自動で処理を行うのと、ロボットにやってもらうのは、同じだ。
そのうち、そういう世界になる。ほとんどのことはコンピュータが考えて、必要なところだけ、アームロボットや自動運転車がするようになる。
昔は、発想法を考えていた。その発想がどのように生まれるかを考えて、「他人に発想出来ることは自分にも出来る」と信じて、吸収して自由に分かっていた。
作業所に行ってきた。
今日は通信の担当を決めるミーティングがあったが、僕はたくさんのことを担当することになった。
編集長、メイン部分、タイトル、そして写真の撮影や補正を担当する。並行して11月のカレンダーも作っている。
だから、馬の仕事は出来ないだろう。
出来れば、この日記の更新もしばらく休みたい。
だから、本当にありがとうと言う感謝の気持ちを込めて、これでさようならだ。
あとは、宇宙人のような理想の世界を書いていることが多かった。
Linuxは、更新日時とは別に移動日時や名前変更日時のようなものを作っても良いだろう。
本当にもうお別れだ。これ以上は書かない。
あとは、自分らしく生きられるようにするとか、全ては自分のためになるとか、命の概念とか、世界は正しい発想をすれば自由に変えられるとか、そういう、魂や人生の考え方のようなことを考えていた。
全員の考え方全部のようなことを書いていた。
前言を撤回する。僕はまだ文章を書く。
もう少し、書かせてほしい。
僕は、専門的な知識と技術、そしてセンスが欲しい。
僕は、医学、経済学、工学の勉強をしたい。
それらが僕に足りないものだと思う。
自分は、テレビなんか起きていないのが分かっていない。テレビが僕に従ったとか、テレビが僕に意見するとか、そういう事実は無い。
関係ないと思えば良い。仮にそうだったとしても、テレビは関係ない。
テレビでなく、みんなと思えば、「自分のせいだ」としている意味も分かるが、それは悪いことではない。
テレビは、何も変わっていない。テレビが辛くなっているのは、自分のせいではない。
テレビが何かしたと思うなら、それは気のせいだ。
自分は、色んな考え方のことを知りたいのだと思う。昔は、さまざまな色んな考え方で分かっていることが多かった。
自分が思うに、それが既に、作家としての考え方に囚われていると思う。
作家だから、そういう全部を知ろうとか、考え方に触れたいとか、そういうことを想うのであって、普通は、ただ考えずに、ひたすら出来るまでやるだけだ。
だから、作家をやめてさまざまなことを知ろうとしても、結局は作家の活動に戻ってしまう。
Linuxやドイツのようなことをもっと知りたいのは分かるが、それが既に作家としての自分の考え方に囚われている。
そもそも、あんなLinuxの経験を良いと思う人間は居ない。
人間が、過去の自分の実績や経験や知識に囚われている、過去の自分の実績が足かせになっている、と言うことは、僕はあると思う。
だから、教師のような人間は、その輝かしい経験があることによっておかしくなってしまうのだ。
それこそ、誰もが同じことが分かるように見えて、それは無い。そういう人間は、過去の自分と同じ若者を否定したいだけで、分かることは誰でもそれぞれ違う。
だから、Linuxとか、ドイツとか、作文とか、あるいは宗教や哲学のようなことを、医学のように知りたいと思っても、それは作家の範囲でしかものを見ていないのだ。
過去の経験を忘れても、良いことはそんなにない。逆に、今までの自分の知ったことを思い出せば、それによってさまざまなことは出来るようになる。
そんなに自分を否定してもしょうがない。新しいことを生物学のように知りたいと思っても、それはどこにも存在しないのだ。
思い出すと、ドイツ人になりたいように見える。このような宗教的かつ実践的な体験をしたせいでおかしくなった。そういうものを無の中に追い求めて、創り出すようになった。
だが、それはおかしい。ドイツはありえない。むしろ、学者になんてならない方が良い。
僕は、本当は楽しい仕事がしたいだけなのに、何もかもそのきっかけを否定している。デザイナーになりたくないのなら、何になれば良いのか、分からなくなった。
むしろ、結構本当は冷静で、冷徹なまでに無表情でこの文章を書いている。だが、心は純粋で、自分の確かに分かっていることを、かたくなに守りながら信じている。それは、鋼鉄の万全の防備をしているように見えて、すぐに壊れるガラスのような、「宝物のような魔獣」をその中に飼っている。昔は人に懐いていたが、大きくなって凶暴になった。
僕は何をしたいのか、良く分からない。
あなたが僕だったら、何をするだろうか?きっと、僕と同じように、自分からは何もしないはずだ。それなら、従う人間を変えてやれば良い。悪魔の神なんかに従うから、悪魔になってしまう。
昔は、普通とモデルを比較して、照らし合わせて人間の感情を分かっていた。
そんなに、過去や現状の自分を否定しなくて良い。過去の自分は、あれはあれで何もおかしくない、最高の人間だったし、今の自分は、逆に賢い人間になっている。それらを否定する必要はない。今こうなっていることに満足がいかなかったり、文句が言えなくなっているのは、むしろ、もっと別のところに問題がある。過去の自分が悪いわけではない。今の自分が何かの問題を抱えているからこういう風になる。繰り返すが、過去の自分は問題ではない。
本当は、善や理想を忘れすぎている。もっと、善良な理想的な人間を目指せば良い。それが、今の僕の忘れていることだ。そして、今の自分が心から願っていることだ。
一つの考え方に縛られないようにしなければならない。
僕は、安保法制や北朝鮮の問題として、自国を守ることはみな声高らかに言うが、本当は「世界から戦争をなくすこと」を言わなければならないと思う。
僕は、言ってしまえば、北朝鮮とアメリカの戦争に加担しても、朝鮮半島と日本が戦争になっても、僕はそれはそれで、「良いとは思わない」が、もしそうなったなら仕方ないと思う。
だが、そこでの戦争の目的は、「世界から戦争をなくすこと」であってほしい。
だから、北朝鮮に勝った時は、日本の場合と同じように、「北朝鮮から永久に軍隊を無くす」ような憲法を作って、その上で民主化を果たしてほしい。
あとは、民主主義が中国のことを独裁と言って悪いと言う。だが、中国の批判の封じ込めは、何も悪いことをしていない。そもそも批判する、と言う行為をする意味がない。
中国政府は、仮想敵を倒しているだけであって、そもそも批判ばかりする日本やアメリカのマスコミの方が、自国を愛していない。
だが、僕は中国や北朝鮮に加担するわけではない。中国や北朝鮮は、僕は民主主義と社会主義を融和し、もっとより良い体制にならなければならないと思っている。