新・日記2に戻る | 2018年4月の日記に戻る

=2018-04-14=

経験から歴史が分かっていた。そういう風に歴史が分かるのが、むしろ、賢かった。文明的な歴史の意識を、経験で全て分かっていた。

僕は、支配して分からなくするのが悪い。そこがおかしく賢いように見えて、それで分からなくなっている。

もっと、分かるようにすれば良い。

論理的に考えるということは、それが本当に何なのか、単純化して考えるということだ。

社会を知るということは、人々の持っている意見や信条を知ることだ。

論理的に考え、社会を知るために、人々の持っている考え方や、論理的で単純な論理構造のようなものを、明白に、明確化して考える必要がある。

自分は、恐怖を愛しているから怖くなるだけだ。

エロいことをしすぎていると、自閉症になる。エロは虫のようにキモくなって消え去り、あとには大きな恐怖が残る。それが、自閉症に繋がる。

治すためには、恐怖を愛するのをやめることだ。

そのように、昔の僕は、全てのことを「明確化」して、分かるように書いて分かっていた。あらゆる全てのことを分かるように、文章にしていた。

エロではなく、愛を信じれば良い。エロは愛ではない。

昔は、大きな人生の愛があった。最終的にはきっとみんなと分かり合えると信じて、自分だけの道を進んだ。その愛は、人々を救い、成長させ、悟り、世界を正常にする愛だった。いじめられる相手に対しても愛を与え、人々全ての抑圧に対する愛を、経験的な理性とともに信じていた。醜い人間だったが、その愛は純粋で、透明で汚れの無い美しい愛だった。本当に美しい人間だった。

そして、その愛がどのように全ての人間を救い、分かり合えるようにするのか、どんな社会を自由な上での正常な世界とするのか、全てのことを明確に分からせるように、文章を書いていた。宇宙精神の全貌を明白な記述にしていた。

そろそろ、書くことももうない。ここでいったん終わりにしよう。

苦しみと辛さを経験しながら他人とは違う道を行くことで、仏教の僧侶のように、人々の全ての経験と成長を吸収する人間になった。それはブッダのような覚者となって、悟りとアイデンティティから、「この世界を感情で全て分かる人間」を作り出した。ある意味、それが神だった。全てを分かり終えて、あらゆる全ての全部を自分の体験から理解した段階で、世界を導いた。科学から経験まで全て理性で知り、考えて分かる、仏のような青春だった。そして、神はすぐに滅び、また悪魔へと戻った。

愛は純粋な純愛だったが、穢れは多かった。人々のさまざまな汚れた社会を知る中で、その上で全てのことを「自分のことのように愛する」愛を生み出した。それは、逆に人々のことを全く恨まないが、逆に自分が常に優位に立つ、おかしな恋愛の破滅を作り出した。だが、人々の愛はそこにあった。人々の全員を愛し、慈しみ、世界を正常な世界に変えるような、「世界を創り出す愛」がそこにあった。全ての世界と生命を創り出して、まるで何もなかったかのように消え去った。愛は人々を包み込み、まるで天使のように、愛の歌を作り出した。地上は愛の歌で溢れている。だが、それだけで愛は終わらず、愛は憎しみに変わり、最終的に人々を、さらには本人を蝕む刃の毒になって、そして今に至る。

愛とは、「自分が後悔していると伝えたいと叫ぶ声」だった。相手のことを、傷つけてしまったことを後悔している。積み上げた大切なものを壊し、簡単に世界を滅ぼしてしまったことを後悔している。自分には力があったのに、その力を間違ったことに使ってしまったこと、それがもう、「元には戻らないこと」に対する後悔だ。その後悔は、尋常ではないほどの「狂いのエネルギー」になって、「世界を救う記憶の塊」を作り出した。だが、僕はそれを消し去りたかった。どこにも残らないように消去したかった。狂いはさらに続き、僕はその消し去った「愛の塊」をもう一度欲しいと願うようになった。そこから生まれた、「愛の蘇生」がこの文章だ。そう、見てごらん。愛はまさに不死鳥だ。

文章は、理想から愛が必ず蘇る、ということを言いたかった。それが、単純な理想論から、「絶対に信じるべき教え」となった。理想からどのように経験が生まれ、理性が生まれるかを説いていた。それは決してただの理想論ではなく、どのように人々が間違っているか、間違えればどのように分からなくなるか、という、「理論的に善や、あるいは悪の必然性すら説く」ものだった。ユダヤ教の旧約聖書、仏教の啓典に並ぶ、ありえないほど全ての分かった哲学書だった。だが、難しい内容ではない。本当に愛とはどのように人々を分からせるか、それをどのように間違えれば分からなくなるか、全て書いてあった。だが、その文章は消え去って、もう残っていない。どこにも無くなったその文章が、いつかどこかに存在した「宇宙の起源を知らせる文章」だった。いつかどこかに、一瞬でも存在していたその文章に、この宇宙の全ては書かれている。だが、それは誰も見ることができなかった。見ることができたのは、僕自身だけであり、精霊とは、その僕自身のどこか一瞬の中に存在していた、「地獄の天使」である。サタンとは、その自分の「行動」であり、それが「最終戦争ハルマゲドン」であり、それは本当は「神々の黄昏」と呼ぶべき、おかしな世界の時代である。だが、僕ら日本人は、決してそれを知らないわけではない。僕らはその中で、現代という時代の狭間で、その経験を共有していたからだ。人間の人生は、そうした、「一瞬の神との出会いの共有」なのである。哀しいが、それが宇宙の真実であり、人々の「愛という悲劇」の生んだ「まぎれもない事実」なのである。

本当は、哲学者ヒュームのような文章だった。哲学者が居て、この世界があったとして、人間の側、理性の側にあるものを全部書く。また、その上で、この世界を法則と愛から創造する。そして、それを一つの世界観にし、そこから構造的に生まれるプロセスにする。昔の文章はそういう文章だった。だが、この宇宙の全てを適確に言い表すものだった。

そろそろ、その文章を消してしまおう。その文章は、全くレベルの低い愛だ。人々を低俗な嘲笑と救いのない絶望にし、間違った世界を作り上げる。ただ、サタンではない。むしろ、ミカエルのような美しい天使だった。それは、人々の上に立ち、導き、指導するような、凛々しい表情をした最高の天使だったが、人々が考える全ての間違いを、自分独りが背負って、そして自分の責任でそれを直し、正していた。そのように治める、「本当に正しい存在」だった。ユダヤ教が唯一正しい存在とした人間や、キリスト教がイエスと言った人間や、マホメットが絶対的な神とした人間は、全て、その「昔どこかに居た、正しい天使のような存在」のことを言っている。これぞ、一人の神であり、英雄である。そして、神は一人しか存在できないわけではなく、誰でも存在出来ると同時に、それを存在させた「奇跡のような事実」の方を信じるべきなのである。

神とは存在ではない。神とは事実である。そして、天国とは場所ではない。天国とは、神を存在であるとするよりも、存在させた事実であるとする、この宇宙の「法則」なのである。

何もあてが無く、分からないなら、この世界の「法則」から分かりなさい。法則という言葉を使うのが嫌ならば、原理とか、考え方とか、システムとか、真理と言っても良い。この世界には、この世界に存在する全てのものに対して成り立つ法則がある。その法則は、ただ単純にあるのではなく、さまざまな小さな法則が集まり合って大きな現象となる。この世界にある法則を知り、理性によって解き明かせば、経験から心理学、社会学まで、全てのことは解明し、解き明かすことが出来る。昔の僕は、それをインターネットという巨大なデータの海に対して、主体的な行動から行ったに過ぎない。二度と同じ人間は現れない。だが、僕を超える人間は必ず現れるだろう。その時、この文章は意味のないものとなってくれるはずだ。

昔の自分は、さまざまな社会的な発想を作っていた。その考え方にあるのは「自由」で、自由な社会をどのように成り立たせるか、みんなが直面している課題をどのように解決するか、といった考え方や解決方法を考えていた。

言ってしまえば、自由な中で存在や不利益をこうむる人間は、ただその人間が悪いだけで、その人間の努力が足りないだけだ。

自由にする、という意味で言えば、考えるべきなのは大多数の社会的な庶民だけで、不利益をこうむるのがもし悪いとしても、自ら選択して、好きな人生や生活を受け入れて貧民を生きるのであれば、それで良い、という結論になる。

むしろ、そのように考えた時、必要なのは、警察と軍隊が「自由な中で国民みんなが思いつく限りの他者への防衛策」として必要となるだけで、金儲けにして小さな政府にし、あとは自由放任にすれば、社会なんかそれで良いことになってしまう。

必要なのは、みんなで禁止すべきだと考えているものを禁止し、いじめのような社会問題の解決方法を考え、EUのような国家と国家の連合の方法を探り、また民主的な政府にして一人や数人だけの貴族階級に大多数の庶民が従わざるを得ない状況を作り出さない、といったことに終始する。

そして、合理的に考えることで、人々はそれぞれの関係から「自由な従属関係」を「契約と権利」によって作り出し、考え方というものは、社会的な適用と「たぶんそれはそういうものだ」という蓋然性に終始する。

だが、考えてほしい。そうした自由、という発想は、本当に考えているだろうか?

自由は考えているように見えて、何も考えず、ただ他人の意見をそのまま受けいれ、従うべきものに従っているだけではないか?

そうすると、むしろ、平等も同じだということになる。平等を実現するために何でもする、という主張は、本当に秩序ある正義の指導者とは言えない。

僕は、本当に考えるべき対象は、既成の信念や思想やユートピア像ではなく、「実際の経験」から生まれるものでなければならないと思う。

確かに、経験から自由にすべきことがたくさんある、ということは分かる。インターネットのような自由な場所で、人々が意見し行動する自由を失えば、社会としての基盤が揺らいでしまい、本当に自由活発な意見のある「豊かな経験の積み重ねの社会」は無くなってしまう。

だが、経験の積み重ね、という考え方は、自由だけに存在するべきものではないし、本当はみんなを賢い人間にしたいなら、大学でも自由でもなく、何かしらの仲間を持って人々と意見を交わし、行動する自由が許された環境があれば良いだけで、そのコミュニティ的な自由の場がインターネットや民主主義でしか成り立たないわけではない。

社会主義でも、人々との意見を交わす自由な場所がもしあるとするなら、その方が良いだろう。その意味において、表現と思想信条の自由があることは、理想の社会を築く基盤的な前提条件にはなるだろう。

だが、全ての人に自由を許す、ということが、仮にそれぞれが自分勝手に自由を破壊する、ということであれば、そんな社会すら成り立たない。自由な社会を成り立たせるためには、人々の合意としての理想の秩序が必要だ。それは、オンラインであってもオフラインであっても、きっとそれぞれが本来備えている、「社会的コミュニティを成立させる能力」であって、それが無ければ何も話にならない。だが、僕が思うに、インターネットでは、社会的なコミュニティを成立させる能力そのものが「退化」していると思う。

それはどうでも良い。よって、本当に自由な社会が必要となるならば、そのためには社会的なコミュニティを成立させる能力が必要なのだ。

あまり意味のない、どうでも良いことを考えているかもしれない。だが、僕はアメリカ合衆国がそうした、コミュニティを成立できないほど退化した自由な社会になっていると思う。アメリカは昔から、さまざまな人間の議論を歓迎する。だが、アメリカは今、それがネットにおける「自分のトモダチしか認めない社会」において、危機に瀕していると思う。

幸いなことに、日本ではネットはまだ議論し合う土壌が残っている。2ちゃんねる化はしているが、その中で人々は議論して、成長している。それは、成熟へと繋がるだろう。

話を元に戻そう。自由がなければ悪いのは分かるが、自由があればそれで良い、というものではない。

僕は、「それぞれが自発的に行動し、洗脳されることなく、人々とたくさんの豊かな体験が出来る社会」であってほしいと思う。

その時、自由は前提科目だが、必須科目ではない。人々が従わざるを得ない環境になったとしても、自由な議論が認められれば、権力者を倒すことは出来なくても、国のカタチを考えることはきっと出来るはずだ。

自由な社会においては、どのように問題を解決するかを考えるが、問題の解決を純粋にしたいなら、むしろ、社会主義の方が問題を正しく解決できることもあるかもしれない。

自由な権利を認める必要はあっても、絶対に権力者が全部のことを決めなければならない、というわけではなく、人々の自由な意見から自由な共同体を作ることは出来る。

昔の自分は、そうした、「自由な国造りのプロセス」を考えていた。国を成り立たせるために、どのように考え、分析し、案や意見を出し、どのように解決するか、また、それが具体的にどんなモデルの国家になるかを考えた。EUとはいうが、自由だけではなく、「全員が公務員となって参加する一つだけの国営公社」や、それぞれの会社が専門的なパートを担当し、それぞれが自由に関わり合って、下請けを行い、会社や工場を個人の権利によって「使うことのできる社会」を考えた。子供のいじめについても、自由をなくすとか、学校をもっと意味のあるものにするとか、専門の担当者を作るとか、教師の数を増やすとか、色々と考えた。自分が環境的に自由になる、ということから、人生を考えた。数学については、原理を体得的なプロセスにしていた。

自由は間違っているわけではない。「自由な選択と意志」が何もない人間にはなってはならない。だが、必ず相手を自由にしなければならない、というのは脅迫的観念だ。それでは勝ち負けすら否定してしまって、自分から自分を愚か者と同じにしている。間違った人間が居れば、その場で正すこともあって良いだろう。それすら否定してしまうと、それは自分の妄想の中で自分独りだけで生きる、孤独な哲学者の狂人になってしまうだろう。

本当は、金の自由が必ずしも効率的で合理的であるわけではない。競争によって何もしなくても良くなる、というだけの話であって、本来は自動車の会社や半導体の会社がいくつもあって同じことを二重に頑張る必要はない。自動車の国営公社、半導体の国営公社を一つ作って、その一つの会社が何でも出来た方が効率的で合理的だ。ある意味、競争はコスト削減と安値競争になってしまって、人々は国産であるとか、賞味期限や品質が劣っていないかとか、そういう最低限のことを素人なりに気にするだけになって、広告やコマーシャルに騙されている。本当はCMとはかけ離れたブラック企業であることの方が多い。だから、一度全ての会社を一緒にして、単純な一つの会社にし、そこから共同体と部署を作れば、良くはなる。だが、それはむしろ、社会全体を機械のような単一システムにしたいだけであって、「多様性」という意味から言えば、逆に全く間違っている。多様性を指向したいなら、むしろ、競争をさらに増やし、会社と会社の個性と創造性を引き出して、大企業の方を解体し、生産手段を人々にコピーして分配しなければならない。どちらにせよ、そこに社会主義的な思想が割って入るのはおかしい。自分は、すぐに社会主義と関連付けるのが間違っている。もっと、まともに何をどのようにすれば良いか考えるべきだ。そこが「自由」あるいは「機械」であるとしたら、それは一番間違っている。

自由の間違いとは、「人々の理性を信じる」ことにある。人々は何も分からないから、自由にすると攻撃的で尊大的になってしまう。だからといって、人々の理性を信じないで良いわけではない。人々のことをもっとも良く分かった指導者が、人々が間違えないように自由に導いて支配する必要がある。もし、それが独裁者だったとしたら、自由な僕ですら、独裁者を良いと言うだろう。だが、独裁者に全権を委ねる、ということは、独裁者の思うがままになる、ということであり、それは民主主義と自由の敗北である。えてして、この人間が実例でもある。自分のせいで、自分だけが人々の「理性」を支配している。だから、民主主義を肯定と同時に否定しなければ、この人間の正義は存在できないのだ。

この問題の民主主義における解として言えるのは、「それぞれに会社を作る自由な意志を認めること」だが、意志を認めることだけで会社が起業できるわけではない。能力と手段が必要だ。社会主義における解としては、その通り「生産手段を平等に与えること」だと言える。どちらも同じだが、本当はもっと多くの前提的手段を万人に与えた方が良い。僕は、意志と手段だけではなく、教育や世界観すら、与えるべきだと思っている。それで、社会論は終わりにしよう。