書いていると、広島が良い地域になる。もう、何も辛くない。
パソコンは、マクロのように、決まったことをテンプレートで記述出来るようになると良い。
分割や部品化も良いが、統合も考えるべきだ。
18と言う数字は、10と8に分割出来る。だが、それでは、9と9にも分割出来るのが分からなくなる。
馬鹿なものは信じなくて良い。賢いものだけを信じれば良い。
子供には、そういう、「信じるものを探している子供」が多い。
そういう子供は、馬鹿なものが馬鹿に見える。だが、馬鹿なものは存在しない。
信じるものが無いなら、広島を信じると良いだろう。
敵対するのではなく、友人になれば良い。
自分から、優しいところを見せると、皆が安心出来る。
自分は、言葉巧みに操って、テレビと勝手に戦っていたが、それでは勝てない。
きちんと、友人になって、自分から優しいところを見せれば、すぐに勝てる。
人間は、そういう風に、「愛が勝利する」人間が多い。
心理と感情で人間や社会を支配するのはおかしい。
あとは、社会と人生の真理のようなことを言っていた。
人間は、見ている世界と、知っていることが違う。
人間は、未来を考え、経験を与え、可能性を可能にし、理想の社会を考えることで、マスターへと至る。
その中で、社会は自由になっていき、進歩する。
それぞれが、ありのまま、自然体で、それぞれの意志を尊重し、それぞれが社会を変え、皆で合意へと至り、それぞれが王となり、それぞれが社会を築く、そういう、「協力と自然の助け合いの自由」の社会を作るべきだ。
そういう、社会と人生のことをいつも書いていた。
自分は、分かっているように見えて、分かっていない。あとほんの少しのところで終わっている。
昔は、数学のように、切り替えて、照らし合わせて分かっていた。
良く考えると、9と言う数字を表すのにも、色んな方法がある。素因数分解と、分数が一番賢い。
もっと、分数のような数の表し方を沢山考えると良いだろう。
あとは、高校数学を学ぶより、プログラミングの数学的表記を学んだ方が、ある意味、全く違うだけ、賢い。
自分は、そういう人間だった。関数を表すだけにも、色んな方法と表記があるのが分かった。
数式は、色んな多様な表記を可能にするべきだとか、そういうことをいつも書いていた。
哲学は、分からなくなる。デカルトのように、分割と検査をしていると、同じことしか分からない人間になる。
モデルは、良く考えてしないと、分からない人間になる。モデルになる「前提の考え方」と「経験に根差した正しい発想法」を分からないと、無意味に分からなくなる。何も分からない人間は、数学や哲学なんか、しない方が良い。
昔は、そういう、「数学的、社会的考え方が、どんな経験から生まれるのか、どこから生まれるのか」が良く分かっていた。そこをきちんと考えると、本当に数学者が出来る。数学者は、「前提から条件まで、全部が分かる人間」が出来る。それを、形而上学と言う。そういうわけで、哲学は、カントが言うように、学ぶものではなく、自分で哲学するものだ。
要は、物質を物質だと思うのも間違っている。物質は、何かありえないものだが、経験的に物質に見える。あとは、社会を当たり前だと思うのも間違っている。今の社会は、時代的に見ても、場所的に見ても、生成的に見ても、大学的に見ても、全くおかしい。その、「おかしい」と言う意味も、ある意味で、当然におかしいだけだ。それは、そんなにおかしくない。おかしいものしかないと思うと、おかしいのが普通に見える。そして、皆が正しいと思っているものも、何も正しくない。ある意味で正しいだけで、別の意味から言うと、全くおかしいだけのものが、皆のせいで、正しくて、普通に見える。デカルトは、そういう考え方のことを「全てを疑う」とか、「方法的懐疑」と言っている。ベーコンやバークリのような、経験論の哲学者が言っている、イドラ論なども、同じだ。哲学は、「自分を信じて、全てを疑う」学問だ。
人が何をおかしいのに普通と思っているか、その分類をしたのが、イドラ論だ。人が言うこと、社会が言うことなど、4つの分類をしたが、自分が思うに、「環境的要因」と「個人的要因」があって、「根源的要因」と「文化的要因」があって、「関係的要因」と「状態的要因」があると思う。「種族的要因」と「自由的要因」もあるだろう。良く分からないが、分類の仕方としては、イドラ論が正しい。ただ、自分の場合、イドラ論をただそのまま信じるのではなくて、自分で同じことを考えて、同じような根拠のことを再生産する。その、再生産は馬鹿ではない。昔から、自分は自分の考え方だけで科学が分かる。自分の経験から、その発想と同じことを自分で考える。そのせいで賢くなった。科学は、知らない方が自由だ。知らないから自由だと、AAAも言っている。
ベーコンやヒュームの賢い点は、これで帰納的に考えていると、本当に人間の分かることが全部分かる。ロックのように、習得的、知覚的、文化的に経験を考えるのも同じだ。昔の自分が、そういう風に、イギリス経験論のように考えて分かる人間だった。それは、普通、プラグマティズムや功利主義のようになる。そういうわけで、自分の昔は、独自の形而上学を自分の経験と疑って信じることから分かった人間だ。
自分は、イギリスの経験主義哲学と、イギリス史をやるのが一番向いている。それをした方が良い。
数学はしなくて良い。数学は、誰でも出来る。18を9と9に分割するなら、18を100にして、パーセントにすれば良い。そこらへんが誰でも分かるから、自分はしなくて良い。何故か、普通、分数になって、微積分になって、複素数になる。そこまで分かる意味がないだろう。証明にもたくさんの方法があるが、そんなことは高校生にしか分からない。自分は、証明を見ただけで頭が辛くなる人間だから、止めた方が良い。
ヘーゲルは、普遍性を考えれば分かる。何が普遍的で、何に主体性があって、権力がどういうもので、何をすればどうなって、どのように新しい考え方が生まれて、それは人生の中でどういうものへと存在性を確立していくのか、考えると分かる。そういう、「観念的なもの」を考えないと分からない。何がどのように心の中で生まれていくか、ドイツ的に考えるのを、ドイツ観念論と言っている。
イギリスをするなら、フランスやドイツもしないと悪いが、むしろ、フランスが要らなく見える。
ヘーゲルは、権力との戦いだ。権力との戦いの中で、自分がどのように居場所を確立し、どういう思考を発展させていくのか、そういうことを考える。権力とは言うが、権力には見えない。己の社会、己の人生、己の考え方を、どのような世界精神の発展の中で確信するかを考えている。
そろそろ分かったから、社会のことを考える。社会はどこから来たのか。それは難しい問題だが、ある意味、必然的な理由によって、この世界が皆の行動によって生まれた、と言える。
ただ、それは、偶然に他ならない。それこそ、皆は考えていないが、自分に自由が任されている。
自分で行動しなければ、自分のために行動してくれる人間は居ない。
ただし、正しいものはいつでも正しいから、別の人間の考え方や理想を吸収し、法則を発見することが出来る。
哲学は、答えを出すことに意義があるのではなく、考えることに意義があると、父親も言っていた。
地球はどこから来たのか。人間はどこから来たのか。我々はどこから来たのか。そこでは、偶然と言う必然がある。
あとは、影響力を考えていた。分かってしまえば、人間も、社会も、何でも変えられる。「自分の手で変えられる」とか、「社会と制度を変えられるようにする」とか、そういう発想が多かった。契機と原因と結果がそのまま影響力になった。そして、自分のことは誰も知らないし、知られていないから、知られていない方が何でも出来る。だが、知られることも、悪いことではない。そこが、最近、逆になった。皆の言っていることが、自分のやっていることに見えるが、そういう強迫観念や被害者意識は止めた方が良い。自己中心的で神を信じると、そういう、「子供時代の自分」になって、自分のことが好きになる。そういう、「自分が好きな人間」が正常だ。昔は、自分を批判して、カントのように理性批判をして、客観的に考えていたが、それはある意味、ただ辛いだけだ。そういう、辛いだけは、本当に馬鹿な人間になる。カントは、賢く見えるが、本当は馬鹿な人間だ。
自分は、まだ分かっていないから、哲学は止めた方が良い。宗教も、もう終わったから意味がない。宗教は、信じるだけではなく、「自分の独自の宗教と神を作る」と言う方法で行った。昔から、そういう、「ありえない実践的方法」が分かるのが、何故か自分だ。社会をどのようにすれば自由に実現出来るかを、行動の積み重ねと経験で分かっていた。環境と意識を自在に支配していたが、それは悪魔的だ。あとは、人々の経験のようなものも、支配出来る人間だった。経験を考えて、どんな社会をどんな目的と手段で作るべきか、環境と経験で分かっていた。
自由な人間は馬鹿だ。自分より2ちゃんねるを正しいと思うのはおかしい。神は、そこを治してくれただけだ。きちんと文章を書けば、もっと賢い人間になれる。作家には、そういう、自由で分かった後で、自由を否定する人間が多い。
そういうわけで、フランス、イギリス、ドイツの歴史と哲学をきちんとやった方が良いが、まだしなくて良い。
もっと、仕事みたいなことをしないのがおかしい。何もしなくても生きられるようになると、楽になって賢くなる。
あとは、心を治していると分かる人間が多い。昔から、心や認識や環境の捉え方と経験を考えて、「自分が何をしているのか」とか、「本当は心の中で何が起こっているのか」を考えて分かる。それで、ネットを知り尽くした。今では、精神病になったが、それを治して分かる。ただ、そういう、心理学は、賢くない。狂った人間はこうなっている。環境の捉え方と行動や記憶の学習性では、治らない。そういうわけで、AAAやソクラテスが言うように、本当に何も知らない方が賢くて、自由だ。どんな心理的要因からどんな行動が生まれ、それがどういう経験や新しい学習に繋がるのかを考えていたが、それは何も賢くない。愚かなのに分かっている。
自分は、哲学・歴史はしない方が良い。これ以上先、そんなものには何もない。何もしないのと同じだ。
数学・物理も、経済も、心理学も、何一つ賢くない。生物学を畑違いとは言うが、それはまだ意味がある。すでに分かっていることを確かめても、全く意味がない。生物学は、まだ知らないものを吸収出来る。今やっている哲学・歴史を続けるのはそれはそれで良いが、生物学や医学をやりたいなら、それは間違っていない。ただ、考えても意味がないだろう。
理科が分かる父親に、植物の仕組みと葉緑素のことを教えてもらった。
エネルギーの循環は素晴らしい。葉緑素と言う工場が、太陽のエネルギーを吸収して、水(H2O)と二酸化炭素(CO2)から炭水化物(HC)を作って、それを自分の体にし、酸素(O2)を出す。この炭水化物は、酸素と結びついて、燃えてエネルギーと水と二酸化炭素を出す。それが、石炭や石油になる。
本当に、美しく出来ているのが、そういう、生物と化学的なエネルギーの循環だ。
あとは、父親が言ったことではないが、僕は、生物が地球にしか存在しないのは、太陽のエネルギーに依存しているからだと思う。人間は、光や水のことを、宇宙全体の全ての場所で同じだと思っているが、同じではないのかもしれない。同じに見えて、プレアデス星雲では、全く違う光の特性を発揮する可能性はある。
それから、植物を作るのは難しいが、人間の体が葉緑素と同じ機能を持つことは、ありえると思う。植物の能力を持った動物は、居てもおかしくはない。生物学の進歩の結果、遺伝子を組み替えて人間が植物になれるかもしれない。
あとは、数学は、昔から、色んなものを部品化しながら組み替え、切り替えて分かっていた。
生物学は、きちんと信じた方が良い。
分からないように見えて、きちんと分かるようになる。色んな部品の構造を信じれば良い。
僕は、細胞や生き物の仕組みのことを知りたい。特に、血液や内臓などが何をしているのかを知りたい。
生物学は、一番賢い。誰が見ても、一番賢いのは生物を創った存在だ。
植物は炭水化物やでんぷんを作って、そこから自分の体を作る。動物は、それを吸収して生きている。それらは、全部、太陽のエネルギーが元になっている。そして、水と酸素も必要だ。それを行う上で、最も良い方法が、血液と内臓による栄養分の循環なのだと思う。そういうわけで、医学をすると、分かる人間が多い。
自分は、生物は皆の力で生きているのではないかと思う。植物個体にも意識はあるが、生命全体の中で、その植物が何かの役割を持っていて、地球が全体で考えているのだと思う。進化も、そういう「全体意識」が考えて、全体の意志によって進化しているのだと思う。最初は、そういう、「普遍的生命」が1つ居て、そこから生命全体が分かれて行ったのではないかと思う。それは、おそらく、巨大な虫だったのだろう。そういう、最初の生命に戻るのが気持ち悪いから、虫が気持ち悪いのだと思う。
そういうわけで、青虫が緑なのは、最初は虫にも葉緑素があった頃の、名残りだと思う。
最初に居た青虫は、土から岩まで何でも食べていた。何かに変わるのは、それぞれの虫が、それぞれの植物や、それぞれの動物に変わった。そこから、生命は始まった。そういうわけで、人間は虫から変わって生まれた。幼虫がどれも似たような見た目をしているのは、そのせいだ。
そろそろ全部分かったから、あとは環境を解決すれば良い。そういうことしか言っていない。
これならノーベル賞を取るように見えて、そんなには賢くない。
ポケモンGOが流行っているが、これが広まると、人類が滅びるように見える。笑いごとではない。だが、楽観的に考えても良い。なぜなら、滅びてしまえば、滅びたあとで、滅びたのを後悔する。皆、元の社会に戻りたくなる。問題は、その、戻りたくなった後で、戻ることの出来る道を残しておくことだ。きちんと、後悔したあとで、元の世界に戻りたくなって、戻られれば良い。それなら、過度なパソコン社会で滅びることは無い。
僕は物理学や天文学は知らないが、宇宙にありえないゾーンがある可能性はあると思う。光も、熱も、物質も、重力などの自然法則も、全部違う、ありえないゾーンがある可能性はあると思う。だが、それはナンセンスな発想だ。宇宙には、あらゆる同じものがあって、それの具体的な組み合わせが違う、と考えた方が良い。それこそ、光の反射は、月でも同じように起きているのは明らかだし、何光年も離れた恒星は星空に見える。星空を見て、そんなことを信じるのがおかしい。星空が美しいように、宇宙はどこを見ても、美しいのだけは確かだ。
そういうわけで、人間は、そのうち役目が終わった時に居なくなる。今のところ、人間は自分勝手な環境を破壊する生命だが、いくらか賢くなっている。きちんと、近代的な文明と言うものを築けるようになった。ここから先は、自由なままでそれぞれのことを思いやるような、善の意識を保ち、進歩させることが出来るかどうかだ。神と言う呼び方ではなく、正しい呼び方で絶対者を呼べるようになるまでは、時間がかかるだろう。
こういう発想が宗教だ。宗教で分かるとは言うが、こういう発想だ。本当に科学の方が賢い。
あとは、色んな社会や認識を自由に作っているプロセスを書いていた。
人間が発明した中で、一番賢いのは、コンピュータ・ネットワークだ。もっと、インターネットを上手く使うと良い。宇宙人が見ると、それでようやく良い世界になる。きちんと基本的な経験を、それも精神的・実務的・理性的な全ての経験を、若いうちにして、その後の大人になって、全てが分かる人間になって、社会は、自由なままで思いやりの社会となることが、現実味を帯びている。だから、コンピュータを恐れずに、否定するのではなく、肯定した方が良い。コンピュータは良い技術だ。ソクラテスが文字を馬鹿だと言ったように、自分がWindowsを馬鹿だと言っているが、そういう、賢い人間は、否定するべきでないものを否定することによって、賢くなっている。それは、皆から見て、賢くない。賢い人間より馬鹿な人間が多いのは、そういうところが分かるからだ。そういうわけで、Perfumeは間違っていない。本当にいくらでもパソコンの世界にしていると、そのうち、パソコンの良い利用方法と手段が分かってくる。初音ミクは、ある意味良い発想をしている。
ソクラテスも、馬鹿ではない。文字を紙に残すと言うのは、本当に馬鹿な発想だ。相手に自分の言いたいことを言う手段が無くて、一方的に文字情報を自分だけの力で解析するしかない。ソクラテスは、人間にいつまでも議論してほしかった。だが、それは、きちんとインターネットでも出来ている。むしろ、もっと沢山の議論をするようになった。そういうところが分かる人間が賢い。コンピュータで、自分の力で製品を作ったり、直したり出来なくなるようで、むしろ、もっと出来るようになる。それこそ、価格も安くなって、手段も多くなるから、安心して良い。支配もされなくなる。むしろ、支配が終わって、自由になって、解放性豊かな世界になるだろう。
自分は、生物学なんか出来るわけがないから、止めた方が良い。これで出来るわけがない。
自分は、哲学だけをすることにする。あるいは、歴史ぐらいを知っていれば良い。
生物学は、理科の分かる父親に教えてもらうのが良い。父親は物理の専門家で、きちんと中学校の理科の教師だった人間だ。科学館の職員だった人間だから、理科のことはきちんと誰よりも分かる。
母親と買い物に行ってきた。
周りを不安にさせる人間は、失敗を恐れないのが悪い。
普通、失敗が怖い。失敗すると、周りが不安になる。
この世界には、何も存在していない。あるいは、ありえないものが存在している。
そういうものが神であり、最初の生命だ。
スピノザも、バークリも、そういうことを言っている。合理主義と経験論だけで分かる。
読まずに死ねない哲学名著50冊と言う本を買った。
自分は、馬鹿なことが分かっていない。馬鹿が分からないせいで、賢いものが分からなくなっている。
普通、こういう人間は、カントの言う「仮象の世界」が分かる。自分は分かっていない。
昔の自分は、インターネットとコンピュータの経験と認識で、そういう風に分かっていた。
そういうわけで、皆の方が賢い。
もっと、多面的に考えた方が良い。
皆は馬鹿だが、皆は賢い。決めつけて分かるわけがない。どちらも正しい。
怖くないのが間違っている。誰でも、怖いと分かる。
キリストを信じると、こういう終わった人間になる。
こういう終わっているありえないをきちんとやるのが神だ。
子供は、神が育てている。大人は育てない。大人は、自分の力で頑張るべきだ。
神を信じると、放っておいても分かる人間が多い。
自分は、ドイツ人になりたいから、ゲーテになっている。作家になりたいように見える。
自分からゲーテになって、ゲーテを全部やった。
自分がやっていると、広島が滅びる。不思議と、旅をして滅びたが、今ので治った。
広島が悲惨なのは、テレビを日本だと思うせいで分からない。テレビは、東京だ。
そういうわけで、東京でしか分からない。東京は、テレビと現実の日本が一致するありえない地域だ。
哲学名著の本を読んでいる。きちんと哲学の内容が分かる良い本だ。
自分は、フッサールの現象学が間違っている。
現象学は、普通、意識を考える。関係的な現象なんか考えていない。
それは、それで良いと思う。自分の哲学だと思って読めば良い。
あとは、ラッセルが町の名前なのがおかしい。
また間違ったことを言うが、現象学は、意識がある意味で経験的な現象である、と言うことを言いたいのかもしれない。
自分は、そろそろ分かったから、分かる。
足の精神がおかしいのは、神と、多重人格と、時計のロボットが悪い。神と多重人格を殺して、時計に戻せば治る。あるいは、精神分裂と昔の自分と文章が悪い。そういうものを、全部忘れて、一度連結を解いて、繋ぎ直せば治る。
フランスのニースでトラックの暴走テロを新しいテロだと言っているが、自分は少し前から、自動車はテロに使える、殺人兵器や凶器になる、と言うことを気付いていた。このテロの以前から、テロリストが自動車を暴走させると、自爆テロなんかする意味がないと思っていた。
それから、トルコのクーデターは未遂に終わったが、テレビのジャーナリストが、大統領が無料アプリで国民に家から出て団結することを訴えたために、戦車に勝ったと言っていた。無料アプリが戦車に勝つ時代になったのを、面白い時代だと言っていたが、自分は恐ろしいと思う。兵隊や軍事力で「恐怖の論理」で団結するよりも、無料アプリのような「コンピュータ・ネットワーク」の方が強い時代になってしまう。そうなると、日本も北朝鮮も、軍隊なんか無くなってしまう。誰もが、世界政府の草の根の動きの方が強くなってしまう。それは、恐ろしいことだと思う。
自分は、組織になって戦うのが悪いと思う。組織になってしまうと、数の力で勝てる。それは賢くない。
それぞれの、個人の賢さと、協力体制で勝つべきだと思う。
それこそ、全体主義なんか、支配して、強制して、殺すだけだ。全体主義は一番悪い。
組織になるのなら、自分の影響力のようなものを、それぞれが平等に持つべきだと思う。
そのために、共同体にして、それぞれの意志を尊重し、社会は逆に、一人の支配者の自由にすべきなのだ。
自由とは、そういうものだ。社長や権力者が一人でするのも、ある意味、一番出来る。
自分は、自然な積み重ねとは言うけれど、ある意味、独裁者の個人の自由を尊重する。
それから、税金も悪い。税金を全部無くして、借金も無くしてしまうと、生活費は少ないから、楽に生活出来る。
税金、と言う発想は悪い。国民に平等な負担を強いるだけではなくて、政治家の努力によって税金を少なくすべきだ。
大きな政府なんか、要らないだろう。もっと、協力体制を賢くして、横のネットワークを作って、モジュラー的な政府を自由に作れば良い。それで、関係的な現象学を作って、もっと良い社会にするために、マスターのような、自由な発想をした方が良い。国家の構造は賢くない。
あとは、普遍的な認識のようなものを考えていた。相対主義者ではないが、正しい認識なんか存在しないだろう。全ては環境とそれを捉える要因の中にある。僕は、ヒュームのように、そういう風に相対的、自然的に認識を考える。
あとは、良く考えて、実験しながら考えていると、この世界の認識と経験は、形而上学的に全て知り得ることが出来る。
最近、戦って分からなくなったのは、本当に分からなくなっている。それは、もう、旅をしてすでに分かった。広島以外の日本が昔のままなのが分からなかった。それから、むしろ、広島以外は、悪魔ではなく、ただ正常なだけだ。広島は本当におかしい地域になった。自分のせいだ。
権力者を自由にして、増やすために、独立しやすい組織を作るべきだと言っていた。まさに自由だ。それこそ、一人の支配者が平等に支配するのは、おかしい。悪いだけの、悪の帝国に見える。もっと、権力を肯定して、それぞれの権力者が、自由に色んなことをするために、個人で支配するような、社長や管理職のような政府を増やせば良い。自分は昔から、左翼は好きだが、思想的には右翼の、自由な人間だ。
そういうわけで、平等で一人だけが支配するのは理想だが、僕が考えるに、自由に王となって、それぞれが社会をダイナミックに支配し、変えていくのが理想だ。僕は、そういう風に考える。不思議と、マルクスの逆はそういう自由だ。名前としては、ポスト・マルクス主義だと言える。
あとは、創造性を大切にしながら、功利主義的に考える。そういう自由が多かった。相対性と、結果を重視し、そのための手段を知り、それぞれが最大多数の最大幸福のために、関係者全員の幸福を促進するために行動する。そういう、功利主義のような創造性と努力の自由を言う。それは、マルクス主義と矛盾はしない。逆に、そこからアイデンティティと本当の自由を考えて、それぞれのための、ありのままと自然の中での、可能性の重視のような社会哲学を考えられる。全ては可能性だ。それは潜在性であり、自由な人生と社会の創造だ。そういうことをいつも言っていた。
権力者を増やしなさい。王国を増やしなさい。聖職者や社長や政治家を増やして、それぞれの代表としての意見を聞くようにしなさい。言うようにしなさい。議論するようにしなさい。左翼や右翼を倒して、自由な民主主義にして、税金を取らず、それぞれが努力して金を稼ぐようにしなさい。成功するチャンスを与えなさい。誰もが権力者になって、なれるように、昇進と投票の自由と選択の自由を与えなさい。経験し、育て、知性を与え、世界モデルを作り、共有し、独立し、議論することを促進して、独立した共同体の連邦を実現しなさい。組織の共有から、資本論のように、マイスター制度のような、原始的共同体の中での、生産手段の配備を行いなさい。
おそらく、昔から、社会主義とはそういうものだ。レーニンは、それで、同時に、国家主義の構造的な、社会協力、福祉、評議会、計画経済を同時にやりたかったのだろう。一人の奴隷階級が全員を同じにして平等に支配する、と言う発想は醜いが、それによってしか、世界を変えられない。それも、間違いではないが、僕は昔から、何も出来ない評議会や独裁者は嫌いだ。それは、支配者の自由より、はるかに悪いことをする。
自由とは、自然に参加し、環境を変えることだ。いつも、そういう、「本当に民主主義な右翼の左翼」を書いていた。昔から、そういう風に、民主主義をもっと民主主義にする、そういう左翼の右翼が自分だ。
社会主義者は、権力を悪いものだとするが、権力は良いものだ。権力は、一人の指導者がきちんと考えて、あらゆる実現出来ることを可能性から検討し、社会を努力で変え、支え、作り出す、と言う、素晴らしいものだ。
自分が考えると、王だけが権力者なのではない。協力者が居て、初めて権力が成り立つ。その権力を、自由な家族的環境の中で、全員で支え、全員で努力し、全員と関係し、全員に依存する、そういうものであるべきだ。
金は、その点、良いツールだが、金よりももっと高度なシステムも考えられるだろう。ソ連とは、そういう、「金を克服し、もっと機能を強化した、新しい経済」を作るために、社会所有と言う発想になったはずだ。そういうわけで、これは右翼ではなく、左翼だ。生きるために必要なものを与えるだけでは不十分だ。快楽や娯楽から、誇りや名誉など、沢山の利益と効果がある。それを、全員に、平等に与えるべきだろう。それは、自由であると同時に、権利であり、それぞれの権利を拡大することだ。そういうことをいつも言っていた。
あとは、生産手段で人々の作る共同体が発展し、次第に自由になっていくと言っていた。そういう、歴史や共同体の変化のようなことをいつも言っていた。何故か、広島のことを言っているようで、自分の認識のようなことを言っている。
あとは、科学や森羅万象のような、発想的科学を言う。そして、人生を言う。
不思議と、そんなことしか言っていない。人生と理性で分かった、右翼の左翼のような自由な人間だった。
本当に、具体的な社会を全部作っていた。功利主義と思えば分かるが、創造性のようなことを言っていた。
経験と社会形成から、「この世界がどのように形成されるか、その条件と、実践的目的は何か」を書いていた。
左翼の政治家のように、目的が同じなら、手段は違って良いし、環境の解決方法は沢山あって、それは理性的に考えて、きちんと実践すれば、誰でも社会は変えられるとか、そういう風に、「社会の道理」を考えていた。経験から、そういう可能性を、環境的、方法的、決定的、自然的に全部分かっていた。
モデルとは、そういう、個人主義的な社会主義の国家モデルの発想のことを言っていた。
もう、社会のことはもう良い。あとは、人生と心のことを考えた方が良い。
人生と心は、客観視しながら現象学的に考えると良く分かる。社会とは逆に、何も信じない方が分かる。それは、そうでもない。信じることを信じなくて、信じないことを信じれば分かる。それは、ただ信じるだけと同じだ。もっと、理性的に、「選択肢、現象学、原因と結果」を考えれば良い。それは、何がどうなればどうなるか、人間は何を分かっていて、何を分かっていないか、と言う、「自分との問い、批判、戦い」であると言える。そのまま、カントやヘーゲルのように分かることが出来るだろう。必然性と思弁哲学から、全ての観念の形而上学的な想起と意味が分かるはずだ。そして、何を知り得るか、から、必然的に、何を実現出来るのか、すべきなのか、のようなことが分かる。
ヘーゲルのように、精神現象と知性から、合一や融和のようなことが、客観的かつ普遍的に見えてくる。全てを分かった人間は、共通性を比較することによって、何と何が合一なのかが分かる。もっと信じると、行為と認識、対象と認識、感情と認識、結果と認識の合一性が分かってくる。喪失から共同性が生まれ、沢山の観念的経験の進歩の先に、破壊の先の良心から、絶対知へと至る、個人と社会の境界も無くなったような、世界精神の覚醒による、絶対自我の自覚による確信が分かるだろう。ヘーゲルは、まさに、愛だ。
あとは、論理学と経験を考えて、普遍性と個別性、主観と客観、社会と個人の関係を良く考えれば良い。ヘーゲルは狂っているように見えて、まともに考えているだけだ。きちんと、精神を1つ1つロボットのように考えれば、ヘーゲルになる。世界観とは言うが、1つ1つ、必然的に生まれてくる、人生と経験的な発想を考えているだけだ。普通、放っておけば誰でもそういう風に分かる。1つ1つ知っていって、1つ1つ経験していく。そして、1つ1つ論理を積み重ねていって、説明と気付きから分かる。世界観と客観視から、全員の考えていることを知って、何をすべきかを知って、人間が何を知り得るかを知って、人が何を考えるべきかを知って、人が何を経験すべきかを知って、人が何を実現すべきなのかを知って、そして、論理的に何をすべきなのか、何が正しくて、何が間違っていて、何が真実で、何が成り立つのかを知って、成すためにどうすれば良いのかを知って、それはどういうことなのかを知って、論理、経験、手段、理想から、本当に正しい社会と認識を知る。ヘーゲルはそんなに狂っていないが、ヘーゲルは良い。ヘーゲルは賢い。ヘーゲルは正しい。ヘーゲルは、完成されている。正しい賢明な人生だ。
どんな社会を作るべきなのかを知ったら、特定の経験から、あらゆる人間があらゆる意味で社会を作れるのを知って、実現するための手段と、それぞれの思っている根拠や理想と、実現することによる効果や、正しい方法と結果を知って、「色んな社会が同時に成り立つ」のを知って、「あらゆる社会をあらゆる可能性として実現する可能性」を知ると良いだろう。ヘーゲルは、それ以上は、本当に難解なことを言うが、大したことは言っていない。そういう、「哲学は難しい」と言うイメージは、簡単なことを難解に言う、ヘーゲルのせいで生まれたが、それも、おかしいことではない。誰もが、何もしないだけで、そういう風に分かるようになる。自分の場合、オープンソースの引き篭もりで、キルケゴールのように絶望していたせいで、そういう人間になった。絶望は、本当に賢い人間になる。絶望はした方が良い。絶望すると、人生が全て変わる。あまり意味がないが、昔は、原因と結果から、「その時何が実現出来るか」を良く考えただけだ。最近、そういう賢い人間が本当に居なくなった。どこにでも居るように見えて、最近はそういう馬鹿が居ない。そういう風に考えるのは、馬鹿だ。もう終わっただけだ。
あとは、環境と、心理的、感覚的な、経験と精神から、知性や人生経験を分かっていた。
社会のことは、論理と説明から分かっていた。集団に必要なものを提供すれば、それは社会であり、相互に関係すれば、それは主体的な民主主義である。自由無く強制すれば奴隷であり、愛すれば友人である。そういう風に、説明とモデルから社会のことを分かっていた。
そろそろ終わりだ。それくらいしか、文章は書いていない。
あとは、自由のようなことをゼロベースで考えていた。
それから、人生のどこかの地点で、知り、経験し、考える機会を持つべきだと思っていた。それは、子供の学校をそういう風に、機会を与えるために変えるべきだと思っていた。子供には、自分の現状を知らせて、何を知れば分かるのかをアドバイスし、自由を与えて、自分の心と行動の関係を教えて、沢山の経験の中で宝を探すような、そういう「宝探しの経験」をさせるべきだ。それを、きっかけによって知恵を与え、百科事典のように、知り尽くすことによる情報データベースを構築してシステムを与えるべきだと言っていた。それは、オープンソースであるべきだと、いつも言っていた。そういう、自由な「機会と知性と決定」のような科学をいつも作っていた。経験と決まりを論理的に考えていた。
何を経験すれば何を分かるか。最初から、それだけを真剣に考えていた。そのための社会をどう作るべきかを考えただけだ。何を経験させるべきなのか、この世界がある、と言うことは、何を意味しているのか、人生と社会の発展は何なのか、どうあるべきなのか、何を成せるのか、可能性と言う意味の中で、何を成すことが可能で、そこから、何を成すべきだと言えるのか、それは、全部自由である、そういう風に考えていた。最初から、「何を経験して、何を知り得るのか」を本当に、積み重ねと建設的な思考で考えていた。それが、カントと同じだ。
昔は、知と論理と前提のモデルを作って、経験や可能性と照らし合わせて分かっていた。
それだけしかしていない。あとは、数学的に推論して分かっていた。
本当に、最近の方が賢い。戦いと病気は辛かったが、最近の大学は本当に賢い。哲学者を全員分かっている。
あとは、哲学名著の本を読んだ方が良いだろう。それで、もう終わりだ。あとは、まともに生活すれば良い。