新・日記2に戻る | 2017年10月の日記に戻る

=2017-10-17=

昔は、自由な開拓の人生を書いていた。思考や分析から、この世界の未知のことを全て分かっているかのような文章だった。

可能性を作りながら、広大で巨大な世界観を創った。

また、自分の出来る自由が好きだった。工場や会社のようなことと同じことを、自分の家、個人、あるいはオープンソースのような繋がりでやる。

世界を統一的に、自分の出来る自由として、既存の何の概念にもとらわれないような、そういう社会を成立させて作っていた。

今日は、いつも行っている歯医者ではない、大きな病院の歯医者で、親知らずを二本、抜歯してもらった。

歯を抜くと、今までの分かる脳が死ぬ代わり、馬鹿が治る。

人間の人生は、こういう風になる。良く考えられた、良い動物が人間の一生だ。

あとは、社会的な考え方や自分の実体験から、この世界と人生のことを分かっていた。

昔は、みんなの自由と人生を守りながら、社会的な自由と人生を成り立たせて、自由な国を作っていた。

地方分権や手段を与えることを良いと思っていた。

搾取を資本主義だと思う人間は多い。だが、搾取は、頑張っている労働者の稼いだ利益を、何もしない資本家が奪っている。これは、社会主義で、頑張っている人間が稼いだ利益を頑張っていない人間が「平等」だと言って奪うのと似ている。だから、搾取を批判する左翼は嫌われる。本質的に、左翼と搾取は同じだ。

解決するためには、「他人の稼ぐこと、奴隷にすることで、何もしない人間が儲けるのを否定する」ことしかない。

日本のマスコミなどは、国を批判するが、批判するだけの自由では良くならない。同時に、政治家はその批判を批判して、驕りや欺瞞に満ちた政治をする。

間違っているのは、資本主義と社会主義が対立するのが間違っている。もっと、きちんと稼ぐために生産手段を与えながら、格差と悪平等の無い社会を作らなければならない。

あとは、何も分かっていない代わり、賢く国や言語のことを分かっていた。共産主義を人民支配として、ドイツを改善主義としていた。

ソ連型社会主義の問題とは、おそらく、工場による大量生産が出来なかったことだ。

マルクスは、そもそも、生産能力の向上によって、資本主義は供給過多で滅び、共産主義社会がやってくると言っていた。

それは、生産能力の向上、すなわち、必要なものだけを大量生産出来る優れた工場と人員があって、初めて可能になる。

労働者と生産者の分母が増えれば、一人当たりの労働は少なくて済む。

それによってユートピアになる。

それがマルクス経済学だったが、本当は理想と机上の空論だけでは、実際の労働環境を作ることは出来ず、奪うことと弾圧することに終始して、何も作り出さず、盗んで殺すだけの国になってしまった。

中国はおそらく、最近それが分かっている。

中国は、生産能力のある工場を増やし、労働者人口を増やすことで、きっと社会主義を成功させるだろう。

そして、天の御国はきっと、創り出されるだろう。

マルクスの問題とは、生産能力が向上して、工場が増えて供給過多になったとしても、儲からない工場は競争によって自然淘汰されるだけであって、崩壊するのはむしろ、社会主義の方だ。

僕は、そういう、「自由に任せることで、それぞれが必然的にすることをする」ことから、自然と社会が良くなる、と言うことはあると思う。

また、自由な権利は認めなければならない。自由な権利がなければ、何をすることも出来ない。

そういうところが間違っていたのが、昔のマルクス主義だ。

昔は、色んな人間になって、感覚で色んなことを分かっていた。あらゆる感覚を複合し、思考を実際のこの世界と照らし合わせて分かっていた。

複雑な問題として、搾取をやめると、みんなは全員辛くなる。だが、生産者が増えることで、それぞれの生産しなければならない量は減る。

だが、それを目指すことによって、それぞれの給与も減り、ものも次第に少なくなる。発展もしなくなる。

社会主義は、経済学的に間違っている。そういう国が、ソ連だ。

自由の優れた点とは、たとえば、誰かが働かなければならない仕事でも、誰も働きたくない、と言うことがあった場合、この時、誰も働かない仕事を誰かがやると、集中的にその人は儲けることが出来る。

だから、常に自由な労働の条件下にありながら、それぞれは蟻のようにきちんと動き、全体としては上手く行っている、と言う、「金による魔法」的な自由の法則から、社会全体は常に正常に働いてくれる。

自由は、そこが優れている。

計画経済では、働きたくない人間が大量に生まれ、強制的に働かせるようになる。

だから、決して自由は劣った主義ではない。

そうした自由の魔法のように上手く行く法則は、IT企業とオープンソースの関係と良く似ている。

資本主義の経済学は、それぞれが得をすることから、経済のことを分析しようとする。

だが、僕は、「純粋に自由と言う法則の中で、どのようにそれぞれが働くか」と言う側面から、ある意味角度を変えた経済学を作ることが出来ると思う。

もちろん、それぞれが自分らしく働くためには、代償と創造性も必要だ。

ある意味、人間の自由を信頼することで、自然発生や潜在的可能性も考えられる。

だが、自由にはもう一つ、「社会の理想と憧れ」も必要だ。それは、きっと共有や友愛を信じることに似ている。

オープンソースを夢見て頑張る少年が居なければ、自由は意味がない。

だから、最近は自由が成功しないのだ。

ある意味、2ちゃんねるの参加者も同じで、それぞれが自由であること、それ自体に価値がある。だから、自由は無くしてはならない。

誰でも、いつでも書けること。それが良いのが2ちゃんねるだが、本当はそれをすると、一般的な普通の投稿をすることが無くなる。それが間違っているのだろう。