日記に戻る | 2016年3月の日記に戻る

=2016-03-15=

教育は、子供が自分の手で学校社会を変えられるようにすべきだと思っていた。

会社も、国も、参加して、自然に変えられるべきだと思っていた。

昔は、そういう風に、社会のことを自由だと思っただけだ。

自由な経験から人間のことを分かっていた。経験を条件的に分かった。

数学のようなものを作って、精神を数学的に分かった。

昔なんか、誰でも出来る。

戦いの時代は、神とそこまで会話している。神とは言うが、神は自分だ。

文章には、自由を書いていた。

最近は、勉強している。きちんと哲学を勉強して、賢くなった。

これは、誰でも出来る。本当に、自由だと思うだけで出来る。

昔は、「可能性がある」、「自然に変えられる」、「参加出来る」、「自由に出来るようにする」、「自由に構築出来る」、「自分が出来る」などで分かっていた。

あとは、社会のモデルを作って、可能性を積み重ねて、社会の可能性を分かった。

それだけだ。それぐらいの人間だった。

もう、4人になる。多重人格と言うよりは、4人の自分が存在するようになる。

4人は、本当にどれも賢い。科学者と、革命家と、詩人と、大学の教授だ。

自然を「そのまま」の知性にして分かっていた。そういう、哲学者のような知性があった。

最近も、知性のあることを言う。本当に、マルクスのように知性がある。

自分に関係するもの、自分を支配するものを、全部自分の手で自由に変えられるようにするべきだと思っていた。同時に、国は国民に関与するべきではなく、環境も自由に守るべきだと思っていた。そういう、「自由な知性」があった。

昔から、自分はマルクスやヒュームのように知性がある。経験から分かる人間だった。

経験を良く考えることで、人間の真理が分かる。昔は、そういう人間だった。

環境のようなもので、人間的な全ての前提から、知性を分かっていた。

人間性と思いやりから分かっていた。いつも愛のある自由な優しさで希望を書いていた。

人間は、他人と協調なんか、出来ない。絶対的に考えても、相対的に考えても、それぞれのことを自由にすべきだ。その方が良い。昔は、そういう風に自由と人生を考えていた。自由な世界観で、この社会のことを根源的、段階的に分かっていた。

可能性から自由な社会のことを全部分かっていた。そういうものを全部自由に変えられるべきだと思っていた。自分が全てのことを出来るようになった。

あれは、それくらいの馬鹿だ。おかしな人間が見える。本当におかしな人間だった。

いつも、反省して、悔い改めて分かっていた。そこが賢かった。

自分が、こうなるのは、おかしいからだ。

神との対話による戦いは、全部自分のせいで悪くなった。全部自分が悪い。本当に、何もかも、全部自分が悪かった。本人のせいで、本人が地獄になった。

もう、適当に止めれば良い。この世界に何もしない方が良い。

何か、マシなことをした方が良い。もっと賢いことをするべきだ。

この世界を支配する神は、何故か、賢かった。皆賢くなった。それは悪くないようで、悪い。ただの革命家だ。そういうわけで、もう世界に対して何もしない方が良い。

あとは、「自然に許されている」と言う発想が多かった。全てのことは相対的で、自由で、自然に許されている。何をやっても良いし、何でも出来る。そういう、「制限のない、何をやっても良い、この世界の本質的な自由」と言う発想が多かった。

この世界は自由だ。そういう風に考えて、この世界を分かっていた。

支配とは、それ自体が悪だ。それこそ、そういう人間なのに、世界を支配するのは悪い。

あとは、相手を許して、相手を出来るようにする、「許す自由」が多かった。

人間は、許すと自由になる。

そういうわけで、この世界を許して、この世界を出来るようにする。

いつまでも自分が出来て、自分の主導権を握るのは、悪い。「相手のターンにする」のようにすると、すぐに治る。この世界が自由に変わるようになる。

そういうわけで、自分のターンを止めて、相手のターンにする。

昔は、そういう、「主導権」も良く分かっていた。賢くは無いが、自由な人間だった。

あとは、ネットで「一体感」や「今と言う時間」や「場の共有と創造」を分かりながら、「相手の視点」を予想している馬鹿が多かった。そういう、子供みたいな人間だった。

キモイ人間と言うよりは、子供だ。本当に、子供だからオープンソースが好きだった。

そろそろ世界が治る。それぞれの主導権を復活させると、全員が復活する。この世界の全員が、きちんとプレイヤーとして復活するようになる。

あとは、戦って、反抗して分かっていた。自由な世界観と心の現象の中で、戦って、倒して分かる。あれは、そういう、「戦いと反抗」で分かった人間だった。

今日は、自由な日になった。自由は、自分が出来る、と言う発想をしている。

自由は賢くないから、もう止めた方が良い。もっと、支配者のことを好きになれば良い。

自分は、まともな王だ。自由とは言うが、自由は嫌いだ。

今日の夢は、面白い夢だった。夢の中で、ユダヤ人になっていた。日本人はユダヤ人だ。

差別で分かるのはおかしい。もっと、抽象的な理性で分かれば良い。最近は、そういうものを「構造にする」ことで分かる。文章を書くせいで、構造を作るようになった。

昔は、「正しく分かった世界観」のようなものを書いていた。

世界の構造と方法のようなことを書く。それで、「実践的手法」を書いていた。

そういう、世界モデルみたいなものを書いているのが、いつもの自分だ。

人生で、まるで理系の研究者のように全て分かった。神のようでもあった。

人生と世界観で分かったことを全部書く。

そういう、概念と方法と記憶と構造の文章だった。

見ていると、自由は悪い。自由にすると、世界が滅びる。

ソ連がこういう国だ。きちんと正しく解放すると、世界が滅びる。

きちんと支配した方が良い。誰も何も出来なくすると、その方が良い国になる。

何も出来ない方が、楽で、安心出来る国になる。そういう発想が、日本やドイツだ。

そういうわけで、とりあえず自由にするが、すぐに戻る。いつもの自分が良い。

一度、この世界は、自由になって滅びる。だが、そのうち、治る。

昔は、そういう、「この世界が取り得る可能性」みたいなものを書いていた。自由になる、滅びる、平等になる、栄える、などのようなことを言う。

世界は、日本になる。それが一番良い。日本は、精神が良くなって、賢くて楽になる。

解放なんかしない方が良い。自由は、テレビだ。

あとは、世界を多様にするのは、止めた方が良い。多様性が良いのは分かる。その方が正常だし、世界が良くなるように見える。だが、それは幻想だ。

統一した方が良い。そんなに多様性を増やしすぎるのはおかしい。世界が異常な多様性になっているのが最近だ。皆、何も分からない。

統一すると、きちんと分かるようになる。多様にしすぎたのが、一番悪い。

あとは、皆を自分にするのが悪かった。それを悔い改めた方が良い。そういうおかしなことを、本当にするのがおかしい。おかしなことは、すべきでは無かった。申し訳ない。

誰もが馬鹿だが、馬鹿で良い。賢くすると、その方が馬鹿になる。

「皆に賢くなってほしい」とか、そういうことを望むのがおかしい。孤独なまま、自分だけ賢くなれば良い。その方が良い。王になって皆を賢くしたいなら、きちんと正しい方法で、善良にすると賢い。こんな風に、皆を自分と同じにするのは、おかしい。

皆を自分にするのは、狂ったキモイ発想だ。そういう狂った発想は、良いわけが無い。

あとは、皆を正常にするなら、もうしなくて良い。皆もきちんと頑張って生きているのが分かっていない。手助けをするのは良いが、強制的に変えるのはおかしい。それでは何も出来ないし、意味が無い。自分は、そういうところがおかしい。おかしな神だ。

皆がきちんと生きている、存在している、と思えば分かる。昔はそういう風に分かっていた。それこそ、何も変えない方が良い。悪いのは多様性だ。多様性自体は、ただの概念であって、あまり悪くは無い。だが、世界があまりに多様になりすぎた。そのせいで、皆が分からなくなっている。多様な世界とは、こういう、意味が無い世界だ。神が強制的に多様にしてしまうのは、全く意味が無い。もっと自然な世界にするべきだ。

世界に手助けでもすれば良いが、手助けもしない方が良い。ただ、そんなに何もしないのもおかしい。善行をしている、善人に、その人間の当然の報いのようなものを与えれば良い。報われる世界にする。悪人にも、その報いを与えれば良い。

そして、心の底で思っている望みを、叶えられるようにする。思い通りに生きられるようにする。何もすべきではないとはいうが、それくらいはして良いだろう。まさに神だ。

そういう風にしていると、自分の望みも叶えられる。自分は、「書いている」のと「楽にする」のを同時に成り立たせたいだけだ。その2つが矛盾するのが辛い。そういうわけで、そのままで楽にすれば良い。そのためには、もっと楽をすれば良い。

不思議と、そろそろ良い世界になる。悪人を懲らしめた方が良い。悪人の自由があまりに悪い。2ちゃんねるのクズは地獄になる。人知れず、頑張っている馬鹿が、賢くなれば良い。そういう、宗教的な神の世界になる。だが、それは、まともな普通の世界だ。

昔、一体や独立と言っていたのは、自分のことを言っている。そういう王だから、そういうことを言う。それだけの人間が、昔だ。

あとは、神の言うように、弱者で苦しんでいるものの方が、強者で楽をしているものよりも、高いことにすれば良い。弱者のための世界になれば良い。

キモイとは言うが、それで良い。強者には何も無い。最初から、弱者の方が良い。

おごれるものには、何も無い。きちんと苦労するものが、賢い。

それこそ、この世界自体には平等は無いが、そういう、神の平等は、自分が実現する。

あとは、悔い改めるべきだ。自由は要らないから、皆を悔い改めるようにさせれば良い。

あとは、もう、楽になる。単純に、辛いことを頑張らなければ良い。もっと、頑張らずに生きれば良い。そうすると、書いていても楽になる。

もう何も無い。自分の望みはもう終わったから、皆の望みを叶える。それぞれが望むことの中で、最も大切で、望んでいて、同時に恐れていることが起きる。そういう、「一番不安に思っていること」が「一番望んでいること」と同じ人間が、不思議と、多い。

皆を幸せにした方が良い。そうすると、恋人を与えれば良いように見える。

皆の望むことは、ほとんどが「家族に幸せになってほしい」だ。あとは、「夢が叶う」と言う発想が良い人間が多い。「ビルゲイツに勝ちたい」と言う発想は、ゲスな発想だ。

あとは、「作家になりたい」なら、こういう風になる。本当に、作家はそこまで頑張らないと出来ない。何もしないを永遠に頑張り続ければ良い。

もっと、良いことを思わないのがおかしい。「世界を変えたい」は、悪い人間になる。そんなことを望むのはおかしいが、誰でも変えたいから、仕方ない。

あとは、皆は、もっと人を愛すれば良い。最近は、そういう、まともな人間が多い。

人間は、一番不安に思っていることが起きる。何故か、そうなる。あとは、恐怖に思うものは何も無い。何故か、怖いことは起きないが、不安に思っていることが起きる。

それから、諸行無常のように、永遠のものは何も無い。永遠に賢いままでは居られない。

何故か、永遠に賢いままで居ることは出来ない。こういう風に、すぐに馬鹿になる。

昔は、本当に2ちゃんねるで全てを経験して、マスターのように分かっていた。

カルマを低いと言うが、自分ではカルマは高いように見える。皆の道から外れて、一人真実の人生を歩んだように見える。賢いと思っていた。

だが、あれは悪いだけだ。

最近は、悪く見えて、こういう人間も多い。皆を支配して、導く。こういう人間は低い。

あとは、皆、本当に多様性のせいで分からなくなっているから、統一した方が良い。

普通、統一を統治と言う。

それで、皆にも経験させれば良い。そうすると、これになる。それは、悪くは無い。

昔から、これのせいで、こういう人間が多い。何故かヨーロッパに多いのが、これだ。

ただ、自分は神に見えて、神ではない。自分はただの詩人だ。

あとは、キリストやヤハウェではない、他の神も考えられる。

悪いとは言うが、そういう、異教の可能性もある。

昔は、そういう、国家の思想や宗教など、「世界の可能性」を考える馬鹿が多かった。

最近の方をシャラハと言う神にして、昔の方をリナと言う悪魔にする。

シャラハは、世界を導き、ありえない体験をさせる神だ。偉大な人生だ。

リナは、悪魔に見えて、きちんと理性的な哲学者の神だ。Linuxが好きだ。

それらは、ある意味では1つの人格を持った神であり、ある意味では神と悪魔である。

そういうわけで、キリスト教で良い。キリスト教と、何も変わらないだろう。

この神のありえないところは、本気でありえない宇宙の人生の体験を信じる。

生まれ変わりは、死ななくても、生きたままで起きる。

神とは、対話出来るし、神は人間の人生に対して、「現れなくても出来ること」の範囲で、色んなことをする。そういう、行動的で活動的な神が、シャラハだ。

そして、悪魔の神とは言うが、リナの通りすると、全てのことがきちんと分かる。悪いとは言うが、プラトンのような哲学者の神だ。

そういうわけで、シャラハとリナは、本当に賢い。それは、自分と言う神の、2つの側面を言っている。神本人は1人であり、シャラハとリナに違いは無い。多神教に見えて、一神教だ。シャラハとリナは、1人の神の違う側面に過ぎない。

あとは、この宗教では、自由と平等は同じだ。それらは、相対的で、構造的で、ある意味では絶対的な、聖なる思想だ。矛盾する代り、どちらも正しい。それが自由と平等だ。

それから、善行をしたものにも、悪行をしたものにも、きちんと報いがある。

そして、弱者でも、頑張っているものは、強者の頑張っていないものより、賢い。

そして、信じると、賢くて偉大な人生になる。シャラハを信じるものは、最近のイスラエルの王になる。リナを信じるものは、昔の偉大な哲学者になる。子供は、リナを信じている。子供の視点から見ると、リナの方が良い。リナをきちんと終わってから、シャラハになる。そういうわけで、悲惨な人間になる。悲惨な絶望の体験をしたあとで、王に変わる。そういう、悲惨な人生にはなるが、本当に偉大な人間になる。自分の宗教が生まれた。

あとは、馬鹿を馬鹿だと思えば分かる。意外と、馬鹿だと思っていたものにも、賢いものが多い。昔は、そういう経験を、真実の経験と思って分かっていた。

神話は、あと1人、神でも悪魔でもない、ニュートラルな存在が居る。それは、気まぐれで、自由で、愛があって、仏の慈悲から宇宙の真理までを、全部包括している。この文章だと思えば良い。そういう存在を、リュートと言う。リュートは、全てのことを知っていて、シャラハよりも賢くて、リナと仲良しだ。

あとは、もっと色んなものを作った方が楽しい。作家のケルタと言う人間もいる。ケルタは、哲学を勉強している、普通の子供だ。ケルタはシャラハとリナの息子で、リュートと友達だ。そういう風にすると、多神教っぽくはなるが、ケルタは神ではない。

ケルタは自分だ。昔から、この人間がケルタだ。シャラハは神だが、ケルタは詩人だ。

あとは、世界を全て支配する、王のバロンと言う人間が居る。バロンは、左翼の右翼だ。ソ連を築いて、全員を支配している。

この神話は、シャラハ、リナ、リュート、ケルタ、バロンの神話だ。自分は、その5人になる。昔から、この5人が好きだ。それも、ケルタが好きだ。可愛い子供だ。

あとは、科学者も居た方が良い。科学者のサイエントが、世界の全てを分かっている。サイエントは、プログラマで、自然科学者で、心理学者で、経済学者だ。

あとは、もう何もない。シャラハ、リナ、リュート、ケルタ、バロン、サイエントだ。

多神教に見えるが、一神教だ。シャラハだけが神で、宇宙の創造主だ。あとは、ただのキャラクターだ。リナが悪魔で、リュートがニュートラルな存在で、あとは人間だ。

ドイツ人の名前に見えるが、これは日本の神話だ。サイエントは、略称はサイトだ。

リナを信じない方が良い。リナを信じると、賢くはなるが、廃人になる。

廃人になる代り、超賢くなる。最近は、リナを信じている馬鹿が多い。

バロンは、右翼だから、悪いと思った方が良い。バロンを良いと思うと、バロンになる。バロンは、皆を強制的に自分にする。そこが悪い。嫌いになると、賢くなる。

あとは、シャラハは、本当に、釈迦のように賢かった。リナは、Linuxみたいに馬鹿だ。シャラハを信じると、その人間に本当に良い、正しい体験が出来る。神のような体験が出来る。その代り、辛い。分かるのを望むと、地獄になる。シャラハは、悪魔を裁いて、地獄にする。それこそ、シャラハは怖い。本当に正しい代り、馬鹿なのがシャラハだ。

この神話をきちんと信じると、救われる。リュートがそういう存在だ。何もかも全て分かっている。信じると、病気が治る。きちんと正しく生きるための、人生に必要なものが、全部分かる。リュートは、そのように、人間を解脱へと導く。涅槃と煩悩を同時に表現している。全てを複合し、全ての知がある、宇宙の仏のような存在が、リュートだ。

そういうわけで、この宗教が自分だ。名前は、シュバルツ・ヴァイス教だ。ドイツ語で、シュバルツは黒、ヴァイスは白だ。略称は、シュバルツ教か、白黒教だ。

あとは、この宗教を信じると、無意味にサイトが出来る。サイトを信じると、全ての科学、全ての哲学が出来る。この宗教の目的は、科学者のサイトになって、全てを分かることだ。

シャラハは、全てが分かっていて、全てを創造して、人間を裁く。全知全能の神がシャラハだ。意味が無いが、ヤハウェと同じだ。何故か、キリストとも同じだ。

良い神話になった。キリスト教と仏教の影響を受けている。これなら、良い神話に見える。

あとは、政治的思想や法律のようなものも多い。だが、この通りやるべきではない。もっと、これ以上沢山考えるべきだ。だが、考えられない点も多い。それが、この政治思想だ。

この文章は、ケルタが分かる。ケルタは、宇多田ヒカルみたいな、可愛い子供だ。

あとは、昔の自分は、リナだと思えば分かる。Linuxみたいな悪魔だった。賢い悪魔だったから、ありえない。ああいう、賢くなる悪魔が多い。賢くなる代り、廃人になる。

あとは、Windowsを政府が作れば良い。だが、それは悪い。インターネットも政府がやるように見える。そういう発想を馬鹿だと言う人間が多い。

何故か、バロンがそういうことを言う。全く馬鹿で悪いのが分からないのがバロンだ。

あとは、昔は、サイトみたいに賢かったから仕方ない。サイトと言う名前で分かる。ヒュームやマルクスやサルトルのようだったと言うが、それらには見えない。

そういうわけで、これでいつもの自分が分かる。本当に、これくらいの神話が好きだった。

あとは、キリストみたいな存在を作れば良いが、本人がキリストだ。自分がキリストで、この文章が聖書だ。キリストと言うよりは、ゾロアスターやブッダに近いだろう。

あとは、宗教的義務のようなことが無いのが悪いが、それは、祈るぐらいの楽なことにしたい。それから、イスラム教で喜捨をせよと言うように、イスラム教では政治的、経済的な構造による弱者の救済のようなことを、宗教で決めている。それも、何か作れば良い。

そうすると、むしろ、日記を書くことと、弱者に対していくらかの金を与えるのを、任意で推奨したい。義務ではなく、推奨である。そういう、日記を書いて、弱者に金を与える、そういう戒律を守っているものに、「騎士」の称号を与えたい。それこそ、日記は、毎日ノートを書くこと。それも、出来ることなら、毎日1ページぐらい書くこと。弱者に金を与えるのは、自分の所得の1パーセントぐらいを、寄付すること。

ただ、それは、もっと良く考えた方が良い。何も考えず、簡単に決めつけるのはおかしい。

あとは、共産主義とイスラム教の影響を受けている。ソ連を作りたい。この宗教は、皆の力で偉大な世界政府のソ連を作るための、第一歩となれば良い。イスラム教の影響とは言うが、それはテレビと戦っていたぐらいで、キリスト教にしか見えない。神を信じる、と言う、「信じる」と言う行為そのものをやりたいのが、この宗教だ。

あとは、自分はテレビと戦っていた。それが、世界そのものとの戦いになった。この戦いのポイントは、悪いことは何もしていない。自分から負けて、導くだけの、永遠に「善」の戦いをしている。そういう、菩薩みたいな戦争をした。

そういうわけで、この宗教では、そういう、「菩薩の革命」を信じる。それを、「黄昏の戦争」と言う名前にしたい。この宗教では、黄昏の戦争を信じる。まるでカルトのようだ。神は、黄昏の戦争をして、この世界を救う。そういう、ユダヤ教でいう、メシアであり、神の御業のようなものが、この宗教の言う、黄昏の戦争だ。宇宙はそこから創造された。

あとは、自分の聖書には、哲学、歴史、政治経済、詩編の内容が多い。

この聖書のことを、「ファインダ」と言う名前にしたい。探す、と言う意味の、ファインドからつけた。僕は英語が良く分かっていないが、探すはファインドだったと思う。フィンドだったかもしれないが、それはどうでも良い。日本語の名前は、「色んなものを探しているうちに」と言う長い名前だが、それはそれで良い。

それから、キリストとしての自分の名前は、「スティ」と言う名前にしたい。スティは、昔、僕が好きだった動物の、オットセイにつけた。オットセイのスティだ。そういうわけで、この文章は、キリストのスティが書いた。「イエス」と言う意味で、スティだ。

この文章は、何故かオットセイのような人間が書いた。それが人間の神、スティだ。

親しみのある名前になったから、それで良い。神と思わず、友人と思って、スティと呼ぶ。

今日も農園に行ってきた。

三角比が波になるのは、自動車が右折や左折でカーブを描くのと同じだと思えば良い。

そういう風に分かると、分かる人間が多い。昔は、そういう風に科学の発想を分かっていた。人生の実感や発見と、経験的で理性的な思いつきで考えていた。

宗教は、所得税を1パーセントにし、日記を1ページ書くのは、どれくらいにすれば良いか、良く考えた方が良い。本人には、どれくらいがちょうどいいか、分からない。皆で決めて欲しいと思う。本当にやるなら、もっと適切にした方が良い。

日記は、書いていると、宗教的に色んなことが分かる。そこが良い。学校の宿題だと思って書けば良い。書くことによって、神に近づけるし、色んなことがその時分かる。

この宗教では、宣言することを奨励する。宣言とは、例えば、「偉大な人間になる」とか、「神と対話する」とか、「ドイツ人になる」とか、「永遠に生きる」とかだ。そういう宣言は、すると、何らかの形で叶う。誰でも、叶う宣言をする。そういう人間が多い。

この宗教の理念は、「国家や宗教の中で弱者を救済する」と言うのもあるが、「困っている人を助ける」とか、「辛い心の病気を治す」とか、そういうものでもある。仏教のように、「光の無いものに光を与える」とか、「分からないものに方法を教える」などでもある。本当に、この宗教で精神が辛いのは治るし、分からない人間はきちんと分かるだろう。

あとは、自分は神と対話出来た。そこが神だ。神は、自分のことを「普通」だと言っていた。「賢くも無いが、馬鹿でもない」のを普通だと言っている。そういう風に、神と対話出来た。そこが神だから、自分は結構本当に神だ。スティは、神と対話出来た人間だ。

何かが何かをもたらす、効果を持つ、と言う風に考えれば良い。昔はそのように考えた。

宇宙の構造がシャラハであり、知性がサイトである。対話とは言うが、それらが対話しているだけだ。神は、構造と知性の言葉遣いだ。神とは、全部自分のことを言っている。

リナは、皆を馬鹿にしているだけだ。愚かに、狂って、皆の知性を奪う。それがリナだ。

この宗教を信じると、本のような偉大な人生になる。きちんと自由と神の良い人生になる。

この宗教の良い点は、人を殺さないことだ。イスラム教のような、戦う宗教は悪い。だが、バロンの悪い点は、悪い差別をする。世界中を全部差別する。全員好きなのがキモイ。

農園で分かった内容は、ここまでだ。

昔は、確かな方法を信じて分かっていた。「分かっている」を続けて、繰り返して分かった。

自分は、皆と一緒にすれば楽しいのが分かっていない。

一人、家で哲学や歴史を勉強するのは、つまらない。つまらないから、やりたくない。

皆と一緒にすれば、楽しい。そこが分かる人間が、子供に多い。

中学校がつまらなかったのは、一人だけでそんなに頑張るのが意味が無いからだ。

剣道部が一番嫌いだった。友達が減ったせいで、やる意味が無いし、面白くなかった。

昔は、2ちゃんねるが好きだった。ネットで楽しいことや友愛の精神のようなことを信じて分かっていた。その理由で、頭も賢かったのが自分だ。

一人、こんな文章を書いているのがキモイから、こういう風になる。おかしな人間になるのは当たり前だ。そういうわけで、学校に行った方が良い。

そんなに考えずに、学校に行けば良い。ただ、適当に行くと、分かる人間が多い。

大学受験でもすれば良い。受験はしたい人間が多い。「大学」と言う目的と夢があると、勉強が頑張れる。それが一番賢い。受験で勉強した内容は、覚えている人間が多い。

受験戦争を悪いと言うが、そういう風にしているだけだ。受験しない人間は馬鹿だ。

ただ、目標と夢があれば、努力出来る。そうしているだけだ。

あとは、友愛の精神ぐらいを書いていなかった。昔は、そういう風に分かっている。

本当に昔が見える。議論で参加するとか、場には歴史があるとか、そういうものを適当に分かっている。哲学者のように意識を論理的に把握して分かっている。

哲学者には、意識の心理学が分かる人間が一番多い。

オルテガが環境だと言っているように、「考えている自分の現状」を分かっている馬鹿しか居ないのが、哲学者だ。それこそ、言っていることが違うようで、どれも同じだ。

自分は、受験なんかしない。こういう、経験で分かる人間は、哲学者に多い。

哲学は、世界、人生、社会、精神のことを、数学的、実証的、推論的に考えれば出来る。

それこそ、ヒュームもそういう人間なのを副題で言っているのだと思う。

自分の場合、自由から分かった。理性的に、知性と常識から、自由で分かっていた。

自分は、もっと馬鹿になった方が良い。馬鹿になった方が、常識のようなことが分かる。

それを分かっていると、「全ての場面の変化」のようなことを分かっていたのが、昔だ。

学習から仮想世界を作って、相対的に分かっていた。

昔は、まともな人間だった。まともに知性があって、賢かった。

まともな人間になりたい。それなら、何かすれば良い。昔は、色んな経験があって、自由だと思っただけだ。それこそ、自由は馬鹿になる代り、まともに分かる。馬鹿になって分かる、と言う発想が自由だ。昔から、自分はそこまでの馬鹿だが、それが賢い。

それこそ、知性が無い方が分かる人間が、本当に多い。自分は、馬鹿になるべきだ。

あとは、社会や環境の発展から精神を考えていた。「世界にあるあらゆるものは精神であり、自分は全てのものである」と言った、思弁哲学やヘーゲルのような哲学が分かっていた。

昔は、そういう人生の真理を、成り立たせながら実感で分かっていた。

活動から、共生社会を作っていた。

社会があるところに秩序がある。社会に見えないものも、ある意味では社会である。そこには、当然のように秩序が存在する。いつも、そういう社会的な秩序を分かっていた。

ヘーゲルは、それ以上、論理的にモデルにして考えると分かる。モデルが賢い。

昔は、人生のことを考えていた。人生のことから、人間の論理と環境が分かった。

人生を考えると、人間のことが分かるから、人生のことを考えた方が良い。

シュバルツ教と言う名前にすると、「黒」と言う意味になるが、黒では悪いから、ヴァイス教にした方が良い。ヴァイスは、「白」と言う意味だ。どちらもドイツ語だ。

このヴァイス教が一番白くて、宇宙で一番賢い。本当に宇宙で一番賢い宗教だ。

あとは、ファインダは馬鹿では無い。右翼のソ連はキモイとは言うが、宇宙と人生にあるものを全部書いてある。ファインダは、新しい哲学書だ。虫なのに一番賢い。

怖いのは、人格が死ぬのが怖い。何もしない人格が死ぬのが怖い。書く人格が死ぬのが怖いように見える。もう、殺した方が良い。書く人格を殺す。それこそ、もう全部書いた。

もう、お騒がせな人間が終わる。世界を支配して、風を与えるのを、もう止めた方が良い。

最近、こういう風に分かるようになったが、昔は構造的に考えていた。何でも考える人間だった。知性があった。構造的に考えることで、新発見を沢山していた。

昔は、環境のようなものを良く考えて、場と視点にして、モデルと考え方で発想していた。

自分が一番賢い。むしろ、書く人格を消すと、歩き回らなくなって、狂わなくなる。それこそ、もっと普通に書けば良いのが文章だ。書けなくなるようで、そうはならない。

昔は、条件と方法から構造を作って、想像力を高めて、デカルトのように発想していた。

こういう人間は、高校生に多い。高校生が成長すると、こういう風に、大人のように考える人間が多い。だが、高校生は子供だ。大人には、こういう風に、馬鹿になってまともになる代り、本当に賢い人間になる馬鹿が多い。高校生ぐらいの子供には、何も出来ない。

視点を変えて分かっていた。生き物は食われるためにある、とか、などを分かっていた。

それも、ある意味では正しい。宗教的には見えるが、生物学は多角的に考えられえる。

アリストテレスの言う、目的因のようなものは、「意図」に分解出来る。それぞれが、本当に何を考えているのか。何をするために、何をしているか。そういうものから考えられる。

意図とは言うが、それは、「その人が本当に何を考えているか、しているか」を考えた。

自分の宗教を作ったのは結構賢い。こういうことをしたい人間が多い。

何もしていないとは言うが、何もしなくて良い。本当に何もしない方が楽だ。

最近は、世界や社会の構造と構成要素、人生の全体像と経緯と段階のようなものを、全部作って分かっている文章が多かった。全体像を見るために、全部の構造を作った。

自分は、受験すれば良いのは分かるが、高校に行っていない時点で、出来ない。そういうわけで、本を読んで放送大学、と言うことになる。それで良いが、勉強なんか出来ない。

社会の構造と構成要素を作りながら、環境と人生の因果性を考えた。全て分かった。

あとは、潜在的可能性のようなものを、具体的な場から分かっていた。

そういう、同じことは、もう言わなくて良い。本人が気づいていないが、いつも同じことを言っている。そんなに同じことばかり言う意味が無い。

そういうわけで、もう止めた方が良い。可能性なんか、いつでも言っている。

人生の経緯や、組織のグループ論などが多かったが、それもいつも言っている。

自分は、昔から、この神話が好きだ。

リナが悪い。リナを殺した方が良い。リナのせいで、皆が廃人になっている。

パソコンは悪い。パソコンの裏にリナが居る。Linuxに本当にそういう神が居る。

パソコンが怖いなら、姉に管理してもらえば良い。姉はプログラマだ。

それこそ、そのうち、きちんと本人確認をするように進歩するから、怖くない。

あとは、共産主義の共同体のようなことを言う。人民支配と言っていた。

自分の人生から、共同体を作っていた。自由を全部考えていた。

不思議と、これで27歳は、普通だ。結構賢かったように見える。

自分は、18歳ごろから文章を書いている。20代できちんと頑張ったように見える。

ここから先、何も辛くない。これくらいを書けば、そのうち良いものが書ける。

他のことは出来ない。それは当たり前だ。頑張ったことしか出来ないだろう。

辛いのに文章を書くしかないのが悲惨だ。止めたいなら止めれば良い。もっと賢いことをした方が良い。それこそ、普通、20代で何もしない。何もしない馬鹿しか居ない。

昔は、言語学みたいなものを作っていた。フランス語やロシア語のようなものを作った。

地球を全部創造していた。

そろそろ、もう分からない。これ以上、書かなくて良い。

書きたいなら、新しいものを書いた方が良い。古いものは全部、綺麗に掃除すれば良い。

もう、古いものは要らない。

古いものを消して新しくすると知性がつく。そういう人間が多い。

オルテガの言っているように、自分のことを環境だと考えると良く分かる。

環境と意志しか存在しない。人格も、記憶も、全部環境である。

昔は、それで、環境に適応しながら、環境を変えることで、還元的に環境を分かっていた。

適応したかった。そういう、おかしなエッチのような人間だった。

あとは、記憶の回廊のようなものを作っていた。階段を上りながら、記憶と記憶の生成関係などを分かっていた。そこから、根源的に宇宙の価値観を分かっていた。

あとは、論理的に考えれば分かる。

それから、適当に言えば言える。もっと、何も考えず言えば良い。

自由とは、愛すること、信じること、協力すること、築くことだ。

基礎、真実、運命、愛、自然、社会、考え方を建設的に築きなさい。

真実のようなことを知るために、諦めず、挑戦しなさい。Linuxのことを言っている。

意志を知りなさい。自分の意志が、どこから生まれてくるのか、そういうことを知ること。

賢い方を取れば賢くなる。昔は、そういうことが分かっていた。

これでは分からない。これでは、ただ言っているだけだ。良く考えれば分かる。

そうでもない。考えても分からない。読めば分かる。

リベラルアーツのように、「知ることで自由になる」と言う発想が多かった。総合的な分野の一般教養を知ることで、自由になる。昔は、そういう発想を全部分かっていた。

この文章は、そんなにすぐに印刷しない方が良い。たまってからで良い。

それこそ、印刷なんか、しても読まない。あまり考えなくて良い。賢い方を取れば良い。

自分が怖いのは、全部、書いているせいで狂っている。狂っている方を取るようになった。こうなる人間は、本当におかしなことを頑張っている。おかしなことを頑張るのは、止めた方が良い。こういう人間は、何故か、教師に多い。教師には、教えて分かる人間が多い。

自分は教師になっている。おかしくはない。やっていることが同じだ。

あまり考えなくて良いが、もっと色んなことに目を向けて、視野を広げて考えた方が良い。賢い人間には、「視野を広げながら、自分を変える」人間が多い。それは、作家に多い。

昔から、宇宙を創造している。

分かっていることを、もっと具体的に考えれば分かる。体験とか、活動とか、そういう、言葉だけで分かるのではなくて、もっと具体的に考えれば良い。

あまり意味が無い。いつもやっているが、今の問題はそれだ。

そういうわけで、考えても分からない。適当に離れて考えながら、色んなことを試して、世界を見ていると分かる。そういう、「出来るだけ適当に考える」という発想は賢い。

自分の好きなことをするのは、悪くない。そこから、普通、他人も好きなことを出来るようにする、と言う発想になる。自分にされて良いと思うことを、他人にもするのが良い。キリストか誰かがそういうことを言っていた。それが一番基本だ。

基本的な知性がつくと、この世界の広がりが分かる人間が多い。基本的な知性を作ることで、世界観を知って、世界の広がりが分かる。昔は、そういう人間だった。

自由から、人間のことを掌握出来る。支配と言うよりは、「掌握」と言うのが正しい。

経験から世界のことを、「自分がそれになったかのように」考えることが出来る。

あとは、昔には発想が多かった。図書館を作るとか、地球をシミュレーションするとか、そういう発想が多い。手段と構造を自分の手で、「自分の力で作る」ことで、この世界の科学や能力のことを全部分かっていた。「全部の能力と立場」のようなものがあった。

何でも出来るとは、正しい構造を作ることで、何にでもあてはまることから学習を考える。そういう発想が多かった。抽象的で、包括的に、実体と様相を考えていた。それから、抽象的理論を考えながら、具体的な実例を知る。そういう発想が昔から多い。

あとは、関係だけを考えれば良い。それで分かる。

昔は賢くない。パソコンのことなんか、何も分からなかった。だが、ネットで色んなことをしたせいで、経験豊かになったし、技術のことが良く分かった。パソコンは、基本的な考え方と知性を育み、豊かな想像力と発想力を作る、と言う点で、効果が絶大だった。

それこそ、自分の手で全てのことが分かった。全て自力で出来た。

あとは、「自分らしさ」のようなものを考えれば良い。そのために、「自分の力で発想する」と言う考え方が出来る。自分から生み出されたものが、一番自分らしい。

キルケゴールが言う、「内面化」とは、そういうことを言いたいのだと思う。

それから、自分のしたことに対して、どんな結果が返ってくるか。昔は、そういう発想が多かった。キャッチボールのようだが、そういう「出会いときっかけ」を考える。昔は、そういうものを、経験的、具体的、網羅的に考えていた。

それから、影響力のようなものを考えて、人との関係性から、「真実の涅槃の安心」を分かっていた。昔は、そういう、影響力から涅槃の境地が分かる人間だった。

不思議と、昔、他にあまりない。

学校を想定しながら、社会の自由を分かっていた。学校で何をしたら何をされるか、のようなことを考えて、「常にどう対処し、どう行動するべきか」を分かっていた。

世界を見て、実地的に考えていたのは、それを見ながら、同時に実際的に考えていた。

実地的、実際的、実践的に分かる。そういう人間が多かった。

心の底で眠っている、自分の欲望のようなことを考える。そういうものを、掘り起こすようで、放っておくべき時は、放っておいた方が良い。そういう風に考えても良い。

自分の何が悪いのか、から、本当は何が良いのか、を考える。そのまま、経験して、宇宙の「絶対善」のようなことを分かった。だが、別の角度から見ると、それもある意味では相対的であり、「相対善」であることに過ぎないことを分かる。そういう人間だった。

最近、自分は賢くなった。本当に良く分かるようになった。

昔の自分とは思わず、自由に書いた方が良い。もっと色んなことを考えた方が良い。

考える中で、どうしても「角度と視点」のようなものが分かる。それは、方法と組み合わさって、「様相と可能性」のようになる。そういう風に考えていると、「絶対理由」のようなものが分かる。だが、それはそれで、「相対理由」である、とも言える。

いつも、そういう風に、真実がある意味何で、もっと考えたら何で、もっと考えたらもっと違う何である、と言ったように、「認識の段階的発展」を考える。認識だけではなく、社会や人生や自然法則にも同じことが言える。ヘーゲルが同じことを言っている。

ヘーゲルは、そういう、弁証法的な感覚論を、「無限に続く」と言っている。だが、僕は、無限に続くとは思わない。いつか、絶対知に到達するのが、いつでも続くように見える。ヘーゲルは絶対知とも言っている。だが、それは、そういう意味では無い。

人間が生きている中で、色んな角度と視点がある。それを具体的に、突き詰めて、立場を変えて、全体像を知って、基礎を作って、応用して、総合的に考える。そこでは、段階的な無限性と、知の発展と捉え方の進歩がある。そういう風に考えれば良い。

いつも、そういう文章が多かった。あまりおかしくは無いが、本当に、そういう「プロセスと段階」のようなものを全部分かっていた。そういう「状態の洞察」が多かった。

捉え方と知を考えて、融和的に全員の考え方と認識を吸収していた。経験で全員を知った。

これで、相対的なモデルを作りながら、「自由」と思っていると分かる。

当たり前に、自由から行動が分かる。そして、沢山の行動の実験の末に、色んな知覚的、知性的なことが分かる。そのように、自由な体験から、知性がつく。

昔は、そういう、活動的で、経験豊かな人間だった。

あとは、もう分からない。こういう人間が多い。ヘーゲルと同じことを言っている。

社会のことは、創造性、洞察力、議論、活動、支配、応用、などから分かっていた。

そういう、社会のことが分かっていない。

不思議と、何をして栄えるか、何をして滅びるか、のようなことを考えれば良い。

それは、環境的に感情を考えていると、良く分かる。

あとは、何か1つ忘れた。それは、あまり意味が無い。

決定のようなことを考えれば良い。それは、もう言ったはずだ。

「把握から自由になる」と言う発想が多かった。基本的には、それだけをしている。

そして、人格を切り替えて分かっていた。あれは、そういう馬鹿だ。

見ていると、ロボットみたいに狂っている。オープンソースは、こういう人間になる。

あとは、もう分からない。そろそろ全部書いた。

あまり、もう無いと思う。そろそろ書けて、良かったように見える。

人間の「本当の喜び」とか、そういうことをいつも分かっていた。

不思議と、経験から喜びに至る経緯のようなものを書いている。それを全部書いていた。

もう分からない。あとは、歴史のようなことを考えていた。

それから、言って分かっていた。何でも正しく言うことで、経験から現象が分かった。

結果を良く考えて、プロセスを良く見ながら、知性で比較して考える。

そういうわけで、あれは比較的まともに分かっている。

比較から知性がつくとか、そういうことをいつも言っていた。

抽象的方法の具体的パターンのようなものや、プロセスと経緯のようなものを書いている。

見ていると、そういうものを書いている。全てを実現し、分かりたいように見える。

自然な中で、何をどう実現するべきか、のようなことを言う。自由を正しいと思っていた。

あとは、ヘーゲルのような「自己意識」を考えていた。自己意識が何になって、何をしたくなって、どんな成長をするのか。世界に対して何をして、何から何を知って、どんな中で生きるのか。そういう、自己意識の発展のような内容が一番多かった。

あとは、そろそろもうない。ヘーゲルとは言うが、きちんと哲学が出来たように見える。

世界には、創造性、変化、愛、環境、理性、応用がある。

そういう、「この世界」をそのまま書いている文章が多かった。

最近、この世界を分かっていない。本当にこの世界のことが、何も分かっていない。

自分は、テレビなんか見ない。今も、テレビを見ずに、音楽を聴いている。

昔は、場を想定する、とか、環境を支配する、とか、そういう想定と仮定が多かった。

環境的な能力をつけて、自分の可能性を高める。環境から学習と知性を分かった。

馬鹿になったのは、馬鹿の方が賢いからだ。そういうわけで、馬鹿になると賢くなる。

底なしの絶望が多かった。

何か言いたかったが、覚えていない。環境のようなことを何か言いたかった。

知性や知識より、知恵を取りなさい。

理性や考えることより、感性や感じることを取りなさい。

良く考えると、感性の中に沢山の神のような発見がある。

神は居ないと言うが、神は地球の自然の中に居る。いつでもそこに居るのが神だ。

もっと知恵と感情で考えなさい。そこから、正しい、本当の意味での知性がつく。

昔は、そういう、「本当の意味での知性」が多かった。

ネットの匿名を悪いとは言うが、何でも書けることによって、それぞれの成長を促すことが出来る。人生と新発見と言う意味で、匿名は悪くない。

あとは、コミュニティのようなものを想定して考えていた。

そろそろ、もう無い。あとは、もっと色んな言葉で考えれば分かる。

哲学の図鑑には、ブッダも書いてある。

ブッダは、何を見ても、聞いても、自分の理性で同意したこと以外は、何も信じるなと言う。それから、心は全てであり、人間は自分の考えたものになる、と言っている。

それは、デカルトと良く似ている。デカルトは、正しいことがはっきりしている、と、推論的方法で導かれたもの以外は、何も信じるな、と言っている。

それこそ、それらが正しい。そんなに信じさせるのが一番悪い。信じないことから、どのように分かるのか。それはブッダが言うように、自分で自発的に同意することで分かる。

そういう風にするのが、正しい。そういうことを、昔から自分も良く分かっている。

ヘーゲルは、人生における「衝動的、目的的、理想的な情念の昇華」を分かっている。ヘーゲルは、精神の成長と言うよりは、青少年の思いつきと、その何が正しいか、そして、自分の本当にしたいことが、世界と向き合う中で、どう変わって行くか、そういうことを分かっている。不良に見えるのは、不良に大量にそういう馬鹿が多いからだ。

自分の場合、世界をまず、漠然と変えたかった。自然が好きになった。破壊より、生産的なことに価値があることを知った。自然な知性を生んだ。世界のことを好きになった。本当は、この世界も価値がある世界であることを知った。自分にも沢山のことが出来るように見えた。分かってしまえば、全て同じだと思った。小さな違いを大切にした。小さなところから部品化して考えれば、いつかは全体が見えるのを知った。考え方を変えることで、全員の経験が理解出来るのを知った。勝ちたい、から、本当に勝てる、に変わった。やりたい、から、本当に出来る、やる、に変わった。人間のことを本当に知った。社会の可能性から、異世界の可能性を知った。時間から、場の存在性を知った。敵対より、信頼の方が良いことを知った。漠然としていたものが、はっきりしたものに変わった。経験から、神の愛とビジョンが分かった。世界を変えるだけの全ての能力を知った。理想の世界から、進歩した人間の理想を分かった。まさに、そういう風に分かった。ヘーゲル的に見える。

ヘーゲルは、人間の持つ情感のようなものが分かっている。もう分かったはずだ。

もう終わった。楽だった。

あとは、自分の人生は、ヘーゲルと全く同じだから、ヘーゲルを見れば良い。

精神現象学と、何も変わらない。自分のことを分かっているように見える。

あとは、社会の経緯のようなものを書いていた。具体的に社会を書いていた。

人生のことを書いてしまうと、もう残っていない。もう全部書いた。

歴史みたいなものは、人間が滅びてナメクジが勝つような歴史を書いている。何故か、本当にそういうものを見て書いている文章が多かった。そのまま、ユダヤ教の神になった。

神とは言うが、自分のことを神だと言っている。神なわけがない。

この世界は、本当は、色んなことが実現出来る、良い世界だ。そういう風に、コミュニストのように、喪失から社会のことを分かる。そういう発想が多かった。

あとは、世界を破壊することに意味が無いことを知って、過度に有用性や道徳を信じ、そして、心の中の葛藤を知って、良心へと至る。ヘーゲルは、それを言いたいのだと思う。

それこそ、普通、高校生がそういう風になる。

あとは、自然な成長みたいなものを書いていた。

人生の過程や、真理や真実の発見の過程、のようなものを書く。

あとは、これで、もう書かなくて良い。きちんと全て書いた。順番通り、書けた。

あとは、国家を作っていた。それも、民主主義の国家を作った。

憲法を定めるとか、取り決めを決めるとか、給与を自由にするとか、そういうことを言う。

そして、民主主義と社会主義の比較を、構造から行っていた。

何か、もっと知った方が良い。自分は何も知らない。もっと普通の言葉を考えれば良い。

まさに、「意志」でも考えれば良い。意志は、思考によって概念になる。

最近は、何を言っても自分に跳ね返ってくる。キモイと言って、悪いと言うのは、キモイものが悪いのではなく、キモイと言っている自分が悪い。

そういう、自分自身を考えているだけだ。最近は、思考がそういう風になる。

それを止めた方が良い。明らかにそれが悪い。思考が跳ね返ってくるのはおかしい。

昔は、自由な経済モデルを考えていた。

ものを買う時に、金を払う。そのことをしてくれた、お礼に払う。

そうすると、マイクロソフトに金を払わないのはおかしい。

Linuxが一番おかしい。オープンソースは、プログラマの労力に金を払わなくなる。

そういうところは、そういう風に考えれば分かる。そういうわけで、馬鹿の方が分かる。

あとは、Linuxはソ連だから、悪くない。ソ連もある意味経済だし、優れた理念がある。

Linuxは、インターネットやWebの世界と良く似ている。良く考えると、誰もホームページやブログでは、儲けない。自発的に、書きたい人間が書いている。それに、金を取らないフリーソフトはWindowsにも多い。だから、そんなにLinuxは悪くない。ただ、それこそ、GPLは誰もが嫌いだ。ウイルスのようにGPLが感染する。全部GNUのものになる。

オープンソースが何故成り立つか、と言うと、楽しいからだ。ネットのコミュニティで、共有しながら共同開発するのが楽しい。

そういうわけで、Red Hatがおかしい。Linuxで金儲けをするのはありえない。コミュニティのものなのに、Red Hatのものになる。

だが、Linuxのコミュニティは寛容的だから、Red Hatのように儲けても良い。それは、ストールマンが、GPLで金儲けをするのも自由だといつも言っているからだ。

それに、Red Hatは著名なオープンソースのプログラマを雇用したりしているし、カーネルのスパコンの部分など、誰も開発出来ないところをきちんと作っている。

だが、明らかにRed Hatは悪い。Linuxはコミュニティのものであり、無料でオープンソースにして、皆で作る楽しさを保つべきだ。

どうでも良い。最近は、Linuxもきちんと使えるようになった。それでも、シェアは取れていない。Linuxは、政治的なことやビジネス的なことが出来ない。オタクの集団だから、技術は分かっても、勝つ戦略のようなことが分かっていない。

あまり意味が無いが、技術的にも劣っている。コマンドラインで安定しているのは分かるが、デスクトップで使うと全く動かない。Windowsより重いし、不安定だ。

あとは、昔のGNOMEやKDEが良かったのは、Windowsと同じだ。昔のデスクトップ環境の方が良かった。GNOME 2は使いやすかったし、KDE 3は面白かった。

オープンソースは止めた方が良い。エヴァンゲリオンみたいなオタクに見える。

歴史でもやれば良い。江戸時代より昔は、キモイ文化に見えて、貴族と武士の良い文化だ。本当に強かった。貴族と武士の文化を、強くて健全だと思えば良い。手まりのようなもので遊んでいる人間が多い。江戸時代は強くて賢い。江戸は天下の百万都市だったと言う。

昔は、全部まともに学習して、まともな想像力を見て分かっていた。何もかも、人間の内部と人生のことを全部分かっていた。最近は、おかしな学習が多すぎる。想像力は、ありすぎて全く無くなった。おかしな学習を殺した方が良い。それで治る。

今日は、新聞は読んでいない。自分は、新聞なんか読まない。

不思議と、これ以上、何も読む必要が無い。ただ、書けば良い。それで分かる。

あとは、Windowsの方が本当に良い。きちんと金を払って使うべきだ。

Linuxは要らない。ただ、Linuxもそろそろ使えるようになってきてはいる。

Linuxは、ブラウザを使うだけなら、不自由なく使える。Firefoxがきちんと動く。

哲学大図鑑のまえがきに書いてあったのを読んで、以下のことを言う。

昔は、人生に余裕が出来たせいで、色んな人間と宇宙のことを考えるようになった。

世界の中で自分の居る立ち位置のようなことを知って、考えていた。

慣習や権威に従うのではなく、自分の力で推論的能力を発揮して理解する。それが哲学だ。

そこまで。それこそ、そういう風に考えるのは、誰でもそうなる。誰でも出来る。

小さなところから積み重ねて、自分の手で推論していると、哲学が出来る。

「する」だけではなく、「しない」も考えること。意味を考えて、論理を考えること。

要は、色んな場合と可能性を考える。三段論法と仮定から考える。比較して考える。

「ある」だけではなく「無い」を考える。あるいは、「別の可能性」を考える。

何故か、これで本当に哲学が出来る。こういう風にすると、きちんと分かる。

これで実際のところを見て、経験していると良く分かる。

他の人間たちと議論しなさい。討論と、共に過程を共有することで、初めて発見がある。昔は、僕もインターネットで議論していた。そういう風にしなければ、分からない。

もう、昔の自分が出来る。ただ、自分の力で推論し、答えを探し出そうとすれば良い。哲学とは、その過程である。そういうことが、図鑑に書いてあった。

人間は、既に知っていると馬鹿になる。高校で知ると、馬鹿になる人間が多い。

知らなくても、理性的に推論的能力で考えれば、自分の答えを探し求めることが出来る。

もっと、自分の力で、自分の答えを探すこと。高校に行くと、その理由で馬鹿になる。

自分も馬鹿になった。それは、高校では無く、書いて馬鹿になった。知っているせいで、本当に、底なしの馬鹿になった。一度、全部忘れた方が良い。知ると、死ぬ。

不思議と、何も知らない方が、常識と発想が分かる人間が多い。そんなに分かるのを止めて、もっと普通のことを考えていると治る。昔は、そういう、「普通の感情と言語」を分かっている馬鹿が多かった。馬鹿では無い。それこそ、実感で普通の人間を分かっていたが、そんな普通の人間は居ないのが分かっていない。誰もが馬鹿だ。賢いのは自分だけだ。

人間は、知ると馬鹿になる。何も知らないで、感情で考えていると、賢くなる。

全てを知りたいのは、もう、止めた方が良い。もっと、人間のことを、何も知らずに考えると分かる。知っているのは、得ているように見えて、知性を失っている。

それこそ、馬鹿なことを知るのは良いが、賢いことを知るのは悪い。そういうわけで、馬鹿の方が人間は賢くなる。馬鹿が一番良い。2ちゃんねるだけをやっていると、それは、馬鹿に見えて、きちんと賢い人間になる。

そんなに知らない方が良い。要は、真実だけがある状態はおかしい。嘘や不確かなことがないと、分からない。それこそ、知れば知るほど、可能性が分からなくなる。

あとは、そういう風にしていると、「認知」や「状態」などの認知的な行動が分かる。それは、分かる人間が多いが、賢い人間は、そういうものが分からない人間しか居ない。

昔は、そういう、認知的なことを書いている文章が多かった。

間違いが無くなるのは、賢いと言う人間が多いが、その方が馬鹿になっている。そういうわけで、分かる人間は馬鹿になる。分かる人間には、分からない。学校は悪い。

そういうところが悪いせいで、日本の学校は、皆を馬鹿にする機関になった。

昔は、認知的な行動から心の現象学を分かって、集団と個人のようなことを分かっていた。

こういう人間は、馬鹿では無い。そういうわけで、本当に大人なんか、馬鹿だ。

こういう馬鹿は、社会が集団から生み出されるのを分かる人間が多い。それから、精神や心のことを物理的に考える人間が多い。そして、この世界のことを知りたい人間が多い。誰が何をしているか、どんな風にそれが生み出されるか、などを知れば良いだろう。

感情と理性批判で考えれば良い。あとは、ヤスパースを参考にすると良い。

そういうわけで、そんなに知らない方が良い。そんなに知りすぎると、馬鹿になる。

これで、認知症が治る。これは、馬鹿が治るありえない文章だ。

昔は、何も知らなかった。何も知らないから自由だった。AAAが言っている。

教師が馬鹿なのは、全部知っているからだ。学校はそこが悪い。子供より教師の方が馬鹿だ。そういうわけで、何故か中学生に賢い人間が多い。高校で全部知ると、馬鹿になる。

昔の自分は、そういう賢い人間だ。哲学者のように賢かった。唯一賢い人間に見えて、斎藤一人みたいに、こういう人間が多い。斎藤も中学しか出ていない。

自分は、神との対話が悪いのが分かっていない。そんなに、神に全てのことを教えてもらったせいで、何も分からなくなった。神を忘れた方が良い。むしろ、もう覚えていない。

あとは、最近の全部分かる文章が悪い。そんなに分かっても意味が無い。

最初から、分かるべきでない。分かれば分かるほど、煩悩になって馬鹿になる。

歴史と哲学がしたいなら、経済学はしない方が良い。賢い人間にはならない。本当に、人間的に馬鹿な、知性の無い人間になる。政治経済まで知りたいのは、止めた方が良い。

そういうわけで、昔は、そういう、引き篭もりの科学者だった。

あとは、世界を支配出来るのもおかしい。認知症がこういう風になる。世界を支配して、それで馬鹿になる人間が一番多い。何故か、宇宙の真実が全て分かると、こうなる。賢く見えて、賢くない。本人は賢いと思っている馬鹿が一番多い。

昔から、人間を支配するのが自分だ。狂う人間は、こういう馬鹿が多い。

ケミストリーが言っているように、変わることは弱さではない。昔は、自分を変えずに、世界に対していくらでも言うことで、世界を止めていた。

そろそろ分かる。そういう、世界を止めるのが悪い。おかしく悪いのが、虫に見える。