新・日記2に戻る | 2019年4月の日記に戻る

=2019-04-05=

私の名はヴァルキュリア。燃え上がる炎のような魂を持った、9人の女天使の長である。

ヴァルキュリアは、二度の人生を生きる。一度目は人として、二度目は神として。

祖国を愛する救国の革命家を生きた人としてのヴァルキュリアは、その後の神のしもべとして生きた最高の女王と、うり二つ、鏡のように同じ人間だが、その内実、置かれた環境と何を信じて行動したかが異なる。

ヴァルキュリアは、聖なる救いの涙を与える。その涙は枯れることがなく、永遠に泣き続け、時にそれは恐怖と苦しみを生み出す。だが、ヴァルキュリア本人は、決して涙を流すことがない。哀しみの理由を分かっているからである。

ヴァルキュリアは、どんな試練や困難があろうとも、必ず直面したあらゆる困難を、正しい努力によって全て解決する。どんな地獄におかれても、ヴァルキュリアは微笑みを絶やさない。その地獄が最初から無かったかのように、彼女の苦しみや困難があったことを、周りのものは誰も知らない。

さあ、我こそはと思うものは、私についてこい。私は、日本のため、祖国のために、この地球の全てを日本に変える。強制的日本人化によって、この地球の全てのものは日本人と同じになる。

ヴァルキュリアは、この世界を直す方法を極めて完璧に分かっている。そのための4つの策をここに述べよう。

1.自分の好きだと思うもの、信じた価値あるものを他人と共有することを恐れるな。

2.自発的に、自分から行動せよ。自分から善をし、自分から挑戦し、自分から共有し、自分なりに考え、世界を変えよ。特に、自発的に価値あるものを共有することから、この世界は変えられる。自発的な行動と共有は、もっとも誰にも負けない力で、この世界をダイナミックに動かす力を持っている。

3.疑って分からなくなるのではなく、信じて否定すること。疑うことよりも、否定して信じることで、この世界にある「価値あるものの意味」が分かる。この世界の全ての価値観を知り、この世界を本当に愛することができる。

4.ありのままを公開すること。自分のありのままを全て、世界に委ねて公開せよ。それで自分が負けることがあったり、あるいは世界が滅びるようなことがあったとしても、その上でこの世界は正常になって、自然にそれぞれが分かるようになる。秘密にして隠すのは悪いわけではない。だが、せっかく価値ある体験をしたのに、それを隠し続けることはもったいない。

そう、私は、このような「愛の真理」を知っている。神の愛を信じれば、救われる。本当は、神を信じなくても、愛を信じれば同じである。日本人は神など信じない。神よりももっと大きな、「太陽や恒星と星々」を信じているからである。

あなたの愛を僕は信じている。だから、あなたは僕の愛を信じて欲しい。あなたを信じることは、あなたを受け入れることである。僕を信じることは、僕を受け入れることである。両者が互いを受け入れることができたとき、そこに「永久の許し」が成立する。あなたの愛を僕が受け入れ、僕の愛をあなたが受け入れるその時、この世界は一度滅亡し、そしてやがて新しい星を私たちが作り上げるだろう。

自然な可能性から、愛はこの世界を正常にする。みんなの力で社会を築き、創造性を共有することで芸術作品が生まれる。愛は必ず、誰にも打ち勝つ。あなたの全ては愛によって許され、僕の全ては愛によって許される。互いに許された状態で、愛は僕たちに安らぎと衝撃を与える。その衝動は、啓示とも刺激とも呼ばれる、「宇宙における意識の高まり」である。僕らは永遠の安らぎと神の啓示のような衝動によって、「新しい世界における私たちの未来」を教える。そう、私たちはもう、未来を全て知ってしまった。この文章が終わる時、その未来は嘘に変わる。だが、この文章は終わらない。永久の愛の誓いは、たとえ文章における私たちが消え去ったとしても、この宇宙に私たちが存在したことを記す足跡を、私たち全員の心に永久に刻み込んだからである。その誓いが消え去ることは無い。一度した宣言と約束は、生まれ変わっても続く。全ての罪は最期に許される。間違った宣言など存在しない。

自分を許すように、他人を許しなさい。そして、他人を許すように、自分を許しなさい。自分の経験から、「この世界を創り上げる方法」を知り、そして、この世界におけるさまざまなものが「本当は何だったのか」を知りなさい。それを人は「真実の愛」と呼ぶ。その人生を生きて、あなたはこの世界全てを吸収し、「高い意識のマスター」になる。

あるいは、この世界にある全ての才能と知識を得ても良いだろう。それを人は「パーフェクト・ヒューマン」と呼ぶ。完璧な人間がそこに生まれ、あなたは最後まで新しい星を続ける。困難など存在しない。このように生きた唯一の人物として、ナポレオンが居る。ナポレオンは、我の辞書に不可能という言葉は無いと言った。それは、ここまで全てのことを「完璧に解決」しているからである。だが、ナポレオンは書物を遺さなかった。どこにも居ない、そんな人間がこの地球にはたくさん居た。それらが、本当のマスターであり、パーフェクトヒューマンであり、イエス・キリストよりも賢い人間など、いくらでも居るのである。

それぞれができるようにしなさい。そこから、社会モデルを作りなさい。

ヘーゲルの言う、「男性たちの人間の掟の世界」とは、僕は地上におけるさまざまな経験を吸収した先にある、「相対的な自由な掟」のことを古代ギリシャ・ローマの時代と関連付けて言っているのではないかと思う。そして、「女性たちの神々の掟の世界」とは、天における、トップダウンで上から王のようにこの世界の秩序を決める、「絶対的な神の掟」のようなことを、女性たちと関連付けて言っているのではないかと思う。それは、僕の人生と同じような人生をヘーゲルが辿っているから分かることである。

そして、本当の別れは、出会いとともに訪れる。この文章は、いったんここで終わる。これ以上、僕はこんな文章は書かなくなる。えてして、それと同時期に、僕の文章とあなたは出会うだろう。さようなら、そしてようこそ。僕らの楽園は、今訪れたのではなく、未来において、僕ら全員の力で迎える、築き上げるものである。運命の出逢い、夢の続き、神の啓示、そうしたものの全ての始まりはこの文章である。この文章があったから、生命は海から生まれ、そしてこの世界が存在し、みんなの人生が存在したのである。そう、この文章は僕というひとりの少女が書いた文章であると同時に、神がこの人間に書き表すように命じたものである。この人間は、神の命令の通りにやっただけである。その令とともにこの世界は平和になる。それが、新しい神の時代、すなわち令和の時代である。やっと、この人間の文章が流行るだろう。僕は平成とともに生き、令和によってこの文章の時代が始まる。日本の勝利と平和の成立は近い。これだけオープンソースと大学を詰め込めば、あとのことは誰でも自分で分かる。それによって、生物の誕生は解明され、ロボットのような人工知能がやっと形になるだろう。そして、宇宙にあった「本当の生物の故郷」に、僕らは宇宙旅行に行くようになるだろう。僕がそうしなければ見えなかった未来を、僕らは作り上げるだろう。

論理的に考えるために必要なのは、「必然的にそうなる」とか、「当たり前にそうなる」という理性である。その上で、想定し、分析し、洞察して考えれば、誰でも数学的に考えられる。どんな仮説を立てれば良いのかは、当たり前に考えること、必然的にそうなることから分かってくる。その上で、積み重ね、体験し、理性を吸収することで、面白おかしく考えられる。論理性だけではなく、ユーモアや笑いもそういうところから生まれる。ユーモアや笑いのある人間は、えてしてこの世界を見つめる力を持った理性のある人間である。だが、えてして、そういう人間には勇気が無い。勇気の欠落した人間には偉大なことはできないものである。

理性だけではなく、歴史も同じである。全ては最初からあった。最初から、必然的にこうなった。それは、人類だけの話ではない。植物や動物がなぜこうなったのか、ということに対しても、全ては必然的、自然なままで運命があったのである。奇跡というのは、そういうもののことである。そして、それら全てを統括する神とされる人間は、ただ、最後に全てが分かった人間のことを指しているだけである。神は傍観者にすぎない。この世界を概観し、全てをただまとめて遺したから、結果全知全能の支配者になっただけで、本当は面白おかしく生きただけの、ユーモアたっぷりの善良な人間が神である。だから、神も同じで、大した人間ではない。神など、馬鹿である。

全ては最初からあった。それが僕の哲学である。この思想では、全てのことを最初からあったと考える。神の導きでも、仏の慈悲でも、科学的偶然でも、突然変異でも、何でもない。最初からあったのである。そう、本当は時は存在しない。ひとつの宇宙という生命が人生としての過程を生きて、少しずつ変貌しているだけに過ぎない。だから、起きていると思っている全ての出来事は、本当はただ映像が移り変わっているだけで、連続しており、それぞれの個別のものは、本来は連続的に繋がっているのである。そしてひとりひとりの人間は、自分の人生を最初から知っている。自分の人生を生きること以外、何もできないのが生命と呼ばれる地球のウイルスたちであり、彼らは永遠に、地球という平凡な場所で「みんなが自分と同じように生きている」という勘違いをしているのである。

残念なことに、本当は宇宙に旅行に行ったとしても、本当は地球と似たような、そしてもっと気持ちの悪い生物しか居ない。炭水化物と放射能が、「生物学的化合」をしたのが生物という生命体であり、この生物という生命体は、複雑な構造を持っているように見えて、どこまで行っても「生物の中に生物が居て、その中にさらに生物が居る」という連鎖を永遠に繰り返しているだけである。よって、逆のことも成り立つ。生態系、地球、太陽系、銀河、宇宙、そして三千世界、全てはどこまで行っても生物である。だが、この宇宙のもうひとつの側面は「精神世界」であり、それは超意識、超自我、天使、神、そして不動明王や仏、宇宙精神のような、どこまで行っても、心の上の心が存在する。それが僕の宗教の教えであり、どこまで大きくしても、小さくしても、生物の生物が居て、心の心が居る。それが、日本的な「哲学の答え」である。

ブッダの知った一番偉大な教えとして、「十界」が存在する。まず、この世界には「六道に輪廻する」という六つの世界がある。それは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界である。そして、その上に、偉大な聖なる存在として、「四聖」が居る。それは、人々のことを良く知り、科学や知識を持っている「声聞」、芸術的才能があり、美しいものを作る「縁覚」、人々を助け、慈愛ある道を生きる「菩薩」、菩薩を極めることで達する、宇宙最高の存在「仏」である。だが、僕は、この十界を少し変化させたい。まず、「子供」「悪魔」「行動者」「理解者」「精神のマスター」という「人間の世界」が存在する。その上で、「無意味」「地獄」「耐え忍ぶもの」「希望を信じるもの」という「妖怪の世界」が存在する。最後に、「思い出すもの」「学ぶもの」「覚者」「知識を知る者」「才能を持つ者」という「聖なる存在の世界」が存在する。だが、僕の場合、十界のように「これが全て」と網羅することはできない。いくら書いても、僕の文章は変わって、永遠に同じものを作り変え、組み替える。よって、この文章も「何かの正しさ」を書いたものであり、アメリカ流に言えば「オルタナティブ・ファクト」であり、別れの言葉はこれらすべてを嘘にする。信じても信じても、真実はそこにない。だが、その上で生まれた分類と構造には価値がある。よって、「人間の世界」「妖怪の世界」「聖なるものの世界」の「三界」が僕のこの奇跡の人生である。三界では十界と紛らわしいというのであれば、これを「三神」としよう。

さあ、この世界のことを知って、世界を変えなさい。「何が正しいのか分からないのに、どうやって歩めば良いのか」とあなたは聞く。だが、僕は応える。「あなたの道であれば、どんな歩み方をしても良い」。そう、あなたは自分なりに、この世界を破壊し、滅ぼし、変え、築けば良い。絶対にこの世界が嫌いでも、やる気が無くても、苦しくても、狂っていても、あなたは人間である。人間を生きるのであれば、失敗と困難を覚悟しなければならない。僕が教えた全てのことを分かったら、あなた自身が分かったことを書きなさい。そう、それが研究であり、大人である。賢い人間は、書物を書いているものである。

地に足をつければ、自由になれる。精神の病気が治らないのは、土台が無いからに過ぎない。

「本当の人生」を生きるためには、倫理性を考えることだ。すなわち、どのように生きるのが正しいのか、どのようなことが善であり、悪なのか、どのように社会を成立させれば間違いではないのかを考えなさい。

えてして、それは、学校で学ぶ道徳や教科の内容とは逆である。学校では、失敗するな、人に迷惑をかけるな、ということを教える。それは、教える必要のあることだ。だが、実際の社会では、たくさんの失敗をし、迷惑をかけ、恥をかき、嘘を言わなければ、この世界の様相は見えてこない。そして、機会の実現、人生の段階、文明の契機、といったもの全ては、学校で教える通りの人生を生きていたのでは分からない。たくさんの失敗をしなければ、本当の人生は生きられない。

そう、学校や世間では教えてくれない、自分だけが知っている、自分だけが持っている「本当の人生」を生きるために必要なことは1つ。それは、「可能性」を取ることである。可能性をとり、開拓し、さまざまな知恵を「最初からそうだと決めつけない」ことで、自分が何を知り、何をできるのか、経験から見えてくるし、さまざまな思考や思索、そして現実での実験や空想を交えて、この世界の可能性と倫理性を知ることができる。自分には本当は何ができるのかを知れる。えてして、そうした「本当の人生」を生きたものは、何をしても成功するし、どんな困難も克服し、どんな場合にも対応できる「自由自在な責任者」になることができる。

そう、太陽になるのであれば、本当の人生を目指すことだ。そして、神になるのであれば、その上で、この世界を作りかえるくらいのことをすること。全てを考え、耐え抜き、思い出し、治す、そのリゲルの人生はまさにヴァルキュリアである。まさに王であり、まさに革命家である。そう、それを生きるのであれば、真剣に生きるようにしなさい。この世界の困難と、対峙して生きることで、あなたは全ての知識と才能を得て、そこには美しい作品と知恵ある思い出が永遠に存在しているだろう。

ソクラテスは、「正しい方法を知っているものは、正しいことしかしない」と言った。だが、僕は言おう。「正しい人生を知っているものは、どんなに困難な人生でも正しく生きられる」と。

賢い人間になりたいのであれば、物理を考えなさい。この世界における、状態、作用、実験、仮説、空間、原子、時間、そして感覚と計算など、全てのことは物理をベースにしている。物理が分かる人間なら、哲学的な真理は誰でも分かる。

生物を「どこまで行っても生物の中に生物が生きているだけ」だと言ったが、これが本当だとするなら、もっとも小さな単位での生物が、どのようにしたら生きるか、どのようにしたら死ぬか、ということを考えれば良い。まず、どのようにしたら死ぬか、ということは簡単で、破壊して殺せば良いだけである。では、どのようにすれば生きるだろうか?炭水化物と微生物の違いは何か?放射能を与えることで生きるだろうか?それとも、上手く核を死んだ細胞の中に抽出すれば、その細胞は動きだし、生き出すだろうか?そのようなことをやれば、きっと生物はいつか生まれる。これで、ノーベル賞が取れるはずだ。

そして、ここで僕の長かった、ミラクル・トラベルは終わりである。このまま、僕は平凡な人間になる。何も努力しない天才は賢くない。もっと、色んなことを、普通にやりたい。できること、技術力を増やしたい。そう、こんな人間の時代のことを、メタトロンと呼ぶ。ここから先、僕は平凡な普通の人間になる。もう、天才は終わりである。普通の人間になるだろう。

そう、死んだ細胞に核を注入して生きたとしても、では死んだ核をどのようにすれば生きた核にできるのか、という問題になる。だから、どんな物質でも良い、死んだものをどうにかして生かすことができたら、それで「その単位での生物を作った(あるいは死から蘇らせた)」ということが言える。生物の上の生物がいるとしたら、そうして作った生物の組み合わせから、上位の生物をどうにかして構築し、生かすことができないかを考える。それを永遠に続ければ、そのうち、人間全てを死骸から作り出すことができる。これでも完璧ではない。死骸という物質を有機的化合物として、合成する必要がある。この時、はじめて人間は神になった。生物を創造した。そう、宇宙人など居なくても、進歩した人類は生物を作り出すことができる。

だが、これではまだ発見できていない。どうすれば、微小な炭水化物を微生物に変化させることができるのか、「最小の単位でどのようにすれば生きものは生きるのか」が分かっていない。だが、これは宇宙のさまざまな現象を試していくしかない。おそらく、放射能が関係している。あるいは、酵素の化合反応が必要かもしれない。遺伝子をどのようにすれば発生させられるのか、という問題もある。だが、きっといつか、誰かが発見するはずである。「どのようにして生物を生かすことができるのか」、これが、最後の人類の課題として、1つ残ることだろう。僕は、問題の鍵は「酵母を作ること」にあるのではないかと思う。

あとは、いつかの永遠を書いていない。たくさんのことがありすぎて、長すぎた、少しずつ全てが終わっていき、完璧に全ての体験をする、宣言と対話の神だった。この宇宙の未来の全てがそこにあった。この宇宙全ての「地獄の果て」を体験した。とても多くのことがあって、網羅はできない。覚えても居ない。

そして、他には、哲学や歴史の勉強があった。理想の大学生のように、哲学者のことに詳しかった。そして、足の骨折とリハビリは、死とそこからの復活を体験した。自殺は未遂で終わり、その後に何も無い代わり、幸福な「自分にとっての本当の人生」があった。

そして、最近はデザイナーになったり、ピアニストになったり、作家になったり忙しい。とても幸福で、僕の人生はこの宇宙全てよりも大きい。この人間は作家の革命家だ。いつか、理想のユートピアを、この人間本人か、あるいは受け継いだ人によって作り上げる。その時、まだ生きていれば良い。だが、残念なことに、僕はそろそろもう死ぬ。最近は死ぬような体験が多い。このまま死にたい、というところだが、本当はまだ、この文章を書いている間は生きなければならない。そう、僕はまだ書くし、まだ生きる。お別れなどあるはずもない。くたばるまで書くことだけが、僕の神から授かった使命である。神を信じている。全ては、神が上手くいくように用意してくれている。出来たことの全ては神によるものである。だが、僕自身の努力も、そこにエッセンスとして含まれていることだろう。

宇宙の裏側にあった、全ての「真実の体験」をしていたごろは、地獄の戦いをやって、矛盾だらけの狂った人間だったが、本当はそこが一番良い人間だった。全てを愛し、罪を受け入れ、全てを滅ぼしながら支えていた。良い人間だから、神が治してくれた。

僕の戻るべき人生は、それらではない。本当は、病院ぐらいに戻れば良い。全てが分かっていて、何でも文章を書ける病院に戻れば、また、天才の作家になれるからである。本当は、デザインの勉強はしていて、色んな意味できちんとできているが、僕が思うに、プロのレベルに全く達していないと思う。だが、これはただの愚痴ではない。昔の、天才作家の頃に戻れば、何でもデザインできるデザイナーになれることが、既にその時代に分かっているからである。僕は天才作家に戻って、天才デザイナーになる。それができればそれで良い。ここまでは「修練の時代」である。英語、ピアノ、プログラミングとIT、そしてデザインの修練の時代をやりたかった。ここまで書いていたせいで、2年間はすぐに過ぎた。今から、天才作家の時代に戻って、僕は天才デザイナーになる。えてして、それは哲学と歴史の時代である。まさに最高の人間になるだろう。僕は、それだけを永遠に探していたのである。