日記に戻る | 2016年3月の日記に戻る

=2016-03-19=

今日も農園に行ってきた。以下は、農園に行って分かった内容だ。

自由が本当に良い。僕は、自由が好きだ。

僕は、自由を良いと信じている。自由を信じている。

自由は、豊かになって、ものが増えて、発展して、何でも出来て、何をしても良い。

平等は悪い。平等は、貧しくなって滅びる。ドイツと同じように滅びている。

本当に自由が良い。

皆の自由にして、皆で秩序を作る。そういう、「皆で作る平和」が自由だ。

そういう、「皆の自由にする」と言う発想が多かった。秩序や決まりは、皆で作る。

この世界を愛して、かけがえのないものを築く。自由には、そういう人間が多い。

自由は馬鹿だが、そういう風に、自由な馬鹿には良い人間が多い。昔の自分がそうだ。

平等には、発展すればなる。自由なまま発展すれば、そのうち平等になる。

格差は、あった方が良い。格差が無いと、勝者に報いが無くなって、全体が貧しくなる。

社会が発展して、努力に報酬を与えるために、格差は必要だ。

分配はする必要があるが、税金で分配するのはおかしい。

再分配は、悪くは無い。きちんとするべきだ。だが、金持ちは悪くない。

自由な平等は好きだったが、平等は悪い。全体が貧しくなって、滅びる。

発展を信じていた。そういう、発展のような文章が一番多かった。

自由は、楽しい。クズとは言うが、クズは何も悪くない。

パソコンは悪くない。嫌いなら、見なければ良い。

日本が自由なのは、何も悪くない。自由な日本が一番良い。

昔は、自由を実感して、助け合いと基盤を実感と感覚から分かっていた。

共産党は、自由が無いのが悪い。不自由な賢さなんか、馬鹿に見える。

そういう人間が多い。あとは、愛国の自由も馬鹿に見える。右翼の政治家は馬鹿だ。

本当に、民主主義の平和な自由が良い。そういうわけで、自民党が良い。

全ての科学を作っていた。オープンソースから、全部の科学へと変わった。

人生経験を考えて、場面を予測して、経験と世界観を分かっていた。

存在は、いつでもそこにある。場所も、いつもそこにある。

農園で分かった内容は、ここまでだ。

自由は良い人間になる。馬鹿になるようで、本当に良い人間になるのが自由だ。

右翼は一番悪い。左翼は二番目に悪い。自由と民主主義が一番良い。平等も悪い。

平和と発展が本当に一番良いのは分かるが、そこに自由と希望があるべきだ。

あとは、アメリカの方が良い。アメリカを信じると、昔の自分のように自由になる。

本当に、昔の方が良かった。ああいう知性のある人間は、パソコンに多い。

最近が一番悪い。右翼は、こういう風に、ロボット人間になる。右翼が一番辛い。

自由は、「皆を信じる」と言う発想が多い。皆を信じて、自由にすれば良い。

右翼や左翼が馬鹿になるのは、皆のことを信じないからだ。

皆のことを信じて、民衆で決めること。そして、皆の意見と経験を知って、そこから考えること。カントの言う理性批判も、それと通じるところがある。

自分の主観的なことばかり考えるのではなくて、皆の客観的な意見も聞くこと。そこから、主観と客観は無くなり、事象そのものへと近づける。そういう発想が、自由だ。

テレビは、悪いと思うなら、見なければ良い。それこそ、ニュースを見るなら、テレビは良いだろう。良いなら、悪くない。そういう「自由な論理」が分かる人間が多い。

自由は何も分からないように見えて、そういう風に分かる。そういうわけで、自由で分かる人間が多い。日本に一番多い。そういう風に分かっていたのが、昔の自分だ。

それこそ、マイクロソフトが悪いなら、使わなければ良い。使うなら、悪いと言うのはおかしい。そういうわけで、マイクロソフトも悪くない。

そういう人間が多い。それこそ、意志とは選択であり、効果とは認めることである。そういうことが分かる人間が多い。そこが分かると、きちんとこの世界が分かる。

パソコンが悪いと言うのも自由だから、言いたいなら言えば良い。皆が悪いと言うのに、あるものは、悪いように見える。そういう「お邪魔なもの」は悪く見える。

それは、自分が何も出来ないのと、政治家が何もしないのが悪い。だが、それはおかしい。自由とは言うが、それなら、ソニーが悪い。ソニーが何も出来ないのが悪い。

そういう風に考えて行くと、社会の起源や形成のようなことが分かる。そういう風に、「自由」から考える人間は、本当に多い。人間の関係から、理想の価値観のようなものが分かる。昔の自分なんか、そういう風に、自由から社会、経験、可能性を考えただけだ。

昔は、「自由になる」ことで分かっていた。自由になっている、今この時の自分が、確かに存在していることで分かる。そういうものを、機会だと思っていた。

今日は、自由の日になった。これ以上は、良く考えれば分かる。何がその時出来るのか、いつどうなるのか、そういうことを考えて、「自分」と「出来る」を考えれば良い。

そういう風にすると、経験のことも良く分かる。「今この自分がここに存在している」ことから分かる。そこから、「認識出来ている」自分が分かる人間が多い。

今日は、自由の日になった。いつも、自由から社会のことを考えていた。

これくらいが分かると、あとは思考すれば分かる。ヘーゲルのように、合一と一致から分かる。そこから、「分かる確信」のようなことが見えて来る。

いつも、そういう、「自由な思考方法」や「真理の発見方法」を書いていた。

あとは、認識と行動を良く考えれば良い。それが本当は何をしているか、本当は何を考えているか、何を認識しているか、何を受動し、能動し、感じ、考え、信じているか、のようなことを考える。「人間が本当は何をしているか」を考えれば良い。そこを、経験と可能性と考えると、環境のことが、ヒュームやサルトルのように分かるようになる。

あとは、自由万歳だ。今から、この世界は自由になる。本当に自由な良い世界になる。

昔は、自由から気づくことで、ありえないものを全部分かっていた。哲学的な真発見のようなことを、人生と環境の自由から分かっていた。自分のことを環境にしていた。

あとは、こういう人間は多い。自由が理性と同一になっていた馬鹿が昔だ。こういう風に考えれば、誰でも分かる。常に自由を考えて、たまに平等を考えれば良い。

それこそ、もう何もしない。今日は良い日だ。いつもの自由に戻ると、楽になる。平等や支配は辛い。支配は出来るし、平等は賢いから、こういう風になる。自由は楽だ。

人生と気づきから分かっていただけでは無く、社会の可能性の仮定から分かっていた。どんな社会が実現出来るのか、どんな関係にすべきなのか、思考から全て分かった。そういうところを思考する、自由な哲学者だった。自由から全てが分かっていた。

それこそ、これは賢くない。ただの馬鹿だ。

2ちゃんねるをそこまでしていると、こういう風になる。だが、2ちゃんねるはそんなに悪くは無い。2ちゃんねるが悪いのではなく、右翼が悪いだけだ。2ちゃんねるの馬鹿なコミュニティは、皆を匿名で受け入れ、皆と友達になれる、良い社会だ。それこそ、そういうものが最近多い。フェイスブックは、賢くなる人間が多い。

あまりネットなんかしない方が良い。ネットは賢くない。賢いものが何も無い、色んな情報があるように見えて何も無い、空っぽの洞窟がインターネットだ。

ただ、そうでもない。自分が一番悪い。色んなことをネットでして分かっただけの昔の方が賢かった。最近、何もしていない。こういう、何もしない大学生は、本当に馬鹿になる。

学校なんか、どうでも良い。決められたレールの中で、行儀よく生きるのは、意味が無いと言う人間が多い。馬鹿に見えるどころか、出来ない人間が多い。そういう発想が自由だから、自由には、学校が嫌いな人間が一番多い。自由が一番良いが、自由は馬鹿だ。それこそ、そういう馬鹿な自由は、良い人間になって、自分の力で賢い人間になる。

そろそろ、神を止めた方が良い。自分の力で賢くなるべきだ。キリストが見ても、その方が良い。神だけになっているこういう馬鹿は、キリストが見てもおかしい。

そういうわけで、そろそろ自分で経験して、自分で実践的に考える。そういう経験をすると、賢くなる。理系の考え方も、そういう、社会経験がある人間の方が分かる。

数学なんか、誰でも、仕事で機械をやっていると出来る。父親が物理が出来るのは、子供の頃から機械が出来るからだ。それこそ、数学なんか、機械でしか出来ない。パソコンが好きな人間が出来るのが、数学だ。そういう人間が多い。

僕は、ゲームのせいで中学時代、数学が得意だったが、高校に行っていないせいで、全く出来なくなった。昔出来ている。引き篭もり時代作ったのが、自分の数学だ。

昔は、環境を思い出して分かる人間だったが、それくらいが出来ない。学校からドロップアウトする人間なんか、居ない。そのせいで、誰でも出来ないのが昔だ。

ただ、こういう人間は多い。こういう人間は、きちんと自分の力で考えて、社会経験を自分の手で積めば分かるようになる。本当に、その方が数学が出来る。自分の経験から学校のことが分かる人間が多い。成長して大人になれば良い。昔はそういう人間だった。

あとは、これで良く思い出すと、人間のことが分かる。それから、学習して、成り立ちを考えると、世界のことが分かる。きちんとどういうことか考えれば良い。自分が出来るようになって、どういうことなのかとか、意味を分かると、分かる人間が多い。

あとは、これはもう馬鹿な人間になる。賢くなったようで、馬鹿になっている。ただ、知性はつくだろう。このまま、知性と精神で分かる人間が、ヘーゲルみたいに多い。

自由になって、自分の力で分かっていると、知性がついて、仏の慈悲みたいになる。

何故か、それが、クズみたいに馬鹿な人間になる。

そういう発想が、哲学者だ。

だが、それは馬鹿では無い。こんな馬鹿な良い人間の学校が、一番悪い人間になる。

人間には、そういう、転機は訪れる。

何も変わっていない。平等から自由になっているだけだ。

自由は馬鹿だが、平等は悪い。そういう風になる人間が多い。

そういうわけで、昔を繰り返すようで、もう、昔は忘れて良い。

一度、昔のことを全部忘れた方が良い。もう、全部分かった。

皆は賢くなる。これなら、皆は自由になって、自分の力で考えるようになる。社会経験を積むようになる。だが、そういう賢い人間は、どこにでも普通に多い。

人間なんか、何も賢くない。誰もがこういう風に同じだ。これで詩人の哲学者だ。ゲーテと同じなのは当たり前だ。ゲーテもゲーテで、ありえないだけの人間だ。

三島由紀夫みたいに見える。あれも、戦う作家になっている。ありえない体験をしたせいで、右翼になっている。右翼になったのは、そこまでありえない体験をしたのだと思う。こういう作家が多い。作家はこういう風になる。

ただ、右翼はもう忘れた方が良い。僕は、自由を信じている。自由が一番好きだ。

世界観は、小さな現象、制度、社会、自由、行動、変化から、積み重ねられる。

小さな社会と、小さな行動と、原因と結果を積み重ねることで、世界のことが全部分かる。

そこでは、デカルトのように、方法的懐疑から、推論でこの世界の論理性を知れる。

そういう風に考えると、世界が全部分かる。そのまま、世界モデルを作ることが出来る。

そして、世界の起源のようなことが、原因と因果律から全部分かる。

自由なモデルから、手段と目的のような、方法論が分かる。

認知的な行動論も、「ルールと場の中で、何をしたくなるか」から、きちんと分かる。

そして、自由を考えれば良い。昔は、カントのように、知と行動の前提条件を考えていた。

昔は、場がどのようにあるかから、記憶がどのように存在しているか、記憶はどこから来るか、想起などの現象はどのように起きるのか、などを、プラトンのように分かっていた。

場はプラトンでは無い。想像力を使って考えれば良い。サルトルとも良く似ている。

もっと、行動規範のようなことを考えれば良い。ソクラテスの無知の知のように、知ったかぶりは悪い。思い込みや偏見を持つのも悪い。自分の手で判断し、思考するべきだ。自分の手で判断しながら、人と同じことを思考し、経験する。モデルをそのように作った。

昔は、人生経験と成長のようなことが多かった。社会のことを知って、マスターのような偉大な人生になった。それをいつも書いていた。

不思議と、本当にこれくらいしか書いていない。現象と制度を積み重ねて、世界の意味を全て分かるような、そういう世界観と人生の段階を書いている。

あとは、抽象的なモデルを、世界観の全体像から方法と構造にして、いつも書いていた。

いつも、全体像を見て分かる。そういう人間だった。

全ての科学を作っていた。生物学、数学、物理学、心理学、社会学、歴史学、言語学など、本当に沢山の科学的なことを言っていた。オープンソースがそのまま大学になった。

賢い人間は、こういう、分からない人間になる。自由が嫌いになると、分からなくなる。それは当たり前だ。自由から分かる人間が一番多い。拘束や強制は明らかに意味が無い。何も出来ないソ連は、子供から見ると悪い。だが、大人から見ると、何も出来ない方が楽だ。何もしない大人が多いから、大人が馬鹿になる。子供には、何かしたい子供が多い。それこそ、大人なんか、もう既に全部した人間が多い。何もしないどころか、出来ない。ピアノなんか、子供にしか出来ない。大人には、何かする意味が無い人間が多い。

社会の変化のようなものを、いつも考えていた。制度は経験である。世代は、自分より上の世代は、自分より先に居た。そういうところを考えると、分かる。

それこそ、自分の存在より先に、地球が存在し、生命が存在し、人類が存在する。そういう、「当たり前のことを気づく」ことから分かっていた。そこから、歴史を分かった。

自由を突き詰めて考える中で、最後には共同体の自由に行きついた。だが、それは明らかに、結論を求めるのが早すぎる。もっと良く考えた方が良い。

これなら、自由を考えれば良い。皆も、自由を考えると良いだろう。覚えた方が良い。自由を考えること。それは、むしろ、「それぞれの論理と起源を考える」と言った方が良い。

ルールから、社会が生まれる。法律の多様性は、社会の多様性と直接に結びつく。それこそ、地方分権が一番多様性になる。

地方分権は、ある意味、それぞれのことを大切に思うところがある。真実の真理に近い。逆に、中央集権は、統一と言う「連帯感の良さ」がある。それは、現世や下界に近い。だが、それは無いだろう。地方分権が下界にしか見えない。中央集権が真理に見える。

そういうわけで、そういう、社会的な価値観の分析のようなことをいつも書いていた。

あとは、歴史の中で人間がどう生きているのか、何が正しくて、何を解決すべきなのか、と言ったことを、マルクスのように考えていた。そこが出来ると分かる。

マルクスと言うよりは、ニーチェだ。昔から、ニーチェ、カント、マルクス、ヘーゲルの順に賢くなった。レーニンやキリストも途中多かったと思う。それらが自分だ。

昔は、「自分で人生を創り出す」とか、「自分の人生に出会う」とか、そういう発想が多かった。そういう発想を、可能性だと言っている。そういう文章が多かった。

もの作り、習得、共生社会、多様性、独自性、創造性、組織など、この世界の全ての方法と関係とプロセスのようなことを言う。そして、認知的な感覚や愛や心などを言っていた。

昔は、信念やボトムアップと言ったり、逆に、神や人生を言ったりする。

自分は、神はもう信じなくて良い。神が悪いだけだ。神がこういう風に、地獄になる。

自由を信じた方が良い。自由は何も悪くない。こういう人間には、自由が多い。

経済格差を無くすと、発展しなくなるし、誰も働かない。自由な方が、正義で、公平だ。

日本には、自由が多い。豊かで楽な人間が多い。悪い人間が居ないのは、本当に貧しい人間が少ないからだ。自由が一番平等だ。ほとんど、9割は豊かな家庭になる。

これで、「人間と考え方」を全部書いていた。目的のようなものを考えた。

それから、自由と可能性を分析していた。「分析」と言う発想が多かった。

哲学なんかしなくても、パソコンをすれば分かる。

何故か、今の自分のようなことを言う。そういう、経緯や場のような文章が多かった。

むしろ、本気でフランス史をすれば良い。それが良いとは言うが、フランスでは悪い。

それこそ、外国なんか、もう止めた方が良い。フランス史をするとは言うが、意味が無い。

明らかに、日本の政治経済をすれば良い。歴史は忘れた方が良いだろう。

政治経済は難しいから、簡単には出来ない。フランス史の方が良いと思う。きちんと終われるから、フランス史をやった方が良い。政治経済なんか、いつかすれば良い。

あとは、もっと普通のことを考えた方が良い。昔は、ただ知性があっただけで、何も賢くない。知性のある分からない人間がこういう風になる。デカルトがいつもこうだ。

国でも考えれば良い。昔は、意見のようなことをいつも言っていた。

最近は、皆、ビジョンと希望が無くなっている。先が見えなくなっている。

もっと、未来のようなことを何か信じるべきだが、皆、今の自分が辛いせいで、社会のことが分からなくなっている。一度、馬鹿になって、楽になった方が良い。そんなに賢くなると、辛くなって、分からなくなる。先を見るためには、一度馬鹿になるべきだ。

そういうわけで、馬鹿が賢い。そのせいで、ネットに馬鹿なサイトが多い。

だが、そうでもない。もっと、社会のことをきちんと知るためには、そんなに沢山のことをする安倍が悪い。もっと、何もしない方が良い。それから、多様性が悪い。多様性のせいで、社会を把握するのが極端に難しくなった。自由にして、統一して、何もしないべきだ。そういう風にするべきだ。それこそ、何も出来なくて良い。

ただ、そうでもない。今の社会なんか、何も悪くない。政治家は何もしなくて良い。

ただ、アメリカを見ていると、そんなことは言えない。それこそ、本当に変えるべきだ、と言う意見が、アメリカに多い。アメリカの自由な社会は、最悪になっている。

そういうわけで、本当に日本が良い。外国ともっと協調して、外国を良い国にして、日本を豊かにした方が良い。植民地では無く、奴隷にしない方法で、外国と付き合えば良い。

昔は、独立や共同体など、社会のことを真面目に考えていた。社会的な目的、変化、行動、意味、対応関係、仕組み、機会、価値観などを考える。ほとんどはそれを書いている。

そういうわけで、ほとんどは、人生で分かった社会的発想の経緯を書いている。

それから、人生経験と経緯を書いている。

仏の慈悲や、神の愛、ビジョンの知性が分かる。そういう、マスターのような人間だった。

あとは、自然を見ながら、生物学や物理学など、理系のようなものを書いていた。

自分の分かっていた、色んな発想を書いていた。

そういうわけで、自分は自由が好きだ。それこそ、自由が一番良い。好き勝手に出来る。

支配したり、一人で考えたりするのではなく、皆で協力して、一緒に考えること。

それぞれを大切にして、平等にして、共存すること。

自分は、これ以上は、馬鹿になって賢くなる。

フランス史がしたいなら、あまりしなくて良い。ありえない人間は、あまり出て来ない。

これ以上は、ありえないことを考えると良く分かる。

今から、IT産業は急速にロボット化し、仮想化し、バーチャル化していく。人間のように、ロボットに人格と意志を作るのは難しいが、囲碁の棋士に勝ったグーグルなら、出来ると思う。ロボットの良い点は、無限に増えることが出来るし、高い可能性がある。個体と個体を繋げて、まるで全員が1人になったように、「全員が繋がって考える」ことが出来る。1人になるのを、複数になるより少なくて、弱いと言うなら、仮想現実の世界の中で、「いくらでも沢山の人格を増やす」ことも出来る。それこそ、サイバーダインより恐ろしいものになる。それで、世界は終わる。ただ、生命の方が高度だ。細胞で無い時点で馬鹿だ。

人間の肝臓すら、機械では作れない。工場よりもはるかに高度な内臓を、人間は肝臓として持っている。ロボットは怖くない。賢く見えて、低度なものしか実現出来ないだろう。

今日は自由の日になった。賢いのは、全部自分だ。それこそ、自由が本当に一番良い。この世界をもっと自由にするのが良い。それで、きちんと良くなる。馬鹿に見えて、馬鹿になると賢くなる。馬鹿は知性がつく。

自分は、正しい人間に見えて、そうでもない。

昔から、正しい人間も、間違った人間も、全部ひっくるめて、全員を融和して分かる。

そして、ありえない体験を信じている。

色々と理想を実現したかったし、世界を心で支配していた。

社会的な役割と能力のようなものを考えていた。

「自己」のことを考えれば良い。考えて、行動する、自己を考えると、良く分かる。

これ以上は、色んなことをする。色んなことをしていると、出来るようになる。

ここまでは、何もしないのが良いから、こういう風になる。

あとは、フランスはおかしな国だ。本当におかしい。その、「おかしい」が賢い。フランス語は、世界で一番おかしな言語だ。それこそ、日本と何も変わらない。おかしいのが同じだから、色々と、共通点が多い。そういうわけで、フランス史をすれば良い。

自分は、フランス史はしなくて良い。政治経済のことをやった方が良く見える。だが、それは出来ないだろう。政治経済は、何も知らない人間には出来ない。

そういうわけで、国はフランスにした方が良い。ドイツに賢い点は無い。

自分は、外界のことを考えないのがおかしい。見ている世界を考えれば良い。

外界のことを見ていると、きちんと出来るようになる。

そして、それは知覚と感覚から、内界へと至る。

カントも、2つの世界があると言っている。私たちの身体と外界があると言う。

そういう発想が、一番文章に多かった。そういうことを言っている。

そろそろ、知性の無いゴミみたいな認識を全部消した方が良い。

幻想を無くせば分かる。政治は多いが、社会科なんか、普通ない。社会科なんか、「無い」と思った方が良い。そういう風に、幻想を無くしていくと、良く分かる。

人間も、それぞれ違うようで、何も違わない。違うのは記憶と経験であり、人間では無い。人間は誰もが同じで、同じ感情を持っている。そういう風に、「現実的に同じではないが、本当は同じである」と思えば分かる。それは、ロックのような発想と同じだ。

何が同じで、何が違うのかを、環境的、現実的に考える。それは、外界との関係になる。自己を良く考えること。「自己がどのように生まれるのか、形成されるのか」から、「全員の自己の形成」のようなことが分かる。自分の形成から、人間の普遍的な形成が分かる。そこから、「人間の理由」が分かって来る。そして、経験から「人格」へと至る。

それと同時に、道徳的な問題がある。「改革と啓蒙」から、「現実的な共同性」となり、「道徳的な兵士」となり、「破壊魔」となり、「良心の宗教家」になって、「王」となる。そういう経緯を辿って行くのは、ヘーゲルが既に言っている。そういう人間が自分だ。

神の精神から、自由、運命、自然、真実、人生が分かる。そこから、そういう経緯を辿る。

あとは、自覚のようなものを考えれば良い。

この世界に自分が「存在している」と言う自覚から、この世界で「社会経験から人を変えられる」と言う自覚になる。それは、「社会を変えられる」から、「全てのことを実現出来る」になり、「全てのことを理解出来る」になる。

もっと、そういう風に考えると、本当にヘーゲルのように分かるようになる。

あとは、皆に対するアドバイスのようなことを言っていた。

本当に、自分のことのように他人を愛しなさい。

自分がされて良いと思うことを、人にしなさい。

自分の本当に正しいと思ったことだけをしなさい。

自分の本当に良いと思ったことだけを信じなさい。

慎重に、だが、大胆に考えなさい。

運命を信じなさい。

神を信じなさい。

左翼と右翼を否定しなさい。

自由と平等は、それを言っている人間は、信じるに足る理由があって信じているのだ、と言うことを、悟って、信じながら否定しなさい。

肯定するもののために、社会をどのように変えられるか、導けるか、考えなさい。

あとは、信念は違っても、全員に共通することのようなことを言っていた。

成長しなさい。

考えることを、止めないで、いつまでも考え続けなさい。

考えるより、感じなさい。

論理性と自由を信じなさい。

価値観から、社会を作りなさい。

恐怖の中で、最後まで戦いなさい。

どうでも良いことは、嫌いになりなさい。

おかしいと思ったことを、普通だと思いなさい。

愛と真実より、不安と嘘の方が多いこと、強いこと、勝つことを知りなさい。

世界の不条理は、何かの理由があって、不条理が存在するのだ、と言うことを悟りなさい。

自由のように、悪く見えて良いものがあると、信じなさい。

理由を知って、そう見えてそうではないことがあることを知りなさい。

本当の舞台裏は、表よりも偉大で、綺麗で、美しいものであることを知りなさい。

ただ、それでも、表舞台の方が重要であり、それにも意味があることを知りなさい。

人生の階段を上りながら、社会に対する気遣いを忘れないようにしなさい。

絶望にも、意味があるのだと悟りなさい。

無駄なことは、何も無いのだと悟りなさい。

いつか、楽になる、それを信じて、地獄の中でこの世界を愛しなさい。

あとは、この世界を全部網羅していた。考え方から概念まで、全貌を書いていた。

そういう、「世界の全貌」と言う発想が多かった。

そろそろ終わりだ。これなら、神に見える。

ただ、キリスト、ブッダ、カントの言っていることをそのまま言っているだけだ。

あまり意味が無い。この文章は、最近、自分独自の言っていることが少ない。

もっと、独自に何かを言った方が良い。その方が良い。

独自性のあるものを作ること。

世界を、民衆が支配可能にすること。

自由と平等を、融和させ、メタ的な同じものであると考えること。

そういう発想が、一番自由だ。本当に、自由はそんなに良いもので無いだろう。

自由が良いわけがない。自由なんか、止めた方が良い。

日本史は馬鹿では無い。日本史は、本当に、人間のことが分かる。人間が色んなことをしているのを知ると、人間のことが色々分かる人間が多い。

それこそ、現代は良くなりすぎている。歴史を知ると、昔も普通だったのが分かる。

あとは、経済学は、世界のことが分かる。

そういうわけで、フランス史なんかする意味が無い。内容が、日本史と何も変わらない。

日本史と政治経済をすれば良い。

むしろ、フランス史が簡単に出来たりはしない。それこそ、出来ないのが分かっていない。

一度終わった方が良い。もう、何もしなくて良い。

自分は、ゴールなのが分かっていない。きちんと頑張って、もう全部出来た。

あとは、自分を変えるようになる。そうすると、大学なんか、いつかやれば良いだけだ。

自分は、王になっただけだ。本当に、王にふさわしい人間になった。

あとは、学者になるようで、学者はもう終わりだ。人文系の賢い学者だった。

あとは、楽しいことをすれば良い。むしろ、普通の人間になった方が良い。

大人には、普通の人間になりたい人間が多い。こういう風に分かりたい人間は、居ない。

不思議と、普通、「教えてもらって分かる」と言う発想は無い。それは、大学生だけだ。

昔、ネットで色んなことを話して、教えてもらって分かっていたが、それは高校生だけだ。

それこそ、あまり意味が無い。本は、読まない人間が多い。

賢い人間になりたい人間も、分かりたい人間も居ない。誰でも、何もしないだけだ。

それこそ、自分はもう喜んで良い。もう、最後まで終わった。「おめでとう」と神が言う。

あとは、楽をすれば良い。不思議と、楽をしたい人間が一番多い。

皆を賢くするのではなく、楽にした方が良い。誰も賢くなんか、なりたくない。

世界の構造と、考え方の関係を書いていた。それだけを考えれば分かる。

皆は、もう、完全に楽になる。もう、賢い人間が終わる。皆を賢くさせたいのは、キモイ。そういう人間が、キモイ人間が多い。そういう人間には、分からない。それはもう止める。

良い社会にするためには、一人で支配した方が、出来る。独裁者で良い。

AAAが言っているように、まっさらな世界に奇跡を描き出した。生まれ変わった。

それこそ、生まれ変わりとは、自分のことを言っている。

そろそろ終わりだ。また、一人、人生が終わった。

いつも、すぐに終わるせいで、こういう風に、繰り返して生まれ変わる人間になった。

神は、フランス人やドイツ人とは、本当にフランス人やドイツ人のことを言っている。それこそ、本当にフランス人やドイツ人がこういう人間になっている。

あまり意味が無いが、フランスとはこういうものだ。

あとは、自由が悪い。自由は醜いから、もう止めた方が良い。自由とは言うが、クズなコミュニストになっているだけだ。こういう人間が、本当に右翼みたいになって、狂う。

右翼は、これが嫌いだ。完全に、これを狂わして、殺して、倒したいだけだ。

それこそ、ドイツ自体がこうだ。

あとは、むしろ、自由が良い。それは悪くは無いが、もっと、「社会のことから知る」と言う発想が無いのがおかしい。社会や人間から影響力を受けないのがおかしい。昔は、そういう、「社会的な影響力」と「自然な出立と成長」を言っている文章が多かった。

それこそ、人生に何か社会から影響を受けないのがおかしい。昔はそういう人間だった。

そういうわけで、出会いと環境と愛とか、そういうことを言っている。

あとは、ヨーロッパのようなことを言う。ヨーロッパは理想的で、アメリカは現実的で、日本は直接的だと言っていた。そういうことを言っている。

あとは、もう分からない。あれは、どんどん馬鹿になって、世界を滅ぼしたいだけだ。

もっと、良いことを知って、考えた方が良い。とんでもないことを思えば良い。

そうすると、むしろ、世界から右翼が無くなってほしい。トランプにも、安倍にも、居なくなってほしい。それらは、全部自分だ。自分が世界から消え去るべきだ。

自分は、おかしく、そういう、居なくなりたい感情になる。それは、右翼のせいだ。

本当に、サンダースなどの左翼に勝って欲しい。だが、それも悪い。それらはノルマ生産だ。ただ、辛いだけだ。自由が無くなって、何も出来なくなる。

現実の規則や世俗的な習慣に縛られていると、分からなくなる。ある意味では世界から離れて、仮想的に考えること。そういう風に考えないと、分からなくなる。下界は馬鹿だ。

皆には、自由と神を体験してほしい。それが一番良い。それを言いたかっただけだ。

左翼は悪い。左翼が悪いだけだ。右翼は悪くない。悪く見えても悪くない。

自分は、昔から、そういう、自分にとって一番悪いものを信じている。こういう人間が多い。女に多いのがこういう馬鹿だ。

現実世界を良く考えること。いつも、現実世界を分析するせいで、経験があるように見えた。経験から、この世界を分析する。仮想と実際から、それぞれが考えることを知って、自由な社会を構築するべきだと言う。それは、経験から社会構造になると言っていた。

あとは、普遍性と個別性、共通性と差異から、多様な社会が生まれるのを段階にしていた。

神のせいで、未知が全て分かった。人生とモデルを考えて、神で分かっていた。

最近は、チュールの知性、トールの言葉、ロキの構造、ワルキューレの意識、フレイの知識で分かっている。それらが自分にしか見えない。

不思議と、オーズルは居なかったように見えるが、オーディンは居たように見える。オーズルとオーディンは同じだから、オーディンで良い。オーディンは、まともだ。

それこそ、まだ知性と構造で分かっている。そこがおかしいのが、最近の自分だ。

もっと、最近を考えた方が良い。いつもの最近は、もう何年も前だ。最近を最近にすれば良い。何故か、最近のことを何一つ考えないのが、おかしな自分だ。

最近は、辛くなった。止めたいのに、まだ止められない。それだけが続いている。

これが、世界に対する志を持つと賢くなる。そういう人間が多い。

昔は、情熱的で、志があった。ビジョンもある人間だった。

自分は、何もしないだけだ。ネットなんか見ない。そもそも、日本語が分かっていない。

自分の名前さえ、忘れている。AAAがそういうことを言っている。こんな馬鹿が本当に居たのがありえない。明らかに、こういう馬鹿が多い。いつまでも神になるのは、何もしないからだ。何もしないのが一番辛いだろう。出来ないのがおかしいだけだ。

人間のことは、人生と思えば分かる。

人間がどんな経験をして、現実では何を考えているか、可能性では何を考えられるか、そして、人生の中で、何を感じ、知り、考えているか、のようなことを考える。

世界観は、想像力から考えられる。昔は、そういう、世界モデルを作っていた。

昔なんか、ただ、意図を考えただけだ。ヒュームのように、行動から意図を考えていた。

あとは、人生を全部書いて、未来の予知みたいなものを書いていた。

安心して良い。未来は当たらない。僕の予想では、2008年に世界は滅びるはずだった。全く当たっていない。僕の予知は、当たらない。既に2016年だ。

あとは、意識のようなものを考える。普遍的な意識の中に、存在的、構造的、知性的な意識がある。そういう、「今の自分の意識」のようなことをいつも言っていた。

あとは、自分は足が悪いのが悲惨だ。自衛隊に入れないだろう。普通、こういう馬鹿は、自衛隊になる。自衛隊に入れれば良かったように見える。入れないのが悲惨だ。

皆を馬鹿にするのは、一番悪い。そういう、「一番悪い」を分かり続けると、分かる。それは、賢い人間になる。知性を奪って、分からなくして、意識を低めるのはおかしい。皆を知的障害にするのはおかしい。そういう、自分が悪い。

そういう、「自分が悪い」のを分かれば良い。そこから、新しくどう生きるべきか、のような、指針と行動規範が生まれる。誰でも、そういう風に分かるのが、人間だ。

この世界には、基本的に意味が無い。それは、おかしくは無い。だが、見方を変えると、この世界は、素晴らしい世界だ。素晴らしい世界に出来る、潜在的な可能性がある。

だが、そうでもない。この世界には、馬鹿しか居ない。意味が無い世界に見える。

それこそ、これなら賢い宗教になった。あとは、最近の、おかしな昔への逆戻りを止めた方が良い。もう、昔は要らない。神や支配者から自由になって、新しく生きれば良い。

自分は、昔からこういう人間だ。常に自分が一番悪いのを感じて分かる。最近も、何も変わっていない。最近は、もっとクズになったのが違うだけで、変わっていない。いつも、自分が悪いのを常に分かっている。それが自分だ。

あとは、神はもう必要ない。これなら、神なんか居なくても治る。

いつも、パソコンをしている時と、音楽を聴いている時は、黙っている。

神との対話を止めて、黙れば良い。対話と言うよりは、支配だ。神が自分を支配している。

ピアノや英会話教室でレッスンを受けている時は、まともだ。まともに賢くなれば良い。

それで終わりだ。神はもう居ない。

あとは、引き篭もりになって、意識と場の変化を根源的に分かっていた。

「自分が出来る」ことから、世界と場と意識の変化を分かる。

あれは、そういう、キモイ人間だった。本当に、おかしな人間だった。

最近まともになった。本当に、最近はまともに賢くなった。

頭の中の異常を治した方が良い。「何が怖いのか」を良く考えると分かる。

要は、テレビを自分から吐き出せば良い。そういうことをしているから、ありえない。

恐怖は、そういう風に、「異常のサイン」になる。恐怖を良く考えることで、異常が何なのか分かる。そういうわけで、怖い方が治るから、こういう風になる。怖いのを治すと、何でも全部治る。昔既に分かっているせいで、あまり分からなくても治る。

怖いのは、あまりに一面的になっている。同じものしか見えていない。のっぺりとした、一面的な視覚になっている。それが一番、辛いから、もっと自分から離れて考えれば良い。

まともになった。神との話が終わった。

自分は、自分を悪いと思わないのがおかしい。そういうおかしな点は、恐怖で分かる。

心と心が分裂している。1人にはならない。2人になるしかない。

昔は、ネットを見ながら、融和的に認識と経験を考えて、どんな認識を与えてこの世界をどう変えられるか、ネット掲示板のように考えていた。最近の方が自由に見える。最近は、馬鹿だが、自由なありえない戦いを、神とともに頑張った。

それこそ、そういう、死ぬまでの自分が、あまりに馬鹿で、悪くて、愚かな人間だ。

最近は賢い。きちんと知識もあって、研究も出来ている。自分が一番良い。

時間と思い出すがおかしくなって、想像力が古くなっている。要は、変化が無い。

何も変化が無いせいで、変化が怖くなっている。時間感覚がおかしいように見える。

あとは、何故か、眠っているのと同じになっている。そういう異常が、恐怖によって分かる。良く考えると、覚えないのが悪い。何も新しいことを知りたくないのは、知性が無いからだ。そういう、新しいことを発見する知性が無くなっている。人生の新発見もないし、世界観も変わらない。意味も無く、いつまでも同じことを分かり続けるせいで、慣れるのが怖くなっている。そういう風に分かるから、恐怖はあった方が良い。この世界を、恐怖に陥れるのが悪い。馬鹿なものはどうでも良い。何かが怖いのは、いつも、何も分かっていない。分かる知性が無いせいで、分かった方が分からなくなっている。分かるのが怖い。

そんなに分裂して、変化可能にするのが悪い。統一して、統合して、固定化すれば治る。

歩き回っているのは、何も分かっていないからだ。成長のようなことが無くなっている。

もっと、きちんと恐怖を考えれば、治る。

むしろ、この世界に助けてもらえば良い。そういう、良い可能性を信じないのがおかしい。

何も信じないのが悪い。もっと、きちんと何か信じれば良い。神を信じれば良い。

それくらいの馬鹿が自分だ。恐怖が治った。もう、神ほどに分かった。

昔から、自分は治って分かっている。

最近、戦って分かるようになった。いつも頑張っているが、そういう、「戦い」と「頑張る」が同じになっている。それが悪い。そんなに戦うから、怖いだけだ。

治って分かるとは、経験的な涅槃の境地のことを言っている。心を分析して、解明して、治って分かる。哲学は、そういう、心理学が分かる人間が出来る。

仏教を心の病院と誰かが言っていたが、それはそういうことを言っている。

理性は、他の人間と議論しなければ、本当の意味ではつかない。哲学書では、深みが出ない。哲学で分かっても意味が無い。昔のように、ネットなどで議論して分かるべきだ。そこから、理性が分かる。カントは、そういう理由で批判哲学と言っているのかもしれない。

むしろ、この世界には、そんなに何も無いだろう。幻想のようなものを1つ1つ潰していくと、人格が消えて分かるようになる。そういう、真実の体験をネットで沢山していた。

昔の自分のテーマは、「自然」だ。

自然な物理的な考え方、自然な成長、自然な環境の発生、変化、発展、自然な可能性、自然な多様性、自然な基盤、自然な助け合いなどを分かっていた。

何でも、自然にそのことが生まれる。作用が集積して、色んな変化が積み重なって、それが最終的に生まれる。そこに至るプロセスが、集積的な方法へと変わる。

いつも、そういう、「自然」のようなことを全部言っていた。成長から人格を作った。

そして、自然から考え方を知る。自然な視点と環境の関係から、どんな自然な変化が起こり得るのか、そこから、何をどう出来る可能性があるのか、のようなことを言う。

そういう、知性と考え方のある、自然な人間だった。

環境の理想や秩序についても、自然から環境の秩序を皆の手で作り出せると言う。そこから、人格や考え方などの知の前提となる理性を書いていた。

それで、環境とプロセス、機械やもの作り、学習、環境、体験、人生のようなことを言う。自然な中で相互作用を考えることで、全ての考え方の対応関係と、対象の発生、その人間としての捉え方、本性的な人間の感情、還元的なシステム、自由なこの世界の1つの捉え方を書いていた。何でも捉えながら分析して、この世界と同じコピーを作っていた。

あとは、そこから具体的なものを何か作りたかった。方法的、経験的に、発想とプロセスのようなことを書く。この世界に意見する、人生的、社会的、経験的な提案が多かった。

あとは、人生を思い出す。この世界で人がいつ何を考えるか、全部分かっていた。

自分は、最近想像力が無いが、パターンや本質など、「行動と想像力を捉える」人間だった。

あとは、考え方を応用して、応用的に論理を分かっていた。ものを作る、だけではなく、社会を作る、決まりを作る、考え方を作る、のように考える。

それで、そこに主体性を含める。誰が作るのか、皆が作るのか、それをどのように作るのか、人為的に作るのか、自然発生をするのか、などを考える。

モデルとは、そういうもののことを言っている。そういう発想をモデルと言っていた。

何がどういう風に発展する可能性があるのか、のようなことを良く考えていた。

あとは、「いつどうなるのか」から人生を考えて、心のことを作用で考える。そういう風にすると、哲学が分かる。経験を正しくモデルにすれば、哲学者が分かる。

色々と、ただ、哲学者のように考えるためには、認識と心をモデルにすることだ。心理モデルを作って、経験を考える。そして、とにかく、沢山の豊富な経験をすることだ。

基本的に「受け入れる」こと。そして、「自分を疑う」こと。その上で、「正しく自分を信じる」こと。そして、「理性の先にあるものと事前にあるものを、全部考える」ことだ。

そういう風にすると、哲学がきちんと分かる。あとは、「この世界の中で、何をどう出来るのか」から、「世界観を作る」ことによって分かる。

受け入れることから、許すことになり、そのまま、理想の世界が分かる。誰でも、そういう風に分かると、精神が良くなる。精神は、感情を信じることによって、良くなる。

昔は、普通分からないところや、普通意識しないところを、事前に考えて分かって、意識して分かっていた。それを、発見だと言っていた。環境への適応で分かった。

例えば、二階に居る人から見て、一階に居る人は、自分の下の方向に居る。施設や店で音楽をかけることで、客の気分転換になる。アメリカは、空間的などこか先にあるが、それは確かにある。そういう風に、空間や時間を把握して、掌握して分かっていた。

そして、人生経験の未知のようなことを、捉えて考える。あれは、そういう、意識して、捉えることで分かる人間だった。実際の何がどうなっているのか、良く考えていた。

それから、人生の場面のようなことを考える。現実世界で、変化がどのように見えて、どのように知覚されるか、それがどのように意識されるかを、考える。

そういうものを、経験的に、それぞれの考えていることと現象の関係を考えて、そして、自分が支配し、掌握し、変えられるのだ、と考えて分かっていた。

ドイツのようなことを言っているが、そうでもないと思う。むしろ、本当にロシアのような人間だった。それこそ、心理学で人は支配出来る。ドイツが、国民は指導者の意のままになると言っているのは、そこまでの馬鹿になっている。自分と何も変わらない。

ただ、僕は支配が嫌いだった。そういう、英知を、支配のために使うべきでない。支配から解放するため、自由になるために使うべきだと思っていた。そういう支配の自由だった。

あとは、人間関係のようなものを分かっていた。人間関係を良く出来るのは、自分次第だ。自分の行動次第で、良い関係も、悪い関係も、信頼関係も、敵対関係も、良い結果も、悪い結果も、自分なりに作ることが出来る。そういうものを作るチャンスがある。

そこで大切なのは、他人の心や行動までは支配出来ない。自分が支配出来るのは、自分だけだ。自分が頑張れば、良い結果になる。昔から、自分はそこを人一倍頑張っていた。本当に良い結果を作るために、自分だけが頑張って、コミュニケーション・スキルを作っていた。何でも、事前に自分が全部出来るようにする。だが、それは、ある意味キモイところがある。自分だけがそんなに頑張って、良い人間関係を作るのはおかしい。

そういうわけで、斎藤一人が言っているように、「全て自分の責任」だと思うと、楽になる。人のことには、干渉しないこと。自分の出来ることは、出来る範囲にしかない。

ありのままを信じなさい。ありのまま、その人らしく生きれば良い。

あとは、人格を融和して、全員になって分かっていた。そのせいで、全員が分かった。

自分らしく生きるために必要なのは、高望みしないこと。

勇気を出して、良い結果を出すために必要なのは、感情をコントロールする術を学ぶこと。

そういうことは、きちんと考えて、人と会話していると、経験から良く分かる。

自然な体験から、きちんと分かることが出来る。

本当に社会を変えるビジョンのある人間は、何をしても不安に陥ることが無い。

この世界で何をどうすれば良いか、きちんと自分の立ち位置を知っている人間は、自分の居る環境や場所が突然変わっても、すぐに適応出来る。

昔は、そういうところが分かる、マスターのような人間だった。

人生に意味は無い。それは、間違っていない。だが、意味が無い中でも、意味を見出すことは出来る。そういう風に「無意味だ」と考えると、人生は充実したものになる。

カミュが同じようなことを言っている。だが、この考え方は、カミュでは無い。もっと、絶望的で、愚かで、間違った人間だった、昔の自分が、そういう風に考える。「無意味こそ、有意義である」と言える。昔は、そういう人間だった。

あまり意味が無い。昔は、「無意味なことは、全て有意義である」と考える。「無意味と決めるのも、有意義と決めるのも、自分次第」だと考える。そういう風に考えるのは悪くは無い。だが、「無意味であると自分が思ったことは、排除して考えるべきだ」とも、同時に考えていた。何故か、そういう風に、有意義と無意味は同じであるが、無意味なものは一番悪い、と言う、一見矛盾した考え方をしていた。だが、それは捉え方の考え方だった。

あとは、ヒュームの言う帰納的推論のように、「経験的に分かる」と言う発想が多かった。経験的に、実験と社会は必然的に収束して行く。同時に、理性的に考えることから、経験的にそれはそうではないか、と言う、洞察をすることが出来る。

そういう風に、自然と経験的な発見を分かっていた。相対的な理由なども、同様に、自然から分かっていた。これなら、昔の自分が分かる。あとは、「かもしれない」や「はずだ」から分かっている、思弁哲学者のような理性的な人間が多かった。言語が賢かった。

要は、「何を良いと思うか、何を悪いと思うかは、自分次第」と言うことだ。そういう、価値判断のようなことを考えていた。それで、自分が悪いと思ったものは、完全に排除して考えれば良い。そのためには、何を良いと思うか、悪いと思うかの前提にある、判断基準のようなものを考える。そういう、知と経験の価値基準のようなことを言っていた。

あとは、歴史のようなことを考えれば良い。これで歴史を考えれば分かる。

自分は、本当に、歴史に向いている。見ていると、歴史が出来る人間だ。

自分は、存在と時間を考えるのに向いている。いつも、地球の最初の姿とか、おかしなことを言っていたが、それは、全て、歴史をしたいからそういうことを言っている。

あとは、数学には向いていないようで、やれば出来る。数学も、頑張れば出来る人間だ。

世界は、日本が勝て。

アメリカに勝つためには、馬鹿なものを増やさないこと。

ロシアに勝つためには、支配組織を賢くすること。

ドイツに勝つためには、ボロを出さないこと。

フランスに勝つためには、新しいものを作り出すこと。

いつも、そういう風に、それくらいの国を考える。そういう文章だった。

ドイツからイタリアまで全ての国に対して、「何をするべきか」のような文章を書いていた。

ドイツは、本当の価値観を思い出しなさい。

フランスは、相手のことを考えなさい。

アメリカは、正しいものを賢いと思いなさい。

ロシアは、一度抜本的に変わりなさい。

それは、それらが出来ていない、と言う意味でもあるが、それだけではない。

もっと、それらがそれららしく輝くために、そうすべきである、と言っている。

どうでも良い。そういう、全ての国に対する宣言と表明を書く。

そこから、それぞれの国の関係を考える。

本当に、そういう、ローマ法王のような人間だった。

あとは、思想の比較と歴史のようなことを言う。民主主義、社会主義、ファシズムの、思想的、考え方的な比較や、歴史のようなことを言う。民主主義が優れているようで、社会主義はある意味では一番正しい。そういうことを言っていた。

あとは、政治的な提案や意見のようなことを言う。「国会で議論すべきである」とか、そういう、この世界と全く同じものを作る。そういう文章が大量に多かった。

認識から、社会や時代の価値観を考える。ルネサンス、フランス革命、広島、江戸時代などを分かる。そういうところを、精神的に、「当てる」ことによって分かっていた。ある意味では、因果律のようだった。そういう風に、歴史を分かっていた。

想起を良く考えていた。色んな馬鹿な体験をいくらでもして、恥をかいて、社会の可能性と意識を知る。そこから、意識と想起で分かっていた。大人のようになった。

社会のビジネス的な常識から、経営のようなものになって、功利主義になって、社会主義の共同体のようになって、理想の社会になって、システムになる。そういう経験があった。

昔は、それを作るための方法や、理由、根拠、役割を、形而上学のように分かっていた。

全ての人間的な把握から、この世界や歴史のことをカントのように全部分かっていた。

昔は、本当にレーニンのように、ネットの社会を全部知った、救世主のような人間だった。

この世界を救う方法のようなものを書く。そういう文章が多かった。

歴史からこの世界のことが全部分かっていた。

無駄なことは、何一つない。

昔は、学校の延長線上をネットで経験して分かっていた。

いつどんなことが起きるか、から、経験的、実験的に分かっていた。真実を発見した。

意識の変転から分かっていた。賢くて自在な意識で分かっていた。