最近の日記に戻る | 2016年9月の日記に戻る

=2016-09-24=

読者の方には申し訳ないのですが、ブログを移転することにしました。

新しいURLは、以下です。

Assyの天使のブログ

http://schwarz1009.blog.shinobi.jp/

移転の理由は、キーワードや広告の大きさの問題もあるのですが、自分の広告がつけられるために、広告収入が見込めると思ったからです。

今のところ、儲かってはいません。

ただ、儲からないのにはてなの広告がつくはてなブログより、良いと思いました。

それに、キーワードもあまりつく意味がないと思います。

このブログの過去記事と同じ内容が、ホームページから見られるので、そちらもご覧ください。

Assy(アッシー)のページ

http://assy.dousetsu.com/

このブログは、ホームページと重複した内容になっているので、そのうち消すかもしれません。

忍者ブログより

分かっていることを全部忘れないと、賢くならない。

昔は、普遍的で主体的な人格者となって、正しく世界を考えていた。

自分は、普通の人間になりたい。

意識は、そのままでもつく。

このまま、世界はありえない、夢の世界のような世界になる。

ありえないことを起こすためには、催眠状態になること。

催眠状態になると、夢の世界のようなことが起きる。

世界は、心の中にあるから、そうなる。みんな、催眠状態になれ。

今から、全ての死者が復活して、永遠の命を持つ。

入力だけではなく、女が現れたり、未来を予知したり、神と対話したりする。

自分をやるためには、ただ、催眠状態になれば良い。それだけで、音楽のようなことが起きる。

キリスト教で終末とされている世界は、今、起きる。

神の裁きとは、自分による、「全員を善人へと作り変える」と言う、言葉の業だった。

心理学で狂うのは、「何故それをするのか」と言う「行動の動機」を正常に治すからだ。

心理学のカウンセリングなんか受けなくても、人が何故それをするのか、考えれば分かる。

色んな環境や経験のことを考えれば良い。

自分の場合、この文章を書くのが、何の役にも立たないのが分かっていない。

そういうわけで、ネガティブなことを言うのが怖くなった。そのせいで分からない。

最近の自分は、個人と言う発想が無い。

昔は、社会や組織を個人の集団と考えて、それぞれの出来ることから手段や機会を考えていた。

そして、人生的で経験的な認識から、発見を考えた。

人間は、発見と洗脳のようなことを、同時にしていると、分かる。

農業は、品種改良などで、簡単に強く、増えやすい種を作ると、革命的になるだろう。

特に、アフリカの荒野にも増える植物や野菜を作る。

そこから、温暖化も解決出来るし、土地を気にしなくても、大量に野菜が作れるだろう。

ある意味、大革命だ。

中国は、人口や労働力も、技術力もあるのだから、ありえないことが出来るはずだ。

西洋や日本のコピーではない、本当に賢くて良い世界を中国に作ってほしい。

民主主義になるのはつまらないかもしれない。

だが、政治権力より、人民が勝つような、「政府より全員の力の方が強い」社会を実現出来る。

それは、何故なら、本当に人口が多いからだ。

中国は、政府主導ではなく、人民主導の国となれ。

人間は、おかしな経験を積み重ねて、融和して、それを動力源とする心と言う名前の機械を作って、自分の頭脳を作る。だから、おかしな経験をしても、今の自分はおかしくないのだ。

学校の通り生きるのも、みんなに従って生きるのもつまらない。

自分の人生が一番優れているのだ。

運命を導きながら、自分の過去の運命を全部書きなさい。

これは奇跡ではない。あるいは、こういう奇跡は、誰にでも起こり得るのだ。

自分は、大切なものを守らないのがおかしい。

自分の大切なものも、自分の自由や命さえも、犠牲にして、全て失って満足している。

そこがおかしい。そんなに馬鹿な知性のない人間になる意味がない。

誰かが教えるのなら、僕が教えよう。自分のことを、もっと大切にしなさい。

強く生きる、と言う意味は、犠牲にする、と言う意味ではない。

希望を信じることは、そのために全てのものを失うことじゃない。

きちんと分かった人間は、何も失わなくても、いつでもゼロに戻れるようになる。

自分の得たものは、全部元あったものを喪失して得たものか、一度失ったものを取り戻したものばかりだ。きちんと「得た」と言えるものが、何も無い。

何かを知ったようで、何も知ったものは無い。

最初からあったものを、確認し、自分で破壊したものを自分で修復しただけだ。

魂と言うものがあるとしたら、そういうもののことを言うのだろう。

最近は、病気を治しながら、文章を書いて、出来もしないことをやるだけの人間になった。

最近は、トラップのような悪いものが多過ぎる。そういう、悪いものは、全部消した方が良い。

みんな、そういう悪いものを、いくらでも全部経験した。

そういう、いくらでも経験したものは、存在しなくて良い。無くても、心のどこかで分かる。

次の世代は、次の世代に全部作らせて、やらせた方が、老人が考えるよりはるかに良いものになる。

パソコンの文化や技術さえも消して、次の世代に作らせた方が良い。

ただ、パソコンはそんなに悪くないだろうが。

奇跡のように思えることの方が、最初から決まっている。不思議と、どうでも良い当たり前のことの方が、決まっていない。ただ、それはつまらない。この世界の歴史を神と言うと、何も分からない。ただ、そう考えないと、分からないことは、本当に多い。唯一、人生の中で一度だけ、そういうことを起こすのが神だ。その時は、世界全体を巻き込む。今から、それが起きる。

自分は、書く方が楽で、書かない方が辛いのが分かっていない。

止める方が楽に見えて、その方が精神的に辛いから、怖くなっている。

まだ、何年か書いた方が良い。それが一番賢くて、実のある体験になる。

自分は、書くのを悪いと思うせいで、色んなことがあった方が良いのが分からなくなっている。

書くのを良いと思うと、歩き回ったりする、狂っているのが治る。

そういうわけで、おそらくは、書いた方が良い。そんなに疑わず、信じれば良い。

昔は、認識や感覚から人間のことが良く分かった人間だった。

慎重に考えて、1つ1つ照らし合わせて、認識のことを比較で考えて、環境の気付きから、ネットと空想のバランスを取って分かっていた。

それが、段階的な知性になって、世界を変える広がりになった。

昔は、そういうものを書いていただけだ。

自由な経験から、環境の理由が分かる。過去や未来の環境の理由が分かってくる。

どんな環境を実現出来るのかも、そういう風に分かる。

歴史上の社会も良く分かるし、心の問題も分かる。

その環境のことを良く知っている人間がやるべきだが、他の環境もきちんと知るべきだ。

ある意味、全ての環境は、基盤やインフラと見なせる。昔は、そういう風に、人格や共有すら、環境と見なして、環境を作り出すこと、変えることを感覚的、認識的に分かっていた。

あとは、言葉を作っていた。「習得とは」や「発想とは」のように、説明する。分かっていたから、そうなった。世界観の構造を作って、全てを提示して、意見していた。

前のブログに移転のお知らせを書いた。ノートは4ページ入力した。

昔は、自覚と気づきの自意識で分かっていた。

最近は、一人で勝手に世界を支配した。

意識をつけたいだけに見えて、楽がしたい。無かったことにしたいだけだ。

そんなに言って、聞いて、確かめる意味がない。意識が無くなっている。

確かめないと怖いのがおかしいだけだ。この世界は、何もおかしくない。

子供は、失うのが怖いから泣いている。それは、失わなければ分かるからだ。

最近は、同じリズムを繰り返して分かっている。そのせいで、無限に分かるようになった。

馬鹿で辛い方を取るよりも、賢くて怖い方を取った方が、楽になる。

安心せず、最初から怖い方を取る。

最初から、こんな文章は書かなくて良いとか、そういう風に思えば良い。

要は、否定すれば良い。信じなくて良い。

説明と可能性を書きながら、実像から社会や自然の考え方を書いていた。

世界のあらゆる構造を概念からモデルにした。関係と成り立ちと可能性を考えた。

モーツァルトを聴いていると、足の精神がすぐに治る。

子供が泣くのは、体で悲しい時を覚える以外、分かる方法が無いからだ。

子供は、そういう風に分かる。

大人でも、間違いを覚えれば分かる人間が多い。

昔は、実感でその時の瞬間になって、「確かに大切な時」になって分かっていた。

自覚と確信から、生きる知恵を経験的に分かっていた。

そして、心の作用を捉えて、行動を把握して分かっていた。感覚で社会を作った。

何が確かに実現可能なのかを、モデルと発想の仮定で分かった。

意識と発想から、例えば学校は作れるとか、創造性から社会が生まれるとか、分かっていた。