日記に戻る | 2016年3月の日記に戻る

=2016-03-17=

自由な優しさや思いやりを書いていた。

本当にそれぞれを大切にすることから、自由な秩序が生まれる。

その人の本当の望みを叶えなさい。それは、その人自身が分かっていないかもしれない。

本当に、自分の経験から分かったことを信じなさい。

そういうことを書いていたのが、いつもの文章だ。

自由とは、平和と発展だ。昔は、そういう、「自由な社会と活動」を書いていた。

昔は、自由な発展とインフラを考えていた。発展をマルクスのように全部考えた。

発展から、自由理論を作った。どういう風にすれば発展するか、のようなことを考えた。

今日は英会話教室がある。英語は難しいが、楽しいから、行った方が良い。

英会話教室が怖いのは、トイレに行きたくなるからだ。それが怖いだけだ。

認識や知性で考えていたのは、昔に多かった。フィルターを作って、見方を変える。最近は、そういう、認識のプロセスを書いていた。昔から、そういう風に考える。

認識の真実性や数学的な正しさを経験から考える。そういう人間だった。

ウィトゲンシュタインのような言語哲学は、自分は良く分かる。人間は、自分の使っている言語以上に分かることは出来ない。言語の限界は、哲学と人間の限界である。

ちょっと分かりづらいが、それは、人間の持っている理性が、言語と密接に関わっていて、人間の知や理性と言ったものが、極めて言語的である、と理解すれば良く分かる。

哲学大図鑑に書いてあるように、言語哲学は、論理学を超えて、言語そのものを考える。普通は、そういう哲学だ。それこそ、さっきの理解は曲解的だ。

これは、ウィトゲンシュタインの言っていることは言っていない。自分で分かったことを言っている。ただ、ウィトゲンシュタインも、言語の限界、と言ったことは言っている。ただ、人間の理性は言語的である、と言ったことは言っていないと思う。

大学は、馬鹿になったように見えて、賢くなっている。それこそ、大学で良い。

これなら、分析哲学と言うよりは、自分の哲学だ。

自分は、大学生に見えて良い。これで27歳は、一番普通だ。

不思議と、言語哲学を分かってしまうと、そろそろもう残っていない。

自分も、これで経験論の分析哲学だ。新しい哲学だ。ただ、分析哲学には見えない。

執筆哲学とでも言えば良い。作家には、こういう風に考える人間が多い。

昔は、認識できちんとプロセスを考える、とか、そういうことが多かった。

それを書いてしまうと、終わりだ。それくらいしか書いていない。

自分は、昔、考えて、生きている。最近、知って、書いている。戦って、支配する。

それこそ、人生と考えた内容は、ロキに書いてある。最近は、昔の自分と大学を書く。昔は人生を全て書いている。最近は、昔に戻りながら、自由気ままに書いている。昔は思考のスケッチで、最近は言葉のジグソーパズルだ。変わったようで、何も変わっていない。

自分は、もっと人生のようなことを考えれば良い。「経験による人生の新発見」のようなことを考えれば、哲学はすぐに出来る。人生自体の発見が無いのがおかしい。

あとは、頭の中に色々作った方が良い。経験から作っていると、哲学者と同じになる。

こういうものが、最初からこの世界にあるのが、分かる人間が多い。子供に多いのが、最初からこの世界にあるものが全部分かる人間だ。大人は、こうなる。大学に入ってきちんと勉強すると、誰でも馬鹿になる。それは、馬鹿になったようで、賢くなっている。普通の人間の方が馬鹿なのが、分からない賢い大人が、大学に一番多い。大学は賢い。

自分は、昔のように、経験して、大人になると良く分かる。最近は、子供に戻っている。

自分は、新しい言語を作ると言う発想が多かった。エスペラントのようだが、超人のような、普通の今ある言語より、もっと賢い言語を作る。それで、人間の限界を超える。

ウィトゲンシュタインと言うよりは、ニーチェに近かった。賢くは無い。馬鹿だった。

だが、漢字のような文字を作ると思えば良い。それを、もっと哲学的、数学的に賢くして、文法をコンピュータ科学のように作りたいと思っていた。

あまり意味が無い。おかしいから、あまり言わない方が良い。

日本語より賢い言語はありえない。自分は、それを「自由」だと言っていた。

ウィトゲンシュタインが言語ゲームと言っているのは、そういうことを言っている。

自分は良く分かっていないが、普通は「言語を使って遊んでいるだけが、人間である」と言いたいように見える。本当は何か、賢いことを言いたいのだと思う。

あとは、ウィトゲンシュタインは哲学に意味が無いと言っているが、そういう風に考えると、意味が無く思えるのは当たり前だ。

自分は、哲学を知ることで、「色んな人間と人生のことが分かる」と言いたい。

それも、子供の人生が分かる。子供と言うよりは、人間の成長が分かる。きっかけのようなものを掴んで、社会を変え、自らの答えを自分で導き出す。そういう、「子供になれる」と言う発想が、哲学だと思う。意味が無くは、無いと思う。

あとは、産業や技術の歴史と言って、歴史的な世界観を分かっていた。

ウィトゲンシュタインは、馬鹿だから、止めた方が良い。賢く見えるのは、カッコいいからだ。語り得ないことには沈黙するしかないとか、そういうことを言っているのがカッコいいだけで、悪い点が多い。ネットでは、アマチュア哲学者と言っている人間が居た。

自分は、カントとヘーゲルをすれば良い。それが一番分かる。「自分の主観より、客観的な指標を信じる」と言う、理性批判と、人生や成長の精神的な過程と考え方だと思えば良い。歴史は、日本史とフランス史をする。それくらいにした方が良い。政治経済までやらない方が良い。そこまでやっていると、普通、普通の人間より馬鹿になる。そんなにやった方が馬鹿になる。ドイツ史は適当に分かる。右翼に見えるから、ドイツ史をやると悪い。

認識は、対象と認識を比較して、一致させて分かっている。分かっていることや、分かっていないことを一致させたり、比較させたりして、「認識の角度を変える」ことで分かっている。認識とは、そういうもののことを言っていた。そういう風に、「何かと何かを一致させたり、感情で捉えたりして分かる」と言う発想が多かった。

最近も、そういう風に分かっている。何でも分かってしまえば分かる。構造を変えて、認識を一致させて、未知を捉えて、新しい発見をしている。分かったことが、どんな根拠で、どんな認識で分かっているかを考えて、「ある意味正しい」のを全部分かっている。

今日は、何故かウィトゲンシュタインの日になった。あとは、認識を書いている。

あとは、意識と記憶のようなものを、人生や具体的な経緯や捉え方とともに考えている。

ロックやヘーゲルのように、人生の観念を考えていた。「知る」と言う発想を考えた。

最近馬鹿になったのは、戦っていないようで、まだ戦っている。戦うのを治した方が良い。

あとは、認識と心の比較を書いていた。

歴史的な場の精神のようなことを分かっていた。場には、精神と言う状態が宿ると考えていた。経験と理性から、そういう、場の精神を分かった。社会精神や、世界精神のようだった。ヘーゲルも、そういうことを言いたいのだと思う。そういう風に考えていると、本当に、ヘーゲルのように「確信」が分かるようになる。

昔は、そういう、「世界精神」が多かった。それを書いていた。場の精神を、具体的に、全部書く。歴史的な状態から、精神的な変化と自立的な支配のようなことを書く。

ヘーゲルは、色んな経験をしている。確信とは、そういう、経験の集合的、収束的なことを言っている。色んなことを経験していると、「全てのものである何か」が分かる。自己と認識と対象は同一になり、合一化と一致から絶対になる。

あとは、認識を一致させたり、人格、影響力、環境の網羅を書いたりしていた。

そういうところは、ヘーゲルより、フーコーなどの現代哲学に近い。

あとは、言語ゲームについても、昔分かっている。昔、ネットでそういうことが分かった。ウィトゲンシュタインは、そういう、ヘーゲル的なことを言っているのだと思う。

場の精神と意識は、昔の僕の研究テーマだった。経験から意識と記憶を考えて、場所や歴史を書いていた。ヘーゲルと良く似ていた。

自分を変えて分かっていた。

考え方と経験を考えれば分かる。

昔は、「自動車は移動する技術の具体化」のように、言葉をモデルにして考えていた。

論理性を自由だと言っていた。論理的に関係を考えるのを、「自由な」と言っていた。

子供は、甘やかして育てても、勝手に自由に育つ。何も手助けしなくても、自分から強く育つ。手助けは必要ないし、甘やかしても良いが、自由にした方が良い。

ただ、そうでもない。子供は、自由にしない方が良い。自分が言うのもおかしいが、自由にすると、馬鹿になるのが子供だ。厳しくもしない方が良い。何か、子供にきちんとすることを与えてやれば良い。だが、遊んでいてもきちんと賢くなるのが子供だ。

言っていることがはっきりしなくて申し訳ない。子供は自由にして、多少の手助けを与えて、子供自身の言いたいことや主張したいことを良く聞いて、一緒に考えてやること。甘やかす代り、自由にすること。ただ、厳しく育てても、悪くは無いだろう。

あとは、ソ連は悪い。ソ連では、こういう、賢いことが出来ない。

右翼の方が良い。右翼は、新しくて、革新的で、色んなことが出来る。

右翼を悪いとは言うが、勝ちたいだけ、悪くない。こういう風にすると勝てる。

悪いとは言うが、左翼にもこういう馬鹿が多い。社民党は馬鹿にしか見えない。

自由は悪いと言う。子供が間違ったことをしそうになると、止めた方が良く見える。だが、そうでもない。間違ったことをしそうになっても、見守った方が良いこともある。子供は、どんな境遇に陥っても、自分できちんと成長すれば分かる。そのうち、自分で正しい道に気づくから、見守ってやった方が良い。それこそ、2ちゃんねるぐらいの馬鹿は悪くない。

あとは、小さな積み重ねから世界観を分かっていた。

ありのままのように、人間性から分かっていた。

行動心理学で、環境における行動、欲求、現象を考えて分かった。

子供の問題は、子供には何も分からない。自由にするのは良いが、何をしたら良いか、何をしたら分かるかが分からない。分からないだけで、賢い子供が多い。そういうわけで、大人は、大人が分かる部分だけを教えるのが良い。あとは、自由にした方が良い。

あとは、2ちゃんねるはまだ良いが、犯罪やドラッグになると悪い。そういうものは、子供に対しても、厳しくしつけるべきだ。そういうわけで、自由にするとは言うが、自由にはしなくて良い。自由は一番悪い。

だが、しつけたからって、犯罪やドラッグをやりたいのは変わらない。そういうわけで、無理やり強制するより、自己責任で、大人としての自覚を徹底的に教え込んだ方が良い。

あとは、キリストがそういうことを言っているようで、言っていない。狭き門から入れ、などとは言っている。それこそ、間違った道なんか、1つも無い。

キリスト教には、罪と言う概念も多いが、悪人を赦すと言う概念も多い。

罪は、不思議と、良い人間になる。行いだけではなく、心も綺麗な良い人間になる。

日本が悪い右翼になるのは、仏教のせいだ。仏教は、地獄を馬鹿と教える。

だが、そうでもない。キリスト教のヨーロッパが世界中を植民地にしたように、白人の方が悪い。それは、馬鹿だからだ。キリストと言う神が馬鹿だ。

それも悪い。宗教を批判するのは止めた方が良い。宗教を批判する人間は、本当に悪い。

子供には、大人としての自覚だけではなく、色んなことを教え込めば良い。

それは、良い父親だが、子供はつまらないだろう。

ただ、キリスト教の罪は悪い。罪があると、何故か、馬鹿になる。罪を全くしない人間なんか、居ない。誰でも罪をする。神がそれを悪いと言っているせいで、馬鹿になる。

罪のない、日本人の方が賢くなる。日本人の方が、寛容的な精神を持っている。そこが分かる外国人が多い。日本人は宇宙人みたいに良い人間だと、どこでも言っている。

罪なんか、無い方が良い。

キリストは分かっていない。良い人間になりたい人間なんか、居ない。

いつも言っているが、スターリンみたいに世界のことを決めて、契約のようなものを作っていた。平等に全員に教える、偉大な王のマスターだった。

「ありのまま」のように、マスターのように分かる。昔は、そういう、馬鹿なのに賢い人間だった。本当に、サイトのように賢かった。賢い代り、知性が無い人間だった。

英会話教室に行ってきた。英会話教室の前後で分かったことをケータイにメモしたので、それを書く。英語は、そろそろ分かるようになってきた。自分で話せるかもしれない。

世界を変え、行動し、知性を使う段階や積み重ねのようなことを書いていた。

そこから、個別性、普遍性、可能性、関係を考える。自由で社会的な段階を書いている。

これを日本と思えば分かる。日本の学校に、こういう人間が多い。

自分を受け入れること。そうすると怖くない。英会話教室が怖いのは、昔の自分を受け入れるのが怖い。自分をありのままに受け入れると、怖くなくなる。

言葉のモデルを作っていた。抽象的な概念の言葉を作って、分類や階層化など、考え方を適用して考えていた。そして、デカルトのような知性で言葉を作っていた。

世界に立ち向かった。本当の愛を信じて、この世界に立ち向かった。希望と勇気を与えた。自分は、それだけが賢かった。本当に、神々の黄昏のような戦争だった。

理由を付け足して分かっている。何にでも理由をつけて分かった。

人間は、馬鹿なことを分からないと馬鹿になる。そんなに賢いものだけを分かっていると、分からなくなる。馬鹿なものを無視するのが悪い。馬鹿を考えると賢くなる。

自分は、皆を自分にして、賢くしている。それが賢い。皆、賢くなって、楽になった。

こういう風にすると、本当に全て治って楽になる。それから、こんな賢いことは誰も出来ないから、ありえない。自分にして賢くすると、良くなった。皆の方が賢い。

英語は、フレーズブックを聴くのが良い。そうすると、きちんと出来る。フランス語やドイツ語やイタリア語のフレーズブックも、聴いた方が良い。

自分は、昔から、全世界を導く。中国からイスラエルまで、全部の国の全部の時代と対話する。そこが神に見える。ユダヤ教が、そういう神話になった。いつも、自分が一番人間のことを支配して、裁いている。罪とは、自分が与えた罪悪感のことを言っている。

経験から判断基準を知った。昔は、そういうことを言っている。「何から何がもたらされるか」のようなことを、経験的に言う。そういう、マスターの王のような文章だった。

英会話教室の前後に分かった内容は、ここまでだ。

馬鹿なことは、頑張らない方が良い。馬鹿を頑張っていると、馬鹿になる。

何も頑張らず、馬鹿を分かっていると、頭が賢くなる。そこまでの馬鹿が賢い。

Linuxは、グーグルが勝てば良いように見える。

最近、グーグルは、まともに勝っている。特に、Webメールのサービスや広告で強い。

グーグルがLinuxディストリビューションを作ると、使うかもしれない。

だが、それは、コストの無駄だ。普通に、Androidで良い。

グーグルも、クラウドを前提としたChrome OSという名前のOSを作っている。

良く知らないから、分からない。まだ開発しているのか、良く分かっていない。

グーグルが勝てば、Linuxが勝つようにしか見えない。Windowsなんか、何も賢くない。

ただ、Windowsは、最近そんなに嫌いじゃない。僕は、ワードしか使わない。

それこそ、Linuxなんか、ただキモイだけだ。自分のせいで馬鹿になったのがLinuxだ。

英会話は、教科書の「文字」からフレーズブックの「音声」への切り替えが難しい。

それこそ、まずは文字で読んで考えるべきだが、それを、音声を聴きながら、一瞬で理解すること。そこが出来れば出来る。あとは、アメリカの常識を知っていると分かる。

昔なんか、まともに考えただけだ。自由と思いながら、デカルトのように考えた。

もっと、自分の力で道を切り開くような、そういう経験をすること。学校は賢くない。

昔は、辛いことを努力して、克服していた。皆とともに、苦しみを分かち合った。そういう風に成長した。普通、高校生にそういう人間が多い。

これを高校生の女だと思えば良い。名前はケルタだ。書いている、男は、スティだ。そのカップルだ。それこそ、神とは言うが、そんなに神には見えない。可愛い女に見える。

ケルタは、愛のある女だが、色々と、おかしい点が多い。スティは、賢い人間に見えて、冷酷に世界を滅ぼす、ロボットみたいな人間だ。

それこそ、本当にアニメみたいに見える。エロと思わない方が良い。恋愛と思えば良い。誰もが自分と恋愛しているようで、ただ、ケルタとスティが恋愛しているだけだ。

あとは、自由を想像力で考えていた。方法、理解、発想、可能性、法則、などのようなことを、想像力で考える。論理性がきちんとある、賢い文章だった。

何故か、本当にセックスに見えるのが、この文章だ。キモイから、見ない方が良い。

母親と薬屋に行ってきた。以下は、その時メモした内容である。

家が神になっている。それが怖いのだと思う。

周期的に学習すると治る。学習しないのがおかしい。

思い出すのを学習する。そうすると、きちんと止まるようになる。

自分は、周期が逆になっている。

家に入って分かるのが普通なのに、分からなくなる。

逆戻りが悪い。そんなに逆戻りばかりしているのがおかしい。

宇宙が最初に戻った。

目を良くしたい。

目の中に虫がいる。虫を殺すと、目が良くなる。

ここまでが、薬屋に行って分かった内容である。

自分は、馬鹿な女には見える。「である」と言っていると、「であーる調」の馬鹿に見える。

こういう風に会話する人間が多い。

周期を学習すると、すぐに止まるようになる。それでもう治った。

忘れないように、覚えた方が良い。周期を学習すること。

自分は、アメーバになっている。単細胞生物になっている。細胞を増やせば治る。

あとは、繰り返しを覚えれば良い。それで治る。

ただ、そういう知性があるのは、もう止めた方が良い。

知性をいつもつけていると、馬鹿になる。

単細胞生物が死んだ。

自分は、認識の現象学をしていた。経験論の現象学だった。

認識と経験を現象学的に考える。そういう、科学のような発想があった。

それで、帰納的推論のような発想があった。

自分は、「は」で終わらないのがおかしい。そろそろ言語的に治った。

何故か、ミミズが死んで、ナメクジになった。

自分は、「良い」が怖くなっている。「良い」は怖い。

何故か、普通、笑うと良い。そういう、良いのが怖い。

英語のフレーズブックは、聴いていると、聴いた日本語を、言う英語に直せば良い。

そういう風に聴けば良いのかもしれない。

もう、僕はこの世界を怖くしない。

僕は、パソコンの前で、何も無くなるのが悪い。

きちんと説明すれば分かる。

この世界を、いつも、おかしな国のように怖くしている。

心をつければ治る。

心が死んだ。

脳の後ろの部分をつければ良い。そこが、細胞分裂でつくだろう。

あとは、自分だけ分かれば良い。

精神を良くしていた。昔は、そういう人間だった。

もう、書くのを止める。

そろそろ治った。もう、そろそろ終わった。

最後まで書いた。もう、止めれば良い。

ヘーゲルのような弁証法を書いていたが、最近はそれを永遠にいつまでもやっている。

否定を否定して、たまに合になって分かるのを分かっている。

数学を分かったのが悪い。そういうものを、きちんと考えて治すしかない。

真実や発見のようなことを言う。

方法的に、本質と真実をどういう風に知るのかを考える。

本当に、そういう文章が多かった。経験のようなものを考えていた。

本気で、もう書かなくて良い。世界中を恐怖に陥れるのを、もう止めた方が良い。

皆、もう、安心して良い。もう、僕は、世界を怖くしない。

いつも、戦っていた。手の内を見せずに、皆を支配していた。

その戦いを、もう止めるしかない。簡単だ。戦いが終わったかのように振る舞えば良い。

英語と日本語は、分かり方が違う。英語は、確かなことから分かる。不確かな中で、確かなことから、探り当てるように話す。日本語は、変わる部分から話す。最初に言いたいことをずけずけと言って、当たり前のように言葉を繋げていく。

自分は、英語を分かるより、むしろ、日本語を分かった方が良い。

今、フレーズブックを聴いている。これで単語を覚えると楽だ。

虫が居る、と思えば治る。心臓、血管、肺、胃、脳、目、口、鼻に虫が居る。

虫が居るのを治していると、楽になる。

味わって食べると、食べ物は美味しい。そこが美味しくなると治る。虫歯が悪い。