ドイツ観念論の哲学者。近代哲学の完成者。
ヘーゲル。
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自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/16より。
ヘーゲルの精神現象学は、小説のように面白い文献である。自己意識とエゴの成長は、観察から環境との関係性へと至り、心理学となる。自分は世界において「自らの信じた理想の実現」を目指して、人倫の世界を望む。また、疎遠となった精神は共同体精神を作り出す。
しかしながら、自らの信じた世直しについて、他人がそこに自らと同じ理想を見出すとは限らない。心胸の法則は破綻する。
「徳」は「世間」に戦いを挑むが、現実的な正義と理想は世間の側にあり、徳の主張する正義の世界を守っているのは世間であり、徳は自らその正義を破壊しようとしているため、徳は世間に敗北する。これを徳の騎士と呼ぶ。
そして、やがて自らは、「それを自分が肯定すること、それ自体の価値を誰も否定することができない」という「事そのもの」に気付く。
ヘーゲルは、歴史的なことも記述している。そのひとつが、啓蒙主義である。啓蒙主義とはフランス革命のことを指している。また、ヘーゲルはこのような人生と歴史の進むプロセスを、テーゼAに対してアンチテーゼBがあり、総合してジンテーゼCがあるという、弁証法であると述べた。
自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/09/07より。
ヘーゲルは、ドイツ観念論の哲学者で、近代哲学の完成者として知られる。
テーゼAとアンチテーゼBからジンテーゼCが生まれるという「弁証法」が有名だが、彼の著作「精神現象学」は、一見理解できないことを言っているように見えて、人生において多くを考えた哲学者が見ると、「人間の分かることや知りえることや考えられること全部が正しく書いてある」、面白い「人生と青春の教科書」である。
その内容は、自我や自己意識の発達から、「自らのエゴが自由の中でどのように形成されていくのか」ということから始まり、人間が環境と繋がっていて、心理学が環境から作用的に生み出されていって、恋愛と必然性から、心胸の法則(自らの理想はこうなんだと世界に発信するが、世界から受け入れられない)とか、徳の騎士(自らが正義の徳であり、世間を正そうとするが、逆に相手が正義であるため失敗する)とか、あるいは事そのもの(どんな個人のする事も、その事自体に意味があり、批判できない)など、意外と人間味あふれる人生論のようなことを言っている。
また、歴史論について言えば、客観性、信仰、啓蒙、有用性、絶対自由、道徳性、神、そして良心など、人生において少しずつ分かっていく「人の社会性の形成過程」のようなことが書かれている。
僕は、そうしたヘーゲルの哲学が、「自分の人生と重なるところがある」ため、とても面白かった。
詳しくは超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』 (講談社現代新書)が参考になります。
ヘーゲルは、この世界全体の発展を「世界精神」だと考えて、その精神がいかにして発展をしていくかを考えた。
後日注記:ヘーゲルは、精神と意識の成長と変転を考える。自我が成長し、世界と対面し、根源的かつ本質的に考えながら、世界を見つめ、自分の愚かさを克服し、「真実」を知っていきながら、心と世界を照らしわせて、真理へと目覚めていく過程、そうした哲学をヘーゲルは考えた。
ヘーゲルは弁証法で有名だが、弁証法は、「意見Aに対して批判的なBがあり、それが統合されてCが出来て、その上でCに対して批判的なDがあり、それが続いていく」と言うものだ。
ヘーゲルは弁証法を歴史に応用し、精神の段階を「合一から絶対に至る」ものとした。
後日注記:ヘーゲルの弁証法は、個別性と普遍性の一致、そして主観と客観の一致という「同一」から、絶対精神の目覚めである「絶対」へと至る過程を、近代ドイツの歴史や人間の理性の昇華の過程へと応用した、ヘーゲル独自のすべての歴史と理性を貫く、宇宙のすべてが含まれた哲学です。
2023.10.13編集
ヘーゲルは、歴史を弁証法的な、絶対精神へと向かっていく世界精神の目覚めだと考えた。
後日注記:ヘーゲルにとって、この世界は繋がっていないように見えるものが繋がった「世界精神」であり、世界の歴史の行き着く到達地点は「絶対精神の目覚め」です。ヘーゲルにとって、生物のようにそれぞれが分離されたものは、本当は分離されておらず結合されています。そのことを「世界精神」とし、世界の歴史の近代的進歩は世界精神の進歩すなわち「目覚め」であると考えます。
2023.10.13編集
ヘーゲルの精神論は、自己意識が喪失や確執とともに大人になっていき、共同性に目覚め、啓蒙や理性主義へと発展して、最後は道徳的良心と言う「絶対知」に到達する、と言うものだ。
後日注記:ヘーゲルは、自己意識が世界との自由な「自我の関わり」や世間から疎遠になっていく「教養」や「道徳性」で成長していき、「共同性」に目覚め、最終的に「人倫の国」へと至るような、同時に人生の進歩の歴史をすべて辿った上で、個別性と普遍性が一致し、主観と客観が一致した先にある、「知識の絶対化されたゴール地点」を考えます。
2023.10.13編集
ヘーゲルの国家論では、絶対主義のプロイセンを最終的な理想・終着点だと考える。
その思想は全体主義的で、集団は国家のためにあり、集団の全員より国家の方が大きい、とするものだが、当時はそれが進んだ考え方だった。
後日注記:ヘーゲルの歴史論は、古代ギリシャや古代ローマから始まり、啓蒙主義のフランス革命や理想の国家であるプロイセンへと到達するまでの過程を、「絶対精神の目覚め」であると考えます。すなわち、人類の近代の歴史は「人類の目覚め・覚醒」であると考えられます。
2023.10.13編集
僕は、ヘーゲルは「エゴ」すなわち「自我」の絶対的段階と変転の過程を書きたかったのだと思います。
ヘーゲルは、「自己意識」から始まり、精神の成長と歴史を通じて「心胸の法則」を作ったり「徳の騎士」となったりし、最後には絶対知である「良心」に行きつきます。
ヘーゲルは、まさにエゴがどのように変転していくか、ということを、歴史になぞらえて、絶対過程にしたのです。
後日注記:ヘーゲルは、青少年の自我の進歩がどのように成熟していき、どのようなことに対して「観念的な理想の衝動」を行っていくかということを考えます。そこでは、自らが行った正義に対して、理想とする信念をほかの人間に見てもらいたいと思っても、決してほかの人間は自分と同じ理想をその正義には見出さないという「心胸の法則」、そして人倫の国を目指して世界をたったひとりで変える戦いを起こすが、相手が正義であるため絶対に勝つことはできない「徳の騎士」があり、最終的にそれをすること自体が自分の幸せであるとする「事そのもの」へと行き着きます。
2023.10.13編集
僕は、ヘーゲルは「自分が形作られていく過程」について書きたかったのではないかと思う。
人間は、人生の中でさまざまな不安や恐れを抱き、そこから人々に対して行動し望むようになるが、そうした不安や恐れは「アイデンティティの喪失」であり、人々が相互に攻撃や争いを行うのは、「アイデンティティが欠如しているから」が理由である。
そんな中でも、その人はさまざまな経験を積んで、この世界のアイデンティティを「理想と現実を知ることから自らアイデンティティを構築する」ことを目指すようになる。
そして、さまざまな「発想」が体験と理性の経験から「確信」へと変わっていく。それが、そのまま「高い境地」へと向かって、まっすぐに歩んでいく。
ヘーゲルは、アイデンティティが欠如した人間を想定して、その人間がどのような段階と経緯を経て高みへと至るのか、その上でその人間はこの世界をどのような世界であるとみなすのか、ということを書きたかったのではないかと思う。まさに、「自分の精神が形作られていく過程」を書いたのである。
そう、ヘーゲルは「自由という社会の理想の中で自らがどのように考えるのか」という、「社会に対しての自分の行動論・行動史」を書いただけである。そこに、「この世界を全て理解するプロセス」がある。それはまるで「気付きと驚きが疑いから確信へと変わっていく過程」であると言える。
後日注記:これではまるでアイデンティティがヘーゲルの哲学のように見えますが、実際はまったくヘーゲルの哲学ではなく、自分が勝手にそうした用語を作ってヘーゲルの思想を解釈しているだけです。ヘーゲルはアイデンティティという言葉を使いません。ご注意を。
ヘーゲル哲学の賢い点は、歴史と人生の進歩の過程が、そのまま弁証法に重なるところがある、ということ。
ヘーゲルの記述の全ては弁証法的な過程であり、精神と社会の歴史が、弁証法の流れにそって、次元を超越して絶対的に進歩していくこと、それをヘーゲルは考えたのです。
自分の書いた「ニュース - 2021-04-第五週(2021-05-第一週)」2021/05/01より。
僕は、そろそろヘーゲルが「絶対精神の目覚め」と言っている意味が分かった。
ヘーゲルは、フィヒテやシェリングの言う「宇宙の超自我」「同一の現象である世界精神」のような「世界精神」、すなわち「霊魂」のことを世界精神だと言っている。
ヘーゲルは、この世界精神、すなわち人類すべての環境的な意識の向かう先を、「歴史」として、「絶対精神の目覚め」であると表現したのだ。
そして、ヘーゲルは、その歴史が弁証法、すなわちテーゼとアンチテーゼからジンテーゼへと向かう過程であると考えた。
同時に、自己意識の発展は、疎遠になった精神と環境的に自分が世界と繋がっているとする「確信」から生まれ、それは人倫の国と啓蒙を目指して進歩していくが、世直しを目指して世間と戦う徳は世間に敗北し、その後に事そのものへと境地が変わっていき、最終的に良心としての絶対知へと行き着く。
こうした「啓発的人生」のことを、ヘーゲルは「絶対精神の目覚め」であると表現したのである。
そして、こうした過程が、すべて完璧に記述されている点において、ヘーゲルは「近代哲学の完成者」であるとされるのである。
ヘーゲルは、普遍性と個別性の一致、主観と客観の一致を考える。これは、自らの心から生まれてくる「知識」が、普遍・個別と主観・客観のどちらに属するかを考え、観念を盲目的に信じるのではなく、知識として「真実」を発見するということを意味している。
これは、フッサールの現象学に近づいていく。すなわち、自らが外部の「世界そのもの」と交わりあって、世界に対しての「行為」となった時、その行為は「主観と客観・普遍と個別における外界世界への作用」となる。これこそ、絶対知と世界精神へと近づいていく、「弁証法的な精神論」となる。
世界精神とは何か。僕は、自らが考えているその考え方自身が、人生となっていく過程で自らの世界に映し出されることだと思う。自らがそのように考えるから、そのような人生が生まれていき、それが自らに映し出される「世界精神」となる。
そして、世界精神において、普遍性と個別性、主観と客観の一致から、「すべてに矛盾はなくすっきりとすべて理解できる」という境地に至る。これが絶対知であり、ヘーゲルの言うように、そこまでの有用性、啓蒙主義、理神論、宗教などのすべての「自らが生きがいとしてきた自ら自身を形作る観念」はここで「良心」となる。
このような境地に至った時、すべてのやるべきことはし終えており、自らはそれ自体に価値がり、誰もそれを無価値であると言えないような創造行為を行うようになる。これこそ、「事そのもの」であり、「自体存在」であり、「自己意識」の行きつく最終地点だ。僕はこれを「ヘーゲルが独自に発見した覚者・仏の境地」であると言えると思う。
自分の書いたブログ「未来のわたしの心より今のあなたへ」2021/04/05より。
注意:この内容は自身がヘーゲル的に考えただけであり、ヘーゲルという人物の哲学や思想とは無関係です。ヘーゲルのように考えるとはこういうことである、ということの参考にしてください。
自由が許されているということを認識すれば、この世界には多くの潜在的可能性がある。
まさしく、反抗しなくても、別の形で問題を解決する自由は許されている。
支配者にならなくても、わたしたちにもこの世界を変えられる自由は許されている。
反抗だけではなく、手助けをする自由も許されている。
攻撃に対して反撃するだけではなく、信頼して友人になる自由も許されている。
その社会制度の意味と役割を正しく理解することで、その社会制度に従うだけではなく、社会制度を変えることができるという自由も許されている。
そしてそれらの自由は、許されているだけではなく、促進したり、共有したりすることもできる。
チャンスは、得るだけではなく、実現するものであり、このような考え方は、経験による「実質化」と併せ持って、「具体的に経験を実現する」ということから、その経験を「自らが立脚するアイデンティティ」と確信し、それが昇華することで、「自らのアイデンティティを発揮する」という観念へと行き着く。
この時、すべては自らの実体を形成する「精神」となる。
なぜなら、存在するのは社会ではなく、実際のその場所に存在する「アイデンティティという名の精神」であり、これは価値観の共有である。
この、精神としての自分の超越の境地を「ガイスト」と呼ぶ。
わたしたちが生きている目的は、ガイストとなることである。
社会の目的とは、このように「ガイストになることを促していくこと」に過ぎない。
ガイストとなる社会こそ、もっとも成熟した社会である。
なぜなら、ガイストになれるということは、ほかのすべての社会になれる「メタ社会」を意味するからである。
道徳を信じ、道徳を理解し、道徳をどのように実現するかを知れば、その過程を進歩と呼ぶ。
「何が良いことなのか」ということはあいまいだが、「その良いことが何を意味しているのか」を考えることで、「根源となる道徳そのものの意味は何か」を知ることができる。
ここから、偉大なる結論である、「それぞれの人間によって信じるものは違う」という、価値多元論を導ける。
ここでは、「どんな社会であろうと、価値観が違うだけ」であり、「ある意味で善であることは、他者にとっては悪である」とし、真の意味で「善とは何か」を追求する上で、それは信じること、先入観を持たないこと、経験に立脚すること、人々を啓蒙すること、宗教を盲信しないこと、理想を持つこと、などということができるが、これらについては「それぞれに対応する社会」というものが形成される。
これらすべては、「実現可能な道徳とは何か」ということである。
しかしながら、実際、道徳が根源的にすべての社会を取りうるのであれば、自らが「自分だけが信じる道徳に基づいて社会を形成する」ということも、許されるはずである。
自由の実質化は、ここで道徳と結びつき、「わたしの信じる、わたしの国家を、わたしのやり方で実現する」ということへと行き着く。
それは、「経験的に生まれ得る価値観」という真実であり、それこそが、「わたしがわたしであることにたりえる信念」となり、それは「信念の形成」を知ることで、あらゆるすべての信念は「同じもの」であるという結論へと行き着く。
なぜなら、ニーチェが言うように、信念に真理はなく、それぞれが権力への意志を解釈しているだけにすぎない。
ここに、「メタ社会」と呼ばれる概念を導入する。
すなわち、すべての可能性を取り得る社会ということである。
そう、これこそが、「アイデンティティ」と呼ぶものへと昇華する。
なぜなら、アイデンティティは、まさしく発揮可能であり、共有可能であり、それになることのできる、本質における根源的な第一本質であり、それこそが、「わたしがこの世界をわたしの望むように創造する」という、ある意味では自分勝手な、「第一条件」であるためである。
ヘーゲルのように思考するために必要なのは、「それぞれが自由に生きる」「その中でこの世界を変えていく」ということだと思います。
この世界を、右翼と左翼の闘争のように支配者や絶対権力者の視点から考えるのではなく、それぞれが平等な権利を持っていて、それぞれが自由に生きる中で、それぞれがこの世界を変えていくのだ、と考えるところから、ヘーゲルのような思弁哲学者の思考法は始まります。
そして、この「自由」は、最初は漠然とした「単なる自由意志」であっても、「自らの自由」と「他人の行動」がぶつかり合ったり、あるいは離反して離れていったりする中で、ある種の「結実」を見せることもありますし、「世界との関係を結びなおす」ようなこともあります。
このような中で、ヘーゲル的な自由は「実質化」します。すなわち、漠然とした自由意志を信じるだけではなく、社会における個人の自由が社会制度そのものへと変貌していき、自由な社会、すなわち「人倫の国」を作り上げるための社会制度となり、その人倫の国を実現するために「徳の騎士」となって戦うようになるのです。
そもそも、ヘーゲルのように考えるためには、学校の現場で、どのような戦いを子供たちがしているのかを考える必要があります。
たとえば、いじめ問題を解決するために、「平等にすればいい」と考えることはできるでしょう。ですが、平等にするということは何を意味しているでしょうか。
それぞれを不自由にし、教師が平等に管理し、それぞれに学校の思想を植え付けるということが平等なら、「権威と多数派に管理される心理感」という、ある意味「いじめと何も変わらない状況」になってしまいます。
ですが、それぞれを自分勝手な自由に置いてしまっても、これは同じです。それぞれが互いに自由に争うようになり、真面目な生徒は余裕と安心をもって学べなくなってしまいます。
必要なのは、平等でも自由でもありません。
では何が必要なのでしょうか。それを考えるためには、「承認欲求」を考える必要があります。
承認欲求とは、「わたしが正しいのだ」とそれぞれが主張することです。それぞれが「わたしは正しいのだ」と主張する中で、自分が他者を受け入れ、他者が自分を受け入れるという、「相互承認」が生まれます。これはつまり、自分がみんなに平等に受け入れられたように、自分も誰かを平等に受け入れるということであり、言うならばこれを「平等」と言ってもいいでしょう。
そして、この承認こそが、「自己意識の転換」を生み出します。すなわち、「自分と社会を対等に客体化する」ということ、あるいは、「世界に対して自分の考え方の像を投影する」ということになります。これが「世界における自己投影」であり、ここで「自己放棄」が行われると、逆にそれが「理想の精神」を作り出します。自分で自分を放棄することで、逆に今までの自分では分からなかった「自己意識の転換」を得ることができ、「社会そのものの自由を信じて生きる」ということができます。自分を放棄することで、依存をなくし、すべてを自分の責任により、そこまでの経験から「自在に考える」ことができるようになるのです。
そして、これで終わりではありません。自在に自由を考えられるようになった青少年は、「理想の実現」を目指すようになります。自分の望む「理想の世界」を、社会そのものに投影し、実現しようとします。これは、最初は「自己啓発」から始まり、自分の分かったことは誰にでも当てはまるはずであり、自分の分かったことを必ずみんなと共有できる、すべきだ、という「啓蒙」へと繋がっていきます。
そして、さまざまな経験をする中で、そうした啓蒙は「共同体感覚」となります。すなわち、自分自身の損得を放棄してでも、この世界のために奉仕し、社会全体の共同体の利益になることを目指すようになっていくのです。
そう、僕は、ヘーゲルが精神現象学で言いたかったのは、そういうことではないかと思います。ヘーゲルは「わたしは正しいのだ」という承認欲求が、青少年の心理発達へと向かう過程を、自らの人生で分かり得た「哲学」として記述したのです。
ヘーゲルが言う、「世界精神」とは、要するに霊魂や、個人個人の人生の垣根を超越した世界人類全員の意識のことです。
僕は、ヘーゲルが弁証法や歴史や人生の発達の過程を考えるのは、この「世界精神」というものを理解するためだと思います。
僕が考えるに、世界精神は単なる霊魂ではありません。それは「世界に宿る精神」ということであり、人間や生き物の体に宿るのではなく、「世界という空間そのものの精神」です。
そして、ヘーゲルは、世界精神が目覚めていく過程を知ることに成功し、それを記述することにも成功しました。世界精神は、ひとりひとりの自我の承認と自己意識の成長を、新しい経験的発達の過程へと促していく存在であり、いわば、世界精神が目覚めていくということがそのまま歴史であり、人生であり、そして弁証法なのです。
精神現象学の「精神」とは、人間の持つ精神だけのことを指していません。精神とは世界精神のことであり、「世界精神が目覚めていく過程の現象学」と言うべき書物が、ヘーゲルの精神現象学なのです。
哲学について、なんとなく数学者のように考えるために、命題の矛盾や相対性について考えると思っている人は、ヘーゲルを知ると愕然とするかもしれません。
なぜなら、ヘーゲルは、そのような「相対性」の先にある「絶対性」の世界を書いているからです。
ヘーゲルによれば、精神が発達していく中で、主観と客観は統合され、個別性と普遍性も統合されます。それらは、矛盾のない同一のものに至ることで、絶対化されます。
ヘーゲルはそのように、もともとは相対的だった素朴な知性が、経験とともに精神的に目覚めていき、ひとつの絶対的な「意識」となっていき、最終的に「絶対知」に至るということを述べます。
これは個人の人生だけではなく、世界の歴史についても同様です。なぜなら、地球の歴史は、同様に相対的なものから絶対的なものへと至る、「絶対精神の目覚め」だからです。
しかしながら、「目覚め」とはなんでしょうか。これは「気付き」あるいは「覚醒」のことです。すなわち、自分の世界しか知らなかった小さな子供が、多くの世界を見る中で経験を広げ、世界観を増やしていき、そこで多くの行動や体験をすることで世界観が変わっていき、多くの分からなかった部分に気付くことで自分の考え方そのものが変わっていき、やがてそれはひとつのゴールへと収束していき、最終的に「絶対知」すなわち「究極的な人生のゴール地点」へと至るのだと、ヘーゲルは考え、その過程をすべて記述したのです。
すなわち、ヘーゲルにとって、この世界の理論は「相対的な数学」ではありません。この世界の理論は、むしろ「絶対的な数学」なのです。
僕は、ヘーゲル哲学の一番重要なキーワードは、「実体」ではないかと思います。
実体とは、社会そのもののことです。社会において、それぞれの人間たちがコミュニティを形成し、それが集団化するような、社会全体のこと、その一部分のことです。
実体の一部分は、「合一」になることで「吸収」することができます。社会の経験をする中で、実体の一部分、すなわち、それぞれの人間たちのコミュニティを「理解」します。理解するだけではなく、精神的にその社会環境そのものの「精神」を作り出し、「合一」になることで「吸収」することができます。
実体には、進歩レベルの異なるさまざまな人間たちが居ます。そして、それらの人間たちをひとりひとり理解していくことで、考え方を吸収し、絆を培い、それだけではなく、自らの進歩レベルや成熟度も向上していきます。その結果、実体と自分は「合一」になります。
そして、その実体の一部分を理解した精神は、「普遍性」によって捉えることができます。すなわち、「一部を全体として捉え、全体を一部として捉える」ということです。
この精神は、歴史的な進歩を辿っていきます。自分の心の中にある「実体の精神」は、経験していく中で自らの心の中で「覚醒」していきます。これは「精神の目覚め」であると言えます。啓蒙や人倫の国のようなヘーゲルの言う「哲学的社会学の用語」は、この「実体精神の目覚め」によって変転していくのです。
このような実体精神は、どこから発生するのか、それは「孤独」です。孤独な中で、限られた手段で人々と関わり合いを持つ中で、人間は「実体精神」を吸収し、目覚めていきます。ヘーゲルはこれを「社会から疎遠になった精神」と呼びましたが、これは日本語で簡単に言えば「孤独」です。
孤独な人生経験から、ヘーゲルは実体精神の目覚めとして、歴史的社会学の哲学思想をすべて理解し、その結果、実体の一部分から普遍的に人生や哲学のすべてを理解すること、そして記述することに成功したのです。
ヘーゲルの「絶対知」という言葉について、僕なりの考え方を述べると、「人生と認識と理性と経験と精神の、すなわち宇宙のあらゆるすべてを完璧に分かった時、心の中に残ったすべての知識を知って生きている」ということだと思います。
ヘーゲルは、哲学を相対的なものから絶対的なものにしました。それは、真に相対的なものなど存在せず、すべてのことは最終的に絶対的な知識に行き着く、ということだと思います。
ヘーゲルは、相対的に命題について考えることを否定したわけではありません。逆です。相対的に命題について考えることを誰よりも追究したからこそ、その裏側にある「絶対的な真理」について知ることができたのです。
あらゆるすべては、弁証法の下に合一から絶対へと昇華します。人間の人生もそのひとつであり、人類の歴史もそのひとつです。あらゆるすべてが、弁証法的な進歩によって、「さまざまな相対的な争い事を調停して、その上で正しい結果へと昇華し、そこからさらに異なるものとの比較をしていって、その新しい結果に基づいて行動し、それとさらに他人の存在や関係性を比較し、さらに人生や歴史は昇華され、最終的にどこかに到達する」ということのプロセスの結果、主観と客観は一致し、個別性と普遍性は一致し、最終的に絶対的な真理に到達します。
その絶対的な真理とは何か、それはそこまでのすべてを「絶対精神への目覚め」であると考えるということです。
ヘーゲルは、最初は子供と子供が単に争い合うような未熟な自己意識から、そこからひとり孤独かつ疎遠になった上で、自らの信じる理想や信念を信じるようになり、そこからさらに恋愛に目覚めるとともに、人々との間で自らの信じるものを実現しようとして、しかしながらそれは上手くいかず、戦いを始めても自らが正義でないのに、正義に対して間違いを主張することでは決して勝てないという経験をし、しかしながら自分自身のやりたいことをやりたいようにやるということには自らの本質が形成されるということを知り、最終的に良心という名の「絶対知」に到達するとします。
また、ヨーロッパの歴史においては、古代ギリシャが宗教や啓蒙主義となってプロイセンに至る、「世界精神の目覚め」を記述し、それもまた弁証法であるとします。
まさしく、ヘーゲルには人生と宇宙のすべてがあり、そのすべてを「弁証法」という名の論理学によって裏付けました。ヘーゲルの精神現象学は、とても面白いノンフィクション小説であると言えます。
2025.01.10
「超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』(竹田青嗣・西研)」より引用。
“言いかえると、魂(ゼーレ)が己れの本性によってあらかじめ設けられている駅々としての己れの一連の形態を遍歴してゆき、己れ自身をあますところなく完全に経験し、己れが本来己れ自身においてなんであるかについての知に到達して、精神(ガイスト)にまで純化させられるさいの魂の道程であると、この叙述はみなされることができるのである”―ヘーゲル
“事そのものは、(1)その存在が、個別的な個人の行為でありすべての個人の行為であるような、一つの本質(実在)であり、(2)その行為がただちに他に対してある、すなわち一つの事であり、この事は、万人のまた各人の行為としてある。さらに(3)あらゆる本質の本質であり、精神的な本質であるような本質、である”―ヘーゲル
“したがって、この断言が断言しているのは、意識は自分の信念が本質であることについて信念をもっているということである”
“この断言という言明が、それ自身において自己の特殊性という形式を撤廃する所以のものであり、自己は言明することにおいて自己にとって必然的な必要な普遍性を承認している”
“美しい魂と呼ばれるひとつの不幸な魂の光輝は内面において次第に消え失せて行き、そうしてこの魂は空中に失せる形のさだかでない靄のようになって消え去るのである”―ヘーゲル
「精神現象学」、「法の哲学」、など。
ドイツ観念論の哲学者の一人で、近代哲学の完成者とされています。精神現象論で、「この世界全体を精神だと見た時、その精神がどのように変貌を遂げていくか」を考えました。また、社会哲学の貢献でも有名です。
Wikipedia
Wikisource
書籍
以下の書籍が参考になります。