新・日記2に戻る | 2018年9月の日記に戻る

=2018-09-19=

昔は、この世界における幸福の追求論のようなことを書いていた。この世界は常に生み出されており、人生と人々の存在はありのままある。自由な社会にすることで、この世界に自分が存在していること、そのこと自体の幸福を実感できる。

僕は、古代のペルシア帝国のように、自由な民族の習慣や信仰、思想や民族文化、自分の信じたい神を信じられるような、それぞれの自由を認めた上での大きな共通の帝国、という発想が一番良いと思う。

だが、僕が考えるに、それは帝国のようにトップダウンで誰かが決めることではなく、自然にみんなの力で、ボトムアップ的に同じやり方を信じる人間たちの合意で成り立つべきだと思う。

そうすると、ある程度の共有の理念や理想は必要だ、ということになる。だが、それではペルシア帝国にはならない。ペルシア帝国は、それぞれの自由を与える代わり、平和的に制圧することで巨大な領地を獲得した。そこには、ゾロアスター教という偉大な宗教があった。

そういうわけで、自由にしながら多様性は認めるべきだが、共通の文化や理想は共有しているような、そういう正しい国を作らないといけない。

EUの問題とは、自由にするあまり、資本家や中流階級と、移民や難民の立場が平等にならなかったために、移民や難民を排除したくなった。本来助けるべきはずの移民を、助けるべきなのに皆追い返せと言う。それは、本当に犯罪者予備軍のようなイスラム系の移民もたくさん居るからである。

要は、自由にすればそれで多様性のある理想の社会にはならないが、それでも自由を求めていかなければ理想の社会にはならない、自由を失えば多様性が無くなるだけだ、ということである。

自分の問題とは、悪いことをしないことである。みんなこの馬鹿のことを信じきっているのに、この馬鹿は神を信じているせいで悪いことをしない。結果、みんながこれを信じるだけの良い国になる。

ユダヤ人が天才的なのは、そういう、王の上に神と聖書を作ったことである。王が絶対に悪いことをしない、それがイスラエルの普通である。その代り、みんな全員が悪くなる。

自分は、左翼や右翼のようなことを言うのは、自分のことを許して欲しいからである。自分で言って、それを許される、といった体験を繰り返し、繰り返しやりたくなった。それは、何か許せないものがあるからである。許してしまうと自分が壊れてしまうような、そういうものがどこかにある。それは決して学校のいじめのような低レベルでお子ちゃまな問題ではない。何かを許すことが出来ないのだと思う。それを許せば世界全体が滅亡してしまうような、何かを許すことが出来ない。だから、僕は文章をまだ書いて、「自分のことを許して欲しい」と訴えている。きっと、家族や友人にいつか何かをしたことが、尾を引いているのかもしれない。

必要なのは、共通の理想ではない。理想はそれぞれ違っていても悪くない。大切なのは、犯罪者予備軍の移民にも、さまざまな問題を抱えている人が居る、ということである。当事者であるヨーロッパ人には、それを考えて救うほどの寛大な人間は居ないかもしれない。だが、地球人や世界市民として、なぜ移民が悪いことをするのか、その問題の根源を解決しないといけない。そこにあるのは格差であり、資本主義である。社会主義にするか、日本にするか、考えないといけない。だが、移民は福祉政策にただ乗りしている。だから、福祉政策をやる平等な国になったとしても、問題は解決しない。本当に必要なのは、本当の平等である。平等が認められた時に、初めて正しい自由を作り上げ、築くことができるだろう。トランプのように、壁をただ作るだけでは、ただ壁を壊すだけである。

ただ、平等はそれで良いとして、問題は僕のように自由でなければ意味がないと考える人々も多い、ということである。悪平等をやりたい人間なんか居ない。資本家のビルゲイツから金を奪っても、その金は何年も奪い続ければゼロに戻ってしまうだろう。きちんと移民が自分で稼げるようになって、初めて多様性や自由を論議することができる。もちろん、ヨーロッパ人の中だけで自由をして、知性のある生活をすることは可能である。そこに、ヨーロッパ人だけの自由、ヨーロッパ人だけの多様性は生まれる。そして、それは悪いことではなく、そもそも社会の目的とはそうした「国の中での自由」を実現することである。これは、卵を焼くかハムを焼くか、どちらが出来るのが早いだけである、という問題に過ぎない。卵も焼きながら、ハムも焼かないと、ハムエッグは作れない。だから、ヨーロッパ人は自由をやって、アジア人は平等をやる、という発想は理にかなっている。米ソが対立して冷戦するのは、そもそも本来間違っている。悪いのは、対立して戦争に巻き込む米ソである。必要なのは、ヨーロッパ人が自由をやりながら、その自由をやる中でどのようにかして後進国のイスラム教徒を支援することであって、不自由やテロはどちらも間違っている。そこがみんな気付いた時に、はじめてこの世界から対立や戦争は無くなるだろう。

そういうわけで、僕は一方では左翼を主張しながら、一方では自由の意味やかけがえのなさを唱える。本当に、この世界はそれぞれが出来るようにやらなければならない。必要なのは「個性」であり、才能とはほとんど99%個性という意味である。個性と自分らしく生きられる世界でなければ、世界は成立しない。この世界は金銭や信条における自由があった上で、その上で出来るだけ可能性のある自然に協力し共存する世界にならなければ、すぐに滅亡してしまう。戦争にならないようにするためには、自由を許すことである。みんなの自由が認められた上で、みんなで戦うのであれば、誰も悪いとは言わないが、独りだけが戦えと言って、政治家が結託して戦争するのであれば、それは皆悪いと言うだろう。そのような「声の権利」をどんどんあげていかないといけない。そうでなければ、国は良い国にならない。だからといって、批判ばかりしていれば良いわけではない。たくさんの意見があることは必要だが、批判に耐えて生きる必要はない。