心理学の世界観1B(人生)です。心理学も参照のこと。
僕の独自の心理学は、「そのシチュエーションに置かれたら、人は何をしたくなるか」ということを、個人的に、自分の力で周りの経験から考えた、ということです。
そのシチュエーションに置かれたら、自分は何をしたくなるか、から、この世界の全てを分かった人間が僕です。
なぜ、歴史において、自然な結果が必然とされるのか。本当は、歴史においてどんな別の可能性があったのか。同時に、なぜその現象はその歴史や環境において、起きたのか。
僕は、「全ての出来事が、理由なく起きるわけではない」と思います。理由なく起きること、というのはありますが、それも自然であると同時に、「環境や状況から言って必然」だからです。
また、社会において、「自分の自由な意志と力がなければ、人間は本当の意味でそのことをすることはできない」と思います。不自由ならば人間ではない、というだけではなく、自分の自由な意志が無ければ、そのために考え、判断し、そのために経験し、自分の力でビジョンをもって考えることはできないからです。
そして、自分の自由とは、「自分に権利があるということは、自分に責任があるということである」ということです。最終的に、その結果になった責任は、100%自分でとるしかありません。逆に、全ての責任が自分に帰するということを分かっていれば、「どんな自由な選択肢があるのか」を考えられます。ここで、人間は「本当の意味での自由」を知るのです。
本当の自由の下では、100%自己責任しかありません。それが、そのまま、愛になるのです。「自分の責任であると知ることで、人々を高い立場から愛することができるようになる」のです。
また、精神とは自由なもので、社会や環境を100%自由に変えられるとしたら、それは「自らの精神に立脚して社会や価値観を生み出す」ということに繋がります。ここに、「自分は自分だけのものではなくなり」、「自分という意志を行使できるのは自分だけだが、それによってこの世界を変えることができる」ということを知ることができます。
同時に、社会を作ることが精神のレベルでできるようになると、「自分の心の中で社会を作る」ということができるようになります。そこでは、「社会や歴史や価値観が生み出されるプロセスは、自分自身の中にあり、世界全ての歴史が深層意識になる」ということになります。
極端な話、環境をみんなで作るというミクロ的な視点が、そのまま、自由と精神性へとつながり、「世界の歴史を全て生み出し続ける」というマクロ的な視点になるのです。
そして、ただ生み出すだけではなく、「解明」し、「発見」しなければなりません。経験をヒュームのような「経験から分かっていく帰納的推論」や、フッサールのような「厳密に思考することによる心の現象学」のように考えることで、人は「振る舞いから推測し、原理原則を発見する」ことができます。実際の精神の裏側が分からなくても、経験から、「精神とはこのように動くものだ」ということが分かります。
そして、社会心理学と発達心理学を融和して、「新しい世界を知るという名の成長」から、「この世界における社会学的な行動的発想」、すなわち「自由にできる範囲は社会を知り成長するにしたがって拡大していき、世界全てが変えられるようになる」と言えます。
また、これに少し、「自由というスパイス」を加えます。すなわち、支配することは悪ではありませんが、短絡的であるため、できるだけ取らないようにします。同時に、平等も短絡的です。必要なのは、「自由を保持したまま、それぞれが自由にできるようにしたままで、可能性を制限せず、それぞれの緩やかな連合体としての社会を形成し、その単位を小さく、柔軟に、シンプルにすること」です。
そして最後に、「人間性を守る」というのがあります。これは「機械や制度に人間という動物そのものが支配されることを防ぐ」ということであり、機械の一部になったり、制度のロボットになってはいけません。ここで、自由は必ずしも正しい価値観ではなく、「平等な有機物としての美しい肉体を守る」ということが必要になってきます。
人間性とは「魂の安らぎ」であり、「人々との議論や争いの末に分かる、暗闇の中に宿る光」です。これを経験することで、指導者としての道を生きることができるようになります。いじめに負けず、人々を本当の意味で愛し、世界全ての人間の営みを、「自分の手で救えるぐらいのポテンシャル」を持つことができるのです。
また特に言えることとして、「全ての考え方はそれ自体が自然な発想から生まれたものであり、よく考えれば矛盾しない」というのがあります。これを考えると、全ての人間の人格と、全ての科学を、再構築して成立させることで、「全ての人格を包括する」ことができます。哲学者も自然科学者も芸術家も、「全員全部が同時に成り立つ」のです。
同時に成り立つだけではなく、「もし自分と同じように理解したとしたら、自分の考え方は他人であっても全員が理解できるだろう」という、「仏の平等」がそこに見えてきます。ブッダやキリストと言った人間は、特殊な人間ではありません。彼らは普通の人間であり、もっとも正しく考え生きただけに過ぎないのです。
その時、人は悟ります。「この世界において、間違ったものも、無駄な経験や知識も、意味のない出来事も、ひとつもない」ということを私たちはそこで、実感として知り、その上で、新しい作品を死ぬまで作り続けるようになるのです。
これこそ、「永遠を超える、有限の中での生命の根源までの到達点」と言えます。人間は、本来、永遠に生き続ける必要はありません。いつか、成長も経験も思考もできないほどの、「完璧な最期」が必然的に訪れるからです。そこで、人間は終わりです。ですが、「終わっているように見えて、まだ終わっていない」という人間の摂理があります。ただ分かっただけでは終わりません。戦って、勝利し、王となり、偉大な成功をおさめ、全ての学問を知り、経験全てを人に伝え、教えるべき全てを教えて、楽園を実現しなければなりません。ですが、それは必ず終わります。永遠に生きる必要はありません。教養のトリセツ 心理学を参考に執筆しました。
スーパーの職業的発達段階では、人生の段階を成長段階(0歳~14歳)、探索段階(15~24歳)、確立段階(25~44歳)、維持段階(45~64歳)、衰退段階(65歳以降)に分類する。
エリクソンは、青年期において、「アイデンティティの確立」が重要な発達課題であるとする。アイデンティティとは自己同一性のこと。
青年期において、「自分とは何なのか」「将来どうすればいいのか」と、アイデンティティの確立のために問うこうした学生の時期を、エリクソンは、「モラトリアム」と呼んだ。
モラトリアムとは「猶予」という意味で、司法においても使われる用語。心理学においては、大人になるまでに必要な、社会に出るまでの猶予期間、つまり学生の時期のことを指す。
2020-04-15に関連する内容があります。
心理学(心の現象学)も参照のこと。
問題解決の技法も参照のこと。
結婚・子育てを参照のこと。