英会話教室に行ってきた。
自由な社会規範を書いていた。「自由な環境を守るべきだ」と言っていた。
社会の変化のようなことを言っていた。「社会は、作り出され、生み出される」とか、「世界を変えるのはみんなである」と言ったことを言う。
最近は、全部異常にして、その異常を治すだけで分かる。
作ったものを、すぐに消して、すぐに分かったことを消して分かる。
昔は、世界を環境だと思って、環境の変化で分かっていた。
環境を変えて、世界を変えて、その感覚と認識の支配で分かった。
自分は、環境が変わるのが怖い。
最近は、それを支配している。環境を自在に変えられるようにした。
ただ、そうでもない。破壊して、停止させているだけだ。
広島には、環境が無い。
怖いのは、環境を生み出して、変わるのが怖いだけだ。
社会は、創造的で、社会的なものになれ。
きちんと社会を生み出して、適応して、変化するようにすると、正常で楽な世界になる。
自分のせいで、社会は止まっているところがある。特に広島がそうだ。
環境を把握することで、世界の全てを把握していた。そういう、エロい人間だった。
昔は、正しい考え方を考えていた。
論理、認識、方法、作用を積み重ねて、知性と経験から考え、比較と矛盾を考える。
「何を捉えているか」を考える。
また、生活的、社会的な行動原理を考える。
恐怖がモチベーションになるのはおかしくはないが、興味深さがモチベーションになることもある。
そして、成長し、把握する範囲を拡大して、「何が自由に変えられるか」や「全員は同じ」を考えていた。
そういう、段階的な経験的把握のことを、いつも知性と認識を疑いながら分かっていた。
いつ何がどのように自由なのか、どんな理由でそうなっているのか、必然的にどうなるか、対処法としては何が出来るか、事前に何を考えられるか、必然的にどういう発想になるか、などを、ヒュームやルソーのように考えていた。
前提条件を全て考えると良いだろうと思う。知っている、と言うことは、知っていない、よりは良い。
自由とは、自分の手で作ったり、組織を形成したりすることが許されていることだ。
そういう、「自発的な自由」のようなことを言う。誰もが出来るように、平等に自由な権利を許すべきだ。
理性的に、当てはめて考えていた。基礎の構造体を作って、世界観を知った。
自分の人生を創造していた。一人だけの、かけがえのない「自分」を創っていた。
自由に、世界の出来ることを全部分かって、救世主となりなさい。
構成員と自由な個人から考えれば、社会のことは一部と全部の積み重ねで理解出来る。それがモデルだ。
ある意味自分の文章は、概念と方法を全部書いているだけだ。もっと、自由に考えれば良い。
プログラミングのことを勉強・研究していると、再利用的な知性が良く分かる。
何を最初にし、何を継続していくのか、何をどのようにすれば良いのか、そういうことがパソコンで分かる。
自由とは、それぞれが平等に関わることだ。平等でなければ、自由は生まれない。
きちんと戦って、勝てば分かる。勝者の方が自由や平等になる人間が多い。
ある意味、会社と行政なんか、何も変わらない。一度、そういうモデルと構造を作り直して、考え方で分かると、自由に社会のことを成り立たせることが出来る。そこで必要なのは、「本質に向かってどういう社会にしていくか」と言う、「ビジョン」だ。ある意味それは理想であり、理想と言うものは環境的な経験なのである。真実は、自由だ。
自由とは、正しく基準と法律を作ることだ。世界全体を変えたり、殺したり、支配するのではなく、労働基準法のような法律を適切に裁定し、適切な社会にすることで、破壊しなくても世界のことは変えられる。
正しく考えて、自由に決める。
コンピュータは、植物ぐらいの機械だ。もっと、人格や自己意識を持った時に、動物になる。
世界は、信じ方によって変わる。それぞれの人間が信じているように、その方向へと変わっていく。
ある意味、人間は信じていることが違うだけで、それは経験や環境が違うだけだ。
自民党の議員も、共産党と全く同じ経験をした時に、考えることや信じることは共産党と同じになって、全く同じ共産主義者になるだろう。それは、信じ方の問題だ。
金を優れていると思うのも、劣っていると思うのも、信じ方や経験の問題であり、自由だ。
社会は一人だけが決めるべきではない。それは、独裁者と言う問題だけではなく、それぞれの個人の考えることが、無意味になってしまう。平等も完全な間違いだ。それぞれの個人が政策の決断に、参加したり、関与したり、意見したりすることが、出来るべきなのだ。出来るだけ多数決にして、それぞれの民意に委ねなければ、すぐに馬鹿な国になって、みんなには何も分からなくなる。民主主義が自由であり、正しい平等だ。
Linuxは、C言語でもC++でもJavaでも共通の仕様が使えるような、「共通ライブラリ・コンポーネント記述言語」を作って、LibreOffice、Firefox、GNOME、KDE、GIMPなどのコンポーネントを美しく、機能的に利用出来るような、「美しいライブラリのAPI」を作って、コンポーネントやライブラリを完全に簡単に使え、作れるようにすべきだ。特に、コンポーネントの中のライブラリを整備して、「簡単に誰でも自分のオフィス・スイートやブラウザが作れる」ようにした方が良い。コンポーネントを利用するだけではなく、エンジンやテキスト処理を簡単に自分でも作れるようにして、Perlで簡単なWebアプリケーションのワードを作ったり出来るようにすれば良い。
ワードのファイルをブログに簡単に変換したり、グーグルのサーバーによる超高機能で莫大なファイルのサイズ・量に対応出来るようにしたり、もっと機能の少ない軽いワードを作ったりなど、コンポーネント技術で、簡単に開発出来るようにする。あるいは、コンポーネントを自分独自で作る時のために、複数のコンポーネントに機能を分けて、コンポーネントを選択し、結合するだけで、1つの簡単なアプリケーションを作れるようにする。そうすると、FirefoxとLibreOfficeは、アプリケーションとして分かれている意味が無くなる。誰もがコンポーネントだけを開発する。
「自由を無くす」のではなく、「自由なことをする前に確認する」のような、確認・証明するソ連を作っても良い。
右翼は、「正しい目的のためなら、人間を殺しても良い」と思っている。正しい目的なんか、無いのが分かっていない。
自分は、弱さを見せない人間になった。弱さを見せないことが強さではない。
GNOMEは、アプリケーションを作る前に、まず必ずコンポーネントを作るような、そういう方針でアプリケーションを開発しても良いだろう。
最近、Bonobo(GNOMEのコンポーネント技術)はまだあるのか、知らない。
価値観とは、その社会がその社会であることにおける、結果であり、経験的因果性であり、証明である。
分かることを制限せよ。一度分かるのを止めて、経験し、分かったことのみから、推論して分かれ。
一度、馬鹿を分かるのを止めよ。
きちんと推論して、1つ1つの知を、疑いながら、確かな分かったことだけにして、そこから分かることだけを分かれ。
デカルトに見えて、それをやっていると、ブッダのように分かる。
ワードのビュー・コンポーネントだけを作っても意味がない。検索や置換、ファイルの表示、印刷、設定の変更などをそれぞれのコンポーネントに分割する。その集合体としてのアプリケーションを作って、ワードだけではなく、ブログやファイルマネージャでも同じコンポーネントを使う。ある意味、UNIXに良く似ている。GNOMEはそれをやりたかったのだろうが、見ていると、失敗したように見える。
ある意味、コンポーネントの中にコンポーネントを作っても良い。ビュー・コンポーネントは、ワード、エクセル、パワーポイント、PDF、HTMLなど、さらにコンポーネントを作って、どんな形式のファイルにも対応する。検索・置換コンポーネントは、同様にどんな形式のファイルにも対応出来るようにする代わり、コマンドラインで使ったりも出来るようにして、Perlのような記法にも対応出来て、xyzzyのgrep機能のようにもっと高度な機能を拡張することも出来るようにする。全部全く自分で作らなくても、パーツを集めて必要な部分を拡張する。GNOMEは、コンポーネント環境へと変わっていく。それでも良いと思う。
ただ、ある意味、C/C++のライブラリでやっていることと、そんなには変わらないだろう。
これをネットワークでやりたかったのが、GNOMEだ。
マイクロソフトも、最近悪い。勝手に10に更新しておいて、10の無料配布を止めて、売るのがキモイ。
ふざけるな、と言っている馬鹿が多い。
むしろ、マイクロソフトが負けない方がおかしい。8の革新性も失敗したし、Vistaも馬鹿だったし、2000やXPの方が軽かった。95からあまり変わっていない。唯一、7は使えるから、7は好きな人間が多い。XPは、危険なのにまだ使っている人間が多い。XPの見た目がキモイのは、慣れると普通だ。
それこそ、Linuxは無料だから劣って見えるだけで、慣れるとコマンドラインが使える良い環境だし、Unityは使いやすい。ただ、パッケージマネージャが未熟だ。すぐに使えなくなる。
デスクトップ環境でUIのXMLを読み込むより、MozillaのXULにした方が楽だ。エクステンションを使って、どんなUIでも拡張可能にする。ただ、僕は最近のことを良く知らないが、最近のGNOME 3はおそらく、拡張機能があるし、JavaScriptも動く。そういうわけで、XMLなんかする意味が無い。拡張機能を利用して、どんなUIにでも対応出来るようなGNOME 3のエクステンションを作れば良い。
むしろ、XPが危険になる方がおかしい。そんなにMSが悪いのがありえない。
もっと、継続ライセンスのような仕組みを作って、「家庭1つに10年間のライセンスを有料で与えて、その間全ての製品をサポートする」ようにすれば良い。携帯電話のようなものだ。良く分からないが、それでXPを永続的に使えば良い。Vista以降から10以前なんか、存在価値がない。
ライセンスがある家庭には、ソースコードの観覧を認める。だが、再配布は許さない。そういう風にすれば良いだろう。それなら、サブスクリプション契約で、MSもきちんと儲かるし、ブラックボックスのようでも無くなる。だが、再配布やコピーまで許すと悪いとは思う。知的財産権をそんなに否定して良いわけがないのが、気持ちの悪いGNUだ。
コンポーネントをネットワークにする理由が良く分からないが、おそらく、テレビや自動車のようなものを、パソコンのアプリケーションから操作したり出来る。それをもっと賢くすると、JavaやMSの.NETになる。あるいは、コンポーネントは、クラスライブラリにすることも出来るだろう。そういうところで、すでに先を行っているのがマイクロソフトだが、.NETはJavaをコピーしただけに見えて悲惨だ。
ある意味、全部Javaにすると楽だから、最近はJavaが勝っている。GNOMEでは、Valaのようなプロジェクトもある。
何故か、GNOMEが一番賢い。
コンピュータ科学は、それ以上進歩していないのだろう。最近は、Androidと言うものがあるが、まだ何なのか確定していない。UNIXは古い技術だから、汎用性がある。Windowsの方が先を行っているが、質的には変わっていない。
むしろ、KDEは賢くはないが、まともだ。きちんと普通のデスクトップ環境を作ると、KDEになる。
GNOMEは、実験がしたい集団だから、もっとたくさんの実験をすれば良い。
LinuxやGNOMEの問題点は、そういう「お仕着せの環境」が悪い。それぞれの自由や独立性がない。
そういう理由で、GNOMEは発展しない。UNIXやX Window Systemのような環境が発展したのは、本当にシンプルかつ本当に自由だったからだ。誰も、GNOMEコンポーネントなんか、作りたくない。共通基盤にしたいのは良いが、共通基盤の定める範囲は、最小限であった方が良い。ほとんどのことは、自由にそれぞれが決めるべきだ。C/C++やJavaが発展して、C#を誰も使わないのは、そういうところが公開的で、自由で、「それぞれの能力次第で、それぞれが作りたいものを作れる」からだ。
そういうわけで、巨大で重苦しいGNOMEは無くした方が良い。自由に作るCinnamonが勝つべきだ。
昔は、心が融和して人生を吸収出来るとか、そういう自由な哲学や生きる知恵を分かっていた。
むしろ、良く分からない。GNOMEは、4で何かになるだろう。
それこそ、Javaなんか何も変わらないのに賢い。負けたから馬鹿に見えるだけで、GNOMEは馬鹿ではない。
子供は、嘘をつかれたり、騙されたりするのが嫌いだ。親が騙すから、そういう風になる。
年寄りが馬鹿なのは、夢がないからだ。大人には夢がない。夢があるだけで、子供は賢くなる。
大人は、嘘を言うこともあるが、本当のことを言うこともある。子供は、それが分かっていない。
親が嘘を言うせいで、そういう風になる。
環境を作れば良い。それで周りが治る。自分のせいで、環境が無くなっている。
昔は、想像力と意識で環境を作っていた。色んな環境を作って、知って、考えて分かった。
昔は、国家モデルと発想法を実地的に作っていた。それしかしていないのに、全く覚えていない。
あとは、GNOMEはもう少し、自由度の高いデスクトップにした方が良いだろう。設計は悪くない。
自分は、馬鹿を馬鹿だと思えば、昔の楽な人間になる。
環境は、変えない方が良いし、変えられない方が良い。環境が変わると、みんなが分からなくなる。
分かっても、覚えないのでは意味がない。そのせいで、馬鹿になった。
蓮舫が民進党の新代表になったらしい。ただ、絶対に勝てないと思う。
確率が数学的に当たるだけで、この宇宙の全てのことが偶然に起きる、確率的に起きるとするのは、間違っている。ある意味、宇宙の現象に目的や意図がないとは言い切れない。何か、神のような巨大な存在が判断して、このような現象を「起こすべき」だと考えて、実際に起きる、という可能性は、無いことはない。
悪いことをしてはならない。
悪いことを考えてはならない。
悪いことを言ってはならない。
悪いことを見てはならない。
悪いことを聞いてはならない。
悪いことを感じてはならない。
悪いことを他者に与えてはならない。
そのように、悪いことが悪いのが分からない人間には、宇宙では悪いことが起きる。
ただし、良いことをしていると、良いことがある。
頑張りなさい。
自分のされてほしいことをしてあげなさい。
世界のことを良く知りなさい。
みんなの言っていることを聞きなさい。
行動する前に、事前に良く考えなさい。
建設的に考えなさい。
全員に対する慈愛の精神を持ちなさい。
自分より、他人を優先しなさい。
愛しなさい。
信じなさい。
盲目的にならず、総合的に考えて、1つ1つ点検し、疑うことが出来ないところまで、疑いなさい。
自分を信じなさい。
思いやりの心を持ち、弱者を助けなさい。
精神的に、良い感情を持ちなさい。
良いことをしている人間には、良いことが起きる。
頑張るだけでも、笑うだけでも、人生は良い方向へ変わる。
自分は、そろそろ数学をやった方が良い。数学をやっていると、きちんと哲学者のように分かる。
数学は、やっていると、大人になる。
数学をするためには、学校へ行くことだ。
知識はつまらない。何も知らなくても、賢い人間が多い。
最近、普通の学問の知識にあまり意味がないのが分かった。哲学や生物を全部見て、あまり多くない。
数学は、「問題をどうすれば解けるのか」を考えれば出来る。
そこが出来ないと、哲学は出来ない。哲学は、問題の解決方法が分かる人間が出来る。
昔は、言葉で推論して、分かったことのみから分かるような、証明のような説明と推論を書いていた。
数学は、人間の考える「論理学」が分かる、日本語が分かる魔法の学問だ。
「何々ならば何か」と言う仮定と推論は、数学の問題だと思えば分かる。
例えば、「10メートルの鉄の棒で100グラムなら、1メートルで何グラムか」と言った具合だ。
そして、それを解くために、事前に考え方の方法を使う。これも、「何々ならば何か」と言う発想と同じだ。
数学は、そういうものだ。数学的な推論から、気づきと説明で分かることが出来るのが、哲学だ。
自分の問題は、そんなに簡単に分かるのが間違っている。
それがそうなら明らかにそうなのに、分からない人間が多い。そこが分かると、哲学が出来る。
哲学は、数学と経験で分かる学問だが、そこに、理性はあるように見えて、ただ空しいだけだ。
分かっていることから分かる、という表現は間違っていないが、もっと言えば、解ける問題を解くだけだ。
それは、最初に方法がある。むしろ、掛け算と割り算で解ける問題しか存在しないのはおかしい。
どの方法を使うことで、どういった問題が確かに解けるのか。
そこから考えると、そもそも、方法とはどんな問題が解けるのか、その方法で何が出来るのか、と言った具合になる。
ある意味、コンパイラやカーネルで出来ることしか出来ないなら、もっと良いシステムを作ることによって、出来ることは広がっていく。
それは、基礎の方法を使うことで、「あらゆる全ての問題を解く」と言う結果に繋がる。
推論と経験から、全てのことがはっきりと分かる。
それが、哲学的な世界と人生の理解であり、ヘーゲルの言う、良心の絶対知なのだ。
何をすることで、何が出来るだろうか?
確かなその方法を使うことで、何をどう分析出来るだろうか?
正しい分析の方法とは、どういうものだろうか?
何を正しい、何を間違っていると言うのか?本当に正しい、普遍的な原理とは何だろうか?
説明とは何だろうか?理性とは何だろうか?
そういう風に考えていくと、「考えている自分」のことを考えることで、哲学は正しい人生の広がりを見せる。
視野を高めていくと、自分と同じようにみんなが考えているのが分かる。
例えば、テレビを作るためには、何が必要だろうか?
生産手段だけではなく、設計図や発想も必要だ。そこから、インターネットで発想を吸収することが出来る。
また、誰もが経験的に作る、ということが分かれば、他人の経験を吸収することで、出来るかもしれない。
もっと広がりを見ていくと、会社で出来ることは、ある意味、参加によって束縛されているだけだ。
そういうわけで、哲学は、デカルトやサルトルのように考えれば、誰でも出来る。
あとは、当たり前のことや、当然のことから、推論して考えると良く分かる。
誰もが、自分の環境しか知らない。みんなが馬鹿なのは、みんなは仕事や勉強をしているからだ。
それこそ、馬鹿の方がはるかに賢い。
パソコンなんか、意味がない。むしろ、宇宙を全て知る、という目標は無謀だ。
もっと、簡単なことから、小さなことから、1つ1つのことから分かった方が良い。
正しい発想で疑問を出すような、そういう発想をして、考え方を変えて、理性批判のように考えれば良い。
公理主義や、方法と概念のモデルを、経験から作っていた。それから、応用可能性を考えた。
成り立ちを自由に作れるような数学だった。
昔は、実地的に、経験から社会をどういう風にしていくべきか考えていた。
宇宙のことも、良く考えていた。
良く考えると、一年が365日なのは地球だけだ。
それから、色んな機械は、まだまだ可能性のあるものや、汎用性のあるものが、たくさんある。
そういうものの裏にある、原理的法則や真実のようなものを、昔から考えて分かっていた。
何でも実現し、解決し、証明し、照らし合わせと多角的捉え方から、心理学と社会学を融和させて分かった。
世界は意識である、と思っていた。
そろそろ終わりだ。数学は分からなかったが、色んなことが出来て、満足している。
心、感情、人生、社会、言葉の数学を作っていた。心や感情がいつどうなるか、社会がどうなるかを分かった。
想像力で、場合に場合をはめ込むように、応用的な数学を作っていた。
ありのまま、実際の姿と状態の変化を考えて、哲学は「そのあり様」を知って分かっていた。
心がどのように「ある」か、心をどのようにコントロールするか、対処策は何か、などを考えていた。
また、目的としては、「全てを解明する」と言う目的があった。それは、インターネットの経験の上にあった。
この世界がどのようになっていて、どのように出来る可能性があるのか、みんなは何を知らないのか、考えた。
全ては可能性の発揮であり、全ては自由へと向かっている。
哲学は、知、人生、人間、社会、理性のあり様を考える。
哲学は考え方の学問に見えて、全てのあり様を考える学問だ。
ある意味、相対性も、経験も、言っていることは全く同じだ。全員、同じことの違う場合を考えているだけだ。
分かるだけでは治らない。行動や習慣を変える必要がある。
精神、認識、経験の構造を、事前に考えて分かっていた。理性批判から精神を作った。
死ぬ時に、死ななければ治る。