日記に戻る | 2015年1月の日記に戻る

=2015-01-29=

良い発想は悪い発想だ。悪い発想は良い発想だ。

発想の良い悪いは、それぞれの人間によって違う。相対的に変わる。

興味や関心によって変わる。

料理の好きな人にとって、料理の発想は良い発想だし、コンピュータの好きな人にとって、プログラムの発想は良い発想だ。

また、時間とともに変わる。

昔自由が良く見えて、今平等が良く見えるなら、それは平等の方が良い。

思想で考えるのは、おかしい。

どれも悪いが、特に自由が悪い。完全な自由は、殺し合いの世界になる。

もっと、思想で無く考えれば良い。

本当に大切な秩序ある世界を、皆できちんと考えて、皆の手で守るべきだ。

かけがえのない社会を作るべきだ。

自由で、平和な世界が生まれると思うのがおかしい。

今の世界が、一番混乱と戦いの世界になろうとしている。自由がおかしくなった。

昔は、自由が平和に見えた。それはそれで、おかしくはない。

自由にして、皆で考えれば、分かるように見えただけだ。

価値観と信念もそれぞれ違うし、認識の捉え方も違う。

皆同じ、と言う発想が良いように見えて、それはそれで悪い。

ただ、今考えると、皆同じ、が良いと思う。それはそれで、おかしくはない。

自由は悪くない。皆それぞれ違って、関わり合うのも、賢い。

自由は悪くない。皆がそれぞれ違う認識を持って、好きなことを言えて、行動出来るのは、あるべきだ。ただ、それは、賢く考えると、平等も同じだ。

平等には人権が無い。皆を全く同じにする。自由の方が良い。

むしろ、皆できちんと考えれば、自由でもまともな世界になる。そういう、まともな自由が良い。

変わらなくなって、楽になれば、治る。

社会が変わると、価値観も変わる。良いと思っていたものが、悪く見える。そういうわけで、自由の方が良く見えて、自由は悪い。

自由は、悪いものが生まれる。そういうものを無くした方が良い。

自由な方が良い。それぞれ違うことを考えているのは、ネットを見れば誰でも分かる。それぞれ正しいし、矛盾はあまりしない。平等は、悪い。同じにする意味が無い。

サルトルの言う、実存とは、未来を自分で作ることを指す。また、会社に参加することは、同時に、拘束されることだ。そのように考えると、哲学が分かる。哲学は、自由だ。

昔は、人格を切り替えて分かっていた。それがおかしい。

ヘーゲルの言うように、自由は、社会の中における自由だ。社会と関わり合うのが自由だ。

カントは、思い込みを無くし、役割、限界、根拠を明らかにし、明確に区別し、全体との関連を考える。それが批判哲学だ。

あとは、ネットで実験すれば分かるだろう。

匿名は、何でも言える。悪く見えて、良い。色んなことを、しがらみ無く言いたい人間が多い。特に、学校の子供に多い。匿名で言えば良い。

皆が関わり合って、参加出来る、不自由のない環境を作った方が良い。

1つ1つ構築して、組み立てて、建設的に積み上げれば、分かる。

大きなものも、小さなところから、1つ1つ考えれば分かる。

最近は、もう全て分かった。書く以外、何もしなくなった。まだ何も終わっていないのに、いつも終わっているような感じがしている。

終わるのが辛いだけだ。だから、続ければ楽になる。何でも終わりたいのが、おかしいだけだと思う。

最近は、毎日一人人生を生きるようになった。夜、死ぬのが辛い。

自由を悪いと言うが、自由が無いのは悪い。

学校に自由が無いせいで、皆何も出来ない。

子供が悲惨だ。大人は、何もしていない。何も考えず、支配して管理しているだけだ。

子供のために、自由に経験出来る環境を作った方が良い。

社会のあらゆるものと関わって、仏教のような高みを知れる、愛と真実の経験を与えよ。

自由は悪い。管理しているだけで、奴隷のように働く。ただ、それは社会主義的だ。

色んな経験をし、愛と人々の会話から、社会のことを知れ。

とにかく、そういう経験のことを書いていた。宇宙人のような自由だった。

社会のあらゆるものは、変えられる。別の可能性を考えられる。

理想は、自由な多様性であり、同時に、平和な統一だ。それが、自由だ。

自由とは、時と場合に応じて、方法を知り、やり方と結果を知り、創造性のある結果を生み出し、法則から合理的に変えることだ。

そのような、創造的な自由を書いていた。安倍首相のような考え方をしていた。

あとは、啓蒙主義のようなことを言って、ロマン主義のようなことを言う。

信じれば、変えられる。自分の能力と、人間の力を信じて、協力するべきだ。

デューイのような、教育と習慣、道具としての知識は、いつか書いていた。

もっと勉強した方が良い。哲学と経済学と歴史をするしかない。きちんとやらないと悪い。それらは、本を読めば出来る。

最近、北欧神話の本を読んでいる。ロキがこびとの財宝を取り上げるところまでは読んだ。そのように、ゆっくり1つ1つ読めば良い。

それぞれに歴史がある。時間軸と世界観がある。

昔は、対処するだけの人間だ。色んなものに変わる。

ドイツ語は、現象の言語だ。

英語でいう単語は、日本語でいう漢字だ。

古代から未来まで、歴史を全て自分の体験で分かった。

英語は、柔軟で包括的な言語だ。

共有や公開は悪くない。人間や町のことをもっと知りたいなら、情報共有で分かる。

科学的に考えれば、何でも分かる。

宇宙は、人間の意識の具現化だ。

社会基盤を自由にし、独自にせよ。

人間は、環境と繋がっている。

全員によって、社会は変えられるべきであり、その決定に誰しもが参加出来るべきだ。

ただ、自由は悪い。会社や国は、公的なものにすべきだ。

あとは、出来る自由を考えただけだ。

前提と手段が分かれば、何でも出来る。人間や宇宙すら、変えられる。

立場が変われば、全て変わる。それぞれ色んなことを考えている。間違いは無いが、何も出来ない。皆、頑張っている。すべきなのは、自分だ。

対象や人間がどうなるか、どうなっているのかを考えた。様相が分かった。

皆何も出来ないなら、自分がやるべきだ。

全員を吸収した。

ネットで立場や前提を吸収した。

子供が大人と関わると分かる。

サルトルのように、段階的な意識で分かっていた。

永遠に仕事のようなことをしている。それで楽だ。

知性をつけることをしないから、馬鹿になる。

数学的な知性が無いが、日本語の知性がついて、賢く分かるようになった。

馬鹿は分かる。人間は、馬鹿な方が分かるから、こういう風になる。

自由とは権限があることであり、誰しもが出来る、変えられるように、参加し、許可し、その上で全員によって変えること、それが、自由に行われることだ。

地球儀や地図に情報を表示すれば良い。

山は、太陽エネルギーの貯蓄であり、植物は太陽の光で生きている。

宇宙にも、ものは確かにある。月は、太陽の光が反射して地球に届いている。

ものにも歴史がある。地球にも歴史がある。

町は、変わる。昔は、ジャングルと草原だった。

組織は、それぞれを独立させて、メタ的な組織にすると強い。独裁者の単純な帝国の方が、弱い。だが、意思決定の素早さでは、独裁国家の方が勝つ。

単純に組織を改善すると、コストパフォーマンスが勝つ。市場での競争のためには、独占と共有、標準と公開のバランスを取って、プラットフォームの拡張性を高め、自分の市場を作り出し、ファンやサポーターから意見を集めるべきだ。参加型にしても良い。

会社は、金で出来る。IBMのような技術がある。また、世界を変える。マスコミは日本を変えているし、支配している。電化製品は、無いと困るだけではなく、日本の経済と景気を支えている。そのため、時に、金が悪いこともある。公的なものにすべきだ。

自由に組織を作れ。

組織を仮想的にして、その時その時作るように出来る。

ただ、それはおかしい。昨日ソニーで、今日日立で働くのは、おかしい。

そういうことは、大企業ですれば良い。

自由に組織を作る、と言う発想が多かった。そのための方法と手段を全部考えていた。

生命とは、自然な遺伝子による発生と細胞分裂のプロセスであり、その中での光合成、食物連鎖、水と栄養分の循環、遺伝と繁殖による、吸収と変化と遺伝のプロセスである。

哲学とは、主体的、客観的、言語的、把握的な、精神と場と理解の関係の展開である。

社会とは、自由と平等、支配と解放、抑圧と解決の理想の中で、出来る範囲で行使する、社会的で現実的な行動と手段の構築である。

教育と心理は、本当に生徒や患者の立場になって、本人の問題を把握し、正しい方法で問題の解決が行われるべきだ。

精神の分析の方法は、深層心理、学習と恐怖の把握、経験と行動と認知の対処法、そして問題の把握と解決であり、正しいプロセスを持って行うべきである。

ただ、そういう、自分の科学は悪い。それで本当に人を治そうとすると、悪いと思う。

心理学的に考えると、何か恐怖がある裏には、その感情の支えとなる思考や思い込みがある。僕の場合、世界と関わるのが怖い。それは、世界に、自分の求める安心が無いからだ。

安心出来ないから、怖くなっている。安心するためには、何が怖くて、その理由が何なのか、明らかにする必要がある。また、認知のおかしさや、行動のおかしさも同じだ。

悪い学習や記憶を消すために、忘れた方が良い。そういうものは、あるだけで馬鹿になる。

要は、嘘を分かっている。ドイツや科学のようなものを分かっているようで、そういうものは、正しいものではなく、まがいものだ。嘘しか分かっていないから、怖くなる。

あとは、おかしなことをまだやっている。その間、辛いから怖い。

真面目に考えて分かるようで、分からないこともある。未来における死が怖かったのが、いつもの自分だ。

まがいものは、作れば作るほど怖いが、作れば作るほど分かる。

そういう風にしなければ、分からないのが、馬鹿な人間だ。

全ては、場と関係における、精神と決定と安定だ。

あとは、もう治った。心臓が治って、楽になる。

同じように、戦えば戦うほど分かる。誰でも戦うことと作ることで分かるのが、人間だ。

テレビは、日本だ。美しくする意味もないが、馬鹿な芸人を流すぐらいなら、美しい映像を流した方が、まだマシだと思う。

そういう、否定的な考え方を止めた方が良い。誰もそんなものを読みたくないだろう。

作家が右翼になるのは、誰でも戦って作るようになるからだ。それでしか、書けないし、分からない。パソコンなんか、同じだ。

理想を言った方がまだ普通だ。

自由とは、純粋に、そして、心の底から、人を愛し、世界を愛し、信じ、助けることだ。

もっと、本当に好きだと言うことを、沢山言った方が良い。

僕は、皆が嫌いに見えて、本当に好きだっただけだ。

経験、意識、行動、心、認識の結果と分析から、観念的な概念が分かる。

概念は、普遍的な真理であり、相対的な経験であり、絶対者のメッセージと暗号である。

概念は、宇宙を構成する要素の全てであり、イデアや世界モデルと同じものだ。

概念は、宗教的かつ経験的、行動的かつ理性的に知ることが出来る。

概念は、分かることと分からないこと、気づかれていることと気づかれていないこと、本質や本質の本質、そして、あるものでもあり、ないものでもあるものだ。

概念と方法から、世界の全ては概観することが出来る。また体験から知ることが出来る。

概観と体験と記憶によって、宇宙の全ては理性的に分かることが出来る。

だが、神を信じることによって、あらゆる本質の全てを悟ることが出来る。

知ることと、体験することは、似ているようで、違う。知ることは、最後までの道のりを分かることだが、体験することは、その中で1つ1つを吸収して、自己に融和することだ。

あとは、構造と物理を分かれば分かる。特に、物理的に構造を作れば分かる。

全ては、概念、構造、根拠、方法だ。

そのようにすれば、あとは全部分かる。そろそろ、全部分かるはずだ。

経験とは、信じて、なり、在り方を知って、自分がそのように在る喜びを知ることだ。

それくらいしか書いていない。ただ、昔書いた文章を網羅して、それがもっと昔の自分を同時に網羅しているだけだ。

あとは、融和することから悟りを開いて、涅槃に達するだろう。

認識とは、純粋認識、複合認識、共通認識、自己認識、他者認識、概念と方法における、認識の役割と限界と根拠の把握だ。

認識は、見方を変えることによって、正しい認識を得ることが出来る。

認識は、経験的なものであり、限界がある。

認識の比較と行動との関係から、結果を予測し、概念的に理由を知ることが出来る。

認識は、自由な活動であり、法則であり、理解のための方法であり、分析の道具だ。

もっと色んなことを言っていた。認識は何だったのか、今では、もう忘れている。

認識は、発想のための手段であり、具現化と思考のための道具だ。

知識は、全て認識と考え方であり、前提と対処法だ。

また、認識は、客観視と機会を理解する手段であり、人格を吸収することだ。

もう分からない。もう全て書いた。

いつもの文章は、この文章ではなく、構造を書いているだけだ。

現実から構造やモデルを作ったのを、いつも書いていた。

まず、自然な体験と行動から、認識と人間を知った。

社会のことを知って、現実的に考え、自然な考え方を持った。

方法と学習から、経験し、全ての可能性を知った。

抽象的な演繹と帰納から、意識と経験を知った。

マニュアルを作って、文章を書いていた。

自然な体験から、モデルを作った。

モデルを発見し、世界モデルから全ての科学を作った。

そのようなことを書いていた。忘れているから、思い出せない。そういうことを言いたかっただけだ。

最近は、物理や把握から、全ての構造を作って、その構造を書く。

プロセスと方法、環境と場、都市の歴史や法則(集積と拡散、都会と過疎化など)、経済、人生、想像力による把握、国の構造、科学的な構造の世界観など。色んなものを書いた。