僕は、全てを知りたいのを、止める。
知れば知るほど、馬鹿になる。
僕は、大学みたいに全部知っているのが馬鹿だ。こういう、賢い人間は、馬鹿になる。
何も知らない方が分かる人間が多い。ソクラテスの無知の知は、ちょっと違うが、何も知らない方がそういうものが分かる。
昔、ネットで人間と社会とパソコンのことを知り尽くした。
最近、神との対話で、宇宙の全てを知った。
そういう、人一倍、知ったのが悪い。そのせいで馬鹿になって知的障害になった。
昔は、科学を自分で作って、精神を作って分かっていた。そういう、賢い発想は、馬鹿の方が出来る。色んなことを知っていると、発想出来なくなる。
昔は、体得を知って、人間のことを考えて、マスターになった。自然に出立し、成長した。何も知らない方が、そういう、賢い人間になる。勉強なんかしなくて良い。
昔は、色んなものを知性と世界のモデルにして、分析することが多かった。
それから、自然に出立と思えば分かる。ネットで経験しながら、自然に大人になって、世界を知ることによって成長して、自然に目標とビジョンを持って分かっていた。
何故か、こういう人間は、馬鹿に多い。何も知らない人間は、こういう風に、賢くなる。
何も知らない方が良い。最近馬鹿になったのは、いつまでも哲学をやっているからだ。
哲学は、止めた方が良い。本当に馬鹿になっている。皆よりはるかに馬鹿なのが分かっていない。何も賢くない。本当に、こういう、皆より馬鹿になる悲惨な大学が多い。
今日も農園に行ってきた。
今日は、ピアノがある。
いつもの文章は、知、想像力、方法、経験、感情のようなことを、自由に分析していた。
人生、経験、経緯、段階、方法、法則、抽象性、相対性、可能性、具体性、自然、記憶、環境、意識、社会、秩序、システム、歴史などのようなものから、本質を考える。
本当に、哲学者のように、そういうものを考える。そういう文章だった。
記憶と意識、方法と概念、社会と環境、のようなものの関係を、思考で分析する。
社会は、意志、意図、環境の変化であるとか、そういうことを言う。
自由や世界の可能性を考えていた。
自分は、神になっている。
いくらでも文章を書いた。本当に沢山の文章を書いた。下積みのようだった。
立場を考えた。色んな人間と社会のことを考えて分かっていた。
自分は、パソコンと神と哲学が悪い。そういうもので分からなくなっている。
世界中を全部分かるのが悪い。それで、おかしく知的障害になった。
普通のことが分かっていない。それこそ、普通は何も分からない。分からない方が良い。
自分は、英語はきちんと出来た。日本語のままで、英語のように思考するようになった。
自分は、自信が無いだけだ。自分に自信が無い。もっと自分を良いと思えば良い。
文章は、経験論と思えば分かる。経験論や分析哲学や実存主義のような、人生と方法の文章だった。ヘーゲルにも良く似ている。人生的、経験的、方法的、法則的な本質を考えた。
農園で分かった内容は、ここまでだ。
今から、ピアノのレッスンがある。作曲が楽しいから、楽しみだ。
あとは、明日は英会話教室がある。もう、既に出来た、と思えば、怖くない。
哲学は、経験をしながら関係を考えれば出来る。昔は、成長しながら、新しいことを知って、知性を高めて、自分の力で考えることで哲学と同じことが出来た。
そういうわけで、人生を生きて、自分で答えを探すこと。
光を探していると、そのうち、何かの形で正しいものに出会える。そういう人間が多い。
そういう、人生の「光」のようなものを考えている、人生の文章が多かった。
あれは、そういう風に分かっている。人生で何が起きて、どういう経緯で成長し、発見し、分かって行くのかを、全部分かっていた。人生で何を考えるのか、分かっていた。
今日は、ピアノに行ってきた。
ピアノは、進歩のスピードは遅いが、きちんと上達している。
最近は、あまり考えなくても、五線譜を少し見るだけで、弾けるようになってきた。
鍵盤もあまり見ていない。だが、進歩のスピードは遅い。まだきちんと弾けていない。
自分は、ヘーゲルのように考えれば分かる。
ヘーゲルは、観念を考えている。だが、そんなに難しいことは考えていない。人生における発見と、観念による捉え方、情緒的な確信、世界の本当の姿と、その根源的な根拠や起源のようなことを考えている。それこそ、きちんと正しく考えていると、ヘーゲルと同じことが分かる人間が多い。パソコンに多いのが、そういう哲学者だ。
自分は、色々と、家族と良く似ている。
母親が仏教を信じている。自分は、宗教的な本を書いた。
姉がプログラマで、工業大学で勉強していた。昔は自分もプログラマになりたかった。ネットを見ながら、プログラマになるために、技術を勉強していた。
あとは、父親と一番良く似ている。
不登校になったのも、父親が会社を出社拒否になったのと似ているが、自分は、自分の本が馬鹿に見えるのが、父親の、作った科学館が馬鹿に見えるのと似ている。
自分の本は、馬鹿に見える。ただ、神を書いているだけの、知性の無い地獄に見える。
父親は、博物館の設立に関与したことがある。いわば、父親が作った博物館だ。奇抜なところもあり、来訪者は少ない。何かが馬鹿に見える。
それは、自分の方が悲惨だと思う。自分は、ザビエルにしか見えない。キリスト教どころか、イスラム教に見える。イスラム国やタリバンに見えて悲惨だ。
あとは、違うのは、物理と文学が違う。算数と国語だ。それから、科学と宗教が違う。
自分は、全員になりたかった。そういう宣言をしている。ドイツからポーランドまで、全部の国になりたかった。そこらへんが悪いから、こういう風に地獄になる。
歴史のようなものを書いていた。ナメクジのプレアデス星人のようなものを書いていた。
教育でも考えれば良い。これなら、誰でも教育を考える。昔、科学的に教育学のようなものを考えている馬鹿が多かった。引き篭もりになって、自分で科学を作って、社会経験を積みながら、学校でどのような教え方をするべきか、考える。子供たちに何をさせるべきか、どういう風に成長させ、教え、自発的な才能と学習意欲を芽生えさせ、何をどういうきっかけと機会から考えるのか、のようなことを考えていた。
ヘーゲルのように考えれば良い。この世界を、「自分の力で、疑いながら、答えを自分で推論して導き出す」ことをする。ブッダのように、自分で同意したことだけを信じる。
ピアノに行って、それくらいが分かった。
今、買い物に行ってきた。
昔は、昔自分が作った構造のようなものを書いている。そこから、世界観を書いていた。
考え方や方法の網羅のようなことを書いた。
構造は、この世界を知る、「一つの大きな構造」と、沢山の「細部の構造」を書いて、構造の中の構造のようなものを作っていた。
それこそ、それしか書いていない。昔自分が作った構造を書いているだけだ。
それは、もう覚えていない。何を書いていたのか、さっぱり覚えていない。
昔は、ありえない文章を書いている。
ドイツ人からポーランド人まで、全部の人種になるとか、そういう、「ありえない」と言う発想が多かった。本当に、ありえない独創的で独特な文章を書いていた。
あとは、カントのような、哲学的な考え方が多かった。
自分は、馬鹿を書いているせいで、馬鹿になっている。馬鹿を書くのを止めた方が良い。
色々と、馬鹿な文章が悪い。
知性を失って、右翼になっている。そういう文章を止めれば、すぐに賢くなる。
あとは、自分はやりすぎている。そんなに沢山の文章を毎日書くのがおかしい。
こういう、常にやりすぎている人間は、狂う。
自分の母親が、最近同じだ。頑張りすぎているのが分かっていない。
母親も、教師で、毎日毎日過重労働していたから、仕方ない。
自分も同じだ。昔から、やりすぎている。昔のWikiが一番悪い。そんなに沢山の手動の編集をするのがおかしかった。最近と変わらない。最近は、戦うようになった。
黄昏の戦争だと思えば良い。戦争と言うよりは、馬鹿だ。馬鹿をしているだけだ。自分を統制して、テレビを支配して、馬鹿な戦いをいつまでもしていた。
そんなことを本当にしているのがありえないのが、昔の自分だ。
あとは、自分は賢い人間に見えて良い。自分の作品があると、誰でも賢く見える。ザビエルやイスラム国に見えて悲惨だが、あれなら良い人間に見える。普通にこういう人間が多いと言う。それこそ、このファインダを見ても、本当に普通の人間に見える。
こういう人間が多いと言う。
買い物へ行って分かった内容は、これくらいだ。
あとは、右翼を止めて、キリスト教も止めた方が良い。神と対話なんか、誰もしない。そういうことをしているから、こういう馬鹿な賢い人間になる。文章を書く人間も居ない。
右翼とは言うが、王だと思えば良い。この世界をきちんと統治した。それを頑張ったから、あまり悪くない。イスラエルの王だと思うと、本当にダビデに見えて、良い。
自分は、ゴッホよりは良い。ゴッホは全く生前に成功していない。自分と何も変わらない。
あとは、僕は音楽が好きだ。何故なら、ただ自分を讃えて、賛美しているだけだ。
自分は、人知れず賢い人間だ。ゴッホやザビエルよりは賢いように見える。
あとは、昔の文章は、社会と人生の全体像を見て分かっていただけだ。
構造を全部作って、今までの社会や人生で知ったことを全部書いて、全体を構造にしていた。そういう、「全体を見る」だけの文章が多かった。
あとは、そういうものを、高い位置から、支配して、分かっていた。
あれのやっていることは、単純に、「皆を自分にして、止めて、支配している」だけだ。
良く分からないが、そういう、「皆を自分に同化させる」と言う発想が多かった。
それがキモイ。それがキモイのが、この文章だ。
そろそろ、この文章と皆を分離させた方が良い。
皆もう自由になって良い。それで終わりだ。
昔は、ヒュームの言う帰納的推論のような、そういう、帰納的な考え方が多かった。
いつも、その考え方をカントのように書いていた。
詳しく全部分かっていた。最近、そういうものを覚えていない。
そういう発想は、何も知らないと出来る。何も知らない人間は、そういうものが分かる。
これで世界を全部創造したように見える。そういうところが居ないのが自分だ。
自分は多い。こういう風に賢い人間が一番多い。
自分は、王になったのに、何もしないのがおかしい。
王が色んなことが出来るとは言うが、出来るように見えて、何も出来ない。
やっていると、スターリンみたいになる。外国の飛行機を撃ち落とすとか、そういうことしか出来ない。スターリンは、王になったから、存分に王をやっているだけで、悪くない。それこそ、権力なんか、戦争と逮捕しか出来ない。
あとは、もう、何もしない。この世界を全部自分にしたかっただけだ。
自分の宗教は、そんなに自分にしない方が良いと言う。
ヴァイス教は、そこが悪い。そんなに自分だけで宗教の教えが成り立つのがありえない。
それこそ、普通、ブッダみたいに考える。何故か、日本には、仏教のせいで、ブッダの通り完全に同じように分かる人間が多い。誰でもブッダが分かる。これは賢くない。
これは、皆よりも馬鹿な人間が書いている、ありえない普通の人間の哲学だ。
この世界を自由だと言っていた。
生態系、共同体、システム、意図、行動、契約、歴史など、そういうものを自由だと言う。
もう、分かるのが終わった。
目が治った。もう、想像力が見える。
制度や決まりや価値観のようなことを言っていた。
「ありのまま」のように分かっていた。
昔は、そういう、自然体になって分かる、仏のような人間が多かった。
ヘーゲルは、良心と言っている。それは、自分と同じだと思う。
想像力がおかしくなっているから、治した方が良い。昔は、記憶の回想が多かった。
自分は、家が怖い。家が怖いのもおかしいとは言うが、これで家が怖いのは当たり前だ。
記憶が怖い。テレビ、戦争、神、2ちゃんねるのようなものが怖い。
関係を考えれば良い。生きることによって治る。
テレビでイチローが言っていたが、無駄なことは無駄ではない。失敗をしても、遠回りをすることで、深みが増す。テレビのニュース番組のインタビューで言っていた。
僕は、昔からイチローが好きだ。ネットでイチローを支持する書き込みをして、松井秀喜のファンと戦っていたことがある。ただ、基本的に松井も好きだ。
家が怖いのを治すと、楽になる。何も辛くなくなる。家が怖いのは、昔の自分が怖いだけだ。これで家が怖いのは当たり前なのが分かっていない。何も分かっていないだけだ。
昔は、言語分析をして、「言語を作り、改善するべきだ」と言っていた。
昔は、そういうことを言っている。そういう文章だった。
昔は、支配したかっただけだ。自由とは言うが、いつも、支配のことを考えていた。
自由が好きだった。支配が一番嫌いだった。
だが、いつも支配したいだけをやっている。相手の視点を知って、環境の変化を考えて、感情と場を想定して、自分によってその人が受け取る印象や主観的、客観的現象を想定し、仮定して、相手のことを導いて、「自由に支配」する。そういう人間だった。
決定と可能性から、「なる」ことを考えて、「論理的に、都合よく、自分の思うままに、正しいことを正しくして、間違ったことを間違ったことにして、思うままに支配する」と言う発想があった。それこそ、「何でも正しいことに出来る」人間だった。
そういう、ペテンみたいな人間だったが、場を想定し、支配することで、宇宙の道理と真理のようなものが分かっていた。導き、経験を支配し、思考を辿ることで、「人間がその場所に立って、その場所を作って、宇宙における自分の存在理由や社会の立ち位置を知る」と言う人間だった。心と環境の支配から、宇宙の真実と真理の意識を知った。
そういうものを、意識を自在に変える、と言う。要は、意識によって皆を支配したかった。
あとは、立場を吸収しながら、影響力の高みに立って、段階的に世界を変える方法を知った。そういう、「世界を変える段階」のようなものを書いていた。何でも出来るようになって、この世界の全ての人間にアドバイス出来るような、王のような人間だった。
この文章は、宇宙のことが全部書いてある、ダビデ像のような美しい芸術作品の、聖典だ。
そろそろ何も無い。もう終わりだ。あとは、コミュニケーションを体験することで、あまりに楽しいことを経験しすぎただけで、しなくても楽になった。最近あまり交流や会話のようなものを他人としていないが、それは昔沢山の交流をネットでしていたからだ。
あとは、場の潜在性、普遍性、関係性、変化、発展、経緯、そして適応や発見があった。
昔は、精神的、環境的に色んなものになって、全てのものに「なる」ことで分かっていた。
ネットで世界を変えるのを、全部実験していた。ネットの実験で社会の変化を知った。
論理的に自由に考えることで、社会をどういう社会にするべきか、を分かっていた。
人生と社会の関係から、皆が何を考えていて、そこから何をどうするべきか、考えていた。
社会のことと世界観を考えて、それがどういうことなのかを良く考えて、積み重ねて、良く考えて、成り立ちを知って、世界の構造を分かっていた。
ネットで吸収した人生の知恵と工夫を、モデルにして、自分の経験から分かっていた。
皆が何を考えているのかから、自分のするべきこと、出来ること、社会の役割、社会をどうするべきか、そのために自分は何を出来るか、正しい社会は何か、などを考えた。
そういう、社会を考える知性があった。何がどうなるのかを考えて、発想した。
今日は、もう寝る時間だから、寝る。明日は、英会話教室がある。
世界を見て、自分の中から出て来る、1つ1つの世界観的な命題を、小さなところから照らし合わせて、それがどういうことなのか考えて、積み重ねる。そういう、「把握と積み重ねから世界観が生まれる」と言う発想が多かった。いつも、そういうことを言っていた。
あとは、これで体験を考えれば分かる。
体験から、想像力と根源的な真実の感情が生まれる。
いつも、そういう、「何が何からもたらされるか」のような文章を書いていた。
愛から自由な社会が生まれると言う。経験から人生の本質が分かると言っていた。
それで、宇宙のシステムと秩序を創造していた。宇宙を創造した戦争だった。
あとは、認識の真理のようなことを言っていた。マスターに近づいた人間が、どのような認識を持って行くか、どんな認識から、必然的にどんな認識になるか。認識とは、そういうもののことを言っていた。認識的な発見や環境構築のようなことを言っていた。
あとは、全員を包括する認識論や、個別の環境論のような認識を書いていた。
それから、認識によって対象をどのように構築することが出来るか、のようなことを言っていた。社会や人間やもの作りや歴史など、人間が認識によって何を捉え、何を想定し、何を実現し、何を変えられるのか。まさに、そういうことを言っている。
そして、プラットフォームのように、相互作用とモデルを見出して、この世界を捉えること、説明すること、表現すること、比喩することで分かっていた。
そういう認識論が多かった。あとは、人間や社会の認識的な関係を考えていた。
どの認識は、どの社会から生まれるか、必然的に、誰が何を考えるか、などを言っていた。
環境の個別性と具体性や、環境の現象学、環境の支配を考えることで、ヘーゲルのように、環境を精神だと思っていた。世界精神とは、環境への適応である。
あとは、そういう風に認識を考えることで、「あらゆるものの認識的な起源」を考えやすくなった。認識的な起源と生成条件をいつも考えていた。
そろそろ何も無い。もっと、色んな知識の起源のようなことを考えれば良い。
自由な正しさと、帰納的推論のような正しい考え方から、知性が生まれる。
環境と方法から、あらゆる世界と社会を全員で作り出し、変えられる。
共有と知性から、人は本当に楽しいことをしながら、この世界を導くことが出来る。
社会を作り出すのは、全て経験によってである。
いつも、そういう風に、何が何をもたらすか、知の起源、のようなものを考えていた。
意図、構造、行動、知を把握することで、自由になる。
いつも、そういうことを言っていた。書いて自由になる。そういう文章だった。
自分は、平等と言わないのがおかしい。自由と言うが、平等が好きだっただけだ。
自由も、平等も、「解放」と言う意味で同じだ。
自由と思ったのは、単に、「社会のことをゼロから考えるのに、自由と言う発想が良く見えた」だけだ。そういうわけで、平等の方が良い。平等の方が正しい。
それこそ、全員を信頼して、全員に教え、導き、全員に参加してもらう国を作ることは、平等だ。平等な国家であり、学校だ。平等は、皆の自由であり、皆で作ることだ。
そういう、平等な自由が、昔から多かった。
今日は、眠れない。何故か、明日英会話教室だから、寝ないと悪いのに、眠れない。
既存の科学や知識の方が、自分の考えよりも、正しいことは多い。
自分の考えを信じるのは良いが、基本の科学や客観的な結果や法則や考え方は、自分の経験や主観より正しいと思うべきだ。だが、自分の力で答えを探し出して、導くことは悪くない。それは、科学の正しさと一致する。理性批判も同じだ。
自分の答えより、他人の言うことの方が、正しいことはある。何でも、自分の方が正しいと思うのではなく、他人の言っていることも正しく参考にすること。他人が正しいと言うからには、経験的な理由がある。だが、他人も自分と同じであると考えること。
理性は平等である。それは、間違っていない。環境や条件があっても、基礎にある理性は同じものである。基本的に何も変わらない。ただ、記憶や経験などの環境的条件が違う。
他人の正しいと思ったことを、自分の正しいに吸収する。そこでは、主観と客観の違いは無く、主観的な認識の想起から、客観的な事実との関係が分かる。
主観はそのまま客観になる。そういう風に考えていると、カントやヘーゲルが出来る。
そういうわけで、考え方を知りたいなら、カントを知った方が良い。「理性批判」だと思えば、本当に何でも分かる。ヒュームなんかしなくて良い。カントが一番正しい。
昔なんか、他に何もしていない。カントのように考えて、ブッダの真理が分かっただけだ。
あとは、自由は悪くない。自由に経験出来ることによって、真実の根拠を知ることが出来る。自由にすると、「その根拠が、何故その根拠として、正しいのか」が分かる。昔は、そういう風に、根拠を全部吸収して、それが正しい理由を知って分かっただけだ。