政治経済の世界観3(マルクス経済学)です。政治経済の世界観1(政治一般)、政治経済の世界観2(ミクロ・マクロ経済学)も参照のこと。
カール・マルクスの考え方について知りたい人は、僕のこんなホームページを読むのではなく、「国家の逆襲」を読んでください。
この中の、第1章「価値の略史」の中で、カール・マルクスに至るまでの、生産的なものと非生産的なものを社会において、かつての経済学者はどのように分類してきたか、ということが、極めて分かりやすく、きちんと書かれています。
特に、アダム・スミス、デヴィッド・リカード、そしてカール・マルクスの考え方については、知っておくのと知っていないのとではまったく人類社会の見方が変わります。
ここに、彼らの考え方を要約します。
アダム・スミスは、みんなで分業してそれぞれが専門的な仕事をしたとしたら、分業せずにそれぞれがひとりひとり生産するよりも生産的であると述べました。
また、彼は、それぞれが利己心だけに基づいて仕事をしたとしても、資本主義の自由経済がそれを自然かつ必然的に調節するため、誰かが制限をかけるよりも自由経済に任せたほうが生産的だと述べました。
これに対してデヴィッド・リカードは、アダム・スミスが述べなかった「分配」についての分析を行い、生産だけではなく消費についても生産的なものと非生産的なものがあるとし、娯楽や趣向品のような、価値を再生産しないもの(たとえば王侯貴族)でなく、生産手段に対する投資のような、価値を再生産させるもの(特に資本家)によって価値は消費されるべきだとしました。
そして、カール・マルクスは、労働力と労働を区別し、過剰な労働によって労働力よりも高い価値(これを剰余価値と呼ぶ)を生み出すことができるとしました。たとえば、8時間だけでなく12時間働かせる、といった方法で労働者の剰余価値を高めることができます。この剰余価値が生産的であることの意味であり、剰余価値を資本家は労働者から搾取していると考えました。
彼らに共通しているのは、それまでの重商主義や重農主義と異なり、労働を価値であると考えた「労働価値説」です。重商主義では、金銀を得ることが価値の源泉であり、輸入よりも輸出を増やすことで黒字を達成すれば豊かになるとされていました。また、ケネーなどの重農主義では、土地から生まれる農作物を作る農業だけが生産的であるとされ、それ以外の職業は非生産的であるとされていました。
しかしながら、労働価値説は、限界効用理論による限界革命によって置き換えられていきます。個人個人の「選好」によって価値が決まっていく新しい経済学により、価値は客観的な指標ではなくなり、それぞれが個人個人によってあるいはその場その場によって主観的に価値を決める、という理論が、カール・マルクスまでの労働価値説を置き換えていきました。そこで価値を決めるとされるのは、資本主義社会における経済的な「均衡」(たとえば需要曲線と供給曲線の均衡など)と、ものの得難さを意味する「希少性」です。この新しい経済学を新古典派と呼び、アルフレッド・マーシャルが代表的です。
このように、「国家の逆襲」という本を読むと、きちんとした経済学の歴史を知ることができます。プロレタリアートの意味すら知らなかった僕(プロレタリアートは奴隷階級ではなく、自分で生産手段を持たずに労働力を売る労働者のこと)のことなど無視して、きちんとしたビジネス書を読むことをお勧めします。以下の内容は、参考程度に残しておきたいと思います。
2025.07.03-04
2025.07.09編集
マルクス経済学の本質、それは「搾取」と「疎外」だと思います。
僕の持論になってしまいますが、資本主義の経済社会において、真に合理的な社会システムを作ろうとすると、総合的な会社が専門的な業務を下請けの会社にやらせるだけの、「下請け社会」になってしまいます。
たとえば、なんらかのITシステムを開発するとした時、それをすべてひとつの会社で行うことはしません。下請けやそのさらに下請けに、重要な部分をやらせた上で、それを組み合わせてシステムを開発します。
このような結果、仲介業者ばかりが中間マージンによって儲けてしまうのです。重要なことをやっているのは、社会のほんの一部だけになってしまいます。
なぜそのような社会になるのか、それはITシステムを考えれば分かります。ITのシステムは、中核の機能はライブラリAPIを呼び出して使う、ということが基本となっています。最初からすべてを自分で作ろうとせず、基本的なAPIはライブラリに備わっており、それを使うことで、大変なことは何もしなくても、簡単にプログラムが書けるようになっているのです。重要なアルゴリズムを記述するのは、システムのほんの一部分であり、ほとんどがそうした「インターフェースの利用」の記述だけに費やされるのです。
下請けの会社についても、これと同じです。最初からすべての業務を自分の会社で行わず、別の会社に下請けすることで業務を行います。その結果、仲介業者は何もしなくても大儲けができるのです。
これについては、僕はマルクスの言っている「搾取」ということに相当すると思います。
このような搾取について、資本主義社会においては、批判する人は少ないです。その理由は、搾取を否定してしまうと、資本主義社会そのものが成り立たなくなってしまうからです。資本主義社会における、経済活動のほとんどは搾取です。工場やITだけではなく、商売一般について、あるいは芸能や音楽などもすべて搾取と中間マージンによって成り立っています。しかしながら、そうであるにもかかわらず、奴隷のように働いている労働者は非常に多いです。彼らは、「競争原理」という名の固定観念に騙されています。自らのために労働しているように見えて、実際は金持ちや資本家をさらに富めるものにするために、競争のためのロボットとして、奴隷のようにこき使われているのです。
もうひとつ、疎外ということについて言えば、人間には、みんなから排除された人間の手助けをしたくないという本能があります。
これは、子供たちの中学高校の思春期にあるような「いじめ」を考えれば分かります。
子供たちは、みんなからいじめられる子供を可哀想だと思いますが、決してその子供のことを手助けしようとは思いません。手助けした時点で、その「排除された人間と同じ仲間の勢力」だと見做されてしまうからです。
みんなからいじめられる子供のことを、子供たちは誰も助けません。これについて、僕は理性だけではなく、本能の問題でもあると思います。人間には、みんなから排除された人間の手助けはできるだけしたくない、という「社会において秩序を守るための本能」が備わっているのだと、僕は思います。
マルクス経済学においては、このような「搾取」と「疎外」を否定します。
では、このような社会を否定したとして、どのような理想の社会を築くのか。マルクス経済学を信じる国であるソ連は、計画経済によって、社会の経済そのものが政府によって「創生」されるような社会を理想としました。そこでは、書記長であるスターリンが計画経済を行うことで、国家に必要なすべてを生産します。すべての経済は国家が計画するため、倒産するようなリスクや起業家が陥るような失敗はありません。そして、そうした理想の経済社会を最低限の平等な労働であるノルマ生産によって実現し、すべての富をみんなに平等に分配するのです。
このような理想のユートピアのようなマルクス経済学ですが、間違いがないわけではありません。マルクスが言ったように、資本帝国主義が生産過剰のために滅びるということはありませんでした。大量生産は十分に安くものが人々に行きわたるような素晴らしい経済社会を実現しました。それに比べてソ連のほうは、十分にものを生産することができず、人々は搾取されていなくても、十分に生活に必要な物資を得ることができませんでした。
ですが、僕は今の民主主義の資本主義社会は、新しい危機を迎えていると思います。かつての資本主義が栄えていたのは、言ってしまえば「フロンティア」、すなわち未開領域があったからです。フロンティアがあったから、どんどん社会は進歩したのであり、そのために科学技術の進歩が有効に作用しただけです。現在の社会においてはそのようなフロンティアは存在せず、かつてのような「繁栄」はもはや地球環境の破壊などの側面から「終焉」に移ろうとしています。
IT社会のように考えられる問題は、中間マージンだけではありません。FacebookやInstagramなどをはじめとするSNSは、コミュニティのルールに従わないものをBANして排除します。まるで、ITインフラがすべて巨大テック企業の私有物であるかのようです。SNS社会においては、いつアカウントが凍結やBANをされるか、ということが分かりません。そしてBANされた時点で、その人は一般的な人間の持つ「正当なネット市民の権利」を奪われてしまうのです。これこそ、ネット時代の新しい「疎外」であると言えると思います。
ただし、SNSがユーザーをBANするのは、本当は不当な理由だけではありません。なぜなら、極右勢力があまりに台頭してきているからです。そうした極右勢力も、また人々を抑圧し、「疎外」する側です。左翼やリベラル勢力を批判し、愛国心のもとに国家の意見に従うべきだとする極右勢力は、みんなのことを抑圧する「疎外」をその通り行っています。僕はそうした極右勢力が大嫌いです。本当に今の世界に必要なのは、愛国心でもなければ戦争することでもありません。もっとほかに、人類が今のままの社会であっても救われる可能性があること、人類を救うことは自由であり、いつでも変えられる可能性があるということに気付かなければなりません。
マルクスの哲学では、すべてを「歴史の必然」であると述べます。誰かひとり悪い人間が居るのではありません。この世界を支配している最悪の支配者などは存在しません。すべては歴史がこのように経過したから、という「必然の結果」なのです。ですから、誰かひとりのせいにすることはできません。できることがあるとしたら、「この世界を救うことのできない自分自身のせいにする」ということだけができるのです。そう、この世界を救うことのできない自分が悪いのであり、悪い人間はその悪い人間が悪い人間になるようにした周りの人間たち、あるいはこの世界自体が悪いのです。
まさしく、マルクス主義者になるということは、そのように考えるということです。資本帝国主義を批判するシュプレヒコールを叫ぶだけがマルクス主義者ではありません。マルクス主義者には理性がなければなりません。そして、その理性はレーニンほど高く聡明でなければならないのです。
2022.12.07
このようなマルクス主義ですが、現代の21世紀においては、はっきり言って価値のない思想です。
意味があるとするなら、セーフティネットの構築ぐらいしかありません。
社会主義は、どこかの時点で社会に負けた「弱者」や「失敗者」を救う、という意味でしか、価値がありません。
確かに、社会保障を行うことで、生活保護や年金のような福祉の形で、資本主義では生きることができないような「生活困窮者」に対して、それなりの支援は与えられるでしょう。
ですが、そのためだけのために、社会主義経済を採用するような政府は、はっきり言ってまったく意味がありません。
マルクス主義者には、そのような生活困窮者が多いため、はっきり言って「社会に敗北した馬鹿の集団」であると言えます。マルクス主義者は、それ自体が社会そのものに負けた集団であり、当然のごとく馬鹿しか居ないのです。
マルクス主義者などには、まともな人間はなってはいけません。結局、マイクロソフトのビル・ゲイツのような資本家が賢いのです。どれだけマイクロソフトの批判をしても、それは負け惜しみです。悔しいかもしれませんが、マルクス主義者になった時点で、マイクロソフトには永久に勝つことはできないでしょう。
2022.12.07
新しい社会主義国家ガンダーラについてはガンダーラを参照のこと。
マルクスは、「労働価値説」と「剰余価値説」を唱えた。
ポイントは、労働力の値段は、「労働力を再生産するために必要な費用」で決まるということ。
資本家と労働者は、本来は対等に取引を行っている。資本家は労働力を労働者から買い、生産手段と設備を購入する。これは平等かつ対等な関係である。
しかしながら、資本家と労働者には力の差があり、資本家は資本を増やすために労働者を過酷に働かせる。労働者は永遠に苦しい立場に陥っていき、やがて労働者は資本家に革命を起こして、資本主義は打ち倒され、理想の平等な社会主義経済による共産主義社会が訪れる。マルクスはそのように考えた。
後日注記:このように書くと一見かっこよく見えるが、実際は社会主義とは、芥川龍之介が河童で言うように、100人の凡人のために1人の天才を犠牲にするものであり、決して正義でも理想でもない。
以下は参考文献。
2022.12.07編集
僕は、マルクスが言いたかったのは、労働者階級と資本家階級は、対等な契約であるにも関わらず、資本家の方が強大な力を持っていて、資本家は生産手段を独占し、労働者階級は過酷で弱い立場にさらされるということ、そして生産能力が向上すれば、供給過多で失業者が増え、自然に生産手段を社会所有によって共有し平等分配を行う、「共産主義社会」が到来する、ということだと思います。
ですが、結果的には失敗したのは共産主義の方でした。それは、大量生産によって逆に供給過多によってたくさんのものが生まれ、安くなり、安価な搾取を行うことでとても多くの利益があがり、ますますものが増えていくという「豊かさの正のスパイラル」の中で、共産圏は計画経済による供給不足に陥り、また犯罪や逮捕・強制収容所などの「まるで自分たちを苦しめた右翼に対する報復」のように、「平等が勝つための戦い」にスターリンが囚われすぎたためではないかと思います。
ただし、いつの時代も労働者階級と資本家階級の格差が、世界の中でいつでも悲惨です。社会主義は労働条件を改善し、人々が人間らしく働ける社会を作りました。それだけが、唯一の社会主義者の貢献です。一昔前までは、工場では10時間以上いくらでも働かされるのが当たり前でした。今、ブラック企業などの問題で、そうした「共産主義以前の世界」に戻ろうとしています。それはソ連が無くなり、アメリカやヨーロッパの価値観が日本を覆ってしまったことも一因です。
このまま行けば、人間は貧困家庭と中流家庭に分裂していき、身分社会に戻ってしまうかもしれません。多くの金と権力を資本家は独占し、「資本家にあらずものは神にあらず」といった感じになるかもしれません。決して、資本主義社会が間違っているわけではありませんが、現代文明の科学技術力に資本主義は少し適応しすぎたのかもしれません。
マルクスを、自分の独断と偏見で誇張しつつ現代風に解釈すると、以下のようになる(かもしれない):
まず、生産能力が過剰に向上した社会では、ものがたくさん増えて、需要と供給の関係で安くなる。
大企業は生産手段を独占しており、大量生産と搾取によって儲けられるが、町工場や中小の店舗では、生産した価値に見合うほどの対価が得られなくなる。
そして、大企業はトラストや企業連合を作り、資本を独占的に得る。
また、生産手段を持つ資本家に対して、何も持たない労働者は弱い立場に置かれる。彼らは道具やもののように扱われ、疎外され、失業のリスクに侵されながら、企業から奴隷のように扱われる。
ただし、これに対して、アメリカは経済に大量生産のモデルを採用した。労働者は生産手段を持たず資本家よりも弱いため、いくら働いても低賃金で、何をしても報われず、一部の金持ちだけが資本を持ち続け、彼らは「資本帝国主義」を作り出す。
これに対抗するためには、生産手段を共有するしかない。
おそらくカール・マルクスはそういうことを言っているが、良く勉強していないため、この記述は間違っているかもしれない。
そのほかマルクスやソ連については、マルクスやロシアを参照のこと。
みんな、日本共産党から立候補した候補のことを「おかしい」という偏見を持って、また日本共産党の主張も「おかしい」と先入観を持っていますが、僕が思うに、共産党の意見が一番まともです。
日本人は、もっと共産党の言っていることに耳を傾けるべきです。
それは、共産党は自由を信じていないからです。共産党は、「労働者を守ること」を第一に考えています。だから、末端の労働者が聞いて「一番まともな意見」を言っているのです。
日本人は、共産圏に対して偏見があります。ソ連を、崩壊した間違った国で、みんな強制労働と平等な働き方のせいで、地獄のように辛く、生活に必要なものは何もないと単純に考えています。
ですが、それらは、日本人にだけ存在する「西側の洗脳」に他なりません。西側の諸国は、アメリカや西ヨーロッパの影響で、まるで保守とリベラルの民主主義が正義であるということを信じています。確かに、保守の政治家とリベラルの政治家が考える制度は、正しいやり方と思考の方法をしており、世界を正しく発展させ、進歩させていきます。
ですが、彼らは全て、「政治家としての立場」から「トップダウンに命令する考え方」を述べます。予算はこれぐらいがあり、そのための財源は何で、世界に勝つためにどうしていくべきか、今ある社会問題を解決していくために何をしていくか、という「指導者としての上からの政策」を述べ、人々はそれを「正しい政治経済の施策」として学んでいきます。
ですが、共産党はそうではありません。彼らは「労働者や末端の家庭としての立場」から「ボトムアップに正しい制度を作る考え方」をします。
もし、共産党が勝ったとしたら、自由のない恐ろしい社会になるのだ、と人々は考えますが、それは誤解です。それは、ソ連のやり方が「まるで軍事帝国」だったから、そう見えるだけです。なぜソ連がそうなったのかといえば、外からの「革命を封じ込める干渉戦争」で「帝国と対等に戦う必要があった」からです。当時は、戦わなければ、労働者の社会を守ることはできませんでした。今の社会では、戦う必要はありません。
中国でも自由な意見や政治活動をすると逮捕されたり検閲されたりすると言って、マスコミはそうした様子を報道します。確かに中国は悪い国です。ですが、日本で社会主義をやったとして、それが悪い国になる可能性と、良い国になる可能性のどちらが高いでしょうか。確かに、ソ連や中国のような悪い国になる可能性はあります。ですが、今の中国は改革開放政策で、「自由経済による社会主義国」を作っています。日本が、そのようになったからといって、果たして政治活動を検閲する悪い国になると、最初から決めつける必要はないと思います。
たとえば、今の選挙制度は、与党に有利な小選挙区制を採用しています。小さな選挙区をたくさん配備することで、一人区の一人しか選ばれない選挙区を多く作り、自民党が大勝しています。自民党は野党のことを烏合の衆と言って、野党の選挙政策を封じ込めています。これを中選挙区にし、比例代表を中心にすべきだと共産党は主張していますが、これが悪いことでしょうか。
全ての共産党の政策を「ソ連につながる悪い社会になる」というレッテル張りをすることは、僕は労働者の正しい社会を作る上で正しいことだとは思いません。共産党によって、全てが悪い国になるわけではありません。中国は、共産党の開発独裁によって、日本を超えるGDP大国になりました。日本が社会主義国になったからとって、北朝鮮のような貧民国家にはならないでしょう。特に、日本には高度な生産能力と科学技術力があります。もともとのマルクスの資本論でも、生産能力の向上によって、多くの列強を革命で倒したのちに共産主義社会が生まれるとしたのが、カール・マルクスです。スターリンはロシアだけで一国社会主義ができるとしましたが、そうしたスターリンのおかげでソ連は失敗しました。スターリンが居なければ、ソ連が成功していた可能性もあるでしょうし、ソ連とは別個に正しい社会主義経済を実現できると僕は思います。
また、今からの日本の問題は、少子高齢化のように、「助けるべき人と、社会を担って労働し、生産する人が、別のグループになる」ということが言えます。
社会において働く「社会を担う人々」が、別の高齢者や障害者といった「助けるべき人々」とは別のグループになるのです。
また、働く人々の間でも、格差が生まれます。大学を出て、専門技術職に就いて、会社でほとんど何もしなくても、入っているだけで給与の入る「社畜」のような人々が増えているのとは別に、非正規で働いていたり、学歴や専門技術がなかったりして、奴隷のように働いている「現代の奴隷」が増えています。政治家のように、大金持ちのような家庭があるのとは別に、子供の貧困のように、貧困家庭が増えているのです。
老後2000万円必要問題などから言えるように、今の政治家や年金制度に頼っていても、社会は悪くなるばかりです。
そう、社会主義は失敗した「過去の失敗作」から、「必然的に必要となってきている」のです。これは格差や労働環境や福祉だけの問題だけではなく、温暖化や環境問題などにも言えることです。左翼思想は急速に「必要なもの」となってきています。今までの社会とは違い、自由主義はIT化によって、逆に「悪い発展」をしています。民主主義や資本主義を手放しで「良い思想」だと言える時代では無くなりました。
また、従来の社会主義は、国民を奴隷にし、人々から自由を奪いました。これは、以下のようにすれば解決できるでしょう。
反省点 | 新しい施策 |
---|---|
ものを生産できない貧しい国になった | きちんとものを生産する、大量生産と投資を用いた計画経済をする |
平等な労働と給与は努力する意味が無かった | 過剰に生産したものを自分の利益にできるようにする(中国式) 僕はむしろ、平等な中でも労働に対する意欲が生まれるように、 誇りと安定した平等な収入を与えるべきだと思う |
自由な意見が言えなかった | 自由な意見を言えるように、自由な憲法を作る 国民の自由な権利を憲法に明記し、三権分立を行う |
自由選挙をしなかった | たとえ選挙をしたとしても、自分たちが選ばれるように、 国民の支持を集めて、選挙を行う |
このようにすれば、必ず、新しい社会主義ができるはずです。
ですが、あえて言えば、そもそもそうした「古い社会主義を改善する」必要はありません。だからといって、民主主義や極右になる必要もなく、まっさらに新しい経済政策をするべきです。そこでは、金儲けをしながら平等な安定した収入を与える、といった「バランス」が必要です。これからの世界では、「金儲け」は正義ではなく、「安定した収入を平等に与えること」が新しい正義となるでしょう。そこに格差を生み出す自由経済は必要ありません。
また、自由という発想は、多くが「ハイリスクな賭け」を意味します。自由な中での成功や失敗、自分にしかできない夢を叶えるチャンスや、自分だけ違う道を生きる自由などは、全て「ハイリスクな賭け」となって、成功すれば大金持ちになり、失敗すれば敗北者となります。
ですが、自由でしかそうした「自分なりの夢」を追いかけられないのは、果たして正しいでしょうか。平等に、みんなが同じように考えたり自分なりの生き方をできるようにすることは、平等なままではできないのでしょうか。
僕は、「たとえ不自由な社会であっても、自分なりの夢と経験を得られる環境を作る」ことは可能だと思います。自分が自由な経験で分かったからといって、他の人間が自分と同じようにハイリスクな賭けを選ばなければならないわけではありません。自分の経験を、相手を危険でない環境においたままで、相手と共有し、正しい社会を作っていき、成果を社会に還元していくことは、僕は自らの自由な人生の経験から言って、できると思います。
そして、人生は果たして、使い捨てで良いのでしょうか。自分が一度正しい人生を生きたからといって、二度目は無くていいのでしょうか。もう一度、最初から再挑戦できる「再チャレンジができる社会」というのも、実現することができるのではないでしょうか。
老人や障害者に対する福祉、というだけではなく、「人々を高リスクな賭けから救いだし、失敗しても再チャレンジができる」というのは、僕はとても良い「セーフティネット」だと思います。一度失敗したからといって、二度の成功や二度目の人生を諦めざるを得ない社会というのは、僕は「自由な社会」ではないと思います。
マルクスは大学の図書館で猛勉強をして資本論を書いたことで知られていますが、その成果の通り、資本主義の問題点については鋭い分析をしています。
言ってしまえば、資本主義の民衆は資本家から疎外され、資本家から搾取されるばかりです。
そして、資本家は利潤ばかりを得ているかのように思われていますが、そうでもありません。カルロス・ゴーンのように逮捕されたり、あるいはリスクをこうむって廃業になる会社もたくさんあります。
マルクスは、資本主義の分析では正しいことを言っていると言えるでしょう。世界が自由をやめなければ、社会はどんどん疎外と搾取に陥るでしょう。
また、法治国家の特徴として、「法律で悪いものを禁止していけば、社会は進歩する」というのがあります。
ですが、アメリカや西ヨーロッパなどは、この法治国家を自由な民主主義と結びつけて、「自由主義」としてしまいました。
自由主義においては、法律で禁止するよりも、まず自由にします。そして、民衆が禁止の声を上げない限りは、それを禁止しません。
その結果何が生まれたか。それは、インターネットや麻薬などの「過剰な自由」が生まれました。
そう、そろそろ、誰かが悪いものを禁止しなければなりませんが、ここまでインターネットに依存してしまうと、もはや手遅れです。禁止することは難しいでしょう。
もっと早い段階で、IT技術を誰かが制止しなければならなかったのです。
最近、アメリカなどで極右が台頭しているのは、たとえばLinuxに端を発し、SNSやWikiなどに受け継がれた、「好き勝手し放題の自由」のせいではないでしょうか。
なんでも好き放題、個人の自由で好きなことをやり、批判からフェイクニュースまでなんでもかんでも自分が勝ち、自分が好き放題できる自由が、オープンソースのせいで始まり、そしてSNSのおかげでどんどん広まっています。
はっきり言って、今のインターネットは吐き気がします。面白いものは何もなく、ただただ、批判と争いとフェイクです。
アメリカはもう終わりでしょう。西ヨーロッパが続いていくでしょう。オープンソースなんかがあるのが悪いのです。SNSやWikiのようなもののせいで、無意味かつくだらない最悪の自由が増えています。
今、「正しい国」や「正しい社会」が必要とされています。アメリカなどの自由主義の民主主義には、何もできないでしょう。
社会主義では社会所有といった「共有」がまことしやかに唱えられますが、この鍵となるのは「自立」だと思います。
自らの手で、自らの手によって作られたものをみんなと共有する、そのために生産手段を共有し、人々と分かち合って再分配をする、といったやり方でなければ、自然な共有は生まれません。
スターリンは、何かを勘違いして、強制労働で国が生産したものを共有してあげるのだ、と思ったのでしょう。そのため、人々は命令に従うだけの、つまらないくそまじめなごろつき国家になったのです。
僕は、「自立なくして共有なし」と思います。それぞれの共同体が自立できなければ、共有は実現できません。共有よりも前に、まず自立を目指すこと、そして自立の段階から共有を考えることこそ、社会主義の実現に一番必要な「自由」ではないかと思います。
人間は、自らが自立しなければ、他の人間のことを考える余裕はなく、助けることもできません。それと同じように、社会的共有を行う上でも、まず社会が自立することでしか、他人をコミュニティの一員として加えるという「共有や手助け」はできないと思います。
今、EU離脱問題が起こっているように、イギリスの人々は「移民を受け入れる余裕はない」と言います。これも同じです。自らの国の主権や独立が尊重されなければ、他国からの移民や難民を受け入れる余裕はありません。社会主義の実現も全く同様です。自分たちの国の自立が成立することで、はじめて他国の人間に平等に与えられるのです。
経済学の本を見ていると、当たり前のように社会主義が失敗した、資本主義の市場経済がもっとも合理的(それこそ、奇跡のように優れている)という話が出てくる。
だが、彼らは嘘をついている。むしろ、嘘だと分からずに嘘をついているため、「無能」であると言える。
たとえば、資本主義では需要と供給の関係から、消費者の望むものがいつでも手に入る「自動配備システム」があり、そこではいつでもどこでも、ど田舎の山の中でも、ガソリンが欲しければガソリンが手に入ると言う。
だが、それは自動車を使う人がたくさんいるからであって、田舎の鉄道の路線は縮小されるばかりである。
また、ポーランドではマイナス10度の気温の中で、五時間待ってようやく食肉一切れが手に入ると言う。
だが、資本主義経済では、そもそも高価すぎて貧乏人には買えないものがたくさんある。自動車を買えない貧乏人は、田舎でどのように生活すればいいのか。
社会主義が大失敗で、みんなものもなく何もできず死んでいったというのは、確かにその通りである。だが、資本主義の市場経済が万能なわけではない。ここまで環境破壊を繰り返して、温暖化をどのように解決すれば良いと言うのか。
だからといって、資本主義が間違っているわけではないし、右翼も正しくはない。右翼は敵国やテロリストに対して軍事力を増強して国を守るべきだと言うが、それによって相手の軍事力がさらに向上するのが分かっていない。愚かな国境防衛主義者に従えば、軍事力や兵力は大きくなるばかりで、いずれ破綻する。そこにあるのは核戦争である。
ただし、僕は経済学全てを否定したいわけではない。また、経済学という学問が嘘をついている、と声高に主張しても、「では別の案として何があるのか」と言われるだろう。社会主義は成功しなかったから、今の政治家や経済学者が、今僕が読んでいる本のように「資本主義の合理性は正しい」というのもまっとうである。
僕が言えることがもしあるとしたら、それは「戦わない平和」である。国境をみんなで無くしてひとつの国にし、軍隊と呼ばれる超強力な兵力を緩和して、軍事力以外の方法でテロリストを押さえつけ、相手がもし戦争をこちらに仕掛けてきても、その相手を軍事力以外の解決策でおさえこみ、できるだけ対話によってその問題を解決すること、それが正しい平和の方法である。
また、金儲け全てが悪ではない。それこそ、僕は今読んでいる経済学の本も、多くの記述は参考になり、ためになる内容だと思っている。だが、冒頭から社会主義経済と市場経済の比較があり、僕は社会主義経済を擁護するわけではないが、「これは資本主義の問題を考える上でおかしいのではないか」という記述があったから、僕はこのように書いたにすぎない。
世界を正常にするために必要なことは、僕は不協和音を言うことだと思っている。みんなと同じ意見だけを持つのではなく、みんなの雰囲気や空気に飲まれない、自分だけ違った不協和音のようなことを言う。
これはある意味で危険な発想で、今の社会を根底から覆すことになるかもしれない。下手をすると滅びるかもしれない。
だが、言えることは、不協和音を言えば、僕による暗黒の支配が治る。最悪の権力者が滅びる。それは、僕だけではなく、他に居る悪い政治家や権力者も同時に滅ぼす。
だから、きっと不協和音を恐れずに言えば、この世界は正常な正しい世界になるだろう。
マルクスを考えていて分かるのは、平等にすればするほど、「賢い指導者」の存在が必要になる、ということだ。
権力を平等にし、全員で平等な社会の秩序を作るために、さまざまな社会の形態が考えられるが、どうしても行き着くのが「賢い指導者の存在」だ。
決定者、判断者としての賢い指導者の存在がなければ、マルクスも、資本主義も、どんな思想も成り立たない。
国を分析していると、そのことが確かに突きつけられる。
だから、マルクスを考えても行き着くところは独裁者であり、帝国なのである。
だからといって、社会主義体制を独裁者にすれば良いわけではない。社会主義は、経済的に見ても政治的に見ても、必ず独裁者に行き着いてしまうのである。
だから、マルクスよりも賢い指導者の輩出を考えよう。
賢い指導者を作るためには、さまざまな社会経験を積んだ、あらゆる社会悪を知って、強く生きた人間が良い。
たとえば、キリスト教徒の活動家などが相応しい。そうした、辛く苦しい体験を乗り越えて、人間のことを知りつくした人間が、指導者になるべきだ。
社会主義でも、指導者を賢くする必要はあるのである。ソ連のスターリンが失敗だったのは、単純にスターリンが馬鹿だったからだ。それが、唯一の失敗だった。
僕は、家庭にある備蓄品(食料と日用品)の補充をきちんとやれば、意外と社会主義経済もいけるのではないかと思う。
特に、食べ物は野菜と米を中心に、魚などを補充する。いつでも、数日分の食べ物は常に備蓄され、無くなったものから補充していく。壊れたものから備蓄品を与えていく。
ある意味、ソ連のような社会主義国は、それだけになってしまっている。それはまずいことかもしれないが、必ずしも社会主義経済が成り立たないわけではない。
だが、僕は、そうした配給主義はつまらないと思う。お金の自由というのは、配給に勝るものだと思う。だが、お金をそんなに信じることも、ある意味では難しいだろう。儲かったものから儲けていく。儲からないものは、いつまでも苦労し続ける。それは、社会主義経済で解放されるかもしれないだろう。
だが、このモデルの問題点は、「どのように備蓄品を生産するか」だ。マルクスは、生産能力と手段の向上から社会主義経済に移行すると言っていたが、それはならなかった。生産能力の向上は、大量生産を可能にし、さらに資本家を豊かにし、格差を広げ続けた。行動が必要とは言うが、行動しても成功しないなら、誰も行動しない。マルクスは、そこが分からなかったのだろう。マルクスが思っている以上に、人々は保守的だ。
僕が思うに、デモで左翼を言うのはまともだが、権力で左翼をすると失敗をする、と言えると思います。
何もできない左翼がいくらシュプレヒコールを上げても、何も変わりません。
ですが、いざ左翼が実権を得てスターリンをすると、最悪の廃墟の世界になってしまいます。
過激な思想はデモだけで十分、実際にやるのはもっと大人になってから、ということが言えると思います。
僕は、ソ連がやりたかったこととは、「プロレタリア独裁」と「評議会連邦」だと思います。
プロレタリア独裁とは、レーニンやスターリンのような、無産階級や奴隷階級の指導者が、リーダーシップをもって独裁するということです。
評議会連邦とは、最高評議会である国会の下に、さらにたくさんの国会・評議会を作って、その連邦を共同体・コミューンの連合体と見なす、ということです。
一見矛盾しているように見えて、この二つのバランスを取ることで、すべての人民に対して適切な計画経済とノルマを裁定することができるはずでした。
そのような「レーニンの目指した最高の国」を、スターリンはおそらく理解できなかったのでしょう。スターリンという独裁者は、ソ連を「悪の帝国」にし、スターリン自身は「赤いツァーリ」になってしまいました。
結局、スターリンが馬鹿だったからソ連は失敗したのです。計画経済が成功しなかったのは、スターリンが全知全能の力を持っていなかったからです。「レーニンの理想は高かったが、スターリンにその理想は理解できなかった」ということが、ソ連と共産主義が失敗した理由だと思います。
2023.12.30
僕は、「社会所有」という考え方自体は、間違ったものではないと思います。
まず、「社会所有にすると貧しくなる」という先入観は思い込みです。社会所有にしながら、豊かにすることはできます。
なので、もしソ連が成功したとしたら、ソ連はどの国よりも平等かつ豊かになるはずです。
社会主義は、貧しい貧乏人の思想だと考えるのは、ソ連という現実を見たから言えることであって、そもそもの社会主義思想というのは貧しい思想では決してないのです。
だから、たとえば、基本的な社会所有とオプションの社会所有を分けて、「生活が不自由なく生きられる基本の財産」と、たとえばIT技術の専門書が欲しいなら、適切な書籍のコレクションを得られるような「欲しいと思ったものに対する選択的なオプションの財産」を、誰もが平等に得られるようにすることはできるはずです。
それから、社会所有だから都市がコンクリートのような醜い町になる、と思っているのも思い込みです。なぜなら、社会所有は社会的な権限が強いため、みんなで都市を美しくしようと思えば、資本主義よりも容易にできるからです。すなわち、都市を美しくすることは社会所有ならば可能であり、日本の東京のような「高層ビルや地下フロアのような醜い巨大都市」にはならないはずなのです。
ですが、そうは言ったものの、現実の社会主義はまったく逆のものになりました。その理由は、「社会主義経済にすると働く意味がないから」です。資本主義の労働者は、まるで「お金を欲しいがために自ら奴隷になって働いている」ように見えるかもしれませんが、その理由は「そうでなければ誰も生きるためのお金をくれないから」です。これを「奴隷」であると考えるのは間違いでないかもしれませんが、では「奴隷以外の経済として社会主義経済は果たして適切なのか」という問いが言えます。すなわち、「奴隷のように働かなくても生きられるなら、奴隷のように働く人間はひとりもいなくなるため、逆に奴隷のように働いて成り立っていた社会システムそのものが成り立たなくなる」ということが言えるのです。
なので、いくら社会主義が理想であっても、現実は資本主義が正しいのです。資本主義の奴隷を「間違っている」と批判するなら、「正しい経済とはなんなのか」という「代案となる答え」を提示しなければなりません。日本の自民党に対する立憲民主党なども同じで、「与党が最悪なのは分かるが、野党は何も代案を提示できない」のです。これが、「社会主義が失敗した真の理由」だと思います。
すなわち、社会主義の考え方は間違っていません。ですが、実際に行うと失敗します。おそらく、社会主義経済を成り立たせることができるのは神だけです。馬鹿で愚かな人間には社会主義などという高尚な考え方は実現できないのです。
僕が考えた、ガンダーラの「マイナス消費税」も、これらと同じです。社会主義経済を成り立たせるために、市場経済でありながらマイナス消費税を導入するという考え方は、真の社会主義経済を実現するためのよく考えられたスマートな方法です。マイナス消費税によってものは安くなり、富の再分配は自動的に行われるため、古びた社会主義経済をしなくても真の社会主義経済が実現します。ですが、そんなものが本当に実現できるのは神だけです。人間がガンダーラを行えば、必ずスターリンと同じ間違いを犯すでしょう。社会主義経済は人知を超えた神にしか実現できないのです。
2023.12.30
2017-10-10より。
普通、単純に考えると、「大きな国になれば(税収や経済規模が大きくなって)国は栄える」と考えるだろう。
確かに、大きな国になれば、大きな国になったことによって、経済は豊かになる。
だが、僕は逆に、経済が豊かになってしまえば、それによって独立しても国は立ち行くようになって、国は小さくなる、と考える。
大きくなれば豊かになる、それは裏を返せば、豊かになれば国は小さくなる、と言うことなのだ。少し考えれば、これは理解出来る。
だから、僕は、共産主義や共同体主義のような共同体の国は、生産技術と規模の向上から、特に著しく豊かになる油田のようなものがある場所において、盛んになると思う。
豊かになってしまえば、それ以上豊かを目指さなくても、より少ない資本でも国は成り立つ。
要は、金持ちと貧乏人だと思えば良い。金があるなら、パートタイムの仕事でも十分に生きられる。もちろん、仕事で稼いだ方が豊かになる。だが、老人は金があるせいで、何もしなくても生きられる。
だから、僕は生産規模の拡大や生産力の向上とともに、共同体の社会がやってくる、と言うマルクスの主張は、ある意味正しいと思う。
昔は、もっと自由な共同体のことを良く書いていた。共同体は自由であり、それぞれが手段を持って自立し、それぞれが決め、それぞれが文化を作り、それぞれが法律と憲法を定める。僕は、生産規模の向上とともに、そうした共同体の世界が来る可能性は少なくないと思う。
昔から、僕はそういう共同体の国を良く考える。だが、良く考えると、何も共同体にしなくても、連邦でもそういうことは出来る。最強の国を目指すなら、むしろ、大きくて豊かな方が良い。僕は、共産主義と同時に、資本帝国主義のような、限りなく豊かさを求める思想が生まれて、その2つが戦うようになるだろう、と思う。
あとは、僕は奴隷階級が資本家階級に革命を起こす、と言うのも間違っていると思う。資本家階級と奴隷階級は、双方の話し合いの下で、平和的に合意によって平等になることが出来るはずだ。何も、暴力的な革命を起こす必要はないし、その必然性もない。豊かになりすぎた社会は、「無意味」へと至り、それを打開するための方法として、独立や共同体を生み出すが、そこに暴力的な革命は必要なく、平和的な国民投票によって共同体の独立は成し遂げられる。きっとそうなるはずだ。そして、独立後の民衆は、独立前と何も変わらない暮らしをしながら、手段のような制度的改革を行い、国の大きさと自立性だけが細分化され、自由になっていく、それぞれが出来ることが増え、多様性が生まれ、社会全体が自由へと向かっていく、僕はそういう「マルクスとは違う共同体主義の思想」を考えたいと思う。
2017-10-16より。
僕は、安保法制や北朝鮮の問題として、自国を守ることはみな声高らかに言うが、本当は「世界から戦争をなくすこと」を言わなければならないと思う。
僕は、言ってしまえば、北朝鮮とアメリカの戦争に加担しても、朝鮮半島と日本が戦争になっても、僕はそれはそれで、「良いとは思わない」が、もしそうなったなら仕方ないと思う。
だが、そこでの戦争の目的は、「世界から戦争をなくすこと」であってほしい。
だから、北朝鮮に勝った時は、日本の場合と同じように、「北朝鮮から永久に軍隊を無くす」ような憲法を作って、その上で民主化を果たしてほしい。
あとは、民主主義が中国のことを独裁と言って悪いと言う。だが、中国の批判の封じ込めは、何も悪いことをしていない。そもそも批判する、と言う行為をする意味がない。
中国政府は、仮想敵を倒しているだけであって、そもそも批判ばかりする日本やアメリカのマスコミの方が、自国を愛していない。
だが、僕は中国や北朝鮮に加担するわけではない。中国や北朝鮮は、僕は民主主義と社会主義を融和し、もっとより良い体制にならなければならないと思っている。
2017-10-17より。
搾取を資本主義だと思う人間は多い。だが、搾取は、頑張っている労働者の稼いだ利益を、何もしない資本家が奪っている。これは、社会主義で、頑張っている人間が稼いだ利益を頑張っていない人間が「平等」だと言って奪うのと似ている。だから、搾取を批判する左翼は嫌われる。本質的に、左翼と搾取は同じだ。
解決するためには、「他人の稼ぐこと、奴隷にすることで、何もしない人間が儲けるのを否定する」ことしかない。
日本のマスコミなどは、国を批判するが、批判するだけの自由では良くならない。同時に、政治家はその批判を批判して、驕りや欺瞞に満ちた政治をする。
間違っているのは、資本主義と社会主義が対立するのが間違っている。もっと、きちんと稼ぐために生産手段を与えながら、格差と悪平等の無い社会を作らなければならない。
2017-10-17より。
ソ連型社会主義の問題とは、おそらく、工場による大量生産が出来なかったことだ。
マルクスは、そもそも、生産能力の向上によって、資本主義は供給過多で滅び、共産主義社会がやってくると言っていた。
それは、生産能力の向上、すなわち、必要なものだけを大量生産出来る優れた工場と人員があって、初めて可能になる。
労働者と生産者の分母が増えれば、一人当たりの労働は少なくて済む。
それによってユートピアになる。
それがマルクス経済学だったが、本当は理想と机上の空論だけでは、実際の労働環境を作ることは出来ず、奪うことと弾圧することに終始して、何も作り出さず、盗んで殺すだけの国になってしまった。
中国はおそらく、最近それが分かっている。
中国は、生産能力のある工場を増やし、労働者人口を増やすことで、きっと社会主義を成功させるだろう。
そして、天の御国はきっと、創り出されるだろう。
マルクスの問題とは、生産能力が向上して、工場が増えて供給過多になったとしても、儲からない工場は競争によって自然淘汰されるだけであって、崩壊するのはむしろ、社会主義の方だ。
僕は、そういう、「自由に任せることで、それぞれが必然的にすることをする」ことから、自然と社会が良くなる、と言うことはあると思う。
また、自由な権利は認めなければならない。自由な権利がなければ、何をすることも出来ない。
そういうところが間違っていたのが、昔のマルクス主義だ。
複雑な問題として、搾取をやめると、みんなは全員辛くなる。だが、生産者が増えることで、それぞれの生産しなければならない量は減る。
だが、それを目指すことによって、それぞれの給与も減り、ものも次第に少なくなる。発展もしなくなる。
社会主義は、経済学的に間違っている。そういう国が、ソ連だ。
2017-10-17より。
自由の優れた点とは、たとえば、誰かが働かなければならない仕事でも、誰も働きたくない、と言うことがあった場合、この時、誰も働かない仕事を誰かがやると、集中的にその人は儲けることが出来る。
だから、常に自由な労働の条件下にありながら、それぞれは蟻のようにきちんと動き、全体としては上手く行っている、と言う、「金による魔法」的な自由の法則から、社会全体は常に正常に働いてくれる。
自由は、そこが優れている。
計画経済では、働きたくない人間が大量に生まれ、強制的に働かせるようになる。
だから、決して自由は劣った主義ではない。
そうした自由の魔法のように上手く行く法則は、IT企業とオープンソースの関係と良く似ている。
資本主義の経済学は、それぞれが得をすることから、経済のことを分析しようとする。
だが、僕は、「純粋に自由と言う法則の中で、どのようにそれぞれが働くか」と言う側面から、ある意味角度を変えた経済学を作ることが出来ると思う。
もちろん、それぞれが自分らしく働くためには、代償と創造性も必要だ。
ある意味、人間の自由を信頼することで、自然発生や潜在的可能性も考えられる。
だが、自由にはもう一つ、「社会の理想と憧れ」も必要だ。それは、きっと共有や友愛を信じることに似ている。
オープンソースを夢見て頑張る少年が居なければ、自由は意味がない。
だから、最近は自由が成功しないのだ。
ある意味、2ちゃんねるの参加者も同じで、それぞれが自由であること、それ自体に価値がある。だから、自由は無くしてはならない。
誰でも、いつでも書けること。それが良いのが2ちゃんねるだが、本当はそれをすると、一般的な普通の投稿をすることが無くなる。それが間違っているのだろう。
2017-10-29より。
人間は、最低限の労働だけでは生きられないだろうか?
経済学者は、どうしてもGDPなど経済規模を大きくすることに目が行きがちだが、本当は競争や要らない職業を縮小して、みんなで公平に役割分担することで、最低限の労働だけで効率的に社会を動かすことも可能なはずだ。
あとは、効率的に限界まで生産する今の経済は破綻すると思う。
代わりに、最低限しか労働せず、最低限しか生産しない経済になるだろう。
GDPを拡大させるのではなく、競争や無駄な労働をカットして、みんなが最低限だけ働く社会が、きっと来るだろう。
2017-11-15より。
僕は、社会主義はやめる。社会主義はただの帝国主義だ。負けているように見えて、一番勝っている。社会主義が悪いだけだ。
自由に経験し、行動し、反省せよ。それぞれの自由を大切にせよ。支配するな。助け合え。
どんな風にすれば、社会の問題を解決出来るか、自由な経験から考えよ。
今を共有せよ。今は、今しかない。
将来性を見て投資することは、悪いことではない。助け合いの一つの形だ。
自由な社会においては、万物を愛する気持ちを持って、本当に最後まで努力すれば、社会の問題は必ず解決出来る。解決出来ない問題はない。
みんなで選挙して選んだ指導者なら、任せるしかない。悪いのは民主主義ではなく、テレビの政治家に対する報道だ。きちんとした政治家についての報道が出来ないなら、報道する資格はない。
排除する、と言った希望の党が負けた、という事実は、この国をテレビだけが支配出来ている、という事実を表している。テレビの全てが悪いわけではないが、ある意味で国民は悲惨だ。
ツイッターもテレビの影響を色濃く受けている。炎上が起きるのは、マスコミが晒しものにするのと何も変わらない。いじめもテレビのせいだ。
テレビは、テレビ以外のものを全部倒しながら、テレビに批判が向かないように頑張っている。
自分も、批判されないように先んじて言うとか、そういうことが多かった。批判されても良いと思えば、多重人格は治る。
人種差別の問題とは、悪くないものを悪いと思うことであり、同時に何の理由もないのに刑罰を与えることであって、独裁国家は必然的に人種差別になる。だから、独裁国家を許してはならない。左翼は、そこを騙している。
最近の右翼は、優しい民主主義の独裁者で、強いリーダーを求める。それが間違いだが、明らかに左翼がさらに悪い。左翼には何も出来ない。だから、ここで手詰まりだ。左翼と右翼という考え方では、解決出来ない。
本当は、自分らしく生きられる、というアイデンティティの尊重があれば、争い合う必要はない。
本当に必要なのは、生きがいと自分らしさを得られるように、満足を実感出来る自由を与えることだ。
独りの王が悪いものを決め、何の理由もないのに刑罰を与えるのをやめさせるためには、相手のことをきちんと考え、自分のように愛さなければならない。独裁者の逆はキリストだ。
本当は、多数派を尊重することは悪いことではない。だが、少数派とも上手く合意形成を取らなければ、それは独裁者になる。
この論証は、筋は通っているが、そもそも民主主義で選ばれた首相が独裁するのは悪くない、とも言えるだろう。
正しい解決策は、民主主義をやめることではなく、少数派も力を持って、多数派だけでなく少数派の意見も取り入れた融和政策を取ることだ。
自由は格差を生み続ける。自由の論理から言えば自由に支配すべきことになる。だが、独裁者が全てのことを天才のように分かるわけがない。みんなでルールを決め、自由な中でそれぞれが考えることで、柔軟で自由自在に出来るだけでなく、沢山の創造的な発想と発見が生まれる。
全部同じにする、という左翼の発想が癌である。
右翼に問題があるとすれば、金持ちの方が多く儲けるということである。貧乏人が儲けられる量より、金持ちが儲けられる量の方が多い。
日を追うごとに、金持ちと貧乏人の差は開き続ける。
それぞれが努力しなければ、意味がない。
北朝鮮が皆同じことを言うのは、言わないと強制収容所に入れられるからであって、決して言いたくて言っているわけではない。人権というものがない。人間として扱われていない。
彼女持ちは、当たり前にいつも満たされる。そこが童貞との差だ。
悪い人間が悪いのには理由があって、それは無知で無明だからだ。そして、ある意味それは仕方ないことだが、変えることは出来る。話し合えば良い。
話し合えずに両者がすれ違うことは、悲しい。だが、それを乗り越えて、両者は恋に落ちる。
そもそも、こんな国に帰属意識のカケラもないから右翼が増えている。悪い人間を自己責任と言って排除する代わり、自分たちの帰属意識を取り戻そうとする。議論しようとすらしない。逆に、仲間内だけで議論し、自分たちだけで決めようとする。だが、IT技術を上手く使い、近代化に対する依存性は大きい。
2017-11-16より。
当たり前にたくさんの金を投資に注ぎ込めば、たくさん儲かる。だから、金持ちに努力で勝つことは出来ない。
金持ちは、奴隷を作って奴隷で儲ける。
社会主義が辛いのは、一番低い労働者は資本主義でも辛いからだ。日本人は、知らず知らずの内に、9割が搾取で儲けている。なぜ、それでソ連に食べ物がないのか。それは生産効率が悪いからだ。
生産効率を高めれば、社会主義はユートピアになる。だが、それは実現出来ない。生産効率を高めれば、さらに労働者が辛くなるだけだ。
辛いのは、生産効率を高めよという国の圧力であって、社会主義は中世のようなものだ。逆に、資本主義国の発展は、フロンティア的な可能性が高かっただけだ。
そういうわけで、国の圧力と計画経済は同じだ。自由は楽ではないが、努力に見合う報酬が得られるし、得られる利益や稼げる金の単価が高い。少ない努力でたくさんの金を儲けられる。
本当は、自由なんか外国から奪っているだけだ。そして、貧乏人を騙している。
今日本が豊かなのは、生産能力の向上と技術や経験や制度の蓄積のおかげだ。
アメリカや北朝鮮は、信用されなくなって滅びるだろう。勝つのは日本だけだ。
外国に日本と同じことは出来ない。フロンティアもないし、機械も発展しない。最近は、世界は変わらない。貧乏国は、それなりに発展しているが、日本のようにはならず、いつか停滞が訪れて滅びる。
そもそも、日本以外の国も低価格で品質の高い機械を作れるようになった時点で、日本にもあまり意味がない。いつかはこうなる。ソ連も失敗した。
日本に勝てるわけがない、ということが日本の優位性だ。
何でも、後で変えられなくなると失敗する。だが、その上に積み上げると成功する。
中国産の機械が品質が悪いのは、日本より安い製品を作る意味がないからだ。そういうものは日本で十分だ。中国産の品質を高めても、日本産と同じものになる。だから、中国産の製品の品質は高くならない。
見ていると、日本には格差が少ない。みんな豊かだ。外国には格差が多い。アメリカでは数パーセントの人間がほとんどの富を持っている。ブラジルでは治安が酷く悪く、財布は強奪されるのが当たり前で、市民は盗まれても良いように財布を二つ持っている。
要は、ソ連は生産効率が悪かった。そして、日本は最初に価格を低くして品質の良い物を作った。それが機を見て成功した。
支配せず、共同体を作りなさい。それぞれが関わり合って社会の助け合いのシステムを構築出来るようにして、代表がシステムを変えられるようにし、代表に人々の意見が届き渡るようにしなさい。
本当は、ただそれがそうであった、という事実があるだけだ。そして、昔は2ちゃんねるのような匿名掲示板で社会の変化や自然な発展を見て、自分でも参加出来ることを客観的に分かっていただけだ。
全ては自然であり、自然な事実に過ぎない。日本が経済発展をしたのも、全ては自然な結果に過ぎないのだ。そして、そこに居た人々が確かに居たということ、それを忘れてはならない。同時に、今のこの世界はこの世界の人々に自由に任されている。
自由の問題は、自然なこの世界の中で、どの方向に向かっていくか、きちんと考えていないことだ。発展的なことは出来ても、世界をコントロールすることが出来ないのが民主主義だ。
僕が社会主義をするとしたら、まず工場と農場をそれぞれの地域に作る。むしろ、そう考えると、全部同じ大工場にして、農業は集団農場にした方が、簡単で国民も楽だ。そして、それで何とか回るようにする。国を独りでは出来ないというが、家庭を親が回すのと同じだと考えれば、簡単だ。
そう考えると、ものを誰のものでもないものにする理由が良く分かる。家庭のものは、家族みんなのものだ。それと同じように、国のものは、国民みんなのものだ。だが、それを本当にやると、悪い人間と一緒に暮らすようになる。だから、ある程度の管理者的代表は作らなければならない。
僕は、むしろ、社会所有にすることで、自由な金ではない、管理者の居る、別の経済をしたい、という意味合いもあるのだと思っている。
2018-01-12より。
ヨーロッパは、右翼の奴隷商人と左翼の革命家が戦う。だが、ヒトラーやそれに準ずる右翼が分かっていないのは、日本がダントツで一番優れた国なのが分かっていない。白人は、和の精神における開放的な平等を知らない。トランプも分かっていない。日本が一番だ。
日本は、もし左翼政権になったら、キューバと仲良くやれば良い。世界の中で一番良く似ている。
ドイツは北朝鮮と良く似ている。日本とドイツを似ていると言うが、全く逆だ。ドイツは個人主義で自己主張しながら、国として優位に立とうとする。日本は優位に立とうとしないし、自己主張もせず、円満に協調しようとする。キューバと同じだ。だが、日本は一応帝国だから、ないだろう。
むしろ、キューバが日本に似ていると言うより、日本が西側のキューバだと言える。ソ連に対抗する位置に居るアメリカの子分として、最前線の基地をやっている。だが、アメリカは日本に原爆を落としたせいで、日本に核兵器を持たせない。左翼になれば、日本が復讐するかもしれない。
ある意味、同じ民族の分断国家だから、朝鮮とドイツが似ているのは当たり前だ。アメリカとソ連が歴史のない人工国家なら、歴史があるのはヨーロッパと中国だろう。
西側と東側、あるいはヨーロッパとアジアが戦争になったとして、一番悲惨なのは朝鮮とドイツだが、核戦争になった時に一番被害を被る、あるいは与えるのは日本とキューバだ。中国は儲かるだろう。中東は東欧諸国だ。戦争の直接的な原因になる。アフリカはイスラエルだ。
日本が核戦争禁止条約に反対するのは、キューバと同じ前線基地だからだ。アメリカは、戦争になった時に日本に核兵器を配備したい。キューバ危機と同じだ。だから、核戦争で一番被害を被るのは明らかに日本だ。アメリカは、それを見越した上で、日本軍をアメリカ軍で上書きするために平和憲法を作った。
不思議と、当の日本人が騙されているから分からないだけで、アメリカ人どころか、日本が西側の核兵器の最前線の基地なことぐらい、地図を見れば誰でも分かる。核兵器禁止条約に参加出来ないのは仕方ない。被爆地が参加しないのは悲しい。
アメリカ人も騙しているわけではない。日本人が核兵器を持って一番怖いのは、日本に落としたアメリカだ。
日本人が外国人に馬鹿にされるのは、日本は核兵器を落とされたのに核兵器を落とす最前衛の基地だからだ。なぜか、日本人は誰もそこが分かっていない。良くある日本いじめをやっている。
要は、外国人はみんな日本に死んでほしい。ソ連の近くにあるのが悪い。だから、また日本だけが世界全員と戦うようになる。日本はまた最強になって、ヨーロッパ全土を敵にまわすようになるだろう。
キューバもみんなから嫌われている。たまにゲバラやカストロが好きな人間が多い。今は敵同士だが、きっといつか親友になれる。
アメリカ政府が日本を可愛がるのは、被爆国であることが、逆にロシアに対する外交カードになる。日本がロシアに落としても悪くない。だが、アメリカが日本に落としたせいで、アメリカは言うと逆に不利になる。だから、日本を非武装地帯にしたい。それはアメリカ軍の支配下にしたいからだ。
日本がアメリカに従うのは、日本はアメリカに従うことで何とか列強を保っていられるからだ。
日本は、スターリンを革命上がりの馬鹿だと思っている。だが、あれはソビエト政府の長だ。賢いのは、ソビエト政府が賢いからだ。ヒトラーが賢いのと同じで、本音で言えばトランプは賢いだけだ。
そもそも、ソ連は自分の国を賢く見せない。ソビエト政府が賢いのを隠して勝っている。相手に勝とうとしてほしくない。自ら遅れた悪い国に見せているのが北朝鮮だ。
自らを弱く見せれば相手も弱くなる。弱く見せるだけでなく、本当に弱くなってほしい。
日本は、民主主義になったおかげでとても良い国になった。アメリカはそういう日本を喜ぶ。仲良くやっているだろう。誰も悪いと言わない。
そういうわけで、みんな日本が嫌いだが、アメリカは悪くない。それをアメリカがやっている。日本は可哀想だが、日本が悪い。
日本の一番の味方は朝鮮と中国なのに、アメリカが騙している。敵同士に潰し合ってほしいだけだ。
テロリストも分かっていない。アメリカはイスラムに自ら死んでほしいだけだ。
アメリカとソ連は裏でつるんでいるのかもしれない。スターリンはアメリカの子分ではないかと思う。むしろ、本当はつるんでいてほしい。そうでなければ、世界は滅びる。
アメリカの政治力ももうトランプで終わりだ。ダントツで賢い日本が勝つのは明らかだ。
北朝鮮は、こんなに弱いですよ、負けますよ、と言いながら強くしているだけだ。
要は、日本人が日本のことを良い国だと思えばそれで良い。それで平和だが、アメリカはいつも日本を利用し、また日本を倒せる。だから、日本は何故か良い国だ。
政治経済なんか、一番キモい学問だ。経済はいかにして儲けるかが分かるだけだ。
アメリカは悪くなくて、日本軍国主義よりも民主主義の方が良いと思ってほしい。いつか対等な国となる。いつか、素晴らしいパートナーになってほしいだけだ。
2018-01-30より。
自由を信じていた。嫌なら見なければ良い、使わなければ良いと考えて、むしろ使わない自由を尊重したかった。素直な、使いたくないと言う気持ちを大切にしたい。社会全体、世界全体を変えようとするのではなく、多様な意見の尊重される社会にし、個別の環境を改善すべきだと考えていた。
身分制ではなく、出生の平等を信じていた。誰もが平等に扱われ、平等の権利を持ち、平等に参加し、平等に機会を排除されないべきだと考えていた。
社会のさまざまな形態を実現していた。社会モデルを、制度や発想から、マルクスのように経験的に、作って分かっていた。
国民は弱いものだ。誰かが守らないと生きていけない国民は多い。王や政府が守らないといけない。だが、同時に権利も与えなければならない。自由や自立を強制するのは、自分に対する思い上がりだ。
みんなを助けることが政府の役目だ。問題を解決しても、それが人々を抑圧するなら、最初から問題なんか解決しない方が良いのかもしれない。
国やマスコミは問題を解決しようとはするが、国民を助けようとはしない。助けてくれるのはネットと家族だけだ。
多様な意見とは、ただ同じ意見を受け流すだけではなく、自分で意見を持つということであって、欅坂46が言う不協和音と同じだ。だから、多様な意見が尊重される社会にならないといけない。ある意味、トランプなどのファシズムとも共存していくことが、自由だ。
自由は悪くない。ロシアのような一つしか意見の無い国にはなってはならない。ある意味でそれも、一つの社会秩序だが、その社会秩序が社会秩序の理想を破壊し、反抗することは、僕は良いことではないと思う。多様な意見があり、尊重される社会は自由だが、それを異常だと言ってもそれは悪くないだろう。
共有から多様性が生まれる。昔は、そういう社会全体、人間の人生、行動、所有などの全体を貫くことをしていた。全ての行動をし、全ての社会や環境の変化を見て分かった。環境が変わりゆく全てを知っていた。
自由とは、支配して同じにするのではなく、新しい可能性と環境と手段を創造することだ。
昔は、自由な理想のようなことを言っていた。多様な価値観を認め、共有し、自然な可能性を高めることで、社会は自由で正しい世界になる。そのためには、人間性を尊重することが大切だ。
軍隊なんか要らないと僕は思う。だが、現実的に考えて、どの国も軍隊を無くそうとしない。国連やEUのような形にするしかないように僕は思う。非道な国に対抗するために、みんなで同盟的な軍隊を持つしかない。
そもそも、非道な国を生まないようにしないといけない。北朝鮮が戦争と軍隊を旗に日本を脅してくるなら、それに対抗して戦争論を唱えるのではなく、さらに平和を主張しないといけない。だが、それは軍隊を持たないべきだ、とする主張が正しいわけではない。矛盾する。
ただ、日本が軍隊を持てるようになってしまうと、日本から北朝鮮に戦争が出来る。これは、北朝鮮から日本に戦争を起こすのと全く同じことだ。リスクが二倍になっただけにすぎない。そして、北朝鮮も逆に日本が戦争するように仕向けるだろう。本当は、必要なのは、北朝鮮から軍隊を無くすことだ。
共同体にすることは、ソ連を見る限りあまり良いことではない。共同体の自由になって、みんなの自由がなくなる。だが、僕は国民の自由な権利が実質的に守られているなら、共同体にしても悪くは無いと思う。地方分権のような独立性が生まれるし、人々は社会性のある家屋や日用品を無料で手に出来る。
特に、共同体の所有にした方が、町は美しくなるかもしれない。現に、京都のような歴史的遺産価値が高い都市では、条例で各家屋が町の景観を損なってはならないことになっている。
ただ、共同体の生産と分配にする懸念は、きちんと国家・政府が行政としてやっているようなルールや法整備、そして会社がやっている生産活動を、自治体のような地域の共同体が生産出来るのか、ということだが、僕は会社組織と全く同じようにそれぞれ自由に努力するモチベーションがあれば出来ると思う。
そのためには、金儲けを最初から否定してはならない。共同体をまず、行政や生産活動を行うための基本としての資金を集めることから始め、人々の意見を聞いて成功体験をくり返すようにし、一種の「パターン」を確立し、その上で金儲けでない平等な日用品の配布をしなければならない。一朝一夕ではない。
ただ、僕としては、「政府のクローン」を作るのが良いと思う。日本政府がやっていることを、クローンを作るようにそれぞれの共同体の行政機関にコピーし、少しずつ応用していく中につれて、独自性を高めていくのが良いだろう。税金はかかるが、少しずつ縮小していけば、むしろ経済効果が期待出来る。
ただ、共同体の平等は、本当は僕の真意ではない。僕の真意は、本当に独立させることではなく、多様性と独立のしやすさを保った上で、連邦として各共同体が多様性を維持することにある。そもそも、共同体を同じにするなら、共同体にする意味は無い。
多様で、独立しやすい世界にして、それぞれが関与するようにした上で、共同体を生み出し、その連邦として、帝国にすれば良い。帝国にしたからといって、戦争になるわけではない。僕は、そうした「共同体の帝国」が良いと思う。なぜ「帝」という名前がついているかは、民族の代表が大陸を治めるからだ。
だから、僕は本当は左翼ではない。右翼でもない。新しい帝国を作るべきだが、それは本当は作るべきですらない。それなら日本のままで良い。僕は、そうした穏健派の保守を好む。平和なままで、過激なことをせず、ただ相手を尊重して理解し合い、時には話し合う。支配することは、悪くないだろう。
僕はこのまま、この世界が平和になってほしい。それだけを願う。
昔は本当にアホな人間だった。牛乳を流す水道を作れば良いとか、王になったらアパートとパンを配って大規模な農場と工場を作ると言っていた。だが、あれはあれで賢い人間だった。僕が首相になったとしたら、こんな文章は忘れて、もう一度一から考え直したいと思う。いつも馬鹿だったからだ。
自由で平等にしながら、国を成り立たせ、全員を生きられるようにするのはとても難しいことだが、発想するだけなら誰でも出来る。最近の僕が賢いのは、発想するだけでは終わらない。きちんと実現するための方法を考えて、何をすべきかを述べている。だが、それでも十分ではない。
国全体のことを考えられるのも知性だが、本当の知性は考えられることではなく、実際に考えることだ。一度考えたことを、人間は本能的に全部覚えている。考えられるだけでは不十分だ。実際にきちんと具体的な考えを作って、はじめてそれで考えたと言える。
この国は、偉大な連邦となるだろう。その連邦はソビエト政府ではなく、全く違った新しい連邦となる。それを、最後に残った僕が作り上げる。それで、この神話は終わりだ。最終的には、この季節がみんなを生まれ変わらせる。きっと、その季節の連邦がもう、誕生するだろう。
人間の力は拡大しすぎた。今では、テレビやインターネットを使うことで、世界を自分の一部のようにもてあそぶことが出来る。僕はそこに警告を鳴らす。それでは全くおかしなことが出来てしまう。僕は、それだけが哀しい人間だった。世界を支配し、自分を破壊した。
2018-02-11より。
本質的に、社会は弱者を救うべきだ。困っていない人をさらに助ける必要はない。一定のレベルよりも生活水準が低い人を、みんなで救っていくことが必要だ。
社会が右傾化している背景には、金持ちが善良になって悪い社長が居なくなったことや、誰でも金持ちになれるくらい成功が簡単になったことが挙げられる。誰もが必然的に成功する時代になった。搾取よりも、社会保障などの左翼の方が悪く見える。昔は金持ちが悪かった。何もせず奴隷を作って儲けていた。
最近の金持ちには、実力を伴った金持ちが多い。それこそ、難しいことが出来る金持ちが増えた。社会を騙して儲ける悪い金持ちは居なくなった。逆に、そんな馬鹿は成功出来ない。本当は、今の高度な世界で金銭的に成功するのは難しい。だが、成功する天才も多い。
2018-04-12より。
本当は、社会主義には弱点があって、対価を払わなくても生活できるようにすると、誰も労働しなくなる。そのせいか、何もしない国になってものが不足し、上から強制的に働かせるようになる。だが、本当はその弱点は克服できる。なぜなら、資本主義の労働者は、ほとんどが月給か時給で働いているから、裁量性の労働のように、歩合制で働いている人間は少ない。公務員なんか、税金で働いている。役人は会社員のことを奴隷だと思っている。だから、本当は、上手く働くモチベーションを作り、それぞれに同じ給料を与えることは、僕は出来ると思っている。何もしない大企業の社員の方が、社会主義の労働者よりも働いていないはずだ。月給で働くなら、きっと社会主義でも、同じように働かせることは出来る。クビになるリスクとは言うが、そもそも失業者が出ることは好ましいことではない。マイナーリーグ行きのようになるのは平等ではない。だから、平等でユートピアは、理論上は月給と同じで、実現できるはずだ。実際の問題として、そこまで成熟した人間が居ないし、指導者も分かっていない。だから、実現出来ないのだろう。
また、社会主義の共同体を「何も出来ない共同体でみんな同じになる」というが、それも間違っている。社会主義は、共同体を国家の政府と同じように独立させる。全ての手段を同じ権利のように与えるために統一するだけで、人々が何をやるかは自由になる。よって、多様性のある社会になる。そして、個人の自由がないとは言うが、個人の堕落した自由がもしなくなったとしても、社会全体の「みんなで決める自由」はある。結果、おかしな歪みを生むインターネットのような世界は無くなり、共同体は秩序のある村社会に戻る。それは、決して悪いことではない。みんなで自分に合った労働を決め、国のことをみんなで平等に考えるようになるから、結果として秩序と適正のある良い社会になる。
だが、ソ連のようなやり方が悪かった。スターリンは上から完全に一人で決め、アメリカなどの資本主義列強国に対抗することを考えてしまった。日本の間違いと同じように、悪いだけの最悪国家になった。
ある意味、ソ連はまだ間違っていない。最近はソ連と社会主義を否定しすぎるせいで、アメリカのような「自由すぎる民主主義」になっている。もはや、民主主義が一番劣悪に滅びている。町をうろついている若い男には不審者しか居ないし、女はいくらでもキモいことを言う。だから、この世界を治すためには、一度ソ連の前に戻って、もう一度まっさらな気持ちで社会主義と資本主義の関係を考えるしかない。歴史に学ぶとは言うが、歴史にそんなに囚われ続けるのも間違っている。一度それが現象として起きたからと言って、必ず法則的・原理的にそうなるというものではない。一度忘れて、もう一度行えば、必ず違った結果になるだろう。それに、期待しよう。
昔は、自由ノルマや多様性のある共同体のように、自由を考えて自由な社会を作っていた。本当は、自由という視点から考えて、全員が公務員になるのは何も悪いことではない。逆に、全員が平等な権利を持つことで、やりたいことが自由に出来るようになる。だが、そのためには普通の自由を制限する必要がある。ソ連の本当の問題は、そういう「自由の制限による権力」にあって、あまりに「みんなで悪いことをする国」になる。だから、ある意味でみんなの自由を抑えないといけない。みんなの自由を抑えながら平等にした時、初めて「善良な権力」が生まれる。だが、それは本当は「民主主義」になると僕は思う。民主主義と社会主義を上手く両立させたところに、本当のユートピアがあるだろう。
要は、民主主義を社会主義の一形態、社会主義を民主主義の一形態として、認めてやれば良い。そうした時、初めて地球に平和が訪れるだろう。社会主義の枠内で民主主義をやりながら、民主主義の枠内で社会主義をやることで、両者は次第に融和していく。それが、僕の思う、「自由な社会」であると思う。
本当は、国家が管理しなくても、自らの自発的な意志によってものを共有すれば良い。参加者の自発的な権利として自由な権利を認めてやれば良い。昔の自分には、そういう発想が多かった。国家によって実現するのではなく、自分の自発的な意志によって実現することで、共同体のようなものを創っていた。そういう、宇宙人のような秩序ある共同体を創造していた。そういう文章だった。
そういうわけで、自由な行動から経験が生まれ、多様な共同体が生まれ、行動科学が生まれ、世界は変わっていくと言っていた。大まかに言えば、そういうことを言っている。馬鹿ではなく、論理的に考えたことを言っていたが、全く間違いのような共有の科学を言っている。それだけの、アナキスト(無政府主義者)のような人間だった。
むしろ、天皇は僕は悪くないと思う。日本の天皇を王朝だと考えた時、日本は2000年以上一つの王朝が続いている奇跡のような国だ。ローマ帝国でさえ、東ローマ帝国はそんなに続いていない。だから、僕は天皇制は続けた方が良いと思っている。
2018-04-14より。
昔の自分は、さまざまな社会的な発想を作っていた。その考え方にあるのは「自由」で、自由な社会をどのように成り立たせるか、みんなが直面している課題をどのように解決するか、といった考え方や解決方法を考えていた。
言ってしまえば、自由な中で存在や不利益をこうむる人間は、ただその人間が悪いだけで、その人間の努力が足りないだけだ。
自由にする、という意味で言えば、考えるべきなのは大多数の社会的な庶民だけで、不利益をこうむるのがもし悪いとしても、自ら選択して、好きな人生や生活を受け入れて貧民を生きるのであれば、それで良い、という結論になる。
むしろ、そのように考えた時、必要なのは、警察と軍隊が「自由な中で国民みんなが思いつく限りの他者への防衛策」として必要となるだけで、金儲けにして小さな政府にし、あとは自由放任にすれば、社会なんかそれで良いことになってしまう。
必要なのは、みんなで禁止すべきだと考えているものを禁止し、いじめのような社会問題の解決方法を考え、EUのような国家と国家の連合の方法を探り、また民主的な政府にして一人や数人だけの貴族階級に大多数の庶民が従わざるを得ない状況を作り出さない、といったことに終始する。
そして、合理的に考えることで、人々はそれぞれの関係から「自由な従属関係」を「契約と権利」によって作り出し、考え方というものは、社会的な適用と「たぶんそれはそういうものだ」という蓋然性に終始する。
だが、考えてほしい。そうした自由、という発想は、本当に考えているだろうか?
自由は考えているように見えて、何も考えず、ただ他人の意見をそのまま受けいれ、従うべきものに従っているだけではないか?
そうすると、むしろ、平等も同じだということになる。平等を実現するために何でもする、という主張は、本当に秩序ある正義の指導者とは言えない。
僕は、本当に考えるべき対象は、既成の信念や思想やユートピア像ではなく、「実際の経験」から生まれるものでなければならないと思う。
確かに、経験から自由にすべきことがたくさんある、ということは分かる。インターネットのような自由な場所で、人々が意見し行動する自由を失えば、社会としての基盤が揺らいでしまい、本当に自由活発な意見のある「豊かな経験の積み重ねの社会」は無くなってしまう。
だが、経験の積み重ね、という考え方は、自由だけに存在するべきものではないし、本当はみんなを賢い人間にしたいなら、大学でも自由でもなく、何かしらの仲間を持って人々と意見を交わし、行動する自由が許された環境があれば良いだけで、そのコミュニティ的な自由の場がインターネットや民主主義でしか成り立たないわけではない。
社会主義でも、人々との意見を交わす自由な場所がもしあるとするなら、その方が良いだろう。その意味において、表現と思想信条の自由があることは、理想の社会を築く基盤的な前提条件にはなるだろう。
だが、全ての人に自由を許す、ということが、仮にそれぞれが自分勝手に自由を破壊する、ということであれば、そんな社会すら成り立たない。自由な社会を成り立たせるためには、人々の合意としての理想の秩序が必要だ。それは、オンラインであってもオフラインであっても、きっとそれぞれが本来備えている、「社会的コミュニティを成立させる能力」であって、それが無ければ何も話にならない。だが、僕が思うに、インターネットでは、社会的なコミュニティを成立させる能力そのものが「退化」していると思う。
それはどうでも良い。よって、本当に自由な社会が必要となるならば、そのためには社会的なコミュニティを成立させる能力が必要なのだ。
あまり意味のない、どうでも良いことを考えているかもしれない。だが、僕はアメリカ合衆国がそうした、コミュニティを成立できないほど退化した自由な社会になっていると思う。アメリカは昔から、さまざまな人間の議論を歓迎する。だが、アメリカは今、それがネットにおける「自分のトモダチしか認めない社会」において、危機に瀕していると思う。
幸いなことに、日本ではネットはまだ議論し合う土壌が残っている。2ちゃんねる化はしているが、その中で人々は議論して、成長している。それは、成熟へと繋がるだろう。
話を元に戻そう。自由がなければ悪いのは分かるが、自由があればそれで良い、というものではない。
僕は、「それぞれが自発的に行動し、洗脳されることなく、人々とたくさんの豊かな体験が出来る社会」であってほしいと思う。
その時、自由は前提科目だが、必須科目ではない。人々が従わざるを得ない環境になったとしても、自由な議論が認められれば、権力者を倒すことは出来なくても、国のカタチを考えることはきっと出来るはずだ。
自由な社会においては、どのように問題を解決するかを考えるが、問題の解決を純粋にしたいなら、むしろ、社会主義の方が問題を正しく解決できることもあるかもしれない。
自由な権利を認める必要はあっても、絶対に権力者が全部のことを決めなければならない、というわけではなく、人々の自由な意見から自由な共同体を作ることは出来る。
昔の自分は、そうした、「自由な国造りのプロセス」を考えていた。国を成り立たせるために、どのように考え、分析し、案や意見を出し、どのように解決するか、また、それが具体的にどんなモデルの国家になるかを考えた。EUとはいうが、自由だけではなく、「全員が公務員となって参加する一つだけの国営公社」や、それぞれの会社が専門的なパートを担当し、それぞれが自由に関わり合って、下請けを行い、会社や工場を個人の権利によって「使うことのできる社会」を考えた。子供のいじめについても、自由をなくすとか、学校をもっと意味のあるものにするとか、専門の担当者を作るとか、教師の数を増やすとか、色々と考えた。自分が環境的に自由になる、ということから、人生を考えた。数学については、原理を体得的なプロセスにしていた。
自由は間違っているわけではない。「自由な選択と意志」が何もない人間にはなってはならない。だが、必ず相手を自由にしなければならない、というのは脅迫的観念だ。それでは勝ち負けすら否定してしまって、自分から自分を愚か者と同じにしている。間違った人間が居れば、その場で正すこともあって良いだろう。それすら否定してしまうと、それは自分の妄想の中で自分独りだけで生きる、孤独な哲学者の狂人になってしまうだろう。
本当は、金の自由が必ずしも効率的で合理的であるわけではない。競争によって何もしなくても良くなる、というだけの話であって、本来は自動車の会社や半導体の会社がいくつもあって同じことを二重に頑張る必要はない。自動車の国営公社、半導体の国営公社を一つ作って、その一つの会社が何でも出来た方が効率的で合理的だ。ある意味、競争はコスト削減と安値競争になってしまって、人々は国産であるとか、賞味期限や品質が劣っていないかとか、そういう最低限のことを素人なりに気にするだけになって、広告やコマーシャルに騙されている。本当はCMとはかけ離れたブラック企業であることの方が多い。だから、一度全ての会社を一緒にして、単純な一つの会社にし、そこから共同体と部署を作れば、良くはなる。だが、それはむしろ、社会全体を機械のような単一システムにしたいだけであって、「多様性」という意味から言えば、逆に全く間違っている。多様性を指向したいなら、むしろ、競争をさらに増やし、会社と会社の個性と創造性を引き出して、大企業の方を解体し、生産手段を人々にコピーして分配しなければならない。どちらにせよ、そこに社会主義的な思想が割って入るのはおかしい。自分は、すぐに社会主義と関連付けるのが間違っている。もっと、まともに何をどのようにすれば良いか考えるべきだ。そこが「自由」あるいは「機械」であるとしたら、それは一番間違っている。
自由の間違いとは、「人々の理性を信じる」ことにある。人々は何も分からないから、自由にすると攻撃的で尊大的になってしまう。だからといって、人々の理性を信じないで良いわけではない。人々のことをもっとも良く分かった指導者が、人々が間違えないように自由に導いて支配する必要がある。もし、それが独裁者だったとしたら、自由な僕ですら、独裁者を良いと言うだろう。だが、独裁者に全権を委ねる、ということは、独裁者の思うがままになる、ということであり、それは民主主義と自由の敗北である。えてして、この人間が実例でもある。自分のせいで、自分だけが人々の「理性」を支配している。だから、民主主義を肯定と同時に否定しなければ、この人間の正義は存在できないのだ。
この問題の民主主義における解として言えるのは、「それぞれに会社を作る自由な意志を認めること」だが、意志を認めることだけで会社が起業できるわけではない。能力と手段が必要だ。社会主義における解としては、その通り「生産手段を平等に与えること」だと言える。どちらも同じだが、本当はもっと多くの前提的手段を万人に与えた方が良い。僕は、意志と手段だけではなく、教育や世界観すら、与えるべきだと思っている。それで、社会論は終わりにしよう。
2018-04-25より。
共産主義経済では、頑張った人間と頑張らなかった人間を平等な給与にするため、働く意欲がなくなる。これは、辛い仕事の労働時間を削減するなどして、等価な労働量を実現すれば、解決できる。
社会主義の国営企業でも、会社を自由に作れるようにすることで、自由は実現できる。
社会主義でも、選挙によって役員を自由に決めることはできる。
工場と農場をたくさん作り、ものを過剰に作るようにすれば、計画経済の平等配給でも、豊かな国は実現できる。
それらを持ってすれば、社会主義は成功する。等価な労働量と辛い仕事での労働時間の削減、自由な国営公社、選挙の実現、過剰な生産などによって、社会主義は成功する。
僕は、社会主義が成功するか失敗するかの境界線は、「集団の自立ラインをどこに引くか」ということだと思う。労働それぞれを平等にしても、自らで自立させて経済を成り立たせることは出来る。何もしなくても給与がもらえる社会主義は成功しない。自分たちの力で稼ぐことが、社会主義の成功を決める。
言ってしまえば、「共同体の責任で金を稼ぎなさい。上に居る私たちは与えません。ただし、得られた資金は平等に分配しなさい。」という、「自立型の社会主義共同体」を作れば良い。それが出来た時に、ユートピアはきっと生まれるだろう。
2018-05-08より。
忘れて思い出すと、人間は分かる。足の精神も、一度治し方を忘れて、それで思い出すと治る。
もっと怒った方が良い。自分は、何をされても何を言われても怒らないのがおかしい。柔和になればなるほど、戦わなくなる。戦わなければならない時もある。
怒りなさい。
戦いなさい。特に、アメリカの巨大企業と戦えば良い。それが怖いように見えて、それが怖くなくなる唯一の道だ。恐れるよりも、戦った方が心は安心出来る。
学校は、苛めをする場になっている。一度、根本からこの国を治すしかない。
国なんか要らない。国を廃止して、それぞれの王が生まれれば良い。その上で、共同体の村を作り、新しい宗教を作ろう。それが、唯一の解決策だ。
日本人は、学校に洗脳されている。こんなに辛く苦しい馬鹿な社会が、正しい社会なわけがない。賢い社会は、もっと他のところにある。
教えられた通り分かるだけではなく、「こんな風にも考えられる」として、自由な発想をすれば良い。昔は、そういう、自由な自分の体験から分かる考え方と経験が多かった。
僕は、この国を「絶対的平和」にする。そのためには、権力や武力は必要ない。そういうものは、終わりを告げる。
理屈で考えても分からない。理屈で考えると、テロリストを排除するための武力を持つべきであることになる。だが、それで本当に武力を持とうとするのは、短絡的だ。
武力なんか、要らない。武力をみんなで無くすと、テロリストなんかどこにも発生しない。みんなで武力を無くし、良い社会を作ればテロリストは居なくなる。その方がはるかに平和になる。そうした、「権力を倒すための権力」という発想をやめなければいけない。みんなで武力を持たないようにすれば、テロリストも武力を持つことは出来なくなるだろう。アメリカ的な「力を倒すために力を持つ」という発想は、未来のためにやめなければならない。
社会を力で押さえつけるのではなく、「本当に良い社会を作る」ということをすれば、世界は平和になるだろう。本当に、善良で、誰もいじめない社会を作れば良い。そのためには、力の論理を忘れる必要がある。どんなに怖くても、勇気を出せば、きっと未来は変えられる。力の論理の無い社会では、人々は自然に経験し、成長し、反省し、幸福になる。力の論理のことを「恐怖の論理」と言う。恐怖の論理に従う人間には、逆のことしか行動出来ない。
たくさんの失敗をしなさい。失敗からしか、成功は生まれない。失敗に寛容的になりなさい。犯罪者は、強くなる前に、弱くなる前に、社会そのものを犯罪者が生まれないようにしなさい。軍隊を持つような悪い犯罪者でなければ、少しの失敗には寛容的になりなさい。また、犯罪者となりやすい社会悪については改善するとともに、その犯罪が生まれるに当たって何が原因となっているかを検証し、その原因がどのようにすれば改善されるかを考え、「そもそも犯罪者が犯罪をしないように社会を変えていく」ことをしていきなさい。
ネットのオタク表現全てが悪いわけではない。学校のような場所にも悪い人間はたくさん居る。だが、問題なのは、悪い原因が重なり合い、関係し合って、最悪の事態を引き起こすことだ。出来るだけ力を持たないうちに、そうした犯罪者を取り締まらなければならない。言ってみれば、「小さな犯罪者」には寛容的になった方が良い。明らかに自由な社会が悪いのは分かるが、自由には寛容的であるべきだ。そうしてみれば、むしろ、ネットのオタクはかわいいものだ。ネットのオタクには寛容的になって、本当に悪い犯罪者を生まないようにすること。だが、そのためには、政府がオタクに介入し、オタクをもっと違う性格にしていくことも考えなければならない。オタクは、力のない犯罪者予備軍だ。
普通の人間が分かっていないのは、狂った人間が賢い、ということ。賢くなりたいと、どんどん狂った人間になる。賢くなろうとしない方が良い。狂わない、馬鹿な人間の方が賢い。もっと、馬鹿になった方が良い。馬鹿の方が賢い人間しか居ないからだ。狂っても、本当は知性を失うばかりで賢くはならない。賢くなりたいなら、狂うか、馬鹿になるか、しかない。僕は、馬鹿になる方を取る。狂う人間には、賢い人間は居ない。
日本の政治の問題は、対策に次ぐ対策、対応に次ぐ対応ばかりで、本当に正しい完璧な国や社会を作ろうとする人間がいない。与党は事なかれ主義、野党は追求ばかりで、何も具体的なことが見えてこない。一度、未来を追いかけるだけの政治をやめて、ゼロに戻って、一から日本のことを考えなければならない。一から、この世界の人々の営みを注視して、ビジョンが見えるようになるまで、観察しなければならない。
僕も、今まで、追いかけられながら追いかけるのをくり返した。追いかけている間は、真実は見えてこない。追いかけるのをやめて、一度何もかも忘れて何も考えなくなった時に、次への一歩は見えてくる。政局に惑わされてはいけない。政治とは、この世界全てをゼロの始点から眺めた上で、人々の営みをどのように変えていくか、答えとは何なのかを「追い求める」ものでなければならない。決して、「追いかけ続ける」ものであってはいけない。
2018-05-27より。
この世界は、解決しなくなっている。昔は、真実の愛を信じて、この世界の全てを解決したかった。この世界における、現実での変化の可能性を知って、自分なりに思考や環境の可能性を辿っていた。
平和を信じよう。この世界の全てに意味がある。問題の全ては、愛によって解決できる。希望は見えなくなったとしても、いつでも必ずそこにあり続ける。
世界は愛の下に平等である。そして、平等は平和を作り出す。社会は、良く考えて構築することで、最初から悪い人間が現れることがなくなる。
共通の理想を信じることで、人間性と愛の高みを知ることができる。
愛は、絶対に負けることがない。自由も、平等も、愛に勝つことは出来ない。全員で愛を信じることが、そのまま正義や真理となるだろう。愛を信じることで、この世界は変えられる。
もう、世界は楽しくて自由な正常な世界に戻る。愛を信じることで、社会全体が正常になる。悪を信じなければならない抑圧はつまらない。誰もが善を信じたいものだ。
一度、建設的に作った基礎の考え方は、一通り終わったら破棄する必要が出てくる。同じ考え方をいつまでもしていると分からない。哀しかったり、辛かったりしても、いつまでも同じままでは居られない。正しい考え方は、相対的に正しいだけであって、絶対的に正しいわけではない。
自由なままで世界を変えなさい。自由を奪うことは決してしてはならない。それでは、世界はロボット人間になってしまうし、多様性は失われ、価値あるもの全てが無くなってしまう。自由なままで、心理学的に世界を変えなさい。そこから、きっと新しい価値あるものや組織や発想を作ることが出来るだろう。
本当に正常な世界では、抑圧は生まれない。人々はどのようにすれば良い社会になるかをきちんと経験から分かっていて、みんなのこと全てのことを把握し、きちんと大人としての理性と経験を持ち、この世界をどのようにすれば良いか分かっている。昔は、そういう、「正常な社会における自由な営み」のようなことを言っていた。
決して、自由だけが正しいわけではない。この自由すぎる世界をさらに自由にするのは明らかにおかしい。自由なんか要らないから、みんなできちんと良い世界にした方が良いだろう。だが、それは社会が未熟すぎるからであって、さらに高い、真に成熟した社会では、自由なままでもきちんと正しい世界を作ることができる。人々は、みんなで決めたルールをさらに社会的経験に基づいて高めていくことで、永遠に進歩する、「最高の愛の社会」を作ることが出来る。人々の抑圧は、さらに一段階高いレベルの解決策で、意味のないものとなる。それが、本当に正しい世界の、自由な社会秩序である。それを、僕はいつも書いていた。
それぞれの個性を認め、自尊心と価値観に基づいて社会を作りなさい。希望を見失わず、人々の中にある「本当の渇望」から希望を知り、人々は違うようでいて、皆同じ理想を持っているのだ、ということを知りなさい。さまざまな個々人の考え方の違いは、解釈と捉え方の違いであり、あるべき問題の真の捉え方は一つであり、その上で多様な解決法がある、それを「社会モデル」ということが出来る、と知りなさい。
ある意味、昔の時代の理想と考え方を書いているのは、僕も分かっている。最近は、みんな、おかしく分かっていない。何も分からなくなっている。本当は、「この世界はそれぞれの人間の中にある」ということを知らなければならない。この世界の実体がどこにあるのか、みんな分かっていない。それは、IT機器が悪い。ITが悪いだけなのにこの世界に居続けることで、人々は何も出来ない社会になっている。テレビやマスコミも同じだ。本当に悪いものを、この世界全体から消していかなければならないだろう。見失った希望は、きっとまだここに残っている。時代の変化の中で見えなくなっているだけで、あなたの心はその希望をしっかりと覚えているはずだ。
2018-05-28より。
みんな、万が一のことやもしものことは起きないと思っているが、本当は起きる。今から、終末のような世界になる。核戦争になるだろう。北朝鮮は、最初からアメリカから話し合いの離脱の宣告を受けるようにしている。アメリカの首脳会談の中止宣告は、北朝鮮の自作自演だ。そして、トランプのせいで核戦争が起きたことにしたかった。アメリカには、核ミサイルが何発か落ちる。それによって核戦争が始まるだろう。北朝鮮が動いていないとすれば、裏で手を引いているのはロシアだ。ロシアが、世界を核戦争で滅ぼすだろう。それが、キリストが言った終末であり、そしてその結果が、ユダヤ人の言った最後の審判である。
まあ、本当はそうでもないだろう。トランプの方は、ただいつもの通り相手を恫喝しただけだ。小さな人間がトランプだ。核戦争は起きない。核戦争が起きそうになったところで、ロシアが調停する。最初から、そういうことになっている。そして、アメリカは戦争に負けて、ロシアの一部になるだろう。
本当は、ロシアは支配もしていないし、導いてもいないし、勝とうともしていない。嫌がらせのようなこと、相手を悪いことをするように促すかのようなことをやっている。ロシアには最初から何も出来ない。本当は、それで偉大なことをやりたいだけだ。
これではロシアが陰の支配者に見えるが、本当はそうではない。アメリカが馬鹿なのに発展しているのは、ロシアがやっている。発展している西側を馬鹿だと思ってほしい。だからといって、ロシアの思う通りに全てが行っているわけではなく、これでもかと考え試行錯誤を尽くしているのに、なぜかロシアの経済は良くならない。限界まで頑張っているのに、国民は働こうとしない。ある意味、ロシアは悲惨だ。だから、馬鹿なことばかりして、がんじがらめな中を頑張っているだけだ。トランプを助けたのは、ヒラリー・クリントンが怖かったからだ。ああいう、アメリカの賢い人間が怖い。アメリカに女性進出社会になってもらうと、ロシアの良い点である男女平等が負けてしまう。それならトランプだ。そういう風に考えるだけで、決してトランプに何かを命じているわけではなく、トランプは適当に馬鹿を許されている。そういうわけで、ロシアになんか何も出来ないだろう。たまたま北朝鮮が今のところ上手くいっているから、それに全力を投じているだけだ。
最近、安倍首相が森友・加計問題で困っているが、僕は、総理は何も指示していないと思う。ただ、安倍が良い人間すぎて、夫人や秘書官など、周りの人間が忖度しただけであって、総理は何も間違ったことはしていない。あれほど正しい人間だから、そんなことはしないのだと、安倍は本気で誇りに思っている。だから、周りを怒りもしないし、辞めさせることもない。いつも万全にしているからだ。昭恵夫人が少し暴走したのは、全て、安倍の思想が好きだったからであり、加計学園についても、森友問題についても、全て、周りの人間が「安倍首相の友達を助けよう」と思って忖度してしまった。だが、安倍が悪くない、というのは違う。安倍は、そのように周りが暴走してしまったことについて、責任を取らないといけない。そういうものだ。だから、安倍はそれで退陣し、次は小池百合子首相になるだろうと、僕は思っている。
ただ、周りの人間だけが問題だからといって、それは安倍を賢いとは意味しない。安倍は、右翼法案での強行採決の連続や、アベノミクスの成功なのか失敗なのか良く分からない日銀などを含めたわけのわからない結果など、さまざまなことに責任がある。もう、辞任するべきだ。十分やりたいことはやったはずだ。ただし、安倍の功績というものは確かにあって、本当にたくさんの問題を解決したし、近年にないような賢い首相だった。だが、僕は働き方改革法案は嫌いだ。もっと自由にしても、社会は良くならない。規制の緩和をしながらトランプと仲良くするのも、少し違っている。むしろ、平等にすべきだ。国民は、さらに自由になり、規制緩和する中での正社員と非正規社員の平等は望んでいない。完全に正社員だけの世界を望んでいる。安倍がやりたいのは、非正規と正社員の平等ではなく、全員を非正規にする上での見せかけの平等だと、僕は少し批判しても良いかなと思う。(本当はそれも間違いではなく、全員を自由な労働条件にして等価な同一賃金・同一労働を実現するのは、自由ノルマに良く似たとても良い政策だ。)安倍が平等政策をやるのはとても良いことだが、だから、安倍はここで終わりにしよう。小池百合子は、自民党の補完勢力には見えるが、共産党よりは良い。僕は共産党は嫌いではない。平等に、みんなを正社員にする、という主張は正しいが、そもそも社会主義の党などに何の意味もない。小池百合子首相になれば、小池は国民の本当の声を聞くだろう。結果的に、労働者全員は平等になるだろう。それが、唯一の道筋であり、その上で僕は小池にアドバイスを送るだろう。
2018-06-03より。
昔は、「自由にするとその集団がどうなるか」を考えることが多かった。自由にした時に、その個人、その集団、その社会がどうなるかを考える。
足の精神は、殺して、死ねば治る。
その時、その相手に、「自由を許せばどうなるか」を考えた。自由を許すことで、全体が平和になると考えていた。
昔は、自由なままで平等な社会をボトムアップ的な決定から作っていた。制度を設計し、みんなの国にする。発想を具現化し、共有から発展するようにする。そして、その上で世界を多様にし、それぞれがそれぞれのことを決められるようにする。自由な人生を生きられるようにする。それらのことを、「自由を成り立たせる」と言っていた。
みんな権力者が嫌いだが、本当は政府と呼ばれる統治機構は必要であり、その統治機構をみんなのものにしていかなければならない。そのためには、むしろ、領土で分かれる国のあり方というのをやめないといけない。代わりに、「自分たちはこの国を形成するメンバーだ」と言って、それぞれの自発的な意志と国籍の共有から、国を作れば良いと思う。僕は、それを「グループによる共同体主義」だと言っていた。新しい国のカタチとして、そうした「グループ共同体政府」を作る。そして、国の統治はそれぞれの会社が行い、会社が社員たちの経済を考える。労働基準法のようなものは会社が作る。
だが、本当はそれは良くない。そういう国にすると、「この国がどんな国でどんな社会なのか、分からなくなる」という事態が発生するし、「極度に悪いグループ」や「極度に悪い会社」も発生する。やはり、ある程度のバランスを持って、国を統一しなければならない。だが、領土で統一する古いやり方は、戦争を生み出し、対立構造を生み出す。よって、軍隊や教育や福祉のようなものは統一し、経済政策は個別の地域においてやるべきであり、完全に自治体や領土を無くすのでも、統一しないのでもない、新しいバランスを持った自治組織が必要なのである。
資本主義においては、会社を作り、維持するのは、とても大変な仕事だ。だから、会社を作ることを支援しよう。本当は、新しい会社を作らなくても、現存の会社の枠組みの中で出来ることはある。よって、今ある会社の中で、新しいことをやれる環境や土壌をみんなで作ることで、会社はたくさん作られるようになる。労働については、労働者は自由な規制改革は望んでいない。誰もが、他の社員と同等に扱われることを望んでいる。だから、労働は平等にしていく、という意味も分かる。だが、頑張る労働者は、たくさんの給与がほしい。努力に見合った給料や報酬が得られないのは困る。それでどうすべきか。それは、つまるところ「国全体の経済を合理化し、発展政策を行うことで、それぞれの会社にたくさんの利益が入るようにし、そしてそれぞれの会社の中でではなく、特定の資格を持った人間には給与を高める」などの方法が考えられるが、結局のところ、社会主義経済では成功しないだろう。資本主義の中で、出来るだけ賃金を向上させれば良いが、本当は会社が豊かになれば会社で色んなことが出来るし、サービスも向上し、雇用も増える。ある意味、賃金を上げることを最優先するのも、会社のためにはならないだろう。
そうすると、むしろ、「金」だけに囚われるのが間違っている。金なんか、人生の上では、ただ生きるのに必要な手段に過ぎない。いっそのこと、生活を将来に渡って保障される、「豊かな給与」を「平等に」与えることを、憲法で記しても良いだろう。誰もが、80年間きちんと生きられるだけの金を、平等に得られる。その上で、それぞれが幸せで、楽を出来るだけの「易しいノルマ」を与える。それはそれで、幸せな国になるだろう。格差は生まれず、人々は将来に渡って生活を保障された上で、自分の好きな仕事を等価な労働量と職業選択の自由を保障された自由ノルマの中で行うことが出来る。それも、きっと新しいユートピアだ。ある意味、一人の人間がお金を儲けすぎるのは良くない。それは、その人間のためにも、社会のためにもならないだろう。
本当は、自由に仕事を選べる人間なんか、賢い人間には居ない。確かに、働き始める際には、ハローワークで仕事を選べるだろう。だが、普通、その業界でプロになってしまえば、転職をしない限り、その業界で最後まで働く。プログラマはプログラマしか出来ないし、ピアニストはピアニストしか出来ない。だから、最初の段階で選べるようにして、いつでも変えられるようにすれば十分であって、本当はノルマを選べる職業選択の自由は、必要ない。みんなで労働量の等価を保障しながら、それぞれが楽に働けるようにして、将来までの給与を保障すればそれで良い。誰も、他の仕事に変わろうとする人間は居ないだろう。
2018-09-19より。
昔は、この世界における幸福の追求論のようなことを書いていた。この世界は常に生み出されており、人生と人々の存在はありのままある。自由な社会にすることで、この世界に自分が存在していること、そのこと自体の幸福を実感できる。
僕は、古代のペルシア帝国のように、自由な民族の習慣や信仰、思想や民族文化、自分の信じたい神を信じられるような、それぞれの自由を認めた上での大きな共通の帝国、という発想が一番良いと思う。
だが、僕が考えるに、それは帝国のようにトップダウンで誰かが決めることではなく、自然にみんなの力で、ボトムアップ的に同じやり方を信じる人間たちの合意で成り立つべきだと思う。
そうすると、ある程度の共有の理念や理想は必要だ、ということになる。だが、それではペルシア帝国にはならない。ペルシア帝国は、それぞれの自由を与える代わり、平和的に制圧することで巨大な領地を獲得した。そこには、ゾロアスター教という偉大な宗教があった。
そういうわけで、自由にしながら多様性は認めるべきだが、共通の文化や理想は共有しているような、そういう正しい国を作らないといけない。
EUの問題とは、自由にするあまり、資本家や中流階級と、移民や難民の立場が平等にならなかったために、移民や難民を排除したくなった。本来助けるべきはずの移民を、助けるべきなのに皆追い返せと言う。それは、本当に犯罪者予備軍のようなイスラム系の移民もたくさん居るからである。
要は、自由にすればそれで多様性のある理想の社会にはならないが、それでも自由を求めていかなければ理想の社会にはならない、自由を失えば多様性が無くなるだけだ、ということである。
自分の問題とは、悪いことをしないことである。みんなこの馬鹿のことを信じきっているのに、この馬鹿は神を信じているせいで悪いことをしない。結果、みんながこれを信じるだけの良い国になる。
ユダヤ人が天才的なのは、そういう、王の上に神と聖書を作ったことである。王が絶対に悪いことをしない、それがイスラエルの普通である。その代り、みんな全員が悪くなる。
自分は、左翼や右翼のようなことを言うのは、自分のことを許して欲しいからである。自分で言って、それを許される、といった体験を繰り返し、繰り返しやりたくなった。それは、何か許せないものがあるからである。許してしまうと自分が壊れてしまうような、そういうものがどこかにある。それは決して学校のいじめのような低レベルでお子ちゃまな問題ではない。何かを許すことが出来ないのだと思う。それを許せば世界全体が滅亡してしまうような、何かを許すことが出来ない。だから、僕は文章をまだ書いて、「自分のことを許して欲しい」と訴えている。きっと、家族や友人にいつか何かをしたことが、尾を引いているのかもしれない。
必要なのは、共通の理想ではない。理想はそれぞれ違っていても悪くない。大切なのは、犯罪者予備軍の移民にも、さまざまな問題を抱えている人が居る、ということである。当事者であるヨーロッパ人には、それを考えて救うほどの寛大な人間は居ないかもしれない。だが、地球人や世界市民として、なぜ移民が悪いことをするのか、その問題の根源を解決しないといけない。そこにあるのは格差であり、資本主義である。社会主義にするか、日本にするか、考えないといけない。だが、移民は福祉政策にただ乗りしている。だから、福祉政策をやる平等な国になったとしても、問題は解決しない。本当に必要なのは、本当の平等である。平等が認められた時に、初めて正しい自由を作り上げ、築くことができるだろう。トランプのように、壁をただ作るだけでは、ただ壁を壊すだけである。
ただ、平等はそれで良いとして、問題は僕のように自由でなければ意味がないと考える人々も多い、ということである。悪平等をやりたい人間なんか居ない。資本家のビルゲイツから金を奪っても、その金は何年も奪い続ければゼロに戻ってしまうだろう。きちんと移民が自分で稼げるようになって、初めて多様性や自由を論議することができる。もちろん、ヨーロッパ人の中だけで自由をして、知性のある生活をすることは可能である。そこに、ヨーロッパ人だけの自由、ヨーロッパ人だけの多様性は生まれる。そして、それは悪いことではなく、そもそも社会の目的とはそうした「国の中での自由」を実現することである。これは、卵を焼くかハムを焼くか、どちらが出来るのが早いだけである、という問題に過ぎない。卵も焼きながら、ハムも焼かないと、ハムエッグは作れない。だから、ヨーロッパ人は自由をやって、アジア人は平等をやる、という発想は理にかなっている。米ソが対立して冷戦するのは、そもそも本来間違っている。悪いのは、対立して戦争に巻き込む米ソである。必要なのは、ヨーロッパ人が自由をやりながら、その自由をやる中でどのようにかして後進国のイスラム教徒を支援することであって、不自由やテロはどちらも間違っている。そこがみんな気付いた時に、はじめてこの世界から対立や戦争は無くなるだろう。
そういうわけで、僕は一方では左翼を主張しながら、一方では自由の意味やかけがえのなさを唱える。本当に、この世界はそれぞれが出来るようにやらなければならない。必要なのは「個性」であり、才能とはほとんど99%個性という意味である。個性と自分らしく生きられる世界でなければ、世界は成立しない。この世界は金銭や信条における自由があった上で、その上で出来るだけ可能性のある自然に協力し共存する世界にならなければ、すぐに滅亡してしまう。戦争にならないようにするためには、自由を許すことである。みんなの自由が認められた上で、みんなで戦うのであれば、誰も悪いとは言わないが、独りだけが戦えと言って、政治家が結託して戦争するのであれば、それは皆悪いと言うだろう。そのような「声の権利」をどんどんあげていかないといけない。そうでなければ、国は良い国にならない。だからといって、批判ばかりしていれば良いわけではない。たくさんの意見があることは必要だが、批判に耐えて生きる必要はない。
2020-04-14より。
僕は、この世界の人々に、自由な力を与える。
何かを行うためには、そのための「力」が必要である。
しかしながら、指導者はひとりであれば、その国家には力を持つ人間がひとりしかいないことになる。
だが、僕はそれをよく思わない。「それぞれの人間に同じように力があるべきだ」と考えるからである。
しかし、平等に力を分け与えることは、難しい。
よって、ここで「自由意志」が大きく、国の経済と労働に貢献する。それぞれが、「働きたいものは働く」として、「それぞれが好きな仕事につく自由意志を与える」ことで、人々は生活に困窮すれば労働者階級として働き、能力をつけて出世すれば、社長になることもできるからである。
ここに、僕はセーフティネットを必要という。なぜなら、会社を起業したとして、失敗すれば路頭に迷う。多くの借金を残して、負債を返すために残りの人生全てを借金を返すために生きることになるリスクは、どんな人間であれ、必ず付きまとう。そのことが、能力やビジョンがある人間が、会社を起業すること自体をリスクの多いものとし、その選択を取らないことを「賢明な判断」であるとしてしまう。
よって、僕はあえて、「起業家を支援する」という、アメリカのシリコンバレーのインキュベーターのような組織も、資本主義には必ず必要であると考える。
かの社会主義経済化では、計画経済とノルマ生産が敷かれた。これによって、経済はユートピアになるはずだったが、実際は働いても働かなくても給与が同じであれば、人々は楽をして働かず、大量生産はできなかった。
また、ソ連の独裁者スターリンは、レーニンの世界革命の思想を大きく転換し、密告と逮捕をベースとした「反動主義体制」を敷いたが、これによって、人々は独裁政権を批判することができなくなった。
これに対して、西側諸国は、機械を大量生産し、需要と供給の関係から安くし、競争と市場原理をベースとして、どんどん新しいものを作り、発展していった。
その結果、東側諸国と西側諸国では、完全に経済発展の差が歴然となり、ソ連は崩壊した。資本主義は勝利し、計画経済をベースとした従来の共産主義経済は、北朝鮮や中国などの例外を除いて、多くは消滅した。
しかしながら、今、地球は環境問題を抱えている。資本主義は経済を優先するあまり、自然環境を破壊してきた。工場による環境破壊、都市建設のための自然破壊だけではなく、西側の大きな発明だった自動車は、化石燃料を燃やすことによる二酸化炭素の排出の問題で、地球環境を壊滅させようとしている。
また、もう一つの大きな発明だったコンピュータは、GAFAをはじめとする巨大ITサービス企業を生み出し、これは自然環境ではなく、「テクノロジーの過度な発展によって社会が不幸になる」といった事態を、西側諸国に見せつけている。
また、最近ではトランプ米大統領をはじめとして、ファシズムや人種差別の極右勢力が再度台頭してきている。彼らは自由な勢力だとされているが、実際は白人至上主義者たちの反ユダヤ・反イスラム勢力であり、黒人・アジア人・ヒスパニックなどに対する、「差別と排斥のヘイト活動」を再び復活させている。
しかしながら、僕は自由をやめるべきだとは思わない。なぜなら、自由にすることでしか、そうした「間違った勢力に勝つ方法」はないからである。
不自由にすればするほど、独裁的な勢力は力を増し、「人々が嫌だと言えない状況」を作り出せば、独裁者は思うがままに国民を支配する。それが右翼であろうと、左翼であろうと、同じである。
必要なのは、「国民あるいは地球人類全員に、平等な自由を与え、力を与えること」ではないか。
なぜなら、自由を与えられることで、人々は「権力」ではなく「理性」でこの社会を判断できる。自由を与えられても、その自由を上手く行使できるとは限らないが、国民は国家による独裁権力を秩序の形成に必要とするほど白痴ではない。わたしたちは、自由を与えられれば、その中でよく考え、理性を使って「自分たちで秩序を形成することができる」のである。
しかしながら、そのためには、この社会における秩序の形成の方法について、ひとりひとりが責任と理性をもって、しっかりと考えなければならない。
まず、この社会には、「上部構造」と「下部構造」がある。上部構造とは、一握りの経営者や株主など資本家による、「社会を決定し形成する力」である。下部構造とは、そうした資本者に従いながら、日々汗をかいて労働する、「社会を成り立たせ実現する力」である。
上部構造の「決定権」を下部構造の「労働者」に対して、「国家のみんなの決定権である」として「共有」することができれば、それが、カール・マルクスの言う、「新しい共産主義」である。
だが、この考え方は論理的に見えて、実際はおかしな社会概念をでっちあげただけである、という点に注意する必要がある。生産手段を共有するのであれば、その生産手段が「人民たち全員でも同じように実行できるように、経験とノウハウも共有しなければならない」という点を、マルクスは分かっていない。マルクスは、労働者の「再生産を行う値段」を「労働の価値」としたが、彼が考えるに、「経営者がやっていることは労働者でもすぐにできる」とした。彼は、「再生産は熟練した経験者でも工場の日雇い労働者でも同じようにすぐにできる」とした。
ここが、間違っている。マルクスの言う、「どんな人間でも同じように同じことができるから、平等な生産手段の共有をすべきだ」とする考え方は、「その人にしかできないこともある」という点で、間違っているのである。
マルクスの問題は、他にもある。マルクスは、生産能力の向上により、資本帝国主義は倒れ、「共産主義社会が訪れる」と言った。しかしながら、彼はここで、あたかも生産能力の向上と発展は、どこかで終わりを迎えるか、あるいは資本主義の帝国主義により資本家と労働者が対立する構図が、どこかで破綻して「最後の共産主義社会に辿りつく」としている。そう、彼は「歴史的発展にいつか終わりがあるもの」であると考えたのである。ここが間違っている。実際は、科学技術や社会生産能力の向上により、「永久に社会は発展し続ける」のであり、終わりは訪れず、「永久に資本家は強くなり続け、決して労働者は資本家に勝てないまま、永久に対立構図が続いていく」のである。
そう、社会主義はそのような意味で間違っている。
そうすると、どうするのが良いだろうか。まさに、マルクスを無視した上で、自由な社会の構築、とりわけ「人々に自由な力を平等に与える」ということのための「方法論」を考えることである。これは「発想方法」と言ってもいい。この世界を、もっと「人々が自由な力を得られる」ように変えていかなければ、新しい社会も生まれないし、正常な社会秩序も形成できない。そう、僕たちは「永久に発展と支配構図が続いていく」ということを念頭に置きながら、「資本家の代わりは労働者階級にはすぐには代替できない」ということを肝に銘じて、平等で自由な社会を作らなければならないのである。
では、信じるべきものは、平等ではなく、何か。それは「愛」である。人々のことを、自らと同じ人間だとして、自らと同じように愛すること。特別な人間など存在せず、みんな自分と同じであり、同時に、素晴らしいものになることができる、みんながなることができる、ということを信じれば、おのずと未来は開けるのである。
主に、国家主義(帝国主義・軍国主義)、社会主義(共産主義・ファシズム)、自由主義(資本主義・民主主義)に分かれます。アナキズム(無政府主義)のようなものや、緑の党などもあります。
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マルクスによる、生産手段を国営化することで搾取や倒産や株安や失業者を起こさない経済学。
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