フランスの革命の世界観です。フランス3(フランス史)の世界観も参照のこと。
また、フランス革命は、ヨーロッパ思想史でもっとも重要な出来事です。
それは、カントやヘーゲルに代表される、「近代哲学思想」を「歴史と社会において体現」する出来事だからです。
フランスやドイツでは、カントやヘーゲルのように、「環境や社会が自分を受動的に作るのではなく、自分が環境や社会を主体的に作るのだ」という、「近代思想」を生み出しました。
ドイツでは、自らに「理性を使う自由」があり、その理性は「主体的な世界との関わり」から進歩し、その全てにおいて「人間の側が世界を作るのだ」という「理性に基づく自由」という思想があるのです。
そして、この自由の体現が、まさに「フランス革命」なのです。
明治維新を経験した日本人は、どうしてもフランス革命の「文明化」の側面ばかりを見てしまいますが、社会的な進歩だけではなく、「思想としてのドイツの体現があったのだ」と考えることが、フランス近代史を考える上で、またドイツの近代哲学史を考える上で、必要ではないでしょうか。
フランスは、フランス革命によって「民主主義化」しました。国王や貴族などをギロチンで処刑しながら、「人権宣言」をはじめとする新しい民主主義の体制を作り上げました。
そう、フランスは「民主主義の祖国」なのです。
そして、フランスの使命はそれだけではありません。フランスは、民主主義国家として「文明化」しました。同時に、その新しい社会制度のあり方、近代的な「国民の人権を守る国」を、世界中へと広げようとしているのです。
フランスは、フランスだけが文明化するのではなく、全世界を文明化していくのです。かつては、アフリカの後進国はその対象でした。植民地という名目ながら、フランスは世界中のフランス領土を文明化し、世界中すべての地域が民主主義の制度を裁定し、人権を守るようにしたかったのです。
民主主義も参照のこと。
(図説 フランスの歴史 (ふくろうの本/世界の歴史)を参考に執筆しました。)
03-文章より。
フランス革命が起き(第一共和政)、ナポレオンが皇帝になった(第一帝政)。
ナポレオンが没落すると、ブルボン朝の王政が復活した(復古王政など)。
再び二度、革命が起き(第二共和政)、ナポレオン三世の帝政となった(第二帝政)。
その後、共和政に移行した(第三共和政)。
13-歴史3より。
近代。
フランス革命でナポレオンが帝位についた(第一帝政)。その後に、ブルボン朝が復帰した。
さらに七月革命、二月革命が起きた。大統領選挙では、ルイ・ナポレオンが当選し、
ナポレオン3世として帝位についた(第二帝政)。
2015-06-23より転載。
人間の自由と平等は、人間の生まれながらに持っている、自然の権利だ。
ヴォルテール、モンテスキュー、ルソー、そして皇帝になったナポレオンは、そういう良い社会を近代で作りたかった。
逆に、ルイ14世は、朕は国家なり、と言うほどの、絶対的な王政をしていた。
また、マリー・アントワネットは、パンが無ければケーキを食べれば良いじゃない、といったことを言った。
それら王侯貴族は、フランス革命で、ギロチンで処刑された。
勝った革命政権は、恐怖政治の末に、ナポレオンが台頭して皇帝になった。
ナポレオンは、フランスを支配するだけでは飽き足らず、ヨーロッパ全土を征服しようとした。
ナポレオンが言うのは、フランスの戦争目的は、フランス革命の精神をヨーロッパ各国に広めるためだと言う。
そして、イギリスやプロイセンなどと戦って、最終的にはロシアに負けた。
ナポレオンは、ベートーヴェンが英雄と言う交響曲を作るぐらい熱狂的に支持されたが、ベートーヴェンが皇帝に本当になったことに失望するぐらい、落胆も多かった。
モンテスキューとヴォルテールは、イギリスの議会制民主主義を参考にしながら、三権分立などを作った。フランス革命期の啓蒙的な思想家だった。日本の民主主義も、この時の考え方を基に作られている。
フランス革命において採択された、民主主義(たとえば権力の分立)と人権保障(自由と平等、国民主権など)の宣言である「人権宣言」は以下から参照できる。
フランス語や英語で読みたい方は以下を参照のこと。
2023.11.25編集
フランス革命の中心勢力はジロンド派やジャコバン派。ジャコバン・クラブはもともとさまざまな思想を支持する人が集まる政治的集会クラブだった。ジロンド派はジャコバン・クラブに所属する派閥で、山岳派(ジャコバン派)とともに自由主義・民主主義・ブルジョアジーの代表を形成していた。
フランス革命の一時期、ジャコバン派のロベスピエールは恐怖政治を行ったが、テルミドールのクーデターで処刑され、ナポレオンが皇帝に就任して革命は終了した。
2024.06.08
2024.06.23編集
ナポレオンは、フランス革命を成功させてフランス革命後の恐怖政治などの混乱の中で台頭すると、民主的投票で皇帝についた。
皇帝についたナポレオンは、フランスへの対抗として軍事的介入をしようとしていたフランス以外の王国と戦争し、ドイツなどヨーロッパ各地の国へと侵略戦争を始め、ナポレオンの帝国の領土や属国とし、自分の親族をそれぞれの王位につけさせた。だが、ロシアに敗北した。
これは、ナチス・ドイツのヒトラーがフランスなどを一時的に占領したが、ソ連に敗北したのと良く似ている。
ナポレオンは、フランスの戦争の目的を「フランス革命の精神をヨーロッパ中に広めるため」だと言っている。だが、僕はきっとフランス王国だけではなく、他の王国も革命と同じように倒したかったのではないかと思う。
世界史(近世・近代)も参照のこと。
パリ・コミューンは、フランスの首都パリにあった革命的自治政府。
ナポレオン三世による第二帝政の時代、1870年にフランスとプロイセンの間で起きた普仏戦争で、ナポレオン三世は捕虜になってしまい、第二帝政は崩壊し、フランスは再び共和政になるが、そこでパリの市民たちは自分たちの政権として独自の労働者のための自治政府「パリ・コミューン」を設立する。
パリ・コミューンは労働者たちによる革命的自治政府であり、従来の中央集権的国家体制ではなく、自由連合的な自治体政府だった。
赤旗を明確に革命旗とし、さまざまな社会民主主義な政策を行った。後の共産主義者からは「理想」であるとされ、共産主義運動に多大な影響を与えた。
後日注記:実際のところ、パリ・コミューンは「72日間の夢」と言われるように、フランスの長い歴史の中でほんのわずかの一瞬に存在した「夢」のようなものです。ですが、それはフランスの近代において培われた考え方すべての「一大結実」のようなものでした。
2024.06.08-09
2024.09.28編集
パリのコミューン議員には、ヨーロッパの国際的な社会主義勢力である「第一インターナショナル」のパリ支部に所属するものもいた。
ロンドンでの第一インターナショナル(国際労働者協会)の設立宣言は、ブランキ派やプルードン左派、空想的社会主義者であるオーウェンの主義者など、さまざまな勢力による大集会となった。
ちなみに、共産主義の国際勢力である「コミンテルン」の別名は「第三インターナショナル」です。前身は「第二インターナショナル」です。日本共産党もコミンテルンの日本支部です。さらに後継として「コミンフォルム」「第四インターナショナル」「第五インターナショナル」「社会主義インターナショナル」などもあります。
ロシアも参照のこと。
2024.06.08
2024-07-25に関連する内容があります。