新・日記2に戻る | 2018年6月の日記に戻る

=2018-06-04=

生物は、最初は植物だけがあった。植物が病気になって、虫が生まれた。虫は、植物を食い尽くすものであり、植物が病気になって、癌が分離して生まれた。

その時の名残りを、青虫に見ることが出来る。植物と同じ、緑の体をしている。

植物は、火山が進化して生まれた。その根拠として言えるのが、山にびっしりと生えていること、植物が見た目的に火山に似ていることである。そして、植物が生まれた目的は、考える数を増やすことである。

まさに、火山や土に精神が宿っている。植物や森林は、その考える量を増やすために生まれた、火山や土の分身である。この大地の精のことを、「ノーム(地の精)」と呼ぶ。ノームは、地球だけではなく、月や火星など、岩石で出来た惑星の全てに宿る。

では、なぜ土に精神が宿っていると言えるのか、精神が宿っていられるのか。それは、熱を持っているからである。火山にはマグマの熱があるし、地球の深層・内部にはマントルと呼ばれる巨大な熱の中核がある。岩石ではないが、太陽のような恒星は、自ら爆発して、核融合で熱を持っている。この火の精のことを、「サラマンダー」と呼ぶ。サラマンダーは、太陽や恒星の全てに宿る。

また、生命は精神だけで生きることは出来ない。体が必要である。体としての生物は、水から生まれた。水が、精神のコントロールによって、土と混ざり、海の中で凝固して生まれた。この水の精のことを、「ウンディーネ(水の精)」と呼ぶ。

そして、水だけでは、体はあっても、その体が働くこと、エネルギーを持って動くことは出来ない。動くためには、酸素と二酸化炭素が必要である。この空気の精のことを、「シルフ(風の精)」と呼ぶ。

これら4つの精霊は、地球だけに存在するものではない。宇宙において、全ての宇宙活動の中心として存在するものである。

そして、これによって、全ての神話と宗教は一致する。神が創造したとする「ユダヤ教の創世記」、火を聖なるものであるとする「ゾロアスター教(拝火教)」、水を全てであるとする「タレス」、地水火風をベースとする「古代ギリシャの自然哲学」、木を聖なるものとする「ケルト神話」、ユグドラシルを聖樹とする「北欧神話」、そして神が水と泥から生物を作ったとする「イスラム教」など。だが、本当は忘れてはならないのは、「進化論」だ。進化論は、小さなアメーバのような単純な原始生物が何億年もかけて進化したとする。だが、何億年、という長い時間は必要ない。熱と土を精神とし、水を肉体とし、それが風によって世界を操作するとする「精霊論」の領域から言えば、進化論のような長い年月は無くとも、生物は進化し、「多様性」のある生態系を構築するだろう。

足の精神異常は、学習を殺せば治る。全部、一つの「巨大な学習」になっている。

昔の文章は、考えられるありとあらゆることを考え、分かっている通りの世界観と考え方を明確にし、そして自由な分析とは何であるか、精神分析とは何かを体現する文章を書いていた。

本当は、今まで、たくさんの人たちにお世話になった。それも、現実ではなく、天界のような世界でお世話になった。たくさんの存在が、僕を治し、また導いてくれた。僕も、それらに恩返しが出来ると良いと思う。黒人からユダヤ人まで、たくさんの人々が僕を助けてくれた。

精霊論では、神を創造主とするのは、間違ってはいないし、神の精神は水と土(泥)から人間の体を作ったが、本当は精神そのものが我々であって、言うならば「我々が神である」と言った方が正しいだろう。

この世界の全ては、ただ、ありのままに存在する。全ては、ありのままなのだ。

「必要としなくなる」ことは、価値を否定して棄てることではない。その価値をありのまま知って、「それが本当はどういう価値を持つのか」を、「見つめ直す」ことである。それを知ることで、この「社会のありよう」を知り、「どんな社会がどんな価値に根差しているのか」を知る。そこから、「この世界全てを自分で創造できるように」なり、「その価値にどんな意味があるのか」を知り、「作られたものを作ることに喜びを感じる」ようになる。

また、支えることはとても大変で、困難を伴うが、最後まで全力で頑張った先には、「達成感と誇り」が存在する。その達成感は、何も無かったかのように時間が過ぎ去り、全てを失ったかのように見えて、気が付けばそこには栄光が「既に存在している」。誇りとは、そうした結果を「再発見する」ことであり、それは価値観とともにアイデンティティとなり、「自分で自分を認めてあげるプロセス」となって、「認められなくても、自分は価値を知っている」ということから、「自分による自分のための自分の承認」となって、それが「アイデンティティ」という名前の「誇り」になり、それは人々全ての「自尊心」を知る「絶対的な心」となるだろう。そして、そこからあらゆる社会が生まれるだろう。

昔は、そうした哲学的な「心理学」から、どんな社会や世界を作り出すことが出来るか、という「目的の社会論」を作っていた。あらゆる社会を心理的に創造する。そこには、「支配」という言葉は存在せず、全ては「それぞれの関わり合いの自由」の中で、「自然に形成される」社会論だった。

信じるものは、救われる。

楽しむものには、楽しい人生が起きる。

悲しむものには、慰められる人生が起きる。

何も望まないものには、何も得られない。

人々を救おうとするものには、神が報いを与える。

正しく望むものは、願いを叶えるための努力によって、全ての願いは叶う。

自由を信じるものには、争いごとが起きる。

平等を信じるものには、恐怖への抗いが起きる。

支配しようとするものは、支配される。

裁こうとするものは、裁かれる。

愛を信じるものは、誰も見つけなかった発見と道を見つけ出す。

自由とは、あなたをあなたであると明らかにするプロセスである。

平等とは、誰もが人間であることが同じであると知っている人間の理想である。

柔和なものは、神の創った世界を支配する権利を持ち、神の創った世界の将来と未来を引き継ぐ。

世界は、平等、愛、人生、真実、成長、関わり合い、権利、義務、理想、価値、目的を知ったものにおける、自由の実現、達成、努力、運命、そして愛することを学ぶための、学校である。

世界を学校だと思っている間、人々は間違ったことをしても子供であることを理由に許される。だが、世界を戦場だと思った瞬間から、あなたは神によって守られなくなる。戦場では、弱いものから死んでいく。生き残るための努力は、生き残った人生のためには見合わない。だが、大人は学校を卒業しなければならない。

世界の常とは、子供として守られている間にしか自由は無く、同じ人生は狂うことはあっても繰り返すことは無い、ということだ。

楽しみなさい。楽しまなければ、楽しい人生を生きることは出来ないからだ。

悲しみなさい。悲しまなければ、悲しみを超える偉大な人生は生きられないからだ。

人間の感情は、楽しむことと悲しむことで賢くなる。楽しまない人間に感受性は生まれない。悲しまない人間に知性は生まれない。

社会を啓蒙するよりも、自分を変えなさい。社会を変えることよりも、自分自身を変えることの方を取った方が、結果的に社会は変えられる。

世界の影響力を固持しようとするよりも、自分の自分に対する決めつけを取り除きなさい。

自分を変えるということは、今を否定することではない。今の自分の持っている想いや信念を、ただそのままに肯定させてあげなければ、自分は変わらない。人間は、そもそも、そんなに変わる動物ではない。知性のある生物は変わらない。ヤギは虫のように変わらないだろう。それは、ヤギは体が変わらなくても、自分をそのままの体で柔軟に変える方法を知っているからだ。それが、恐竜の絶滅した教訓だ。

世界を変えようとするな。そのままで、変わらなくても完璧に柔軟に対応できるようにすれば、無理に体制を変える必要はない。変えるよりも、変わらなくても良い方法を考えるべきだ。

世界は、神の支配する平等な世界になれ。

皆は、自らの手で自らの未来を切り開く、自由な人生となれ。

人生は、全てのことが起きよ。あらゆる宇宙の全ての体験が起きる世界となれ。

皆は、新しい人生へと、生まれ変わっていけ。

自由は、今まで持っていたもの全てを棄てて、ゼロに戻れ。

後悔は、今までの全ての罪を懺悔し、後悔と反省から一つ一つ、全ての罪の報いを受けながら、問題の全てを自らの手で解決せよ。

そう、愛の世界になれ。そう、愛とは与えられるものではなく、自分から与えるものだ。

作用と積み重ねは、世界観となれ。

本質と段階は、言葉となれ。

自ら王となって、世界を支配し、導いていけ。

その国に付けた名前は、「ドイツ」だ。世界は、ドイツとなれ。

「私は全てを分かっている」と宣言せよ。

「私はこの星の全てを導いていく」と宣言せよ。

「私に出来ないことは無い」と宣言せよ。

そして、実際に行動せよ。世界を滅ぼす可能性があるとしても、何もせずに滅びるよりは遥かに良い。あなたの思うがままに世界を滅ぼせ。

最後の時、あなたはイスラエルのダビデとなるだろう。そして、栄光のイタリアを、あなたがあなたの力だけで実現するだろう。人々はあなたを天皇と呼ぶ。そして、最高のロシアの楽園がそこに輝いているだろう。

決して、自由と民主主義は間違っていない。自由にしなければ、何も生まれない。

組織を作る自由、結社の自由を許しなさい。

選択の自由を与えなさい。

言論の自由、表現の自由を与えなさい。

相手が暴力をふるうようであれば、反抗する自由を勝ち取りなさい。

自分のことは自分で守りなさい。

誰の許可も得ずに、自分の信じたことを実現する自由を与えなさい。

誰かに与えられることなく、生まれ持った自由を行動し、行為し、意志を持つ自由を与えなさい。

社会は、誰かに作ってもらうのではなく、自分自身で作り上げられるものでありなさい。

人々を救うために、必要なのはダイレクトにその人と話すことだ。

人々を支配する必要はない。支配しなくても、自由な中で同じことを行うことは出来る。

社会に価値観を押し付けられるのではなく、自分の価値観を発信しやすくしていきなさい。

その国に付けた名前は、「アメリカ」だ。世界は、ドイツとなった上で、最終的にアメリカとなりなさい。アメリカへと戻っていきなさい。

支配など、する必要はない。

一人が頑張るよりも、みんなで頑張るべきだ。

だが、一人がやりたいなら、それに従うこと、その一人が「自由に」行うことで、世界を変えることが出来ても良いだろう。

その国に付けた名前は、「ソ連」だ。世界は、アメリカとドイツの末に、ソ連となるだろう。

そして、それで終わりではない。待ちに待った「日本」がそこに現れる。

だが、日本には実体がない。日本とは何なのか、まだ何も決まっていない。白紙の中でどんなことをやるか、それは日本人が考えるべきことだ。ゼロから考えなさい。

アフリカのような地域は、自然な地域であり、決して文明国で無いわけではないが、さまざまな動物たちがアフリカの自然に生きている。アフリカは動物とのふれあいである。

学ぶべきことも、知るべきことも、本当は最初から存在しない。大学や会社のような場所に、そんなに良いものは存在しない。だが、存在しているものは少なくとも、「やり方」や「方法」はたくさんある。だから、個別の対象を知るよりも、さまざまなやり方や方法を身につけることを大切にしていくと良いだろう。さまざまなやり方が分かっていけば、そこから結果を実現するためのプロセスや方法論を知ることが出来る。ある意味、知識をそのままで捉えるだけではなく、自分のやり方から「捕える」ことが出来る。自分の体験と経験から、この世界の知識や歴史が分かるようになるだろう。

もう一国だけ、書けていない国がある。それは「フランス」である。フランスは理性の自由である。それが出来ないよりも出来た方が良い、自由でないよりも自由な方が良い、選択出来ないよりも選択できた方が良い、選択する前に選択肢がどんな意味を持っておくか知っておける方が良い、社会には参加できた方が良いが束縛されない方が良い、など、「自由でないよりも自由な方が良い」と考える。制限を好まず、それぞれが独自のやり方と個性で社会を築いていくことを大切にし、理性的かつ建設的に計画を立てて、大胆に実行し試していく、そうした理性は、本当はフランスにしか存在しない。

頂点はフランスである。全ての国は、ここに平等の宣言を採択するだろう。