社会のことを考えている。
それぞれが自由にすることから、社会は生まれる。
だが、社会には、秩序が必要だ。
自由から、秩序が生まれ得るだろうか?
それは、ルールを作れば良い。
ルールは誰が決めるべきか?
ルールは、全員の代表が決めるべきだ。
自由なままでは、秩序は生まれ得ない。
一人の支配者が支配するとか、平等にして自由を無くすとか、そういうところから秩序は生まれる。
支配者は、理想としては、居ない方が良い。
だが、社会が支配者を必要とすることもある。
自由な意志を認めるなら、相手の自由を奪うことも自由であるだろうか?
そこでは、階層や支配を固定せず、流動化し、自由にする、と言う、「支配者となる自由」も存在する。
生産手段と経験によって、人々はものを作る。
手段と経験を与えれば、誰でもものは作れるのだろうか?
そこでは、「条件」と言う発想が生まれる。
昔は、自分も、「全員が出来ることを吸収する」と言う側面から、全てのことを出来るようになった。
自分は、もっと具体的に対象を明確化して考えた方が良いだろう。
こういう風に考えると、哲学者やGNUのようになってくる。
昔から、自分は自由と論理から、この社会の経験を考える。
人間全員の経験の先に、理想の社会が待っているのか、滅亡が待っているのかは、自由だ。
どこを自由にして、どこを自由にしないべきか?
悪いことをする自由や、他人の自由を奪う自由は、自由なのか?それがないことは、平等なのか?
全部自由にすると、無政府主義のようになって、めちゃくちゃな世界になる。
逆に、絶対権力者を生み出すこともある。
みんなの代表による、絶対権力者、という発想が、民主主義だ。
だが、それも、憲法がある場合、憲法が無い場合では、違ってくる。
憲法が無いと、ファシズムのように、権力者が、たとえ悪いことであっても、国民が望むのであれば、絶対的に何でも決めるようになる。
ある意味、自由の無い社会の方が、理想の社会になることはある。
社会主義に、自由は何もない。全員、国家のロボットで、皆、貧しい中で奴隷のように働いている。
自由は、「出来る」だけで、平等は、「出来ない」だけであって、自由と平等は良く似ている。
社会を形成するためには、自分から自由を放棄することも必要だが、それによって自由な社会を築ける。
昔は、それくらいを考えただけだ。
環境を自由にするとか、参加可能なコミュニティを作る、などと考えていた。
自由な知性のある哲学者だった。
思考するだけで分かるのも、ある意味おかしくはない。だが、新しい世界を知って、気付くことは必要だ。
本当に、みんなが自由を感じられる社会とは何なのか?
そういうものを、価値観やアイデンティティから考えられるかもしれない。
ただ、2ちゃんねるがそういうものを知るのに有効だ。価値観からの社会が見て取れる。
みんなの代表が絶対権力を持つのは、管理人が掲示板を強制的に支配するのと、良く似ている。
だが、支配と所有は違う。
所有までしてしまうと、スターリンのように、全員が奴隷となってしまう。ある意味、ソ連は反面教師だ。
所有による支配、というのもある。金持ちが金をたくさん持つことによって、会社を支配する。
ある意味、金を無くした方が、理想の自由な社会になる可能性はあるかもしれない。
昔の文章は、そういう風に、「社会の秩序と自由は何なのか」を、色んな社会を作って考えていた。
昔は、基盤や前提を考えていた。
本質、モデル、全体自由、応用などを考えた。
それが意味していることが、何を意味しているか、考えた。
そして、論理や経験から、社会と人間の実存的なあり様を考えた。
虫は、抵抗出来ないから気持ち悪く見える。
あとは、世界を救っていた。悪く見えて、良い心を持っていた。
自分は、その時だけで終わりにするのが悪い。そういう王が永遠に続いた。
永遠の体験がここまで続くのを、何億年と言っていた。
土や種を改良して、野菜が自然に生えてくる畑を作れるかもしれない。
足がおかしいのは、足に悪いものが全部あるからだ。それを治しているだけだ。
環境への適応の構造を作って、視点や見方を変えて、心を内面的に分かっていた。
それを多面的だと言っていた。決めることで可能にし、可能性を推測した。
自然はすぐに壊れるから、進歩しすぎた文明はすぐに滅亡する。アメリカはそうなるだろう。
かっこいいだけで選挙で勝てるなら、誰でも暴走する。それが右翼だ。
憲法改正の争点は、平和憲法ではなく、暴走条項の新設なのに気づいていない人が多い。
植物を増やすには、増える種を作れば良い。増えやすい種を作る。
種は作れなくても、ビニールハウスや農薬の技術を応用して、植物を育ちやすくする。
それを、アフリカの砂漠にどんどん蒔いていく。それで、温暖化は解決出来る。
人間は、考えるより、何かした方が分かることが多い。最近は、それが出来ていない。
自分は、自分だけが起こせるのが悪い。みんなも同じように起こせるべきだ。
それが、バンプの言う、「自分だけに許された権利」だ。
ただ、そうすると、すぐに国が滅びて、すぐに自分が引きずり落されるのが怖かった。
昔から、僕はこういう馬鹿な王が嫌いだ。
あとは、宇宙のような歴史を作っていた。ナメクジのような生命を創っていた。
おそらく最初の生命は、ナメクジのような原生・原始生物だ。それは、自分のせいで生まれた。
色々と全部解決したから、あとは、野菜が勝手に生えてくるような、そういう種を作ると良い。
どんどん品種改良するのは良いが、それは悪い。おかしな生命が生まれるから、しない方が良い。
ある意味、昔の僕のような「可能性の自由」は一番悪い。
ピアノを弾く秘訣は、音の高低の大きな変化に戸惑わないこと。
それから、五線譜で移動する音の高低の範囲は、そんなに大きくない、と思って鍵盤で弾くこと。
ピアノは、右手の高いソを良く間違えるから、覚えた方が良い。
プログラミング言語は、ファイルシステムのように、もっと言語とOSの境界を近くすると良い。
GUIのファイルマネージャでファイルを簡単に扱えるように、プログラミング言語の領域でも簡単なOSやファイルの操作が可能になると、良いと思う。Perlのようなスクリプト言語だけではなく、コンパイル言語でもそういう風にする。
オープンソースは、アプリケーションの開発をしたりするよりも、ライブラリやAPIの開発をした方が良い。ファイルやグラフィックスやネットワークを、もっと統一的かつ高度なライブラリ関数やAPIで開発出来るようにする。
「本当に開発者に優しいプログラミング言語」のようなものを、文法やコンパイラだけではなく、ライブラリやAPIの側面から、UNIXと強固に結合して、開発しても良いだろうと思う。
あとは、昔は、「新しい世界を知る感覚」や「認識の学習」で分かっていた。全部そういう風に、エロく分かっている。
ある意味、UNIXには、3つのソフトウェア階層がある。シェル・コマンドライン(BASH)、ウィンドウシステム(X/GNOME)、そしてプログラミング言語(C言語のソースコード)だ。このうち、シェルは良く出来ているが、GNOMEは良く出来ていない。ソースコードは、原始的過ぎる。もっと、ソースコードの部分を、簡単に開発出来るように、高いレベルでのライブラリを作った方が良い。GLib/GObjectのようなものだと思えば良い。
オープンソースの開発がしたかったせいで、会社で作っているのを自分の家で作るとか、作れるようになるとか、金儲けではなくても政府で開発するとか(たとえば、アフリカなどで自国向けにLinuxを開発・配布する)、大学の研究所で科学の論文のようにソフトウェアを作るとか、そういう発想をしている馬鹿が多かった。