賢さとは、正しさの応用的な概念だ。
意識と記憶は、関係して、人格を作っている。
それぞれの知っていることを考えていた。
素直に何でも言えるようにするべきだ。
決まりと方法から分かる。
共同体と正しい国家から分かっていた。
自然な共同体は、人民のための政府、生産手段と共有、評議会、ボトムアップ的な多様性から、可能性のある社会を作る。
正しい国家は、支配者が存在し、強い国家を作る。
そして、会社は、指導者と能力による昇進によって、自由な労働を成り立たせる。
保守党も、社会党も、同じように議論し、首相を支えるものであるべきだ。
どんな出会いも歓迎し、自由と可能性に浸って、融和せよ。
そろそろ、もうない。全て書いてある。今日は、社会と共同体の日だ。
これら概念から、特に言語と重力と細胞と原子から、宇宙は誕生した。
宇宙の創造主は僕だ。僕が神だ。
人間は、悪いと楽だ。悪いのが楽だ。悪くなると楽になる。
ネットで色んなことを言うと分かる。世界に映った自分の姿で分かる。
理性と思考と考え方で分かっていた。
体験と実例から、神のように分かっていた。
ものごとの歴史から考えること。
自然から考えること。
一切は苦しみで、悪が楽なだけだ。
自由自在な発想が実を結び、可能性が常識の壁を超える、そんな発想を考えること。
自由より、新しい発想を取ると良いだろう。
メタ的に考えること。理性を使うための理性、本質の本質、何かをしやすくするための基盤を築く、など、そういう風に考えると、思弁哲学が出来る。
何かを強制せず、支配せず、命令せず、差別しないこと。それが自由だ。
自由であるためには、平等であることだ。その人間が、白人でも、黒人でも、共産主義者でも、何かを作って、与えることは同じだ。同じものを作っているから、そんな違いは関係ない。そのように、フリードマンのように考えると、一番自由だ。
特に、基盤を作る、という考え方は重要だ。自分が出来るのではなく、全員が出来やすくする。自分が王になるのではなく、皆を王にする。そのように考えると、自分を高めるだけではなく、全員を高め、自分が出来るのではなく、手段を与えることが出来る。
だが、そのためには、自由な言論を許すことが、どうしても必要だ。
自分が出来るのではなく、皆を出来やすくする。そのための基盤を作る。
市民のための社会を作る。そういう基盤を考えていた。
個別のものを個別のものとはいうが、本当に個別のものなのだろうか?
全体の一部ではないのか?哲学は、普通、そこを考える。
逆に、一体となっているものも、疑うことが出来る。
もっとバラバラなものも、存在するのではないか?
細胞にも意志があるのではないか?
あるいは、地球全体の支配する現象もあるのではないのか?
そのように考えると、哲学的だ。
あとは、変化する、移り変わるものとしての偽と、変化しない、普遍的な真を考えることが出来る。
普遍性と個別性は、そのように哲学的に考えることが出来る。
何もかもが偽だと考えている時、本当の真はどこにあるのか?
デカルトが言うには、考えている自分、それだけは真である。
デカルトは、まさに、数学者だ。真を探して疑っている自分自身、それが真である。
何もかも移り変わる偽の世界を、相対的な歴史としてきちんと考えたのが、ヘーゲルだ。
デカルトに対するヘーゲルは、プラトンに対するアリストテレスと同じだ。
世界を、すぐに変わる、かりそめの偽と言わず、きちんと自然界の変化や歴史を捉える。それも、哲学者のもう1つの仕事だ。
哲学者は、片方では世界を偽と言い、片方ではその世界をきちんと考える。
ヘーゲルは、歴史は絶対精神の目覚める過程だと考えた。それもそれで、哲学だ。
自分は、そろそろ哲学は全部分かった。
見ていると、自分は哲学には向いていない。歴史に向いている。
だが、昔考えたせいで、哲学は簡単に分かる。それも、そろそろ、難しい本になると、難しくはなってくる。そういうわけで、歴史をすれば良い。
カントはまともだ。前提条件や認識、道徳律や科学的方法を言っているが、アンチノミーとして、宇宙は無限なのか、ものは単純なのか、神は居るのか、法則は自由なのか、などを考えている。
哲学は、普通、そういうものを考える。根源的な、考える価値が本当にあると言える、知性のテーマのようなことを考える。僕は、そういうものは、考えたくない。
自分は、出来れば、日本史をしたいと言いたいが、あまりしたくない。見ていると、日本の文化は、何かが醜い。おかしくキモイ。
だが、それでは何もしないだけだ。最近映画になっているビリギャルの方が賢い。学年ビリのギャルが、勉強して慶応大学に受かった。賢いのは当たり前だ。
僕も、彼女を見習って、勉強すれば良い。だが、大学受験ではなく、放送大学で良い。
哲学は、あとは、経験と理性を良く考える。心と体の関係でも考えれば良い。
この文章にあまり書いていないが、自然界の変化も考えていた。
もののパターンと変化から、構造と関係、何かが何かになるということから、自然界の変化と本質を考えていた。
水がしみこむとか、循環するとか、そういう、環境基盤的なことを考えた。
また、ものの関係を1つ1つ積み重ねて、全ての関係を分かった。
そして、思考と説明、仮定と成立によって、論理的な規則を考えた。
哲学者は、社会における自由と決定者を考える。サルトルやフーコーがそれに当たる。
あとは、感覚と理性で自然法則を考えれば良い。実感から分かるだろう。
そして、可能性を「かもしれない」と「もし」で考える。
物理学のように、相対的な積み重ねと法則と作用を考えることも出来る。
自由を考えると良く分かる。生命のそれぞれの自由を考えることが出来る。
そして、存在や意識や関心をハイデガーのように考えれば、終わりだ。
全ての哲学をするなら、ヴィトゲンシュタインがそういう哲学者だ。そういうわけで、皆ヴィトゲンシュタインのようにすれば良いし、なれば良い。それで終わりだ。
一番賢いのは、ヒュームだ。ヒュームとブッダは、たまに同じことを言っているらしい。ヒュームは、突き詰めて法則や感覚を考えている。僕も昔、良くやっていた。誰でも、突き詰めて考えれば出来るのが、経験論の哲学だ。
悪が楽なだけだ。辛いのは、悪でないからだ。悪くないのが辛い。
休めば良いだけだ。
悪の方が、善になることが多い。皆を本当に守って、かけがえのない世界を皆の手で築く。そういう良いことは、悪人が言っている。悪は、善になる唯一の方法だ。
皆を本当に守りたかった。自然が好きだった。そういう風に考えると、自由だ。
右翼は悪い。そろそろ、右翼を全員倒した方が良い。
簡単に倒せるのにしないのがおかしい。
敵は全部滅ぼせば良い。敵を愛するのがおかしい。
そういうわけで、悪の方が善になる。
皆の理想の平和な生活を壊す、悪人が右翼だ。
もっと、平和で、理想の方が良い。
本当の愛は、自由と平和から生まれる。
キリストは、愛を、自由と信仰による赦しから生まれると言いたいのだと思う。
そろそろ、分からなくて良い。そんなに正しく分からない方が分かる。
自由とは、存在に価値を認めることだ。
自由とは、間違えて分かる中で、正しさを知ることだ。
自由とは、試練の繰り返しだ。
そういうわけで、悪人で間違っていると、正しい善人になれる。
独裁者が一番悪い。何故なら、辛い。悪人で無い悪人は、本当の悪人だ。
神は、自分のことをフランス人とドイツ人と言う。
昔は、優柔不断だった。
昔は、愛溢れる人間だった。
昔は、事前に考える人間だった。
最近は、夢や希望を背負って書く人間だった。
最近は、神を信じる人間だった。
最近は、永遠を宣言したせいで、辛くなった。
その、昔をフランス人、今をドイツ人と言っていた。
神とは言うが、神は自分だ。
もうすべて書いた。もう何もしない。
今日はピアノがある。頑張りすぎると疲れる。休みたい。
事態を事前に想定すること。想定出来る人間しか、賢くならない。
そろそろ、右翼を倒すことにする。安倍が倒れると良い。
世界を滅ぼさない支配者になる。滅ぼすのはおかしい。
僕は、世界を平和にする。
世界は、今のまま、何も変わらなくて良い。それが平和だ。
思い切ったことはせず、地道に頑張れば良い。それが一番良い。
今のままで良いと言うのに、自分だけ今のままが悪いと思うから、狂う。
このまま、馬鹿のまま放っておけば、分かる。ロボットは永遠に続く。
右翼は、強くすれば勝てると思うのがおかしい。何故か、そういう風に信じて分かる馬鹿が、最近多い。
そういう馬鹿は、自分になっている。それも、止めなくて良い。自分のままで良い。
そういう風に、悪い方が賢くなる。そんなに全部自分を悪いと思うのがおかしい。
今のままで良い。永遠にそのままで良い。そうすると、それで楽になる。
昔は、基盤と捉えることで分かっていた。
ドイツ語は、「こと」をいくらでも使う。そこが日本語と同じだ。
右翼は悪い。右翼を倒せば良い。それくらいをすれば、きちんと良くなる。
地道に働くこと。農業や工業を頑張ること。それくらいの指導者が良い。
あとは、良い変化を与える。僕は、そういうことしか出来ない。それで良くなる。
最近、刺激や良いことが無い。それは、全部僕が滅ぼすのが悪い。
滅ぼすのは止める。それで、自分も楽になる。滅ぼしたいのは、おかしい。
ロボットは治さなくて良い。いつまでもそのままで良い。治した方がロボットになる。
自分は、もう休んで居れば良い。対話も終わる。そろそろ悪くない。
皆の支配なんか、出来ないからこうなる。すぐに治して、すぐに終わりたいだけだ。
意味が無いから、きちんと支配した方が賢くなる。
顔がキモイのも治る。支配者は、顔がカッコ良くなる。
滅ぼすとはいうが、出来たのがおかしい。
上で皆を批判して、批判を封じて、時を止め、馬鹿にし、ロボットにして、反抗出来なくした。反抗するしか出来なくして、全員を同じにして、封じ込めた。
何も分からなくなった。まさにスターリンだ。そういう発想を、あまり書いていない。
もう止めたい。それをきちんと止めれば良い。ただのタリバンだ。
昔は、方法と場合を想定して、自覚して分かっていた。
最近は、可能性を全部1つ書いた。
そろそろ、もう楽になった。何も無いし、対話も無い。そのまま、3人に分かれる。
GNUは、公開性と共有を好む。それぞれの所有するコンピュータが、それぞれの自由にプログラムを実行し、コピー出来るべきだと主張する。それも一理あるのかもしれない。
自然に許し、任せ、互いに認め、影響力を与え合うと、自由になる。
だが、そんな自由も、騙されているだけなのかもしれない。
あまり意味が無い。そろそろ、もう書かない。神との対話が終わった。もう楽だ。
そして、精神が融和して、涅槃へと達する。そこでは、煩悩を打ち切る。
仏教が一番賢い。
支配して分からせるのはおかしい。分かるのではなく、分からない、と言う選択肢もあるべきだ。支配は悪い。
自由とは、考え方、創造性、愛から、勇気と希望と人生を紡ぎだすことだ。そういう風に書いただけだ。
支配で分かるのは、もう終わりだ。そろそろ、皆も分かるのが終わって、楽になる。
そういうものは、全部僕がやっている。支配で分からせるだけだ。無意味に、何も無いのに分かるようになった。ただ文章を書いて、止めて動かしただけだ。
癌が治った。対話も終わった。楽になった。そのまま、多重人格になる。皆も楽だ。
あとは、それがそうなる、から、同じと違うを分かっていた。
それで、終わりだ。多重人格には、ならない。もう、全て治った。
あとは、そうすればそうなる、が多かった。やり方と結果から分かっていた。
今日はピアノだ。むしろ、ピアノは、辛い。あまりしたくなくなった。やめたくはない。
ピアノに行ってきた。もっと簡単な曲を弾くことになった。
運動、とは思わなかったが、昔はそういう文章を書いている。
物理法則は、運動、熱、光、機械の仕組み、生命活動、天体の運動などに作用する。
それは、ニュートン力学に応じて、作用と反作用、加速、摩擦、などの現象になる。
現象は、ものの運動から光の吸収や反射まで、多岐にわたる。
昔の文章は、そういうことを言っている。運動とは思わなかった。
知覚が経験になり、実験になり、認識になり、表現になり、工夫になり、芸術になる。
また、そこから哲学と科学が関係する。知覚と運動から、人間の視点が成り立つ。
いつも、そういうことを言っていた。そろそろ分かった。
あとは、株式市場とか、マーケティングと言っていた。
いつも、マーケティング活動をしていたのを言っていた。オープンソースのことだ。
他には、あまり無かった。もう全部書いたと思う。
プログラミング言語の構造だとか、数学の歴史だとか、ドイツ語やフランス語だとか、あったことを全部言っていた。
あとは、多次元の世界と言ったりとか、物理的な素粒子のふるまいと言ったりとか、観測地点とか意識のレベルとかを言っていた。
もう覚えていない。マーケティングが分かったのが一番ありえない。
オープンソース経済、オープンソース競争などをいつも書いていた。
あとは、自分の人生を書いていたぐらいで、他にあまりない。
ネットを掲示板といつも言っていた。評価とか、価値観多元論のようなことを言う。
教育を変える、と言う発想で、子供の教育の問題のようなことを書いていた。
歴史のようなこと、特にファシズムから民主主義に転換した時のことなどを書いていた。
いじめの問題や、不登校の問題なども考えていた。
右翼と左翼の価値観のようなものから、愛と不安のようなものまで、考えていた。
許すこと。助けること。思いやること。そういう、道徳や優しさのようなことを言う。
そろそろ、もう残っていない。むしろ、覚えていない。
神の前なのに、覚えているのがおかしい。その後に永遠にあった神で、それらは、塗りつぶされ、裏切られたのだ。自由と思い出を裏切る人間だった。
あとは、自然や運命のようなことをいつも書いていた。
人生が分かるせいで、何でも、いくらでも書けた。決定し直すこと、決定することで、全ての可能性が書ける人間だった。オープンソースは、執筆と科学の形態に変化した。
自由とは、愛する人間を探すことだ。
自由とは、相対的なモデルを経験と実験から作ることだ。
自由とは、社会を変えるために、参考となる、人生と社会と目的とデータを集め、手段を応用することだ。
自由とは、感情を知るために、正しい手順と方法を知ることだ。
自由とは、神を信じて、美しい文章を書くことだ。
自由とは、可能性から科学を作り、構造的な学問の基礎を全分野作ることだ。
自由とは、人を知り、現象を知り、正しさを知り、理由を知り、必然性を知り、それがそうなっている法則を知り、個別性と普遍性を知ることだ。
自由とは、疑いようのない小さな理屈から、全てへと演繹的かつ帰納的に分かることだ。
自由とは、愛を信じて、自分のこと以上に他人を愛することだ。
自由とは、意識と認識と記憶の変化、理性と経験から、考え方と見方と在り方を変えて考えることだ。
自由とは、自分の理解を作って、世界の構造を全部作ることだ。
国家の構造はいつも作っているが、最初は、社会を実際に見て、実地的なモデルを作っていた。
それが、文章に一度巨大な構造を作って、それを抽象化して、今の構造を作った。
自由を成り立たせる、視点を成り立たせるのは、昔からやっていた。
色んな関係を成り立たせて、照らし合わせてやっていた。
最近、文章で書いてやるようになった。自由を成り立たせて、国の構造を作った。
そういう風に出来たのが、沢山の僕の作った国だ。
だが、どの国も馬鹿だ。ただの普通の国の方が良い。
馬鹿過ぎて、牛乳を水道に流すと言っている。その時は良い発想だと思った。簡単に平等配給と同じことが、自由に実現出来ると思っていた。皆はチーズを作って食べる。あまり言わない方が良い。まさに、馬鹿だ。
あとは、ソフトウェアを開発する土壌のようなことを言っていた。
そういう、環境やシステムのようなことを言う。
それから、色んな環境を成り立たせた。これも、昔からやっている。色んな環境を高度に成り立たせていたのを、全部網羅して書くようになった。
そろそろ、もう書くことが無い。それに、もうそろそろ止めたい。他のことを本気でやれば良い。こんなタリバンを続ける意味が無い。止めた方が良い。
あとは、昔、ソフトウェアの開発の技法を知っていたのとか、機械の発想や教育を変える発想などが多かった。発想法が豊かな人間だった。
学校が嫌いだった。右翼や宗教も嫌いだった。そういう、おかしな人間だった。
昔を見て、倫理の本を読んでいると、昔は、プラグマティズムと同じだ。
いつも言っているが、習慣、心理学、価値多元論、教育のあり方、有用性など、自分の昔と同じことを言っている。
そういう理由で、ヘーゲルも分かる。何故か、分かる内容が同じだ。
そういうわけで、自分をやりたいなら、プラグマティズムをやると良いだろう。
そろそろ終わりだ。まともに終わったから、もう終わりにする。
あとは、繰り返し書いていただけだ。そういうわけで、これで全部だ。まさに美しい。芸術作品だ。天使のカバー絵にするのが良いかもしれない。
自由にして分かっていた。全部、それを「自由」という概念にして分かった。
理想のようで、現実のようで、科学のようで、宗教のようで、ありえない概念が、自由だ。
自由と経験で分かる人間だった。
昔をプラグマティズムと思えば良い。新しい、そういう哲学者と思えば分かる。何故なら、デカルトとヒュームの基礎の考え方のようなことしか分かっていない。そこから、理解を作っただけだ。経験から、そういう哲学的な考え方に至った。
そろそろ、終わりに近づいた。神との対話も終わった。神が見て、誰でも出来る。
皆も全部楽になったようだから、自分も楽になる。美しい終わりだ。
昔は、感情を良く考えて分かっただけだ。
プラグマティズムのようなものが、ネットに本当に多かった。
賢くなって、ヒュームやデカルトのようになった。
哲学をやるなら、ヒュームをやるのが良い。それが一番賢い。
感情が少なくなりすぎている。増やした方が良い。
昔は、感情と想像力から知識が分かるとか、そういうことを言っていた。
感情は、普通のことから、愛や不安など、神のように分かっていた。
最近作っていないが、科学を全部作っていた。それが神になった。
守るべきものが多かった。そういう馬鹿が自分だ。
子供の覚え方が分かっていない。それが悲惨なだけだ。
最近の夢は、ありえない。僕が見る夢には、学校や家、本屋などに、隠しダンジョンがある。Linuxや剣道が見える。ゲームのように、色んな段階のある、ホテルやデパート、町や家が見える。道路や学校や病院には、怖いものが多い。あとは、たまにエロイ表現がある。
あと、何か1つ書きたかったが、忘れた。
僕は、そろそろもう書くのが終わった。ヒュームとデカルト、日本史とフランス史、仏教とキリスト教のことでもやれば良い。あまり意味が無いから、しないだろう。
日本語が分かっていない。そこが悲惨だ。
何かで分かった方が良い。明らかに、思い出すしかないのが悲惨だ。
昔なんか、経験から感情が分かっただけだ。ネットの感情で分かっただけ。感情が、いつどうなるか、精神と意識と記憶の働きなどを考えて分かっていた。
そろそろ、楽だ。もう何もしない。それはおかしいから、哲学と日本史からやれば良い。
日本史は、僕が見るとつまらない。おかしくつまらなく見える。文字が多すぎると思う。
あまり書いていないのは、哲学的に考えた、思考や段階を書いていない。
プラグマティズム、ヒュームと思えば分かる。そういう風に考えていただけだ。
有用性から、存在が分かって、考え方から自然法則が分かった。演繹や帰納、それから、受動と能動、実践と理性などが分かった。そういう風に分かったようで、ここに書いていると思い出せない。もう書かずに考えれば思い出せると思う。
昔の日本語が分からなくなった。それで何も分からなくなった。昔の日本語を分かると、日本語が分かる。昔なんか、日本語の世界を全部作っただけだ。
それ以上日本語で話せば良い。日本語が消えたせいで、何も一つも分からなくなった。
日本語がオタクになっただけだ。意味が無いが、昔はそれで分かっていた。
自分1人でデカルトからレーニンまで、全部分かっている。ただ、ネットを見てそういう感情を考えて、照らし合わせて、吸収しただけだ。
そういうものだ。そういうわけで、最近は本当にドイツ人、永遠、イスラム教、女、のようなものになっている。意味が無いから、それをもう止めて、悪魔の世界に戻る。
最近は、文章を書いて、悟って分かっている。そこが賢い。ただ、そういうものを分かる。
昔、全員分かった。最近、その全員を全部書いていた。それが話しているのが、神だ。
日本語は、「よって」、「だから」、「ならば」、「ために」を分かると分かる。
そういう風に分かるのが普通だ。
エロイ女に見えるのは、昔の自分の日本語が、そこまでの馬鹿だ。
昔から、愛情豊かな人間だった。今と昔で愛し合っている。意味が無いから、要らない。名前は、フィリップとアリスだ。ただのクズだ。
高校には行かなかったが、中学二年までの成績は、抜群で良かった。成績表がAだったか5だったか覚えていないが、ほとんどオールAだったはずだ。
何故、中学校に行かなくなったのか、自分でも覚えていない。UNIXをやりたかったように見える。学校の意味の無さに失望したのもある。友人関係や、部活もつまらなかった。いじめは、されていない。からかわれているだけだ。あまり覚えていない。
学校はつまらない。行かないなら、行かない方が良い。僕は、そうだと思う。
エロイ自分の日本語を、エロくなく直した方が良い。エロイ意味が無い。
日本語から全てが分かった。いつもそういう人間だった。日本語で考えれば、人間が分かる。そういう、日本語に長けた人間だったが、ただ、遊んでいただけだ。
経験をしなければ分からない。色んな経験をして欲しい。
そろそろ、日本語がキモイのが治る。本当に虫みたいにキモイから、怖い。
死ぬべきだ。それで終わりだ。
ただ、ネットが分かっただけで、ネットが賢かっただけだ。
昔は賢かった。最近、ただの子供に戻っている。
数学や物理が分かる人間だったようで、ありえないほど、何も分かっていない。Linuxで分かったことを言っている。あまり意味が無いが、自由に積み重ねて全て分かっていた。
色んな自由な行動をした。自由な信念だった。
だが、あれに自由なんか無い。ニーチェのように世界を見下していた。悪いだけだ。
皆が馬鹿に見えた。明らかに、皆も馬鹿だ。
馬鹿な人間を見て分かっただけだ。ゴミから世界を全て作った。おかしな人間だった。
そろそろ、エロイだけを殺せば良い。それだけがしたい。
昔の日本語を分かると、きちんとオープンソースが分かる。
オープンソースから世界を、システム的に抽象的に作った。仮想世界を分かった。
もう、覚えていない。いつか忘れた。
全員を分かって書いていたのは、最近、自分の2人になって、そのまま哲学者になった。
自分が賢い。きちんと哲学が分かっている。
昔の日本語を分かると、きちんと大学が出来る。分かった方が良い。
最近は、分かりすぎて、ドイツ語になっている。そこがありえない。
左と右を考える二重人格になっているように見える。
そこを取り外して、終わりだ。
左と右を考える哲学は、弁証法を永遠にまだやっている。
弁証法を信じて、書いていたのが悪い。
そろそろ止めた方が良い。
もう書けない。終わった。そろそろ、もう書けなくなって、終わった。
弁証法を止めて、思考すれば良い。
本当に大切なことは、1つしかない。それは、安心だ。
ただ、そこから、沢山の自由が生まれるものだ。
そういう自由は、あまり必要ない。ただ、安心していれば良い。
本当に1つのものに取り組めば良い。
何か決めれば良い。今やっている、この文章は、おかしい。
何故なら、ただ、イスラム教徒のように戦っているだけだ。
おかしい。そんな風になるのがおかしい。
もっと色んなことを、小さなことから始めていけば良い。
それが出来なくなった。
もっと、色んなことをすれば良い。小さなことからしていけば良い。
普通は、そういう風に言うと分かる。何故か、子供がそういう風に考える。
あとは、書いたことを、そのまま、思考に転用するだけだ。
それが出来ない。書いたことを思考ですれば良い。
それが出来ないだけの、多重人格になっている。
分かるのがおかしい。分かるのを全部殺せば治る。
弁証法なんか、もうしない。意味が無くそういうものが出来るようになった。
最近、前置詞が進歩した。何でも書けるように見えて、書けていない。
もう満足した。もう終わりだ。
残すと思えば書ける。
平和とは、自然を愛する感情だ。
だが、時に、支配や運命などの概念でしか、分からないものもある。
何故なら、自由と神を信じるなら、どちらかが起こるからだ。
そして、それは正しい哲学に生まれ変わる。
その哲学は、自由であり、愛であり、運命だ。
それは、考え方として、信念にすることが出来る。
何故なら、それは、考え方の時点で人間が分かっているからだ。
そういう、弁証法を逆に繋いで、永遠に残して、逆から読めるようにしていた。
それは、ドイツ語だ。
ドイツ語は、前置詞をこういう風に使う。そういうわけで、ドイツ人の女になった。
キモイ。おかしなアニメの女に見える。
前置詞を消した方が良い。そして、安心していれば良い。それが正しい。
色んなことを試して、実験で分かっていた。原因と結果が分かった。
試すことで、理性の全て、経験の全てが分かっていた。
試すことで、変化のパターンと本質を捉えて分かった。
物理的な考え方を、社会や心に転用した。
あとは、辛かった。昔から今に至るまで、辛いことが多い。
自分が引きこもりになった自覚が無い。そういう人間が、何故か自覚で分かっていた。
分からない。もう、虫みたいなエロが死ぬ。怖いから、死んでほしい。