頭は、休めるべきだ。使うより、回復させるべきだ。
分からせず、支配しない。それが楽だ。
応用的可能性から、自律的、主体的に分かった。
方法や行動の自由なプロセスを書いた。
経験を可能にするとか、道徳は理性的であるとか、善は平等な自由であるとか、知性や発見は経験的であるとか、前提条件は知であるとか、普遍的な経験と認識は可能であるとか、文化はそれぞれの多様性と時代における普遍的でないものであるとか、全ては疑うことも信じることも可能であるとか、そういう、哲学的な、デカルト、カント、ヘーゲルのような信念的、真理的哲学を書いた。
数学の証明のような、「実証科学」を書いた。
怖いことはしなくて良い。
まだ分かっていないことは、分からない。「まだ分かっていない」と思えば良い。
自分は、全部嫌いになる。皆も、全部嫌いになれば良い。そうすると、賢くなって、楽になる。
嫌いなものを倒すと、賢くなる。
最近、皆、嫌いなものが好きになったせいで、辛くなっている。
自分は、言い方が悪い。決めつける方と返事をする方の二重人格になった。
秩序や、社会的な「意味」と「見なす」ことで分かっていた。
会社とは、自由なプロセスだと言っていた。
歴史を辿ることで、ありえない世界を書いていた。
レールの上を歩かないような、線路の無い道を行くような、自由な人生を書いた。
皆のことを許し、全員を平等に愛し、思いやりから正しい世界を作り、それぞれの自由を許すような、「慈悲の思いやりの自由な愛」を書いた。
自分は、まだ書いているのは、そろそろ止めた方が良いが、哲学や歴史をやりたいなら、書いていた方が出来る。
組織は、沢山あって、多様性があった方が良い。社会主義はおかしい。自由と個性があるべきだ。
空間的把握のようなことで、実際の把握のようなことをしていた。
あとは、経験のようなことを言っていた。
自分の力で社会を見ながら、それぞれの言っていることを知り、自分のやっている意味を知り、全員を愛し、全員のために努力し、社会を形成し、社会を知り、理想の社会を作るために、経験し、行動し、理性的に考え、全てを知り尽くす。
そういう経験的な人間は、全てが嫌いになると、そういう風になる。
最近辛いのは、全部、好きだからだ。そのせいで、皆より自分の方が悪く見える。そういう人間が多い。
全部嫌いになると、そういう、賢い経験的で行動的な人間になる。
自由とは、多様性、影響力、助け合い、支配の、自由な形成と関与と相互干渉であると言っていた。
それぞれが知を作り、実証し、それを共有し、社会の基盤とするとか、そういう社会論を言っていた。
自分が本当に何をやっているのか、何をしたいのか、本当は何をするべきなのか、良く考えなさい。
自分は、歴史のことをやりたい。自分は歴史と心理学に向いていると思う。
あとは、心理的、精神的な、成長過程や知覚のようなことを書いていた。
自分は、哲学と歴史のことだけをやりたい。哲学名著の本を読んで、日本史とフランス史の本を読みたいと思う。
もっと厳密に考えれば分かる。厳密に考えれば良い。
昔は、厳密に心や社会のことを考えて、独自の統合された積み重ねの数学を作っていた。
現実や経験と、理性や理想を照らし合わせて考える。
厳密に、何が出来るかを、推論しながら考える。
もっと厳密に考えれば良い。哲学が出来る。
昔は、ボトムアップ的に、下から世界を変えたかった。影響力を行使して、どうすれば変えられるか、どうすれば自由になるか考えた。そういう、「ボトムアップの自由」が多かった。
要らないものは、水に流してしまえば良い。想像力の川を思い浮かべて、恐怖とか苦しみとか、そういうことを全部川に流す。そうすると、楽になる。糞を流しても、藻が綺麗にしてくれる。
あとは、皆の話を聞いた方が良い。社会を見た方が良い。
全部嫌いになるだけで、昔の自分が出来る。自分より、周りのものを悪いと思えば良い。そういうわけで、今から最近が終わって、昔になる。本当に賢い国になる。
そういう、右翼みたいなことを言わない方が良い。そういうものは、水に流すと楽になる。
昔は、厳密に考えながら、成長と経験で分かっていた。そういう「気付きのプロセス」を書いていた。
厳密に考えると、関係や実存性のようなことが分かる。それで、昔の自分がもう一度出来る。
厳密に考えると、数学のようなことが出来る。そして、集団と個人や、環境の実現、客体化の理論のような、「何かを作る、と言うことを事前に考えて、実現出来るようになり、考え方を適用して、作るべき時に作る」と言うことが出来る。そこから、判断力やプラグマティズムのようなことが分かる。それから、実存性だけではなく、何が何に対して効果を発揮するか、いつ何が出来るか、と言うことから、「哲学する」と言うことが出来るようになる。学ぶだけではなく、自分で正しいことを導き出すことが出来る。
全ては判断力と想像力であり、それを自由自在に使うことが出来る、人間の理性である。
あとは、人生、体験、可能性、行動、心、目的、自分に出来ること、などを想定していると分かる。
対象だけではなく、それを見ている自分のことも考えるべきだ。
最近の日本は、弱者のことをいじめるだけの国になっている。ネットで馬鹿を言う人間が悪い。
自分だけで思うだけなら良いが、ネットで不特定多数に言うと、悪い。
ネットはそこが分かっていない。友達感覚で名誉棄損のようなことをする。そのまま犯罪になる。
そういうわけで、ネットはもう少し、繋がりを少なくした方が良い。全世界と繋がるのが間違っている。
今回の障害者を殺害した事件も、ネット社会の影響があったように見える。ただ、それは違うかもしれない。
視点と環境を成り立たせること。
実際の姿を考えること。
対処策と、その対象と方法の関係から、出来ることを考えること。
自分に許されている権利を、皆も許されていることを知ること。
社会の構築の方法から、自分の力で社会を築き、そこで自由を奪わないこと。
論理的に考えるとは、「ある」と「ない」を比べ、「知」と「無知」を比べ、「条件」と「状態」を成り立たせる何かを比べ、「実現」と「成立」を考えることだ。そういう風に考えると、社会のことを厳密に考えられる。要は、何を知っているか、どんな時に出来るかを考えれば良い。
あとは、何が「正しい」のか、何が「間違っている」のか、何が何に「なる」のか、何がどこから「来る」のか、何が「起きる」のか、何が「出来る」のか、そして何が「必然」で、何が「偶然」かを考える。
論理学とは、同時に科学であり、同時に因果性を考えることである。論理的に考えることが、哲学への第一歩だ。
何によって何が「生まれる」のか、どうすれば「解決」するのか、何が「方法」で、何が「理性」なのか、考える。
方法的なことだけではなく、概念的なこともある。可能性、構造、関係、目的、必要性、依存性、欠落や準備など。
何がいつ「起きる」のか、何をすることで「起こせる」のかを考える。何があれば出来るのか考えれば良い。
論理的にそれが何なのか、実験と推論から、解明することも出来るだろう。「場合」と「可能性」を考える。
そこから、多様性、集合知、組織と集団、個人の自由と共同体の自由、創造性と共同性などを考えられるだろう。
「手段」としてそれが何であるか、「目的」としてそれが何であるか、などから、概念的な方法を考えられる。
それが「善」として何なのか、「悪」として何なのか、善と悪はどこから「来る」のかを考えられる。
そして、言語や関係から、「人生の実存性」を考えることが出来る。
どうすれば「成功」するのか、どうすれば「失敗」するのか、など。
論理的思考法と言うが、自分は分かっていない。あまり賢くない。もっと賢い人間が多い。
何が成り立つ時に、何が出来るのか、を考える。
それから、哲学的に言うと、答えを重視するよりも、どのように考えてその問題を解決しようとしたかを重視する。
そういうわけで、答えが全てではなく、そこへ至る方法やメソッド、あるいは問題自体が全てなのだと考えるべきだ。
経験的に考えると、何が「幸せ」なのか、何が「本当の知性」なのか、何が「正しい考え方」なのか、を考えられる。
どうすれば思い通りに相手と付き合えるのか、を子供なりに考えていたのが、昔の自分だ。
自然の中で、何が「生まれ得る」のか、何が「知り得る」のか、何が「実現され得る」のかを考えても良い。
あとは、「普遍的人格」を考えて、全員が「同じ」であるのを考えていた。
あとは、そういう風に、厳密なメソッドと可能性を書いていた。そういう、考え方の文章だった。
それから、厳密に考えていると、きちんと哲学が全部出来る。
哲学は、学ぶのはこれくらいで良い。そんなに全部知っていると、自分で考えられなくなる。
あとは、自分で考えた方が良い。考え方を良く考えて作れば、きちんと哲学が出来る。「考え方を作る」のが良い。
デカルトやカントのように、「正しい考え方とは何か」を考えると良いだろう。
あとは、心のことを考えるのが良い。色んな場合と状況を想定して、成り立たせて考える。
結構、他の人間と付き合わないのがおかしい。色んな人間と一緒にやれば良いのが分かっていない。
それが起こり得る「環境」とは何であるか、「状況」はどうすれば作り出せるか、などを考えれば良い。
まずは「状況分析」をし、それぞれが「何を考えているか」を知り、どうすればその「流れ」を作り出せるかを知り、自分が「何を出来るか」を知り、その出来ることは、「社会」と「環境」的にどうすれば良いかを知り、その「本質」は何なのかを知る。そういう、「総合的メソッド」が、一番論理的な考え方だ。その「社会」のことを、「構成状態」と「方法的作用」や「実践」から考えられる。そこでは、「何であるか」より、「どう振る舞うか」の方が重要だ。
問題的な「何が出来るか」を、「社会化」することが出来る。その問題を、「社会を作る」ことによって解決出来る。そこでは、「背景的要因」と、「現在の問題」と、「将来的課題」と、「対処策」から、「理念」と「理想」を作ることが出来る。エンゲルスの言っていることと、良く似ている。
現代は、IT社会だ。ITによる生産性が高まっている。だが、問題がある。皆がITに支配されている。それは、ポケモンGOなどで言える。対処策としては、競争相手やオープンソースのようなものもある。だから、代替としての思想を、オープンソースに求めれば良い。
要は、そういう風にすると、簡単に社会主義のような理論が作れる。
あとは、欲求やモチベーション、受動と能動、反応と作用、分類など、科学や心理学のように人生を考えていた。
何が基礎で、何が応用なのか、社会から知り得ることは何で、何をすれば良いのか、などを考えていた。
障害者の事件が起きたが、ある意味、自分も障害者みたいなものだ。知的に馬鹿だし、精神もおかしいし、足の骨折で関節も曲がり辛い。今回の事件は、自分は怒ることは少ないが、怒ろうと思う。
発想とモチベーションから、意識の段階的発展のようなことを書いて分かっていた。
可能性を殺すこと。
心と脳が、自分へと戻りたがっている。
あとは、共有や方法や合意のように、社会や人生のことを考えていた。
今回の体験で出来たことは多い。そのせいでこういう風になる。
分からないことから推測していると、分かる。
耳が死んだ。
足は、精神が壊れている。魂と融和すると治る。
最近は、皆に言って、返ってくる。その、返ってくる人格があるのがおかしい。
受け入れるのがおかしいだけではなく、皆に受け入れてほしいのがおかしい。
行動的条件と論理の成立を考えた。どんな状況の時何が出来るか、それをするために何が成り立つ必要があるか、考えていた。数学のように、積み重ねて、論理と想定から可能性の成立を考えていた。そういう独自の数学だった。