一目で見て、出来るようにする、と言う発想が多かった。
世界観と論理学のようなものから、この宇宙の全体像を把握していた。
抽象的に予測する、認識と正しさを知る、可能性を作る、などと言っていた。
自分は、理系が出来ていないから、理系の勉強をした方が良い。
デカルトは、我思う、故に我ありと言っている。この我ありが、不思議と、賢い。感覚や知覚を何も失っても、我があることは、思うことから分かる。それが一番確かな真実だ。
理系を出来ないとは言うが、昔は論理学を考えて、この宇宙のことを全部分かっていた。
理系は、昔のように、何も分からず考えていると出来る。
そんなに分かるから、出来なくなる。もっと、一段階上のレベルで、賢く考えれば良い。
理系は、そんなに分からない方が分かる。
実験の考え方を分かると、推測的な方法論が分かる。
どの場合でも、そうなるなら、その法則の通りになる。そういう風に考えれば良い。
テープレコーダーとビデオテープには、映像が入る。そこが賢い。
ものは自分では無いとか、ものは大きさや長さが違うとか、当たり前のことから推論するとか、実験から研究してものを作るとか、発明が難しいとか、そういうことを言う。
いつも、そういう、馬鹿なことばかり言っている。物理には見えない。そういう、当たり前のことを構造的に、関数のように考える文章が多かった。
物理法則は、人間とは関係なく起きる。人間は、まだ全てのことは分かっていない。
あとは、感情や心理現象のようなことを書いていた。
いつも、そういう風に、「理性」のような文章を書いていた。そこから「経験」を考えた。
方法から、経験を考える。経験から方法を見つけ出すことが出来ると言っていた。
物理が分かると、新発見が出来る。哲学的な真理も、新発見から分かる。
そういうわけで、物理の知識なんか、あっても意味は無い。もっと、一段階上のレベルに立って、良く考えると、物理なんか誰でも分かる。もっと現象や捉え方を考えれば良い。
場は、精神現象であり、意識と感情の生成である。そういうことを言っていた。
物理と思わずに、新発見と思えば良い。色んなことを発見していると、哲学が出来る。
良く考えて、捉えながら、環境や基盤と可能性を変えることで、新発見が出来る。
その時、それがどうなるか、良く考えて、どう出来るか、どうなればどうなるか、のようなものから、どうすべきか、何が正しいか、そこから何が言えるかを考える。
そういう、考え方のようなことを言っている馬鹿が多かった。誰から見て、どう見えるか、のようなことから、どんな社会を作ることが出来るか、誰に伝え、誰と共有し、集団になってどういう風になるか、どんなプロセスから、必然的に何になるか、実証から何がどう正しいと言えるか、何が成り立つか、その社会において何が出来るか、出来るようにするためにどうすれば良いか、何が経験か、何が経験の諸相か、などを考えれば良い。
社会や意識を経験の相であると言っていた。様相的に、ある1つの相として、社会のことを仮想的に考える。意識のことは、変えられる現象と捉え方であるとする。
それくらいしか書いていない。そういう文章が一番多かった。
あとは、プラトンの言う、イデアのようなものを仮定すると良く分かる。この世界は、真実の世界の「型」である。真実の世界は、どこかにあって、この世界はかりそめである。そういう風に考えると、この世界が何なのかも、可能性から洞察出来る。
プラトンは、何もかもイデアだ。真善美から、人生や社会まで、イデアで全部分かっている。あとは、哲人の王のようなことを言っている。プラトンは賢くないが、まともだ。
その社会にするためにはどうすれば良いか、を環境の経験から積み重ねて、理想の社会を作る方法を自由に分かった。そこから、仏の慈悲や神の愛を分かっていた。
あとは、人間のことを考えれば良い。自由な選択をどのようにすれば良いか、どう生きるべきか、などを考える。一度、世俗から離れて、離脱して、この世界のことを離脱した中で考えると良く分かる。離脱しながら、様々な経験と思索を積んで、その後に社会に戻って、賢く社会のことを経験し、理想の世界を実現する。そういう人間が理想だ。
昔から、自分がそれくらいの馬鹿だ。昔の自分がそれくらいの人間だった。
あとは、子供なりにこの世界のことを全部知っていた。それで、救世主になっていた。
あとは、社会や環境のことを必然性から考える。
数学の証明とは、そういう、必然性を考えることを言っている。
数学は、論理学を自分で作ると出来る。経験から、方法的な体得を知ることが出来る。
この世界のことを数学的に把握していた。それくらいの人間だった。
あとは、もうあまり残っていない。パソコンで知を知って、技術や歴史のことを知った。
あとは、言葉にして、名前を付けると分かる。名前を付けると分かる人間が多い。
だが、逆に、名前も無い、主観や客観も無い、可能性と実在だけの世界も考えていた。
そういう風に、この宇宙のことを、事象として考える。哲学にそういう発想が多い。
自分は、そろそろきちんと分かった。あとは、意識から社会や経験を分かっていた。
そろそろ、こういう風に、「怒りの中で死ぬ」と言う体験を止めた方が良い。
もっと、平和で、協調性豊かな、平安の世界にした方が良い。
自分は、いつも怒りの中で死んでいる。そういう神を信じている。まさに馬鹿だ。
神を、もっと平和な良い神にした方が良い。戦いと怒りの神はおかしい。
昔は、社会のことを関係、方法、行動、目的から分かっていた。
社会に対して、自由に何かをすることを、仮定して、事前の考え方を作って分かる。
それで、社会のことを分かった。意識から、社会がどうなるか、全部分かっていた。
自分は、そういうところが賢い。あとは、大人になる経験で分かっていた。天才的だ。
あとは、「正しく客観的になる」と言う発想から、主観と客観を良く比較して、「自分やその人はそう考えるが、その行動をすると、他人からはそう見える」と考えた。そこから、「宇宙的な主観的、客観的な実在の真理」を分かっていた。それくらいの人間だった。
あとは、世界のことや現実のことと、仮想的な考え方を比較して、仮想的で理想的な人間像のようなものを作って分かっていた。人間のモデルをそういう風に作った。
そこから、全員の経験を知りながら、人生のことを分かる。
そういう、「世界に居る全員」と「考え方」のことが分かる人間だった。
あとは、物理は、何も考えない方が出来る。それも、「個別性と普遍性」を良く考えると出来る。イデアのような「型や原理」を考えれば良い。物理なんか、それだけだ。「形態や振る舞い」のようなことを考えれば良い。そういう風にすると、「正しい考え方」が分かる。
昔から、主観と客観を比較して考える。共に経験し、想起し、主観的な思考と客観的な事実を考える。昔は、それしかしていない。そこから物理的な考え方を、経験で分かっていた。そこから、精神現象のようなものを、ヒュームのように推論や実験から考える。
そういうものは、ユング心理学の本で読んで分かった。昔は、最初から分かっていた。ネットで沢山の経験をすることで、本当に心理学が出来た。フロー現象が多かった。
想起の原理を、反省と客観視から分かっていた。そこからブッダのように悟っていた。
想起的、人格的、深層心理的な原理を、経験と体験、ネットでの実験から分かった。
あとは、具体例、法則、変化、因果性のようなものを、想像力から分かっていた。
それが何故そうなり、どのようにそうなり、何から何になり、何と関係し、何をもたらすことになり、何から生まれ、何を作り出し、どのように支配出来るか、などを考えた。
今日は、考え方の日になった。新しい宗教に見える。
最近、想像力が無くなったが、昔は想像力があった。想像力から自由の文章を書いていた。
それから、物理は本当に、何も分からない方が出来る。色んなネットなどの、この社会と世界を知りながら、何も考えず、色んなことをやっていると出来る。だが、考え続ける必要はある。きちんと正しく捉えて、「全てのことをきちんと分かる」と出来るのが物理だ。
認識を比較し、事前に作ることで、ものを作り、予測し、思考力をつけることが出来る。昔は、これで色んなことを予測していた。心から社会まで、どのようになるか経験的に全部分かっていた。理性もあった。デカルトのように理性で考えていた。
あとは、全員を包括して、全員吸収して、全ての経験を分かっていた。
昔は、これくらいの人間だ。今日は、心理と社会の経験から昔のことを分かった。
昔は、人生経験が多かった。人生経験から、哲学者のように分かった。
最近は、人生経験をしていない。経験が無い人間になっている。
神の経験をそんなにしても意味が無い。神は右翼だ。何もしないからこういう風になる。本当に、自分は何もしていない。ただこの文章を書いているだけだ。
昔は、パソコンのことを知り尽くして分かっていた。社会やもの作りのことは、そこから全部分かっていた。科学から心理学まで、全部パソコンで分かった。人間を、原始人から変わらないとか、そういう風に意味が無く分かっていた。
パソコンなんかしたくない。パソコンをやっていると、狂って知性が無くなる。
仕事をすれば良いように見える。労働は賢くなる。昔は、労働の経験で分かっていた。
昔は、「全員を包括して、世界モデルで分かる」と言う発想が多かった。
そろそろもう書けない。もう、全部書いた。もう残っていない。
色んな文章を読んで、ネットの世界を全部知っていた。ただ、あれはクズみたいに馬鹿だ。ネットで人々を扇動し、操って支配する。明らかに、そういう馬鹿が馬鹿なだけだ。
社会の歴史の必然性や、社会をどうすれば良いか、どうすれば目的の社会になるか、のようなことを、いつも書いていた。何かから何かになるのを、モデルにして考えていた。
人間と社会のことを、モデルにして、説明可能にして、実地的に考えていた。
もう覚えていない。昔なんか、それくらいの馬鹿だ。
良く分からない。もっと新しい人間になった方が良い。
最近を哲学とは言うが、哲学は内容が昔の自分だ。そんなに昔を分かりたいのはおかしい。
そろそろ、昔で無いことをした方が良い。昔の自分を分かりたい人間は居ない。
もっと、人生全体から環境まで、色んな経験のことを考えれば分かる。
自然に体験が生まれる。昔はそれくらいの馬鹿だ。意識から体験を考えていた。
人との関係性、個人と集団、経緯と構造、主観と客観、場と視点のようなものを、2ちゃんねるで考えていた。客観的な場、個人的な主観、そこでの集団と関係を考えていた。
そういうことを言う文章が多かった。哲学は、2ちゃんねるで誰でも出来る。
あとは、哲学なんかしない方が良い。フッサールも同じように分かるように見えて、それは明らかにもう良い。もっとマシな学問をした方が良い。現代史をきちんと読むべきだ。
2ちゃんねるも悪くはない。色んな社会的な経験をすることで、科学のことが良く分かる。それこそ、普通、何も分からない。何も分からなくなっても、分かる人間が多い。
何故か、心理学と哲学は、2ちゃんねるだ。カントとヘーゲルは、2ちゃんねるにしか見えない。そういう人間が多い。2ちゃんねるは一番悪い。哲学は、馬鹿になる。
明らかに、ドイツにそういうものが多い。スラムのようなものが多いように見える。哲学は、そういう風に、世界のことを全部経験して、狂っていると出来る。社会のことを経験しないと、分からない。不思議と、ドイツ語がおかしい。ドイツ語が2ちゃんねるだ。
ヨーロッパは止めた方が良い。ドイツには馬鹿しか居ない。ドイツ語が馬鹿なせいで、皆馬鹿だ。ドイツ語は何かが馬鹿だ。2ちゃんねるどころか、おかしく馬鹿に見える。本能的な言語に見える。日本語の方が良い。日本語は、形容的な言語だからまともだ。
自分が馬鹿なのは、おかしく全部2ちゃんねるになっている。全部ドイツだ。こういうドイツは、本当に悪い人間になる。ドイツは悪い。ドイツを殺すと、すぐに治る。
あとは、地球の歴史や社会の変転など、想像力で世界を考えれば良い。
自分は、家族の中で、ドイツを担当している。神が言っていたように、ドイツには全てのことが起きる。神が見ても、ドイツ人だ。顔を見てもドイツ人に見える。
ドイツは、こういう風に、一番想像力がある。戦う人間が多いし、神を信じる人間が多い。
あとは、物理や数学は自分が一番出来ている。何もおかしくはない。
自分は、知性を考えれば良い。昔は、環境と方法から想像力と知性をつけて分かっていた。
今日も農園に行ってきた。以下は農園で分かった内容である。
社会的な行動と目的を分かっていた。
何をどうすれば栄えるか、滅びるか、のようなことを言う。
社会の可能性と考え方の網羅を書いていた。
仮想的な社会状態、環境状態のようなことを、想定して考えていた。
ドイツ史やフランス史をすると、分かる。
どこかの国の価値観をきちんと分かると、分かる人間が多い。
むしろ、自分はドイツ史で良い。ドイツが好きならそれで良い。
昔から僕はフランスの方が好きだ。フランス語とドイツ語をしたかった。
哲学には、考え方の哲学と、人生の哲学がある。
デカルトやカントは考え方の方で、ヘーゲルやサルトルは人生の方だ。
真善美のようなことを考えれば分かる。
人生をどう生きれば良いか、のようなことを知る。
仮想的な場と人格を考えていた。
環境を考えていた。
主観と客観を比較して考えていた。
認識の真理を考えていた。
認識がどうなるかを考えて、認識を全部捉えて考えていた。
心理学的な真理を分かっていた。
維持するのではなく、変えれば良い。
支配するのではなく、自然に任せれば良い。
大人になって分かっていた。成長して、学習して分かった。
農園で分かった内容は、ここまでだ。
昔は、「実践方法」のような内容が多かった。
心理的に社会のことを変えて、影響力を与えると言う。
自然状態から、一人の手で築くことも出来るが、皆で決めて、協力した方が良い。
一人で考えるより、皆で考えるべきだ。
あとは、信念や心構えのようなことを言う。
そういうものから、「自由な社会」を言っていた。
実践方法と心構えから、「どのように自由にするか」のようなことを言う。
そういう、どんな自由な社会を作って、何をどのようにするべきか、を言っていた。
この世界を変えれば良い。維持するのはおかしいから、変えた方が良い。
治したり、神にしたり、戦ったり、自分にしたり、馬鹿にしたりするのは悪い。
もっと、きちんと幸福な世界にした方が良い。
自分にするのは悪い。自分にすると、地獄みたいに辛くなる。馬鹿なクズになる。
この世界をどうすれば良いか、もっと良く考えて、経験するべきだ。
人間は、考えているだけでは分からない。行動する必要がある。昔は、Wikiを書いたりして、行動することによって、色んな実践的手助けから分かっていた。
そういうわけで、何もしなければ分からない。哲学の文章を書いているせいで、最近賢くなった。そういう、何か賢いことをすれば良い。
何かをしていると、それによって、必然的に世界と経験のことが分かる。昔は、そういう風に分かっただけだ。ネットで色んなことをしていた。そういう風に分かる人間が多い。
そういうわけで、経験から社会のことを全て分かっていた。行動的な人間だった。
自分は、政治経済はしない。見ていると、出来るわけがない。高校の政治経済の参考書は、内容が多すぎるし、難しい。自分には出来ない。もう、出来たのがロシア経済学だ。
歴史は無視して良い。歴史では分からない。フッサールもしなくて良い。図鑑を見ると、フッサールなんか明らかに賢くない。賢いとは言う。フッサールに分かる人間が多い。
あとは、世界史の本を一応読んでいる。今、イタリアの統一運動を読んでいる。
だが、歴史は意味が無い。むしろ、哲学と歴史は明らかにおかしい。知識としての構造がおかしいように見える。哲学と歴史で分かるわけがない。パソコンの方が賢かった。
見ていると、心理学が良い。見るからに心理学が一番賢い。心理学をした方が良い。
昔は、環境を感覚で分かっている。周りにものがあるとか、浮遊しているとか、そういう風に、感覚から意識を考える。そういう馬鹿な人間だった。
人間は、馬鹿の方が分かる。馬鹿の方が、自分の体験から、賢明さや愚かさが分かる。数学も、何も分からない馬鹿の方が出来る。色んな発想は、馬鹿でないと出来ない。
そういうわけで、馬鹿になった方が良い。馬鹿は賢い。
昔を分かる人間とは言うが、昔は何も分からない人間だ。何も分からないから分かっている。そういうわけで、本当に馬鹿の方が賢い。経験から社会の構築と発生が分かっていた。
本当に馬鹿になった方が良い。馬鹿は賢い。最近も、普通の人間より馬鹿だから賢い。
ただ、数学的な考え方と捉え方ぐらい、分かった方が良い。自分は、科学的考え方をそこまで考えれば分かる。そういう風にすると分かる。言葉にするだけをするのではなく、きちんと対象を見て、可能性と変化を把握して、現象を捉えて考えること。社会のことや、意味のことも、そこから分かる。あとは、行動すること。そういうことを言っていた文章が本当に多かった。そういう、実践的で科学的な知性と方法をいつも書いていた。
昔は、成長して、大人になって分かっていた。大人になると、色んなことが出来るようになる。あとは、科学的な考え方と、精神的な現象を考えれば良い。情動や欲動のようなことを考える。科学的な考え方は、色んなデータから、何がどうなっているかを洞察して、結果から何が言えるか、体験的な知識と経験から、それが何を意味しているか、それは、もっと別のパターンを試して、どのように確かで、正しいか、のようなことを考える。きちんと科学的な方法を考えれば良い。「どうすれば発見出来るか」を考えれば良い。それは、「何が正しいか」だ。そのことを成り立たせる複数の可能性から、別の可能性が分かる。方法は変えられる。色んな社会やシステムの可能性がある。法則は別の可能性がある。
昔は、「人に教え、分からせる」ことから分かっていた。悪く言えば、「騙す」だ。
そういう風に分かったのが悪いだけだ。昔は賢くない。ただの悪魔だ。
ただ、あれは結構賢かった。本当に、救世主のように、世界を解決出来るようになった。
あとは、自由に反抗して分かる。あれはそういう、クズみたいな人間だ。
ただ、あれは、宇宙のことが全て分かっていた。
そういうわけで、昔は賢くない。昔はもう忘れた方が良い。
哲学もしなくて良い。哲学は、昔の自分が分かるだけだ。もう、する意味が無い。
あとは、世界史もしたくない。数学でもすれば良いが、したくない。
数学は馬鹿にしか見えない。因数分解なんか、出来ても全く意味が無い。
自分は、昔から騙したいだけだ。その、騙すのを止めれば良い。それで楽になる。
自分を神が騙すせいで、何も分からなくなった。全部、騙すのが悪い。
見ていると、昔なんか、騙しているだけだ。完全に皆を分からなくする。意のままに支配して、操る。ただ、あれは皆を賢く出来る、ありえない良い人間だった。
経験論は、現象学だと思えば分かる。
哲学と思わず、知性のある人間になる、と思えば分かる。
見ているだけ、から知覚が分かる。人間がものを作り出すのが分かる。
全てのものは、人間が作りだし、人間に知覚される。
それから、「向上する」と言う発想をすると分かる。想像力と判断力から知性がつく。
全てのことは経験であり、経験的に実証され、自分が同意したものだけが、自分の心の中に加わる。愛し、話し、関わる中で、経験と感情から、宇宙の真実を意識で分かる。
そういう風に考えれば良い。経験から知性がつく、とロックなどが言っているのは、そういうことを言っている。そういうわけで、「社会の関わり合いの中での経験的な知性」のようなことを言っている文章が多かった。人生や観念や心の構造のような文章だった。
昔は、「意味を見出す」とか、「主体的な自分の存在が関わる」とか、「経緯を環境が支配する」とか、意味や関係のことを良く考えていた。自分とそれが関係して分かっていた。
そろそろ哲学も終わりだ。経験論もきちんと分かったから、全て分かった。
昔は、それくらいの人間だった。ここらへんの未来の文章が分かっているのが、過去だ。
過去も変わる。未来によって過去は変わらないと言うが、何故か、過去の方があとに決まっている。そういう運命が多い。未来から先に決めるのが、神だ。
自分は、キリストに見えて良い。「私の授けた世界観」と言っていると、何故かユダヤ教の神に見える。自分が一番神の教えを創っている。そういうキリストが自分だ。
自分を信じると、そこまでありえない体験が出来る。馬鹿になって、辛いことを葛藤するようになる。そこから、自分の力で克服する。そういう、偉大な人生になる。
サルトルのように自由に考える馬鹿は、本当に多かった。
自由な仮定と実証、可能性と実現、法と発想、実際と構造化、のように考える。いつも、そういう、賢い言葉のようなことを言う。そういう、詩人のような言葉の魔術師だった。
全てのものは、人間が作り出し、人間に知覚される。そういうことを、「認識の確かさ」とか、「認識出来ている」と言っていた。
いつも、そういうことを言っていたのが、いつもの文章だ。
あれは、2ちゃんねるの馬鹿な左翼のタリバンだ。一番馬鹿な人間だ。
最近の方が良い。最近はきちんと勉強している。これで勉強しているなら、賢く見える。
ただ、勉強は賢くない。数学は賢くない。二次関数のグラフなんか、描ける意味が無い。三角比なんか、ただ技術的な機械をやっているだけだ。数学は、馬鹿だ。
あとは、視点と見方とか、社会システムとか、歴史とか、そういうことを言う。
昔は、根源的に考えて、正しく対処すれば出来る。何が何に必要で、何をするためにどうする必要があるかを考える。そこから、人間の知覚と必要性を知る。社会的な役割と手段を知る。そして、人生と知の機会を考える。そういう風にすれば、誰でも出来る。
自由から考えるとは、そういうことを言っていた。自由にする中で、何をするためにどうする必要があるか、のようなことを考えただけだ。そこから論理学と真理を作っていた。
起源、因果性、契機のようなものを考える。何がいつの時点で起こって、どのように関係して、今のその現象に至るのかを考える。そこから、自由な解決法と別の可能性を考えた。そういうものを、視覚化し、思考力にし、捉え、予測し、解決して分かっていた。
フッサールのように、認識を全部捉えて分かっていた。
ハイデガーのように、可能性の発揮と言っていた。それは、こういう、世界観のようなことを言っている。「人間と社会の経験論的な世界観」のことを言う。知覚のようなことを前提に、そういう文章を書いていた。
マルクスのように、組織やグループ論を考える。そういう風に知性があっただけだ。
最近は、本当に賢くなった。あらゆることをきちんと賢く分かる。
昔の文章は、世界観しか書いていない。哲学的な、体験の世界観を書いている。「体験」をしていると、分かる。誰でも、これで体験すると、昔の自分が出来る。
俯瞰的な視点から、見方を変えて分かっていた。いつもそういうことを言っていた。
フーコーが言っているように、常に自分の考え方を変えること。考え方を変えてものを見たり、認識したりすることで、全ての見方は変わってくる。自分を変えることで、まるで全員を融和したように、色んな人間になれる。昔はそういうおかしな賢い人間だった。
自分は、知を考えれば良い。何故か、知を考えないのがおかしい。
想像力から、色んなことを知る過程のようなものを書いていた。
理由を知れば良い。理由を知って、世界を知って、経験を知って、宇宙を知る。
いつも、そういうことを言っていた。それこそ、全ての知を完全に分かっていた。
皆も知を知ると良いだろう。知るだけでは無く、何を意味しているのか、何がその理由なのかを、良く考えて、自分で知と同じことを考えて分かると良い。昔は、そういう風に、「世界にあるものを自分でも経験して、体験して、同じことを考える」と言う発想が多かった。経験論のように人生を考えた。洞察力と認知と推論の能力がついた。
気づき、説明、類似性、パターンなどで分かっていた。何でも自分の力で考えて、機会のようなものから、科学的説明の能力がついた。
当たり前のことから、「それがどういうことを意味しているのか」を分かっていた。
最近は、1つ1つ壁を越えて行って、もう全てに到達した。
何故か、1つの壁を越えると、きちんと次の新しいものが分かる。
そういうわけで、まだゴールは遠い。むしろ、そろそろ終盤かもしれない。もう、基本的なことは全部分かった。あとは、普通のことを沢山考えれば分かる。
あとは、世界観のようなことを言っていた。
経験とは、知覚出来ていることである。
人生とは、己の存在意義を知ることである。
自由な中で、知ること、行うこと、考えること、信じること、感じることが全てである。
全ての生命活動は、互いに補う関係にある。そして、時に生命は融和する。
全ては、愛と、依存性と、力と、感覚である。
そういう風に、知覚や可能性のような、「マスター的な世界観」のことを言う。
ほとんどそれしか言っていない。世界観のことばかり言っていた。
存在とは、必要としながら、互いに補い合い、生み出しながら支配することである。
ハイデガーは、存在を意識や関心だと言ったが、自分は、「必要としながら生み出されること」だとしたい。それこそ、それはある意味では現象学に近い考え方になる。
あとは、そろそろもう残っていない。それくらいを書いているだけだ。
世界観は、社会観のようなことを書いている。自分の今までの知った社会、人間、経験、人格から、ブッダのような、この世界の変転的な移り変わり、そこにおける、それぞれの存在と問題意識や解決との関わり合いのようなことを言う。そして、何が問題で、どうすべきなのか、それぞれの中で、何がなされるのか、なされるべきなのか、のようなことを言う。それを、ネットの経験だと言っていたのが、いつもの自分だ。
あとは、もう分かることは終わったから、皆を騙すのを止めた方が良い。それで治る。
あとは、自由のようなことを言っていた。
自由とは、存在し、経験し、経験から存在を知ることである。
自由とは、戦いの中で、生き残ることである。
自由とは、体験の中で、理想を知ることである。
自由とは、社会への参加と影響力の行使である。
自由とは、意識による成長と生命活動の発揮である。
自由とは、人生と絆を培うことである。
自由とは、社会を構築し、社会の変化を知ることである。
自由と人生の知恵だけで、スピノザやウィトゲンシュタインのような文章を書いていた。
そういうわけで、もう終わりだ。皆をもう、自分で無くして、解放する。
最近、イエローハットのように、自分になっているものが多い。何かが一番キモイ。
あとは、数学のような文章を書いていた。数学的方法や、関数のようなことを言う。
文章そのものの形式が、関数と良く似ている。スピノザと良く似ていた。
記憶と知を、計算可能なシステムにする。そういう、Fedoraのような文章だった。
あとは、マスターの信念や真理のようなことを言う。ヘーゲルのようだった。
思いやりこそが至上価値であり、ありのままの人生こそが宝であると言う。
最近、そういう人間が多い。そういう人間は、賢く見えて、狂っている。そのうち馬鹿になる。そういう人間が、明らかにヘーゲルやハイデガーだ。哲学は、普通そういうものだ。
あとは、真善美や正しく生きることを考えれば良い。
もうあまり残っていない。本当に、賢い真理のようなことをいつも言っていた。
論理的に世界を考える。アメリカからソ連まで、本当に全世界を創った。
今日は良かった。そろそろ終わりだ。もう、そろそろ人生が達成出来た。
自分は、辛いことが多かった。
最近は、頭が辛いし、体が疲れて、めまいがする。心が怖くて、昔から良くパニックになる。顔はニキビだし、歯は虫歯で汚い。足は骨折して、曲がりにくい。キモイ人間だ。
あとは、頭も馬鹿だし、日本語が読めていない。知的障害みたいな人間になった。
それこそ、あとは、仕事もしていないし、何も出来ない。
ただ、そんなに悪くはない。作家にはなった。哲学も勉強している。そろそろ楽になった。誰よりも賢い。それに、顔はそんなに悪くない。カッコいい青年のドイツ人の男に見える。ただ、何かがキモイ。アニメの女どころか、セクシーな可愛い女に見えるのが自分だ。
昔は、「賢いアマチュアのプログラマ」のような人間だった。ウィトゲンシュタインのような風貌をして、本当に賢いアマチュアの科学者のように考えていた。サルトルが言う、明晰なる無償性とは、読んでいないから、何を指しているのか分からないが、そういうことを言いたいのかもしれない。そういうわけで、サルトルなんか、分からないのが自分だ。
あとは、良く分からない。フッサールは止めた方が良い。こういう風に、思想の一部だけを適当に叙述して分かるのは、おかしい。もっとマシな勉強方法をした方が良い。
楽な時に、「楽だ」と言うと、楽になる。「辛い」と言っていると、もっと辛くなる。
ただ、そういう風に皆を治すのは止めた方が良い。皆、治るせいで何も出来ない。
そろそろ世界が始まる。ここまでは何も無かった。最近は、治って楽になる人間が多い。
もう、この世界の全員を、厳しい荒野の中に送り込んだ方が良い。
何もない世界に見えて、色んな存在と人間がある。その中で、戦いの中で生きること。
そういう風にすれば良い。そういうわけで、平等より自由な方が良い。
平等から自由になって、経験して、活動して、行動して、考えて、悟る。
そういう風にすれば良い。いつも、そういう、「皆を自由にする自由な人生」を書いていた。自由とは言うが、皆を自由にしたかっただけだ。
あとは、心理学は意味が無い。臨床心理学は、心の病気を考える。賢いとは言うが、しない方が良い。精神科医になるのはおかしい。それは、狂った人間になるように見える。
昔は、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランスなど、色んな国を作っていた。
経験論の哲学は、もっと良く考えると、色んな世界観を文章にしていた。
あまり書く意味が無いが、影響力や価値観や組織形成のようなことを言っている。
この社会の全てを説明する。それは、何故なら、人生でそういう、世界のことが全部分かったから、そういうことを言っている。4年間の引き篭もり人生で分かった。
そして、最近は、狂ったようで、もう治った。一度死ぬと治るのがこういう馬鹿だ。
あとは、フッサールはしなくて良い。フッサールも何か馬鹿なように見える。
哲学は、誰か1人を選んで、その1人をやれば良い。サルトルが悪いなら、フッサールも似たようなものだ。歴史をしたいなら、日本史にすれば良い。あるいは、どこか外国をしたいのなら、イギリスでもすれば良い。それも、どこか1つの国をすれば良い。
それから、心理学は出来るように見えない。政治経済は、見ていると、出来ない。あんなに大量に知識を覚えるのは、出来るわけがない。普通、すぐに忘れる。
ただ、政治経済は出来る人間が多いから仕方ない。ニュースを見て、日本の現代のことなら分かる人間が多い。こんな風に文章を書いて出来るとは言うが、意味が無い。
誰か1人哲学者をやって、どこか1つの国をやる。そうした方が良い。それ以上のことは、普通、他の分野なんかしない。哲学と歴史をもっと深く、広くやる人間が多い。
政治経済なんか、したくないのにしたいのがおかしい。
経済学をしたいなら、歴史をやっていると誰でも出来る。むしろ、フランス史をするなら、フランスの政治経済をするしかない。それくらい誰でもする。分野が同じだから、あまり考えなくて良い。それこそ、政治経済は、歴史が分かると出来る人間が多い。
自分は、フッサールなんかせずに、放送大学をすれば良い。それが一番良い。
あとは、昔は、自然のことを良く考えていた。宇宙にはありえない存在があるとか、細胞分裂で生命は構造体になるとか、脳は精神の統括であるとか、細胞は真ん中から分裂するとか、そういうことを言う。物理も生物も、何も知らずに書いている。
本当に、放送大学を本気でやれば良い。人間と文化のコースは、文学、哲学、歴史だ。自分に一番合っている。放送大学は自由だから、経済や情報や心理学もしたければ出来る。
放送大学の授業は、ネット配信でいつでも見られる。教科書を買って単位を取ると、金がかかるから、まずは授業をネットで見れば良い。それは無料だ。そういうわけで、放送大学が一番良い。ネットでほとんどの講義は見られる。心理学でも見れば良い。
自分の境遇は、明らかに一番良い。あとは、この文章はもう書かなくて良い。唯一、それだけが辛い。この文章を書いていると、麻薬みたいに脳が辛くなる。それだけが辛い。
昔は、本当に賢いことを言っていた。プロフェッショナルを作る土壌とか、そういうことを言っている。仏教でいう、縁起のようなことも言っていた。
それくらいが分かっていない。明らかに誰でも分かる。不思議と、誰でも書ける。
放送大学をした方が良い。ワードを書いているこのパソコンで、いつでもすぐに見られる。
あとは、日本語は放送大学で分かる。日本語が分からないのは悲惨だが、やるしかない。
今、放送大学の授業を聴いている。
自分は、日本語が怖い。何故か、言語的に知り尽くすのがネットのせいで怖くなった。
昔は、ネットで経験して、社会を知って分かっていた。
放送大学は、今、ドイツ哲学の系譜と言う授業を聴いている。
昔、ネットで知り尽くしたのが悪い。いつも、それだけが怖い。
自分は、世界を知って、賢くなるのが怖かった。
放送大学をすると、まともに世界が分かる。
あとは、もう、認知症が治った。本当に賢くなった。それが怖かった。
白人には、日本語をさせると良い。白人が日本語をすると、英語と日本語だけで全部だ。
英会話教室が怖いのは、認知症が治るのが怖い。本当に、死ぬほど怖い。
ドイツ哲学の系譜の第一回の講義を最後まで聴いた。
放送大学を聴いた方が良い。本当に認知症が治る。
怖いのは、日本語が分かると、馬鹿でもまともな人間に見える。それが怖い。
自分が日本語が分かると、誰よりも一番賢い人間になる。それが馬鹿なのが怖いだけだ。
あとは、もう、そろそろありえないことが沢山起きる。あるいは、それが終わるだろう。
昔は、社会経験を全員分して分かっていた。創造性やボトムアップが分かった。
皆が何も出来なくなっているから、皆をそういう社会経験に戻した方が良い。
最近の社会はおかしい。パソコンのせいでおかしく自分になっている。
そういう、自分のような賢さを、一度この世界から根絶すれば良い。
皆、分からなくなって、社会経験に戻る。
そのためには、単純に、この文章を忘れれば良い。
そういうわけで、こういう風に分かる、社会の堕落化が、そろそろ終わる。
もう何も無い。昔の創造的な世界に戻る。
見ていると、皆キモイ。本当に全くおかしな世界になった。自分が悪い。
あとは、自分は認知症が治ると、精神が治る。ここまで治すと、本当に治る。
昔は、全員分の経験や社会経験が多かった。それは、悪い世界だったから多かっただけだ。
今から、悪い世界に戻る。X JAPANみたいな、悪いだけの自由な世界に戻る。
それで良い。自分のせいで賢くはなったが、皆狂っている。馬鹿になった人間が多い。
そういうわけで、テレビの世界に戻る。本当にそこまで悪い世界になる。
そういう世界では、こういう風に、経験して救世主になる。最初からそういう風になる。
どうでも良いが、昔は社会経験が多かった。自分をいじめたりしながら、社会のことを全て知って、どのような社会にするべきか、理想とは何か、経験から分かっていた。
第一回の講義は、カント以前のドイツ哲学だった。「全てを神の手に委ねる」などと言っていたが、自分のことを言っている。ドイツ人に本当に多いのが、神の支配だ。自分だ。
心が怖いのは、昔の時代が怖い。「時代が悪い」が正しい。日本が悪い。
日本を倒すしかない。日本を倒していると、時代が良くなる。
昔は、悪い社会を経験していただけだ。悪い社会だから経験していた。
悪い社会の中の悪い社会が良いからこういう風になる。
あとは、テレビはもう滅びた。悪い社会に戻る。皆のことを、支配して馬鹿にすれば良い。
自分で賢くなった。本当に馬鹿にすると、誰でも賢くなる。そういう人間が今多い。
昔は、経験から人生を分かっていた。人生のことをモデルのように分かっていた。
日本を滅ぼすなら、何も無い世界を止めて、もっと悪いことがいくらでもある世界にすれば良い。ただ、それは悪い。昔みたいな、荒野のようで、スラムのような、何も無い世界になる。あるいは、一番悪いアメリカの色んなものがある世界も悪くない。
昔は、そういう、環境と社会の網羅のような文章を書いていた。
そういうわけで、日本はおかしくなる。むしろ、ソ連で良い。ソ連が一番悪い世界だ。
自分は、左翼としても賢い。理論も実践も、どちらも出来ている。
むしろ、ドイツにすると悪いから、ソ連にした方が良い。ソ連にすると、単純な自分が支配する共同体になる。何も悪くない。何もないが、精神的に心の安らぐ共同体になる。
自分は、こういう風に書くと馬鹿になるようで、それは分かるようになる。何故か、こういう馬鹿が賢い。賢い人間は、こういう、何かで馬鹿になっている人間が多い。
あとは、今ソ連をやると、一番良い。権力なんか要らない。一人の人間に従う、平等な共同体になるべきだ。悪いとは言うが、右翼の方が悪い。今から日本はソ連になる。
ただ、おかしいぐらい昔みたいな悪い世界になる。ネプチューンみたいになると思う。
昔は、出会いや別れの経験が多かった。そういう風に分かっていた。
皆は、これで何故か楽になる。悪いものを見ていると、頭がすぐに死ぬ。それが一番楽だ。最近は、馬鹿なものが無い。それが一番辛い。誰もが、馬鹿なことをしていると楽だ。馬鹿をすると楽な人間が、ネプチューンみたいに多かった。馬鹿になって楽になるだろう。
あとは、自分は哲学が出来るようになる。馬鹿でないと、日本語も分からない。馬鹿になった方が出来るのが哲学だ。本当に、悪い世界で経験していると、哲学者になる。
そういうわけで、ソ連と言わず、ただ悪い世界にすれば良い。
ソ連にすると、悪い世界になるどころか、良い世界になるからありえない。安心出来る、共同体の、良い精神の世界になる。ただ、そうでもない。廃墟みたいになって滅びる。一番、そういう風に怖いのがソ連だ。良いものに見えて、悪い。そういう風に怖い。
ソ連になると、賢くなる。いつもの世界になる代り、皆マルクスになる。
あとは、おかしなハンター・ハンターのクラピカが見える。今からそういう風に狂う。
マルクスになるのは、ソ連の同化と言う意味では無く、誰もがそういう風に知性がつくようになる。そういうわけで、賢い世界になる。昔の自分と同じことが出来るようになる。自分は楽になる。もう、怖くない。すぐに普通に狂って、あまりに楽になる。
ドイツは病気になっている。自分は、ドイツ病のキリスト教徒だ。悪魔をやっている。
意識とは言うが、ピアノのようなものを経験から意識で分かるだけだ。あとは、抽象的な論理学から、形成と本質を分かるだけだ。ソ連になると、そういう昔がすぐに分かる。
本質とは、プラットフォームと方法の形成である。
方法とは、多様性を実現し、共同体を実現し、行動と実験と経験から、方法自体を作り出すこと、その自由な共有と拡大である。
人生とは、真実、愛、恐怖、革命、克服、神である。
共同体とは、それぞれの持つ本当の望みを国家的に実現するために、意見を聞き、知恵を集め、出来ることをそれぞれが考えながら、それぞれが担当し、本当に必要なものを知り、独立可能にし、参加可能にし、自然発生から変化可能にすることである。
いつも、そういうことを言っていた。プラットフォーム、方法、共同体のようなことを言う。あとは、記憶と本質から、この世界の「様相と実像」みたいなものを考えていた。
可能性と、この世界にある仮想的な実像を考える。そういう文章だった。
本当に賢くなった。そういう、抽象的な方法による形成理論のことを言っている。
全ては、方法と形成の集積であり、そこから普遍的なものと個別的なものを、バランス良く生み出し、作り出し、形成し、自然なプロセスで構築することである。
あれは、本当に、そういうことを言っている。そういう文章だった。
また、社会や場の構築のようなことを考える。社会精神は、自立活動である。
そろそろもう終わりだ。もう、いつもの文章は全部分かった。
社会は、ソ連になる。ありえないほど良い世界になる。
あとは、心構えや秩序のようなものを書いていた。この世界のあらゆる経緯的な秩序を決めていた。本当に、環境を構築して、良い未来になるためのビジョンと希望と夢があった。
ソ連の犯した過ちは、強制的に上から変えようとしたこと。そのために、死者や逮捕者を沢山出した。もっとボトムアップに、全員の力で変えるべきだった。
あとは、神は間違っていない。生物学を知れば知るほど、科学の矛盾と未熟さが露呈する。キリスト教はおかしくない。今、科学の時代だからと言って、それはすぐに変わる。
そういうわけで、そういうことを言っていた。抽象的な理性があっただけだ。
部分化、構造化、プロセス、関係、方法、パターン、社会的変化、発生、自然、自由、行動、段階、環境、維持、依存性、必要性、客観性、理性批判、人生、功利主義など。
そういうことをいつも言っているだけだ。
あとは、この世界を今から変える。
世界は、アメリカになれ。
世界は、ユダヤになれ。
世界は、ドイツになれ。
世界は、ソ連になれ。
世界は、左翼になれ。
世界は、右翼になれ。
世界は、神になれ。
その順番でそうなれ。それだけの世界になれ。それを永遠に繰り返せ。僕の人生と同じだ。
応用と意味を考えよと言っていた。あれは、そういう、考え方を書いているだけだ。
社会のことは、経験から作り出せると言っていた。それは、論理的になされるべきだ。
むしろ、世界はソ連にはならなくて良い。悪い世界になれば良い。
あとは、それもおかしい。むしろ、時代が悪いなら、自分だけ変われば良い。
むしろ、日本は変わらなくて良い。ただ、一番ゆっくりと変わっていけば良い。
あとは、自分の認知症を治した方が良い。放送大学のことをした方が良い。
見ていると、昔は馬鹿だ。馬鹿だから分かっている。ただ、昔は、日本の時代が賢かった。最近は、日本が馬鹿になっている。全て、パソコンのようなものが悪い。
あとは、昔の自分は誰でも分かる。昔がユダヤで、今がロシアだ。
社会や歴史のことが全部分かっていたから、そういうことを言っている。
あとは、マスターの理想や、賢者としての心構え、理性的な捉え方のようなことを言う。
本当に、ユダヤの神みたいに賢かった。
順番は、アメリカ、ドイツ、ロシア、イタリア、フランスだ。
それくらいをやりたかっただけだ。他に何もしていない。
社会は、愛から共有になり、革命になり、自然になり、絶対精神になり、絶対知になり、思いやりになり、戦争になり、永遠になり、支配者になり、治癒になり、神になり、死になり、恐怖になり、自由になり、聖書になり、完璧になり、社会になり、人生になり、科学になり、大学になり、記憶になり、哲学になり、日本になり、歴史になり、ドイツになり、アメリカになり、ソ連になり、イタリアになり、フランスになる。
自分の人生はそれで良い。だが、もっと、人生以外の社会の変転を考えられる。
世界は、それぞれが好き合うことから、美しさを比較するようになり、自由に考えるようになり、それぞれが社会を作るようになり、創造性を経験し、体験から人生を知り、知の機会から自発的な経験になり、心理学的な真理になり、自由な人生の希望になり、それぞれの本当にしたいことと出来ることを知り、社会の可能性を知り、理想の世界の可能性を知り、実地的に考え、別の可能性が成り立つことを知り、社会の構造を知り、経験から社会を作れるようになり、創造性の真理を知り、子供を脱却して大人になり、成長し、愛を知り、悟りを知り、神を知り、精神分析を知り、コンピュータ科学を知り尽くし、社会的な経験を積み、仏道に入り、現世に戻り、神の体験をし、王となり、科学を知り、発想法を作り、理想の社会を実現出来るようになり、人生のことを全て知る。昔はそれくらいの人間だ。それが、革命になり、永遠になり、神になり、右翼となり、作家となり、哲学者となり、精神科の医者となり、常識を知り、イスラエルの王となって、仏となった。
むしろ、自分の人生はもう良い。もっと歴史のことを書けば良い。
階級闘争から、全員を卑下する世界になり、統一し、国家的権力を持ち、宗教となり、階層化し、戦争になり、全員奴隷となり、啓蒙し、それぞれの知性を高め、民主主義となり、自由に皆の手で決めるようになり、共同体となり、平等となり、自由となり、理想となる。
むしろ、もっと仮想的な社会の状態を書けば良い。それを自由から書いていた。
こういう馬鹿は、イスラムだ。イスラム教徒になっている。
世界のことを、論理学的に、方法から作っていた。論理学の世界観を作っていた。
そろそろイスラムが終わる。次は、黒人になる。
昔から、精神分析で色んな人種になる。黒人には、なろうと思えばいつでもなれる。
黒人になると、色んなことを直に言うようになる。
もう、アジア人は終わりにする。ここまでが日本人だ。あとは、黒人になる。
黒人になると、神になる。黒人は、最後まで経験して、そこまで賢くなる。
精神分析で、黒人になったり、ロシア人になったり、ドイツ人になったりしていた。
馬鹿で、悪くて、自由な人間だった。2ちゃんねるで客観視して分かっていた。
学校の延長線上を体験して、不良を経験して分かっていた。
秩序を作っていた。この世界を、秩序的に考えていた。
もう黒人になる。それが、何故か、本当に賢い神のような人間になる。