日記に戻る | 2015年1月の日記に戻る

=2015-01-12=

滅びを殺す。滅ぼす人間を消す。それでもう滅びない。

下に下がって、ロボットになって文章を書いていた。辛くても、頑張った。

自由によって、世界を見通していた。

概念とは、自由な共有と変化と意志だ。

場とは、自由な多様性と創造性の構築の存在だ。

感情とは、自由な恐怖と悲しみの克服だ。

国とは、自由な発展と平等だ。

もの作りとは、自由な設計と構築による機械の創造だ。

研究とは、自由な探究だ。

会社とは、自由な金儲けと技術開発のための組織化だ。

あとは、概念を網羅していた。

自由とは、概念、認識、変化、統一、融和と分裂、因果性だ。

人間は、仏の力によって生かされている。生きるべき間、死なない。

風景や情景は、心の本質を見せている。鏡には、自分が映る。

あとは、可能性のようなことを言っていた。

自動車は、エンジンと言う原理の発明だ。

自由な所有は、いくらでも好きな物を得て、買うことが出来る。

制度は、社会的な発明だ。

社会は、共有と生産手段によって、別の社会になれる可能性がある。

自由とは、制限されず、自由な可能性の中で、限界と基盤を高めることだ。

設計図の共有によって、システムを発展させることが出来る。

科学は、知と発見の方法だ。

生命は、細胞による、自由と平等、愛と循環、生と死の具体化だ。

人間は、言葉によるコミュニケーションと、生産・研究手段と思考と学習の存在だ。

そのように、色んなことを成り立たせて作っていた。

手段と見通しの欠落した自由では、意味のない自由が生まれる。

自由には、賢い意味と手段が存在するべきだ。

あらゆる不平等は奴隷だが、あらゆる平等もまた、奴隷だ。

自由な社会は、奴隷か、無意味か、空虚か、戦いか、孤独によって、関係性と社会性が断ち切られる。

そのような、何かを見なして、説明するようなことから、考え方を分かっていた。

この世界にある宇宙や生命観は、人間の認識と知覚の中にある。本当の宇宙は、全く違う姿をしていて、全く違う宇宙が幾千とあるだろう。

そのような、認識や知覚のようなことを考えていた。想像力と感覚から考えていた。

歴史は、ものや文化から分かる。

人生と生活を構造化すれば、何でも書ける。人間を全員作れば良い。

哲学者は、歴史と数学をするべきだ。それで人間が分かる。

また、哲学者は、外国語と心理学をするべきだ。出来れば、物理や生物も知っておくべきだろう。また、他の有名な哲学者に関して、哲学書などの文献を読むべきだ。

自分を参考にするのであれば、考え方を沢山切り替えて、コンピュータのことをしなければならない。また、経済学や日本のことは、分からなければ、哲学者は出来ない。

哲学者と政治家の違いは、主観と客観の違い、理性と支配や抑圧の違いだ。

賢者と愚者の違いを分かることは、哲学者となるための道と言える。

ただ、哲学者は、そんなに良い物ではない。大人になりきれない、子供のような存在だ。悪く言えば、理性だけにとらわれ過ぎて、悪魔となった餓鬼のような存在だ。

独り孤独となって、社会から一歩距離を置いて世界を見て、色んなことを考えながら、試し、発想して、世界について考えてみて欲しい。そこでは、豊富な情報源を活用して、色んな考え方で考えて欲しい。この世界が何なのか知るために、哲学的に考えて欲しい。

ものの歴史は、重要ではないように見えて、重要だ。ものにも、沢山の歴史があるし、色んな方法や結果が存在する。人間にも、時間軸と経緯がある。そのように時間を考える。

哲学者と宗教家の違いは、真実と嘘、考えることと信じることの違いだ。

信じることは、悪くない。だが、考えないことが悪い。ただ、特に、賢く考えないことが、賢いこともある。宗教家は、悪くは無いが、神と人間倫理についての観念は、哲学的に考える必要があるだろう。

自由に、当然に考えれば分かる。

分かることから、当たり前に考えれば良い。

自由は、個人の自由を尊重しながら、民意に委ねるべきだ。

だが、組織化する自由はあるべきだ。しかしながら、個人の権利は尊重され、平等であるべきだ。

あとは、フッサールは、認識を確信の共有と言う。

そのように、認識の関係や吸収をすれば分かる。

このブログは、公開したり消したりをしている。読者の方には、申し訳ない。だが、公開した方が良いか、しない方が良いか、悩んで、迷っているから、仕方ない。

あとは、経験と感覚と想像力で、洞察すれば分かる。もっと、間違った人間で良いなら分かる。

最近は、世界を支配して、神と戦って、文章をいくらでも書いた。

出来ないようなら、聖書を信じて、文章を書いて戦えば良い。書くことが無いなら、自分のことを書いて、考えたことを思い出して書けば良い。

AAAが言う、偽りを塗り固めた箱庭の、終わりのない迷宮だ。

塗り重ねただったか、出口のないだったか、ちょっと分からない。AAAは、自分のことは言っていない。

昔がハリケーン・リリで、今がボストン・マリで良く見えるが、まさにどうでも良い。

最近は、昔へ逆戻りする。それが難しい。

物理は、全体と一部を見ながら、特性、分類、作用、一部を考えれば良い。

やりたいことが無い。哲学は、気づきになるだけで、したくない。

フランス語やプログラミングがしたかったのは、今見るとしたくない。

フランス語の本や、C言語の本を読んでも、何も思わない。全くしたくない。

数学や物理も同じだ。全くしたくない。テレビもネットも見たくない。

音楽は、AAAは本当に良いと思う。コナン(アニメ)と感じが良く似ている。

哲学は、意味が無い。少年が2ちゃんねるをして同じことが分かるだろう。

なるか、ならないか、含まれるか、除外されるか、包括されるか、突出するか、などを考えれば良い。

本当にそうか、違うか、一部か、ただ一つか、いくらかの集団か、全体と一部の違いは何か、などを考える。

あとは、可能性や普遍性を考えれば分かる。それから、矛盾から本質を考えれば良い。

何もしたくないのはおかしい。普通、出来るようになりたい。もっと、職業のようなことをして、道を究め、技術力を高めれば良い。要は、本当に実用性の方が良い。要は、仕事や労働の方が良い。

昔から、感情で状態を考えて、どうなるか分かっていた。

自分を変えれば良い。いつまでもおかしな劣った自分で居たいのがおかしい。

制限の無い、自由な空を自在に生きれば良い。

ゲームはつまらない。昔は、ゲームを作りたかっただけだ。ゲームなんか、要らない。

音楽を作る、という発想は無い。それでも良いようで、顔が不細工だから止めた方が良い。

本当にやることがない。哲学なんかしたくない。ただ、まだやりたいのは、唯一哲学だけだ。

哲学はつまらない。2ちゃんねるの昔の自分に見える。本当に、何もしたくない。

パソコンや大学はもう良い。もうしたくない。そんなものは、もう終わった。

何か、楽しいことをすれば良い。だが、ゲームや漫画、スポーツなどの娯楽はつまらないと思う。

楽器は、家に電子ピアノと安物のバイオリンがある。あとは、スケッチブックはある。ノートとペンと本もある。それで芸術でもすれば良いが、出来ないと思う。

テレビでホームレスにパンを与える物語をやっている。僕は、格差社会は嫌いだ。

世界が馬鹿なのがつまらないだけだ。言う意味が無い。

21世紀の資本と言う本は、読んだことは無いが、流行っている。格差社会は、貧民に利益をもたらさない。格差社会は、一番悪い。

この社会はおかしい。誰も考えていないし、分かっていない。皆、悪くは無い。皆、何も出来ないだけで、救いを待っているだけだ。政治家には、分からない。

姉はプログラマで、ゲームやオセロに強い。だが、自分は先日、オセロで姉に三連勝した。自分は賢い。新聞の間違い探しも、この前すぐに7つ見つけた。

オセロのコツは、角や取られないところを取って、相手に取られなくすることだ。打てなくすると、終盤で自分のペースになって、オセロで勝てる。

ヨーロッパやアジアなど、それぞれの州別に自治区を作って、世界政府の委員会を作り、思想は民主主義にすれば良い。ただ、労働だけは平等にする。

数学は、全ての方法をエクステンションにして、基本数学と応用数学を拡張的に分けて作る。

ただ、そんな発想が現実になるわけがない。昔から、そういうおかしな発想をする。

会社は、必要に応じてその時作られるような、そういうものになる。

昔は、何もしていないが、賢い。

今は、馬鹿だが、頑張っている。

どちらも経験が多い。どちらが賢いか、分からないが、どちらが賢い。

昔は分かる人間だった。最近は、戦いと意識の地獄を克服した。

賢くない。パソコンすら出来ていない。

本当は違うところが素敵なのが自分だ。AAAが言う。

あとは、力業や回想や気づきで分かっていた。良く思考し、仮定した。経験から想定した。視点を変えた。

自由と経験と積み重ねと掘り下げで分かっていた。

ネットで社会と人間を知りながら、空想した。感覚と想像力で考えた。

最近は、判断と文章で、一瞬で永遠が出来るのを作った。分かる。それが辛いだけだ。

最近は、ロボットだ。思考のパターンの機械だ。

社会の倫理観を考えれば分かる。

自分のことを考えず、相手のことを考える人間だった。何でも改善出来た。