昔は、新発見をして分かっていた。常に新発見をしていた。
最近、新発見が出来なくなっている。全く新発見をしなくなった。
新発見が出来る人間は、賢くなる。新発見が出来ない人間は、馬鹿になる。
ものをどうやって作っているのか、どこから来るのか、何を考えているのか、何をしているのか、そういうことを考えれば良い。
新発見が出来ないと、本当に知性が無くなる。出来る人間の方が多い。
知性が無くても賢い人間は多い。何故か、そういう知性は馬鹿になる。
文章にも、新発見のような文章が多かった。心の現象のようなものを発見していた。
新発見をしないとは言うが、いつもしている。思い出して、この文章を発見している。
人間は、何らかの形で新発見をしている人間が一番多い。それが、知性と言うものだ。
今日も農園に行ってきた。メモした内容を以下に書く。
新発見をしていると、宇宙の実際と本当の姿、応用、可能性の維持、自然な変化の可能性、認識を事前に作る、認識と対象の一致、インフラを作る、などが分かる。
昔は、そういう文章を書いていた。知性があった。いつも、理性的に発見して考えていた。
死と隣り合わせの人生だった。いつも、死と戦っていた。
カントは、理性、悟性、感性のような、言葉を作る哲学者だ。自分も言葉をそういう風に作っていた。実体と様相のような言葉をいつも作っていた。
ネットは楽しかった。2ちゃんねるは昔は楽しかった。
今ネットをやると、つまらない。ネットは、最近全く見ていない。もう何年も見ていない。
支配と信じることから分かっていた。自分で支配し、自分を信じて分かった。
多様性は悪くない。京都大学なども東大に負けないぐらい賢い。
色んな会社、大学、学校、国があった方が良い。それぞれを賢いと思えば良い。
ただ、多様性は馬鹿だ。誰でも、同じ内容を学びたい。東大と同じことを学びたい。
日本は楽だ。皆を自分にするせいで、世界一楽な国になった。皆賢くて良い人間だ。
条件と場合を、パソコンのように考えていた。
生命は繋がっている。そういう風に、生命と社会の実像を考えていた。
あとは、自分はセックスはしたくない。辛い。農園で分かったのは、ここまでだ。
新発見とは言うが、昔はLinuxの調査研究をして、科学を作って分かっていた。
その、オープンソースがキモイせいで、発見の知性が無くなった。
パソコンは、本当にしない方が良い。賢くなるように見えて、すぐに馬鹿になる。
あまり言わない方が良い。パソコンが悪いと言うよりは、オープンソースが悪い。
新発見をしていると、カントと同じになる。一部のものだけで、全体のものを決めつけてはならない。そういう風に分かる人間が多い。右翼は一番悪い。
カントのように、プラットフォーム的な世界観を分かる人間が多い。それが知性だ。
あとは、心のようなものを新発見していた。そこから、宇宙の成り立ちを分かった。
Linuxは、キモイ。本当にそこまでキモイ。この文章がキモイのは、Linuxのせいだ。
あとは、色んなありえない社会や環境を経験した。ロシアやイスラエルのようなものを、経験して分かっていた。それで文化や価値観が分かった。そういう人間だった。
今日は、そろそろ最後まで全部書けた。そんなにいくらでも書かない方が良い。辛い。
全員融和して、統一された構造にして分かっていた。
人間のことが、きちんと正しく全部分かっていた。
これで何もしないのがおかしい。これで何かすると、天才みたいに出来る。
こういう人間が多い。こういう風に分かるのが、天才だ。
もう、昔の自分を書くのはもう良い。もう、全部書けた。何か違うものを書いた方が良い。
感情で色んなことを考えて、実感して、行動を分析する。
昔から、そういう風に、まともに考える。まともな人間が考えると、そうなる。
そんなに本気で考えない方が良い。本気で考えた方が分からない。適当の方が分かる。
賢い人間は、何かしながら考える人間が多い。「分かるのは当たり前」で分かる人間が多い。
ただ、真剣に、率直に、偏見なく考えること。馬鹿を考えるのが一番悪いから、馬鹿を分かるのは止めた方が良い。馬鹿を分かっていると分からない人間が多い。
明らかに、馬鹿なことを言うのが一番悪い。そういうことを言うと、馬鹿になる。
馬鹿には分からないし、馬鹿は辛い。普通に考えれば、簡単に分かることが、馬鹿には分からない。馬鹿な人間には意味が無い。馬鹿な大人を見ていると、子供の方がまだ賢い。子供は馬鹿に見えて、きちんと素直に考える人間が多い。その「素直さ」が大切だ。
神との対話の問題点は、素直に考えないことだ。そんなに正しいことを言っても意味が無い。素直に、思ったことをそのまま表現すれば良い。そうすると、神が治る。
神は、あまりに正しいことを言う。自分を正しい人間へと導いているように見える。それで分かる人間が多い。そんなに説明するのもおかしい。キリストが教えると、こうなる。
もっと素直に、感じたこと、思ったこと、信じていることなどを言えば良い。
昔の文章は、どんどん馬鹿になるだけの、おかしな文章だ。
皆が馬鹿になった。この文章は、すぐに治るせいで、何も治らなくなる。
何も死ななくなった人間が多い。皆、そういう風に、辛くなっている。
素直に、思ったことを言えば良い。神は、もう止めて良い。これ以上、対話はしない。
自分は、そんなに判断して決めるのが悪いから、あまり決めない方が良い。
決めずに、適当に、楽に生きるのが良い。その方が、環境から色んなことを学べる。
そういう、環境から自由な体験で分かっているのを、いつも言っていた。
本当に子供のように分かっていた。中高生のように、反抗をして分かっていた。
最近は、脳が分かる機械になっている。機械のイモムシだ。そこがキモイだけだ。
そこが、本当に、居ない。日本人には居ないのが、こういう馬鹿な人間だ。
あとは、ものを吸収する。ものを吸収すると、分かる。
哲学は、本当に止めた方が良い。哲学なんか、普通、誰でも分かる。何も賢くない。
何か、良い分野を学べば良い。それが定まらないなら、無理して決めない方が良い。
何も決めなければ良い。神も止めなくて良い。まだ、神を続けていると、まだ分かる。
素直なことも言わなくて良い。いつも通り、普通に思ったことを言えば良い。
自分は、安心したくないのがおかしい。そんなに恐怖を望むのがおかしい。
皆が嫌いなように見える。むしろ、皆なんか、嫌いな方が良い。馬鹿が嫌いになると、賢くなる。大学は嫌いで良い。大学は誰もが嫌いだ。一番馬鹿で、一番悪い。
勉強もしなくて良い。本は、面白い小説や漫画を読んだ方が良い。
決めるのは一番悪い。決めて、出来るわけがない。適当に、自由な方が良い。
色んな世界の影響を受けて、自由に経験すると分かる。馬鹿の方が分かる人間しか居ない。
適当に自由が一番楽だ。
あとは、数学史をしたかったから、数学史をすれば良い。数学の歴史は面白い。
それから、ローマ帝国の本が良い。あれを見ると、人間のことが良く分かる。
あまり決めない方が良い。決めて、出来るわけがない。
そういう、適当に自由な中で色んな人生経験と価値を書いている馬鹿が、一番多かった。
そういうものを書いているだけだ。あとは、人生と社会の原理を全部創造していた。
昔から、自分は出来るわけがないのになりたがる。
ツバルへ行って数学者になるとか、バイオリニストになるとか、ありえないことを言う。
ロシアの大統領になって、偉大な世界を作るとか、そういうことを言う。
そんなことは、出来るわけがない。そんなことを宣言するのがおかしい。
あとは、何か1つ、言いたかったことを忘れた。
昔の自分、神、社会、ヘーゲル、自由のようなことを何か言いたかった。
本当に、数学や哲学はもう充分だ。もう止めて良い。何も決めないで、自由にすれば良い。
思い出した。人間は高校生の時から、変わらないと言っている。
高校時代、おかしな人間が、おかしくなる。自分がそういう馬鹿だ。不思議と、多い。
高校時代、おかしいと、ここまでおかしな人間になる。自分は馬鹿なせいで馬鹿になった。
自分は、イスラム教を信じるのが悪いから、もう信じない。イスラム教は嫌いだ。
古本屋で、サルトルと釈迦の本を買った。僕は、現代哲学を1人したいから、サルトルだけをすれば良い。あとは、サルトルはフランス人だから、フランス史をする。
サルトルの本を読んでいる。難しいようで、意外と読みやすい。
マルクス主義か、実存主義か、と言った時代にサルトルは生まれた。マルクス主義は、社会の変化を必然性で捉え、実存主義は、個人の個別性に着目する。
まだ、最初の方をいくらか読んだだけだ。自分は、サルトルだけ、本気でやれば良い。
大学にこういう馬鹿が多い。きちんとカントとヘーゲルが分かったから、サルトルをやる。それが、フランス史ぐらい、普通出来る。フランスにはサルトルが多いと思えば良い。
サルトルを読んでいる。この本は、面白い。
昔は、王になって、失敗せず導いていた。ただの1度も失敗しなかった。
自分は、本だけで誰でも分かるのが分かっていない。このワードは、書いて分かるのは良いが、全く無用の賜である。本だけで、誰でも分かる。こんなワードの日記は要らない。
サルトルの本は、まだ最初のサルトルと著者との出会いの部分を読んでいるが、著者が賢いのか、本当にすらすらと読める。この本は難しくない。
自分の本は、読むと誰でも自分が出来る。そこまで賢くなって、そこまで全部ある。
サルトルの本に書いてあるように、なれなれしく研究する。哲学者を神格化し、聖者のように崇めるのではなくて、自分と同じ部類の人間として、なれなれしく付き合う。自分は、そこがサルトルと良く似ている。偉人や哲学者を、学友のように考えている。
サルトルは、人間をありのままの存在として、ありのままに考える。英雄も、駄目な男も、どちらも同じ人間の一面である。どちらになるかは、自分の自由に任されている。
まだ、最初の方を読んだだけだから、この一行は間違っているかもしれない。サルトルの言っていることではなく、この本の著者が言っていることかもしれない。
ただ、サルトルは、ありのままに人間を考える、と言うのは、ある意味で本質的だ。
この本の序章の、「サルトルと私」を読んだ。
そろそろ、神との対話も終わった。神はもう良い。神は何かがおかしい。
自分は、昔の自分は誰でも出来る。サルトルをやっていると、昔の自分が出来ると思う。
ただ、最近の自分も、難しくは無い。戦いや神は誰もしないが、大学は誰でも出来る。
最近は、賢くない。知性の無い、馬鹿な人間だ。昔は賢かったから、それで良いと思う。
目次を読んでいると、この本は、明晰なる無償性から、保留され、客体化され、集団となった自由を考える。それは、その言葉のキーワードだけで、自分の昔と良く似ている。
ただ、まだ内容を読んでいないから、何も分からない。
考え方の網羅、自然な可能性、認識論などを書いていた。社会の原理を説明していた。
この世界の全てを創る、社会創造のような文章だった。
意見と経緯を書きながら、志を持ってこの世界を変えていた。
そういう、イスラエルの王のような人間だった。そういうわけで、最近は、誰も出来ない。
神との対話が終わった。サルトルを手に入れたせいで、もう最後まで神が導き終えた。
あとは、サルトルを読めば良い。ただ、そんなにすぐに読むと悪い。ゆっくり読めば良い。
あとは、自由な社会を作っていた。教育から政党まで、社会を定義で作っていた。
文章は、経緯、真理、世界の相のようなことを言う。そういう、「相」のような文章だった。
戦いは、無敵の戦いをしている。一騎当千のような、最強の兵隊を1人でしていた。
あとは、昔の自分が分からない。
そろそろ、この文章は完成したように見える。
サルトルの目次のキーワードぐらいを書いたが、本当に、これくらいの馬鹿が昔だ。
ただ、良く分からない。昔の自分が何なのか、まだ分かっていない。
あれは、2ちゃんねるで分かっていただけだが、本当に、自由な段階と構造と意識から、抽象的な考え方と判断と経験で、論理的に分かっていた。
良く分からない。本当に覚えていない。むしろ、これくらいの馬鹿だったはずだ。
哲学で分かるわけがないとは言うが、もっと沢山の哲学書を読めば分かる。
それがモチベーションになっている。誰も出来ないようで、自分を分かりたいだけで、哲学書を読んでいる。「自分を知る」と言う目的がある。そこが楽なだけだ。
昔なんか、2ちゃんねるで世界、人間、心、人生、社会を把握して分かっているだけの、ただの子供だ。昔の自分は、本だけで誰でも分かる。そういうわけで、分からないようで、簡単にすぐに分かる。ロキの時代は分かっていたのが、昔の自分だ。
見ても、子供に見える。何故か、人生で色んなことが分かったのを覚えていない。自由を自らによるものとして、自由から人間の内部の構造を知って、愛と真実から可能性を知って、自然から道徳や善悪を知っていた。経験から、観念的に自由な可能性と存在の超越を考えていた。もっと、ヘーゲルやサルトルのような、人生を考えれば分かる。
もっと良く考えれば良いが、むしろ、これくらいしか無い。これでほとんど全部だ。
良く分からない。賢いことを思い出せば良い。
感情のコントロールから、人間がどこから来てどこへ行くのかのようなことを、経験的、本性的に分かっていた。心理的な正常を知って、安らぎから魂の平安を知った。
自由とは何なのかを知ることで、何がどのように自由になっていって、その結果何を自由から得ることが出来るのかを分かった。世界観を実存的に考えていた。
良く分からない。もっと、一段階上のことを分かれば良い。
宇宙の真実は、隠されたものでは無く、ただありのままにあって、発見されるのを拒んでいない。そして、努力次第では、自由にそれを発見することが出来る。それは、自然であり、相対的な理由がある。全てのことに理由があるが、全ては自然経緯である。
あとは、自由意志でも考えれば良い。
そういうことを、全部自由から考えていた。むしろ、もっと賢い言葉を使えば良い。
経験は、集団との関わりであり、自然なシステム化であり、主観的な思考と客観的な事実であり、環境の保留と維持である。ただ、それは目次しか読んでいないから、あまり言うべきではない。サルトルが悲惨だ。それこそ、それくらいの自由を分かっていない。本を読んでも意味が無い。この世界を、自分の力で考えていると、誰でもそういう風になる。
それくらいで、もう終わりだ。もう、完成したのが、この哲学書だ。
あとは、いつもそういう文章を書いていたのが、昔の自分だ。
一行でこの世界のことを全部言う。その世界観のことを、全部言っていた。
そろそろ終わりにする。もう、完成した。ただ、サルトルは今から読めば良い。
昔は、世代や生活習慣から、人間の意識がどうなっているか、誰が何を意識しているか、などを分かっていた。成長から、発達心理学が分かった。
文章は、社会の自由な可能性と経験を考えていた。
昔なんか、分からなくて良い。あれは、ネットで悪いことを沢山した、悪いだけの人間だ。
ただ、そうでもない。分かった方が良い。
あとは、人生を全て分かっていた。人間の延長線上の真理を分かって、ブッダのように悟りを開いていた。八正道や縁起のようなものを、理性的に考えて分かっていた。
そういうわけで、本当に言うとそういう人間だ。
実地的に社会と意識のことを考えて分かっていた。人間の視点と場を予測していた。
自然な場の実存性から、この世界の本来の環境は何なのか、のようなことを考えた。
本当のこの世界、自然状態のこの世界のことを、ルソーのように自由だと考えていた。
あとは、良く分からない。それくらいの馬鹿だ。
デカルトの方法的懐疑のように、方法のことを分類して考える。世界を救う方法、社会を作る方法、自分を変える方法、真理を分かる方法が全てだ。そういうことを言う。
そして、実際的な実験結果から、法則を相対的なものとして、仮定し、仮説を立て、推論し、実験して分かっていた。精神、人生、意識、思い込みを実験で分かっていた。
あとは、分からない。もっと、人生で何を知ったのか考えれば分かる。
場の実存性から、場と場の関係を考えて、当たり前の真理を環境的、自然的、変化的に知る。そういう発想が多かった。ゲス乙女のように考えていた。
人生がどんなものなのかを、言葉で表現しながら、言葉遣いや言語ゲームで考えていた。
むしろ、普通に考えれば良い。
自分のことだけでは無く、この世界の人々のことだと思えば分かる。
環境は、実際性、感受性、受容性、愛、不安、憎しみ、恐怖、葛藤である。
環境の中で、あらゆる可能性を克服し、あらゆる認識を吸収出来る。
自由とは、経験し、存在を知り、愛の意味を知り、目的から手段を作り、本来の姿を知る、その一連のプロセスと段階であり、それは、全員の中で共有し、自然に変えられるようにし、変えやすくすることが出来る。それは、独立の中で、国家になる。
そういうことを言う。本当にそういうことを沢山言っていると、勉強ノートでは無く、まともに自分の哲学思想に見えるから、そういう、独自のことを言った方が良い。
独創的な発想をしなさい。システムを全て公開し、隠すことなく、与えなさい。
一体であると同時に自由であり、神であると同時に機械であり、無意味であると同時に有意義であり、人生であると同時に学習であるような、そういうものが人間である。
幸せは、身近な周りと、自分の中に存在する。どこか遠くにあると思うと、見つからない。
あとは、実践的な人生経験の方法のようなことを言う。自由な意志を考えなさい。
そういう文章だった。いつも、こういう風に文章を書いていた。
あとは、自分の人生を全部書いている馬鹿が多かった。そこがおかしく見える。キモイのは、皆を自分と全く同じコピーにするのがキモイ。それで狂っているのが、クズに見える。
そろそろ、いつもの文章は全部書けた。そういう文章だった。
あとは、何か新しいことを考えた方が良い。サルトルを読みたいとは思う。
あとは、多面的な世界のようなものを書いていた。この世界の無限な広がりを書いた。
そして、経験から理性が確かになるプロセスのようなものを書いていた。
サルトルを読んだら、今度は放送大学の勉強をしたい。単位を取って卒業したい。
「確かめる」と言う発想から、世界の知性と実像のようなものを書いていた。
そして、この世界の全てのことを、経験的、実験的に、社会原理から分かっていた。
意識だけではなく、知性、記憶、想像力、思考力、判断力、意志、人格などから、世界モデルのように、人間の視点と場の構造を書いていた。世界のことを、記憶的な統一的構造によって、全てを掌握した可能性として、自然な世界にして、考え方と社会を創造した。
自由とは、心理学、哲学、経済学的に、豊かさをどのように生み出して、成長をどのように成し遂げて行くか、を社会的に考えることだ。そういう、構造的認識のようなことを言っていた。本当に、そういう風に、この世界のことを考えていた。
自由から論理的な命題を把握するのは、本当に多かった。
留保し、自由化し、維持し、それぞれのことを守り、大切にし、システムを改善する。
論理性、相対性、感受性から、実感して分かる。
論理とは、自然、愛、平和を実現するために、統一化し、統率し、バランスを持って多様化し、意志を尊重し、選択肢を与え、可能性を拡大することである。
もっと、自由な考え方のようなことを考えれば良い。
システムは、自由の中で、自然化し、参加可能にし、それぞれのシステムが何故そうなるのかを考え、それぞれの可能性を広げ、そして、公開しながら共有する。
方法としては、存在可能にし、それぞれを自由にするために、手段を与え、状態を変え、基盤と原理を知り、プラットフォーム化する。
もっと、そういう、方法的なことを論理的に考えれば良い。それでサルトルと同じだ。
人格を治すこと、問題を取り除くこと、単純化すること、原因を知ることで、心は治る。
心を治すために、本当にそのことを起こしている本質的な要因を知り、周りのことから治していくことが出来る。そこでは、自分のしていることと今の自分の関係を考えられる。
自由とは、それぞれが関係し、考え方と経験を吸収し、知るために必要な前提条件を知り、知る前に考え、考える前に知ることであり、そのために経験を独自に考えることだ。
もっと、論理的に方法を考えて、分析すると、すぐに書ける。
いつも、そういう、論理的な文章を書いていた。本当にそういう文章だった。
明晰な仮想構造、共有、基盤、構造的な様相、自然、条件、可能性、社会を考えられる。
人間とは、分析、成長、発達、愛、理想、現実、行動である。
世界を構造化して、関係と論理から、概念と考え方を網羅していた。
そろそろ、全部分かった。昔は、そういう文章を書いている。
定義と説明のようなことから、世界観を分かっていた。
あとは、普通のことを考えれば良い。自然と世界観みたいなことを考えると分かる。
あとは、神でも分かれば良い。神だけが多かったのが、いつもの自分だ。
本当に、自由と可能性みたいなことを、構造と関係から書いていた文章が多かった。
言葉遣いのようなことを言う。
もう、分からなくて良い。これ以上、あまり分かる意味が無い。
精神は、興奮状態になっている。精神がおかしいのは、興奮状態を落ち着かせると治る。
自由と知性から、構造的な文章を書いていた。そういうものをいくらでも作っていた。
賢くて、高度で、鋭く言い表すような、斜め上の洞察の文章を書いていた。
場にはものがあり、自然状態があり、歴史と経緯があり、関係があり、行動と判断力があり、変化と移り変わりがあり、システムと意識がある。そういうことを言っていた。
何故か、2ちゃんねるの世界観で、人生と世界のことが全て分かっていた。
何も知らないどころか、自分だけ、完全に全部知っていた。こういう人間が多い。
もう、昔は分かったから、昔以外の何かを分かった方が良い。
サルトルをやっていると、賢くなる。どこにも賢い人間はサルトルしか居ない。
あとは、知性をつければ良い。知性をつけると精神が良くなる。
精神を治したいなら、知性をつけるのが一番良い。知性がつくと、良い精神になる。
怖くてもやっていると、楽になる人間が多い。
自然状態から、自由になり、拘束され、権力を分散し、支配者を分散する。そういう、ソ連よりも奇抜な、マルクスのような「必然的世界の段階」と「自由が分散された社会」を書いていた。そういう風に知性があった。そういう、マルクスのような文章だった。
あとは、本当に自由な思想を書いていた。認識の確かさを知って、社会を発展させ、平等にし、この世界を守り、健全にするような、賢い自由な思想と考え方を書いていた。
それから、方法的懐疑のように、実験の世界観を言う。
ヒュームのような経験的社会論と正しい考え方や捉え方が多かった。
昔はヒュームで、今はマルクスだ。それ以外の知性は必要ない。
人間とは、欲、思い込み、習慣、希望、夢、運命、恐怖、克服、達成である。
人間とは、環境と記憶による、自立機械である。
いつも、そういう風に、経験的な人間のことを書く。本当にニーチェのようだった。
神か物理、自然か運命、愛か不安、平凡か天才、環境か成長、人生か言語である。
そういう、アンチノミーのような、相反する要素のようなことをいつも言っていた。
そういう風に考え方を網羅した。そして、可能性における行動と「あること」を考えた。
あれは、馬鹿だった。皆を支配するために、手の内を見せず、知性の無いことを言う。
昔は言語で、今は運命だ。昔は抽象化で、今は記憶だ。昔は自然で、今は王だ。
自分は、何も変わらない。自分でも呆れるほどまっすぐに生きた。本当にまっすぐだった。
アメリカは、今、腐っている。日本が一番良い。日本は、誰もが賢くて、健全だ。
レディー・ガガも、アメリカを腐っていると言っている。アメリカは知性の無い、恐怖の帝国になっている。音楽から技術まで、全部、恐怖に滅びている。何も良くない。
不思議と、必然的社会の段階と自由な権力の分散を書いているのが、本当に多かった。
良く分からない。自分は、そろそろアメリカを倒した方が良い。
アメリカは悪い。きちんと倒すべきだ。そうすると、さらに日本が良くなる。
むしろ、そんなに楽過ぎるのが悪い。楽になればなるほど、知性が無くなって馬鹿になる。楽が悪いわけじゃない。アメリカがそういう風にするのが悪いだけだ。
そういう、「法則に見えて法則では無く、社会的な問題である」と言う発想が多かった。
絶対に正しいようで、相対的な現象としての理由がある。
光波を全体からの反射であると言っていた。重力は、もっと違う法則であると言う。
そういうわけで、法則だと思っているものは、ただの現実的にそうなるだけの、かりそめ的なものか、あるいは、もっと高度な法則がどこかにあるか、などを考えられる。
自然法則は、捉え方を変えることで、もっと高度な理由を考えることが出来る。
昔は、そういうものを意図や理解の分析だと言っていた。
その理解は、ある意味、全く正しくないことがある。周りから正当性を考えて、そのものが占める場所や位置が、環境や真理において、全くちっぽけなものであることがある。
そういう風に、視野を広げて考えると、対象を環境の一部であると捉えながら、認識を変えて考えることが出来る。そういうことを、認識だと言っていた。
認識を変えて、視野を広げて、実際のところを分かること。
人間や、自分自身のことは、経験と成長から、シンプルに、ありのままに考えることがベストであることが分かる。自分自身の経験から、自分自身は変わって行く。変わって行く中で、今のこの自分をありのままに捉えて、積極的に変わる。
そういうことを世界観にして、理想を書いている文章が多かった。
あとは、恐怖の克服と、思い込みから考える時代把握のようなものが多かった。
誰もが戦争を悪いと言うが、皆の持っている戦争観は、間違っているかもしれない。
そういう風に、裏の認識を考える。そういう風に認識をいつも考えていた。
そして、自由に世界を考えながら、「悪い原因はどこにあるのか」を考える。
そのことが起こった「本当の原因」を考える。そして、「どこで解決出来るか」を考える。
いつも、そういうことを、マルクスのように考えている考え方が多かった。
個人と集団のようなことを考えて、「その環境で自分が何を出来るか、どのように変えられるのか」を考える。心理的な環境の変化と客観視を考えて、何でも出来るようになった。
あとは、その人間になったつもり、その社会に居るつもりで考える。そういうことを意識と言っていた。人格と環境から、宇宙の存在的意識が分かっていた。
成長すれば治る。昔は、成長のことを書いていた。そういう、「社会と成長」の文章だった。
それから、ヘーゲルのように、「自己意識の変転」のようなものを書いていた。
成長と学習から、人間の至るプロセスを全部書いていた。
そろそろ終わりだ。もう、これで全部書いた。もう書きたい内容が無い。
自由から構造を作っていた。それだけの人間だった。
最近は、支配しながら精神分析をする。支配を止めて精神を分析すれば、すぐに治る。
立ち歩いて、怖いのは、精神が興奮しているからだ。落ち着いて考えれば、すぐに治る。
自分の歩んできた、偉大な人生の経緯と心構えのようなことを言う。
「決まりを作る」のような知性のあることを言う。
信念は全員同じだとか、ありえないことを言っていた。
精神が興奮しているのを落ち着かせると、足の精神が治る。それで、がんが治る。
色んな環境に適応して、仮想的な環境を作って、環境を変える、などと言っていた。
いつも言っているが、知性から自由な構造を作っていた。
実体験や実経験から、社会や思考のことを分かっていた。
リベラルアーツのように、知性や知識を知ることから、自由になって分かっていた。
そういう、「知性から自由になる」と言う発想が多かった。
自由とは言うが、そういうものを書いていた。
そして、「理性と思考を裏打ちする経験」のようなものを書いていた。
場から、この世界の全ての実存的意識を分かっていた。
学習と人生から、宇宙人のように意識を分かっていた。
昔は、「自由から涅槃に至る」と言う発想が多かった。
自由な経験から、悟りと涅槃に至った。あらゆる経験を総合して、「自分は本当は何をやりたいのか、それはどんな経験から来るのか」を分かっていた。
自由な経験から欲求と衝動を分かっていた。そういう人間だった。
もっと、ありえなく考えれば良い。人間は全部同じだし、理想は平等だが、自由にすることで、支配して人間と環境を変えられる。支配は、心理的に場を掌握出来る。
色んなことがあった、昔の人生を書いていた。
意識、記憶、場、感情の関係のようなことを書く。経験をモデルのように書いていた。
あとは、この宇宙にある真理や、心の深層のようなことを言う。
本当に、考え方と真理が分かる、賢い人間だった。
そして、この世界を支配して、対話で導いていた。狂っていたが、賢かった。
環境と人生のようなものをいつも書いていた。ほとんどそれしかない。
歴史と意識を考えていた。価値観や文化から、全てのものを生成し、形成した。
社会の形成原理や秩序や道徳の原理のようなことを言っていた。
人間を全員創造して、体験から人生や可能性のような、真理のようなことを言っていた。
社会民主主義が好きだった。そういう、左翼と右翼の思想のようなことを言っていた。
社会的な応用や論理学のようなことを言う。それくらいが多かっただけだ。
そんなに治しすぎない方が良い。それでは治らない。一番辛い部分だけ殺せば良い。
全ての体験を良いと思っていた。そこが狂っている。全ての体験が良いわけがない。
辛いのは、「悪い体験もある」と言いたいだけだ。それを良いと思うのがおかしい。