ロックやヒュームのように、本質的に経験を考えていた。
自分は、ロックとヒュームをした方が良い。そうすると、きちんと分かる。
ヒュームをしていると、知性と支配のようなことが分かる。
経験的に、現象を作り出すのが分かる。そういう賢いことが分かる。
そういう、賢いことは、残る人間が多い。
成長と価値観と法則から、社会のことが分かる。
社会と自分との関係が分かる。
チャンスが分かる。
自分の人生をどう生きるべきか、のような、自己のことが分かる。
思考と感情から、経験的に心理学が分かる。
宇宙と理性の裏の構造が分かる。
ヒュームは、そういう風になる。
今まで分かったことは、忘れて良い。完全にヒュームになった方が賢い。
あまり読まなくても、既に分かっているせいで、ヒュームと思えば分かる。
あとは、デカルトなんかしなくて良い。見ていると、デカルトは馬鹿だ。
デカルトなんかしなくても、自己と思えば同じだ。
昔は、責任感が強くて、思いやる気持ちのあった、賢い子供だった。
皆とミニ四駆やテレビゲームをして、人を思いやる気持ちのある、優しい子供だった。
友達が多かったのは、テレビゲームをしていたせいだ。
自分の家に友達をいつも呼んでいたせいで、友達が本当に増えた。
2ちゃんねるになったのは、テレビゲームがそのままインターネットになった。
ネットの友達が多かった。オープンソースで賢くなった。
ヒュームをしていると、ものごとの道理のようなことが、知性で良く分かる。
狂うのは悪いが、ヒュームは悪くない。本当に、ヒュームをしなければ分からない。
きちんと考えれば分かる人間しか居ない。ヒュームをしていると、本当にそういう馬鹿がこういうパソコンオタクに多い。パソコンは、ヒュームにしかならない。
自分は、ヒュームをした方が良い。それできちんと分かる。
昔は、人間がいつどうなるのか、把握して人生経験を考えただけだ。
いつ何を思うのか、のようなことを考えた。それぞれの世界観と人生を考えていた。
明らかに、自分はヒュームをやりたいだけだ。
ヒュームをやっていると、潜在的な可能性と、経験的な現象の捉え方を考えるようになる。
環境にどんな可能性が眠っているのか、何が出来るのかを考える。
そういうものを考えれば良い。あとは、昔の自分は忘れた方が良い。もう昔は充分だ。
ヒュームは、精神上の問題に実験的推論方法を導き入れる試み、と言う副題を人性論につけている。これは、スピノザと良く似ている。哲学者には、そのように分かる人間が多い。
ヒュームは、普通、潜在性と捉え方を分かる。昔の自分にもそういう発想が多かった。
ヒュームを分かっていると、本当にブッダみたいに分かる。
あとは、僕は昔から、経験論が好きだ。自分はヒュームが好きだから、入門書を買えば良い。原著が一応家にあるが、原著は難しいと思う。ただ、経験論はそんなに難しくない、と言う人間が多い。普通、ロックとヒュームは、哲学の中で一番簡単に読める。
ヒュームは、変わらないで、何もしていないと、出来ない。「自分を変える」ということをすると出来る。あとは、パソコンなどの労働経験があると良く分かる。
そういうわけで、ヒュームをやっているとまともな人間になる。
昔は、潜在性と捉え方を本当に考えている馬鹿が多かった。
デカルトは難しいから、しなくて良い。そんなに「自己」のことを考える意味が無い。それは、したくないように見える。カントとヘーゲルは、難しすぎて出来ないだろう。
ヘーゲルなんか、もう出来たように見える。ヘーゲルと同じものを執筆して出来た。
デカルトやカントは昔同じことをやっている。科学的に考えるのは、デカルトよりもヒュームの方が良い。ヒュームの方が自分に近い。自然科学や数学より、経験論の方が同じだ。
あとは、純粋に経験的に考えると良く分かる。人間のことを、ロックのように、知覚と経験であり、発見は全て経験的であると思えば良い。合理論とは矛盾するだろう。
ロックとヒュームが簡単なのは、普通の人間が考えて、普通の人間が分かることを言っている。デカルトはありえないだけだ。ヘーゲルはさらにありえない。そういうわけで、何故か哲学史的に見て、デカルトやヘーゲルの方が賢い。ありえないことが全部分かる。
あとは、構造にすると分かる。構造を分かると分かる人間が多い。
昔から、自分は知性をモデルにする。組織と工場などのプロセス、方法や理性的な平等などをモデルにする。そして、社会などをモデルから発想し、モデルと照らし合わせて現実のことを分かっていた。モデルで何でも分かる、抽象的な捉え方が分かる人間だった。
哲学には、そういう風に、構造から分かる人間が多い。そういうわけで、ヒュームを読んで分かったりはしない。誰でも、構造や関係で分かる人間が、ヒュームを見ると分かる。そういうわけで、ヒュームに期待するより、そういう基本的な知性を考えた方が良い。
自分は、自由と言うより、潜在的可能性と言った方が良いし、モデルと言うより、捉え方と言った方が良い。そういうわけで、ヒュームとそんなに違わないのが自分だ。
ヒュームの人性論は、見ていると、昔の自分の文章に良く似ている。特に、関係などを分類して、網羅的に考えているが、自分もそういう文章を書いていた。もう、記憶の中に忘れ去った部分だ。ヒュームは分かっていることをきちんと書いているし、知性もある。
ヒュームは、様相と実体、抽象的観念のようなものを考えている。自分も、そういうものを書けば良いのが分かっていない。昔の文章とは言うが、昔の文章は忘れて良い。本来、そういうものが書きたかったのが自分だ。誰でも、賢く考えれば分かる。もっと、頭の中に、そういう、捉え方と観念のようなものを作った方が良い。
見ていると、ヒュームはまともだ。狂っていない。潜在性と捉え方なんか、考えていない。
ヒュームは、人間の知性や心理的機能のような内容が多い。だが、原因と結果のようなこともきちんと考えている。まだ、最初の方を、読まずに眺めているだけだ。
あとは、自分の文章は、そろそろ全部書けた。これくらいしか書いていない。
あとは、人生を思い出す内容が多かった。人生的な観念のようなものを全部書いていた。世界観のようで、構造のようで、知性のような文章だった。何から何を分かるのかを分かって、世界のあらゆる森羅万象を知性の構造にして、自由な考え方を書いていた。
それはもう良い。いつもの文章はもう分かった。本当に、様相と実体のように、「この世界で成り立つ全ての抽象的観念と事象の本質的な捉え方」のようなものを書いていた。
それこそ、この世界をカントのような言葉で全部書く。それが多かった。
人性論を見ていると、道徳のような内容も多いように見える。そういうわけで、そんな内容しかない、と思わないでほしい。僕はまだ読んでいない。最初の方を何も知らずに見ただけだ。人性論の内容は、こんな内容ではない。誤解されると悪いと思う。
あとは、成長を考えていた。何故か、成長を数学的、言語的に考える馬鹿が多かった。それは、おそらく、ネットの引き篭もりを考えただけだ。そこがキモイから、キモく見える。この文章がキモイのは、全部2ちゃんねるしか考えていない。そのせいで虫に見える。
そういうわけで、昔の自分も、文章も、忘れた方が良い。
あとは、ヒュームを見ていると、ヒュームは一般的な普通の人間だと思う。
そうすると、むしろ、2ちゃんねるをすれば分かる。影響力も、価値観も、そういう風に分かっている。それがタリバンのような革命をするのがキモイ。虫みたいに見える。
あとは、今から真面目に生きれば良い。きちんと良い人間になれば良い。
最近、哲学や歴史をしているのは、あまり悪くない。まともな綺麗な女に見える。
あとは、昔の自分は、そんなにキモくない。賢くてまともな人間だから、アリストテレスに見える。2ちゃんねるを悪いと言うが、インターネットは最近どこでも流行っている。こちらの方がキモイ。こちらは、大人なのに子供のような、知的障害の人間だ。だが、こちらはまともな大学生だ。何もしないだけの女だ。そういう、良いカップルだ。
ヒュームを見ていると、頭の中や理性的なことを考えれば良いのが良く分かる。
それから、人間のことを考えれば良い。昔は、他人のことを吸収する、と言う発想があった。何でも他人のことを吸収して分かっていた。知性や可能性や未知とは、そういう、他人からの吸収のことを言っていた。
あとは、信念や理想を考えれば良い。ヒュームを見ていると、そういうところが分かる。
あとは、ヒュームはそんなに賢くない。見ても、普通の人間に見える。
哲学がやりたいなら、本当にデカルトの方が良い。ヒュームに賢い点は少ない。
ヒュームには、知性がある。経験的な真実の発見の仕方が分かっている。独自の考え方を持っている。それこそ、経験論に区分はするが、他の経験論と一線を画している。
見ていると、経験論のカリスマみたいに見えるのがヒュームだ。
文章は、信念は経験的に生まれるとか、そういうことを人生論のように書いていた。
ヒュームだけではないが、色んな研究者の論文を読んだ方が良い。読まないと分からない。それは、読まないで分かるわけがない。そういうわけで、そんなに全部の哲学者は出来ない。それこそ、哲学なんか、しない方が良いだろう。ヒュームは、これくらいで分かったことにすれば良い。だが、そうすると、つまらない。何もしていない。
他の研究者の意見は、論文なんか読まなくても、解説本や入門本に、きちんとその著者が正しく書いているから、入門本を買えば良い。原著では分からない。ロックやヒュームの原著が、叙述的に優れているのは分かるが、普通、難しくて分からないだけだ。
ヒュームは、普通、帰納的推論と習慣を考える。哲学大図鑑には、それが載っている。
そういうわけで、ヒュームなんか何も賢くない。
哲学をやりたいなら、図鑑を見れば良いが、もう、哲学なんかしなくて良い。
今日はヒュームの日だ。ヒュームになりたいと言っている。だが、ヒュームは止めた方が良い。誰も知らない、マイナーな哲学者だから、しなくて良い。賢くない。
これなら、ヘーゲルとフランス史をすれば良い。それが一番自分に合っている。
ただ、ヒュームはそんなにマイナーでは無い。どの哲学史の本にも、ヒュームは載っている。本当に昔から、一番知性のある、カリスマみたいな哲学者だ。因果性をどう捉えるのか、どのように経験から発見するのかが良く分かる。やると、分かる人間が多い。
ヒュームの言う、帰納的推論は、自分は「正しい考え方の発見」だと言っていた。
それも、経験的に発見する、と言っていた。「考え方の発見のプロセス」を書いていた。
そういうわけで、ヒュームと自分は、言葉は違うが、考えていることは同じだ。
自分は、より反省的に、事後の経過を過ぎてから、それを正しく表している。
そのせいで、より正しい言葉になっているが、何も分かっていない。
ヒュームは、現実的に分かっている。具体的に、今、その時分かっている。
あとは、行動規範や判断基準のように、「頭の中に作る」ことで分かっていた。行動は、何をどう行動するべきか、のようなことを考えていた。ヒュームは論理学の達人だが、それは、頭の中に論理学の体系を作って、知性で考えているからだ。
それから、賢い人間には、周りにも賢い人間が集まる。
おかしな人間には、おかしな人間が集まる。まともな人間には、まともな人間が集まる。
それは、宇宙の法則として、そういう風になる。賢い人間は、周りも賢い人間が多い。
それから、最近は、失敗しなくなった。失敗が怖くなっている。
昔は、いくらでも失敗の経験をして分かっていた。常に失敗の経験をしていた。
どちらも悪くない。失敗から分かる人間は多い。それが一番哲学が出来る。
あとは、哲学は、大図鑑を読めば良い。ヒュームについては、習慣によるガイドと帰納的推論などが、きちんと書いてある。原著を見ると、色んなことを言っているが、図鑑にきちんとポイントだけ書いてある。そのポイントがきちんと本質的に分かっている。大学はそういうところが賢い。大図鑑を見ていると、哲学の世界がきちんと全て分かる。
あとは、分かっているが、知性の無い、タリバンみたいな戦いが多かった。それが神だ。
昔は、経験論が多かった。いつも言っているように、経験論とヤスパースのようなものを、自分で考えて分かっていた。ネットだけでは無く、現象を良く見ながら、ヒュームのように経験的、因果性的に考えて分かっていた。
あとは、昔なんか、忘れた方が良い。何も賢くない。
自分は、何故かヒュームのような人間に見える。組織や経験と言うせいで、ヒュームに見える。何故か、ヒュームがこの宇宙を全部創造している。そういう発想が自分だ。
むしろ、ヒュームなんか、帰納的推論が優れているだけだ。誰もしないのは、普通、それだけだから、しようが無い。ヒュームなんかする人間が居ない。
体系的に優れているのは、デカルト、カント、ヘーゲルだから、そこらへんをすれば良い。哲学は、誰でもそれらをするのが普通だから、それらをした方が良い。
歴史はフランス史にしても言いが、日本史でも良いと思う。政治経済も日本のことを中心にやれば良い。宗教は難しいが、キリスト教の聖書を読みながら、仏教のことも仏典のことばの本を読めば良いと思う。物理の本も読んで、世界史の現代史の巻もきちんと読んだ方が良い。不可能ではない。誰でも、それくらいを読んで、何もしないだけになる。
ただ、そんなに勉強したいのは、意味が無いから止めた方が良い。普通、誰でも、出来ない。何をしても覚えない人間しか居ない。もっと、仕事をした方が賢くなる。仕事をしていると賢い人間が多い。本来、楽になると、自然なままで賢いのが人間だ。そういうところが分かる人間が多い。哲学とは、そういう思索や思惟のことを言う。
自分が哲学が出来るのは、昔の人生と2ちゃんねるの体験があるからであって、普通、誰も出来ない。ヘーゲルなんか、もう終わったように見える。もうしなくて良いだろう。
ヒュームは、本当にしなくて良い。同じことをきちんとカントが言っている。
誰でもカントをする。ヒュームなんかする人間は居ない。
哲学史に載っているのは、カントに影響を与えたからだ。あとは、昔からヒュームが賢かったから載せている。今では、何も賢くない。カントで分かる人間が多い。
自分は、日本史をすれば良いのが分かっていない。何故か、日本史が良い。賢い人間も多い。真面目に考えて、カント、ヘーゲル、日本史、政治経済をすれば良い。それできちんと正しく分かる。デカルトとフランス史がしたいなら、すれば良いが、するわけがないだろう。日本史ならするように見える。色々と、日本にある色んなものの文化が分かる人間が多い。政治経済が分かると、ニュースのことが分かるようになる。
あとは、考え方を分かっていた。全ての考え方を包括する、1つの全部になる考え方のようなものを作っている。そういう、「メタ」と言う発想が多かった。
ヒュームをするのは、本当に止めた方が良い。自分は、明らかにおかしいのが分かっていない。普通、哲学なんか、カントとヘーゲルだけだ。ウィトゲンシュタインなんか、しなくて良いだろう。現代哲学への挑戦は分かるし、経験論も一応科目として教えるが、普通、意味が無い。だが、そんなにおかしくは無い。ヒュームも哲学者だし、哲学書に登場する。普通に、やりたいならすれば良い。本屋にも、ヒュームの本は多い。
あとは、文章は、「分かり合う」と言う発想が多かった。そういう優しさを書いていた。
カント、ヘーゲル、日本史、政治経済をすることにしたが、その前に、今読んでいる世界史の現代史を読んだ方が良い。出来れば物理の本も読みたいところだが、それは諦めるべきだ。そんなに大量には読めない。そういうわけで、とりあえず世界史を読む。
皆も、それで良いと言う。それこそ、カントとヘーゲルをやるなら、入門本をもう買った。それに、政治経済なんか、いつもしている。それを続ければ良い。
あとは、戦いをしたとは言うが、むしろ、下積みのような経験をしていた。
いくらでも文章を書くだけの、戦いの下積みだった。
何故か、マルクスのような社会論を全部作っている。相対的な環境を作っていた。
そういう、マルクスは、もう忘れた方が良い。まともに高校の政治経済を読めば良い。
世界史を読みたくないなら、もう、読まなくて良い。
カント、ヘーゲル、日本史、政治経済なら、出来る。きちんとそれらの解説本を読めば良い。読んで分かるだけだから、簡単だ。ただ、つまらないと思う。
大学なんか、どうでも良い。もっと、楽しいことを何かした方が良い。
社会科は、ジャーナリストが出来る、しか居ない。大学でやれば良いように見える。
政治経済は、「自由」と思って新聞やテレビを見ていると出来る。何がどう自由なのかを考えれば良い。同時に、「平等」と思えば良い。政治経済は、そういう発想だ。
それこそ、昔は、経済システムのことを自由だと思って分かっていた。自由な経済システムを一行の文章に書いているのが多かった。思いやりの自由を社会的に分かっていた。
あとは、真面目に勉強した方が良い。自分は、真面目に見えて、不真面目なことが多い。文章をそのまま理解しようとせず、自分の思ったように曲解して、誇張して理解する。それも、天才的で悪くは無いが、もっとその文章の通り分かった方が良い。
社会科は、自分の経験から分かる。そういう風に分かる人間が多い。
理科も、きちんと考えれば分かる。
自分は、出来ないように見えて、これくらいの経験で出来る。ただ、現役を引退したのが悪い。また、現役選手に戻れば良い。そうすると、きちんと社会科が出来る。
もう一度、この世界で何かをしようとすれば良い。それが一番政治経済が出来る。
あとは、哲学はもう忘れた方が良い。それこそ、明らかに哲学はもう全部分かった。
哲学をしたいなら、大図鑑を見ていれば良い。それで最後まで分かったはずだ。
人間の夢や衝動は、「作りたい」と言う欲求から始まる。
好き嫌いも、世界の広がりも、成長も、全部「作りたい」と言う欲求である。
自分の心理学とは言うが、心理学と言うよりは、哲学だ。
誰もが作りたい。そこから、「勝ちたい」と言う欲求、「承認されたい」と言う欲求になる。
そういうものは、「確かな方法で出来る」から、「実際にする」や「実践する」になる。
あとは、自分は、マイクロソフトに勝ちたい。それこそ、もっと良いものを作りたい。
そういう発想が、「手段」になり、「社会的役割」になる。それが自分の哲学だ。
父親の言葉を借りると、「作りたい」は言葉を変えれば「表現したい」になる。
それは、「創造的行為」となるが、そこには「相手との関係」が必要だ。
自分の場合、そのまま「世界を変えたい」と言う発想になった。
そういう哲学が、自分の哲学だ。昔の人生が、その通り、作りたいだけの人間だった。それこそ、手段から社会的役割や制度が分かった。ただ、作りたかっただけだ。
フロイトやアドラーの言う、「性的衝動」や「劣等感」と同じだ。同じレベルの心理学のことを言っているようで、心の病気と言うよりは、子供がそういう風に成長して、分かる。
あとは、それらがそのまま「学習したい」や「成長したい」になって、「分かりたい」や「未知のことを知って体験したい」になる。
そういう、「自己の可能性」のような、ハイデガーやサルトルのような考え方が多かった。
そろそろ、人生のことも分かった。いつも、そういう、人生のようなことを書いていた。
昔は、分かることと分からないことを比較して分かっていた。環境を比較して、どの環境では分かるのか、どの環境では分からないのかを分かる。感情も同様に考える。そういう風に、「比較し、試し、実験して分かる、心の想定の科学」が多かった。
それは、いつも言っているように見える。それで、「精神の現象」を考えていた。
そろそろ終わりだ。きちんと書けたようにしか見えない。
昔の自分が見える。あとは、ヒュームと言うが、「自分の実体験から、環境の確かな情報と変化を考える」だけで、ヒュームには見えない。
今日は、ヒュームの日だ。きちんと人生の哲学も書けた。それしか書いていないのに、分からない方がおかしいから分かる。最近は、それだけだ。誰にも出来ないようで、簡単だ。
最後の方では、経験から全て分かって、「創造性と共有から社会の可能性を信じる」と言う発想が多かった。ソ連とは言うが、オープンソースが好きだった。
何故か、いつもこれで15歳から18歳までを生きていた。
自分の本を見ると、あれが一番18歳に見える。18歳ぐらいから書いているから当然だ。
あとは、これで「当然の結末」を考えて分かる。そういう社会論が多かった。
人生と世界観と因果性から、当然そうなること、のようなことを分かっていた。
何故か、神みたいな文章になったが、賢く見えて、何も賢くないのがこの文章だ。
それこそ、ヘーゲルには見えない。
ヘーゲルやフロイトを、ミックスしたかったように見える。
あとは、論理学的、言語学的に分かっていた。言葉のモデルのことをモデルと言っていた。
自由なモデルを、経験から真面目に作っていた。誰がいつどうなるか、何と何が関係して、それがどうなるのかを考えた。ヒュームと本当に良く似ていた。
あとは、むしろ、哲学はこれで終わりだ。自分はこれでも一応ヘーゲルをやっている。自分のヘーゲルを作る、自分のソ連を作る、と言う研究だから、これで良い。哲学史の知識も分かっているせいで、きちんと世界一の大学に見える。パソコンは、きちんとWikiを書く、と言う研究をやった。そういうわけで、パソコンが理系の方、と言うことになる。
あとは、観察と経験から、実験的、実証的に分かるとか、そういうことを言う。
本当に、ヒュームのように考え方を言う。帰納的推論と思えば良い。そういう文章が多い。
あとは、もう何も残っていない。もう、そろそろ書くのを止めれば良い。
書くのを止めれば、多重人格になる。本当に怖いとは言うが、待ちに待った全員になれるチャンスだ。ここまでの人格全員になる。だが、それは賢くない。すぐに辛くなる。
あとは、本当に人生のことを書いている馬鹿が多かった。いつも分かっていた。人生と考え方が全部分かっただけの人間だ。賢くは無いが、ヒュームと全く同じだった。
原因に応じて結果があるだけで、運命なんか無い。未来は全て白紙だ。
そういう風に考えないと、分からない。
ある意味では仏教も正しい。因果応報もあるように見える。ブッダが言うから、あるようには見える。だが、ブッダは、そういう、「あるように見えるもの」を考えているだけだ。
そういうわけで、仏教なんか当たるわけがない。
キリスト教の運命なんか、誰も信じていない。罪を平然とする馬鹿しか居ない。白人は、そういうところが馬鹿だから、馬鹿になる。神に反抗したい馬鹿しか居ない。
ただ、白人を馬鹿にすると悪い。それは止めた方が良い。
そういうわけで、自分の人生が悪いなら、自分に原因がある。
その苦しみが起きる時には、本当にどこかの時点で何かの問題があった。きちんと理性的に考えれば分かる。「運命」の言葉で一言で結論をつけるのは、早すぎる。
そういう、「それは早すぎる」で分かる人間が一番多い。そういうわけで、これでは分からない。神を信じる人間には、何も分からない。ただ、それで分かる人間は多い。宗教の教えは、きちんと分かるようにしている教義しかない。仏教徒は神なんか信じない。
昔は、そういう風に分かっていた。
それから、「可能性を維持し、保持する」と言う考え方をすると良く分かる。「それをそれに決めるのは早すぎる」とか「ある選択をするなら、別のこれにも決められる」と考えれば良い。そういう風に、結論を急ぐべきではない。そういう発想をすれば、分かる。
そういうわけで、運命なんか信じない方が良い。数学や物理には、分かる人間が多い。
突き詰めて考えると、ヒュームのように、物理学や宇宙の因果性そのものを否定するようになる。自分の場合、否定するのも早すぎると考える。物理学では無い、何か別の科学や考え方の可能性もあるかもしれない。その法則を間違っているとは言うが、その体系や世界観にも、何かしらの良い点はあるはずだ。
そういうことを書いている、ヒュームのような文章が本当に多かった。
今日は、一番頭が冴えている。知恵がついたように見える。
あとは、世界の国なんか、分かっていない。一般的な勘違いを考えているだけだ。
ある1つのものがそうだからと言って、全員がそうだと勘違いしてはならない。イスラム教徒は、全員がテロリストでは無い。圧倒的多数は、善人だ。そういう風にすると分かる。
きちんと疑えば論理的に分かる。間違いは信じるべきでない。正しいことから推論せよ。
文章は、全方位分かっていた。全ての側面から概念を考える。そういう文章だった。
この文章が馬鹿だと思えば分かる。本当に、昔からそれで分かる人間が多い。
勘違いをするのは悪い。思い込めばそれで終わりだ。
こういう風に分かる馬鹿が、安倍みたいに多い。右翼に多いのがこういう馬鹿だ。
こういう右翼は、普通、何かするようになって、そのまま左翼になる。
左翼は、そういう、滅びた世界で経験して分かる人間が多い。不思議と、すぐに馬鹿になる。そういう、すぐに馬鹿になる左翼が多い。それは、右翼に戻らないと治らない。
政治経済の知識は、自分で社会的な経験をして、自分ならどうするか、それをするならどうなるか、のように、行動と因果性の自由から経験的に考えれば出来る。
あとは、環境を思い出して分かっていた。「想起」のようなことから、プラトンの言うように分かっていた。それで、人生のことを体験から分かっていた。悟りを開いて、マスターに至る。そういうわけで、これできちんと人生論の宗教になった。
あとは、社会の何がどうなっているのか、構造的に考える。2ちゃんねるの議論と思えば良い。色んなことを議論して決まりを作る。昔から、「議論によって制度を作る」のようなことを分かる。それで、個別の自由を考えて、政治経済のことを分かっていた。
そういうわけで、2ちゃんねるの議論と思えば、政治経済が出来る。ある意味、当たり前だ。心理学や哲学なども、2ちゃんねるだと思えば良い。数学は、パソコンだと思えば良い。それで、簡単に楽に出来る。歴史は難しいが、時代と思えば簡単だ。
あとは、意味の無い馬鹿が多かった。自分で体験して、意識で分かっているが、意味が無い。こういう馬鹿が2ちゃんねるだ。2ちゃんねるを、本当に消した方が良い。
意味が無い馬鹿を、消すと治る。そういう意味が無い馬鹿が悪い。
あとは、独自の数学を作っていたのも、ある意味ヒュームのようだった。知性があった。
そういうわけで、2ちゃんねるが悪いからこうなる。
ただ、インターネットはそんなに悪くない。きちんと社会を知る経験があった。
現役選手に戻れば良いのが自分だ。まだ27歳だ。何でも出来るだろう。
あとは、「かもしれない」のような言語を考えること。言語で分かると良く分かる。
そこから、交流が分かる。相手が居なければ、創造的行為は成り立たない。そういう風に分かる人間が一番多い。今の話は、父親が言っていた。
あとは、考え方、関係、環境、体験、因果性、法則、真理、発見、のような文章が多かった。それらが無くなっただけで、そういう賢い文章を書いていた。
全ての考え方を網羅する。そういう人間だった。
あとは、社会に対する提案のようなものを書いていた。
オープンソースの反省から、「製品は独自性を高めるべきだ」と言う。オープンソースが全くパクリばかりなのを言っていた。きちんと独自性のある製品を作ってほしい。むしろ、オープンソースがそういう独自なものになってほしかった。
あとは、思いやりの理念を言って、「社会は思いやりを高めるべきだ」と言っていた。
いつも、場の考え方のようなことを言っていた。プラットフォームだと思えば良い。
関係から、対象とシステムを還元的に考える。そういう経験の文章が一番多かった。
あとは、デカルト的な言語のようなものを作っていた。
冠詞を多様にし、動詞を階層的にすると言っていた。形容詞は、順番を自由にする。関係代名詞は、英語にも日本語にも出来るようにする。そして、メタ的な文法と文字を作る。全ての言語になれる言語が理想だ。数学の記号と思えば良く分かる。
反省すると、良いことがある。こういう風に、悔い改めていると、本当に良いことがある。
あとは、自分で考え方を作っていた。自分で科学の構造を体験的に作った。
何故か、あれはおかしな人間だ。人より沢山の経験をしたせいで、狂って分かっている。あれは、それだけの人間だ。何も賢くない。
最近の自分の方が良い。きちんとここまで頑張って耐えたし、誰にでも微笑みを絶やさない良い人間になった。皆のことが本当に好きだ。きちんと良い人間になった。
何故か、キリストは本当に当たる。貧しい人間の方が、賢い人間になる。そういうわけで、キリストは神だ。あんなものが神なわけが無いようで、何故か神だ。それこそ、誰もそういう馬鹿を言わない。キリストの言っている通りになる。悪いから悔い改めた方が良い。
昔は、ポール・グレアムとか、ネットで情報と知識を知って分かっていた。
そういう、ネットを全部書いている、馬鹿な文章が本当に多かった。
あとは、最近は、申し訳ないとしか思わない。あまりに「罪悪感」になる。
そのせいで悪い人間になっているが、悪くは無い。自分を悪いと思えば、賢くなる。
ただ、罪悪感は止めた方が良い。植物を枯らす、毒のようなものが、罪悪感だ。
そういうわけで、こういう馬鹿は本当に多い。
あとは、本当に、悪い内容は書かない方が良い。政治は忘れた方が良い。
ブッダのように、真理や悟る方法や道のようなことを言う。
一直線になって、最後まで自由に駆け抜けた。そういう、賢い自由な人間だった。
一直線の人生だったが、最近は振り返ることすらなくなった。
それは悪い。きちんと反省して、正しく生きた方が良い。
自分は賢くない。こんな馬鹿はいくらでも居る。
神と対話するのがありえないだけで、他は狂っているだけだ。狂っている人間には、こういう人間が多い。オープンソースや、趣味の作家が居ないだけで、居ない人間になった。
皆と同じことをしないのがおかしい。皆がやっていることをすれば良いだけだ。
ブッダのような方法論が本当に多かった。
自分のことを悪いと思った方が良い。悪いとは言うが、どこかで「悪くない」と思い続けている。自分は悪い。きちんと自分の悪い点を全部知れば治る。そういう風に分かる人間が多い。自分の悪い点を全部反省していると賢くなる。人生も、過去のことも、皆に言うことも、自分のしたことも、そういう風に考えて悪い点を潰して行けば分かる。自分は昔に執着するのが悪い。自分を賢いと思いたいだけだ。社会や自分が異常だと思っている。
昔から、そういう、自分の悪い点を考えて分かるのが多い。反省して分かっていた。それこそ、悪の起源のようなものを、アウグスティヌスのように、そういう風に考えれば良い。自分の悪かった点から、善悪を考える。そうすると、きちんと善のイデアが分かる。
そういう人間が多いから、今日はきちんと哲学を分かった日だ。
昔から、自分は悪い点を全部反省しながら、自由と言う思想の意味を考える。ある意味で、賢くコントロールすれば、自由な中で色んな良いことが出来る。それが潜在性だ。
あとは、社会の中にどんな可能性があり、どんな状態を取り得るのかを考える。
世界から、経験的に共通性を見出す。そういう、「基本的な理性」のようなものがあった。
そういうものを書いているだけだ。
哲学の図鑑を見ている。そろそろ、哲学は最終局面だ。図鑑を眺めて、きちんと分かる。
あとは、政治経済もしなくて良い。ソ連を作ったから、それで良いように見える。
あとは、人間と社会のことを結合されたブロックのようにして、「その状態がどんな社会、環境、人間の間で変わり得て、取り得るか」のようなことを分かっていた。
どんなことが本当に知れて、皆はどんなことを実際に分かっているか、何を意識して、何を意識していないか、差異はどう生まれ、それぞれがどんな価値観をどんな原因で信じているか、のようなことを、「環境の実際と因果性」のように分かっていた。
昔は、場の必然性と潜在性を分かっていた。「なるべくしてそうなること」から、「そうなるという必然性」と、「最初から見ると、そういう風にも出来ると言う潜在性」から分かる。そういう風に、きちんとこの世界のことを分かっていた。環境と言うよりは、必然性だ。
あとは、大図鑑は面白いようで、結構つまらない。それこそ、何故か、この本は自分の人生のことが分からない。哲学者のことが純粋に分かる。それがつまらないだけだ。
もう何もしないなら、しなくて良い。
皆は、小説を書けば良いと言う。本屋で見た馬鹿な小説を見ると、ただ、馬鹿なセリフを言わせているだけだ。そういう作家が多い。それで人生みたいなことを言う。
あとは、むしろ、哲学は忘れて、社会科のことだけをした方が良い。過去の自分や文章は、そろそろ忘れた方が良いだろう。ただ、まだまだ分かるから仕方ない。
手段と実現から、大学のようなものを作っていた。分析し、提案する文章が多かった。
具体的な捉え方から、モデルにして分かっていた。そういう文章を推論していた。
あとは、ネットで社会や環境を知って分かっていた。ネットで関係を全部具体的に知った。認識のようなものをネットから吸収して、豊かな発想力をつけていた。
そして、自分で判断することから分かるようになった。それを、考える機会と言う。
心と場を考えて、環境の状態で分かっていた。環境を支配して、その状態を変えていた。
方法から、人間の持つ可能性を分かっていた。能力的な「出来る」を増やしたかった。