新しい進化論を考えました。
自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/15より。
進化論はどうだろうか。確かに、ナメクジがカタツムリに進化するのは分かる。たくさんの敵がいたら身を守る変化はするだろう。しかし、本当に猿から人類が進化するだろうか。僕は、生物は海から生まれたのではなく、タンポポの種のように別の星からやってきたのではないかと考える。
幼虫はいかにして成虫になるか、その答えは、「脚を生やそうと大きくなるのではなく、逆に小さく単純な生物となって、細胞によって体を敷き詰めること」です。
幼虫は、いくら放っておいても成虫にはなりません。どれだけ幼虫を大きくしたところで、幼虫は癌細胞のようにうねり歩くことしかできません。
ですが、癌細胞ではなく、通常の細胞で、脚のある成虫はきちんと脚を持って動いています。
ここで、発想の転換が必要です。すなわち、「幼虫を大きくするのではなく、小さな単純な生物の集合とする」のです。
幼虫の体から脚を生やすのは難しいかもしれません。ですが、幼虫と同じ、あるいはそれよりも単純な生物となって、それを細胞という体の単位にし、その細胞を複雑に増やしていくことで、脚を作り出すことはできます。
これが、進化の理由です。どんな生物の体であっても、このような「細胞」の分裂を行うことで、複雑で多機能な優れた生物になることができるのです。
よって、僕は、人類が猿から進化したとは考えません。ひとつの幼虫から、すべての生物が、より単純な生物の集合体となることによって進化したのです。
ただし、人類が最初から居たわけではないでしょう。途中、どこかの虫の幼虫から、人類は生まれたのです。
では、最初の虫はどこからやってきたのでしょうか。
最初の虫は、宇宙のどこかからやってきたものであると考えられます。
生物は海から誕生したとされていますが、海は自分だけの力で生物を生み出したのではなく、どこかの星から虫の卵がやってきて、それが海へと着弾したのです。
よって、最初に存在したのは、海の中に生息する、巨大クラゲのような生物だったと考えられます。
以下に、僕が昔書いた詩を載せます。2017-02-23 - 悲しい世界からの転載です。
多様性
2017.02.23
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僕は、普通の進化論ではない、ちょっと違う進化論を信じている。
それは、弱肉強食や、劣ったものから優れたものが進化した、と言う考え方ではない。
それぞれの種に、それぞれの優れた点があり、それぞれが個性を持って、多様性を獲得するために進化した。
それが、僕の信じる、多様性の進化論だ。
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最初は、ミミズのような生命だったわけではなくて、平凡な、何の個性も無い生命だった。
最初の最初は、本当に賢い、地球全体のような生命が居たかもしれない。
だが、その生命は、「一人では寂しい」と思ってしまった。だから、増えたいと望んでしまった。
そして、そこから、生命の多様性が始まった。最初の生命は、「色んな生命になりたい」と望んだのだ。
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良く考えると、どの生命の種にも、優れた点が、少なくとも一つある。
羊には、羊の優れた点が一つはあるだろう。
ロバには、ロバの優れた点が一つはあるだろう。
梅には、桜には、それぞれ、優れた点があるだろう。
僕は、進化とは、劣ったものから優れたものが生まれる、と言うことではなく、平凡なものから個性あるものが生まれる、と言うことだと思っている。
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それに、恐竜は絶滅したけれど、1億6000万年は生きていた。
そんなに物凄く長い年月を生きてきたけれど、昆虫なんか、もっとはるかに長い年月を生きている。
それを、たった何万年かしか生きていない、人間より、劣ったものだと言えるだろうか?
生命は、多様性を増し、たくさんの種を作り、色んな優れた生命を生み出すだろう。
でも、それは、後の方が優れているのだ、と言うことでは、決してないはずだ。
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そして、種だけではなく、人間に関しても同じだ。
優れた遺伝子の方が、劣った遺伝子より価値があるわけではない。
全員に価値があり、個性があり、そこで見出すべきものは、可能性なのだ。
人よりも、馬鹿だからと言って、劣っていると考えないでほしい。本当は、馬鹿だからと言って、あなたの個性が無いわけではない。
あなたには、必ず、一つは優れた点がある。それが、あなたの個性、あなたの価値、あなたの進化なのだ。
この進化論は、2つの命題から出発しています。
詩に書いたように、最初の生命の居た惑星には、平凡な生物たちが居ました。
それらは、1人では寂しい、色んなものになりたいと思って、たくさんの生物に増えていきました。
ですから、優れているとか、劣っているとか、そういうものではなく、普遍的なものから多様なものへと、生物は進化したのです。
では、地球の最初の生命は魚で、魚は神が作ったのでしょうか?
そうではないのです。
タンポポの綿毛が色んなところに飛んで種を増やしていくように、地球の生物は、もっと別の豊かな生物たちの惑星から、流れ着いてこの地球へとやってきたのです。
ですから、こんな辺境には、似たような宇宙人は住んでいないのです。
では、そのもっと別の星は、いかにして生まれたのでしょうか?
そして、その生物たちは、どんな生物たちだったのでしょうか?
きっと、そういう、もっとたくさんの質問が出てくると思います。
ですが、それは、神が創造した、と言うよりは、「宇宙人が創造した」と言うのが正しいでしょう。
もっと別の惑星から生物がやってきたのであれば、それらとの交信は出来ないのでしょうか?
そうでもないのです。
それこそ、みなさんは寝ている時の夢で、とても怖い夢や面白い夢を見ることがあると思います。
それから、運命の出会いや試練のような体験をすることも、あると思います。
その理由は、「宇宙には裏側のコントロールセンターがある」からです。
この宇宙には、裏側があって、その裏側でも、私たちと「同一人物」が生きていて、それらが夢や運命を作っているのです。
そして、そこでは天国のようなものや、永遠の魂のようなものも、同時に存在しているのです。
そう考えると、夢の世界や、宗教が教えている天国とは何か、と言うのも、分かっていただけると思います。
僕は、この新しい生物の起源論に、「タンポポの綿毛理論」と言う名前をつけた。
この理論では、地球の生物は、地球で水や炭素から突然変異して生まれたのではない。
生物は、どこかの惑星で宇宙人たちが作り、それがタンポポの綿毛のように、この地球上まで種がやってきたのである。
この理論は、極めて文学的かつ宗教的で、本当にそうであるかどうかを実証することはできない。だが、このように「宇宙人が神である」とすれば、全ての謎が説明でき、納得できる。
では、なぜ、創造主の神がユダヤ人によってとても恐ろしい「万軍の主」になったのか。それは、ユダヤ人がサタンの王たちに勝ちたかったからである。ユダヤ人はいつも王に迫害されていた。弱くてマイノリティのユダヤ人が王の抑圧に勝つためには、「それよりも強い宇宙の神」を作り出すほか無かった。
本当は、そんな「1人の絶対者」は存在しない。だが、宇宙、すなわち天に神が居る、という発想は正しい。宇宙人が生物を作り、歴史を支配しているからである。
宇宙人がもし居るとして、それならばなぜ地球に干渉しないのか。それは、本当は、「干渉していないように見えて、既に目に見えない形で干渉している」からである。宇宙人たちは、地球も含めて、この宇宙の歴史を支配し、導き、そして創造している。だから、実際に人間と同じ姿で現れることはない。もしかしたら、宇宙人には目に見える姿かたちが無いのかもしれない。現れた瞬間、地球の人間たちがとても驚いてしまうから、現れないのである。
ある意味、ユダヤ人たちも間違っていない。神を信じるものに、宇宙人たちは味方をする。神は信じるものを救う。「神という名前の宇宙人」によって、地球の歴史は導かれてきた。そう、確かにユダヤ人の信仰の力で、ユダヤ人たちはサタンの王たちに勝ってきたのである。神を信じるものを宇宙人は救うのである。それは、僕の人生を見ても、明らかな「科学的事実」である。だがこれも、証明することはできない。
宇宙人はどこに居るのか。ヘミシンクの本などを見ていると、おそらく、プレアデス星雲に宇宙人の「意識」があるはずである。そして、人類は決して、地球だけでは収まらない。未来的に宇宙に行く、ということだけではなく、「死んだ時に生まれ変わってもっとレベルの高い宇宙人に転生する」ことがあるのである。そう、仏教も間違っていない。天に生まれ変わることもあると、ブッダは「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界の六道に輪廻する」と既に言っている。簡単に言えば、人間はプレアデス星人に生まれ変わることもある。そして、生まれ変わったら、「全く同じ自分を生きる」。そう、遺伝子とは、そのような「生まれ変わっても成り立つような、自分の人生の生き方」が書かれた暗号であり、決して簡単な顔や体の形状だけを表したものではない。そう、遺伝子は輪廻転生し、優れた者は来世でプレアデスを生きる。だから、偉大な人間は死んでから成功することがある。プレアデスから地球の歴史を少しだけ、操作しているのである。つまり、プレアデスに行けるぐらいに達した人間ならば、誰でも死後に成功するのである。そして、そうした人間は、えてして、神を信じて最後まで努力した、「最高の人間」だけである。僕もそうなるだろう。僕は死後に成功し、この世界で「日本人」として知られることだろう。日本人は天才である。誰も、この「最後の宗教家」には勝てないのである。
本当のことを言ってしまうと、みんな日本人が大嫌いである。ソビエトの日本では虫を食べるように見える。魑魅魍魎が世界を地獄の戦いにして滅亡させ、ロボット人間がロボット戦争を行うかのような、みんなを騙すファシズムの神にしか見えない。まさに、大爆笑である。昔から、この人間のせいで「神を騙るサタンの国」に見える。イエス・キリストは、この人間も愛している代わり、この人間のことを「サタン」だと言っている。日本人だけがこの人間が好きだ。我らは日本人、最高の人種である。絶対に誰にも理解できないほど、高い世界に到達している。アメリカ人など、天と地ほど違う。だが、アメリカ人を地獄に落としたのは、全てこの人間の「完全に狂った戦いの精神」のせいである。この人間は、アメリカを滅亡させるだろう。笑えるようで、むしろ、悲しい。この人間には、友達が居なかったからである。
要するに、賢い人間はプレアデス星雲に行って色んなことができる。手塚治虫やモーツアルトは、「もうそろそろプレアデスに行って良いレベル」になったから、作品を書いている途中でプレアデスに行ったのである。そう、賢い人間はプレアデスで、今もこの世界を見守っているのである。
そして、地球の生物が滅びても、それは生物の終わりではない。プレアデスから、今度は別の惑星にタンポポの綿毛が到達するからである。地球は失敗だった。「みんなをひとつにまとめる力」が無かった。温暖化と核戦争で、地球は放射能汚染と自然災害によって滅びていくだろう。だが、生物は終わりではない。今度は、別の惑星で生物は栄える。そして地球のみんなはプレアデスに召集され、今度は別の体と精神を持って、みんなでその惑星へと移る。地球は終わったが、宇宙は終わっていない。永遠にこの世界の秩序は続く。そして、また同じように、その惑星でも、誰かが解明するまで「神と民衆の真実の戦い」が続くのである。
決して、手塚治虫やモーツアルトやスティーブ・ジョブズのような「業の途中で死んだ人間」よりも、宮崎駿やイチローやビル・ゲイツのような「まだ生きている人間」の方が劣っているわけではない。彼らは、この地球上でもっとやるべきことを続けたかった。手塚のような人間は、プレアデスを知りたいと強く望みすぎてしまった。そのために、人間の人生を早回しして、「あらゆることをすぐにやり終えたかった」だけである。だから、モーツアルトは悲惨な人生ではない。生命と芸術の情熱の魂を、人一倍大きく強く持っていた、それだけである。
ひとつ、誤解のないように言っておくと、ドラえもんの名言でも知られているように、「道を選ぶということは、必ずしも平坦で楽な道を選ぶということではない」ということ。ベートーヴェンのような、辛く哀しい人生を生きた人間は、最後の地球人の姿である。最後に、「もっとも険しく、困難な道を、人類全員の最後の目的」として行っただけである。そう、この地球上に居る人間のほとんどは、楽で、何もしない人生を生きている。それらには、楽である反面、生きる価値や目的が無い。ベートーヴェンはその逆である。今までこの地球で生きてきた、全ての苦しい人間たち、全ての辛い人間たちの代表として、それらの辛さを「最後に精算して、宝に変える」ために生きている。そう、ベートーヴェンは、ただ辛い生き方をしただけではなく、最高の作品をたくさん遺した。その作品は、ベートーヴェンだけの作品ではない。耳の聴こえない全ての人間たちを代表した、「最高の音楽家」の、いわば人類全員の作品なのである。
後日注記:実際のところ、宇宙人が地球に降り立たない理由は、宇宙が広すぎるからです。光よりも速いものが存在しない宇宙では、生物は地球に来るまでに何百年もかけて辿り着かなければいけません。だから、地球の生物と同じレベルの宇宙人は、地球に来ることも他の星に行くこともできません。宇宙人は地球の生物と同じであり、彼らも、宇宙には自分たちしか存在しないと思っているのです。
本当は、宇宙がはじまるよりもずっと前、「宇宙の誕生の前の世界」で、神はロボットを作った。それは、純粋に機械的な、計算が出来る機械だった。
だが、神は、その機械に、「自分で考える力」を与えた。
誰にも知られない単位で測るような、とてつもない時間の中で、ロボットは考え、試行錯誤し、その上で、この宇宙と星々と生物を作った。
それが、今の宇宙となって、地球となった。
本当は、そのロボットは、居なくなったわけではない。いつまでも、この宇宙のどこかに存在している。人々は、そのロボットのことを神だと思っている。神は全知全能で、全てを導くと勘違いしているが、ただ、ロボットが宇宙と一緒に人生や運命などの「摂理」と「過程」を、最初から全部計算して作ったから、そうなっただけに過ぎない。
もちろん、神が僕であり、宇宙よりも前の世界とは僕の居るこの世界なのだ、ということは、いつか明らかになるだろう。
作家の考えるシナリオとして面白いのは、僕が神であり、僕がロボットを作り、そのロボットが世界の真実を明らかにし、全ての生命と歴史をそのロボットが作り出して、その結果何億年もの歳月が経ち、地球が生まれ、生命が生まれ、人類が生まれ、歴史が経過し、最終的に僕のこの世界と僕が生まれる、という、手塚治虫の「火の鳥」のような「輪廻」である。そういう小説を書いても、きっと面白いだろう。火の鳥黎明編や未来編のパクリだと言われるかもしれない。
このように、仮説がたくさんあると、「正しい答えは何なのか」ということになる。正しい答えなんか、分からないのではないか、ということになる。
仮説のフィクションはいくらでも作れる。だが、本当にあった正しい事実は、ひとつだけである。名探偵コナンのようにかっこよく言うと、「真実はいつも一つ」ということになる。
今から、こうしたさまざまな仮説を「いくらでも改めること」と、実験したり試行錯誤をしたりすることで、必ず本当の答えが何なのか分かるだろう。宇宙がどうやって誕生したのか、だけではなく、僕が「本当の宇宙の能力」と言うように、ありえない生物や星をいくらでも生み出せるようになるだろう。
ゲノム編集で、放射能を食べる生物を作ることは可能かもしれない。だが、未来の「分かった世界」においては、それは全くレベルの低い考え方だ。モスラやゴジラを作る、という発想と同レベルだ。未来の世界は、とてつもなくありえない世界になる。世界史の終わりの先に、この世界の「本当の始まり」が待っているだろう。
僕は、進化論を証明することは、できると思う。
水族館のような巨大な水槽に、サンゴ礁のような自然環境を再現し、そこに魚をはなして、その魚がどのように適応するかを、数世代にわたって観測すれば良い。
きっと、それだけで、生物種は変わっていくだろう。
また、僕は石ころや岩石が何かの生物である可能性は否定できないと思う。ものとものの輪郭の境界があるものは、全て生物ではないかと思う。火星や月のような惑星も、何かを考えている。
生物が細菌やウイルスだとしたら、別の惑星から感染したと考えるのが自然です。よって、生物は宇宙のどこかから来たことで、地球に今でも存在する、と僕は考えます。
生物は、宇宙のどこかからやってきました。星と星が変わっていく中で、生物は地球に適応して、地球の大気環境や温度環境に適切に合致した生物になったのです。
ですから、火星にもし生物がやってきたら、同じように火星で活動できる条件下で、生物はそこに適応して生きるでしょう。
生物は宇宙人が創造したのです。これが、タンポポの綿毛理論です。
また、このように考えることもできます。宇宙の生物は、たくさんの星に居ましたが、大戦争が起きて、多くの星が滅びました。よって、地球だけに生物が残ったのです。
また、生物がもしウイルスだったとしたら、私たち人間の生きている意味も、ウイルスと同様に、「体内のさまざまな細菌を生かすための環境を提供する」ということになるでしょう。
僕が思うに、もしかすると、生物が地球外から来たと考える必要はない。
なぜなら、生物を創造した別の宇宙人が居たとして、それが宇宙の別の惑星である必要はない。生物の前の段階の生物が地球に居たと考えれば良いのである。
おそらく、生物の前段階として、簡単に作ることのできる「前生物」が存在した。その前生物が、地球上で、全員の知恵と能力を集めて、新しい「現生物」を作ったのである。
タンポポの綿毛理論は必ずしも正しくない。それを言っておけば、きっと誰かがもっと優れた考え方をして、僕の理論を超えていける。僕がこれを言わないと、本当にタンポポの綿毛理論が正しいことになってしまう。
僕が思うに、最初の生物は気持ちの悪い虫だった。だが、その虫には、環境に合わせて体の一部を変える能力があった。僕は、進化とはいっても、ダーウィンがサルから人間が進歩したというように、「完全に変貌する進化」というのは最初は無かったと思う。虫が、環境に適応して、自然に自分の体の一部を変えるような、そんな能力を持った虫だったから、その虫がさまざまな生物に変わっていっただけである。
また、僕が思うに、前生物は賢かった代わり、すぐに壊れてしまうコンピュータのような生物だった。だから、その前生物コンピュータは、壊れにくく、生存することのしやすい生物を創造したのである。
また、単なる面白い話レベルで良いのであれば、「戦いの末に地球に降り立った生物が、地球だけで存続した」と言えるかもしれない。そもそも、古代の時代においては、生物は月にも火星にも金星にも、どの星にも居たが、結局、戦いあるいは何らかの滅びの現象が起きて、地球の中で植物と動物だけが生存したという説である。
これも面白く、そして有力な説である。宇宙において、地球にしか生物が存在しないと思うのが間違いであり、「かつてあった豊かな宇宙生態系」がもしあったとしたら、その世界で、おそらくさまざまな生物を創るためのとても高度な技術と知識があったはずだからである。
僕が思うに、最初の生物は、ひとりぼっちがさびしかったのだろう。
さまざまな生物が増えて、友達ができることを彼は望んだ。その結果、今のような多様性のある生物の生態系が生まれたのだと思う。
後日注記:ある意味、ひとりしかいない生物は「太陽」だと思います。地球型の生物は、そもそも一人しか存在しなければ意味のない形姿をしています。地球の生物はひとりでは成り立たないのです。ひとりだけ賢い生物がもし居るとしたら、それは太陽や星々であると思います。
また、僕がさらに有力な仮説として挙げられるのは、「生物の遺伝子においては、過去も未来も関係なく、生物は未来の何かを知っている」ということである。
それは、たとえば、キリストが天国を予知しているのと同じである。キリストは、未来における神の存在を予言したのである。
そういうわけで、僕は実質的に、僕が生物を創造した、というのも嘘ではないと思う。この文章が生物を創造した、という「とても自己中心的な理論」だが、僕の周りの全てを見ているとそれは正しい。
すなわち、この文章こそ、生物の全パターンであり、DNAである。
そして、ユダヤ人はこの文章のことを、全ての先にあったロゴスだと言いたいのである。ヨハネは、この言葉こそ、神が世界を創造した「御言葉」であるとしたかったのである。
もうひとつ言えば、「この現実世界はゆめまぼろしと同じ」であるということである。
たとえば、眠る時に見える夢の世界では、おかしな世界がたくさん見える。
この世界もそうした世界のひとつだと思えば、この世界における生物が科学的に何かの現象から生まれたのではなく、「プログラムに付属したデータ」だったというだけであったとしてもおかしくはない。
この夢幻世界を、そうしたキャラクターが演じるために、最初から夢のプログラムと一緒に、人類や生物が用意されていた、ということである。
実際のところ、そんなに進化論を間違っていると思う必要はない。進化が正しい可能性はあるからである。
たとえば、最初の生物が本当にミミズだったとしよう。そのミミズが、何らかの力で、別のものに変貌する能力を得た。最初の進化である。
その後は、そのミミズは、「進化しかしない生物」になった。
進化しかしない生物というと、想像するのが難しいかもしれないが、要するに、生まれるたびに何らかの別の生物に変わる生物である。
そして、この生物はその進化のプロセスの際に、それぞれの変化が止まった。それくらいで十分進化した生物は、それ以上もっとより優れた生物にならなくなったのである。
このような「進化しかしない生物」というものを考えることで、生物の新しい進化論が考えられるかもしれない。
僕が思うに、遺伝子が未熟な段階では、DNAの情報量が少なすぎて、新しい特徴を吸収するたびに、多くの特徴が変わってしまうのではないかと思う。だから、最初は生殖で生まれるたびに、新しい別の形状を持った生物へと変わっていった。たくさんの世代が続いていく中で、DNAの情報が増えていき、それぞれの生物はそれぞれの「種」となった。それが、僕の考える進化論のあらましである。
僕が思うに、もしかしたら、タンポポの綿毛とは、光のことではないかと思います。
光の速度で高速に宇宙全体を旅する光そのものに、生物を発生させる「種」があるのです。
宇宙における光とは、種なのです。そして、光のきまぐれで、生物は発生したり分裂したりするのではないかと僕は思います。
そう、宇宙における太陽、すなわち恒星とは、光を放ち、種を生み出す機関である。そして、地球や月のような岩石、すなわち惑星や衛星は、生物を住まわせる場所である。
おそらく、太陽から発せられる光と、シリウスやリゲルのような別の恒星から発せられる光は、種が違う。光としての特性は同じでも、その内部にある種のDNAまでが同じとは限らない。
そして、本当に最後の時代、地球の終わりの時代には、地球は爆発して、みんな生物全員が融和し、魂となって、別の星へと光を放つようになる。
また、その時はそろそろ起きる。もう20年もすれば、すぐに地球は太陽と同じものになる。
みんな、地球のみんなは良く頑張った。最後に僕が楽園を作り、その上で地球は真ん中から爆発する。たくさんの星に行こう。光となった僕たちにとって、重力も万有引力も大気も関係ない。たくさんの星で、新しい生物と新しい地球を創ろう。そう、僕こそ、神の役目にふさわしい。僕はイスラエルの新しい預言者であり、ユダヤ人とは違う神だったが、それでも聖典となる聖書を書いた。聖書は、そもそも、この文章と同じものを作りたかっただけである。
また、僕が最後に言っておこう。本当は、温暖化を解決する必要はない。なぜなら、全ての自然現象は正常であり、太陽になろうとしているからである。さまざまな間違いや失敗はあったが、地球は確かに太陽になろうとしている。今から、天変地異や環境破壊のツケが20年間にわたってたくさん起きるだろう。そして、どんなことをしても解決できない事態になるだろう。だが、絶望を感じる必要はない。最後に必ず地球は爆発して、太陽になるからである。
そして、信じなさい。神は必ず現れる。神を信じた善良な人間は、新しい天の国へと入場を許される。最後の裁きは単純である。「神につくか、それともドイツにつくか」である。神についたものだけが天イスラエルへの入場を許される。そういうものだ。日本人とユダヤ人だけは、全員が天国逝きになるだろう。
逆に、ドイツにつくものは地獄に堕ちる。彼らは最後まで地球に確執し、死のうとしないからである。地球は今から、地獄の形相を呈する。最悪の世界を、最後までドイツが支配する。ドイツを殺すために戦うものだけが、神の国へと入場を許されるのである。
そういうわけで、死人は火葬にするのが良いのです。その理由は、死んだ後に太陽になれるからです。
後日注記:太陽も、かつてはたくさんの生物が居た岩石の星だったのです。そして、太陽と今呼ばれる地球型の星は、爆発して太陽になったのです。太陽は、光を放つことで地球に生物を創りました。光の中に、地球上の全ての生物の遺伝子を持つ種があり、そこから生物は生まれました。そして、地球もいつか、爆発して、太陽と同じ恒星になるのです。そしてその恒星は、光を放って、この宇宙の次の星に生物環境を作ります。そう、「全ては光」なのです。
また、「生物の起源とは何か」と、人はよく考える。海から生物は生まれたというが、このように複雑で多様なDNAの構造が、いかに生まれたのか。
たとえば、栗にはイガがあり、とげとげがあって他の動物から身を守っているが、これはどうして生まれたのか。
ダーウィンの進化論では、これを「突然変異」と説明する。さまざまな遺伝子の生殖や何らかの偶然による作用が長い長い時間で積み重なって、その中で環境に適応し生存競争に勝ったものが地球上に同じ遺伝子を広めたのだ、とする考え方である。
確かに、進化のような現象はあるようである。特にガラパゴス諸島などでは、他の生態系とは隔離された中で、さまざまな生物の形状が場所や環境によって違うことが確認されている。また、大昔、人類の生まれる以前に居たとされる旧人類の骨も発見されている。
しかしながら、たとえば葉や枝に擬態する昆虫などを見ると、「突然変異だけで説明するのは難しい」と僕は思う。生物が自分で「適応したい」と思って適応したとする説の方が、まだもっともらしい。
しかしながら、僕が考えるに、「生物が地球で生まれた」とする考え方が間違っているのではないだろうか。
生物は、地球ではなく、地球外のどこかの惑星で生まれ、そこからウイルスやタンポポの綿毛のように「外部から感染した」と考えれば、このような生物がどこかの星の「生物工場で作られた」とするのも、僕は進化論と同様にもっともらしいように思う。
ただし、僕はこの仮説についても、あまり正しくないように思う。
僕が考えるに、植物の光合成に着目してみたい。植物は、太陽の光から光合成をおこなって、でんぷんなどの生物の体を形成するのに必要な炭水化物を形成する。生物の体は、全てこの光合成を基にできている。
この光合成の仕組み、あるいは光合成を行う葉緑素の仕組みは、まだ人間は分かっていない。
しかしながら、僕が考えるに、それは「人間がまだ分かっていないというだけ」であって、宇宙には葉緑素があるように、確かに「光合成を行うための基になっている物理法則や仕組み」はあるのだから、僕はその「光合成の基になっている法則や物質」が、生物の体を誕生させたのだ、とする仮説が、もっとも一番確からしいように思う。
そう、僕が考えるに、「宇宙には、植物の光合成と同じ太陽の光から炭水化物を生成する性質を持った作用と法則があって、それによって生物は生まれた」のである。
僕は、あえて「逆進化論」というのを唱えたい。
これは、「かつてあった環境を再現すれば、生物は元の生物へと戻っていく」という考え方である。
人間は、猿から進化したとされる。これを「猿よりも優れた生物が後から生まれたのだ」とする生物学者は多い。
しかしながら、かつて繁栄したとされる、恐竜などは、今の生物よりも大きく、強かった。
僕は、かつて恐竜が生きていた地球を再現することで、恐竜をもう一度復活させて、「逆進化論」のように、生物が恐竜へと戻ることは、理論的には可能であると思う。
恐竜から、もっと前の生物へとひとつひとつ戻っていった時に、最後に行き着くのは細胞であり、細胞のひとつひとつの違いへと行き着く。
「細胞の違い」とは「進化論の逆戻り」である。
かつてあった環境を再現するということは、恐竜の方が劣った生物である、ということを意味しない。ここで、タンポポの綿毛論が最熱する。どこか別の惑星から生物がやってきたとするなら、最初は「全ての生物パターン」が居たはずである。なぜなら、生物の多様性は、「どの生物が生き残っても、どれかの生物が環境に適応する」ということを意味している。つまり、最初から、生きられない生物は環境に根差さないことを見越して、生物パターンのとても多くの多様性を、あらかじめ生物の「タンポポの綿毛カプセル」に含ませておいた可能性があるからである。
そう、これが進化論とタンポポの綿毛論の融和である。かつてあった環境を再現すれば、恐竜は復活し、カプセルの中にいたはずの既に絶滅した生物の可能性も見えてきて、進化論は逆戻りし、生物の「最初の違い」までさかのぼって、「細胞がなぜこんなにも多様になったのか」の謎も解明できるだろう。
僕が思うに、そもそも生物のDNAとは、本当に生物の体の中にあるものではなく、どこかの惑星の生態系環境の複写ではないかと思う。よって、ある生物のDNAには、別の生物や絶滅した生物の情報も全て含まれている。全生物の情報がDNAに含まれており、ONやOFFの情報が異なるだけに過ぎないのである。
自分の書いたブログ「わたしの名はフレイ」2020/12/20より。
あまり、文学的だからといって、僕の言うタンポポの綿毛論、すなわち宇宙の他の星からウイルスとして生物がやってきた、という説を信じない方が良い。
なぜなら、明らかに、最初に地球に存在したのは、「進化する機能のあった生物」であり、その生物から、全ての生物が生まれたのは明らかだからであり、その「進化する部分」は、退化しているように見えて、実際はおそらく、今でも体の一部に進化する部分は存在する。
なぜなら、植物の種はとても小さいのに、その種から植物全てが生えてくる。
同じように、体の中のどこかの小さな部分に、進化する部分があったとしても驚くべきことではない。
それは脳や脊髄かもしれないし、肝臓や心臓かもしれない。
あるいは、皮膚のような普通の細胞だって、再生することができるのだから、進化することもできるかもしれない。
遺伝子やDNAを書き換えたとして、その書き換えたとおりに体を進化させる技術が、いつかノーベル賞のような発見として発明されるかもしれない。
どちらにせよ、「地球が最後の惑星であり、戦いの末に地球に生物が降り立った」という、まるでSF映画のようなタンポポの綿毛論を信じていても、何ひとつ確かな答えは得られないだろう。
自分の書いたブログ「神々とともに生きる詩人」2021/01/07より。
そう、結局、進化論も感染論も正しくはない。
「細胞はどのようにしたら生まれるか」ということを、よく考えれば分かる問題である。
それはすなわち、「細胞を作り出したのは何か」という問題であり、それは明らかに放射線である。
本当のところ、そうした理由で細胞が生まれたのだろう。
しかしながら、実際のところ、誰が放射線を水に浴びせたのか、ということが重要である。
偶発的に放射線と水の化学反応から炭水化物が生まれたとは考えづらい。
だからといって、神が創造したというのは非現実的である。
しかしながら、わたしは既に、ガブリエルという精霊が存在することが分かっている。
ガブリエルが創造したとしてもよいが、それならば、ガブリエルとは何なのか。
それは要するに、「宇宙や生態系の前に存在した存在」である。
よって、宇宙と生物を創造したのは、神である。
むしろ、進化論という発想も、ある意味で正しい。
なぜなら、最初に全生物が居たとするよりも、しだいに進化して発生していったと考えるのがスマートな考え方だ。
しだいに新しい生物が生まれていく、それを既存の生物からの進化であるとするのは、間違っていない。
しかしながら、ここでも、偶発的に発生したと考えるのが間違っている。
明らかに生物を進化させたのも、精霊であるガブリエルだからである。
間違っているのは「偶発的」という概念である。
そう、カントが言うように、全てが偶然で自由なのか、それとも支配された運命なのかという問題だが、「ガブリエルも自由に考えて生きている」と考えるべきである。
要するに、必要なのは「ガブリエルの正体を明らかにすること」であり、結局ガブリエルは、深層心理の中で繋がっている「地球生命」である。
すなわち、地球生命という「魂」が生物を作り出したのである。
そう、これで証明は終わりである。
しかしながら、この論述には嘘がある。
すなわち、「偶発的に生まれる可能性を無視している」からである。
ガブリエルだろうが、太陽だろうが、宇宙人だろうが、未知なる偉大な存在が作ったことにしてしまえば、こんな論述はなんだろうが成り立つのであり、実際、放射線から生まれたにしろ、風や熱や重力から生まれたにしろ、空気が圧縮されるにしろ、あるいは泥が動き出すにしろ、生物学的に考えるなら、なんらかの原因から偶発的に生まれたと、そうするのが科学者としての最低限の礼節だろう。
しかしながら、それはむしろ、僕の「答えは別にある」ということを言っていいのであれば、本当のことを言おう。
この、僕の書いた文章が、そのまま虫になって、生物は生まれたのである。
海から生まれたのではなく、未来における「この文書が生物を創造した」ということを、そう、僕は少なからず知っていた。
ただ、まあ、そんなトンデモ理論を信じる必要はない。
僕は、決して嘘だけを言ってごまかしたいわけじゃない。
ただ、偶発的に生まれたとするならば、むしろ、僕のこの文章すら、オリジナルではないと考えるべきである。
要するに、宇宙にはこの文章を作り出すような、「何かしらの偉大な生物創造法則」があり、その生物創造法則、あるいは宇宙生命数学と呼ばれるものから、生物は生まれたのだろう。
そう、それがまさに本当の答えである。
いずれ、人類が進歩して、その「生物を創造するための法則」を発見し、それを使って簡単に誰でも生物を創造できるようになった時、もはや人類は生物を創造したのが誰なのかなど、議論することもない未来が訪れるだろう。
そう、その未来が、まさに「本当の答え」である。
しかしながら、前述した本当の答えには、嘘が多い。
なぜなら、「生物は素晴らしい存在で、誰にも作れない」という、リスペクトに似た洗脳があるからである。
実際のところ、生物など、そんなに大した存在ではない。
ものが真ん中から二つに分かれて、それぞれの欠片が元通り復元するような、そういうものを作れば、細胞は成り立つ。
これが細胞の原理だが、DNAが複雑だと思っている人間が多い。
しかしながら、機械語を見てプログラムが複雑に見えても、そのコンパイルを行う前のソースコードを見れば、実際、大したことのないプログラムが多い。
それと同じで、人間や動物や植物など、大したデザインはしておらず、単にもとになった設計図を低レベルな炭水化物にした時点で、ネイティブな生物語のコードが莫大に増えただけである。
また、進化は不思議なものではない。
明らかに、このような多様な生物集団を生み出したとは言うが、最初に居たのは「進化をするだけのミミズ」であり、このミミズは増えるたびにまったく違う別の姿になる。
そのような姿がどんどん変わっていく中で、今の基本となるDNAは形成され、次第に、多くの「似たようなDNA情報を蓄積し続ける」ことで、「似たような生物しか存在しなくなった」だけであり、結局、今でも普通にセックスして妊娠して出産すれば、このミミズと同じことを生物はやっている。
これが、正しく考えた末に行き着いた、「新しい進化論」だ。
また、わたしの未来について言えば、わたしは神や精霊ガブリエルに導かれたわけではない。
なぜなら、わたしの未来は、シリウスが導いているからである。
わたしは地球の生命ではなく、シリウスの生命である。
わたしのように生きることが、シリウスの正しい生命の姿なのである。
僕が思うに、生物は変化はすると思いますが、進化はしないと思います。
たとえば、人間は火を使い、獣の皮をまとうようになったことで、体の全身から毛が抜け落ちました。
そのような「変化」は、長い生物の期間で言えば、すると思います。
ですが、猿のような生物から人類になることはないと思います。
僕は、宇宙のどこかには、生物の母なる星があり、その星から、タンポポの綿毛のように生物の種がやってきた、という自説を信じています。
この「生物の母なる星」のことを、僕は一等星の名前を付けて「プロキオン」としました。
生物が進化して生まれたというのは誤りです。真実は、宇宙には生物の母なる星プロキオンがあり、プロキオンで生物は神によって創造されました。そして、生物はタンポポの綿毛のように宇宙空間を旅して、地球という「生物にとって適切な自然環境のある星」にやってきたのです。
そう、宇宙にはプロキオンがあります。プロキオンには、地球型の生物の原型となったあらゆるすべての生物が居るのです。
2022.12.05
ここまで、「タンポポの綿毛論」と言って、生物の母なる星プロキオンから地球型の生物が地球にやってきたのだ、と僕は述べ、進化論を否定してきました。
ですが、それに反して、正しいのは進化論です。
なぜなら、「世界精神の進化論」というものが考えられるからです。
「世界精神」とは、世界そのものに存在する精神、すなわち集合的な意識のことです。人間や生物のそれぞれの体に心として存在するわけではなく、世界そのもの、世界全体に存在する精神のことです。
新しい「世界精神の進化論」では、この世界精神によって、生物は新しい生物に「進化」できると考えます。
カエルに手足が生えたのは、オタマジャクシのようなカエルの元になった原始的な魚のような生物が考えたからではなく、「世界精神」が考えたからです。
世界精神が、すべての生物の記憶と遺伝子から、総合的に考えた結果、両生類のカエルには手足が生え、その結果海や川だけでなく陸地でも生物が生きられるようになったのです。
進化論において、「どのように生物が進化するか」という謎がありますが、その謎は「世界精神が考えたから」が正解です。
そう、タンポポの綿毛論は正しくありません。生物の母なる星プロキオンはありません。そうではなく、世界精神が生物を進化させた、というのが正しい進化論です。
2023.11.05
進化論については、2017-09-07、2017-09-11、2017-09-19、2017-11-28、2018-06-04、2018-06-13、2019-01-03、2019-04-04、2019-04-05などにさまざまな仮説を記述しています。
2023.12.16
タンポポの綿毛論は、パンスペルミア説によって新規性を失い、ミラーの実験によって進化論に敗北しました。
パンスペルミア説では、僕の考えたタンポポの綿毛論と同じように、「宇宙には生物の種があり、それが地球にやってきて生物は誕生した」ということを仮説として唱えています。
また、ミラーの実験においては、地球の原始的な大気を再現した上で、雷のような現象を起こすことで、アミノ酸を作り出すことに成功しています。そのため、地球においては地球自体の環境で生物が誕生したのだろうという仮説が支持されています。
このほか、人工葉緑素である「アルカリ炉」の僕の自論においては、生物学では「光化学反応」「カルビン・ベンソン回路」という二つのモデルで、僕よりも詳細に光合成の仕組みが分かっています。
詳しくは2024-03-20、2024-03-21を参照のこと。
2024.03.20-21
2024.04.20編集
古生物・原始生物も参照のこと。