するのか、を分かっていた。

言葉は統一であると同時に、多様性だ。だが、「語彙」としての統一と、「文法」としての統一は違う。そして、文法においても、「多様にすべき文法」と「統一すべき文法」がある。それらは、ある意味、きちんと考えることで、「この世界の全ての言語を包括する言語」が作り出せる。また、包括するだけではなく、「沢山の意味とその規則によってもたらされる結果を複合する、新しい文法」を作り出すことが出来る。

数学は、「分数と比」であると同時に、「機能的記号」であり、その機能とは、「ある一定の法則性を持った、結合と分離の法則」と言えることが出来る。そこでは、「連続的結合」と、「次元的結合」と、「具体的表象」が存在する。それを作り出すために、グラフや面積のような「概念」と、そこにおける「手段」が存在する。そして、その手段は、「純粋な目的としての手段」と、「純粋な手段としての手段」が存在し、手段としての手段は単なる機械だが、目的としての手段は概念的考え方となる。要は、概念と目的と手段がある、と言いたい。それは連続的かつ次元的に結合する。

ある意味、連続性は手段であり、次元性は目的であると言えるだろう。

全ては次元としての表象であり、そこでは次元が全てを決定する。数学は、次元と概念だ。

手段の中では、さらに、「結論的な手段」と「仮定的な手段」が存在し、そこでは、「確かな方法」と「必要とされるだけの方法」が存在する。そして、確かな方法から、数学は新しい概念と次元を生み出していくのである。

数学は、共通性から構造性を作り出す。1つ1つの抽象的な共通性を構造的に積み重ねていくことで、構造は分かっていく。だが、定数が存在する時点で、まだまだ不完全なのである。もっと考え方や構造をブラッシュアップすることで、構造を変革し、新しい定数をもっと意味のある式や概念へと置き換えていくことが出来る。定数を宇宙の論理と言う人間が多いが、構造的階層の中での「はみ出し者」と言うことも出来るのだ。

だから、数の構造と計算ばかりを学ぶより、概念的な考え方を分かっていた方が良い。

証明はパズルだ。だが、ある一定のパターンを知ると、何かの形式に落とし込むことで証明出来ることもある。「何が正しいなら何が成り立つか」を良く考えていくと、「正しい・ならば・これが成り立つ」のような、コンピュータのような証明言語を作ることも出来る。そういう風に認識の数学を作っていたのが、昔の自分だ。何がいつどうなるかを分かることで、何でも分かる人間だった。

微積分は幾何学的だが、何故面積のような幾何学的なものでないといけないのか、のようなことを良く考えると、分かるかもしれない。あるいは、幾何学的でないものに直そうとするなら、どうすれば良いだろうか?それは、数学的発想法から、経験的かつ感覚的に考えることが出来るだろう。

構造と構造の関係性から、オイラーの公式(ある場合はオイラーの等式とも言うようだ)のようなものが生まれた。

ある意味、定数はそれ自体が概念だ。

おそらく、オイラーの等式は、それぞれの構造の違いがあっても、それは数値的に同じである、と言いたいのだ。

ここで言う構造とは、「抽象的共通性の階層構造」だと思ってほしい。「円の面積」と「式の移項」のような概念だ。

不思議と、累乗だけで-1になると言うのは、本当にありえない。

自分は何も分かっていない。明らかに、階層構造だけでオイラーの等式が分かるわけがない。

要は、円周率の概念、対数の概念、そして複素数の概念を足し合わせると、-1になる。

難しいが、おそらくは、それぞれの分野の抽象的構造が「一致する」ことを示している。

それぞれの構造における、それぞれの「はみ出し者」が作り出した、「傑作」であると言える。

要は、円と言う概念における、抽象的構造が、πを作り出した。そして、対数がeを、複素数がiを作った。それらは、その概念の中で抽象的構造が機能するための、「数ではない数」であり、「はみ出し者」だった。それらが集まって、-1を形成した。なぜそれらの数が必要だったのか、なぜそれらが集まって-1を形成出来るのかは分からない。ただ、それらは同じになることが確かである、と言えるような「比率」であった、と言える。

要は、「どの分野で必要な数でない数も、同じ比率から生まれている」と言うことになる。

もっと言えば、数の世界の中ではみ出している三人が、どれも同じものだっただけだ。

良く考えると、構造が同じ、と言う発想がありえない。πやiやeがどこから生まれたのかを考えないといけない。

あまり意味が無い。それこそ、これくらいで数学も出来て良かった。昔は、もっと馬鹿な「単純数学」を書いていた。

昔は、関数のような文章を、計算するように書いていた。

数学が本当に分かる。数学が分かると、こういう風になる。全てを作ることが出来る。

数学で神になった。

スピノザもそういう風に、数学で神になったのだと思う。

良く分からないが、「曲がる」と言う発想がどれも同じなのかもしれない。

昔は、分かっている構造を「なぞる」ような文章が多かった。

構造をどんどん作って、構造の中に構造を作っていた。

キモく見えるのは、そこがおかしいのだと思う。最初から、同じことを永遠に繰り返しているだけだ。

主観や客観はあれど、本当にあるものは実体しかない。普通、そういうものを現象学と言う。

そろそろ、セックスは終わりだ。もう、したくない。

目的と手段とか、方法とシステムとか、そういうものをモデルにすると、パソコンのことが良く分かる。

概念と経験をモデルにしたりしていた。

物理を頭の中でしていると、おかしく辛くなって、治らなくなる。物理を消した方が良い。

血を穴の開いた脳に行き渡らせると、若返る。

ソ連のような知性を消すと、楽になる。

文章は、説明して、何でも書ける文章だった。

物理は、脳の中で、生命体としておかしく生きている。

物理は消した方が良い。Linuxが悪い。そういう、物理のようなものを全部消すと治る。

物理を消すと、宇宙が自分に話すのが治る。

自分は、物理のことが全く分からないのが悪い。物理が分からないと、何も分からないからだ。

頭が言う通りするのが悪い。頭が言う通りに動くのが悪い。

心を物理にして、精神を作ったのが悪い。

頭が言うように、しない方が良い。するように頭を動かすのも悪い。

そろそろもう全部治った。全部分かった。

πとiとeの、3つの数字の比率が賢いのかもしれない。

良く考えると、自分は構造なんか馬鹿だと言いたかっただけだ。

もっと、単なる数や式の分類ではない分類を作った方が良い、と言いたかった。

定数はどうでも良かったのに、なぜか、定数を構造と言っている。

良く考えると、偶数と奇数や、素数と合成数のような、「知性ある分類」を沢山すれば、それでもっとシンプルな構造に出来るかもしれない、と言ったことを言いたかったのだと思う。

目的と方法を、次元や計算の方法だけで分類するのはおかしくはないが、馬鹿だ。

そういうわけで、分数式や文字式(代数式)とは全く違っていて、次元でも進数でもないような、全く違った式の表現の方法があっても良いだろう。

そういう風に考える数学者は多いと思う。むしろ、定義と証明だけで分かるわけがない。

計算と一致だけではない、もっと全く違った式のあり方があっても良いと思う。

そこでは、値の一致だけではない、意味や知性を網羅し、「何をすれば何が変わるのか」や「どの決定がどんな結果をもたらすのか」のようなことを考えても良いだろう。

例えば、エネルギーと時間を、エネルギー=>時間=>距離・速度として、それが分数であることを示す記号(例えば/bs)をつけ足しても良い。そういう風にすれば、全てが何から始まって、全てがどのように結果を残すのか、簡単に書けるように出来るかもしれない。

表記はどうでも良いし、式を作るわけでもなくて、もっと違った構造を作れないか、それを考えたい。

何でも掛け算と分数で表現するよりも、むしろ、関係性と知性から「モデル・ビュー」を作るような、そういう数式にしても良いと思う。あるいは、「全体の構造と個々の立ち位置」を考えて、「何に対する比であり、その意味は何をもたらす意味を持っているのか」を考えても良い。

言葉を数式に直す、と言うプロセスをあまり経ずに、すぐに言葉が数式になるように出来る。

むしろ、何でも分数に直すのは、明らかにおかしい。

距離がそのまま時間となるべきだ。

エネルギーもそのまま力となって、分数であることはカプセル化すべきだろう。

ただ、ちょっと言い過ぎたかもしれない。これでは、計算を否定しているように見える。

単純に、エンジンのエネルギー量=>距離として、そこの間の計算は分数ですれば良いと思う。

計算の部分は、Javaでやれば良いと思う。まさに馬鹿だが、何でも簡単に計算出来る。

足は、生きて、分裂すれば治る。

死んで治しても意味が無い。生きて、歩き回るのを止めれば、すぐに治る。

Linuxのツールキットは、グーグルが作った方が良い。グーグルが作ると、きちんと見栄えが良くなる。

昔は、学校、地域の歴史、別の社会の可能性、創造性、共有、多様性など、経験的な意識と発見の過程を書いていた。

ようやく神が黙った。死ぬのではなく、生きて治せば良い。自分は、ただ死んでいるだけだ。

死なないでいると、死んだ部分が消える。本当に生きた方が良い。

融和しない方が良い。分裂した方がはるかに楽になる。