新・日記2に戻る | 2020年4月の日記に戻る

=2020-04-14=

宣言には、良い宣言と悪い宣言がある。

悪い宣言の例:

「全ての地獄を乗り越えて、神に救ってもらう」→地獄になる意志があるため、地獄になる。

「生命の根源をあますところなく完璧に体験する」→あらゆる苦しみと戦いを体験し、永遠に変わらなくなる。

「全ての困難を乗り越え、偉大な王となる」→困難な戦いに勝つ意志があるため、戦争になる。

「世界を平和にする」→世界を平和にするために戦い、支配するようになる。

良い宣言の例:

「世界に負けないように、最後まで失敗せずに立ち向かい続ける」→失敗せず、世界に負けない人間になって、辛いことが何も起きなくなる。

「絶対に地獄から救われる」→地獄から救われる。

「苦しみや恐れに負けず、不安と迷いを断ち切る」→苦しみや恐れがなくなる。

「精神を楽にし、自由になる」→精神が楽になって自由になる。

「平和で穏やかな精神になる」→精神が楽になって、平和で穏やかになる。

「世界の人々に愛される、善良な人間になる」→良い人間になる。

宣言は、そのように、「辛さを受け入れる」のではなく、「辛さをはねのける」ように宣言しなければならない。

精神についていえば、もう、精神は楽になった。精神を楽にする秘訣は、正直になることである。「自分以外の人々が居るのが悪い」のであればそれでいい。

目は、寄生虫を殺せば治る。もう、精神の全ては治った。

僕は、この世界の人々を冷たくあしらうのをやめる。冷徹で残酷な大天使の言葉は終わり、人々は神によって本当の意味で愛され、自由になる。

僕は、この世界において、「真の意味での自由な成長」を与える。それは、自由な経験からアイデンティティを自覚し、自由なリアルでの関わり合いと生起によって、「アイデンティティを現実との関わり合いの中で見出すことのできる世界」である。

僕は、もう、パソコンの勉強はしない。僕は、もっと言葉や言語のことを学びたい。そのためには、本を読む必要がある。

僕は、フランス語やフランス文学やフランス史に興味がある。それは、フランス語が「ヨーロッパ諸語の中でもっとも賢く難しい言語」だからであり、フランス史が「世界にとってもっとも大きな影響を与えた法律を裁定した国」だからである。

しかしながら、僕はドイツも好きである。今日は、デザインの仕事の暇を見てゲーテのファウストを読んでいた。序文は少し古い日本語だが、読み進めていくにしたがって、日本人でも理解できるような、それでいて高尚で格調高い言葉が続いていく。

僕には、作家の才能があると思う。できることなら、ゲーテのような偉大な詩人になりたい。

僕は、この世界の人々に、自由な力を与える。

何かを行うためには、そのための「力」が必要である。

しかしながら、指導者はひとりであれば、その国家には力を持つ人間がひとりしかいないことになる。

だが、僕はそれをよく思わない。「それぞれの人間に同じように力があるべきだ」と考えるからである。

しかし、平等に力を分け与えることは、難しい。

よって、ここで「自由意志」が大きく、国の経済と労働に貢献する。それぞれが、「働きたいものは働く」として、「それぞれが好きな仕事につく自由意志を与える」ことで、人々は生活に困窮すれば労働者階級として働き、能力をつけて出世すれば、社長になることもできるからである。

ここに、僕はセーフティネットを必要という。なぜなら、会社を起業したとして、失敗すれば路頭に迷う。多くの借金を残して、負債を返すために残りの人生全てを借金を返すために生きることになるリスクは、どんな人間であれ、必ず付きまとう。そのことが、能力やビジョンがある人間が、会社を起業すること自体をリスクの多いものとし、その選択を取らないことを「賢明な判断」であるとしてしまう。

よって、僕はあえて、「起業家を支援する」という、アメリカのシリコンバレーのインキュベーターのような組織も、資本主義には必ず必要であると考える。

かの社会主義経済化では、計画経済とノルマ生産が敷かれた。これによって、経済はユートピアになるはずだったが、実際は働いても働かなくても給与が同じであれば、人々は楽をして働かず、大量生産はできなかった。

また、ソ連の独裁者スターリンは、レーニンの世界革命の思想を大きく転換し、密告と逮捕をベースとした「反動主義体制」を敷いたが、これによって、人々は独裁政権を批判することができなくなった。

これに対して、西側諸国は、機械を大量生産し、需要と供給の関係から安くし、競争と市場原理をベースとして、どんどん新しいものを作り、発展していった。

その結果、東側諸国と西側諸国では、完全に経済発展の差が歴然となり、ソ連は崩壊した。資本主義は勝利し、計画経済をベースとした従来の共産主義経済は、北朝鮮や中国などの例外を除いて、多くは消滅した。

しかしながら、今、地球は環境問題を抱えている。資本主義は経済を優先するあまり、自然環境を破壊してきた。工場による環境破壊、都市建設のための自然破壊だけではなく、西側の大きな発明だった自動車は、化石燃料を燃やすことによる二酸化炭素の排出の問題で、地球環境を壊滅させようとしている。

また、もう一つの大きな発明だったコンピュータは、GAFAをはじめとする巨大ITサービス企業を生み出し、これは自然環境ではなく、「テクノロジーの過度な発展によって社会が不幸になる」といった事態を、西側諸国に見せつけている。

また、最近ではトランプ米大統領をはじめとして、ファシズムや人種差別の極右勢力が再度台頭してきている。彼らは自由な勢力だとされているが、実際は白人至上主義者たちの反ユダヤ・反イスラム勢力であり、黒人・アジア人・ヒスパニックなどに対する、「差別と排斥のヘイト活動」を再び復活させている。

しかしながら、僕は自由をやめるべきだとは思わない。なぜなら、自由にすることでしか、そうした「間違った勢力に勝つ方法」はないからである。

不自由にすればするほど、独裁的な勢力は力を増し、「人々が嫌だと言えない状況」を作り出せば、独裁者は思うがままに国民を支配する。それが右翼であろうと、左翼であろうと、同じである。

必要なのは、「国民あるいは地球人類全員に、平等な自由を与え、力を与えること」ではないか。

なぜなら、自由を与えられることで、人々は「権力」ではなく「理性」でこの社会を判断できる。自由を与えられても、その自由を上手く行使できるとは限らないが、国民は国家による独裁権力を秩序の形成に必要とするほど白痴ではない。わたしたちは、自由を与えられれば、その中でよく考え、理性を使って「自分たちで秩序を形成することができる」のである。

しかしながら、そのためには、この社会における秩序の形成の方法について、ひとりひとりが責任と理性をもって、しっかりと考えなければならない。

まず、この社会には、「上部構造」と「下部構造」がある。上部構造とは、一握りの経営者や株主など資本家による、「社会を決定し形成する力」である。下部構造とは、そうした資本者に従いながら、日々汗をかいて労働する、「社会を成り立たせ実現する力」である。

上部構造の「決定権」を下部構造の「労働者」に対して、「国家のみんなの決定権である」として「共有」することができれば、それが、カール・マルクスの言う、「新しい共産主義」である。

だが、この考え方は論理的に見えて、実際はおかしな社会概念をでっちあげただけである、という点に注意する必要がある。生産手段を共有するのであれば、その生産手段が「人民たち全員でも同じように実行できるように、経験とノウハウも共有しなければならない」という点を、マルクスは分かっていない。マルクスは、労働者の「再生産を行う値段」を「労働の価値」としたが、彼が考えるに、「経営者がやっていることは労働者でもすぐにできる」とした。彼は、「再生産は熟練した経験者でも工場の日雇い労働者でも同じようにすぐにできる」とした。

ここが、間違っている。マルクスの言う、「どんな人間でも同じように同じことができるから、平等な生産手段の共有をすべきだ」とする考え方は、「その人にしかできないこともある」という点で、間違っているのである。

マルクスの問題は、他にもある。マルクスは、生産能力の向上により、資本帝国主義は倒れ、「共産主義社会が訪れる」と言った。しかしながら、彼はここで、あたかも生産能力の向上と発展は、どこかで終わりを迎えるか、あるいは資本主義の帝国主義により資本家と労働者が対立する構図が、どこかで破綻して「最後の共産主義社会に辿りつく」としている。そう、彼は「歴史的発展にいつか終わりがあるもの」であると考えたのである。ここが間違っている。実際は、科学技術や社会生産能力の向上により、「永久に社会は発展し続ける」のであり、終わりは訪れず、「永久に資本家は強くなり続け、決して労働者は資本家に勝てないまま、永久に対立構図が続いていく」のである。

そう、社会主義はそのような意味で間違っている。

そうすると、どうするのが良いだろうか。まさに、マルクスを無視した上で、自由な社会の構築、とりわけ「人々に自由な力を平等に与える」ということのための「方法論」を考えることである。これは「発想方法」と言ってもいい。この世界を、もっと「人々が自由な力を得られる」ように変えていかなければ、新しい社会も生まれないし、正常な社会秩序も形成できない。そう、僕たちは「永久に発展と支配構図が続いていく」ということを念頭に置きながら、「資本家の代わりは労働者階級にはすぐには代替できない」ということを肝に銘じて、平等で自由な社会を作らなければならないのである。

では、信じるべきものは、平等ではなく、何か。それは「愛」である。人々のことを、自らと同じ人間だとして、自らと同じように愛すること。特別な人間など存在せず、みんな自分と同じであり、同時に、素晴らしいものになることができる、みんながなることができる、ということを信じれば、おのずと未来は開けるのである。

僕は最後に、この世界を「ただの普通の世界」にする。

愛し合えば、理解し合うことができる。経験し、成長すれば、以前は見えていなかったものも見えてくる。当たり前を疑って、必要ないものを手放して、初めて見えてくる確かなものがある。

僕たちはこの世界で愛を叫び、人々は融和してひとつになる。僕たちはこの世界を変える。本当に、最高の世界を僕たちは作り出すだろう。