最近の日記に戻る | 2016年9月の日記に戻る

=2016-09-12=

全力で世界を維持するのは、やめた方が良い。

人間は、見ている世界や生きている人生が違うだけで、見ている世界や人生が同じなら、同じことを思う。

何を正しいか、当たり前かと考えるかで、思うことは変わる。

また、どんな環境を経験したか、どんな体験をし、知る機会があったかで、変わってくる。

温暖化は、自然に所有者が居ないのが悪い。皆が二酸化炭素を出しても、所有者が居ないせいで、怒る人間が居ない。

国と国との競争によって、簡単にはやめられない。

ネットを仲間につければ、オープンソースは勝てる。

システムのパッケージとアプリケーションのパッケージを区別して、システムは安定しているが、アプリケーションは最新にするような、そんなローリングリリースもあった方が良い。

自民党の良い点は、自民党が勝つと、日本が勝てる。

物理の問題は、色んな要因があるせいで、なかなか計算通りに答えは出ない。そこをきちんと計算出来る、賢いコンピュータを、民衆が使えるようになっても良いと思う。

物理のように現象や心を予測していた。

照らし合わせながら、数式のようなものを、現実を見ながら、基礎の構造として作っていた。

言葉と感情の関係と経緯を考えていた。

人生のパターンのようなものを書いていた。

知と相対性を信じるか、愛と平和を信じるとか、勝利と戦いを信じるかだ。

組織から歴史まで、社会を成り立たせ、実際のところを考える、そういう世界観を書いていた。

歴史は、意味を考えていた。その社会がその歴史であるところの、意味のようなことを考える。

ドイツとは滅びからの甦りであり、ロシアとは人類の進歩であり、アメリカとは多様性である。

それで、社会のことを言っていた。

足の精神は、世界を維持しているせいで、治らない。

独占しているせいで、自然淘汰されないのがWindowsだ。

自分の持つ思い次第で、現実の捉え方は変えられる。そこから、未来を変えていける。

自分は、別の可能性を考えないのがおかしい。

楽になってから書けば良い。楽になってからやると、楽だ。

世界は変えられなくても、自分の思いは変えられる。

GNUのおかしな点は、コンピュータを自由に操作出来る、と言う「所有」の問題と、パブリックドメインのソースコードを手に入れられると言う「著作権」の問題を一緒にしているところだ。

それで、巧妙に騙している。

一見、所有しているから自由であるべきに見えるが、それで著作権フリーにする、と言うところが、おかしい。

ストールマンは、おそらく、昔のパブリックドメインのUNIXソースコードが、コンピュータを所有する自由とイコールであった、と言うところから、抜け出せていない。

会社が開発する時点で、儲けなければ作れない。

それは、所有でも、著作権フリーでもない、「生産手段」と言う問題に関わってくる。

著作権フリーだから、自由に操作出来る、と言う考え方をしている。GNUはアホだ。

著作権をフリーにせずにでも、自由に操作出来るようになるなら、GNUはどうするのか、分からない。

GNUが間違っていると言いたいわけではない。GNUは、著作権、所有、生産手段を全て一緒にしているのだ。

GNUは、物理的なコンピュータの「所有」は考えているが、知的財産のような「目に見えない所有」は考えていない。

そういう、著作権の世界を否定している。だが、著作権も著作権で、所有の1つなのだ。

それを言うと、ストールマンが何と言うかは分からない。

だが、コンテンツやプログラムのような、知的財産も所有の1つのあり方だ。そこを、否定してはいけないだろう。

GNUは、知的財産や著作権も肯定して、はじめて自由なのが分かっていないのだと思う。

ただ、プログラムが自由であるべきなのは良く分かる。

なぜなら、プログラムだ。プログラムが主人でなく、人間が主人であるべきだ。

GNUは、おかしな集団だから、忘れた方が良い。

自分は、そこらへんが分かると分かる。Windowsをきちんと買って、金を払うのが一番良いのが分かっていない。

誰もがWindowsが好きだ。そこが分かると、狂っているのが治る。

技術的に見ると、むしろ、ライブラリやOSのサブセットみたいなものが作ることが出来るようになると良い。

何でもかんでも、WindowsコンポーネントとVC++のコンパイラで作らないといけないのは、つまらない。

技術的に、全部マイクロソフトになってしまう。

もっと、他の会社がコンポーネントの独自版のようなものを作れるようにしても良い。

だが、オープンソースにする必要は無い。

きちんと買うことで、WindowsをWindowsで無くすような、ライブラリやコンパイラがあっても良い。

昔は、ボーランドがそういう会社だった。僕は好きだった。もう買収されたせいで、つまらない。

自分は、LinuxをUNIXのような技術だと考えるのがおかしい。

それから、GNUの自由な思想で考えるのが間違っている。

Linuxは、オープンソースだ。オープンソース開発によって、爆発的に賢いソフトウェアが生まれた。

UNIXの技術や、GPLで考えると、それらはおかしな集団だ。

誰もが参加出来て、誰もが開発出来て、誰もが共有出来る。そこから、オープンソースと言う発想になった。

そういうわけで、Linuxは今見ると賢くない。最近は、全部会社が作っている。ボランティアなんか居ない。

自由に関係と仮定や成立を考えることで、GPLを良いと言うことも、悪いと言うことも出来る。

アホみたいだが、何かフリーなソフトウェアを作って、広まった時に、GNUが賞金を出すような仕組みを作っても、ある意味、GNUの言う自由とは矛盾しない。GPLソフトウェア大賞でも作れば良い。

ある程度以上のフリーソフトウェア開発者で、本人が望むなら、Red Hatのような会社がその人間を雇うとか、そういう仕組みをオープンソース・コミュニティの中で作っても良い。ただ、そんな金があればの話だ。

それこそ、オープンソース開発者である、と言う、資格や免許や証明書のようなものを作って、オープンソース企業の中でそれを効果的に雇って、巨額の報酬を出すようにしても良い。

ただ、オープンソース・ソフトウェアを金のために開発するのは、ある意味、一番おかしい。無保証な代わり、自分の好きなように開発する、金は取らないが、責任もない、それがオープンソースだ。

それに、そんなものは整備しなくても、賢い人間は自然にそうなる。Perlの作者のラリー・ウォールなんか、本当にビッグネームだ。知らない人間は居ない。

むしろ、ボーランドは悪くない。Delphiは、マイクロソフトより高度で、結構高速な言語とコンパイラだった。

そのことが、本当に何を意味するのか、考えること。

興味深い体験や、本当に楽しい体験を、たくさんすること。

自分の人生を信じること。

空は空ける。雨もいつかやむ。希望を忘れないこと。

足が治ると、もう、分からなくなる。この文章のように分からない。

おーぷん2ちゃんねる、と言う存在を知った。オープンなのは良いが、人が居ないように見える。

GNOMEやWindows 8が分かっていないのは、GUIデザインの原則は、適度に大きく、適度に小さく、大きすぎず、小さすぎず、マウスの移動距離は小さく、キーボードは最小限に、だ。GNOME 3のメンバーは、そこが分かっていない。

頭を何も使わなくても、最低限の労力で使えるインターフェースが良い。

そういうわけで、マウスやアイコンは悪くない。

予備知識をない方が良いとは言うが、予備知識が必要なところは、きちんと最初に表示する。

初心者向けにすれば良いわけではない。日常の仕事に使えないと意味がない。だが、過度にハッカー向けも要らない。そんなに詳しい専門知識なんか、誰も身に着けたくない。さっと出来て、さっと完了し、さっと繰り返すことの出来るGUIにしなければならない。

ただ、ちょっと上から目線になりすぎたかもしれない。自分で作らないのに偉そうな人間に見える。

そもそも、Linuxはオタク向けだ。テーマを充実させるとか、簡単にカスタマイズ出来るとか、色んなUIを切り替えたり、XMLを読み込んだりして試すことが出来るとか、そういう、Windowsにはあるようでないけれど、オタクは望んでいるようなUIにすれば良い。

こんなことを書いていると、「自分で作れ」と言われそうだ。

むしろ、作り方が分からない、と言うのもおかしい。きちんと本を読んで、色んなことを試行錯誤すれば作れる。ただ、全くの技術ゼロからは難しいだろう。もう少し、パソコンのことを勉強しても良いと思う。

自分は、最近、何もしていない。

あとは、MATEを改良して、Unityなどの外観だけを真似るような、そういう改善をしても良いと思う。

むしろ、あらゆるUIの見た目に対応出来るような、そんなUIを作りたい。

やることがないから、またデータ入力をしたい。だが、少し休みたい、とも思う。

昔は、神が嫌いで、相対性と自然が好きな、右翼だった。

それが、帝国主義者になって、ドイツになった。

そして、それが、キリスト教徒になって、神のような体験をした。

それこそ、昔の方が賢い。相対性と自然を信じて、神を信じなくなると、賢くなる。

そういう人間は、分からない。

昔は、2ちゃんねるで雰囲気を支配していたが、最近は、自分に対して言い聞かせるようになった。

どちらも、同じぐらい、キモい。

あとは、自由な常識を書いていた。ソ連は発展しないとか、競争で発展するとか、報酬は与えるべきだとか、金の自由は色んなものを手に入れることが出来るとか、平等配給はしないのがおかしいとか、そういうことを、常識のように書いた。そういうところが、ネットで分かっていた。

自分の人生にあったものを全部書きながら、科学や世界観のような発想を書いていた。

一度きちんと体験し、行動し、経験すると、予想したり、予測したり出来るようになる。

それで、システムと理想の世界を基盤的に考えて、発想法を作って、何でも出来るようになった。

ネットは悪くない。大量のゴミを作っていると、人間は分かる。そこから、人生と世界の全体像を把握出来る。

自分は、解放の王だった。「世界を本当に変えられる」と信じて、出来ると信じていた。そこから、世界への「愛」と「衝動」でこの世界を導いた。そこが一番賢かったが、一番悲しかった。全てを失うのが、最初から決まっていた。

昔は、心の仮想フィルターで分かっていた。2ちゃんねるを人格の仮想化と経験の因果性で分かっていた。

昔は、自立し、成長し、ネットを知って、実践的な経験の変貌のようなことを、経験から分かっていた。

発想は、科学や組織をどのようにしていくべきか、国や会社をどうしていくか、のような発想が多かった。

引き篭もりの経験だけで、この世界の全員の経験を、包括的に知った。

それで、社会を変え、失うことを知り、世界を知り、人生の将来的未来を知って分かっていた。

Linuxは、デスクトップ環境の「テーマ」や「スキン」機能を、もう少し賢いものにすれば良いのかもしれない。

宇宙全体の構造、のような文章を書いていた。

行動、体験、経験、知性、思考、発想、社会形成、場、見方、価値観、環境、実際の姿のようなことを言う。

ある意味、バランスの取れた、柔軟な発想をする。そういう自由な観念の可能性と段階をいつも書いていた。

僕は、むしろ、Windowsで何かやりたいと思う。

権力の問題は、何でも強制的に決める。不思議と、そういうわけで、共同体で決めた方がまともだ。

ロシアはまともだ。評議会で労働者のすることを決めている。

アメリカの問題点は、自由な批判とネガティブ・キャンペーンだ。

クリントンの健康問題まで攻撃の標的にするのはおかしい。そういう、自由で一番悪い国がアメリカだ。

本当に日本の方が良い。たまにテレビが悪いのはあるが、そんなに悪い人間は最近居ない。

GNUは馬鹿ではない。GNUみたいに考える人間は多い。

自由や生産手段を考えていると、本当にこの世界の中で「何をすべきであり、何を目指すべきなのか」が分かる。

正しい解決方法が分かる。認識や関係から人間のことを考えていると、誰でもそうなる。自分もそうだった。

自分の場合、自分でも出来るかどうかを考えて、全員が出来る社会を目指していた。

問題を解決する時は、その当事者が関係することを、全てその当事者の決定によって決められるべきだとしていた。

そして、それぞれが社会を作り、それが多様性と共有を生むことを自然だと言って、理想としていた。

だが、それぞれの意志の自由が無ければ、強制的に他の人間が変えてはならない、それは自由でない、とした。

自由は、信念の憲法であると同時に、社会が正しく動く理想の原理なのだ。

自由を解決していれば、自然に正常な社会になる。良く考えて、自由より正しい発想はないとしていた。

そして、みんなの善意と、聡明な洞察力と、建設的な状況判断によって、自由が生まれること。

社会を善意から作る。

皆の善意で自由にする。それが、一番理想で、正しい考え方だ。

昔は、一般的・抽象的だけではなく、具体的にも考えていた。

実際の体験を考えながら、具体的な「出来る」ことを全て知って、法則を解明し、「全てが分かる人間」になった。