心理学の世界観1A(心の現象学)です。心理学も参照のこと。
僕は、心理学的に考えるためのルールとして、以下のようなものがあると思います。
1.思い込みや脊髄反射をやめる。脊髄反射で考えるのではなく、良く観察して、視野を広げ、対象をきちんと見つめる。宗教的な思い込み(ドグマと呼ばれる)を排して、先入観なく、科学的に考える。
2.必要のない欲を棄て、外部にあるものを必要としなくなる。内部のものについても、何が何に立脚し依存しているかを考え、自分だけの力で考えられるようになる。
3.自分が本当に何をしたいのか、自分がそのことを本当に分かっているのかを、疑い、自分の経験から前提条件なしに考える。
4.自分が本当に何を知っているのか、自分がそれができることで何ができるのか、自分だけではなく人々について、社会についてそれは何を意味しているのかを考える。
5.自分だけではなく、他人の立場に立って考える。今の世界だけではなく、過去の歴史や未来の地球について考える。また、個人だけではなく、生物や人類のつながりを考える。何から何が発生するのかを、現象学的に捉える。
このようにすることで、心理学的な認識と経験を考え、感情を捉えて哲学的に考えることができる。
心理学とは、認識や刺激など、外界から入ってきた情報や認識によって識別した情報に対して、どのように心が働くか、反応するかを考える学問です。
外界から入ってきた情報と反応とは、「メロンだ、美味しそうだ」といったように、「何かを見たり聞いたりして、それに対する反応としてどのように心が働き、人間は行動するか」という「認識に対する心の振る舞いやその法則性」のようなものを考えます。視覚や聴覚などの知覚だけではなく、経験や記憶などの「学習的・知識的な内容」も含まれます。
また、認識は必ずしも単なる識別とは限りません。その情報が「どのような環境・状況で伝わったか」ということ、その情報が「誰が(味方あるいは敵)自分に対して伝えたのか」のようなものも考えます。
また、情報に対する反応は、必ずしもその場その場の一時的なものではなく、「人生を生きる中での発達過程」となることもあれば、「環境や状況における共通の原理・法則」になることもあります。
心理学は、そのように、科学的な「心の働き」を考える学問です。
僕は、心理学をひも解くカギは、「状況」と「学習」ではないかと思います。
まず、さまざまな場面や環境において、その個人は「状況」にさらされます。その個人はその状況で何をするか、それは、個人の側にあるものよりも、環境の側にあるものの方が強いのではないかと思います。
同時に、人は「学習」します。学習したことから、知識と考え方によってこの世界のことを「経験的に把握」します。
その状況と学習を知ることで、人の「経験」が見えてきます。ここで、心理は経験に基づく「設計図と実装の関係」になります。また、原理原則を考えることで、「積み重ねた知識から、統合的に自らの手で知識を構築する」ことができます。それを、人は哲学者と呼ぶでしょう。
状況に基づいて行動が行なわれるのであれば、行動を支配するために「状況そのものを自ら支配し構築する」ということができるでしょう。さらに言えば、人々全ての行動が「どんな状況と学習に基づくものか」ということが分かるようになるでしょう。その上で、人々を建設的に正しい環境へと導いていくために、「個人の自由の尊重」が挙げられるでしょう。その上で、行動に対する「責任」を「自分に由来するものだけにする」ことができます。それはつまり、「100%自分の責任として行動できるような行動のみをする」ということになります。つまり、他人に依存せず、自分だけに頼り切る、ということです。ですが、それは失敗することもあります。他人に依存しなければ孤独を生み、他人に相談しなければ自分だけで解決しなければなりません。
そうした考え方をすることで、逆に、「自分が事前に作り上げること」から「自らの独自の学習を行う」ことができます。それは、「自らモデルを作る」ということです。事前に作るだけではなく、経験的に「帰納的に学習する」ことで、「心のはたらきを解明する」ことができます。ここで、行うべきことは行為そのものではなく、行動の前提となる「方法の共有」、あるいはさらに発展して「命題の共有」ということになります。
さらに言えば、「必要としないこと」から、「依存性の脱却」を図ることができます。こだわりや葛藤に囚われるのをやめ、最初からそれに頼らず冷静に自分だけで生きられるようにすること。それをすることで、心のたがが治ります。ですが、問題なのは、「何が原因か分からない」という病気です。この場合、さまざまなことを治し続けて、やっと最後に分かることがあります。
後日注記:自分だけの責任で自立して行動できるようになるまでは、多くの人の助けが必要です。人々とコミュニケーションし、「本当の交流の楽しさ」を知ることで、逆にストイックになったとしても、過去のそういう楽しさが記憶の中にあるだけで、人は孤独な人生を生きられます。青春とはそのためのものです。
心を解明して「全て分かった」と思った気になるかもしれませんが、心のはたらきというものは、個々人に共通しているものでしょうか、それとも、個々人それぞれの心は違っているのでしょうか?
これは、「自分がどのように変わったか」ということから、見出せることができます。
たとえば、学校から解放されて、自由になって、その上で自分なりの人生を生きて、何が分かったか、「あの時はこう思わなかったけれど、今ではこうも思える」とか、「あの時は分からなかったけれど、今ではそれが正しいのが分かった」ということです。
それから、心を計量的に考えることで、「心の法則」というものが創り出せるでしょう。ですが、それが本当に正しい原理であるかどうかは、誰にも分かりません。ですが、心の精神の現象学を作ること自体は、有益なものだと思います。
「自分の人生が今までとまるで変わったから、たくさんの違った人間が居ることが分かった」という経験から分かることもできます。ですが、これは注意が必要です。昔よりも今の方が賢くなった、と思い込む人が多いからです。実際には、病気になって、馬鹿になって、昔とは違うことをいつまでもしているのは、狂っているからにすぎません。以前の人生が嫌いになり、「あのころよりも全然良くなった」と思う人が多いですが、そういう人に限って、許せないことをいつまでも許そうとせず、昔の自分も今の自分も全て裏切って、自分の身勝手な過失を正当化するものです。
大学の心理学で、きちんと研究したいと思った時は、動物を使うことが多いです。動物に学習させたり、動物の行動を観察したりすることで、心理学は行われます。生物学と、何も変わりません。
心理学の課題とは、「何も執着しないこと」、すなわち、「何も必要としないこと」です。
何かの大切なものが失われたショックによって、人は過去に失ったものに執着します。そこから、心の病気が始まります。
ですが、聖書や仏典の教えにも通じるかもしれませんが、何も必要としないこと、全てを他力に任せることで、「逆に人生の生き方全てに満ち足りた精神を得られる」という境地が僕にはあると思います。
それは、心理学でいう、「それにはまりきって満足した最高の状態」を指す、フロー現象のようなものです。僕は、何も必要としない生き方をすることで、引き篭もりの自分から救われました。何もなくても、そこに平安を見出すことができました。そこから、全ての観念的な存在の意味が分かり、全てはありのまま魂の通りにあるのだという確信が、理解できました。そこでは、「自分自身になる」ということが、正しい唯一の生きる目的だったと思います。捉え方によっては、「本来の自分に戻る」と表現しても良いでしょう。全ては同じものの捉え方にすぎません。執着しなければ、そうした「正常な捉え方」が見えてくるものです。
また、もうひとつ言えるのは、「全ての体験は自分のためになる」ということです。知っておくか、知らないでおくか、ということに悩んだなら、知っておくほうを取りましょう。知っておけば、知らない自分より、一歩高い目線からものごとを眺められます。知は力であり、それは知識を知るだけではなく、体験を知ることでもあるのです。苦しんだ体験があるからこそ、楽しむ体験とは何なのかを知ることができるのです。社会を変えるためには、社会のことを良く知っておかなければいけません。知る前の自分と知った後の自分では、必ず知った後の方が賢いのです。それを信じて生きましょう。ですが、知る前と知った後を比較することは有益です。経験の意味を自分で考えることができるからです。それこそ、心理学者の存在する意味ではないでしょうか。
心理学が最後に行きつくのは、僕は「環境を作り出す」ことではないかと思います。心理学的に、環境の秩序を作り出すことで、この世界を自由な導き手として導いていけるのです。ニーチェが「超人」としたならば、僕は「導き手」と言いたいと思います。神でも超人でも暗号でもなく、世界を支配しているのは、自由な導き手ではないかと僕は思います。
また、僕が心理学として言えるのは、「どこまでが伝達可能で、どこまでが本人にしか分からないのか」ということではないかと思います。知識やコミュニケーションで伝わることもあるでしょう。ですが、本人の人格や考え方にあるのは、本人にしか分かりません。言ってしまえば、アインシュタインの相対性理論は、アインシュタインにしか分かりません。生きるということは複雑で、他人が簡単に理解できることではないと、乃木坂46も言っています。
言ってしまえば、僕がこの文章を書いている、ということは、「僕の複雑な考え方を誰かに理解してほしい」ということです。そう、僕は単純な頭をしているからこそ、考え方や人生が増えていって、結果複雑になってしまうのです。そのせいで、僕は簡単なことを書いているだけで、未だに自分のことだけを完璧に書こうとして書けていません。僕にとってもっとも難攻不落の壁は、僕自身の考え方を理解することである、と言えるでしょう。そして、人間とは、誰しもそのように、自分のことだけが自分の中で一番解決不可能になるものです。自分自身を思い出すことに比べれば、大人の常識やパソコンの才能なんか、屁でしかありません。
後日注記:本当の真理の理解を積み重ねることで、「全員全部理解できる」ということは僕はあると思います。全ての人間の分だけ、理性と思考と想定的な分析から全ての理由を知ることは可能です。その時、この宇宙の全ては、自分が作り出したもののみから説明できるようになります。それが、「本当に全てを自分の力で悟った人間」である、過去の僕です。
僕の経験から言って、自分の一番見たくない暗い部分を知ることから、精神の成長は始まります。
辛かったら、逃げていいのです。人生の全てを棄てるつもりで、一切の過去のしがらみを捨て、安全な場所へとダイブすることができたら、どんなに楽でしょうか。
ですが、人間が大人になるためには、一番見たくない部分を見ることも必要なのです。
たとえば、いじめが嫌いなら、学校を棄てて2ちゃんねるを見ることです。そこで、新しい人間関係を、「今の自分の苦しみを度外視して見つめること」で、あなたは誰も経験しない、「本当の賢者の精神」を知ることができます。人々との触れ合いから、「本当に親友と対話する意味」を知るのです。
そうした経験で、「過去の自分が脱却できなかったことからきちんと一度脱却する」ことができ、大切で確かなことを知ってしまえば、あとは自分の力で歩んでいきます。必要のない全てのしがらみを捨てて、自分で科学を作り、人々がなぜ迷っているのかを知り、最澄の言った「一隅を照らす」という言葉のように、自分がこの世界のちっぽけな身の回りの空間を、照らすことができるようになるのです。
実際のところ、行動心理学には二つあります。ひとつは、「なぜ行動するのかのふるまいに関係する原理を知ること」、もうひとつは「精神のしがらみやとらわれを無くすこと」です。このために、心がどうしてそのような「現象」を起こすのか、人々がそのように行動するのはなぜなのか、「何を知っていて何を知らないからなのか」を考えるのです。そのためには、「心の裏側にある心」を考える必要がります。また、「経験から何を思い込んでいるのか」を考えて、その「ドグマ」を晴らす必要があるでしょう。最終的には、この宇宙全てが解明されるのです。あなたは何でも分かり、何でもできるようになります。
ある意味、僕は本当に「成長過程にある中学生・高校生にしか分からないこと」というのはあると思います。彼らは成長の中で「過程」を捉えることのできる唯一の世代です。社会についても、心についても、「変化と過程」を考えようとし、「過去の自分の問題を克服」しようとするのです。そこから、「本当に清らかな仲間との素晴らしい体験」をすることができます。それが、青春です。
僕が心理学について言えるのは、「人間の心は、自分が過去に経験して作り上げたものや、でっちあげたものでできている」ということです。
これについては、ロックなどイギリス経験論の哲学者の時代から同じことが言われています。
自分の心の中にある感情は、全て、経験的に、自分の過去の経験から生まれたものです。それ以上でも、それ以下でもありません。
過去の自分の行動や、見たものや出来事などから、心は変貌し、その結果、心はどんどん作り出されて、最終的に「自分の心が形成される」のです。
ですから、トラウマや恐怖を感じたら、そのトラウマが自分の心を不安や強迫観念に陥れて、心の病気が作り出されるのです。事実や過去の出来事はなくなっても、こうした心の傷はいつまでも残り続けます。
過去の記憶をたどっていくと、心の中にあるでっちあげたものが、どういう存在理由で存在しているのかが見えてきます。この「存在理由となった出来事を上手く再処理し、再対処する」ことで、心の病気は治ります。
しかしながら、心を捉えるのは簡単なことではありません。
なぜなら、心はひとつの原因となる出来事から、他の出来事へと連鎖し、結びつき、光が影を生み出すように、いくつもの関係と作用から、「心の現象全体」を作り出すからです。
狂った人間の特徴として、「人格が破綻して世界を支配する」ということが言えます。
本当に統合失調症になると、人間は人格と記憶が自らの身勝手な行動から破壊され、言葉すら分からない人間になります。
その人間は、勘違いして世界を支配するようになります。
彼にとって、自分の行動が正しいか、間違っているかは「どうでもいい」のです。彼は体験を何かの目的のために行っているのではなく、体験そのものを楽しんでいるからです。世界を何かのために支配するというのではなく、世界を支配しているその体験をやりたいがために、彼は戦い続けるのです。
また、ここに、僕が個人的に思いついた、賢者と英雄の例を出します。
1.賢者は、後先のことをよく考えた上で、今それができなくても後々それを修正したり再挑戦できるように行動するが、未来のことばかり考えてしまって、決断することができない。
2.英雄は、後先のことを考えず、今しかできないことをする。今のことをするのに精いっぱいになってしまい、きちんとした正しい判断をすることができない。しかしながら、英雄はその時にしかできないチャンスを正しく実行し、英断と決断をする力を備えている。
ここで、賢者と英雄、どちらが正しくて間違っているという話ではありません。また、賢者と英雄は同一人物で、「時には賢者のようにふるまうが、時には英雄のようにふるまう」ということもありますし、「昔は賢者として生きていたが、今は英雄として生きている」といったこともあります。
心理学(人生)も参照のこと。
問題解決の技法も参照のこと。