問題解決の技法の世界観です。
僕は、学校で教わった数学を学ぶことよりも、問題の解決の技法を考えることが重要だと思います。
学校で教わる数学というのは、教えているように見えて、逆に「教わることで自ら積極的に考え学ぶ力を奪っている」のではないかと思います。
問題の解決の技法は、「なぜ」「どうしたら」「何によって」「何のために」「何がもたらされるか」ではないかと思います。
そもそも、それら全てが「理由」という名前の論理的な考え方です。「理由が何であるか」を考えることで、逆に「理由になっていない理由」を排してもっと別の次元でその問題を考えられます。
そして、理由そのものを作り出し、場合を想定することで、理屈を組み立ててものごとを作ったり変えられる「自由になる」ということができます。これは、経験や能力から生まれる、「リベラルアーツ」へと繋がります。
数学的に考えていると、この世界が「何が何から決まるか」という視点で考えられるようになります。
社会の制度がどうなっていて、人々は自分の力や目線で何を分かっているか、その視点や実在を社会がどれほど把握し切れているか、どのようなことができる可能性があるか、前提条件そのものをどのように変えれば人々はどんなことをするか、といった具合です。
また、「できるのにしない状況」と「そもそもできない状況」では意味が変わってきます。
何が何から決まるのか、を「原理」として、そもそも何から何が決められるのか、という「原理の発見」がそこから見えてきます。
子供は、ただ教えられて分かるのではなく、自ら知ったことや体験したことから、思考を「世界から写し取るように」分かることができます。自分の心や意志や行為から、積極的にこの世界で学ぶことができます。そのために必要なのは、「人々との出会い」です。この世界において出会うこと、その絆や青春すべてが、子供にとっては「積極的な世界知の構築」となり、世界観は積極的な学びとなります。
また、問題の解決の技法は、「その前提条件とは何か」と「そのために必要な手間やコストは何か」ということです。
前提条件を根源的に考えていくことで、この世界の「何がいつできるのか」ということが分かります。そして、そこから「どのようにすればこの世界においてそれを分析して正しい考え方で作ることができるのか」ということが分かります。
また、費用対効果の問題もあります。そのために必要な手間やコストが、それを行うことで得られる手間やコストに見合うものか、と考えなければ、やろうとしたものの実際は何もできず、何も生み出せなかった、ということになるからです。これは生産手段をフリーで共有するという発想や、協力者を集める(あるいは自分も協力者のひとりになる)ということから見えてきます。
また、考えるとは、疑うこと、予測すること、想定すること、試すこと、確かめることです。
さまざまな思索や経験を試すことで、「社会においてはこういうこともできるのだ」とか、「こんな社会も成り立つのだ」といったことが、たとえばインターネットのような場所で自分の経験と思索に基づく「自らによる行為」から分かることができます。
自分の行動を反省し、またさらにできるようになって、今度は別のやり方をして、成功し、できることを増やしていく、そこから仮説や可能性が生まれ、自分の中に生まれる体得から、経緯と過程を知り、歴史の一部分を知り、宇宙の全貌を知り、確信へと変わっていく、ということです。
世界の全てを変えられるようになって、文字通り人は「自由になる」ことができます。
また、解明とは、「何を何だと見做すのか」ということだと言えます。
この世界で、何が何から成り立ち、どのような仕組みを持っていて、その仕組みはどのような理由でそうなるのか、それは本当は何で、どのようにふるまい、どのようにすれば変えられ、自分は自由になるのか、ということを解明する、ということが、解明なのです。
また、反抗と自由から分かる、社会の意味と役割、というものがあります。
ヘーゲルの言うように、喪失から共同性を見出すことはできます。そこには、「自分が自分本来の自分であるという確信」から、さまざまな存在に「なる」ことができます。同時に、社会における「よさ」というものがそこから見えてきます。「よさを実現するためになる」ということが見えてきます。
反抗していくことで、自由の意味が分かり、「学校で教わった社会の秩序というのは、こんな意味があったのだ」ということを、学校以外の体験から知ることができるのです。
また、社会を築くとは、価値観を築くことです。これは、「アイデンティティの実現という意味での社会のリアリティ」だと言えます。
アイデンティティを、自分に「なる」こと、そのものに「なれる」ことから体現していくことで、社会が「この世界がこの世界たる理由」となり、そこから価値観とリアリティが生まれます。
まさに、社会の価値観という意味でのアイデンティティと、現実という意味でのリアリティを比べ、相互に比較することで、この世界の全ての「価値観の創造」が分かるようになります。
また、プログラミングについて言えることは、「プログラミングとは、問題の解決の技法そのものである」ということです。
あらゆる問題を、ロジカルに捉えて解決方法を記述すること、それがプログラミングの意味です。「問題を解決する=プログラミング」という方程式がそこではなりたちます。
たとえば、数学ではx+1=3ならばx=3-1=2であるとします。ここでは、xはある意味でx=a-bという「関数」になっています。こうした「数式に成り立つさまざまな規則」を、プログラミングでは記述します。どのように考えて「数式」を変形して「解法」へと変えていくか、それがプログラミングであると言えます。
教育心理学のように、子供の発達と賢くなっていく過程から言えるのは、「子供は自らの体験に基づいて自ら学んでいく」ということです。
要するに、ありのままの真実を教えて、その子供が自由に自分らしく道を切り開いていけるように、世界をありのまま与えて、できる環境を与えれば、子供は成長していくのです。
そのために必要なのは、「情報と研究手段を与えること」です。僕は、ここでLinuxとオープンソースに教育上の意義があると思います。Linuxとオープンソースは、情報や参加手段が公開されており、無償で、簡単で、成果を他人と共有でき、インターネットを通じてコミュニケーションができます。
ですが、ここには課題があります。それは、「ソフトウェアを開発する基礎の知識や考え方を習得していないと、プログラミングを行うのは難しい」ということです。ですが、これはインターネットによって解決できます。インターネット上に多くのナレッジベース(知識の土壌)があり、子供たちはそれらを通じて自由に学ぶことができるのです。これが、インターネットの一番優れたメリットだと思います。
僕は、学校で習う常識は必要ないと思っています。それは、学校で教われば教わるほど、分からなくなっていくからです。
人間は、他人に教わって分かったことでは分かりません。自分で考えて、自分で見つけ出した「自分だけの答え」でなければ分からないのです。
学校のすべてが必要ないわけではありませんが、必要なのは「自分で分かることを突き詰めること」であり、そのためには、大人が教えてくれる常識や、この世界にある存在や学問は、役に立ちません。
自分の意志で決め、自分で考えたことは、自分の人生の中に残ります。逆に、他人に従って分かったことや、他人に教わったことは、自分の人生の中に一切残りません。
ですが、最初から何も知識を知らず、世界を知らず、「守る」ということを知らない人間には、その次の「自らの手で開拓する」ということも、「自分だけの高みを目指して歩むこと」もできません。古くからの言葉に、「守破離」という言葉があります。まず教えをきちんと守り、次にそれを自ら壊していき、最後にそうしたものから離れて自分の力で作り上げること、そこから、「自分なりのやり方や成功体験」が見えてきます。そこから、「成功体験の先にあるこの世界の本当の真実を知る体験」が見えてくるのです。
人生の目的とは、「ありのまま善い人間を生きること」です。
死ぬ瞬間に、自分の人生のことを「素晴らしい人生だった」と思えて死んだ人は、正しい人生を生きています。最後の瞬間に自分のことを「素晴らしい人生だった」と思えれば、世俗的な成功や失敗にはかかわらず、その人間は永遠に幸福です。
僕はこう見えて、実際は天国や天の神を信じていません。死んだ時は、それで終わり、消えるだけです。
天国などありません。神とは、全て自分の深層心理の奥底に居る、おかしな子供時代の自分のことを言っています。
宇宙には、時間はそもそも存在しません。最後まで決まっていて、人生は宇宙ごと全て「起きるべくして起きたこと」しか起きません。神の言っていることがどんなに正しくても、ただ未来のことをそのまま言っただけにすぎません。宇宙には時間は存在しないのです。
また、「自殺したら赤ん坊の自分に戻る」とは勘違いです。実際には、自殺未遂をした人間が、もし生き残ったら、その人間は赤ん坊のような人格に戻ります。これは、間違った人生を生きた人間は、赤ん坊から生き直すことでしか解決しないからです。
ありのまま人生を善く生きるためには、過去にとらわれないこと、未来を自分で切り開いていけると信じること、そして自分のことを大切にすることです。一番正しい宗教は、自分を大切にしなさいと教える、中国の儒教です。