日記に戻る | 2015年4月の日記に戻る

=2015-04-26=

現象がどのように起きるのか分かっていた。

誰が何を信じるのか考えていた。

色んな人間になって分かっていた。

精神、人格、意識を想定して、色んな人間になった。

体験と意識から、歴史を知った。

アドバイスと助言から、自由と経験を知った。

場に立ち返って分かった。

自覚し、目覚めよ。

自然な体験で分かっていた。

習慣とモチベーション、環境の違いを考えて分かっていた。

人生を最後まで見て、人生の段階を全部書いていた。

意識で全部分かる人間だった。意識を良く考えていた。

書かない方が楽に見えて、書かない方が辛い。今、そうなっている。

その内治る。もう、そろそろ書きたくない。

世界は、何も無い方が治る。そんなに何かあると、狂う。

最近は、可能性のある共同体か、正しい国と言っていた。

昔は、判断基準を作って、客観視から認識を分かっていた。

あとは、何がいつしたくなるか、欲求を考えていた。

宇宙人と話して、宇宙のことを良く分かっていた。

昔から、言葉遣いを良く考えていた。

最近、言葉遣いがおかしくなって、分かるようになった。それを治した方が良い。

神は言葉遣いだ。英語的な分かる言葉遣いをするようになった。

自分とは別の環境、経緯、人間を想定して、プロセスと段階で分かっていた。

裏の法則や構造を良く考えていた。

実存主義のように分かっていた。

純粋に経緯とプロセスを良く考えれば分かる。

自分を作れば良いだけだ。自分が居ないだけだ。あまり、それは分からない方が良い。

そろそろ、自分が生まれたから、終わりだ。

昔は、自分を変えて、照らし合わせて分かっていた。

もう何も出来ないと辛いから、まだやっていた方が良い。このままで良い。

最近、馬鹿は治った。それで満足だ。馬鹿を治したかっただけだ。

それに、まともになった。何も不満は無い。出版も出来て、色んなことが分かった。僕は、地獄は辛かったが、幸福だ。

神が好きだ。自分が好きだ。それだけだ。

昔は、制度と場と経験の分析が多かった。

その昔は、積み重ねと人情が多かった。

デパートや教育など、あるものを全部制度と場で作っていた。

経験は、過去の自分の経験から、社会と価値観の分析のようなことをしていた。

書いて馬鹿になったのを、治したかった。

恐怖を無くしたかった。恐怖の原因は、自殺が怖かっただけだ。

森羅万象、あらゆるものを、相対的に予測していた。

自分を2つに分けていた。昔は調査研究の方で、最近は執筆の方だ。

どうすればそれが作れるか、良く考えた。

心と認識の相互作用を考えていた。その実現を考えていた。

あとは、壮大な世界を書いていた。この世界の経緯と考え方を全部書いていた。

最近、神経症になった。何をしても辛いし、何もかも心配して、不安で気になる。

いつも馬鹿だった。おかしな帝王のようなものを書いていた。

ヨーロッパ史は、王と戦争と宗教しか分からない。止めた方が良い。

僕は、英会話教室をする。英語編をする。きちんと話せるようになるために、頑張る。

経済、宗教、文学、歴史、哲学、心理学、物理学、情報がきちんと分かった。

あとは、組織や生態系のようなことを言っている。木を見て森を見ない人間だった。

昔は関係、今は構造だ。

昔は想像力、今は言葉だ。

昔は感受性、今は判断だ。

そういう風に、自分は逆になった。

右翼と左翼をどちらも兼任する。そういう発想が多かった。

コンピュータをしながら、感情を考えて、色んな仕事を経験した。

自由で、賢い、開拓の人生だった。

最近は、レーニンとキリストを経験した。

自由とは、平等を実現性と言う意味で成り立たせることだ。

民主主義は悪くない。選挙で変わるのは、平和だ。

だが民主主義は賢くない。選挙なんか、何も変えられない。影響力は無い。

小選挙区制は、影響力があって良いが、自民党が大勝ちするだけで、何も変わらない。

もっと大きな選挙区制の方が良い。共産党が勝てる。

ただ、共産党に自由は無い。選挙を止めて、独裁をすると、何も発展せず、自由の無い世界になる。

だが、選挙をしているからと言って、民主主義と本当に言えるだろうか?

国が民主主義の思想のせいで、自民党と民主党しか勝てない。

それは、本当に民主主義と言えるだろうか?良く分からない。

昔は、ネットの経験で、言葉を分かっただけだ。

環境、影響力、共同体、自由から、自由な世界を全部作っていた。

環境の秩序を作った。

国の構造を考えて、支配や決定の上と下を考えていた。

あとは、助け合い、システム、構成員の自由、などを考えていた。

合意から共同体が生まれる。自然から多様になる。

昔から、影響力を考える。そういう相対的で数学的な社会論を作っていた。

社会的な目的と意志の自由を良く考えていた。

何でも出来る人間だった。自分の可能性を高めて、自由に勝っていた。

憂国から世界を救っていた。

社会の価値観と人間性を考える、マルクスのようでもあった。

社会の人間性を考えていた。

GNUのような、古代復興の復活の革命を分かっていた。

UNIXのシステムとコマンドから、調査研究して、競争して、大学や会社が出来た。

ネットでの議論が好きだった。自分が世界を変え、影響力を行使出来ていた。

基礎の構造を作って、考え方と科学を作って、応用を作って、全ての科学を作った。

段階のようなものがいつも多かった。

神話や宇宙観から、人間の思い込みまで、カントやヒュームのように分かっていた。

平和が好きだった。戦争が一番悪いと考えていた。

死ぬのは悪いが、死なない戦いなら、良いと思っていた。そういう自由だった。

金は、自由に見えて、自由で無い。会社に拘束される。オープンソースが自由だ。

そういう、会社ではない個人の自由から、ネットで経験して色んなことを分かった。

制度と経験は、いつも考えていた。決まり、記憶、場、環境が多かった。

Windowsは、むしろ、好きだった。フリーソフトを入れて、拡張性を目指していた。

Linuxも、Windowsと同じようにシェアとソフトウェア環境を得れば、良くなる。

共有は、一度、全部ゼロから社会を考えて、可能性の全てを成り立たせていた。

師弟制度を考えた。資本論のように作った。

自由ノルマのソ連は、自分の人生が全部出来るようにしたかった。

善の方が良い。皆を自分にするのは、一番悪だ。

それぞれが選択出来、決められ、そして知ることが出来る。考え、言い、議論が出来る。経験し、発言する。そういう自由が好きだった。

それぞれが作り、参加し、決めるべきだ。自由が正しい。制限すべきでない。

だが、平等は悪くない。子供も、大人も、民主主義者も、社会主義者も、白人も、黒人も、アジア人も、平等だ。そんなものは、関係ないだろう。

議論を許すべきだと考えていた。それで、きちんと賢くなるように見えた。

だが、今考えると、議論や批判は要らない。2ちゃんねるを見れば明らかに、何も分からない。GPLでなければ、Linuxが永遠にフリーで無いのも分からない。

昔は、賢くなる土壌があった。

認識のデータベースと、コンピュータの世界を知った。

ネットで適当に賢くなった。

最近は、全ての可能性があった。

いくらでも馬鹿になって文章を書くことで、簡単に文章が書けるようになった。

そういう、土壌のようなことをいつも書いていた。

認識とモデルによって、人間を分かった。馬鹿なのに分かった。

大人は悪い。悪い人間が多い。子供の方が良い。

いつも無責任だった。だが、いつでもゼロに戻れる強さと、失うことを恐れない勇気があった。AAAがそういう人間のことを言っている。

認識を色々と変えて、物理的な構造で、分かり方を分かっていた。

また、数学的に意味を増やして、デカルトのように分かっていた。

最近は、まともに世界を知って、色んなことを本当に分かっているが、昔の自分のことを覚えていない。

言葉にして、治した。

そろそろ、馬鹿は全て治った。馬鹿なのに分かったのが悪いから、そういうものを全部消して、潰して、知性にして、分かって理解した。

本当に社会がどうなるか、どんな社会からどんな社会になるかを、想定して分かっていた。

また、分かり方を考えていた。分かることと分からないことを比較して分かっていた。

心の作用が分かっていた。体験から、自由と平等が分かった。

共産党の方が自由で、民主的なのかもしれない。それは無いだろう。

共産主義は、何故か強制収容所になる。一番怖い。

日本がまともなせいで、共産党は悪く見えるが、どこの国でも普通平等の方が良い。

目指すなら、平等な国、社会であるべきだ。そういう外国人が多い。

僕は、未来を予知していた。神の言う通り、未来がそうなった。

未来は、簡単に予知出来る。一度精神分析をして、文章を書けば良い。

だが、自然に考えれば、殆どのことは分かる。殆どは自然に起きる。

手相に三人の地獄が見えるように、運命はある。全て、最初から決まっている。

バークリは、神を、誰か人間が存在するより確かに、存在することを実感すると言う。

バークリはおかしくない。だが、狂っている。

逆に、ニーチェがおかしい。キリスト教が弱者の幻想に見えるのは、おかしい。

皆を信じない方が良い。皆は何も分かっていない。

自由に任されている代わり、何も分かっていないのが、皆だ。

ただ、知恵と工夫、立場を吸収することで、皆の言うことは参考になる。

自然に委ねて、抵抗しないことで、勝てることもある。相手の間違いを誘おう。

知の相対性と可能性を考えて、人間とともに捉えて分かっていた。

知と正しさを考えることで、哲学は全部出来る。

頭脳明晰な論理を全部作って、良く分かっていた。

17歳の青少年が世界に目覚めるように、人生の変化と発見によって分かっていた。

辛い戦いだった。自分のしたくない戦いをした。神聖な人生の戦いだった。

知の段階や経緯のようなことを、生まれや環境や経験とともに考えていた。

知っている人間は知っているが、知らない人間は知らない。そのあるなしを考えていた。

実験説明的な知識と、経験観察的な知識は、いくらでも増える。

だが、その中で、浄化した直観的で本質的な知は、それ以上増やすことが出来なくなる。

そのような、本質的な知の組み合わせによって、世界は出来ている。

また、説明的な知は悪くない。そういう知識は、直観の知をさらに分かるように、表現し、形容し、組み立てている。

あとは、知覚と自然法則の経験から、人間の可能性と理性の正しさ、観念の作られ方を考えられる。ヒュームとサルトルは、ある意味、同じだ。