正しいと信じないように書く。正しいと信じるのが悪い。
世界観と認識を作って、つぶして分かっていた。
社会の形成条件と過程を、昔分かっていた。
自分の少ない意識と経験の中から、照らし合わせて、対応させて、皆とこの社会の経験を分かっていた。
経験を感覚的に分かっていた。経験が「いつそうなるか」や「何が何になるか」で分かった。
経験的に意識を考えることで、ものや認識のことをヘーゲルのように分かった。
社会の全体像を見ることで、この世界の全ての生成と条件を分かった。
自分は、自分一人しか存在しない。それは、全ての人間にとって同じだ。
全員は、同じ時間の中で生きている。一つの「今」と言う時間を、全員が共有している。
それぞれは、それぞれの世界の中で生きている。
だが、ウィトゲンシュタインが言うように、それぞれの世界の限界が、それぞれを「別の世界」だとしている。
それぞれの人間は、別の世界で生きている。
限界とは、ある意味、言語的な限界であり、環境的な限界であり、国家社会的な限界だ。
また、人間が人間として生きていること、それ自体が限界である。
ただ、僕は、それで社会が成り立つのは、「自由」と、「人間と言う共通の前提条件」があるからだと思う。
自由でしか、人は生きられない。自由でしか、社会は成り立たない。
あとは、時間、歴史、人間の存在のようなことを考えていた。
ウィトゲンシュタインの本に書いてあるが、人類滅亡後の地球の方が、「良い宇宙」である可能性はある。
そういう風に、超越的かつ気付きのように歴史を考えていた。
「超越的認識」と言って良いだろう。ただ、哲学でいう超越論とは違う。
心が治ったから、切り替わる部分が治る。ブラックホールで治る。
サルトルは、対自的、即自的な存在を考えるが、もっと主体的に、「それが存在している時、それは何に対して存在しているか」のように、関係を考えると良く分かる。
感情とは、愛、強さ、不安、支配における、経験的印象の融和と想起である。
そういう風に、経験から人間の心まで、色んなことを一行で真理にする。
そして、経験の融和や可能性を考えていた。人間とは何なのか、想起的に考えた。
トマス・アクィナスの言う、原因の原因を遡っていくと、神へと行き着く、と言う論理は、ある意味、何かがおかしい。それなら、第一原因の神が居るように見えて、第一原因は神でなくても良いことになる。ビックバンでも良いはずだ。ただ、僕はトマス・アクィナスの言っていることを良く知らないから、間違ったことを言っているかもしれない。だが、第一原因があるから神が居る、と言う理論はおかしい。
ブラックホールも良いが、天国をイメージして、キリストに治してもらうと治る。
第一要因の神は、「不動の動者」と言うが、ヨーロッパではそれを神だと信じている人間が多い。
アリストテレスは、ものごとには原理と原因が存在し、現象はいつか消滅するが、「動」自体はいつまでも続く、と言った。これは、僕は良い考え方だと思う。1つ1つの個別の現象は消滅するとしても、それが「動く」と言う意味での原理はいつまでも存在する。ただ、まだ途中までしか読んでいないから、おかしなことを言っているかもしれない。言ってみれば、原理は永遠であり、原因は相対的なのである。ただし、これにも、僕は異議を唱えることが出来ると思う。「動」が永遠である必然的理由があるだろうか?「動」が有限であり、いつかこの宇宙の法則が全部変わってしまう、と言う可能性は考えられないか?原理は本当に常に同じか?原理も、ある別の場合では別の原理が成り立つのではないのか?ただ、アリストテレスはそんなことは言っていないし、僕は、まだ、途中までしか読んでいない。
アリストテレスのところを一章読んだが、アリストテレスは、こういうことは言っていない。アリストテレスは、原因と原理をそんなに区別して言っていない。動が永遠であるとも言っていない。それから、不動の動者についても、色々と間違っている。世界活動を本質とするような原理として、アリストテレスは神の可能性を考えている。そして、それがトマス・アクィナスに受け継がれて、キリスト教の教義は完成した。
政治とは、ある意味、人間が共同体を善として編みかえる技術だ。力で倒すだけを政治だと思っている人間が多いが、そうではない。正義の下に、社会や共同体を編みかえること、それが政治だ。そういうわけで、これが一番政治に見える。
自分は、逃げ出したいなら、逃げれば良いのが分かっていない。逃げ出しても、誰も追わない。ただ、「自分はもう逃げたい」とこの文章に書けば良い。そうすると、皆が自分のことを追いかけずに、逃がしてくれる。
アリストテレスの政治学では、共同体の目的は善であり、人間が必要が満たされる場合であっても、家族を超える共同体が成り立つのは、共同体が「最高善」を目指すからであると言っている。僕は、それはそれで一つの真理だとは思うが、人生の目的も同じだと思う。人生の目的も、同時に、「最高善」を目指すものである。何か、本気で善の行動を努力したものは、人生に満足する。まだ、人生に満足していないものは、最高善を目指して、ともに戦い、努力し、世界を善へと変えていく。ここでは、政治の目的も、人生の目的も同じであって、それは融和している。全ては、「善」を目指す。だが、僕は、ある意味、それは「善」と言うよりは「自由」だと言えると思う。自分の思う「善」は、自分が思うから善なのであって、他人が思えば違う。同時に、何かに対して、「良い」と言うことも、「悪い」と言うことも、自由だ。全ての社会と人生は、「自由」と言う意味での「最高善」へと向かっているのだ。
あとは、昔は、何を良いと言うことも、悪いと言うことも、全て自由だと思っていた。ニーチェの言う、権力への意志と同じだった。そして、人々が何を良いと言い、悪いと言っているかは、全て、「解釈」によるものだ。僕は、それは、「解釈」と言うよりも、「環境」と言うべきだと思う。
神を信じれば良い。人々を信じること。人々が悪いと思うものは、本当に悪い。
病気は、何がその病気を治すのか、どういう風に治るのかを、一面的にではなく、多角的に考えると分かる。
病気は、病気によって治る。
永遠に辛くなると、人々はすぐに治りたいのを望む。だが、それは間違っている。永遠に辛くならないと、何も治らない。いつか、その「永遠の辛さ」が癒されて、安らぐ時には、もう病気は治っている。そういうわけで、辛さがいつまでも続くのは、「辛くない」と思って受け入れるしかない。
あとは、本当に、学校に行くよりも、引き篭もりの方が良い。そういう風に信じると楽だ。
人々は、学校の勉強を悪いと言う。それは、正しい。賢い学問なんか、存在しない。
ある意味、哲学も馬鹿だ。この名著の本は、すぐに読めるのは良いが、あまり内容が無い。
人間は、辛くなると治る。極限まで辛くなると、精神が治る。昔も今も、自分はそういう、極限まで辛くなるだけの人間だ。自分から辛くなる人間が多い。自分は、引き篭もりになったのは楽だったが、戦いになったのは辛かった。それは、辛いを受け入れるか、辛いを克服するかの違いであって、受け入れる方が楽だが、克服する方が賢くなる。
自分は、今のままが一番良いのが分かっていない。全てを受け入れると、楽になる。だが、それは、世界があまり意味の無い世界として見えるようになって、分からなくなる。テレビ、パソコン、学校、全部悪い。そういうものは、世界の意味が無くなる。そういうもののせいで、皆馬鹿になっている。
怖いと思っている間、それは出来ない。怖いと思っていることを、怖くないことに直せば治る。そういうわけで、一番怖いことをやった方が、治る。怖いことには理由があるから、あまり治さない方が良い。怖いだけ、賢いから、怖いのをどんどん受け入れていくと楽になる。世界は滅びたりしない。何をしても滅びない。滅びないと思えば、もう怖くない。
自分は、滅ぼすのが怖いのではなく、皆が分からないまま、暗闇のままになって、自分のしたことが悪いことになるのが怖い。もっと良いことが出来ると信じているから、滅ぼしている。それは、止めた方が良い。分からないのが悪いなら、分からせれば良い。自分は本当は皆のことを愛していたのだと言って、その上で、自分の行動は間違いで、皆は間違った愛を信じてほしくないし、騙しているのは、騙したくなかったからだ、と言えば良い。そういうわけで、皆は、正常な反抗と抑圧の世界に戻れば良いが、それに戻りたくもない。だが、自分の功績は賢い。良い世界にしたかっただけだ。
昔は、体験から創造的な理想が分かっていた。皆も、理想を信じて色んなことを体験すれば良い。理想を信じる、と言うスパイスをかけるだけで、愛情は全く違う大きなものになる。ただ、惰性で体験するのではなく、行動的に、理想と情熱を信じて、色んな体験をするべきだ。本当の理想を信じて、この世界の変化を体験しなさい。
絶対善を信じて、受け入れると同時に、絶対悪を否定して、拒否しなさい。最近は、その区別がついていない人間が多い。そういう人間が、狂った人間になる。受け入れるだけではなく、拒否する気持ちも持つことによって、はじめて正しく信じられるようになる。何を受け入れるべきか、何を拒否するべきか、を、きちんと区別して考えなさい。
要は、辛い地獄は受け入れれば楽になるが、悪や悪魔は受け入れると辛くなる。地獄を受け入れながら、悪を拒否しなさい。悪を受け入れると、良い人間に見えて、そういう人間が一番馬鹿になる。「全てを受け入れて楽になる」のが一番辛い。そういうわけで、本当に拒否すべきことは、本能的に受け入れられない。全てを受け入れたい人間は、そういう風に、受け付けない人間になる。それは、受け入れるべきものと、拒否するべきものとの、区別がついていない。もっと、きちんと不安や地獄を受け入れるすべを身に着ければ、治るだろう。
2ちゃんねるは受け入れて良い。だが、ヒトラーは受け入れてはならない。自分が辛いのは受け入れるべきこともあるが、他人に危害を与えることは受け入れてはならない。だが、どうしようもない時もある。その時は、除外すべき例外事項も、例外ではなくなる。それに、本当に戦うべき時は、自分は強い方が良い。自分が勝った方が良い人間も多い。
個人的・社会的に見ると、滅ぼすよりは、地獄の方が良い。誰にも迷惑をかけていない。
神から見ると、滅ぼすのが悪いと思っているから、自分から地獄になっている。
自分は、何もしないから文章を書いているだけだ。ある意味当たり前なのに、それが分かっていない。
社会とか、経験的立場とか、そんなものは忘れた方が良い。
むしろ、書き方を変えれば良い。
自分の脳を破壊して、何も賢くない記録を書いて、分かったことを忘れる意味が無い。
そういう、おかしな「破壊的執筆」を止めれば良い。もっと創造的に執筆をするべきだ。
破壊が辛いなら、頭を復元すれば良い。それだけで楽になる。あとは、休んでいれば良い。
昔は、希望や体験、人生や科学、理性や社会など、「この世界と体験の全て」のような文章を書いていた。
どういう風に体験し、理性を持ち、科学を作り、社会を変えられるのか、全ての網羅のような文章を書いていた。
自分は、ブラックホールで一度治ったが、治っても治らない。また、元に戻る。
そういうわけで、何かするしかない。もっと具体的に、頭だけではなく、行動的なことをすれば治る。
スポーツが良いと言うが、足を骨折したせいで出来ない。ピアノや英会話は悪くないが、何か行動した方が良い。
むしろ、世界を変えるために、地道に考えないのがおかしい。
世界を宣言と対話で、「すぐに変えられる」せいで、変えられなくなった。宗教的宣言なんかしない方が良い。
狂った人間が歩き回るのは、歩かないのがおかしいからだ。普通、散歩や通学で、歩く。歩くのが運動だ。引き篭もりは歩かないから、すぐにおかしくなる。歩かないと、足の精神が治らない。あとは、心が怖いのは、未来の出来事が怖い。すぐに死ぬ人間がそうなる。そういうわけで、散歩をした方が良い。
文章を書いているのは、覚えたいからだし、神と対話しているのは、会話がしたいからだ。
もっと、皆と一緒に色んなことをやれば良い。自分は一番おかしな狂った人間になっている。
今、ほんの少し散歩をしてきた。少しと言っても、疲れた。
精神は、疲れたり、休んだり、することによって治る。あとは、周りに居る人と会話した方が良い。
文章を書くのが嫌なら、もっと活動的なことをすれば良い。そういう風にすると治る。
全ての根拠と、根源的なプロセスを明らかにするような、良く言えば「形而上学」だが、悪く言えば「洗脳」のような文章を書いていた。洗脳を解くためには、誰か一人のことだけを分かるのではなくて、実際の姿を見ながら、多様性のある環境で視点を分かれば良い。いつも、そういう文章を書いていた。それこそ、自分は、昔の自分に洗脳されているだけになっている。もっと、この世界の実情を見て、自分の力で見極めるような、そういう哲学的姿勢を持たないと、洗脳は解けない。Linuxや2ちゃんねるは、初めからそういうものだから、信じない方が良い。信じると、洗脳によって洗脳が解ける。分かるように見えて、全く何も分からなくなる。
ほんの少しだけ散歩をしたせいで、心が楽になった。人間は、そういう風に、何も考えなくても、無意識のうちに、本能的に色んなことをやっている。そういうわけで、意味がないように見える学校での努力も、きちんと意味がある。
むしろ、あれは形而上学だ。全ての根拠と、そこから導かれる過程を明らかにして、具体的な考えるプロセスと発想を提示するような、そういう賢い文章だった。本当に、デカルトのようだった。
それで、世界観や人間像を作っていた。哲学と言うよりは、ある種の数学のようだった。
世界と宇宙を全て創った。あれは、そういう人間だった。
もう、心が楽になった。散歩と言っても、近くの公園に行って帰ってきただけだが、それでだいぶ違う。
頭が辛いのは、洗脳を解けば治る。昔はネットで分かったが、もう一度は出来ない。もっと、洗脳されているのを治すと、頭がパーキンソン病のように動き回って、機械になるのが治る。2ちゃんねるは二度しても意味がない。洗脳は一番悪い。本当に分からなくなる。不思議と、音楽を聴くのが良い。歌手はまともだ。本を読むより、もっと普通のことを知った方が良い。不思議と、2ちゃんねるで分かる人間なんか居ない。ただ、本当に、最近そういう賢くなった人間が多い。それは、フェイスブックで洗脳が解ける、右翼が多いからだ。ネットと言うよりは、右翼だ。
要は、Linuxが悪い。Linuxは要らない。オープンソースは、IT業界から無くなるべきだ。
Linuxを良いと思うから、洗脳されているのだろう。
あとは、パソコンや宗教を良いと思わない方が良い。神との対話なんかしなくて良い。
学校を否定して、何か新しい未知なる世界があると思うのが間違っている。
そんな天国やユートピアはない。学校と職場の世界の中で、適当に楽しむしかない。大人はつまらない。
「関係ない」と言う発想が賢い。
マイクロソフトのエンジニアや、新聞記者が賢いのは分かるが、そんな人間は関係ないだろう。
自分なりに、自分の力で生きれば良い。むしろ、自分の力で出来ないなら、皆と同じように、一緒に考えれば良い。
東大が賢いのは分かるが、それも意味がない。東大なんか、賢くない。東大はロボットだ。
見ていると、明らかに馬鹿が多い。馬鹿は、無視した方が良い。
哲学名著の本も、良く読んでいるし、賢いのは分かるが、自分のように、きちんと経験から分かっていない。
放送大学の哲学の授業も馬鹿だから、東大も馬鹿に見える。
ただ、それはない。東大は良い。自分は、東大に入って哲学をやれば良い。東大の教授が分かっている。
自分は、そろそろほとんどゴールだ。哲学名著の本は、15分ぐらいで一章読める。すぐに読めるだろう。
自分は、皆を自分に依存させるのが悪い。
昔は、馬鹿ではない。あれは、馬鹿なことをやっているようで、きちんと情熱と愛を持って、マスターになるために考え、経験している。昔は、頑張っていない代り、賢い人間だ。
最近も、馬鹿ではない。最近は、良く頑張った。何も出来なくなって、絶望的な病気になっているが、希望を諦めず、耐えながら、いつも同じことをして、成功するために挑戦し、継続し、そして勉強している。
その二人に名前をつける。アランとドロシーだ。
きちんと勉強して、考えて、知って、経験した、感受性と志のある、確かに賢い人間だった。
自分は、きちんと分かっている。全てを知っているし、悟っている。そして、全てを乗り越えた。
今日は、農園と一緒に、散髪をした。
床屋で、少し長めに髪を切ってもらった。長めの髪にすると、綺麗に見える。
あとは、タブブラウザのような、フリーソフトが好きな馬鹿が多かった。創造的な体験が好きだった。
最近は、音楽が好きだ。あまり変わっていない。途中では、フランス語とドイツ語が好きだった。
自分は、ただ、違う人間になりたかった。それだけなのが分かっていない。
今と昔を分けるものは、違う人間になりたい、と言う、後悔でも希望でもない、ある意味エロスのような感情だ。
そういうわけで、もう一度、違う人間になるしかない。
それを、新しいメタトロンと言うことにするが、違う人間になる、意味がないだろう。
昔は、ただ、新しくなりたかった。本当にそれだけで、過去の自由を全部裏切った。偽物の自由の文章を書いた。
ブラックホールでは治らない。治ったように見えて、すぐに同じことを繰り返す。
そろそろもう、そういう発想はもう良い。神みたいな発想をしない方が良い。イメージや想像力は悪くない。
昔は、本当に辛かった。どん底の中で、生きる意味を確かめられなくなっていた。地獄の中で、恐怖に耐えていた。
そういうわけで、むしろ、今の方が良い。今の方が、はるかに楽だ。
自分は、散歩だけをすれば良い。そうすると、まともに楽になる。
哲学は、もうしなくて良い。不思議と、哲学書をプラトンからフッサールまで全部読んでいる人間は、おかしい。
明らかに大学の哲学が一番おかしいから、しない方が良い。哲学に生涯取り組み続けるのはありえない。
そういうわけで、哲学も、Linuxと同じように、これくらいで終わりにするのが良い。
哲学名著の本は、そんなに良い本ではない。内容は、そんなにない。大図鑑の方が良い本だ。
アウグスティヌスと同時代の思想家のペラギウスは、人間は自らの意志を正しく用いることで、神に頼り切りになることなく、自分で善を目指すことが出来ると言う。
これに対して、アウグスティヌスは、善は神の恩恵によって初めて意志することが出来ると言う。善は神によって得られるが、罪は人間の自由意志が犯していると、一種謙遜のような考え方を提示する。
自分は、そういう神と信仰の問題は、「本来、人間は神に頼り切りになるべきである」と言う、誤った考え方から生まれていると思う。誤っていると言うよりは、ある意味、神を信じることによって、神が能力を奪いながら、おかしな進歩を与えている。だが、それはおかしな進歩ではなく、一番正しい進歩である、と言う点が、厄介なところだ。
そういうわけで、むしろ、僕はそういう神でない、自立力のある神を作りたい。神が能力を奪って、頼り切りにするのはおかしい。もっと、それぞれが自分の力を永久に確かめ続けるような、そういう進歩と成長と反省の体験をしてほしいと思っている。自分の力を強くしてほしい。
知らないことを、ただ知らないと言って嫌いになるだけではなく、自分の力で世界を知って、「本当の意味」を経験で知ることで、人間は高校生のように賢くなれる。小さな子供は、最初は、親の言う通り、良いことと悪いことを守るが、それは、良いことと悪いことの中で遊ぶ、ゲームのようになる人間が多い。それ以後は、悪いことをいくらでもするようになる。ただ、そこまでは馬鹿だ。その先、大人になる過程の中で、自分の力で「良いこと」と「悪いこと」を知り、判断基準を持ってこの世界の経験的全貌を分かるようになる。世界の全貌を、自分の経験から知ることが出来る。それで、普通、青春時代は終わりだ。あとは、耐えがたい屈辱を耐えるとか、苦しみの中で我慢比べをするとか、辛いことしか残っていない。そういうものが、普通、青春の経験だ。子供は、放っておいても賢くなって、自分の力で世界をそっくりそのまま経験するようになる。こういう人間が多い。
子供をすぐに賢くしない方が良いかもしれない。遊びの中で、何かの真理を発見すると良い。
相手のことを自由に許すと、自分も許される。
自分が世界に映った、投影のようなものを見て分かっていた。
昔は、そういう風に、人生のことを信じて分かっていた。神は信じていないが、経験や自由を信じていた。
基本は、覚える、話す、歩く、だ。それが子供だ。
哲学みたいなことを分かった方が良い。
昔の自分を分かるのはもう止めるべきだ。ただ、独自の考え方を作るのは悪くない。
最近は、会社は多様性があるように見えて、無い。ネットの方が多様性がある。会社が作ると、IntelとAMDで64bit CPUの開発競争の末に、AMDが勝ったように、多様性があるように見えて、多様性が無くなる。オープンソースはある意味、そういうところが悪くない。逆に、オープンソースは分裂しすぎてしまって、何も出来なくなるところがある。多様性も大切だが、分裂のし過ぎは良くない。
ニュースを見ていると、小池百合子(新東京都知事)は、自分のことに対する自覚が無いのかもしれない。
役所や事業を破壊している自覚が無いのかもしれない。
ただ、反発のようなものが少ないのは、ネットを見ても、そういう、「信じない人間」しか居ないからだ。
小池は、もう少し、信じた方が良い。
色んなことが出来る自分に対する自信はあるように思うが、どこかで自分のやっている意味を分かっていない。
文章は、自由な社会主義者のような、平等で常識的・経験的な世界観のようなことを言っていた。
何でも、全てのことを、正しい一行で分かる。自由で、平等で、正しい、理性と経験と道徳心のある人間だった。
英語は、馬鹿な言語だ。何でもbeとdoにして、動詞に-erや-ingをつけて人や状態にし、haveなどを多用することで、あまりに馬鹿な人間になる。本当に、日本語の方が良い。漢字を作って、ひらがなで読むのは本当に賢い。カタカナ語があるせいで、外国語の英語は既に出来ている。日本人が一番賢い。奇跡のような、宝石のような国が日本だ。
haveは本当に悪い。haveのせいで、持っていないものを持っている、「所有している」と言う発想になる。所有なんか意味がないのが誰でも分かる。日本語の方が賢い。日本語では、行く、来る、見る、居る、ある、無い、などが多い。色んな人間の「基本的行動」を分かっているから、賢い。種類的な分類は、漢字の「へん」や「つくり」にある。むしろ、英語も、そういうところはまだ賢い言語だ。canやhave、aやtheを使うことで、全ての動詞を統合的に分かる。
日本語は、ドイツ語などにあるような、格が存在する。そして、ひらがなで簡単に格助詞をつけられる。漢字が意味で、ひらがなが関係で、カタカナが外来語なのが分かる。カタカナの影響で、日本語だけで単語が全てある。インドなどのアジアの国では、英語にしかない単語、と言うものが存在するが、日本語は、カタカナでほとんどの日本語に無い外来語を知ることが出来る。ある意味当たり前だが、日本の識字率は、それで上がったのかもしれない。日本人は賢い人間が多いが、英語は出来ない人間が多い。日本人の子供から見て一番簡単で、一番賢い、理想の言語が日本語だ。
日本語は明らかに難しいが、その難しいところが良い。漢字は複雑怪奇だし、ありえないほど文法が難しいし、言う順番が逆だ。一番の問題は、漢字の読み方が状況によって変わる。中国語と同じに見えて、読み方が全く違う。だが、英語なんか、逆に簡単すぎるだろう。何でも、whoやwhereから言えば、それだけで通じてしまう言語だ。誰でも馬鹿になる。
日本の問題点は、権威や支配者に対する尊敬の念が無い。正義感が無い。法律に触れなければ、何をしても良いと思っている。善を実行すべきだと言う信念や意識が薄い。そういうところが、ヨーロッパやアメリカのキリスト教徒と違う。善をするよりも、もっと良いことを違うやり方で出来る、と思う人間が多い。
日本は、あまりに自由すぎる。良い国にはなったが、支配者に従わないだけではなく、ブラック企業のような問題も出てきている。そんなに反抗しないのもおかしい。相手のことを尊重し、迷惑をかけたくない、と言う思いもある。
日本は、もっと、自由を止めて、平等になった方が良いだろう。そして、国家として、社会としての、「正義と善への意識」から、「秩序のある社会を築く」ことをすれば良い。安倍首相が右翼なのは、そういう、行き過ぎた自由を制限したい、と言うところがあるのだと思う。
あとは、休めば良い。治らないのは、「動く」と「休む」が矛盾しているからだ。動くのを止めて、休めば治る。
もう怖くなくなった。パソコンとネットで何か問題があるのが怖かった。
それをそうすることで、何がもたらされるかを考えていた。
何がいつ何になるかを、感覚で分かりながら、社会と心の可能性を考えていた。
人間に、出来ないことや分からないことはない。そういうことを言っていた。逆に、何も分からないとも言える。
足は、辛いから出来ないだけで、休めばすぐに出来る。
決めて分かるのが悪い。もう、出来るだけ、決めないようにしたい。
辛いままで、放っておけば治る。
あとは、ブラックホールは、小さくなる、と言う意味で、自分のやっていることと同じだ。
昔は、辛かっただけだ。色んなことがあった。本当に色んな経験と体験をした。
そんなに神を信じて戦うのを頑張る意味がない。辛いなら、休んで良い。
時計が悪い。一度したことが出来なくなっている。いくらか時間を巻き戻すと、一度したことが出来る。
そういう、ありえない体験をいつもしていた。狂っているようで、何でも超常現象が起きる人間だった。
いつか出来たこと、したことを思い出せば良い。それですぐに治る。
思い出すと、人間がいつ何をするか、何をすれば治るか、どんな社会が作れるか、どんな精神現象があるか、のようなことが分かる人間だった。そういうことを、人生と具体的な構造の全体像で分かっていた。
もう、知性も復活して、学習も治る。きちんと、いつも出来ていた、何かを思い出せば良い。
成長から社会をどのようにすべきかが分かる、とか、そういうことを言っていた。
ここまでの治すを全部する。
あとは、自由から運命、知性、概念、経験が分かるとか、王になるためには、知、経験、心、組織と社会の実現能力を高めるべきだとか、そういうことを言っていた。ありえないほど、賢い理性的段階が分かっていた。
社会を知ることで、認識をどのように吸収し、疑えば良いのかが分かってくる。
社会の経験から、認識の正しさと共通性がおのずと分かってくる。
認識は経験的だ。経験が認識になり、認識が経験になる。
全てのことは、それを捉える自分自身の側に、行動的な真理と原理がある。
昔は、認識とは、そういうことを言っていた。経験的なことを言っている。
そろそろ、賢くなった。きちんと、一度したことをもう一度出来るようにすれば、すぐに賢くなる。
失敗をする部分を、学習して、出来なくすれば良い。絶対に失敗しなくする。そういう風にすると賢い。
心臓と血が治った。
難しいことをやっていると、治る人間が多い。
あとは、「死」で治せば良い。死で治すと、何でも治る。