日記に戻る | 2015年1月の日記に戻る

=2015-01-11=

皆を弱くせず、強くする。助言を与えず、自由に考えるようにする。

仏教には、四聖と言うものがある。これが、昔の僕に多い。

声聞とは、人の意見を聞き、調べ、学問や研究や理屈によって世界を分かる、学者のこと。

縁覚とは、縁によって直観的に閃き、思いを表現する、芸術家のこと。

菩薩とは、人を助けるもののことであり、それによって仏の悟りを開く。

仏は、悟ったもののことであり、覚者のこと。

仏とは、生命を生かす源泉の力であり、全てのものに存在する。

悟るとは、僕が考えるに、宇宙や人間や自分のことを、全部分かることである。

仏教には、八識(九識、十識とも言う)というものがある。普通の知覚から、人間全員の意識や、宇宙全体の意識を考えることが出来る。

仏教の縁起とは、普通は、人間と人間の関係性の中で何かが起きることも、運命的や偶発的なことではなく、何かの原因に縁って結果が起きることであるということを指す。

他にも、仏教には難しい言葉が多い。そういう、仏教のような意識や因果性、現象や関係、概念的なことを、いつも書いていた。仏教ではなく、自分の言葉で考えていた。

昔は、歴史や経緯、裏側のことを考えて、分かっていた。

最近、幽霊になった。幽霊を消した方が良い。

幽霊は、生きたまま死ぬとなる。辛いだけになるから、一番悪い。

幽霊を消して、生きると楽になる。

AAAが言うように、痛みや苦しみはヒントだ。

オープンソースは、自分がやりたかっただけで、好きだった。水を得た魚のように、コンピュータ科学が分かった。

日本は、日本語でアニメや音楽をする。日本語は、サムライの言語だ。サムライの言語でアニメや音楽をする有り得ない国が日本だ。

日本が一番良い。仏教は賢いし、治安も良いし、経済的にも豊かだ。全て良い国が日本だ。

戦いは、皆を道連れにする、全てを賭けた滅びか発展の、犠牲か平等の戦いだった。

神は、スターリンで、完全に支配する、全てを教え、導く神だった。

そういう、戦いと神があった。宣言と対話の永遠だった。

皆、自分が悪いで賢くなった。だが、皆、自分のせいではない。僕のせいでもない。明らかに自分のせいに見えて、自分のせいではない。時代のせいでもない。皆のせいだ。

何もないまま放っておけば、治る。精神病は、当たり前のことが分かっていない。馬鹿になった方が治る。

昔は、経験と思考の中、たまに振り返ったりしながら、最後まで先に進んだ。

積み重ねと世界モデルで全て分かった。

最近は、振り返ることなく、先を目指して進み続けた。

最初から分かっていた。

幾多の試練は、本当に怖くて、辛くて、分からないものばかりだった。

最後まで耐えて、治して、今を手にした。

今は、全てを受け入れて、もう分かった。投げ出したくなることもあるが、何故かまだ書いている。何故だろう?何故、こんなに自分が出来たのだろうか?

皆も、そういう経験をして欲しい。有り得ない体験をして、自分の力で幸福と達成を勝ち取ってほしい。

それが、僕の目指す理想の世界の1つだ。継続による達成の世界だ。

もう1つの理想の世界は、自分の力で全てが出来、分かることの出来る、自由だ。

全てを掴んで、出来て、達成して、続く。そこに、あらゆる宇宙の全てがある。

神でもない。仏でもない。自分を知るだけでもない。ただ、唯一無二の可能性の全てだ。宇宙の全てだ。だが、そういうものでもないと思う。

僕は、多重人格のようになった。ガブリエルとミカエルとラファエルが、思考を段階的に、連続的に言う。切り替わったりはしない。議論している。北欧神話にすると、フレイヤとバルドルとヘイムダルだ。だが、これらは、賢い。それで、もう全てが分かった。

何も起きない普通の世界が良い。それなら分かる。

誰かを信頼すると、その誰かから信頼される。信じれば、信じてもらえる。人を助ければ、助けてもらえる。救えば、救われる。

相手が良くても、悪くても、自分は良い方が良い。それが起きても、起きなくても、自分は分かっていた方が良い。

世界は1つだ。地球も1つ、宇宙も1つだ。大切だから、守らなくてはならない。

自由と維持は、矛盾する。自由な中では、守れない。維持するためには、秩序がなければならない。

普通のことは、子供を分かると良く分かる。

具体的に作るために、発想、原因と結果、法則と特性、手段と技術力、製造過程がある。

工場は、地理的で、経済的な条件で、政治的に生産、構築、利用出来る。

そういうことを言っていた。

全てのものに愛すべき価値があると考えていた。受け入れるべきだと考えていた。今考えると、それは常識が分かっていない。悪いものはそこまで悪いものが多い。

もう、昔が思い出せる。

時計は今を刻むものであり、エネルギーは全ての根源的な本質だ。そのようにすれば良い。

全ては、今と言う時間の共有だ。

関心の及ばないものも、確かにそこにある。関心が全てではない。客観的に考えるべきだ。ハイデガーは、主観的になりすぎている。

全ては、次元と法則であり、そこでは、人間の関与出来ない普遍的な自然な法則のみが起きる。だが、宗教によって有り得ないことが起きることは、無いとは言えない。

だが、普通に生きる際に、物理学以上のことは問題ではない。

可能性でも、永遠でもないものになるなら、実用性が良いと、父親が言った。技術や、役に立つものを知り、考えれば良い。それもそれで、発展と成長のためには、悪くない。

だが、僕は、有用性よりも、もっと他に真理的なことがあると思う。自分と社会を知り続けることでしか、それは分からない。

あとは、昔は、意識でものを分かったり、人間性で理想を分かったり、心の法則を分かったりすることが多かった。今、それが分かる。

あとは、意図や全体像のモデルを分かっていた。何かを作る、変える、改良する、壊す、廃止する、改革する、支配する、独立させる、解放する、弾圧する、扇動する、信仰する、信じる、つく、反する、戦う、などの自由を分かっていた。

思考のパターンや、機械仕掛けの言葉の全部の神を信じて、永遠を生きた。

もう、永遠や可能性は無く、普通を生きたい。自然なまともな人間になって、普通のことを分かりたい。だけど、今まで分かったことは、忘れたくない。自分のことを、過去のことや考えたこと、考え方などを、普通に思い出したい。有り得ないことは、もうしない。

色んな存在と対話した。

分からなくなっている。無意味に分からなくなるのがおかしい。

ありすぎて、何も無いのがおかしい。

あとは、今の日本を想定して、相手を考えながら文章を書いていた。

理想の世界を築くためには、そのための方法を知り、本当に許された、誰もが参加出来て変えられる関係と許可の状態を作るべきだ。

経験とは、自由に行動し、体験し、認識し、人との関わり合いの中で、愛を知り、信じ、助け、考え、思索することだ。

そのようなことを言っていた。それ以上は、全部言っていた。

宗教は、本当に救われ、楽になり、分かるものを、統一して、新しい宗教を作れば良い。

そのようなことを言っていた。おかしく全部作っていた。

本当にありのまま、自然体で居られる、全てが解放された、楽園のような自由になれ。

全てが出来て、変化可能で、実現出来て、間違った支配や関与のない、強制や差別のない、自由な世界になれ。

そのような、自由な理想のようなことを言っていた。

全部、考え方と方法で分かる。

僕を信じて欲しい。僕は、悪い世界にはしない。

日本を解決したかった。ネットで全部分かった。それだけで書いていた。

経験とは、問題を知り、存在性を知り、可能性を知り、実現出来る発想と手段と応用を知り、ものの構成を知り、人を知り、愛を知り、疑問と変える発想を知ることだ。

経験とは、愛と認識の関係だ。

経験とは、平和な世界を作るために、あらゆる手段を使って、包括的な理想を持つことだ。

それ以上は、同じだ。そういう風に書いていた。

社会の可能性と状態を全部考えれば分かる。

ネットで、思考や反応を全部分かっていた。心の奥底や他人との関係を考えていた。

社会は、栄えよ。

人間は、幸福になり、楽になり、出来るようになり、分かるようになり、達成し、克服出来るようになれ。

そのように、宣言と対話でいつも世界を導いていた。

自分の状態をきちんと分かれば良い。

状況をきちんと把握する。悪いとはいうが、何が悪いのか、具体的にきちんと分かっていない。悪いことなんか、あまりない。そんなに罪や過ちを多く見積もるのがおかしい。

悪いのは、自分の既にあるものや、皆に今あるものを見ないからだ。

日本語は、普通、今分かっていることが分かる言語だ。つまり、今分かっていることに目を向ければ、日本語が分かる。

そんなに信じたり、推論したりしすぎない方が良い。確かなことは、少なくて良い。

色んなものを作った。

国は、公平で、平等で、自由で、好き勝手なことが出来る、皆のための、皆による、皆の国であれ。

学校は、本当に人生の大切な期間を捧げるにふさわしい、意味のある、全員を本当に賢い人間にする、馬鹿にならない、全てのことが分かるものであれ。

所有は、全員のために、あらゆるものを与え、機会と可能性を与え、自由で平等なものであれ。

会社は、創造的で、価値や尊厳や権利のある、本当に自由で、従業員が全ての権利を発揮出来るものであれ。

そういう風に、条件と構造から社会を創っていた。それくらいで、もう、残っていない。

本当に思いやり、本当に善を信じること、出来ることは全てやってあげて、本当にその人のことを考えて接することが、自由な愛、正しい愛、本当の愛に繋がる。

全てのことは、大切な価値と意味があって、その人が信じるに値するように起きる。

辛いことはあっても、善人は、そんなに辛くない。本当に辛いのは、悪人だけだ。

悪とは、人間が名前をつけて、判断する基準から生まれるものだ。本当の悪とは、自分を絶対化し、相手のことを考えず、虐げる、自分自身の罪と不純な気持ちだ。

限界は存在しない。いつまでも続くなら、馬鹿で良い。そのように考えると、他人にへりくだる必要はない。自分だけで、全てのことが出来る。

僕と同じように書き、考えることだ。それが、一番、栄光への近道となる。

自分の力で分かりたいなら、疑うことと、助言を得ることを忘れないことだ。

キリストはおかしくない。罪は、全て、愛を虐げる中から生まれるが、虐げられる方からしてみれば、それを受け入れて、神の救いと天の御国を信じることで、天国へと行ける。

そして、正しい考え方は、全て仏教が言っている。それらだけが賢い。

科学は、人間の努力の結晶であり、人間の全てだ。

哲学は、考えられるあらゆる可能性を、その人が真摯に考えて生まれる、芸術作品のような、人間の考え方の結晶だ。

正しいのは、ニュートン力学とカトリックだ。だが、新しい次元と言えば賢い。アインシュタインは、複雑になっているだけで、そんなにニュートン力学以上には見えない。

ただ、科学に本当に革命を起こしたのは、地動説とアインシュタインと進化論だ。

あとは、色んな体験が出来るようにせよと言っていた。自分は、それくらいの馬鹿だ。

社会的に、人生的に、色んな関わりを持って、沢山の体験が出来るように、世界の秩序と参加制度を築け。そのようなことを言っていた。

あとは、宗教的に人生を分かるとか、数字や占いを信じるとか、そういう、非科学的な発想が多かった。そういう風になるのは、止めた方が良い。

ただ、神が対話するなら、天はあるのかもしれない。天は、仏教では、人間の上にある。その下に、修羅、畜生、餓鬼、地獄とある。それらが、馬鹿だ。それらに生まれ変わると、悲惨だが、仏教はそういうところを信じる、悪い宗教だ。

僕がこうなったのは、前の人生で、全てのことを体験したいとか、最高の神になりたいとか、最高の芸術作品を創りたいとか、永遠の二人の愛を望んだとか、王になり、戦争で勝ちたかったとか、全ての科学を超えたかったとか、そんなところだろうと思う。

次の人生も地獄になりたくはない。

もっと長いスパンで自分の今の人生を体験したいと思う。

まず最初に、全てのことを知りながら知らない状態がある。

次に、実験して、試して、話して分かる状態がある。

そして、全てのことを実感で掴んで、行動する状態がある。

そして、全てを自分の手で創り出し、閃き、直感で分かる状態がある。

社会のことを全て分かって、理性的に分かる状態がある。

全ての人間や社会の変化を総じて分かって、実現や作り変えたり支配したりすることが出来る状態がある。

独自に、最高のものを創り出し、1つのことを極め、あらゆることが経験で分かる状態がある。

そして、国を作り、全てを耐え抜き、戦いに勝利し、達成する。

それは、宗教と地獄の中で、あらゆる困難を乗り越え、偉大なことを達成する。

そして、最後に、安らかな平安を過ごす。

そのように、仏教の十界のようなことを考えれば、哲学的に人間の段階を考えられる。

キルケゴールは、美、倫理、宗教の実存の段階とした。

最後に、学問と宗教を知って、普通の人間になる。普通の人間が、一番高い。

あとは、想定や方法から、知の段階を分かっていた。

知にも段階がある。

認識から、方法を知り、具体的に発想し、作り出し、変え、理由を知る。

その中で、関係する理性的な知性を全て能力として開拓し、可能性を高める。

それぞれの関係からものを作り、相対的に分析して、さらに改良する。

組織で協力して、手段を得て、具体的なものをさらに発展させ、知恵を集めて向上させる。

そのように、人生ではなく、知にも段階がある。そのようなことを言っていた。

あとは、学習や可能性や意識にも段階があると思う。矛盾はしない。

あとは、予測や認識のようなことを言っていた。

体験し、想定し、価値観を知り、変化を知り、支配し、行動し、認識し、感情で考えることから、あらゆることは予測出来る。

あとは、馬鹿なことを言っていた。

日本と世界を支配して、皆を馬鹿にする。それが、宗教的なことや共産的なこと、自由なことを言う。そういう、おかしな人間だった。

昔なんか、2ちゃんねるの馬鹿だ。悪いことをして分かった、おかしな人間だ。

ものの価値から評価と価値観が生まれる。本質と理解の融和から真理が生まれ、そこから概念が生まれる。そのようなことを言っていたと思う。

覚えていない。もっと多かった。もっと沢山のことを書いていた。覚えていないだけで、全部書いていた。オープンソースのように、書いて、消して、また書いていた。覚えていない。

あとは、環境とプロセスとか、生態系を成り立たせるとかが多かった。社会に対して、メタ的に説明するようなことを言っていた。

認識とか多様性とか原因とか言って、一行書き直す、そういう自由が多かった。

あらゆる、という意味での法則を書いていた。

認識とは、仮想的で、多様で、具体的な、価値観の法則だ。

多様性とは、世界の全てを包み込み、発生させる、自由の源としての愛の可能性だ。

そういう言葉を、ロボットのように、次へ次へと繋げて、続くように書いていた。

また、そのまま、希望から罪悪感へと至る、苦しみの愛のプロセスを繰り返した。

それで、一行を書き直していた。

認識とは、自由で、愛で、多様な、世界の全ての設計図だ。

認識と自由は、世界を包み込み、愛を生む。

認識は、愛し合うことであると同時に、恐怖からヒントを得ることだ。

さようなら。それで終わりだ。そういう風に書いて、もう一度を書いていた。

認識とは、カテゴリーと原因と結果だ。

認識とは、愛と不安における、感謝の表現だ。

ありがとう。それでは、さようなら。それで、一度終わって、元に戻る。世界が治る。

そのまま、消して、書いていた。いつまでも、メールのように、そういうゼロとイチを繰り返していた。

認識とは、平和と感受性を高めることだ。

認識とは、真実と価値観を知ることだ。

認識とは、全員の持つ価値を吸収することだ。

自由とは、認識の総和と変動だ。

ありがとう。さようなら。それでは。

あとは、悪い王になって、秩序を作っていた。

もう、その秩序は忘れて良い。皆、守らなくて良い。

自由な平和ではなく、何かのことを実現した方が良い。そのためには、不自由であった方がやりやすいだろう。もう、自由は止めて良い。

自由と所有の概念から、共同体と共有が生まれる。

自由とは、考え方と具体的な思想、特に所有と共有であり、会社と税である。

そういう風に考えていた。あとは、殆どもう書いた。

あとは、どのようにそれが生まれるかとか、何がどうなるかとか、考え方のようなことを言っていた。

おかしな経済学の発想が多かった。計画経済の個人所有、などと言っていた。