良く考えると、社会を本質的に考えただけだ。
想像力で捉えた社会を、いくらかの心理とともに、意味論的に考えた。
社会における意味とは、言語における関係代名詞であり、また、理性における判断と善悪だ。
それぞれの目線から捉えた世界は、それぞれの中における正しさの価値基準で、思考や感情が定まり、行動や認識、記憶は正しいものとなる。
知恵と工夫は、共有と発想の転換から生まれる。
基盤を改善することで、世界は自由に発展する。
沢山の経験を、具体的に積み、理性的に考えることでしか、分からない。
地獄で分かる。それが人間だ。
社会は、それぞれの創造性を、科学と宗教、農業と工業の中で、発明し、利益を得ながら行う、一つのシステムだ。
想像力は、意味と形容から本質を知り、概念と分野からそれぞれを捉え、言葉の枠にはめて考え、数学的に照らし合わせ、実証的に分かり、感覚的に正しい答えを当て、1つ1つのことを理解しながら、世界を全て、自分の心理から知ることだ。
全ては、予想と予測だ。
全ては、予想から想定し、予測から分析することだ。
全ては、世界を変えるために、積み重ね、自発的かつ研究的に行動することだ。
人を啓蒙せよ。理性を与え、情報を与え、判断基準と全てのコンテンツを与え、手段と可能性を与え、好きなことが出来る自由を与え、趣味や学問を追求できるだけの余暇を与えるべきだ。
洞察力は、目線と良く分かること、理由を分析することから身につく。そこでは、情報と対話、正しい考え方、世界の正しさと間違いを信じること、常識と理性によって、その対象を捉えながら、洞察することが出来る。
その対象とは、社会、宇宙、人間、科学、宗教、時間、空間だ。
一つの対象を構築する時に必要なのは、意見や情報の共有だ。しかし、情報共有ではなく、会話の方が良いこともある。手順と理由が存在する時、そこには法則と結果がある。周りのことを知り、考え、分かる中で、存在する法則は、物理的な宇宙の法則、言葉と数学的な論理、そして心理である。
人と人とが関わる中で、出来る行動は、支配と変革、抵抗と自由、平等である。
その中で、社会の取りうる状態は、向上と停滞、その人間による支配であり、その上で、維持や変革の考え方が存在する。プラスとマイナスである。
本質的に考えれば、世界を良くするためには、手段と結果から知る必要がある。変革も、安定も、同じように、善と悪をもたらす。
決定や廃止、合理化と不合理化、沢山の変化がある。
それも、手段と結果による、プラスとマイナスと考えれば良い。
ものを生み出すことと、ルールを守ることが、世界だ。
理由と経験は、自己を向上させると同時に、世界を知ることが出来る。
発想と考え方を積み重ねることで、世界の全てを視覚的に知ることが出来る。
また、ネットの文章を読めば、読解的に世界を知ることが出来る。
そのバランスと組み合わせによって、仮想的に社会や心理の哲学を作ることが出来る。
あとは、対話して、目線を知っただけだ。
矛盾の無い全てのパターンを述べただけだ。
そして、判断と捉える力によって、単純に、分かった。
言葉をそのまま書き記すことは、誰でも出来る。
簡単に、1つの答えを知った上で、それを書き記すだけだ。
積み重ねることは、全てを知ること。
世界を目線から把握することで、モデル化で分かるようになる。
社会をさらに本質的に考えてみたい。
想像力と対話によって、機械と環境を良くすることが出来る。
1つ1つの状態を支配し、世界をボトムアップから変えることも出来る。
だが、それは、間違った考え方と、混沌の戦いを生む。
正しくするためには、賢くない方が良いものだ。
社会とは、支配とそれぞれの国民による、平和と戦いの世界だ。
警察と兵隊は、治安と秩序を守る。
その上で、社会は、正しい世界を模索する。
その世界とは、自由で、平等で、強く、正しい世界だ。
社会だけではなく、機械や科学技術の発展も、本質的に考えてみたい。
機械は、UIと処理を自動で実行するものを、人間と物理法則の手によって構築することだ。
科学技術とは、人間が宇宙を把握し、新しい発見と理論によって、新技術を生み出すことだ。
また、哲学や世界史は、人間を賢くしている。
それらは、人間に理性を与え、読書と執筆によって、人を全て分からせる、愛の夢を起こさせる。
それは、全ての論理、全ての哲学、全ての分野、全ての神とともに、全てを完全に、カントやヘーゲルやニーチェを全てするように、分かるようにさせる。
第一に、全ては、自然と変化だ。
第二に、全ては、その逆の側面である、停止と支配だ。
それは、変化や自然の方が良いようで、停止と支配の方が正しい。
変化や自然は、馬鹿な変化にさらされ、間違った変動のある滅びた世界になる。
また、今既にあるものを守り、国民の自由にさせる、という意味でも、停止と支配の方が良いこともある。
だが、そのために、保守主義は、保守と既得権益の支配に陥る。
変化すれば良い、と言うものではない。
きちんと作り直すことが出来る上で、同じことを続けるべきだ。
国王は要らない。
民主主義的な国会があるべきだ。
皆で良くし、皆で判断する。
また、分かる役所の人間などを、上手く使わなければ、悪い。
国会と役所は、問題はあっても、きちんと上手く機能する。
それに、株式会社は、きちんとそれぞれが考える。
社会は、創造性と知恵によって発展する。
会社は、新しいアイディアと技術を出しながら、金を使うことで、成長する。
それは、大企業ならばIBMやNTT、中小企業ならば日本のはてなのように、出来ることをそれぞれがする。
それによって、沢山の業種とものが増える。
民主主義は、そのように賢い。
ネットは、目線と経緯と場の共有である。
匿名などの問題は多いが、経緯と共有を知ることで、良く分かる。
皆の延長線上を生きながら、全ての人と関わり合って生きた。
その、昔の人生を辿って、精神と世界を分かった。
その上で、当たり前のことをして、治しながら分かる。
想像力をそのまま書くだとか、同じことを言うだとか、言葉で積み重ねるとか、そういうことが多かった。
地球を想像力と具現化で、視覚的に見たかった。最近、Googleがしている。
OSと統合デスクトップ環境を作りたかった。
オープンソースに関わるのは、自分でも出来そうだからだ。
あとは、世界を知りたかった。
外国語がしたかったし、大使館にはがきを送って無料で資料を得た。
認識と捉え方を変えて、環境と経験から分かった。
全パターンを網羅し、過去や世界を辿る。
思い出しながら書き、記録する。
そして、自分を神にして、宣言する。
それは、何も分からない。ただの地獄だった。
自由の中で必要な知恵とは、全ての会話と経験だ。
自発的に取り組むならば、手段と愛を知りなさい。
手段とは、情報を創造し、人と共有し、影響力を持ち、変え、教えることだ。
手段は、会社の中にあるようで、無い。大学の中にあるようで、無い。
ただの自由に、それがある。
僕が馬鹿なのは、馬鹿を分かるのが悪い。
永遠の判断も悪いが、積み重ねやLinuxは悪い。
馬鹿を分かっていると、馬鹿になる。
馬鹿を分からず、見たものやあるものを分かれば分かる。
それこそ、文章は馬鹿だ。文字は忘れた方が良い。
その方が賢くなって、文字が読める。
あとは、テレビに何か思うとか、そういう普通の人間になった方が良い。
馬鹿を分かるだけ馬鹿なのが、最近の僕の人格だ。
哲学は悪い。見るからに馬鹿だ。
簡単なことを難しく考えても、馬鹿なだけだ。
文章に書いても、ただ馬鹿を分かっているだけで、何も分かっていないだけだ。
断言は間違っている。可能性に留めた方が良い。
どうでも良いと思わないのがおかしい。
全く失敗しないのがおかしい。
間違いや、違う可能性を考えなくなった。
失敗しなくなったようで、何もしていないだけだ。
失敗出来なくなった。失敗に対処できない。
良く考えると、パソコンと哲学なんか、ただの馬鹿だ。
普通に考えれば、すぐに分かることを、のらりくらりと考える。
普通の機械なら、すぐに出来ることを、複雑怪奇なコードで実現する。
だが、そういうことを言わない方が良い。
パソコンはきちんと動くし、哲学はきちんと考えているだけだ。
数学は、全く意味がないし、誰も覚えない。
歴史は、同じく、意味がない。
だが、そういうことは言わない方が良い。
学問は、忘れた方が分かる。
学問では分からない。
技術ならば、分かるように見える。
だが、基本的に、何かにならないと分からない。
だが、宗教では意味がない。
普通のことを良く観察して、良く考えれば分かる。
だが、それはもういい。
ありえないことをしなければ、分からない。
世界観と言葉はもういらない。
何も分からない。
自由な意思、立場、権利で、論理を適用して分かったのは、馬鹿だ。
そこらへんの自分を、大事にとっておくのが間違っている。
知性の無い、馬鹿だ。
判断だけをして分かるのがおかしい。何もしていないだけだ。
人に聞きながら、皆と同じことを分かるしかない。
それ以上、分かるわけがないだろう。
話を聞いて、人と同じことを分かるしかない。
見たものを分類したり、判断したりするのを止めた方が良い。
哲学的なフィルターのまとめは要らない。
経験や感情から分かった方が良い。
あるものは、現実世界と何もないだ。
フィルターする意味がないから、何もない、があるだけだ。
その、現実世界、何もない、になれば良い。
判断せず、分からなければ良い。
常に何もないを分かりながら、適当に色んな物を見るのが普通だ。
もっと単純に、安易で簡単な発想をした方が良い。
楽しいものが欲しいだけだ。
自分と同じような人間が居てほしい。
それから、何かすることが欲しいだけだ。
楽になりたい。
そして、人と同じことを分かりたい。
自分を自分的に見ないのがおかしい。
単純なことを、主観的に思えば良いだけだ。
自分を自分と思わないのがおかしい。
人の話を聞くだけは、つまらない。
ただ、何も考えたくないし、何も聞きたくないし、何も見たくないだけだ。
世界に疑問を持たないのがおかしい。
皆馬鹿なのはおかしい。
支配者は嫌いだ。
批判が嫌いになった。批判されるのは怖い。
いつも通り賢い自分なんか、居なかっただけだ。
何も知りたくない。どの知識も、馬鹿に見える。
そこが間違っている。知識は賢い。
自分は、自分の勝手に生きれば良い。誰も何も言わない。
それぞれの好きなようにすれば良い。
1つ1つの知恵をバラバラにせず、組み合わせて考えれば良い。
相対性を積み重ねれば良い。
原因と結果から、手順と方法を知り、目的と手段を知れば良い。
「それはいつそうなるか」と「それはどうできるか」だ。
経験や体験的な感情から、皆の認識を知れば良い。
だが、それは皆をロボットにしているだけだ。
永遠に続くのを、良いと思わないのがおかしい。
最近は、辛かったが、その方が永遠にしている。
もう辛くない。永遠にすればそれで良い。
具体的な文章や考え方は、もっと沢山考えれば良い。
すぐに止めたいのは、間違っている。
世界を、もっと良くし続ければ良い。
想像力は、全ての知恵と工夫、愛情、手順と結果を生む。
それを具体的に考えることで、人間や生産や環境が全て分かる。
認識や感情を思い出すことで、自分を覚えることが出来る。
運命を受け入れることで、賢い人間になる。
書く、という運命を受け入れれば良い。
ただ、馬鹿を言っている。書いているのは、ただの日記だ。
大学をしても良いが、むしろ、大学はまだ出来ないから、忘れた方が良い。
ピアノは、出来ても、弾かない。英語は、何も出来ていない。
何をする意味もないから、さらに言葉にすれば良い。
実現するために成り立つ条件は、世界の沢山の環境と経験から生まれる。
仮定と結論を知ることで、世界に知恵を適用して分かることが出来る。
そこでは、何がいつどのような時に成り立つか。
例えば、りんごは人間が食べると美味しい。
なぜなら、人間には味覚がある。
そして、りんごは、味覚から言って、甘いものだ。
法則として、味覚は、食べられるものに、良い反応を示す。
つまり、食べられるものと食べられないものを判別する。
そのように、法則と結果が多い。
条件の中で、分類することが出来る。
りんごは美味しいが、土は食べられない。
そのように考えると、人間は、判別する、という能力を持っている。
味覚、臭覚、視覚、聴覚、触覚だ。それを五感と言う。
何故そのように、判別出来るか、というと、人間は、判別出来る能力を持っていて、それは、生きるために備わっているからだ。
理由が理由になっていないようで、そのように物理的な説明から考えれば、相対的な原因と結果になって、分かることが出来る。
人間の能力を考えれば分かる。
何故、それがあり、それをし、それが出来るのか?
それは、生きるために必要だからだ。
水を汲むのも、ものを持って運ぶのも、道具を使うのも、生きるためだ。
あるいは、能力だけではなく、技術や行動から考えることも出来る。
人間がパソコンを作るのは、パソコンが便利で使えるからだ。
何故儲かるかは、皆、欲しいために買うからだ。
そのように考えれば分かる。能力、技術、行動から分かれば良い。
重力は、ものとものを引き付け、ものに質量を与える。
単純に言えば、ものを地面に落とす。
物理的に考えて、万有引力と慣性の法則があるために、そうなる。
言語は、人の言うことをその他に伝える。
また、伝承や物語、知識を後世に残す。
それを考えるのが、人文科学だ。
戦いでは、勝者と敗者が生まれる。
自由では、勝者に報いがある代わり、敗者が生まれる。
平等では、勝者に報いが無い代わり、敗者が生まれない。
人間は、死ぬとそこで関わり合いが途絶える。
自由にすれば、独立し、分裂する。融和すれば、一体となり、統一される。
人を殺すのは、道徳的に言って悪い。
文化は、それぞれの民族が、それぞれの考え方で行うことで、保たれる。
自然は、それぞれが関わり合いと創造の中で、独自性を持つことだ。
国は、正すより、良くするべきだ。
むしろ、強くすべきでない。
強くすれば、ナショナリズムの軍国主義になる。
世界の本質とは何だろうか?
作ることと、変えることだ。
作ることによって、全ての価値と創造性が生まれる。
変えることによって、向上と進歩が生まれる。
システムは、世界に新しい基盤としての価値を作る。
水道などのインフラから、TwitterなどのITなどに見られる。
手段を与えれば、自由に発展する。
それを共有し、集積すれば、Wikipediaのような情報システムになる。
人間は、感情と理性と記憶だ。
感情は、全てを知っている。経験から、間違いと正しさが分かる。
理性は、判断力であると同時に、意思だ。
記憶は、思考であると同時に、全てを見て、聞いて覚えている。
思想的なバックボーンは、以上だ。
あとは、いつものように、毎日分かったことを書けば良い。
全ては、理解と経験と認識と構築だ。
全ては、運命と愛と許すことだ。
全ては、自分のこれまでの人生を誇り、理解し、愛することだ。
正しい人間や、賢い人間は、馬鹿だ。
正しい人間は、何も分かっていないが、賢い人間も、何も分かっていない。
正しく分かっても、賢く分かっても、意味がない。
それは、なぜなら、馬鹿に分かった方が賢くて、同時に、馬鹿に分かるだけ何も分かっていないからだ。
慈愛は、許しながら自由にさせることだ。
何も出来ない子供に対する、親の愛に似ている。
皆、自分の子供になったと思えばいい。
全ては、起源と経緯の理解だ。
全ては、自然の中に有る、運命と言う名のピース(部品)の集積だ。
何故、この世に人間というものが存在するのだろうか?
それは、人格と呼ばれる脳の理性が、最初から全てを知っているからだ。
理由になっていないかな。
人の存在価値を認めなさい。
殺したり、貶したりするのは良くない。
馬鹿は居ない。皆きちんと賢く生きている。
分からないのは、賢いからだ。
昔が悪いせいで、分裂するようになった。
それぞれの考え方を知り、矛盾を無くし、世界を分裂させる。
だが、分裂は馬鹿だ。融和した方が良い。