良い発想は悪い発想だ。悪い発想は良い発想だ。
発想の良い悪いは、それぞれの人間によって違う。相対的に変わる。
興味や関心によって変わる。
料理の好きな人にとって、料理の発想は良い発想だし、コンピュータの好きな人にとって、プログラムの発想は良い発想だ。
また、時間とともに変わる。
昔自由が良く見えて、今平等が良く見えるなら、それは平等の方が良い。
思想で考えるのは、おかしい。
どれも悪いが、特に自由が悪い。完全な自由は、殺し合いの世界になる。
もっと、思想で無く考えれば良い。
本当に大切な秩序ある世界を、皆できちんと考えて、皆の手で守るべきだ。
かけがえのない社会を作るべきだ。
自由で、平和な世界が生まれると思うのがおかしい。
今の世界が、一番混乱と戦いの世界になろうとしている。自由がおかしくなった。
昔は、自由が平和に見えた。それはそれで、おかしくはない。
自由にして、皆で考えれば、分かるように見えただけだ。
価値観と信念もそれぞれ違うし、認識の捉え方も違う。
皆同じ、と言う発想が良いように見えて、それはそれで悪い。
ただ、今考えると、皆同じ、が良いと思う。それはそれで、おかしくはない。
自由は悪くない。皆それぞれ違って、関わり合うのも、賢い。
自由は悪くない。皆がそれぞれ違う認識を持って、好きなことを言えて、行動出来るのは、あるべきだ。ただ、それは、賢く考えると、平等も同じだ。
平等には人権が無い。皆を全く同じにする。自由の方が良い。
むしろ、皆できちんと考えれば、自由でもまともな世界になる。そういう、まともな自由が良い。
変わらなくなって、楽になれば、治る。
社会が変わると、価値観も変わる。良いと思っていたものが、悪く見える。そういうわけで、自由の方が良く見えて、自由は悪い。
自由は、悪いものが生まれる。そういうものを無くした方が良い。
自由な方が良い。それぞれ違うことを考えているのは、ネットを見れば誰でも分かる。それぞれ正しいし、矛盾はあまりしない。平等は、悪い。同じにする意味が無い。
サルトルの言う、実存とは、未来を自分で作ることを指す。また、会社に参加することは、同時に、拘束されることだ。そのように考えると、哲学が分かる。哲学は、自由だ。
昔は、人格を切り替えて分かっていた。それがおかしい。
ヘーゲルの言うように、自由は、社会の中における自由だ。社会と関わり合うのが自由だ。
カントは、思い込みを無くし、役割、限界、根拠を明らかにし、明確に区別し、全体との関連を考える。それが批判哲学だ。
あとは、ネットで実験すれば分かるだろう。
匿名は、何でも言える。悪く見えて、良い。色んなことを、しがらみ無く言いたい人間が多い。特に、学校の子供に多い。匿名で言えば良い。
皆が関わり合って、参加出来る、不自由のない環境を作った方が良い。
1つ1つ構築して、組み立てて、建設的に積み上げれば、分かる。
大きなものも、小さなところから、1つ1つ考えれば分かる。
最近は、もう全て分かった。書く以外、何もしなくなった。まだ何も終わっていないのに、いつも終わっているような感じがしている。
終わるのが辛いだけだ。だから、続ければ楽になる。何でも終わりたいのが、おかしいだけだと思う。
最近は、毎日一人人生を生きるようになった。夜、死ぬのが辛い。
自由を悪いと言うが、自由が無いのは悪い。
学校に自由が無いせいで、皆何も出来ない。
子供が悲惨だ。大人は、何もしていない。何も考えず、支配して管理しているだけだ。
子供のために、自由に経験出来る環境を作った方が良い。
社会のあらゆるものと関わって、仏教のような高みを知れる、愛と真実の経験を与えよ。
自由は悪い。管理しているだけで、奴隷のように働く。ただ、それは社会主義的だ。
色んな経験をし、愛と人々の会話から、社会のことを知れ。
とにかく、そういう経験のことを書いていた。宇宙人のような自由だった。
社会のあらゆるものは、変えられる。別の可能性を考えられる。
理想は、自由な多様性であり、同時に、平和な統一だ。それが、自由だ。
自由とは、時と場合に応じて、方法を知り、やり方と結果を知り、創造性のある結果を生み出し、法則から合理的に変えることだ。
そのような、創造的な自由を書いていた。安倍首相のような考え方をしていた。
あとは、啓蒙主義のようなことを言って、ロマン主義のようなことを言う。
信じれば、変えられる。自分の能力と、人間の力を信じて、協力するべきだ。
デューイのような、教育と習慣、道具としての知識は、いつか書いていた。
もっと勉強した方が良い。哲学と経済学と歴史をするしかない。きちんとやらないと悪い。それらは、本を読めば出来る。
最近、北欧神話の本を読んでいる。ロキがこびとの財宝を取り上げるところまでは読んだ。そのように、ゆっくり1つ1つ読めば良い。
それぞれに歴史がある。時間軸と世界観がある。
昔は、対処するだけの人間だ。色んなものに変わる。
ドイツ語は、現象の言語だ。
英語でいう単語は、日本語でいう漢字だ。
古代から未来まで、歴史を全て自分の体験で分かった。
英語は、柔軟で包括的な言語だ。
共有や公開は悪くない。人間や町のことをもっと知りたいなら、情報共有で分かる。
科学的に考えれば、何でも分かる。
宇宙は、人間の意識の具現化だ。
社会基盤を自由にし、独自にせよ。
人間は、環境と繋がっている。
全員によって、社会は変えられるべきであり、その決定に誰しもが参加出来るべきだ。
ただ、自由は悪い。会社や国は、公的なものにすべきだ。
あとは、出来る自由を考えただけだ。
前提と手段が分かれば、何でも出来る。人間や宇宙すら、変えられる。
立場が変われば、全て変わる。それぞれ色んなことを考えている。間違いは無いが、何も出来ない。皆、頑張っている。すべきなのは、自分だ。
対象や人間がどうなるか、どうなっているのかを考えた。様相が分かった。
皆何も出来ないなら、自分がやるべきだ。
全員を吸収した。
ネットで立場や前提を吸収した。
子供が大人と関わると分かる。
サルトルのように、段階的な意識で分かっていた。
永遠に仕事のようなことをしている。それで楽だ。
知性をつけることをしないから、馬鹿になる。
数学的な知性が無いが、日本語の知性がついて、賢く分かるようになった。
馬鹿は分かる。人間は、馬鹿な方が分かるから、こういう風になる。
自由とは権限があることであり、誰しもが出来る、変えられるように、参加し、許可し、その上で全員によって変えること、それが、自由に行われることだ。
地球儀や地図に情報を表示すれば良い。
山は、太陽エネルギーの貯蓄であり、植物は太陽の光で生きている。
宇宙にも、ものは確かにある。月は、太陽の光が反射して地球に届いている。
ものにも歴史がある。地球にも歴史がある。
町は、変わる。昔は、ジャングルと草原だった。
組織は、それぞれを独立させて、メタ的な組織にすると強い。独裁者の単純な帝国の方が、弱い。だが、意思決定の素早さでは、独裁国家の方が勝つ。
単純に組織を改善すると、コストパフォーマンスが勝つ。市場での競争のためには、独占と共有、標準と公開のバランスを取って、プラットフォームの拡張性を高め、自分の市場を作り出し、ファンやサポーターから意見を集めるべきだ。参加型にしても良い。
会社は、金で出来る。IBMのような技術がある。また、世界を変える。マスコミは日本を変えているし、支配している。電化製品は、無いと困るだけではなく、日本の経済と景気を支えている。そのため、時に、金が悪いこともある。公的なものにすべきだ。
自由に組織を作れ。
組織を仮想的にして、その時その時作るように出来る。
ただ、それはおかしい。昨日ソニーで、今日日立で働くのは、おかしい。
そういうことは、大企業ですれば良い。
自由に組織を作る、と言う発想が多かった。そのための方法と手段を全部考えていた。
生命とは、自然な遺伝子による発生と細胞分裂のプロセスであり、その中での光合成、食物連鎖、水と栄養分の循環、遺伝と繁殖による、吸収と変化と遺伝のプロセスである。
哲学とは、主体的、客観的、言語的、把握的な、精神と場と理解の関係の展開である。
社会とは、自由と平等、支配と解放、抑圧と解決の理想の中で、出来る範囲で行使する、社会的で現実的な行動と手段の構築である。
教育と心理は、本当に生徒や患者の立場になって、本人の問題を把握し、正しい方法で問題の解決が行われるべきだ。
精神の分析の方法は、深層心理、学習と恐怖の把握、経験と行動と認知の対処法、そして問題の把握と解決であり、正しいプロセスを持って行うべきである。
ただ、そういう、自分の科学は悪い。それで本当に人を治そうとすると、悪いと思う。
心理学的に考えると、何か恐怖がある裏には、その感情の支えとなる思考や思い込みがある。僕の場合、世界と関わるのが怖い。それは、世界に、自分の求める安心が無いからだ。
安心出来ないから、怖くなっている。安心するためには、何が怖くて、その理由が何なのか、明らかにする必要がある。また、認知のおかしさや、行動のおかしさも同じだ。
悪い学習や記憶を消すために、忘れた方が良い。そういうものは、あるだけで馬鹿になる。
要は、嘘を分かっている。ドイツや科学のようなものを分かっているようで、そういうものは、正しいものではなく、まがいものだ。嘘しか分かっていないから、怖くなる。
あとは、おかしなことをまだやっている。その間、辛いから怖い。
真面目に考えて分かるようで、分からないこともある。未来における死が怖かったのが、いつもの自分だ。
まがいものは、作れば作るほど怖いが、作れば作るほど分かる。
そういう風にしなければ、分からないのが、馬鹿な人間だ。
全ては、場と関係における、精神と決定と安定だ。
あとは、もう治った。心臓が治って、楽になる。
同じように、戦えば戦うほど分かる。誰でも戦うことと作ることで分かるのが、人間だ。
テレビは、日本だ。美しくする意味もないが、馬鹿な芸人を流すぐらいなら、美しい映像を流した方が、まだマシだと思う。
そういう、否定的な考え方を止めた方が良い。誰もそんなものを読みたくないだろう。
作家が右翼になるのは、誰でも戦って作るようになるからだ。それでしか、書けないし、分からない。パソコンなんか、同じだ。
理想を言った方がまだ普通だ。
自由とは、純粋に、そして、心の底から、人を愛し、世界を愛し、信じ、助けることだ。
もっと、本当に好きだと言うことを、沢山言った方が良い。
僕は、皆が嫌いに見えて、本当に好きだっただけだ。
経験、意識、行動、心、認識の結果と分析から、観念的な概念が分かる。
概念は、普遍的な真理であり、相対的な経験であり、絶対者のメッセージと暗号である。
概念は、宇宙を構成する要素の全てであり、イデアや世界モデルと同じものだ。
概念は、宗教的かつ経験的、行動的かつ理性的に知ることが出来る。
概念は、分かることと分からないこと、気づかれていることと気づかれていないこと、本質や本質の本質、そして、あるものでもあり、ないものでもあるものだ。
概念と方法から、世界の全ては概観することが出来る。また体験から知ることが出来る。
概観と体験と記憶によって、宇宙の全ては理性的に分かることが出来る。
だが、神を信じることによって、あらゆる本質の全てを悟ることが出来る。
知ることと、体験することは、似ているようで、違う。知ることは、最後までの道のりを分かることだが、体験することは、その中で1つ1つを吸収して、自己に融和することだ。
あとは、構造と物理を分かれば分かる。特に、物理的に構造を作れば分かる。
全ては、概念、構造、根拠、方法だ。
そのようにすれば、あとは全部分かる。そろそろ、全部分かるはずだ。
経験とは、信じて、なり、在り方を知って、自分がそのように在る喜びを知ることだ。
それくらいしか書いていない。ただ、昔書いた文章を網羅して、それがもっと昔の自分を同時に網羅しているだけだ。
あとは、融和することから悟りを開いて、涅槃に達するだろう。
認識とは、純粋認識、複合認識、共通認識、自己認識、他者認識、概念と方法における、認識の役割と限界と根拠の把握だ。
認識は、見方を変えることによって、正しい認識を得ることが出来る。
認識は、経験的なものであり、限界がある。
認識の比較と行動との関係から、結果を予測し、概念的に理由を知ることが出来る。
認識は、自由な活動であり、法則であり、理解のための方法であり、分析の道具だ。
もっと色んなことを言っていた。認識は何だったのか、今では、もう忘れている。
認識は、発想のための手段であり、具現化と思考のための道具だ。
知識は、全て認識と考え方であり、前提と対処法だ。
また、認識は、客観視と機会を理解する手段であり、人格を吸収することだ。
もう分からない。もう全て書いた。
いつもの文章は、この文章ではなく、構造を書いているだけだ。
現実から構造やモデルを作ったのを、いつも書いていた。
まず、自然な体験と行動から、認識と人間を知った。
社会のことを知って、現実的に考え、自然な考え方を持った。
方法と学習から、経験し、全ての可能性を知った。
抽象的な演繹と帰納から、意識と経験を知った。
マニュアルを作って、文章を書いていた。
自然な体験から、モデルを作った。
モデルを発見し、世界モデルから全ての科学を作った。
そのようなことを書いていた。忘れているから、思い出せない。そういうことを言いたかっただけだ。
最近は、物理や把握から、全ての構造を作って、その構造を書く。
プロセスと方法、環境と場、都市の歴史や法則(集積と拡散、都会と過疎化など)、経済、人生、想像力による把握、国の構造、科学的な構造の世界観など。色んなものを書いた。