新・日記2に戻る | 2018年5月の日記に戻る

=2018-05-08=

忘れて思い出すと、人間は分かる。足の精神も、一度治し方を忘れて、それで思い出すと治る。

もっと怒った方が良い。自分は、何をされても何を言われても怒らないのがおかしい。柔和になればなるほど、戦わなくなる。戦わなければならない時もある。

怒りなさい。

戦いなさい。特に、アメリカの巨大企業と戦えば良い。それが怖いように見えて、それが怖くなくなる唯一の道だ。恐れるよりも、戦った方が心は安心出来る。

学校は、苛めをする場になっている。一度、根本からこの国を治すしかない。

国なんか要らない。国を廃止して、それぞれの王が生まれれば良い。その上で、共同体の村を作り、新しい宗教を作ろう。それが、唯一の解決策だ。

日本人は、学校に洗脳されている。こんなに辛く苦しい馬鹿な社会が、正しい社会なわけがない。賢い社会は、もっと他のところにある。

教えられた通り分かるだけではなく、「こんな風にも考えられる」として、自由な発想をすれば良い。昔は、そういう、自由な自分の体験から分かる考え方と経験が多かった。

僕は、この国を「絶対的平和」にする。そのためには、権力や武力は必要ない。そういうものは、終わりを告げる。

理屈で考えても分からない。理屈で考えると、テロリストを排除するための武力を持つべきであることになる。だが、それで本当に武力を持とうとするのは、短絡的だ。

武力なんか、要らない。武力をみんなで無くすと、テロリストなんかどこにも発生しない。みんなで武力を無くし、良い社会を作ればテロリストは居なくなる。その方がはるかに平和になる。そうした、「権力を倒すための権力」という発想をやめなければいけない。みんなで武力を持たないようにすれば、テロリストも武力を持つことは出来なくなるだろう。アメリカ的な「力を倒すために力を持つ」という発想は、未来のためにやめなければならない。

社会を力で押さえつけるのではなく、「本当に良い社会を作る」ということをすれば、世界は平和になるだろう。本当に、善良で、誰もいじめない社会を作れば良い。そのためには、力の論理を忘れる必要がある。どんなに怖くても、勇気を出せば、きっと未来は変えられる。力の論理の無い社会では、人々は自然に経験し、成長し、反省し、幸福になる。力の論理のことを「恐怖の論理」と言う。恐怖の論理に従う人間には、逆のことしか行動出来ない。

たくさんの失敗をしなさい。失敗からしか、成功は生まれない。失敗に寛容的になりなさい。犯罪者は、強くなる前に、弱くなる前に、社会そのものを犯罪者が生まれないようにしなさい。軍隊を持つような悪い犯罪者でなければ、少しの失敗には寛容的になりなさい。また、犯罪者となりやすい社会悪については改善するとともに、その犯罪が生まれるに当たって何が原因となっているかを検証し、その原因がどのようにすれば改善されるかを考え、「そもそも犯罪者が犯罪をしないように社会を変えていく」ことをしていきなさい。

ネットのオタク表現全てが悪いわけではない。学校のような場所にも悪い人間はたくさん居る。だが、問題なのは、悪い原因が重なり合い、関係し合って、最悪の事態を引き起こすことだ。出来るだけ力を持たないうちに、そうした犯罪者を取り締まらなければならない。言ってみれば、「小さな犯罪者」には寛容的になった方が良い。明らかに自由な社会が悪いのは分かるが、自由には寛容的であるべきだ。そうしてみれば、むしろ、ネットのオタクはかわいいものだ。ネットのオタクには寛容的になって、本当に悪い犯罪者を生まないようにすること。だが、そのためには、政府がオタクに介入し、オタクをもっと違う性格にしていくことも考えなければならない。オタクは、力のない犯罪者予備軍だ。

普通の人間が分かっていないのは、狂った人間が賢い、ということ。賢くなりたいと、どんどん狂った人間になる。賢くなろうとしない方が良い。狂わない、馬鹿な人間の方が賢い。もっと、馬鹿になった方が良い。馬鹿の方が賢い人間しか居ないからだ。狂っても、本当は知性を失うばかりで賢くはならない。賢くなりたいなら、狂うか、馬鹿になるか、しかない。僕は、馬鹿になる方を取る。狂う人間には、賢い人間は居ない。

日本の政治の問題は、対策に次ぐ対策、対応に次ぐ対応ばかりで、本当に正しい完璧な国や社会を作ろうとする人間がいない。与党は事なかれ主義、野党は追求ばかりで、何も具体的なことが見えてこない。一度、未来を追いかけるだけの政治をやめて、ゼロに戻って、一から日本のことを考えなければならない。一から、この世界の人々の営みを注視して、ビジョンが見えるようになるまで、観察しなければならない。

僕も、今まで、追いかけられながら追いかけるのをくり返した。追いかけている間は、真実は見えてこない。追いかけるのをやめて、一度何もかも忘れて何も考えなくなった時に、次への一歩は見えてくる。政局に惑わされてはいけない。政治とは、この世界全てをゼロの始点から眺めた上で、人々の営みをどのように変えていくか、答えとは何なのかを「追い求める」ものでなければならない。決して、「追いかけ続ける」ものであってはいけない。