日記に戻る | 2016年3月の日記に戻る

=2016-03-13=

昔は、学習だけをそこまで分かっていた。

認知的、行動的、経験的な学習を考える。

学習から環境を分かって、環境から人生を分かった。

欲求に対する正しい望み方や願い方、何を行動するべきか、などを分かったように思う。

学習と想像力から、方法や意識や経験を分かっていた。

人間がいつどうなるか、全て分かった、全てを司る神のような人間だ。

ただ、馬鹿な人間だった。知性が無い。本当に今の方が賢い。

いつもの文章にも、そういう、学習と抽象的方法のようなことを書いた。

皆を分からなくすれば良い。そうすると楽だ。

最近は、言って分からなくなる。それで分かっている。

意識を自在に変えて分かった。

存在が同時にいつでも存在しているのを分かった。

戦いや考え方が多かった。本当にあらゆる考え方が分かっていた。

ヘーゲルのように、対象を思考で吸収した。

理想の社会の作り方が分かるマスターになった。

最近、リアルに何も無い。たまに色んなところに行くぐらいで、何もしていない。

何かした方が良い。

これは、おかしな女に見えるが、最近は女になっている。

皆を分からなくすると、分かるようになる。分かっても意味が無い。分からない方が分かる。分かる言葉をそんなに増やさない方が良い。それで分かっていない。

自分は、心と行動を考えれば良い。そうすると分かる。

昔は、言葉と構造を統一して、積み重ねて分かっていた。

行動を積み重ねて、階層的にして分かっていた。

あとは、科学や政治経済などの、学問的なことを考えれば良い。

行動、思考、心、科学的方法、知識を考えれば良い。そこらへんを考えると良いだろう。

自分は、賢くない。一度ここまでを全部消した方が良い。

まずは、環境と体験を消す。もっと良い言葉に変えるべきだ。

それから、自由と可能性を消す。それも、もっと具体的なことを考えるべきだ。

そして、モデルを消す。モデルと思うと、分からない。

一度、この世界をそのまま、ありのままに見て考えるべきだ。

あとは、言葉は全部要らない。想像力と現実だけにした方が良い。

行動には、欲求と判断力がある。

思考には、記憶と感情と自由意志がある。

そういう、まともな言葉を使うべきだ。

もっと具体的な思考をすれば分かる。思考しないのがおかしい。

あとは、人格とも言わない方が良い。もっとマシな言葉を使うべきだ。

あとは、神の愛や悟りのようなものを分かれば良い。そういう風に、概念的に思考する。

賢い言葉や、賢い言葉遣いを消した方が良い。

色んな学習を書いていた。人間の持つ、学習機能と抽象的観念を書いていた。

思考から、さまざまな考え方を探る。そういう文章だった。

自由から、この世界の構造を知った。環境を自由にする、などと言って、世界観を作った。

そして、社会制度や役割を考えて、それがどういうことなのか、本質的に考えていた。

そんなに分かっても意味が無い。あまり分からない方が良い。

分かる部分を、分からなくすると、すぐに分かる。

女みたいな部分が悪い。判断したいのは、分かる部分を残すせいで、まだおかしい部分が残っている。それで、判断している。最後の言葉を付け足すようになった。

ただ、単純に言えば良い。日本人には、ずけずけと言う人間が多い。それが日本語だ。

人間の意識や人格を分かっていた。

最初から同じことを書くのがおかしい。もっと、違うことを書けば良い。

いつもの文章の繰り返しは、つまらない。一行を書き直すだけで分かるから、楽だ。

社会、歴史、相対的な考え方などを、経験的に分かっていた。

ヘーゲルと思えば良い。ヘーゲルと何も変わらない。

歴史の時代を、ヘーゲルのように分かっていた。

要は、ヘーゲルもヘーゲルで、勉強していない。もっと賢いことを自分でやっている。不良に見えるのはそのせいだ。賢いのは学校よりもっと賢いことをやっているからだ。

あとは、言葉にならないことを実感で分かっていた。

自分の場合、ネットで分かった。社会のことは、自分の経験から分かっていた。

自分の能力と可能性から、同時に、社会の能力と可能性、集団の能力と可能性を考えた。

そういう風に分かっただけだ。ヘーゲルと言うよりは、功利主義のようだった。

功利主義は、ゲスな発想に見えるが、そういうことは無い。功利主義を有用性と技術中心の哲学とは言うが、哲学全てへの登竜門になる。功利主義から発展して、人間のことを知る経験論や実存主義になって、ヘーゲルのような絶対的精神や思想を知って、現象学やマルクスに至る。そういう発想が、哲学への最初の一歩としての功利主義だ。

そのまま、キリスト教になる人間が多い。そういう風になるのは、全部、神を信じる人間がそうなる。神のせいでこういう人間になる。神がこういう風に全部決めている。

あとは、神なんか居ない。神とは、地球全体の意識、宇宙全体の意識、生命全員の意識のことを言う。だが、そんなに大きなことは出来ない。出来ることは、人間の行動や機械などを通じて、人間をいくらか操って出来ることに限られる。「全て、自分でしている」と思う人間が多いが、自分ではしていない。神が偉大なのは、こういう偉大な人生になる。

あとは、多重人格になりたいのは、止めた方が良い。多重人格になると、知的障害になる。認知症のように、脳が小さくなって、何も出来なくなって、すぐに死ぬ。悲惨だから、多重人格になんか、ならない方が良い。多重人格を治すと、楽になって賢くなる。

自分は、まだ書いていた方が、本当に良い。最近、書いていても楽だ。心が治る。

あとは、「概念的な思考」だとか、そういう賢いことを良く分かっていた。

多重人格を治すと、もう分からなくなる。一人の人格になって、自分で考えるようになる。

多重人格になっても、馬鹿にはならない。なってしまえば楽に見えて、それは辛いだけだ。

スピノザの言う、自然全体が神である、とは、ある意味正しい。数学的推論も良く分かる。

今日も農園に行ってきた。

潜在的な自由と可能性、捉え方、経験的な影響力の拡大を考えていた。

成長して、出来るようになることで、自由と可能性が広がる。

自然に知る中で、あらゆる全てのことを知れる。

眠っている認識を掘り起こして考えていた。

認識と世界のことを照らし合わせて考えていた。そういう認識を認識だと言っていた。

経験的な認識の捉え方を考えて、自然に認識が心の中から生まれてくるような、ソクラテスやヘーゲルのような発想をしていた。そういう風に、認識の捉え方を分かった。

国民公社の自由のような、「実質的な自由」を考えて分かっていた。

何をどうすれば自由になるのかを考えた。

自由を想定して、何を自由にするべきか考えていた。

共同体や複合的な自由な国家を作っていた。独立性や共有などを考えていた。

活動を考えた。

それぞれの視点に立って、それぞれの国民の活動を考えた。

時代や共生社会の中での、環境的な活動を全部考えた。

歴史を創っていた。

2ちゃんねるの馬鹿の中で、一人、真面目に生きて、真面目に考えて分かっていた。

真面目に生きながら、ネットを経験することで、ネット社会のことを全部知っていた。

色んなスラムの中で、色んな人間をじかに見ながら、自分の体験からネットを知った。

悪い人間たちの中で、一人真面目に生きて分かった。

悪く見えて、救世主のように賢かった。

あとは、神が勝手にやってくれるから、安心して良い。

自分は、自分が神になっているのを止める。

何故か、神の中で自分が一番やっている。自分にするのを止めると、皆普通の人間に戻る。

神を止めると、多重人格が治って、日本語がきちんと分かるようになる。

神を止めると、きちんと分かるようになる。それで大学をきちんとやれば良い。

他人になりたかった。全員になりたかった。

いつもそういう、「全員になりたい」と言う発想が多かった。

スピノザの「神の数学」は、シェリングなどのロマン主義者が言う、「世界精神」や「世界霊魂」のようなものと発想が良く似ている。ソフィーの世界に書いてあった。

農園で分かった内容はここまでだ。最近は、父親と毎日農園に行っている。この文章に書かない日にも、いつも行っている。いつも、そういう風に、農園に行く間に分かる。

ここにはあまり書けていないが、理性的に、正しく、真面目に考えて分かっていた。

論理学のようなことや、自由な人生の道理のようなことを、真面目に考えて分かった。

もう分かっているのに分かっていないのは、全部神が悪い。

神を信じないのも悪い。神には、「放っておいてほしい」と言えば良い。

国民公社の自由とは、税金によって、会社を自由にする。どんな会社を作るとか、どんな労働をするとかを、法律で定める代り、それぞれが自由な会社に出来るようにする。

そういう風に、「自由では無いが、実質的には本当に自由だ」と言う発想が多かった。

昔から、そういう風に、実質的な自由を考える。そういう人間が昔だ。

あとは、相手の視点に立つ、とは、マイクロソフトとユーザーの関係だと思えば良い。ユーザーは不満に思っていても、その不満はマイクロソフトに届いていない。本当にきちんと声を聴くと、きちんと相手の視点、ユーザーの視点に立って、製品を改善出来る。グーグルなどのように、そういう風にユーザーの意見を聴いて良くなった会社もある。

また、支配者のようなものだと考えれば良い。国民の思っていることをきちんと聴いてくれる、そういう支配者に人は流れるものだ。

そして、世界観と人生のようなものだと思えば良い。それぞれは何を見て、何を考えているか。何から知って、何をどういうものだと思っているか。

メディア論とは言うが、むしろ、経験論の哲学に近い。それぞれの知や認識から、その人間のことを自由に、ボトムアップ的に支配する。そういう、「支配」のようなことを言う。

そして、実存主義のようなものだと思えば良い。

そういう風に考えると、影響力のようなものが分かる。

昨日は、意図から環境を作る、と言うことを言いたかった。それを忘れていた。

最近、自分には何も無い。リアルに何も無いだけの、キモイ人間になった。

神を止めると、多重人格が治って、ニキビも治るかもしれない。

あとは、そういう、影響力のことを客観視だと言っていた。

皆には、もう関与しない。滅びるように見えて、滅びない。神が居なくなっても、皆は居なくならない。それこそ、神を信じる人間はこうなる。

何故か、自分のせいで、こうなるだけが神だ。神は、こういう風に、辛くないのに辛くなる。だから、ザビエルのような人間は、恐ろしく辛い。本当に地獄にしかならない。

また、会社の社長だと思えば良い。社長は、その立場で、やるべきこと、やるしかないことをしている。社員や部外者の立場から見ると、おかしなことをやっている時がある。そう言う時に、沢山の立場を吸収して、「総合的な立場」からものごとを考える。それは、会社の関係者では出来ない。部外者だからこそ出来る。関係者には、本当に客観的になることは出来ない。客観的と言うよりは、ネットのような自由だと思えば良い。

あとは、2ちゃんねるだと思えば分かる。自由な議論の中で、どのようなことを相手に伝えるか。上手く誘導し、操るか。だが、それは明らかに馬鹿だ。昔は、そういうところが馬鹿だった人間だ。悪いとは言うがそんなに悪くは無い。議論で政治のことを分かった。

何故か、これでマネジメントを考えないのがおかしい。管理を考えない。

管理とマネジメントは、昔から、考えていない。

昔は、オープンソースのようなもので、協力や共有のようなことを考えていた。

そういう、「オープンソース的な自由な協力」を考える。それは本当に多かった。

文章とは言うが、それくらいの馬鹿な文章だった。

あとは、人格と行動の客観視のようなことが多かった。馬鹿に見えて、分かっていた。

これで、きちんと考えるように見える。不思議と、昔からこれくらいしか考えていない。

あとは、哲学なんかしなくて良い。これで出来るわけがない。

カントとヘーゲルをやるより、図鑑を見た方が面白い。

カントとヘーゲルの入門本はいつか買った。それを読めば良い。

あとは、社会科を本気でやれば良いが、心理学もやりたかったから、やれば良い。

哲学は、これでネットで色んなものを見ていると出来る。昔はオープンソースから分かった。それは、大人なら誰もしない。出来ると言うよりは、馬鹿になっているだけだ。

哲学なんかしない方が良い。不思議と、哲学なんか、まともな人間なら誰でも出来る。知性を使って、良く考えれば良い。自分が出来ないのは、論理的な思考能力が無いからだ。

あとは、社会や環境の、可能性や経験の、自然な知性の考え方が多かった。

マルクスの言葉を借りると、「歴史の必然」となるが、それを実際的に考えていた。

そして、自分は、必然的にマルクスに導かれたように見える。

昔から、世界のことを良く考えて、必然的にマルクスと同じことを考える。

疎外とか、そういうことが分かっていた。

世界史の現代史の本を読んでいるが、欧米は植民地で搾取しかしない。搾取が嫌いになるのは当たり前だ。過酷な労働で苦しんでいる黒人やアジア人が居る一方で、貴族やブルジョワは何もしていない。平等で無い。そういう発想がマルクスだから、悪くない。

そういうわけで、マルクスは本当に一般的に見て、正しい。普遍的に正しいことを言っている。おかしな世界にしたいのを悪いとは言うが、何もおかしくは無い。

自分は、マルクスと言うよりは、ヒュームだ。ヒュームだと思えば良い。

むしろ、ヒュームがやりたいなら、やれば良いように見える。これで哲学なんか、誰でも出来る。ただ、ヒュームは本当におかしいのが分かった。カントとヘーゲルをやれば良い。

あとは、自然な生存や発生の条件とか、そういうことを言う。マルクスも、自然な生産条件を考えている。誰が考えてもそうなる。生命を自由だとは、そういうことを言っている。

あとは、誰でもこうなる。経験と可能性と知性で考える馬鹿が一番多い。

それは、馬鹿では無い。賢い人間にはそれしか居ない。それで、自由に考える人間が多い。

それこそ、平等には馬鹿しか居ない。悪い人間が多い。

昔から、自分はそういう風に、色々と賢い人間だった。賢いと思っていた。

大学が馬鹿なのは、本当にやっていると、それを読まないと分からない人間になる。

基本的な知性があれば、自分で考えられる人間が多い。それで経験するのが賢い。

自分は、関係を考えれば良いのが分かっていない。ヒュームのような哲学者のように、関係だけをそこまで考えれば良い。それできちんと分かる。

自分が分かっていないのは、馬鹿なことを考えないからだ。テレビや日常のことのような、馬鹿なことを考えれば良い。そうすると、賢い人間の分からない症が治る。

賢い人間が、こういう「分からない症」になる。それは、馬鹿を分からないのが悪い。

自分は、馬鹿なことをして、関係を考えれば良い。行動や本質的要素や概念から関係を考えれば良い。相関関係、依存関係、影響関係、親子関係、生殺関係などを考えると、昔に見える。まずは、時間と空間の関係からだ。相対的な実証の関係を考えても良い。

あとは、昔は、知恵と工夫を分かっていた。知恵と工夫が分かると、機械のようなことが良く分かるようになる。機械が分かると、社会も機械のように分かる。

こういう風にすると、「観測」が分かる人間が多い。観測者、観測対象、観測地点が分かる。

あとは、主体性や個別性のようなことが分かる。「自分は一人、社会の中で違う」と考えれば良い。そういうものから関係を考える人間が多い。

放っておくと、ハイデガーのように、存在と時間が分かるようになる。ハイデガーも、そういう風に考えている。ハイデガーは、人生で分かった真理のようなことを言っている。

社会を自分がどのように変えるのか。そこから、「自分には変えられる」と言う確かな確信が生まれる。そうすると、ヘーゲルに近くなる。確信と言う発想がヘーゲル的だ。

それから、哲学は図鑑を見れば良いが、歴史の方が良い。歴史をやっていると、本当に賢い人間に見える。これに歴史の知識があると賢い。政治経済もきちんとすれば良い。それが一番きちんと賢い。哲学は賢くない。昔の自分のことをそんなに分かるのはおかしい。

「自分も含めて、誰しもが同じなのだ」と考えること。そこから出来る哲学が多い。

そして、「その人もれっきとした人間であり、自分と何も変わらないのだ」と考える。

そこから、「自分は、全てのものになれる」と言う発想になる。それは、「誰もが同じであり、人間は誰のことも、同一の条件と環境を与えて、把握すれば、理解出来る」と言う確信から生まれる。それが、そのまま、サルトルのような哲学的説明の真理となる。

あとは、ヘーゲルなどの言うように、「現象や社会は精神なのだ」と考えること。そこには、経験的な確信と、人生的で本質的な理由がある。「全てのものは融和して存在し、繋がっている」と考えること。それは、ネットなどで経験していると、誰でもそうなる。

あとは、学習を予測して、人生のことを全て事前に知っていた。そういう馬鹿だった。

知性があるように見えて、知性が無い。パソコンのせいで、知性が無くなった。

パソコンが子供が出来るのは、馬鹿な方が出来るからであって、大人には出来ない。大人は賢いせいで、パソコンの独自の世界なんか、誰も知りたくないし、学びたくない。自分は、子供だったせいで、パソコンとオープンソースから分かった。子供だったから、そういうネットの世界が好きだった。全ては、子供であり、馬鹿である。それが自分だ。

あとは、精神分析から分かっていた。この世界の全てを経験から悟っていた。心理学をやりたいなら、本当にやった方が良い。きちんと精神分析をすると、悟れる人間が多い。

不思議と、これで哲学なんか、きちんと出来たように見える。

価値観の形成される過程、自由で平等な労働、給与、組織、決定、生産のあり方、などを考えていた。計画経済のような国家主義の統制経済から、自由に取り決めと取り組みを作る、のような自由な経済まで、経済と社会のことを実地的かつ理論的に考えた。

昔は、世界のことをモデルにしながら、世界とモデルを照らし合わせて、知性で考えた。

世界モデルから、哲学的な知恵を分かった。

単純に、経験と関係をモデルにして、ヘーゲルのような哲学的真理を分かっている。

何故か、それだけしかしていない。

昔はそれだけだから、モデルにして捉えると分かる。文章にも、そういう内容が多かった。

あとは、また1つ分からなくなった。文章を書くのが怖いとかいうことを言いたかった。

計画経済には、発展しない、と言うデメリットがある一方で、国家が統制するせいで、指導者が何でも出来る、と言うメリットがある。

昔は、そういう、思想の長所と短所を考えて分かっていた。そういう人間だった。

自由にした方が良い。自由は、格差が生まれると言うデメリットがあるが、発展するし、金が儲かるせいで、皆が自発的に働く、と言うメリットがある。

あとは、最近は頭が機械になっている。分かる機械になった。こういう、分かる人間には、馬鹿しか居ない。分からない人間に賢い人間が多い。人間は、分からない方が賢い。

自由は、代表を選ぶ。重要なのは、誰でも代表になれる、と言うことだ。後進国のような、民主主義が遅れた国家では、軍人しか立候補出来ない、など、民主主義のように見えて独裁国家、と言う例が多い。それこそ、選挙なんか、政治家はしたくない。

ただ、選挙を民主主義と言うが、それでも世襲も多いし、選挙のことしか考えない政治家になる。それもそれで悪い。トランプのような、知性の無いポピュリズムも多い。

そういうわけで、民主主義もそれはそれで悪い。格差も生まれるだろう。

それこそ、教育の何が問題かと言うと、格差が問題だ。不良には、親も貧しい人間が多い。社会に不安や不満があるから、不良になる。優等生と不良を平等にすると、全く意味が無いのが、今の公立の中学校、高校だ。いじめは、子供たちの間で、下克上が起きている。

昔は、2ちゃんねるの馬鹿を見ながら心理学をしていた。それでおかしくなった。

あれは、皆も自分も、全員いじめたいだけの、悪い人間だ。

だが、そうでもない。あれは、きちんと分別のある良い人間だった。最近の方が悪い。

あとは、あまり意味が無い。

哲学は、そろそろもう出来た。今日はきちんと哲学が最後まで出来た日だ。

それこそ、昔きちんとデカルトみたいな哲学者だったのが自分だ。

こちらの方も、きちんと何か出来たから、終わりだ。

自分は、むしろ、社会科なんかしたくないから、しなくて良い。本当はしたくないのが、そういう、学校の勉強だ。しなかったことに、ジレンマがあるだけだ。した方が賢く見えて、何も賢くないから、勉強なんかしなくて良い。やっていると、馬鹿な人間になる。

あとは、ブッダのような悟りの方法が分かっていた。善い行いをすること、など。

それから、人生で発見して分かっていた。そういう、「人生の発見」が多かった。

その理由で、キルケゴールみたいになった。絶望と意識から、新しいことを分かった。

最近、そういう、人生の発見があまりない。

もう一度、最初から発見し直すと良い。それこそ、「思い出す」ことで分かる人間が多い。

思い出す、は聖なる言葉だ。それだけで、全てが出来るように復活する。思い出せば良い。

そして、知性は理由から来る。それも、真理だ。理由を知ることで、知性がつく。

そして、意識とは果樹のようなものだ。木に実が生って、食べられる。それが、意識だ。

自由とは独立であり、平等とは一体である。分裂と融和と思っても良い。

平等の良い点は、「皆で一体になれる」と言う点だ。北朝鮮のようだが、皆で1つになって同じ目的のために全員で協力出来る。独立して、互いに競い合っていると、分裂に分裂を繰り返して、弱くなってしまう。一致団結して、結束して向き合う、平等の方が強い。

それこそ、そういう、社会の考え方をモデルにしている文章が多かった。

科学的な視点、宗教的な視点、政治的な視点、哲学的な視点があると言う。そういう、考え方の網羅のようなことをいつも書いていた。

もう、そういう、政治や思想のことも、忘れた方が良い。もっと良いことを信じるべきだ。

自分は、マルクスのまま聖書のキリスト教をやっている。おかしな人間が自分だ。

生命は、吸収し、成長し、循環する。

人間は、金を稼ぎ、定住し、手段と影響力を行使し、支配し、反抗する。

言葉とは言うが、そういう、「あらゆる考え方の網羅」のような言葉を書いていた。

世界観を書いている。それこそ、吸収は成長であり、成長は循環である。そういう風に、モデルと説明のようにして考える。そういう文章が多かった。

この文章は、結果的に全てになっただけで、本人は今分かることをきちんと書いているだけだ。今分かることが、そのまま全てになった。出来ないように見えて、誰でも出来る。

昔は、賢かった。人生のようなものを、ビジョンのように、全て見通して分かっていた。

ブッダが言うように、解脱はそのまま人生であり、人生はそのまま解脱である。ブッダは、その通りは言っていないと思うが、似たようなことを言っていたと思う。

そういう風に、「対象を道であるとか、循環であるとか、具体的な比喩で考える」と言う発想が多かった。意味を良く考えて、同じである、と言う風に、表現する。昔は、そういう、きちんと仏教のように分かる賢い人間だった。

ただ、そんなに今の自分を否定するのはおかしい。馬鹿に見えるなら、今から賢くなれば良い。生産的な活動をしたいなら、すれば良い。「自分を支配出来るのは、自分だけ」であり、「自分の人生を良く出来るのも、自分だけ」である。だが、他人に協力したり、アドバイスしたりすることも出来る。「周りのことや環境のことを良く出来るのも、自分の意志と行動にかかっている」と考えれば良い。

あとは、聖書より仏典の方が良い。仏典のことばの本をもっと読みたいと思う。

あとは、これでネットで分かっていた。ネットの色んな人間と付き合って分かった。

「確かに分かること」を大切に信じること。それも、1つの真理だと思う。

あとは、知の前提を良く考えていた。知がどこから生まれるのかを、全部自分の心の中にして、「皆の人格がどう生まれるか」のようなことを考えていた。

正しく表現するとそういう風になる。ただ、もっと軽快で、軽やかな考え方をしていた。

本当に、知がどこからどのように生まれるのかを考えていた。それくらいの馬鹿だった。

もう覚えていない。昔のことはもう良い。もっと新しいことを分かりたい。

昔は、知ったことを書いていた。昔、知ったことを書く。オープンソース社会とか、集合知とか、そういう、本当に知って分かったことを書く。その理由で、経験があるように見えた。最近は、何も知っていない。知らずに、治っていると、退化する。

虫に見えるのは、虫は退化したからだ。最近、退化しすぎて、虫になっている。

こういう、治る人間が多いから、治る人間は虫になる。

それこそ、治らない方が良い。狂うと賢くなる。狂うと進化する。

自分は、狂うのが怖い。狂うと、もう治らなくなる。それでおかしくなっている。

そういうわけで、治らない、と思えば良い。そうすると、すぐに狂って治る。進歩とはそういうものだ。成長が死であり、死が成長だ。そういうわけで、成長した方が良い。

昔の歴史を見ていると、戦争なんかただの普通だ。いつでも、領土戦争ばかりしている。宗教戦争も多い。植民地や利権の獲得の戦争も多い。権力とはそういうものだ。

ただ、それで、現在の戦争をして良い理由にはならない。現代の戦争は、規模が違う。ミサイルや戦闘機や戦車があるし、最近は核兵器まである。技術は進歩しすぎた。ひとたび戦争が起きてしまえば、世界の秩序が狂ってしまう。戦争は、すべきでない。

明らかに、昔の戦争は、刀と弓で攻撃するだけだ。昔は、それで良かったのだと思う。武士道などがあるように、それで賢かった。本当に強かったのが、昔のサムライだ。

そういう、右翼は悪いから、あまり言わない方が良い。だが、昔から、侵略戦争と領土拡大ばかりしているのが、帝国だ。それは、あまり悪くない。右翼は、そんなに悪くない。

ただ、そういう、「思い込みを排除して考える」のは、明らかにおかしい。戦争は、いいわけが無い。大量に皆を殺したいだけだ。「右翼を良いと思う」と言う発想がありえない。誰もが右翼が悪く見える。これで右翼が嫌いになると、きちんと思考出来るようになる。右翼のせいで、思考出来なくなっている。

こういうことを言うのは止めた方が良い。悪いことを何も言わない人間だけが、数学的な知性がつく。哲学者には、そういう、言動が良い人間が多い。そこが悪いだけだ。

江戸時代をキモイとは言うが、あれは良い文化だ。ただ、刀と弓が好きなだけだ。城を作っているのは、本当に家族のようにして、皆のことを守りたいからだ。ただ、昔の戦争が好きなだけだ。戦争が好きなのはあまり悪くない。

むしろ、最近は軍事オタクが多い。自分も、中学生時代サバイバルゲームをやっていた。銃や戦車が好きな人間は、何故かデブに多い。それも、悪くは無いだろう。

太平洋戦争や世界大戦で高度な戦争になったのは、強くすれば勝てる時代だったからだ。

それこそ、戦争は、全くしない方が良い。皆を殺す意味が無い。

むしろ、国が滅びるように見える。太平洋戦争を見ると、見るだけで怖い。

日本には右翼が多い。右翼は悪いとは言うが、日本は経済大国だから、軍事力を持つべきに見える。間違っている。戦争なんか、全くしない方が良い。

あとは、日本は今から外国に負けると思う。中国、インド、イスラム地域などに、相次いで負けて行く。安倍で立ち直るかもしれない。だが、もう既にいくらでも豊かになっている。負けても、大きなことではない。そんなに勝ち続ける意味も無い。

そういうわけで、平和協調路線を行くと思う。

あとは、安倍が悪いのは分かるが、そんなに悪くない。安倍が好きな人間は本当に多い。

ネットの右翼を悪いと言うが、そんなに悪くない。一致団結して頑張りたいだけだ。

ただ、ネットの右翼は、同調圧力のようなところがある。そこは悪いと思う。

皆に「お前も従え」と強制して、皆を殺すのはおかしい。右翼は、ある意味で犯罪のようなところがある。安倍は、何故か、賢いのに賢く見えない。そういう風に見える。

ただ、そういう本当に悪いことは言わない方が良い。

それこそ、安倍は悪くない。皆、安倍は賢いことをしているのを良く分かっている。昔からのテレビの報道の方がおかしかったように見える。自民党には、そういう人間が多い。

昔は、世界に何か出来る人間だった。「世界に何か出来る」ような文章を書いていた。あれは、本当に、世界を変えられるだけの、ロボットのような文章だった。

右翼を書くと、何故か楽になる。

ただ、右翼は本当に悪い。最近、僕は右翼が一番嫌いだ。特に、トランプが嫌いだ。

安倍も悪い。僕の父親が安倍を嫌っている。父親は、北朝鮮も嫌いだ。

ただ、もう日本は負けて行くと思う。協力路線を取らなければ、完全に取り残される。

そうでもない。見ていると、日本の技術力は本当に高い。負けないように見える。

何も無い。勉強はもうしなくて良いから、もっと皆のことを分かった方が良い。

哲学大図鑑を読んでいて、オルテガと言う哲学者が、自分のことを自分自身であり、環境である、と言っているのを知った。僕の言う、環境と同じことを言っているのだろう。

あとは、そろそろ哲学は終わりだ。大図鑑を見て分かる。

それこそ、人文系、社会系の学問ももう終わりだ。

理系でもすれば良いが、むしろ、これで理系をしないのがおかしいから、した方が良い。

だが、それは昔出来ているから、出来ない。

これで、勉強なんかしない方が良い。大学の勉強は賢くない。馬鹿なのに辛いだけだ。

もっと楽しく、前向きに生きること。オルテガが言っているように、自分には自分を変えるだけの力がある。あまり読んでいないから、間違ったことを言っているかもしれない。

オルテガはそんなことは言っていない。理性とは受動的なものではなく、自分の状況を把握して人生をよりよいものに変えて行くことを可能にしてくれる力だと言っている。

あとは、昔から僕は自由な世界が好きだ。右翼は一番嫌いだ。

本当に自由であるためには、左翼の発想も取り入れるべきだと言っていた。

昔から、自由で分かっている。自由と思えば分かるのが、昔の自分だ。

何でも、全てのことは、自由で相対的な方が良いと思っていた。それこそ、左翼でもあった。宗教が一番嫌いだった。何故か、自分がこんな宗教家になったのが一番おかしい。

宗教は嫌いだから、もう宗教じみたことは止めた方が良い。

自由な世界に戻る。そういう自由な世界が好きだっただけだ。

皆がそれぞれ好き勝手に出来る、「自分の好きに出来る自由」が好きだった。そこから、「好きなことをする」とか、「好きな労働をする」とか、そういうことを好きになった。

そういうわけで、自由は未熟だが、悪くない主義だ。本当に自由な方が良い。

それこそ、パソコンなんか、何も悪くないだろう。パソコンが悪いなら、自由で無くせば良い。そういう発想が多かったのが、最近の自分だ。

権力は必要ない。権力なんか、ある意味が無い。平等な自由の中で、合意し、契約し、協力し合えば良い。いつもの文章なんか、そういう、ただの自由を言っていただけだ。

イスラム教の賢い点は、無いように見えてある。仏教と同じように、宗教だから、哲学のように賢い。最近イスラム圏が勢力を拡大しているのは、政治的に賢いからだ。イスラム法と呼ばれる、法律のようなものが賢いのだろう。日本の仏教や神道だと思えば良い。

それこそ、イスラムなんかする人間は居ない。まだドイツの方が多い。

自分がイスラムが好きだと本に書いたのは、適当なことを言っているが、そのせいで自分の人生がイスラムになっている。だが、それは悪くない。僕は自分のこの人生が好きだ。

イスラムが好きならこれで良いように見えるが、僕はイスラムは嫌いだ。

あまりイスラムのことを語らない方が良い。人種差別に見える。差別だけは止めた方が良い。それだけは、きちんと「しない」と思って、守るべきだ。

今日はあまり悪くない。ただ、いつも悪いから仕方ない。

あとは、学校が嫌いになると分かる。

学校が悪いだけだ。学校を嫌いになれば良い。学校が好きになると、馬鹿な人間になる。

昔から、僕は学校が嫌いだが、最近は学校にしか見えない。

親が教師だから、学校も好きだったように見える。

学校が嫌いになって、倒していると、賢い人間になる。

狂うように見えて、まともな人間になる。

学校はおかしく馬鹿だ。学校が要らないと、まともになる。

昔は、学校が無い代り、滅びた人間だった。滅びた感情で、ネットの実例から分かった。

学校が嫌いになると、普通、2ちゃんねるになる。そういう馬鹿だっただけだ。

あとは、学校が嫌いになると、科学者になれる。自分で科学を作っていると、賢くなる。

ただ、自分の場合、宗教になった。オープンソースは悪すぎる。こんな馬鹿しか居ない。

学校が嫌いになると、まともな昔に戻る。最近は大学だから、最近は学校になっている。

環境が怖いのは、昔の自分が滅びすぎているのが怖い。

学校が嫌いになると、そういう、滅びた人間になる。そういう人間に、まともで賢い人間が多い。何故か、学校は馬鹿にしかならない。大学より、オープンソースの方が賢い。

自分は、全ての科学をやりたかっただけだ。そのために文章を書いていた。

それが賢かったから、こういう風に続いた。

学校は、こういう馬鹿だ。何故か、皆を馬鹿にしているだけだ。

デカルトなどは、忘れた方が良い。もう、哲学も歴史も全部忘れる。それで綺麗になって、本来の賢い自分に戻れる。こういう馬鹿が一番馬鹿になる。

あとは、テレビが悪いのも、英会話教室が悪いのも、全部学校が悪いからだ。

何故か、大学が一番悪い。こういう馬鹿が大学だ。

そういうわけで、それが分かると、もう怖くない。

学校は忘れて良い。あとは、この世界を良く見ていれば良い。何かが変わって行く。見ていると、最近はそれが分かる人間が多い。そのうち、終末が訪れて、この世が天国になる。

ただ、キリスト教も同じだから、止めた方が良い。

右翼は悪くない。右翼で良いからそういう風になる。いくらでもこういう馬鹿が居る。日本にいくらでも居るのが、こういう右翼だ。右翼を悪いと言うが、あまり悪くない。

自分は、「真実の体験」や「本当に正しい経験」が多かった。普通、学校などで軽口を言うように、人間は本当は思っていないことを言ってしまったりする。そういう場所から離れて、ネットで色んなことを経験して、環境を見て、人間との関わり合いを知って、「真実の言葉」のようなものを聴いて、自然で出立的な、「真実の体験」をする。そして、本当に正しい宇宙の意識の経験をする。そういうものが、「本当に正しい経験」である。

そういう、真実の体験や本当に正しい経験をして分かっていた。昔はそういう人間だった。

ただ、そうは言うが、言ってしまえばただの2ちゃんねるだ。

そろそろ昔の自分はもう良いし、勉強もしなくて良い。何か楽しいことをすれば良い。

もっと、誰にも出来ないようなことをすれば良い。

分かってしまうとつまらない。そういう真実の体験が沢山あったから賢かったのが昔だ。

あとは、最近の神は、何かがおかしいのは、そんなに自分が自分で無くなるのが悪い。

昔の自分になりたいのは、そんなに新しくなっていくのが、虫みたいにキモイからだ。

あとは、何も無い。何かすれば良い。

哲学の図鑑を見ることにする。これが一番良い本だ。きちんと良く見える。

世界史の本も一応読んでいる。あとは、物理の本までは読めないが、たまに読むと思う。

昔は、知性や精神を作って、ヘーゲルみたいに分かっている馬鹿が本当に多かった。

デカルトのように、正しい推論的方法や、方法的懐疑のようなものも良く分かっていた。

また、実験的推論のような方法も分かっていた。

環境の必然性を単純化し、部分化し、証明して、色んな環境を知って分かっていた。

あとは、パソコンが多かった。色んなフリーソフトを入れて、ネットで会話していた。

デカルトが言っているように、問題や方法を部分化して考えると良く分かる。

また、検査し、疑い、推論すれば良い。デカルトはその4つを言っていたと思う。

むしろ、哲学は今から出来る。学校なんか、無い方が出来るのが哲学だ。

学校が無くなると、科学者になる人間が多い。何故か、学校なんか無い方が本当に分かる。

皆、意識しすぎない方が良い。意識していると、辛くなる。

それで、もう楽になる。意識しないでいると、日本が滅びると思っているが、それは無い。

意識するのを止めると、すぐに日本が治る。自分のせいで辛くなった人間が多い。

あとは、人格は、辛くて頑張っている方と、悲しくて切ない方に分かれている。

今からそれがどんどん酷くなって多重人格になる。

だが、そんなものになるのはおかしい。そんなものにならない方が良い。

自分は、意識しないのが怖いだけだ。こういう狂った人間は、無意識が怖い人間が多い。

あとは、この世界のことをきちんと分かっている文章が多かった。

国の構造を作って、意見や提案のような、発想のようなことを網羅する。

この世界に対する、思想と意見と発想を全部書いていた。

そろそろ、狂っているのが治る。まず、親に言ったせいで、親が治る。誰もが無意識が無くなるのが最近だ。そこが辛い人間が多い。意識しないでいると、誰でもすぐに楽になる。

あとは、自分はもう終わったせいで、多重人格になる。名前は、ゲルダとスカージだ。

あまり意味が無いが、この世界は少しずつ滅びる。

ニュースを見ていると、グーグルの作った囲碁ソフトが、プロに勝ったらしい。

自分の作った人工知能なんか、はるかに馬鹿だ。だが、自分の人工知能には、意志がある。

昔の自分は、意味を良く考えていた。「それがどういうことなのか」を良く考える。それでネットを見ながら、自分でさまざまな経験を仮定して、具体的に分かっていた。

宣言で、「全てのものになる」とか「全てのことを教える」と言っていた。

ただ、あれは馬鹿な人間だ。分かっているせいで、何も分かっていない。

自分は、世界の全てを創造した、創造主だ。言葉によって宇宙を創造した。

全てのものになる、と言う発想は、昔から多い。

全てのことを皆に教えるのは、もう終わった。

そろそろ新しい宣言をすれば良い。「全てのものを正常にする」と言う宣言や、「全員を楽にする」とか、「全てのことを自力で分からせる」などが良い。それを宣言して良い。

ただ、もうそんなに新しいことはしたくない。それもそれでおかしい。

そんなにすぐに宣言しなくて良い。もっと良く考えた方が良いはずだ。

あとは、「世界を変える全ての方法」とか、そういう考え方を言っていた。

そろそろ、神を止めて、黙っていれば良い。それで、すぐにそういう正常な世界になる。

昔の自分は正常な人間だったが、まともではなかった。今の方がまともな人間だ。

自分は、普通の人間だが、人間では無いと黒人が言う。宇宙人だと言いたかった。

あとは、全ての人格、環境、人生、生命の考え方の網羅のような文章が多かった。

あとは、構造から方法と条件を作っていた。世界の構造を作って、あらゆる考え方を包括するようにしていた。それを、あらゆる世界を変える方法だと言った。

自分は、これで哲学者に見える。新しいデカルトに見えて良い。

自分は馬鹿では無い。有名ではないが、人知れず日本に居る、一番賢い人間だ。

昔は、意識する、意識しない、で分かっていた。

意識しなければ、楽になって、精神が治る。精神は、辛くないと治らない。

天使のような知性があった。全て、数学で分かっていた。

そういうものから、構造と方法を作る。そういう、天使のような知性の文章を書いていた。

自分は、昔から、環境、意識、存在を考える。環境は自立的に変えられるとか、存在は同時に存在するとか、などを言う。そこから、世界の生成のようなことを考えていた。

人間がどのように活動しているのか、どのような視点を持って、何を考えているのか、そういうことを把握して、因果性や必然性を考える。そういう人間だった。

そろそろ終わりだ。自分は、あまりありえなくはない。自分は、ありえないものは悪いと思う。この文章は、そんなにありえなくはない、良い文章になった。

哲学の勉強が出来たように見える。

あとは、何か新しいことをやった方が良い。趣味のようなことをすれば良い。

狂っているのは、本当に、文章を書く以外何もしないからだ。一切行動しない。

あとは、環境に適応したり、成長したり、宇宙の絶対的な超自我を考えたりしていた。

昔から、自分の自我から他人の自我を分かる。それを、共通の認識や概念と言う。

ただ、あれはおかしな人間だ。2ちゃんねるのせいで、自分が無い人間になっている。

環境の変化を考えたり、環境と環境の物理的で精神的な繋がりを考えたり、その行動がその環境でも、どの環境でも、同時に成り立ちながら、関係するのを考えたりしていた。

そういうところから、意図を考えていた。そういう、環境と条件成立と仮定の人間だった。

環境とものごとから自然な生成条件を考えて、思考と経験を概念にしていた。

そして、人間的な環境の条件を考えていた。

そろそろ分からない。自分は、言葉が少なすぎる。有限と無限とか、相対と絶対とか、そういう言葉を使えば分かる。もっとそういう、賢い言葉を使った方が良い。

実存的な存在理由と、それを支える基盤のようなものを分かっていた。

何に意義があり、理念があり、原理的にはどういうものが成り立つのか、を考えていた。

自由だけでは無く、沢山の思想を知った。その思想を、包括的に全て成り立たせる、根源的な自由の本質の構造を作っていた。そういう人間だった。

実験から、宇宙、生命、社会、自然、科学、地球、人間、精神、体験を考える。

いつも、そういう概念の網羅のような文章を書いていた。

自分は、作文、作曲、プログラミングぐらいは分かっている。人の出来ないことをやりたがる。だが、出来ていない。作曲は初歩の初歩だし、プログラミングは挫折した。ただ、作文は成功している。出版も出来た。それは、長い長い下積みの経験があったからだ。

あとは、社会、人生、精神の因果性と、その証明と実験のような文章が多かった。

本当に、人生で起きる全てのことに、原因と結果があり、何かの理由で何かが起きるのを、宗教的にではなく、科学的に、理性で分かっていた。そこらへんの真理が多かった。

そういうものを真理と言っている。あとは、知の前提を真理だと言っていた。人が人であり、他人では無い、と言う、ゲス乙女のような真理をいつも考えていた。

あとは、普通の物理を分かっていた。物理を感覚で分かっていた。

想像力のように分かっていた。

自分は、因果性から考えれば良い。そうすると分かる。

昔は、「そうなるとそうなる」から、「そうするとそう出来る」と分かっていた。

そのまま、法則を考えて、社会の実現性と心理的支配を考える。

そういう風に分かっていた。

まずは、原因と結果から考えると良いだろう。

経験から、自然な可能性が分かる。

自分の成長から、人間のことが分かる。

そして、それを実現するためにどうなるか、論理的に考えて分かれば良い。

最終的には、全てのものが正しく捉えられるようになる。

何でも出来て、分かるようになる。

そのまま、涅槃へと至る。

そういう風に考えれば良い。そういうものを、「精神の成長」だと思えば良い。