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カント

ドイツ観念論の哲学者。

カント

カント。

画像はパブリックドメイン。

カント概要

自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/16より。

カントについて言えば、超越論が大切だと思う。コペルニクスによって、太陽の周りを地球が回っていると分かった。膨大な運動量にのぼると思われる太陽の移動量は「ゼロ」だった。このように、わたしたちは、真であるとも偽であるとも言えないことを「超越的」に考えなければならない。

地動説も参照のこと。

カント

自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。

カントは、ドイツ観念論の哲学者。

想定的な批判哲学として、アンチノミー、すなわち二つの相互に矛盾する二律背反の命題から、本当にどのように考えれば「次元を超えた考え方」ができるのか、といった考え方が有名である。

カントは、先験的観念論という新しい考え方で、合理論と経験論のいいとこどりをして両者を統合する。

また、理性批判を行うことで、コペルニクス的転回(コペルニクスは地動説の提唱者)から、純粋理性では当たり前だと思っていたことも、本当は違うことが背景にあるのだ、ということを考える。

認識は経験のフィルターであり、色付き眼鏡であるとした上で、知性が先天的なのか後天的なのかという永遠の問いに「根源的獲得」という解を示し、先天的(ア・プリオリ)には前提があり、それは時間と空間であるとする。

また、有名なのが道徳律で、「自らの意志によって、普遍的とされうる、全員にとって正しいとなるかのような格率によって行動せよ」と言う。

他にも、悟性のカテゴリー、定言命法、仮象の世界などが有名だが、僕が好きなのは「経験を可能にする」と言う考え方で、これは経験と言うものを「可能性を形にする」と言う意味で考える、社会哲学である。

4つのアンチノミー

カントのアンチノミーは、相互に矛盾する定理を考える。それは、

1.宇宙は無限なのか有限なのか

2.ものは単純なのか単純ではないのか

3.法則は自由なのか運命なのか

4.神は居るのか居ないのか

と言うものだ。

後日注記:カントは、人間の理性の「前提条件」を空間と時間であると考える。これら4つのアンチノミーは、そうした理性の前提条件のそれぞれの諸項目であると言える。また、カントは独自の「自由」という考え方を持っている。これは「偶然なのか必然なのか」ということ、「それを決めるのは自由なのか不自由なのか」ということを、物理学的な宇宙と「ア・プリオリ」(先天的なのか後天的なのか)の様相に当てはめたものである。

カントの超越論

わたしたちが、宇宙について「宇宙は無限なのか、それとも有限なのか」と話す時、わたしたちは暗黙的に、「宇宙とは空間・時間である」ということを前提に話している。

しかしながら、もし、観測通りに地球のまわりを太陽がまわっていると考えるならば、膨大な運動量にのぼるだろう太陽の運動量は、コペルニクスによれば、驚くべきことに「ゼロ」だった。

膨大な運動量を持っていたのは、微動だにせず静止しているかのように見える地球の方だった。

わたしたちが、観測通りに理性を使って考えようとすると、宇宙とは空間・時間であり、空間や時間に終わりがあるのかないのかを考えようとする。

しかしながら、もし、宇宙の空間・時間的な値が「ゼロ」だったとしたら、宇宙は無限であるか、有限であるか、という問いは、テーゼ・アンチテーゼともに偽となる。なぜならば、「宇宙は空間・時間である」という前提となる命題自体が間違っているからである。

しかしながら、そうだとしたら、宇宙の絶対的な視点からの現実とはなんなのか。そして、空間・時間しか知覚することのできないわたしたちの理性では、どんなことを知り得るというのか。

これが、カントの言う「超越論」(超越論的観念論)である。

(「カント入門(石川文康)」を参考に執筆しました。)

理性批判とコペルニクス的転回

カントは、理性批判をすることで、純粋理性では分からないことや当たり前だと思い込んでいることも、「コペルニクス的転回」から覆されると考える。

後日注記:コペルニクスは地動説の提唱者だ。人間が当たり前だと思っていること(天動説)は真実(地動説)によって簡単にひっくり返される。また、理性批判のために、カントは自己批判を重視する。これはたとえば対立を超えた公平な立場で、第三者の視点で考える「法廷モデル」にも見てとれる。

認識は経験的なフィルターである

カントは、認識を経験的なフィルターによるものだと考える。「色つきメガネ」であると考えると分かりやすい。そこから、世界の様相としての「仮象の世界」を見出す。

後日注記:カントの言う「理性」「悟性」「感性」という用語は、ちょうど色付きメガネのようなものであると考えられる。簡単に言えば、「人々はみんな自分だけの経験と世界観の認識で考えている」ということ。だが、それは経験の問題であって、遺伝子の問題ではない。同じように経験して理性的な考え方をすれば、人々は同じ認識を持ち、同じ発見をする。

後日注記:カントの言う「仮象の世界」とは、僕個人的な解釈をするに、認識を正しいのか間違っているのか決断するための決断可能な認識の可能性の世界観だと思います。さまざまな認識が飛び交う中で、どのようにその認識を「判断」するかということが、批判哲学の中でカントが言いたいことではないかと考えます。

経験を可能にする

カントは、経験と言うものを「可能性を形にする」と言う意味で、「経験を可能にする」と言うことを考える。これはある意味、心理学と社会学を貫く考え方である。

後日注記:たとえば、人生において人々はさまざまな経験をしている。この経験は、経験する前から経験することが可能であり、人々に対して自分と同じ経験を行うことが可能であるかのような可能性を与えれば、自らと同じ発見と結論に至る、必然的な判断となる。

ア・プリオリと前提条件

カントは、経験的に習得したものなのか、それとも先天的にあったものなのか、と言うア・プリオリを考える。また、空間や時間についてはその前提条件であると考える。

後日注記:カントは、人間の理性が先天的なのかそれとも後天的なのかという哲学上の永遠の問題に、「根源的獲得」と呼ばれる概念をもたらした。

悟性のカテゴリー

カントの悟性のカテゴリーでは、可能性や決定などの論理を簡単な表の分類にして考えられるとする。

判断の量(量のカテゴリー)では、ものごとの量と等価性に応じた判断を考える。

意味
全称判断すべてのAはBである
特称判断いくつかのAはBである
単称判断このAはBである

判断の質(質のカテゴリー)では、肯定や否定について考える。

意味
肯定判断AはBである
否定判断AはBでない
無限判断AはBでないもの(非B)である

判断の関係(関係のカテゴリー)では、判断の前提となる条件について考える。

関係意味
定言判断AはBである
仮言判断もしAであればBである
選言判断AはBかC(あるいはD、…)である

判断の様相(様相のカテゴリー)では、未知なる判断を成立させる可能性を考える。

様相意味
蓋然判断AはBでありうる(もしかしたらBかもしれない)
実然判断AはBである
必然判断AはBでなければならない(絶対に必ずBである)

(「カント入門(石川文康)」を参考に執筆しました。)

道徳律と定言命法

カントは、自由や道徳律、定言命法を使って道徳を考える。定言命法は、「条件付きで善をするのではなく、無条件で善をする場合が本当の善である」というもので、これに従って得られる道徳律とは、「普遍的だとなりうる法則によって行動せよ」というものである。

カント哲学と言えるかは分からないが、哲学的な「自由」とは、「自らによる」もの、あるいは「自らに由来する」ものであるとされることが多い。カントの入門書にも、「自由」という言葉が良く現れる。だが、カントの道徳論で必要なのは、「無条件に善をする」ということであり、それはとても厳格で、ある意味人生の中で誰もが出会う「最後の観念」である。

後日注記:カントの道徳律は、「自らの意志によって、(自分の中で)普遍的とされうる、全員にとって正しいとなるかのような格率(法則)によって行動せよ」というものである。

宗教は要請である

宗教については、「人間の道徳心の要請として、宗教が作り出された」と考える。

後日注記:カントは宗教を人間が作り出したものであると考える。「人間が持つ道徳心や善の心を、社会的に実現しようとする要請」が神すらも作り出したのである。

哲学することを学べ

カントの有名な言葉として、「人は哲学を学ぶことはできない。哲学することを学ぶことができるだけである。」という言葉がある。

カントは、誰かひとりの哲学を学ぶのではなく、自ら哲学するべきだと述べたのである。

僕が思うに、宇宙は無限だが永遠ではない

僕は、宇宙が無限なのか有限なのかということと、宇宙は永遠なのか永遠ではないのか、ということは別の問題だと思います。

すなわち、宇宙は無限ではあるが、永遠ではないのです。

この意味は、宇宙空間は無限に続くが、宇宙という存在は永遠ではなく、いつか滅びて消え去ってしまうということです。

別の言葉で言えば、「宇宙は空間的には無限だが、時間的には有限である」ということです。

宇宙空間は、果てがなくどこまでも続きます。ですが、それは宇宙が永遠に存在し続けるということではありません。宇宙はいずれ時間的な寿命を迎えて滅びるでしょう。

2023.05.23

カントの言葉

カント入門(石川文康)」より引用。

“(われわれの)認識が対象に従うのでなく、むしろ対象の方がわれわれの認識に従わなければならない”-カント(『純粋理性批判』、第二版序論)

“汝の行為の根本指針が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ”-カント(定言命法の第一方式)

著作

「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」、など。