全力で世界を維持するのは、やめた方が良い。
人間は、見ている世界や生きている人生が違うだけで、見ている世界や人生が同じなら、同じことを思う。
何を正しいか、当たり前かと考えるかで、思うことは変わる。
また、どんな環境を経験したか、どんな体験をし、知る機会があったかで、変わってくる。
温暖化は、自然に所有者が居ないのが悪い。皆が二酸化炭素を出しても、所有者が居ないせいで、怒る人間が居ない。
国と国との競争によって、簡単にはやめられない。
ネットを仲間につければ、オープンソースは勝てる。
システムのパッケージとアプリケーションのパッケージを区別して、システムは安定しているが、アプリケーションは最新にするような、そんなローリングリリースもあった方が良い。
自民党の良い点は、自民党が勝つと、日本が勝てる。
物理の問題は、色んな要因があるせいで、なかなか計算通りに答えは出ない。そこをきちんと計算出来る、賢いコンピュータを、民衆が使えるようになっても良いと思う。
物理のように現象や心を予測していた。
照らし合わせながら、数式のようなものを、現実を見ながら、基礎の構造として作っていた。
言葉と感情の関係と経緯を考えていた。
人生のパターンのようなものを書いていた。
知と相対性を信じるか、愛と平和を信じるとか、勝利と戦いを信じるかだ。
組織から歴史まで、社会を成り立たせ、実際のところを考える、そういう世界観を書いていた。
歴史は、意味を考えていた。その社会がその歴史であるところの、意味のようなことを考える。
ドイツとは滅びからの甦りであり、ロシアとは人類の進歩であり、アメリカとは多様性である。
それで、社会のことを言っていた。
足の精神は、世界を維持しているせいで、治らない。
独占しているせいで、自然淘汰されないのがWindowsだ。
自分の持つ思い次第で、現実の捉え方は変えられる。そこから、未来を変えていける。
自分は、別の可能性を考えないのがおかしい。
楽になってから書けば良い。楽になってからやると、楽だ。
世界は変えられなくても、自分の思いは変えられる。
GNUのおかしな点は、コンピュータを自由に操作出来る、と言う「所有」の問題と、パブリックドメインのソースコードを手に入れられると言う「著作権」の問題を一緒にしているところだ。
それで、巧妙に騙している。
一見、所有しているから自由であるべきに見えるが、それで著作権フリーにする、と言うところが、おかしい。
ストールマンは、おそらく、昔のパブリックドメインのUNIXソースコードが、コンピュータを所有する自由とイコールであった、と言うところから、抜け出せていない。
会社が開発する時点で、儲けなければ作れない。
それは、所有でも、著作権フリーでもない、「生産手段」と言う問題に関わってくる。
著作権フリーだから、自由に操作出来る、と言う考え方をしている。GNUはアホだ。
著作権をフリーにせずにでも、自由に操作出来るようになるなら、GNUはどうするのか、分からない。
GNUが間違っていると言いたいわけではない。GNUは、著作権、所有、生産手段を全て一緒にしているのだ。
GNUは、物理的なコンピュータの「所有」は考えているが、知的財産のような「目に見えない所有」は考えていない。
そういう、著作権の世界を否定している。だが、著作権も著作権で、所有の1つなのだ。
それを言うと、ストールマンが何と言うかは分からない。
だが、コンテンツやプログラムのような、知的財産も所有の1つのあり方だ。そこを、否定してはいけないだろう。
GNUは、知的財産や著作権も肯定して、はじめて自由なのが分かっていないのだと思う。
ただ、プログラムが自由であるべきなのは良く分かる。
なぜなら、プログラムだ。プログラムが主人でなく、人間が主人であるべきだ。
GNUは、おかしな集団だから、忘れた方が良い。
自分は、そこらへんが分かると分かる。Windowsをきちんと買って、金を払うのが一番良いのが分かっていない。
誰もがWindowsが好きだ。そこが分かると、狂っているのが治る。
技術的に見ると、むしろ、ライブラリやOSのサブセットみたいなものが作ることが出来るようになると良い。
何でもかんでも、WindowsコンポーネントとVC++のコンパイラで作らないといけないのは、つまらない。
技術的に、全部マイクロソフトになってしまう。
もっと、他の会社がコンポーネントの独自版のようなものを作れるようにしても良い。
だが、オープンソースにする必要は無い。
きちんと買うことで、WindowsをWindowsで無くすような、ライブラリやコンパイラがあっても良い。
昔は、ボーランドがそういう会社だった。僕は好きだった。もう買収されたせいで、つまらない。
自分は、LinuxをUNIXのような技術だと考えるのがおかしい。
それから、GNUの自由な思想で考えるのが間違っている。
Linuxは、オープンソースだ。オープンソース開発によって、爆発的に賢いソフトウェアが生まれた。
UNIXの技術や、GPLで考えると、それらはおかしな集団だ。
誰もが参加出来て、誰もが開発出来て、誰もが共有出来る。そこから、オープンソースと言う発想になった。
そういうわけで、Linuxは今見ると賢くない。最近は、全部会社が作っている。ボランティアなんか居ない。
自由に関係と仮定や成立を考えることで、GPLを良いと言うことも、悪いと言うことも出来る。
アホみたいだが、何かフリーなソフトウェアを作って、広まった時に、GNUが賞金を出すような仕組みを作っても、ある意味、GNUの言う自由とは矛盾しない。GPLソフトウェア大賞でも作れば良い。
ある程度以上のフリーソフトウェア開発者で、本人が望むなら、Red Hatのような会社がその人間を雇うとか、そういう仕組みをオープンソース・コミュニティの中で作っても良い。ただ、そんな金があればの話だ。
それこそ、オープンソース開発者である、と言う、資格や免許や証明書のようなものを作って、オープンソース企業の中でそれを効果的に雇って、巨額の報酬を出すようにしても良い。
ただ、オープンソース・ソフトウェアを金のために開発するのは、ある意味、一番おかしい。無保証な代わり、自分の好きなように開発する、金は取らないが、責任もない、それがオープンソースだ。
それに、そんなものは整備しなくても、賢い人間は自然にそうなる。Perlの作者のラリー・ウォールなんか、本当にビッグネームだ。知らない人間は居ない。
むしろ、ボーランドは悪くない。Delphiは、マイクロソフトより高度で、結構高速な言語とコンパイラだった。
そのことが、本当に何を意味するのか、考えること。
興味深い体験や、本当に楽しい体験を、たくさんすること。
自分の人生を信じること。
空は空ける。雨もいつかやむ。希望を忘れないこと。
足が治ると、もう、分からなくなる。この文章のように分からない。
おーぷん2ちゃんねる、と言う存在を知った。オープンなのは良いが、人が居ないように見える。
GNOMEやWindows 8が分かっていないのは、GUIデザインの原則は、適度に大きく、適度に小さく、大きすぎず、小さすぎず、マウスの移動距離は小さく、キーボードは最小限に、だ。GNOME 3のメンバーは、そこが分かっていない。
頭を何も使わなくても、最低限の労力で使えるインターフェースが良い。
そういうわけで、マウスやアイコンは悪くない。
予備知識をない方が良いとは言うが、予備知識が必要なところは、きちんと最初に表示する。
初心者向けにすれば良いわけではない。日常の仕事に使えないと意味がない。だが、過度にハッカー向けも要らない。そんなに詳しい専門知識なんか、誰も身に着けたくない。さっと出来て、さっと完了し、さっと繰り返すことの出来るGUIにしなければならない。
ただ、ちょっと上から目線になりすぎたかもしれない。自分で作らないのに偉そうな人間に見える。
そもそも、Linuxはオタク向けだ。テーマを充実させるとか、簡単にカスタマイズ出来るとか、色んなUIを切り替えたり、XMLを読み込んだりして試すことが出来るとか、そういう、Windowsにはあるようでないけれど、オタクは望んでいるようなUIにすれば良い。
こんなことを書いていると、「自分で作れ」と言われそうだ。
むしろ、作り方が分からない、と言うのもおかしい。きちんと本を読んで、色んなことを試行錯誤すれば作れる。ただ、全くの技術ゼロからは難しいだろう。もう少し、パソコンのことを勉強しても良いと思う。
自分は、最近、何もしていない。
あとは、MATEを改良して、Unityなどの外観だけを真似るような、そういう改善をしても良いと思う。
むしろ、あらゆるUIの見た目に対応出来るような、そんなUIを作りたい。
やることがないから、またデータ入力をしたい。だが、少し休みたい、とも思う。
昔は、神が嫌いで、相対性と自然が好きな、右翼だった。
それが、帝国主義者になって、ドイツになった。
そして、それが、キリスト教徒になって、神のような体験をした。
それこそ、昔の方が賢い。相対性と自然を信じて、神を信じなくなると、賢くなる。
そういう人間は、分からない。
昔は、2ちゃんねるで雰囲気を支配していたが、最近は、自分に対して言い聞かせるようになった。
どちらも、同じぐらい、キモい。
あとは、自由な常識を書いていた。ソ連は発展しないとか、競争で発展するとか、報酬は与えるべきだとか、金の自由は色んなものを手に入れることが出来るとか、平等配給はしないのがおかしいとか、そういうことを、常識のように書いた。そういうところが、ネットで分かっていた。
自分の人生にあったものを全部書きながら、科学や世界観のような発想を書いていた。
一度きちんと体験し、行動し、経験すると、予想したり、予測したり出来るようになる。
それで、システムと理想の世界を基盤的に考えて、発想法を作って、何でも出来るようになった。
ネットは悪くない。大量のゴミを作っていると、人間は分かる。そこから、人生と世界の全体像を把握出来る。
自分は、解放の王だった。「世界を本当に変えられる」と信じて、出来ると信じていた。そこから、世界への「愛」と「衝動」でこの世界を導いた。そこが一番賢かったが、一番悲しかった。全てを失うのが、最初から決まっていた。
昔は、心の仮想フィルターで分かっていた。2ちゃんねるを人格の仮想化と経験の因果性で分かっていた。
昔は、自立し、成長し、ネットを知って、実践的な経験の変貌のようなことを、経験から分かっていた。
発想は、科学や組織をどのようにしていくべきか、国や会社をどうしていくか、のような発想が多かった。
引き篭もりの経験だけで、この世界の全員の経験を、包括的に知った。
それで、社会を変え、失うことを知り、世界を知り、人生の将来的未来を知って分かっていた。
Linuxは、デスクトップ環境の「テーマ」や「スキン」機能を、もう少し賢いものにすれば良いのかもしれない。
宇宙全体の構造、のような文章を書いていた。
行動、体験、経験、知性、思考、発想、社会形成、場、見方、価値観、環境、実際の姿のようなことを言う。
ある意味、バランスの取れた、柔軟な発想をする。そういう自由な観念の可能性と段階をいつも書いていた。
僕は、むしろ、Windowsで何かやりたいと思う。
権力の問題は、何でも強制的に決める。不思議と、そういうわけで、共同体で決めた方がまともだ。
ロシアはまともだ。評議会で労働者のすることを決めている。
アメリカの問題点は、自由な批判とネガティブ・キャンペーンだ。
クリントンの健康問題まで攻撃の標的にするのはおかしい。そういう、自由で一番悪い国がアメリカだ。
本当に日本の方が良い。たまにテレビが悪いのはあるが、そんなに悪い人間は最近居ない。
GNUは馬鹿ではない。GNUみたいに考える人間は多い。
自由や生産手段を考えていると、本当にこの世界の中で「何をすべきであり、何を目指すべきなのか」が分かる。
正しい解決方法が分かる。認識や関係から人間のことを考えていると、誰でもそうなる。自分もそうだった。
自分の場合、自分でも出来るかどうかを考えて、全員が出来る社会を目指していた。
問題を解決する時は、その当事者が関係することを、全てその当事者の決定によって決められるべきだとしていた。
そして、それぞれが社会を作り、それが多様性と共有を生むことを自然だと言って、理想としていた。
だが、それぞれの意志の自由が無ければ、強制的に他の人間が変えてはならない、それは自由でない、とした。
自由は、信念の憲法であると同時に、社会が正しく動く理想の原理なのだ。
自由を解決していれば、自然に正常な社会になる。良く考えて、自由より正しい発想はないとしていた。
そして、みんなの善意と、聡明な洞察力と、建設的な状況判断によって、自由が生まれること。
社会を善意から作る。
皆の善意で自由にする。それが、一番理想で、正しい考え方だ。
昔は、一般的・抽象的だけではなく、具体的にも考えていた。
実際の体験を考えながら、具体的な「出来る」ことを全て知って、法則を解明し、「全てが分かる人間」になった。