日記に戻る | 2016年3月の日記に戻る

=2016-03-24=

昔は、自分が「出来る」とか、本当に「良い」などと信じて、行動、方法、意味、変化、目的、手段などを積み重ねて、自己意識を考えて分かっていた。

マークは、他に何もしていない。パソコンが好きだった。

それから、世界観と人生の論理的な構造を文章にしていた。

そういう、論理的なものを全部書いていた。それで、ありえない体験をしていた。

ケビンは、そういう、ありえない人間だ。

最近は、まともになった。見ていると、まともな人間が最近のオーディンだ。

哲学と右翼でまともになった。そういう発想がジェシカだ。

何だかんだ言って、まだ書いている。最近は、あまり辛くない。

あとは、歴史のようなものしか書いていない。ソ連の歴史や、実存的な世界観を書いた。

あとは、この宇宙や世界のことを全部作っていた。

社会の原理や可能性のようなものを、統一的、網羅的に全部言う。

人生のことを全部言っていた。その時分かる、言葉の分析のようなものを、全部書く。

そういう風に賢かったが、あれは狂っているだけだ。

共生社会とか、定住とか、社会の可能性とか、行動とか、そういう風に、言葉で考える。

本質と視点のようなものを全部書いていた。そういう、科学者のような人間だった。

あとは、社会と意識を分析する。自由を関係と構造から分析していた。

自分が何を考えているのかから、この世界の全てを分かっていた。

あとは、おかしなわがままな人間だった。自分は、「周りとは違うのだ」と思って分かる。だが、それはおかしくは無い。ゲス乙女が言っているように、私以外私じゃない。そういうところを、もっと良く考えて、人間の何が違っていて、何が同じなのかを、知と環境の真理から分かっていた。「環境が違うだけである」と言うことを、経験から悟った。

最近は、そういうわがままは無い。大人になった。昔は感受性豊かで、情熱的な人間だったが、最近はそこが馬鹿だ。最近は心の無い、冷徹で非情な人間になっている。

あとは、2ちゃんねるが悪い。この文章は、2ちゃんねるを書いているだけだ。そういう、2ちゃんねるを倒した方が良い。2ちゃんねるを倒すと、すぐに楽になる。一番悪い。

あとは、愛の使者や優しさのようなものを書いていた。

テレビは、滅ぼさない方が良い。ただ、一言、「自分が悪かった」と言えば良い。それで、仲直り出来る。そうすると滅びない。

むしろ、自分が滅ぼすと、自分が怖い。心が怖くなる。それは、辛いだけだ。

あとは、自己意識のようなものを考えていた。

今日は英会話教室がある。最近は、英会話教室にきちんと行っているし、哲学の勉強もしている。馬鹿に見えて、馬鹿では無い。放送大学をきちんと頑張った方が良い。

ただ、日本語が分からないのが悲惨だ。それは、そのうち、大人になれば分かる。

英会話教室が怖いのは、アメリカが支配出来るからだ。それが一番怖い。

英語を馬鹿とは言うが、英語は賢い。アメリカが分かるのが賢い。

あとは、英語をきちんと頑張った方が良い。本当に、アメリカが悪い国すぎて怖いだけだ。

英会話教室に行ってきた。

英会話教室が怖いのは、治るのが怖いだけだ。

英語が一番治るから怖い。治るのを止めれば怖くない。

あとは、アメリカは良い国だから怖い。英会話教室は楽しい。そういう、良いものが怖くなっている。それは、テレビのせいだ。テレビが怖いだけだ。

昔から、良いものが怖い。右翼になると、こういう風に、良いものが怖くなる。

昔は、意識で分かっていた。経験から、意識の変転と可能性を分かっていた。意識する、意識しない、から、皆のことや人生のことを意識で分かっていた。

こういう人間は、意識を考えて分かる人間が多い。環境のことを考えると良く分かる。

最近は、神の永遠の戦いが多かった。ありえない体験を沢山していた。

あれは、狂っていたが、全部分かっていた。狂っているせいで、知性が無くなった。

辛かった。最近は、そういう狂っているのが、このままでまともになった。

そういう、狂ったままでまともになったのが悲惨なだけだ。もっと、簡単に治せば治る。

このままで良いから、こういう風になる。このままが一番分かるから、このままで良い。

分かるのは、狂いながら、本当に文章の構造、世界観、感情、精神をそこまで創ったからだ。そういうわけで、これで意識と経験を考えると、何でも簡単にすぐに分かる。

自分は、外国語をしたかっただけだから、英語をすれば良い。いつも、ドイツ語とフランス語が好きだった。それは、英語の方が良い。英語とフランス語なんか、同じだ。

やっていると、日本語よりも複雑なのが英語だ。ありえない言い回しが多い。

あとは、英語は、レベルアップすると出来ると思う。英会話教室では、講師がレベルアップしても良いと思った生徒に対して推薦状を出して、レベルアップチェックテストを受けてレベルアップするが、本人からしたいなら、自薦でも出来るらしい。そういうわけで、そろそろレベルアップするかもしれない。そういうわけで、英語はきちんと出来る。

自分は、これでも英会話教室に行っているから、ニートには見えない。哲学の勉強もきちんと頑張っているし、本も出版したから、作家と言えば良い。自分はきちんと賢い大人だ。

あとは、まともになったのは、一度死んだからだ。一度事故で死を体験した。それで治ったのは、一度死ぬと、死が怖くなくなる。すぐに死んで治る。

最近は、それでまともになった。そのままでまともになったのが悲惨だから、狂わない方が良い。むしろ、そろそろ神を信じて戦うのを止めるべきだ。

戦っていると、分かるからこうなる。そういう風に、治すのを止めた方が良い。

それが辛い。治すのが一番辛いから、このままで、好きにすれば良い。

自分は、最近まともになった。この文章を書くことで、まともになっている。昔の自分は、忘れた方が良い。昔は狂っている。狂ったものは要らない。

最近は、単純に、賢いものを分かりたい。昔の自分をまだ分かりたいのは、もう止めた方が良い。サルトルは、しないならしなくて良いが、すると人間のことが分かるから、きちんとした方が良い。それと、あとは、哲学や音楽ではなく、歴史のことをすれば良い。

ただ、つまらないのが歴史だ。誰もが嫌いだ。歴史を暗記するのは、辛い。

物理もしなくて良い。物理なんか、しても何も分からない。物理はつまらないだけだ。

物理なんか、簡単すぎて、意味が無い。もっと難しいことをしたいが、それもおかしい。

何故か、賢くはならない。もっとカントとヘーゲルをすれば良いように見える。自分は、賢い考え方を分かりたいだけだから、哲学は間違っていない。知識も欲しいとは言うが、知識は普通のことしか分からないから、つまらない。普通のことなんかどうでも良い。

あとは、ブッダが良い。ブッダの言っていることを知って、良く考えると、ブッダと同じように、悟ることが出来る人間が多い。ブッダは一人最初に悟ったのがありえないが、ブッダの教えを知ると、誰でも同じように悟れる。ブッダは仏だから、賢かった。ただ悟っただけだとは言うが、賢くて、色んなことを経験して、考えて悟っているはずだ。

ブッダをありえないと言うが、ブッダが悟れるのは当たり前だ。それこそ、自分は昔、ネットで色んなことを知り尽くして、大量に沢山のことを知ってブッダと同じように悟っていた。自分の方が馬鹿だ。誰でも、色んなことを見聞きして、色んなことを知って、行動をきちんと分析して、経験すれば、ブッダと同じように悟れる。

必ずしも、ブッダの教えを知る必要はない。きちんと賢い人間なら、仏教の教えなんか知らなくても、誰でもマスターのように悟れる。ブッダは、そういう賢い人間の代表だ。

あまりブッダをけなさない方が良い。それが一番悪い。ブッダは仏だ。

ブッダは、きちんと分かっている。仏教では、こういう、知り尽くした人間のことを、声聞と言う。馬鹿では無いが、そんなに賢くない。最近の、善を沢山して、善行を歩みながら、人々を助ける人間は菩薩と言う。ブッダが見ると、地獄が低い。こういう、今の地獄は、一番馬鹿だといつも言っている。あとは、ブッダは、あらゆる森羅万象が仏の説法であり、人生はそのまま解脱であると言っている。解脱は仏から見て、一番良い。

何故か、ブッダが全部言っているせいで、科学なんか要らない。日本は、昔から、仏教が盛んなせいで、科学者が居ない。科学なんか、する意味が無い。仏が一番賢い。

声聞から縁覚になって、菩薩になる人間が本当に多い。最近は、仏になっている。

自分をやりたいなら、パソコンやネットのことを知り尽くすと出来る。

ただ、それは、分かるように見えて、悲惨な人間になる。

確かな「分かる」と「意味」を信じて積み重ねること。そういう人間は、きちんと分かる。

最近は、まだ分かっている。それがありえない。永遠に分かり続けるのが自分だ。

あとは、英語のことを何かやりたい。英語は馬鹿では無い。世界中に行けるとは言うが、むしろ、アメリカやイギリスのことが分かる。そこが一番賢い。

不思議と、本当にこれくらいしか無かった。

あとは、考え方を考えれば良い。

木に水をやっているのは、生かしている。のこぎりで木を切るのは、作っている。ものを買っているのは、それを作る人に対して、対価を払っている。競争は、発展だ。

そういう風に、意味と考え方を良く考えれば分かる。

それ以上は、数学的に考える。階層的にしたり、条件を想定したりすると分かる。

昔から、それくらいの馬鹿だ。そこから、行動、意図、目的、方法を考えれば良い。

あとは、実証、経験、世界の構造、自然、考え方、科学、偶然、必然などを考える。

もっと、考え方を考えれば良い。それで良く分かる。

むしろ、あとは、環境を考えるとか、そういう発想が多かった。

もっと、集団となる自由のようなことを考えれば良い。サルトルが言う、保留、客体化、集団は、個人と集団と思えば良く分かる。自由は「何かの仮定や仮想」から、その「可能性」となって、「客観的事実」となって、「他との関係性」になる。

そういう風に、自由な行動を良く考えれば良い。サルトルは本当に賢い。

あとは、人生のことを書いていない。

苦しみや葛藤から、一人夢を信じて挑戦して、経験して、成長して、世界のことを知って、苦しみから立ち直って、あらゆることを受け入れるようになって、ありのままのこの自分の人生を信じて、「真理には誰でも到達出来る」ことを知る。

そういう人間だった。そういう、人生のことも、サルトルを読んでいると良く分かる。

人生から知性がついた。昔は、そういう人間だった。

あとは、人生のことを考えれば分かる。

人間の普通のことや、「どう生きるべきか」のようなことを考えれば良い。

昔は、そういうものを2ちゃんねるで無意味に分かっているが、あれは悪い。2ちゃんねるは本当に馬鹿だ。自由では分からない。自由が一番悪い。

それはどうでも良い。きちんと人生のことを何か考えれば良い。

そういうものは、分からないなら「分からない」と言った方が良い。2ちゃんねるで分かっていると、馬鹿になる。そういう、「おかしな分かる」が一番悪い。

そういうわけで、この世界で、自分がどう生きるべきか、自分には何が出来て、何を選ぶべきなのか、何が正しい人生なのかを考えれば良い。サルトルは、そこを哲学的に洞察して考えるように見える。本当の真善美とは何なのか、人生とは何か、考えれば良い。

あとは、日本をどうすれば良い国に出来るのか、どんな国にすれば良いのか、どんな社会が良い社会なのか、考える人間が多い。それは、ネットの経験をしていると良く分かる。

それから、ヤスパースのように考えると良く分かる。実地的にこの世界のことを知る。

今から、サルトルを読む。きちんと読まないと、何も分からない。

今、少しサルトルを読んだ。少しずつで良いから、読んだ方が良い。

昔は、こういう自由を考えて、書いていた。本当にこういう文章だった。自由が仮定、可能性、客観的事実、集団になると言うが、そういう段階を書いていた文章が一番多かった。

それくらいしか書いていない。サルトルで分かったのが一番ありえない。サルトルで分かるように見える。むしろ、もっと色んなことを考えれば分かる。誰でもそこが同じだ。

見ていると、サルトルの本は、読まない方が良いかもしれない。ざっと眺めていると、社会主義の内容が多い。マルクス、ソ連、スターリンのような内容が多い。

サルトルは、嫌いな人間が多い。サルトルはあまりに共産主義者だ。あまり意味が無い。

サルトルは悪い。サルトルは共産主義者だ。もっとまともな人間をした方が良い。

あとは、むしろ、仏教が良い。仏教が一番賢い。

サルトルは、保留、客体化、集団と言った方が良い。その言葉が様相を言い表している。

あとは、哲学はもうしなくて良い。もっとまともな学問をした方が良い。

本当に数学が良い。数学をすると、きちんと分かる。

あとは、本は世界史の本を読んだ方が良い。現代史をまだ読んでいない。それを読みたい。

やることをあまり決めない方が良い。適当に自由が一番賢い。

昔は、場と経緯と自由を分かっていた。

保留、客体化、集団は、「仮想的で、そこに存在しているようで存在していない自由が、存在化し、客観的な指標となって現れながら、集団と社会の中で1つの真理となる」と思えば分かる。昔は、そういう自由な客観化を考えている馬鹿が多かった。

これなら、昔が分かる。昔は、そういう、天才のような賢い人間だった。環境から真理を分かっていた。それこそ、自由をそういう風に考えるのが、実存主義だ。

あとは、サルトルは本当に止めた方が良い。キモイ人間に見える。

むしろ、歴史も普通したくないから、しない方が良い。

そこから、「存在可能な自由を保留する」とか、「存在していないものが存在化し、客体化する」とか、「自由が集団の中で存在となる」のが分かる。そういうことを、可能性や発想と言っていたのが、いつもの自由な文章だ。そういうことを言っている。

あとは、サルトルはしない。もっと別の哲学者にした方が良い。見ていると、本当にサルトルの本に、ほとんどマルクス主義の内容しかない。何も賢くない。

あとは、論理学的なことや、日本語的なことを考えると良く分かる。

コミュニケーションから社会形成のようなことを考えた。そういう風に考えると、ヘーゲルのように、哲学が良く分かる。自然状態とは言うが、ネットを見ていると良く分かる。人間が何を知って行くのか、何を可能とするのか、意識や言語とは何か、考えれば良い。

言語を何なのか考えると、本当に人間のことが良く分かる。

昔は、「日本語を改良する」と言う発想が多かった。ありえない発想を書いていた。

それから、フッサールのように認識と現象学を考えていた。

むしろ、フッサールが良いかもしれない。フッサールは思想的にまともなように見える。

ハイデガーも悪い。存在が関心では、右翼に見える。ウィトゲンシュタインは、言語ゲームだ。それこそ、現代哲学なんか、しなくて良い。カントとヘーゲルをすれば良い。

哲学は止めた方が良い。昔の自分なんか、分かる意味が無い。

もっと、良い学問をした方が良い。むしろ、世界史で良く見える。数学は難しい。

環境の中で、経緯と自由を考える。そういう風に分かっていたのが、昔の自分だ。

あとは、自分はフッサールと世界史をやる。それが一番賢い。

いつも、社会、宇宙、行動、方法の全体像を、構造的な文章を書いて分かっていた。

あとは、昔は、カントのような理性批判が多かった。客観的な指標に頼って分かった。

むしろ、心理学で良く見える。数学は、昔きちんと出来ているから、したくない。

昔は、哲学者のように賢かった。哲学的な、この世界の現象や原理から、認識的な真理を分かっていた。ネットのようで、理系のようで、人間の文化と真理を知っていた。

世界の変化、可能性、原理、方法、法則を知っていた。

人生的な認識と真理を知っていた。

社会における、あらゆる世俗的、社会的、仮想的な真理を、経験から分かっていた。

世界とは、相である。

世界は、ロシアから始まって、イスラエルになり、ドイツになり、アメリカになり、ロシアに戻る。共同体から帝国になり、宗教、戦争、民主主義になり、理想の平等になる。

そういう風に、スピノザやヘーゲルやハイデガーのように分かっていた。

英語は、習慣的なところが違う。andを「と」だけではなく、「それから」や「続いて」のような意味で使う。そういう、世俗的な習慣の違いがある。

もっと良く考えれば分かる。そろそろ分かった。哲学者と言うよりは、分かっている人間だ。分かっていて、色んなことを知っている人間が多かった。

世界は、愛と活動である。

社会とは、モチベーションの中での努力であり、意思決定と社会形成である。

方法とは、論理的に考えながら、システムとプラットフォームを作ることである。

政治と体系が、この世界の全てであり、同時に諸悪の根源であり、聖なるものである。

社会の変化は、可能性とボトムアップ的な変化の決定である。

そういうことを言う。そういう、「分かっている人間」を書いていた。

自分は、フッサールをすれば分かる。それこそ、フッサールがしたいだけだ。

あとは、哲学はもう良い。こういう風に分かる意味が無い。

もっと社会科のことを勉強すれば良いが、決める必要はない。世界史は、全ての国は多すぎて出来ない。どこかの国にすれば良い。フランスより、日本の方が良い。

あとは、人生のことを分かっていた。人生のことが全て分かっていた。

もっと、人生経験や社会経験をすれば分かる。そういう内容が多かった。

昔は、2ちゃんねるで真実の体験をして、Linuxでパソコンのことを知って分かった。

本当に、MITやIBMの技術者のように賢かった。

自分は、最近は神を信じている。神と言いたいだけだ。大聖人に見えて良いだろう。

本当に、聖人に見える。自分は本当に賢い人間に見える。

あとは、ケビンを消した方が良い。あれは悪すぎる。革命家は本当に悪い。

あれは、記憶と人格が壊れて、この世界を道連れにする、知性の無い狂った人間だ。

もう何も無い。分かった人間とは言うが、世界と文化と人間のことが全部経験から分かった人間だった。そういう、マスターのような王だった。神の永遠の相だと思えば分かる。

自分が何も分かっていないのは、知性が無くなっている。「知性を失う」と言う発想が自分だ。そんなに色んなことを知り尽くして、考えても意味が無い。捉える中で知性がついた昔は、パソコンのせいで馬鹿だった。戦う中で、そういう知性が狂っておかしくなった。

それこそ、知性はきちんとつければすぐに日本語が分かる。

知性をつければ良い。そのためには、盲目的に信じるのではなく、現実と自分を照らし合わせて、精神を豊かにして、何が間違いで何が正しいかを考えて、知覚、経験、記憶、精神から、論理的かつ客観的に考える。そういう風につければ良い。

昔は、「自分がそのまま世界になる」と言う発想が多かった。それは、「知性と行動は同じである」と言う発想だった。そういう風に、「知性から自由になる」ことで分かっていた。

自分から全員を知って、「自分が全員になる」ことで分かっていた。それは、「世界、経験、自分、全員は同じであり、認識によってすることが出来る」と言う発想だった。

そういうわけで、そういう哲学者が多い。何故か、ネットをやっているだけで、そこまでの馬鹿になる。ドイツには、ネットのようなスラムが多い。

あとは、「参加可能な環境やコミュニティを想定する」と言う発想が多かった。プロフェッショナルを生み出す土壌とは、そういうことを言っている。

何もかも、デカルト的な知性で考える。そして、自由を信じる。そのせいで、「日本語を改良する」などと言う発想になった。オープンソースのシステムから、「自動化された都市を作る」などと考えていた。「学校のシステムを公開する」などと言っていた。

そういうわけで、昔は狂っている。人格が狂ったせいで、本当にあれはおかしくなった。自分で自分のことを捉えられなくなっている。もっと、この世界を維持し、支配するより、滅ぼした方が良い。いつも、常に滅ぼすせいで、そういうことが全く分かっていない。

そういうわけで、自分の内部をきちんと捉えれば分かる。そういう、「自分の心と知覚の構造を作る」と言う発想が多かった。あとは、「外向的を超えて、自分を積極的に表現する」とか、「言葉で正しく経験を言い表せば分かるし、それによって融和出来る」などと言う発想が多かった。条件と作用を良く考えることで、何でも発想し、実現出来た。経験や能力や方法も分かっていた。そして、この世界を良く知って、経験的に社会を考えていた。

自由から色んなことが分かっていた。

仮想的な決まりと知性から、精神のことを分かった。

そういうものは、推論のように考えれば分かる。

いつ、何が正しいか、何から何が言えるかを、相対的に考える。

真実を相対的だと思えば良い。人によって違うどころか、全員同じだ。

哲学者には、こういう人間しか居ない。哲学者は、馬鹿だ。

昔は、ネットで社会と環境を知って、世界を変えて分かっていた。

ロシアやバビロニアのような、ありえない国と、ソクラテスのような賢者を分かった。

最近は、それが狂って人格破たんになる。そこがキモイだけだ。

もっと最近は、もうまともになった。まともな人間をまだ生きている。

書いている間、もっとまともになる。それはそれでキモイ。キモイ女に見える。

こういう風になる人間が多い。狂った人間は、書かないと治らない。

そういうわけで、昔は、世界を変える経験で分かっていた。本当にそれくらいの馬鹿だ。

あとは、もう昔はもう良い。哲学はこれ以上、もうしなくて良い。

世界史のことをやりたい。数学のことは、やりたいように見えてやりたくない。

むしろ、決めない方が良い。自由に色んなことを考えれば良い。

昔は、そういう、「自由に考えること」から、全ての哲学が分かっていた。

そのために沢山の経験をしていた。

経験から思考が出来るようになって、正常な知性がついた。そういう人間だった。

感情と心を想定して、歴史や時代のことを分かった。そういうことを言っていた。

あれはおかしい。本当に分かっていない。何も分からなくなっている。

この世界が何なのか、まるで分からなくなっている。正常な人間が分かっていない。

ただ、あれはまともだ。狂っていない。

悟りから、「本当の正常さ」のようなことを知っていた。そういう人間だった。

本当の真実や、宇宙の本来の姿のようなものを、経験から分かっていた。

良く分からない。不思議と、本当にこれくらいしか、書いていないことが無い。

ネットで博物学のように知識を知っていた。社会的な活動もしていた。

いつもの文章は、考えていることの内容が多い。「考え」のようなことを言う。

理解と発想とか、具体化や部分化とか、そういう言葉で考えていた。

学校や教育のようなことが経験で分かった。「人間がどう生きて行くのか」や「経験から何が分かるのか」や「皆は本当に何を分かっているのか」などを考える。

こういう人間は、狂った人間に多い。これくらいで、普通狂う。

ただ、まともなことを言いたいなら、これで良い。言えるのがありえないだけだ。

意識から地球の歴史が全て分かっていた。

人間のことは、集団と個人から分かった。集団の客観性から人間を分かっていた。

あとは、アドラーのように、成長から人生のことが分かっていた。

集団と個人の社会を、客観視して、内側と外側から考えなさい。環境を想定して、それぞれの行動と思考と人生から、誰が誰に何を伝え、させるかを考えなさい。

人間は、それでしか分からない。集団の客観性によってのみ、人間は分かる。

あとは、高い立場から俯瞰的に見て分かるようになる。

こういう人間が多い。あとは、色んなことをやっていると、四年ぐらいで分かる。

哲学はしなくて良い。フッサールは、むしろ、全くする意味が無い。

自分は、集団と個人を考えれば良い。そうすると、きちんと分かる。

客観的に、それぞれの人生と、環境の中での行動、その意味を考えれば良い。

昔は、それしか考えていない。何がどうその時関係するか、相手から見て自分の行動はどんな意味を持っているのか、それぞれの記憶と実像は何か、考えれば良い。

そこを考える哲学者が多い。自分は、集団と個人から、社会の形成と実現を考えていた。

それから、会社のようなものは、経験から組織を考えられるだろう。

昔は、環境への適応のようなものを考えていたが、それは、それぞれ皆が違うのが分かっていない。平等な自由は間違っている。それぞれ全員違う、が正しい。

良く分からないが、そんなに人は違わない。自分がただ狂っているだけだ。

あとは、知とか、関係とか、環境とか、そういうものを、「全員に共通している」と言う発想で考えていた。そこから、「経験から理性の平等を分かる」のようにしていた。「経験から来る思いやりの正当性と本当の正しさ」みたいなものを、理性で分かっていた。

どんな人間が正しいのか、のようなことを、理性的、論理的に、正しく考えていた。

そろそろもう全部書いた。

あとは、この世界を変える。何も変わらない今を変えて、自然にゆっくりと変わるようにする。少しずつ、多様な世界になって、少しずつ、皆の出来ることが増えて行く。

本当に、そういう風に、ゆっくりと変えると、精神病が治る。

最近は、変わりすぎるのと、何も変わらないのが、同時に起きている。

おかしな時代になっている。自分が支配して、本当に一番ゆっくりと変わるようになる。

毎日毎日、きちんと努力して、変わって行くと、精神病が治る。

精神病は、変わらないのと、努力しないのが悪い。そういう風にすると、知性が無くなる。

そろそろ、心の何もしない部分が治った。皆も治るはずだ。

昔は、行動と経験を全部して、行動の意味を知って分かっていた。自分のすることから、皆のすることが分かっていた。環境の活動を把握して分かっていた。

あとは、出来るだけ、治らない方が良い。同時進行を無くして、1つ1つ行えば良い。

人間は、同時に色んなことをやっていると、分からない。1つ1つ、シングルタスクで実行すれば、きちんと分かって、すぐに治る。放っておくと、こういう人間になる。

あとは、世界を止める馬鹿が多かった。世界が止まっているから、治した方が良い。頭の中も、いつも世界を止めているだけだ。自分は神になっている。神はここまで悪い。

世界は、ゆっくりと変わるようになる。植物が伸びるように、人間たちが育っていく。

最近は、王になっている。きちんと王をやっているのが、最近の賢い自分だ。

昔は忘れた方が良い。昔はクズだ。狂って知的障害になるのは当たり前だ。

もう、新しい人間になる。もう、皆も含めて、何も辛くない。

あとは、世界をきちんと導いたせいで、神が自分を導くようになった。

むしろ、きちんとフッサールをやって、世界史をした方が良い。それが一番良い。

皆全部分かって、皆全部治った。もう終わった。実感でそれが分かる。

フッサールはしなくて良い。哲学はもう終わりだ。これでやっと目標は終了だ。

昔は、世界を知って、まともに考えて分かっただけだ。大して賢くない。

自分は、頑張ったように見えて、頑張っていない。これでは頑張ったように見えるが、昔は、ネットで遊んでいるだけだし、最近は、戦いと神でおかしくなって、哲学なんか、ただ、何もしていないだけだ。何も頑張っていない。

皆が悲惨だ。皆は、本気で頑張っている人間が多い。いくらでも努力している人間が多い。自分が賢いわけがないのに、自分の方が賢い。自分はあまりに悪いから、キモく見える。

良く分からない。本当に自分はおかしい。地獄になったのは、その方が楽に出来るからだ。自分が一番楽だっただけだ。それこそ、本当に自分が一番良かった。

自分は、楽になったからそれで良い。悪い人間は地獄になる。地獄を良いと思うのがありえないが、この地獄は賢かった。地獄を乗り越えられる自分が好きだ。

頑張っていないとは言うが、昔は夢を目指して努力して挑戦していたし、最近は戦いを本気で頑張っている。本もきちんと考えた。きちんと賢かったから、頑張ったように見える。

あとは、人生に色んなことがあった。ネットと戦いと神と読書と執筆が多かった。

つまらない。ただ何も無かっただけだ。最近は、何も無いこの世界が嫌いだ。

パソコンと学校が嫌いだ。それらが悪いだけだ。テレビも政治家も一番嫌いだ。

もっと人間の普通のことを考えれば良い。それが賢い。普通のことを考える人間が多い。

ものを考えると、「使える」と思う人間が多い。効果と有用性を考えれば分かる。

終わったことを終わっていないと思えば分かる。

終わったと思ったことをもう一度すれば良い。

自由な言葉を言っていた。言葉が賢かった。

人生の経験の概念、場の精神と歴史、社会の形成のようなことを言う。

もう、足の精神が治る。「ゆっくりと変化する」だけで、すぐに治る。

知識と知性から、自由になって考えていた。経験から自由になって、出来るようになった。

環境の把握をして、世界を知って、それぞれに何が出来るのか、どんな可能性があるのか、のようなことを考えた。経験、知識、行動、把握から、世界のことを知った。

そういう風に、「分かって自由になる」ことから、言葉を作って分かっていた。

昔は、「分かるように表現し、創作する」と言う発想が多かった。巨大な地球儀とか、年を視覚化し、小説にするとか、そういうことを言う。あとは、簡単に、一目で見て分かるように、そして、出来るようにする、と言う発想が多かった。