サブブログに投稿した内容をコピーしておきたい。
まともな人間になるためには、分からなくなること。
何一つ、分からなくなると、それが正常な頭の状態だ。
狂っている人間は、分かるのが悪い。分かるせいで、狂う人間が多い。
1つ1つ治していくと、全部治る。
そういうわけで、子供は分かりたくない人間が多い。子供を分からせない方が良い。
学校でいきなり分かる内容を覚えると、馬鹿になる。学校は、そこが馬鹿だ。
自発的に考えさせると良いとは言うが、それはそれで、こういうことが出来なくなる。
賢い人間が馬鹿になる。馬鹿の方が賢くなる人間が多い。
何とかブログのフォントの設定が出来た。はてなブログの方も、配色を変えた。
自分は、心も肉体と同じように傷つくのが分かっていない。
心をきちんと守れば良い。きちんと、自分の心を治して、守れば良い。それで楽になる。
テレビが怖いのは、自分の心を傷つけたからだ。そういうものは、誰でも怖くなる。
僕は、理解していない。色々と、理解すれば分かる。
ものごとは、場合によって違う。例えば、植物も、育つ環境によって違う。
そういう風に、場合を1つ1つ考えれば良い。
何もかも一般化して、いっしょくたにして、正当化するのは悪い。
心を捉えること。
自分がいま何を考えていて、どんな環境において自分がどうなるかを考える。
経験から、実感して、自然や世界のことを感情で考えられる。
環境から自由になることで、全ての環境と全ての活動や心を分かっていた。
職人や科学者のような発想をして、経験から全員のことが分かった。
全ての労働とは、そういう、全員の発想、経験、方法のことを言っている。
そこから、社会の可能性が分かった。それくらいの人間だった。
昔なんか、考え方しか分かっていない。それで認識から経験を考えていた。
風邪をひいた。風邪薬を飲んで、のど飴をなめている。
今から、英会話教室に行く。農園にはすでに行った。
英会話教室に行ってきた。
僕は英語を習っているが、英語より、日本語で考えた方が良い。
ただ、あるだけだ、と思うだけではなく、どのようにあるのか、何が出来るのか、を考えれば良い。
どういう風に考えれば、そうなるのかを考える。
自由な中で、自分に何が出来るのか、社会的に何が出来るのかを考える。
それがどのようになるのか、から、なぜそうなるのか、と言う理由を知る。
認識、ありえない社会の可能性、そして、社会の変貌を、経験と理性的概念で分かる。
哀しい戦いをした。
全て失って、無理難題を解決するために、地獄の中で世界を導いていた。
ただ、あれはそんなに辛くなかった。
恐怖と疲れと知性を失うことが辛かったが、あれはおかしい。
すぐに馬鹿を止めれば良いのに、まだ止められないで、いつまでも自分のせいで辛い。
そういう、今の方がはるかに辛い。そういうわけで、頑張った戦士がミカエルだ。
僕は、ミカエルだ。僕の中にあった、あらゆる記憶のピースを集めたものがミカエルだ。
英語は、Wh*/Howとともに、Do/Did、Are/Were、Can/Could、Haveを使う言語だ。
昔は、存在を証明して、同じ気持ちになって分かっていた。
英語は考え方から分かる言語だが、日本語は世界観から分かる言語だ。
森羅万象の考え方を成り立たせて考えていた。
同じ感情になって、全員がいつ何を知るかを分かった。
知り尽くして、全てを把握していた。
免疫をつければ治る。すでに分かったことや治したことを免疫にすれば良い。
自分は、治すせいで免疫が無くなっている。治すと、免疫が無くなるのが人間なのだろう。
昔は、集団意識や環境の意識を考えていた。
最近、失敗しなくなったが、それが悪い。もっと失敗した方が良い。
考え方からモデルと経験で、自由を分かっていた。
社会経験を知って、マスターのようになった。
森羅万象を考えていた。
自分は、理系の基礎が分かっていない。基礎の方法と構造を知った方が良い。
あとは、勉強はもう良い。そろそろ、仕事がしたい。
勉強をするなら、経済と法律をするのが一番良い。
放送大学は卒業したいが、むしろ、出来ない。難しい。
江戸時代の大名は、参勤交代によって、江戸と地方を行ったり来たりして、妻や子供などの人質を江戸に置いた。そのことによって、江戸時代は安定した。
ただ、そういう、反動体制、抑圧体制は、長くは続かない。
ペリー来航とともに、日本は開国を迫られ、それが倒幕運動へと繋がった。
日本人は、日本も外国も、全部違った世界だと思っているところがある。
外国人はそうではないのだと思う。ヨーロッパ人は、世界なんか全部同じに見える。
アメリカなどが日本人を理解出来ないのは、そのせいだと思う。
皆に分からせるのではなく、自分が分かった方が良い。
分からないのに分かったフリをするのは悪い。
個人主義でも全体主義でもない、皆で考え、決める、自由な社会を作るべきだ。
それが、民主主義の理想だ。
右翼は指導者を自由にするが、左翼は民衆を自由にする。
社会の可能性か、自分が勝つ可能性か、のようなところが違う。
勝つだけの右翼の方が悪い。左翼には理想がある。
全てがおかしくなった世界では、何を信じるか、何を疑うか、何が間違っているか、何が正しいか、良く考えて、経験と理解からビジョンを持つ必要がある。
それは、ブッダの言っていることを参考にすると良い。
特に、本当に信頼出来る仲間でないならば、旅への連れ合い人にはせず、きっぱりと一人で旅に出るべきだ。
そういう風に考えて、一人分かっていたのが、昔の自分だ。そういうマスターだった。
そして、社会のことを書いていた。社会をどういう風にしていくべきか、と言ったことを、マスターや救世主のような視点から、色んな社会を知ると言うような、社会経験のこととともに書いていた。そういう、吉田松陰のような人間だった。
政治、哲学、人間個人、社会全体、人生、経験の思想を、メタ的なモデルと会話の体験から分かっていた。
それから、物理的な考え方もあった。ネットで知識を知りながら、概念と可能性を考えることによって、積み重ねと方法から、自分の数学を作った。数学者のように分かっていた。
昔は、賢くない。インターネットとオープンソースだけで、そこまで分かった。何も出来ない馬鹿だった。遊びながら適当に考えていただけだ。ただ、真面目にプログラミングをしたかったが、出来なかった。夢を追いかけて、挑戦と失敗をたくさんしたし、社会のことも知ったが、本当に、何も出来なかった。もっと、大学のような場所に居た方が良かったのかもしれない。だが、自由に一人で考えながら、社会のことを知って、この世界をどういう風に変えるべきか、どのように自然を捉えるべきか、全て分かっていた。何も出来なかったが、あらゆることを考えて、全て解明した。
昔の自分は、認識と人生の段階と過程、数学的な考え方と積み重ねと知性、経験の捉え方、思い込み、社会と環境の変化と自由、知の概念と習得と形成の過程で分かっていた。
そういうわけで、数学は出来ている。数学が誰よりも出来た人間だった。
昔は、直感と解放で分かっていた。心を解放して、自由で分かった。
全てを感情で知り尽くしていた。真面目に考えて分かっていた。
昔は、世界観や認識など、本質的な人間のことを、経験のような視点から考えていた。
実際のところを考えて、認識の段階を知った。
今考えると、この世界は賢くない。皆が馬鹿だから、つまらない。
日本は、何もかも全て無くなっていく国だ。
皆が普通なのがつまらない。皆、文章を書けば良い。文章は誰でも書ける。
文章を書いて、おかしくなると、賢い経験が出来る。
書くのを止めると、辛い。そういうわけで、まだ書いている。
思いやりと学習から、自由な経験、関係、行動、社会形成を考えて、自由に何でも出来るようになって分かっていた。
守り、助け、協力し、知恵を出し合う。そういう、社会的考え方を分かっていた。
自分の行動した、そのことの意味を良く考えて、相手の視点に立つこと。
環境と視点を成り立たせて、作っていた。
科学的、人間的、人生的、社会的な概念を考えると良いだろう。
社会を全部作っていた。
認識と社会の具体例を知って、作りながら可能性を掌握して分かっていた。
それだけの人間だから、それだけをすれば分かる。
あとは、数学的に、作用を成り立たせて、直感と感情をバランス良く理性とともに使いながら、疑ったり、正しく信じたりして、普通の人間が何を分かっているか、真実はどんな可能性の下にあるか、などを分かっていた。
まだ風邪が治らない。のどから来る風邪が、鼻に変わった。
今日は辛い。何故か、今書くのを止めると、本当に辛くなる。まだ書いていた方が良い。
休んでいた方が良いと思う。寝ていた方が良い。
最近、YouTubeのミックスリストを聴きながら寝ている。バンプやPerfumeやAAAなど、いつも聴いている歌手を適当にミックスしてくれる。ただ、ネットの通信代を考えた方が良いかもしれない。
社会と心の経験や、社会や心がどうなっていくかを書いていた。
脳は、多重人格になるのが怖かった。もう怖くない。楽になった。
昔は、デジタルみたいな精神をしている。そこが賢かったおかしな男だ。
デジタルな感情から、人間の世界観を考えていた。
人間は、分からなくなった方が分かる。分かるままの方が分からない。
皆は、もっと分からなくなった方が良い。分からなくなると、分かるようになる。
全てが分かった人間は、分からなくなる。それは、そのままきちんと分かると治る。
右翼は、問題のすり替えをしているように思う。アベノミクスと安全保障と憲法と社会保障は、別々に議論するべきなのに、なぜか、アベノミクスと言って支持を拡大しながら、安全保障や憲法のことを勝手に変えて、国民が望んでいる社会保障のことはどこかに追いやっている。そういうところがおかしいから、民進党の方が良い。むしろ、昔の民主党の時代は、賢い人間が多かった。今の時代、良くなっているように見えて、暗闇のように辛くなっている。最近は景気は良いのかもしれないが、社会はどんどん悪くなっている。だが、日本は悪くない。世界的に見て、一番良い国が、戦後日本の平和な時代だ。自民党は悪くはないが、日本の戦後は明らかに一番良い。イギリス、アメリカ、イスラム、中南米(特にオリンピックの開催国であるブラジル)、どの国も最悪に悪いのに、日本には問題が少ない。
自分は、悪いものが普通なのを分かった方が良い。
それこそ、外食の業界なんか、悪い肉を使うだけではなく、調理しているように見えて、冷凍のものをチンしているだけ、と言うことが多い。ローカルな店なら料理しているかもしれないが、チェーン店などはどこでも冷凍をチンするだけだ。
そういうわけで、この世界は全部悪い。それこそ、人間なんか、皆馬鹿だ。
馬鹿と言うよりは、普通すぎるだけだ。
そういう、悪いは悪くない。それこそ、金儲けなんか全部悪い。オープンソースも悪いだろう。悪いのが普通の世界になった。そのせいで、Windowsが悪くなっている。この社会の中でどういう風にすれば勝てるのか、真面目に考えている。IT企業は、革新的なものを作って世界を変えたい。ただ、右翼も分かる。そういう、革新性や民主主義の自由は馬鹿だ。そのせいで右翼が増えている。
自分は、昔から、食べ物と機械が悪く見える。Windowsが嫌いだ。だが、テレビや学校も悪い。あとは、役人や政治家が嫌いだ。どうすれば良いのかは分からないが、むしろ、最近はどうする必要もない。今のままで十分良く見える。自民党が勝つのは、そのせいだ。皆、今のままの日本が一番良く見える。民進党は日本を破壊するように見える。それこそ、与党がやることは間違っていない。昔の決められない政治の方が悪かった。年配の賢い人間には、そういう、決められない政治が嫌いな人間が多い。大学では、保守の方が良く見える人間が多い。真面目に考えて、アベノミクスをするしかない。そこが分かる大学や企業の研究者が多い。自民党も馬鹿ではない。
昔は、当たり前のことを当たり前に考えて、全部分かった。
感情や意識の可能性を分かっていた。
「直感」とか、「視点」とか、「古代の世界」とか、「未知の可能性」とか、「自然」とか、「社会を作り替える自由」とか、そういうことを思っていた。
日本は、この世界を残したまま、当たり前に改善する世界を作ると良い。
守ることと、助けることは、矛盾しない。
守り、助ける、そういう王が支配すると良いだろう。
自分は悪くない。こういう、社会全体を導く王は居た方が良い。居ないと悪い社会になる。
人間は、正しく決めて、信じると分かる。
最近は、正しく決めて、信じて、判断して、戦って分かっている。
皆が分かっていないことを先んじて言って、支配して、勝って分かっている。
そういう、戦って分かるのを、そろそろもう止める。
病気は治った。精神的に全部治った。
辛いのは、生きていると楽になる。
治ると、死んで辛くなる。治らずに、ただ生きていると、楽になる。
「生きる」と言う活動は、同時に「楽になる」と言う活動だ。
文章は、どのように社会を経験して、成長し、社会を変えるようになるかを書いていた。
マスターへの過程のようなものから、社会のレベルや段階のようなことを書いていた。
人生経験から、人間の生きる知恵や考え方など、人間のことを分かっていた。
共産主義のような自由な社会のことを、形と形態を変えて、全部書いていた。
頭は、精神が崩壊するのが怖い。一度、いくらか壊していると、すぐに精神が楽になる。
共有、体験、実現手段、社会形成のプロセスと段階を書いていた。
学校の悪い点は、学校の友達が悪い。学校に居ると、自分の存在が小さくなって、自分にも他人にも意味が無く思えてしまう。それは、学校と言う場所で、自分のことを何も知らない相手と付き合うのが悪い。そのせいで、いじめが増えている。もっと親密になって、自分の存在を小さくしないような、そういう自由な関係を持った方が良い。会うのは最低限にして、相手のことを尊重し、自分のことを過小評価せず、それぞれがそれぞれのことを大切にし、無意味な馬鹿な関係にならないような、そういう、親友としての人間関係を持つ必要がある。そこでは、今の学校は間違っている。
インターネットは悪くない。ネットで真実の自由な体験が出来る。
ただ、僕はネットは嫌いだ。大人になると良く分かる。ネットなんかなくても、きちんと考えれば良い。最近のネットも、成長と経験と言う意味ではおかしくはないが、狂うと後でしっぺ返しが来る。ネットは、きちんと生きる、と言う人間の本来の意味を失っている。人間はもっときちんと生きるべきだ。
昔は、環境と心の変化を捉えて分かっただけだ。
社会や人生のことを、全て、捉えて、疑って、何が真実か、何がどうなるかを分かった。
自分に何が出来るのかから、具体的なネットでの体験をして分かっていた。
昔は、心理学的に人間の経験を考えて分かっていた。
そろそろ、日本語が分かる。
精神は、狂って死ぬとすぐに楽になる。だから、狂ったものを見ているとまともになる。
狂ったまともな人間しか居ない。
あとは、日本は本当に良い国だ。日本人から見た日本を分かった方が良い。
自分は、ドイツ人になっている。こういう、分かる馬鹿な人間はドイツ人に多い。
分かる人間はおかしい。悪い人間になっている。支配して、狂わせるように見える。
あとになって、笑えるように生きなさい。
「やっぱりやめておけばよかった」と言う風に、後悔するのではなく、「馬鹿だったし、辛かったけど、今考えると、あの時ああするのは良かったし、良い思い出になった」と笑えるように生きる。
この世界に、矛盾する真理はない。
真理は矛盾しない。矛盾しているようで、どの真理も、それなりに正しい。
それぞれが思うこと、意見することは、それなりに根拠がある。
環境的、経験的に考えて、矛盾する意見や真理は存在しない。
出来事においてもそうである。
起きるべくして起きることしかない。
原因は沢山あるが、矛盾はしない。
だが、自由にすること。
社会的に見て、その人しか分からないこと、その環境にしか分からないことは、沢山ある。
政府は、世界の全てを見ることは出来ない。
だが、統一は悪くない。
ある意味、同じにすることで、そういう限界を克服することが出来る。
それもそれで、矛盾はしない。自由と平等は、矛盾しないが、同じではない。
多重人格は辛い。治した方が良い。
人格を統合して、融和すると、治る。
世界は、精神病になっている。そんなに興奮するのではなく、落ち着くこと。
「良い」の頻度を少なくした方が良い。
そんなに「良い」がいくらでもあると、精神病になる。
辛くても、生きていれば、生きていることによって、楽になる。
全てを復活させて、生きること。それが、一番楽になる。治す方がおかしくなる。
そんなに全部信じるのはおかしい。
疑うことと、信じることのバランスを保つこと。それが賢い人間が、賢くなる。
ただ、どの人間もそれなりに賢い。
誰もが賢いから、自分の賢い点を考えれば賢くなる。
一番悪いのは、無いものねだりと分かったフリである。それが一番分からなくなる。
経験から、社会の可能性がどのように変えられるのかを分かった。
そこでは、矛盾するものは矛盾せず、間違っているものは全て正しい。
正しい思想とは、全部同じにしながら、全部自由にし、そして、その上で共有することだ。
辛いことは、いくらかしながら、生きていれば楽になる。
辛いことを、いつまでもしていると辛いように見えて、生きていると、その方が楽になる。
生きている、と言う本質は、楽になる、と言うことに繋がる。
昔のこと、古いことは、忘れること。昔、正しかったことは、今では正しくない。
今と昔では、自分は別人だ。昔のことを全部消して、今だけにすると分かる。
考え方から前提まで、何もかも変わってしまった。大人は、そのせいで分からなくなる。
厳密に考えるのも良いが、何も知らずに推論すると、誤った結果になってしまう。
当然のこと、仮想現実の実験結果から分かることは出来る。
ただ、自分が見ている世界は狭いし、普通だと思っていることも普通ではない。
世界を知って、社会を知って、自分の世界を広げて分かるのも悪くはない。
人間が何をしたくなるか、欲求、動機、きっかけを支配していた。
全体像の構造を作って、細部を全て知った。そして、推論から解明した。
議論を知って、会話して、この世界の実際のところを全て知った。
もう、何もしなくて良い。むしろ、辛いままで良い。
人格は統合しなくても、分裂したまま生きていれば楽になる。
そんなに治さなくて良い。
昔は、成り立ちと説明から、何でも成り立たせて分かっていた。
自分の言うこと、他人の言うこと、何でも正しいと思っていた。
自分の間違いは、そういう、ペテン師は一番悪い。
そういうわけで、正しいことを信じないと分からない。疑っても、どちらも正しくなるだけだ。ある程度の「普通」は、信じないと分からない。「自由な経験とそれによる善悪や社会形成」を信じると良く分かる。ただ、自由も自由で悪い。自由なんか、自由な中で、一番意味の無い考え方だ。
ただ、真実を分からないと思うのはおかしい。きちんと、経験と理性が合致するような、本当の真実や真理と言うものは、本当にある。だが、ある程度のレベルに達するまでは、ほとんどは戯言のような真実ばかりだ。だが、真実に到達しないわけではない。本当の真実の世界では、この世の全てははっきり、くっきりと、本当の理解と知と人間形成の中での、経験的で方法的でもありながら、それらに左右もされないような、本当の真実の世界に目覚めることは出来る。本当の真実の世界では、全てが美しくて、神も、自由も、平等も、支配も、解放も、あらゆることに正しい価値観がある。そして、美しいだけではなく、全部のことを実現出来て、全部のことを知っている。全知全能の神の境地では、カントでも、フロイトでも、ニーチェでも到達出来ないような、自分だけの真実の世界と言うものを、普遍的な考え方から知ることが出来る。
自由とは、真実を知ることであり、どうすれば真実が分かるのかを、沢山の考え方を使って自分で考えることだ。そして、何がどう生まれる中で、どんな条件や過程があって、それを自分の力、皆の力で、どう応用出来るのか、実現出来るのか、方法を共有出来るのかを考えることだ。そして、その上で、自由とは何なのか、理想とは何なのかを確かめることだ。
いつも、そういう、知性のあることを書いていたのが、自分だ。そういう文章を、2007年から2008年に書いていた。いつも、そういう風に賢かった。
あとは、部品のような論理と実像の考え方で分かっていた。
それから、経験に基づくことを言っていた。
それを可能にするためにどんな方法があるか、それを可能にすることで何が実現出来るか、のようなことを、考えながら、考え方とモデルで分かっていた。それをすることによる意味を考えていた。
現代物理が知っているように、宇宙で起きた全てのことは、宇宙が何らかの形で知っている。そういうわけで、バークリは存在を知覚であり、存在は存在しないと言ったが、逆に、僕は、どこにでも存在している沢山のものは、どこにも存在していないものと「存在と言う意味で同じである」と言いたい。
それはどういうことかと言うと、ある意味、存在しているわけがないものも、存在しているものと同じように存在していて、その存在も、そうでない存在と同時に、宇宙がその存在のことを誰一人知らなくても知っている、と言う意味である。
要は、RPGのグラフィックだけではなく、データやキャラクター設定のようなものも存在していて、今はないだろう未来についても、宇宙のどこかのデータとして、存在しているし、そして、木星や土星だけではなく、未知のまだ無いどこかの惑星についても、すでに宇宙は知っている。そして、あらゆる現象は同じように、宇宙が支配し、同時に、宇宙がその現象の存在を知っている。
そういうわけで、宇宙は全ての存在と非存在のことを全て知っている。宇宙は、神のすることについても、全て知っている。機械ではなく、舞台であり、脚本は神が書くのだろう。
キャラクターの設定が人生とともに存在している時点で、運命や戦いのようなことは起きる。だが、自由の無いゲームはつまらない。誰かがこの世界を変えて、良い社会を築くことは出来る。それぞれが出来ることはそれぞれに任されているから、何が出来るかは自分次第だ。だが、ある程度の基本的なところは最初から決まっている。何かのせいで失ったものも、最初から自分の力で取り戻すのが分かっている。そういう運命は、賢い人間にしか起きることが無いのだろう。
ゲームと言うと、戦って勝利するように見えるが、そうではない。この宇宙は、愛のゲームである。愛を持って、皆を愛して、その愛によって偉大になる。戦っても死ぬだけだ。愛を持って、勇気と希望を与えて、強く生きながら、世界の皆を愛する。仏教でいえば、慈悲のあるものがカルマが高まる。
社会を知って、自由の本当の意味を知り、社会がどうなるかの可能性を知り、自由な中で何をするべきかを知り、何が出来て、そこから何が生まれるのかを知り、それぞれの人間がどのような人間なのか、どういう人間であるべきなのかを知り、自然やありのままから理想を知り、自由と言う概念から環境と人生の考え方を知り、世界を理想の世界にする方法と経験を知り、可能性は自然な中から生まれる想像力であると知り、マスターとなる。
昔から、自分はそういう、人生的な自由の段階を書く。そういう文章が多かった。
全ては自由に出来る可能性、能力、経験、影響力であり、社会の形成はそれぞれに許されている合意と可能性であり、歴史とは価値観の形成と自然な積み重ねである。
いつも、そういう、社会的、人生的な、段階的な変革と進歩の理論を一行で書いていた。
あとは、社会のことは、理論的に、ゼロベースで、共有と組織のようなものから、多様性と過程のようなものまで、あらゆる共生社会を成り立たせて考えていた。
愛国と言うよりは、友愛だった。スラムと言うよりは、誰をも思いやる慈悲の心があった。
それで、救世主のようになって、革命家のようになった。
そういうわけで、これで憂国の政治家だったのが自分だ。
志とビジョンのある、ニーチェのような指導者だった。
だが、当たり前の平等と行き過ぎた自由が好きだった。そういう、左翼の王だった。
キャラクター設定が決まっているせいで、最初からこういう戦いをするのが決まっている。
だが、そうでもない。見ていると、全て決まっているように見えて、そういう風に考えると、良く分からなくなる。最初から、自由を信じると賢くなるが、それは間違っている。
良く分からない。真実は神にしか分からない。
1000年と1秒は同じだ。神にとって見れば、100年を作るのは、一瞬を作るだけだ。
昔は、詰め込んで、全て作って、全てを作り替えるような、そういう「創造と変化」の文章を書いていた。そう言うと聞こえは良いが、実際には自分の心で支配しながら、馬鹿な文章を書いていた。
日本の学校や教育の問題点は、知識偏重、事実偏重になって、知恵や自分で考える力を育てることが出来ない。そこが一番おかしい。
もっと、「新しい世界を知る」とか、「新しい経験をする」とか、そういうところから、「自分でどんな世界を作りたいか」や「この世界をどうすれば良く出来るか」のようなことを考えるようにしなければならない。
そういうわけで、一度、この世界を全く分からなくして、自分で考える必要が出てくるようにしないといけない。社会を悪くするわけではない。自分で考える必要の全くない世界を止めないといけない。そういう、「ロボット社会」が悪い。もっと、自由で、主体性があって、経験豊富で、賢い人間との会話や意見交換が出来て、じっくり考える余裕と機会と場所と手段があるようにする。
昔は、それがそうなって、それがその時どうなるかを、良く考えた。
一度、死んだ。そして、生きると楽になる。それで精神もほとんど全て治った。
環境への適応を増やすと賢くなる。
生きると治る。不思議と、精神がおかしいのは、全部生きるだけで治る。
学校で知った「自分は何をどう考えるか」と言う視点は、社会と人生を知るうちに発展して、科学や社会や人間のことを全部知って、マスターとなる。ヘーゲルは、それを自己意識から絶対知へと至る、世界精神の覚醒過程であると考えたのだろう。自分の場合、何をどう知るか、何がどう出来るか、何をどう正しく出来るか、何がそこで可能性としてあるか、目的に対して何が出来るか、皆で協力して何が出来るか、価値観や理想をどのように実現するか、どのように発想しどのように実現出来るか、のようなことから、科学、人生、社会、人間、心、理由、手段のことを良く考えて、あらゆることを段階的に、真実とは何かを考えることが出来た。真実の環境から、可能性とシステムを知ることが出来た。
欲求、感情、環境、行動などを、心理学的に、経験から分かっていた。
具体例から、社会、法則、基盤などの自然な可能性と変化を分かっていた。
森羅万象を、知性と「出来ること」から、「そうなればそうなる」の法則で考えていた。
言語、数学、都市設計、社会モデルなど、あらゆる森羅万象を考え方と発想で分かった。
怖いのは、悪いセックスとポルノ画像が悪い。
辛いのは、うつ病なのにパソコンで頑張るのが悪い。
子供に戻っているのは、子供時代の経験と精神がおかしいからだ。
生きていれば治る。昔のそういう辛い煉獄を忘れた方が良い。
自分は、もっと主観的なことを考えた方が良い。
たまに客観的になると良い。そうすると、ものごとのあり方のようなことが分かる。
昔は、主観と客観をバランス良く考えていた。
そういう風に、経験から考える方法を洞察すると、賢くなる。
賢い人間は、そういう人間が多い。そういうわけで、馬鹿が賢い。
馬鹿な方が知性がつく。主観だけになった方が、終わらない。
大人になって考えると、子供の頃に嫌いになったものは、全部間違っている。
自民党も、学校も、コンピュータも悪くない。
この世界に、悪いものは何もない。
悲惨なものやおかしなものも悪くない。
悪も、悲惨なだけだ。社会の方を良くすれば、自然に悪は消え去る。
何故か、社会がそんなに良すぎるのも悲惨だ。意味がない。
パソコンのUIは、Webページのようなページを中心に、EmacsやVimのようなコマンドやキーボードショートカットを作って、VBマクロのようなマクロを追加するような、そういうUIにすれば良い。
コマンドを入力して、ページを切り替え、ページを読み込んだり、ホームページのような高度なデザインのページを表示する。
そして、Chromeのように、プラグインや拡張でそのページの中でプログラムが動いて、ページに拡張が入り込んで、ページをさらに加工して表示したりする。
そして、GUIのボタンではなく、ページそれぞれにボタンやメニューがある。そういう、Webアプリケーションのようなインターフェースにして、タブで切り替えるようにする。クラウド的にも連携する。
さらに、モバイルのUIも作って、色んなところからページを表示出来る。GUIのボタンのようなものはなくなる。GUIでは、拡張をインストールし、キーボードショートカットを作る。そして、Emacsのように、色んなモードを作って、コマンドはUNIXのコマンドをもっとページ的に拡張したものを作ると良い。
それから、抜本的なOSの操作体系の見直しをする。いつでも表示するメニューやボタンは無くして、場合場合によって切り替えるようにする。そして、右クリック2回押して一般メニューを表示する、と言ったように、もっと沢山のショートカットを作って、ボタンとショートカットの関係を出来るだけ簡単に教え、覚えられるようにする。ヒントのようなものも、ただポイントやホバーをした時に表示するだけではなく、Wikipediaのように直感的に表示したり、どこからでもリンクしたり出来るようにする。
色々と難しいが、そういう、HTMLライクなインターフェースは、FirefoxやChromeなどを参考にすると良いかもしれない。
「ページ・アンド・エクステンション」と言う名前にすれば良い。
マウスも悪くはないが、キーボードのコマンド入力や実行も、もっと効果的にすれば良い。常にシェルを表示して、入力した内容は、ページに返ってくるようにすると良い。
昔は、デジタルな精神をしていた。
経験から、意識で人間のことを分かった。ネットの経験がそこまであった。
右翼も左翼も、自由も平等も、社会も理性も、成長も、現実も理想も、全部知り尽くした。
右翼は、何も出来なくなっているが、左翼は、馬鹿になっている。逆にも見える。
そういう、「社会を知り尽くした大人」のようなことを言う。そういう文章だった。
あとは、理性的な方法や認識とか、創造性や合理性のような理想のことを言う。
理想がどういう意味で理想なのか、どういう意味で同じなのか、などを言う。
そういう、「自由な中での類似性と、分析の当然な方法」のようなことを言う。
そういうわけで、信念が同じだとか、認識には方法があるとか、など、「実地的で段階的な、認識と分析の進歩の段階」を書いていた。
皆は、それぞれが頑張れば良い。そういう、「それぞれがする」と言う発想から、協力や社会を作る。そうして、「仮想現実の創造」のようなことを考える。仮想的な中で、歴史が正しくそれぞれの価値観と自由の力で発展し、多様性となって共同体となるような、「経験と自由の世界」を創造していた。
因果性の想像力、人生と経緯、そして政治と世界を創っていた。
歴史や弁証法から、全員を毎日創造した。
現実では、テレビと戦っていた。戦いとは言うが、ただ、愛していただけだ。
もうない。そろそろ、全部完全に書いた。
政治のようなものを、「それぞれが何を見て、何を知って、何を行動しているか」と言う、自由なモデルから考えていた。そこから、品質保証とか、色んなことを社会主義のように発想した。また、共同体と組織を作って、自由と共有とシステムの社会理論を考えていた。
あとは、人間の常識や先入観を疑う、自然科学の考え方も多かった。普段意識していないが、地球には角度やスピードもある。人間には、音、光(見た目)、熱、臭い、力、感触ぐらいしか知覚出来ないが、明らかに、動物には知覚されなくても存在しているような、もっと沢山の宇宙とものの属性が存在する。人間には何も分からない。自然現象も、どうにかすればコントロール出来る可能性はあるし、生命なんか、簡単に作れるのかもしれない。魂もあるように見える。ヘーゲルの言う、絶対精神のようなものもあるかもしれない。神はいくらでも居るだろう。
それこそ、皆が正しいと思っていることは、何も正しくないと疑う必要がある。そこまで行くと、哲学は宗教のようになる。神を信じないと分からない。不思議と、神を信じると、宇宙では本当に良いことが起きる。神を信じないものには何も良いことは起きない。
ネットの経験をしていると良く分かる。何が正しくて、どう考えるべきかが分かる。可能性を留保して、そのことを決める際には、どのように決めるべきか、逆に、それを決めることによって、何を実現出来るかが分かる。ネットにはそういうところが賢い人間が多い。社会のことも、経験から良く分かる。まるで救世主のように、社会の全てを知り尽くして、何をどうすれば良いか知ることが出来る。
賢くなるためには、論理学的なことを考えれば良い。特に、状況と可能性から条件や意味を考えると良い。ものは、作ってもらえる相手が居れば、作ってもらうことが出来る。それは、自分が作ったのと何も変わらない。そういう風に、社会的な能力や、可能性を実現する条件や、決定の連鎖や、原因を実現する経験のようなことを考える。昔は、それ以上、積み重ねたり、モデルと照らし合わせたりして、普通の人間より高度に、数学的なことを分かっていた。もちろん、推論や実験は多かった。
世界の構造と関係を知りながら、仮説を立てて実験すること。
ただ、そんなに難しいことは考えなくて良い。数式なんか要らない。言葉で、当然のように考えれば良い。何もかも、必然的にそうなるのか、それとも、相対的に変えられるのか、のようなことから考えれば良い。
経験を変えれば変えられるのか、絶対に変えられないのか、どう考えるのが賢明で、何をするのが愚かなのか、そういうことを考えれば良い。
経験的に考えれば何でも変えられるし、可能性を留保すれば色んな方法がある。
そういう、当たり前の中で、社会的、行動的に真理を見出すことが出来る。
そういうものを、哲学と言うのだと思う。むしろ、これでは宗教に見える。新しい自分の宗教の経典にしか見えない。むしろ、経典も多い。
社会とは、何なのか。それは、絶対精神のようであって、実地的な具体例の変化のようでもある。ただ、自分が思うに、出口の隠された迷宮のようなものであると同時に、それぞれがそれぞれのキャラクターを演じる、舞台のようなものでもある。社会的なことを言うなら、平等へとなっていく過程のように見えて、本当にそれぞれがそれぞれの「らしさ」を「ありのままに」生きることが出来るような、そのための、「目的を持った分配、調整、文明」の手段であって、「文化の変貌」であるように思う。最終的な文化は、「真実の価値観」を持った人間によって行われる。その価値観は、「それぞれ」の価値観であると同時に、「あらゆる」ものの価値観であるべきだろう。
真面目に考えて、社会では価値観の合意があれば良い。価値観の合意から、自由な共同体が生まれる。いつも、そういう真面目に考えて、色んな社会を作っていたのが、昔の文章だ。
認識は、実際の姿と関係性を考えていた。
あとは、オープンソースを考えていた。日本にはオープンソースがあまり根付かないが、それでも、オープンソース社会と日本には、共通点が多いと言っていた。
ただ、それは良く分からない。何故か、ロシアと日本は文化的に良く似ている。
良く知らないが、ロシア語では、名詞の後に格変化が付く。日本語の格助詞と同じだ。
それに、ありえない文字を使う。キリル文字と言うアルファベットのロシア版を使う。それは、おそらく、文化的に外国人の流入が少ないのかもしれない。
昔は、全部をいくらでも作りながら、社会のコピーのような文章を書いていた。
自分は、皆の方が賢いのが分かっていない。戦いをしないだけで、皆の方が賢くて、善人で、出来る人間が多い。むしろ、誰も2ちゃんねるをしないから馬鹿なだけで、むしろ、2ちゃんねるをしているから馬鹿なだけだ。自分が賢いわけがない。
皆の方が賢いのに、なぜか最近だけ、自分の方が賢くなってしまった。馬鹿なのに賢くなると、本当に賢くなる。自分は馬鹿だ。
むしろ、馬鹿だと思うなら、本を読むか、学校に行けば良いが、それはそんなに賢くない。自分はきちんと本を読んでいる。まだ、世界史の本の続きを読んでいる。ゆっくり読んでいるからそれで良い。
むしろ、もう一度パソコンのことがしたい。今度は、色んな技術の本を読みたい。経済学の本も読みたいし、心理学もしたいが、そこまでは出来ない。哲学はもう全部知ったせいでつまらないから、引き続き歴史になる。
哲学を全部知ったとは言うが、何も知らない。入門本をいくらか読んだだけだ。それで終わりになるのもありえない。何もしていないと思うから、こういう風にまだ生きている。
むしろ、パソコンの方が良く見える。昔読んだ、暗号技術の本は面白かったし、ハッカーと画家と言う本は昔一番好きだった。そういうわけで、パソコンは悪くない。昔は、Lispを良く分かっている人間だったが、何もしていない。マニアックな知識は多かったが、プログラミングなんか全く出来なかった。ただ、技術の歴史だけは良く知っていた。特に、UNIXとプログラミング言語の概説史に詳しかった。
社会を良くすれば、テロリストのような社会悪は減るだろう。だが、それだけでは社会が良くなったとは言えない。皆に理性と経験を与えて、この世界を本当に幸福な世界にするべきだ。そのためには、過度な発展と都会化が間違っているのかもしれない。豊かなのは良いが、何もしないのは悪い。
自分は、世界史なんか読まなくて良い。今、日露戦争のところだが、これ以降は20世紀で戦争と革命が起きているだけだ。適当に知っているからそれで良い。もっと別の何か良い本を読んだ方が良い。
自分は、デカルトやウィトゲンシュタインが良いと思う。あるいは、ユング心理学が良い。あるいは、数学の歴史、仏典のことば、経済学の入門などがある。ただ、もっと違う、新しい気分で読める本の方が良いかもしれない。それらは、もう、鬱屈とした「いつまでも同じ」と言う本の部類に入る。
学校は、全員平等に、強制するのが悪い。もっと自由に、好きな分野を学習するようにすると、きちんと良い学校になるのが分からない。やり方が古い。工場や軍隊のようにやるから間違っている。細胞の構造は、賢いのに、全員に強制するせいで馬鹿なものに見える。細胞の構造が好きな人間だけがやれば良い。そういう理由で、中学・高校は意味がない。大学だけにした方が良い。自分のように、専門的なコンピュータのことをやっていた方が、あとで哲学や歴史のことが出来る。そういう、自由な教育、と言うものを考えても良いだろう。
自分は、心理学と経済学のことをする。それが一番、自分に合っていると思う。
ただ、学校も馬鹿ではない。僕は学校は好きではないが、自分がプログラミングのことなんか何も出来なかった。Linuxは何も出来ていない。それに、数学なんか全く出来なかった。数学的に考える、哲学のようなものは出来たが、数式なんか解けていない。昔は、ネットで馬鹿になっただけの人間だ。学校はあった方が良い。最近は、昔の自分を賢いと思うのが間違っている。学校の方が賢い。学校が賢いだけだ。悲惨に、宗教や執筆がまだ賢いから、こういう人間になる。そういう人間が居ないせいで、本当に皆より自分の方が賢くなった。今考えると、UNIXのことも本当に沢山知っている。そういうわけで、自分も馬鹿ではないが、きちんと学校に行った方が良い。
むしろ、高校は、賢い人間に一般教養を全部教えたいだけだ。自分の昔を思い出すと良い。何もしていない。きちんと頭は賢いのに、一人だけで何年も何もしなかった。そのせいで馬鹿になった。本当に、遊んでいるだけの馬鹿は馬鹿になる。高校できちんと勉強している人間は多い。本当に、そういう人間の方が賢い。自分を馬鹿とは思わなくて良い。きちんとデカルトのように分かった自分を賢いと思えば良い。だが、大学や高校は悪くない。一般教養を全部教えているのは、大学にも多い。一般教養科目では、きちんと文系にも数学を教える。高校は賢すぎるだけだ。
あまり自分のことを哀れに思わない方が良い。皆それぞれ違うから、それで良い。不思議と、こちらの馬鹿な何もしない執筆の期間が、もう9年も過ぎた時点で意味がない。昔の遊んでいるだけの高校生なんか、たった4年間遊んだだけだし、あれはUNIXなど色んなことを勉強している。こちらの9年なんか、狂って馬鹿になっているだけで、文章を書く以外、何一つ行動をしていない。おかしいから、昔の方がまだ賢い。神のように賢い人間だった。自分は賢いから、何も悪くない。
頭がおかしいのは、おかしな人格を作り過ぎただけだ。こちらの経験で、本当にいくらでもおかしな人格を作った。機械みたいな人格が、まだ生きて、分かっている。それを殺すしかない。ただ、殺しても死なないから治らない。そういう人格は、何か大切な理由で生きている。そういうわけで、何も治らないまま、放っておくとすぐに治る。そういう、「治す」をしているだけだから、何も治さない方が治る。
自分は、本当に心理学と経済学に向いている。経済学は、昔の、自由で、世界を知って、世界を変えようとして、自由を本気で守ろうとした、そういう若い少年に向いている。心理学は、最近の、おかしくなって、本気で皆のことを正常に治そうとして、自分の心も治したくて、本気で頑張っている、そういう人を愛する娘に向いている。そういうわけで、昔が経済学で、今が心理学だが、それは逆にしか見えない。だから、心理学と経済学をやれば良い。それが、哲学と歴史の方に先に出会ってしまったが、それには向いていない。マスターだから哲学に向いていて、歴史には普通に向いているだけだ。ただ、歴史に向いているようには見える。本当にやりたいのは哲学には見える。
皆、環境を変えなさい。
学校のような、集団で属する環境ではなく、もっと自分のやりたいことが出来るような、自由な環境に移るのが良い。
経験しなさい。大人になりなさい。自由になりなさい。
色んなことを自由にすることで、経験し、成長し、世界の本当の姿、裏側から見た世界の姿を知ることが出来る。
それは、そのまま、経験によって、世界の全てを知ることが出来る。
高い大学に、そういう人間が多い。賢い人間は、そういう人間しか居ない。
環境が変わったら、環境を思い出しながら、色んな環境を実際に知るように努めること。
考え方を作りなさい。自分で考え方を作ることで、科学者のように分かる。
人生や社会の「自由になっていく段階」を考えていた。自由になっていく、と言う視点から、人生や社会の経験的な段階と成り立ちを考えていた。
昔の文章は、色んなことをするのを考えていた。
体感し、価値観を知り、考える機会を持ち、知や真理を知る。
そういう、「沢山のことを同時にし、世界を広げていく」のを考えていた。
一つのことしかしないのは悪くないが、沢山のことを同時にすることで出来ることもある。
最近は、一つのことしかしなくなったが、それは馬鹿になる。
むしろ、最近も最近で、賢いと思えば良い。これなら、天才になったように見える。
社会がどんな社会になっていくか、のようなことを、心と具体例とネットで、辿って、考えて、経験して分かっていた。
環境を実現出来る人間だった。
いくらでも自然な経験をしていた。引き篭もりの経験から、自然に成長し、出立して分かっていた。この世界をどのように見つめるべきか、そういうことを経験から分かっていた。
人間の活動から、この世界と対象のことを分かっていた。理性から、機械は人間の側にあるが、自然は人間の側に無いと考えていた。また、社会的な意思と可能性を考えていた。
自分は、まともになりたい。もっと本当にまともな人間になりたい。
「出来る」と言う視点から、環境と社会の可能性を理解していた。
世界は自然に変えられるべきだ。そういう、自由な思想を書いていた。